改訂版ドルフィン・ジャンプの22 『臨界ジャンプ作戦』始動
改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です
22 『臨界ジャンプ作戦』始動
翌日午前、大統領は執務室のデスクに肘をついて国家安全保障局NSA長官ダグラスの報告を聞いていたが、溜め息を吐いてから言った。
「つまり、我々は前段階の証拠を掴む作戦で敗北したのか?」
ダグラスは優秀な部下たちを死なせ敗北した悔しさと大統領の厳しい視線に足を小刻みに震わせながら答えた。
「そうです、サー」
「もう一度今回の損害の人数を言ってくれ」
「特殊部隊の突入部隊12名、支援部隊10名、エージェント2名であります」
「つまり全滅だな。一体、敵は何人いたのだ?」
「正確な人数はわかりませんが、我が方の損害の大きさから敵は40人以上いたと分析結果が出ています」
「本当にそんなにいたのか? 敵のトラップに嵌められたのではないのか?」
「もちろん敵の施設の中ですからなんらかのトラップはあったかと思われますが、我が方の部隊は優秀ですから見抜いて対応できる筈です」
ダグラスは答えながら、自分の言葉が虚しく響くのをどうしようもなかった。
「フットボールだって相手の配置もわからずに戦うなんて愚かなことはしないぞ」
「申し訳ありません。大統領」
「それで、次の作戦はどうするつもりだ?」
大統領はデスクの上で組んだ手の親指同士を打ち付けてダグラスを睨んだ。
「今までの作戦は潜入及び突入による作戦ですが成果を上げられませんでした。そこで次回は規模を拡大して、施設ごと完全封鎖して証拠を掴もうと思います」
大統領はダグラスの背後のソファに座っている首席補佐官ハリソンに視線を向けた。
「ハリソン、どう思う?」
「私はこの手の作戦のプロではありませんが、封鎖する作戦も前の作戦と似たようなものに思います。私たちは次の段階、ターゲットの無害化に着手すべきです」
ダグラスが反論した。
「あの敵を本気で倒すには軍を動かす必要があります。そのためには議会を納得させる証拠が必要かと思いますが」
大統領はデスクを拳でドンと叩き鳴らした。
「国家の勇敢な戦士たちが多数殺されたんだ。それだけで証拠は十分だ」
ダグラスは大統領の意図を推し量って聞いた。
「ではFEMAの長官以下を解任し、抵抗する者がいれば正面から戦闘して倒すということでしょうか?」
大統領は拳に力を入れて小さく揺らした。
「ダグ、そこが問題だ。この件はスマートに解決したい」
首席補佐官が大統領の意向を説明した。
「連邦内に反政府化した組織があると公表するのは国際的な影響からまずい。合衆国は世界の警察たることを示し常に自由社会の堅固な砦でなければならない。その合衆国の政府内にテロリストのような連中が巣食ってた、では示しがつかない」
「仰ることはわかりますが、具体的にどうやって無害化を」
「敵の組織のキーマンは誰だ?」
首席補佐官が聞くとダグラスは即答した。
「クロブラッド長官。そして西部地区の司令官カークスです」
「カークスとはどんな奴だ?」
大統領が訊ねるとダグラスが答える。
「元はCIAの腕利きエージェントです。アフガニスタンで命令違反に問われましたが、イラクの権益に直結する情報で取り引きしたため罪に問われませんでした。またいくつもの公益法人、宗教団体から寄付金を吸い上げて全米各地で多角経営もするやり手です。とにかくダーティーな疑惑だらけの奴です」
「なるほど。キーマンの長官と指揮官が無害化されれば、FEMAは元の状態に回復できるかもしれん。無害化の手段は君の方が詳しいだろう? とりあえずはターゲットを間接捕捉しておけ。近づきすぎて消されるなよ」
「わかりました」
◇
病院を受診しすぐ帰された筈の理沙だったが、翌日になってもサンノゼ総合病院に帰って来なかった。またルークへの電話もなかった。
ルークがカノンの病室のドアを開けるとカノンはベッドの脇の椅子に腰掛けていた。
「カノン、おはよう」
「お兄さん、おはよう。さっきお母さんが来てくれたの」
「お母さんは何か言ってたかい?」
「普通にがんばれって。でもお母さんは仕事や弟の世話もあるのに早起きして私の着替えを持って来てくれたんだから私って愛されてるんだよね?」
「当然だよ。カノンはイルカを助ける優しいコだもの」
「まあね」
そう答えてカノンは溜め息を吐いた。
「なんだ元気があまりなさそうだな?」
「うん。ハルバート夫妻、アラン、リサの心を読み取れないか試してるんだけど全然反応がないの」
「昨日電話くれたキャロルにリサのことを聞いてみようか?」
「そうだ、それがいいね」
ルークはカノンが見守る中、理沙のスマホを預かっているキャロルに電話してみた。
「昨日は連絡どうもありがとう。ルークだけど」
「ああ、リサは帰ったの?」
「いや、まだなんだ」
「えっ、まだ?」
「そうなんだ。それでもしかしたらキャロルの方に電話があったかなと思って」
「ううん、私の方は電話はなかった。じゃあ途中でまた具合が悪くなったのかもしれないね。私はこの辺の病院に電話して聞いてみる。何かわかったらルークに知らせるわ」
「ありがとう、キャロル」
「いいえ、リサは私にとっても友達だもの」
ルークは電話を切るとカノンに言った。
「リサはまた別の病院に行ったのかもしれないからキャロルが調べてくれるってさ」
「そう。見つかるといいんだけど」
「俺もパソコン作業してからロサンゼルスの街に出て探してみるよ。あと『臨界ジャンプ作戦』も進めないといけないしな」
「そうだね。私にできることがあったら言ってね」
「うん。マックスと話が出来たらよく聞いておいて」
ルークがそう言ってやるとカノンは嬉しそうに頷いた。
「わかった」
◇
ルークは『臨界ジャンプ作戦』のコンサート企画書を書くとロサンゼルスの街に出かけた。そして理沙が貧血で運び込まれたというセント・ジョセフ記念病院を訪れた。
一見、ごく普通の病院だ。
ルークは病院をひと通り歩いてまわったが特に怪しい点は発見できなかった。全ての部屋にはきちんとした表示があったし、厳重な監視カメラがあるわけでもない。
そこでルークはERの受付にいた四十歳ぐらいの白人女性に聞いてみる。
「昨日の夕方、リサ・ヤマモトって患者が来たと思うんだけど」
「あなたは彼女の何かしら?」
彼女は個人情報は教えないわよという愛想笑いを浮かべた。
「親友だよ。それがリサがここの支払いをちゃんと済ませたかどうか忘れてしまって、もしまだなら僕に支払ってくれって頼まれたんだ」
「なるほど。名前はリサね、ちょっと待って」
彼女はキーボードを叩いてデータベースを呼び出した。
「ああ、リサ・ヤマモトね。大丈夫、支払いは済んでるわよ」
「そう、ありがとう。ところで主治医は誰? お礼も言っておかないと」
「ええと、ERのレナード医師よ」
「完璧だね、ありがとう」
ルークはERの廊下でレナード医師はどこにいるか尋ねて、第三診察室から出て来るのを待ち受けた。レナード医師は三分ほどで姿を現した。
ルークは「ドクター・レナード!」と呼び止めた。
「やあ、君はと、患者? 業者? それとも新人の神父さん?」
「患者の親友です。昨日、先生に診てもらったリサ・ヤマモトの」
「ああ、何か問題でも?」
「いいえ。ひと言先生にお礼が言いたくて。ありがとうございました」
「どういたしまして」
「それでリサを診察して何か変わったことはありませんでしたか?」
「さあ。申し訳ないけど一日に三十人から五十人の患者さんを診てるんだ。細部はカルテには書くけど、よほど重傷でもないと覚えていないな。どんな症状?」
「貧血でした」
「そうか、では記憶はないな。ごめんよ。もういいかな」
「ちょっと待って。先生は患者の名前は覚えてなくても症状は覚えているんですね?」
レナード医師は胸の聴診器を取り出しながら聞いた。
「君は訴訟でも起こしたいのかい?」
「いいえ。訴訟なんて起こしません、誓いますよ」
レナード医師は聴診器を入れ直して頷いた。
「よろしい。たしかに僕は患者の名前は忘れてもその日に診た症状は全て覚えてる。僕には昨日、貧血の症状に出くわした記憶はないよ」
「だと思いました。記録が改竄されてるんだ」
「僕の責任じゃないよ」
「わかってます。訴訟とは無関係ですからご安心を」
ルークはそう言ってレナード医師と別れた。やはり理沙は敵の手によって拉致されていたのだ。ルークは悔しさに唇を噛み締めた。
◇
ルークはコーヒーショップのテラスで見知らぬ中年男に声をかけ、得意先のふりをして広告会社の後輩ベアリーに電話をしてくれないかと依頼した。最初怪訝そうだった相手は結局コーヒーチケット五杯分でベアリーを画廊に呼び出してくれた。
ベアリーは大学時代アメリカンフットボールで全米優秀ラインバッカーに選ばれたことがあり、どっしりした体格だ。膝の怪我でプロの道は断念したがアイビー風の眼鏡はなんとも不釣合いな印象だ。
ベアリーは画廊の隅っこで困った顔をしたまま油絵を眺めていた。黒いサングラスをかけたルークはベアリーの背後にまわり囁いた。
「ベアリー、声出すな。そんなしかめ面で絵を見てたら、お得意様が逃げるぞ」
「誰かと思ったら、先輩っすか?」
「声、出すな、俺はベアリーを呼び出したお得意様だ」
ルークはそう言いながら無線のスキャナーを起動し、ベアリーの反応を確認した。しかし意識統御チップの周波数反応はない。
ルークは横にまわり、黒いサングラスをずらしてウィンクした。
「外へ行くぞ」
ルークはサングラスを戻し、さっさと店の外の並木道に出た。
「こっちを向かずに口を大きく開けずに喋るんだ」
「先輩、どうしたんすか、連続欠勤なんて」
ルークは笑みを浮かべて言った。
「パティーに振られた」
「そうすか、残念でした。でも普通振られたぐらいでこんな連続欠勤しませんよ」
「大きい声を出すなよ、巨悪組織ATOに命を狙われてる」
「い、命を?」
「バカ、大きい声、出すなと言ったそばから大きいぞ」
「すみません」
「じゃなきゃ、こんなに欠勤すると思うか?」
「そうなんすか?」
「そうだ。俺はその巨悪組織ATOの陰謀、デイドリームプロジェクトの証拠を手に入れた。しかし、その証拠は奪われ、それをネットにアップしようとした仲間と動物言語学の博士夫妻とイルカのトレーナーが拉致された」
「なんかすごい展開すね。どっかのドーナツ屋でゆっくり話しましょう」
「いや、歩きながら話すのが一番盗聴の危険が少ない」
ルークとベアリーは歩道をやや速いスピードで歩いてゆく。
「はあ」
「それで会社で、俺に関して動きはあるか?」
「いえ、インフルエンザで病欠って連絡だったからしばらく様子見って感じですかね」
「さて、ベアリー。今回の君の使命だが、大手のスポンサーをつけてマリア・グリーンのコンサートを行い、一万人以上の客を集めることにある」
「マリア・グリーンってあの歌聖すか。クリスマスなんか合いそうすね。だけどもうスケジュール入ってるでしょ、とっくに」
「そういう問題じゃない。巨悪組織の陰謀を止めなきゃいけない、そのためのコンサートだ。拉致された人間の命がかかっている。君の責任は重いぞ」
「なんか話が見えないすよ。マリアのコンサートと陰謀が関係あるんすか?」
「たった今、話したろ。陰謀を止めるためのコンサートだと言ったぞ。それより詳しいことは知らない方がいい。どうせ次の企画なくて困ってたんだろ」
「実はそうなんすよ」
「とにかく拉致された人間の命を救うためだからクリスマスなんて悠長なことは言ってられない。会場と告知をお前の方でセッティングするんだ。期日は早ければ早いほどいい。どんな無理してもいい。どんな汚い手を使ってもいいから割り込ませろ」
ルークの勢いに圧倒されてベアリーは頷いた。
「わかりました。スポンサーはどんなのがいいすかね?」
「うん、ゲームとか、ソフトドリンクあたりか。あとIT、スマホ。ちょっと車もつついてみろ。レギュラーCMにつなげたらお前のポイント高いぞ」
「先輩は戻ってきてくれないんすか?」
「巨悪組織ATOに追われてるって言っただろ」
「企画書、手伝って下さいよ」
「そう来ると思ってざっくり作ってきてやった」
ルークはデータCDをベアリーに手渡してやる。
「ありがとうございます」
「頼んだぞ。繰り返すが、マリアのコンサート成功に何人もの命がかかっているんだ」
「わかりました」
ベアリーはCDをしまうと、神妙な顔をして言った。
「先輩、このたびはパティーさんのこと、ご愁傷さまでした」
「ああ、でもないんだ。次のが見つかったから」
「あれ、変わり身早っすね。どこのなんていう女なんです? またモデルすか?」
そこでルークはひらめいた説明をしてみた。
「違うよ。ベアリー、鯨のブリーチングを見たことあるか?」
「何です、それ?」
「鯨が海の上に全身を持ち上げて回転するんだよ。あれは凄いぜ。人間をはるかにしのぐ偉大な生命がこの地球に生きているんだと実感するよ」
「話題をそらさないでくださいよ、俺は先輩の新しい相手について聞いているんです」
「だからさ、外見でいえばパティーにはかなわないかもしれないけどさ、見えない命のつながりみたいなものをダイレクトに感じるんだ。そういう素敵な女だよ。
ベアリーもブリーチングを見たら、俺の言ってることがわかる」
「言ってる意味がわかんないけど、鯨みたいにでかい女なんですか?」
ベアリーがボケてみせると、ルークは笑いながら追い払った。
「もういい」
「でも、先輩、よかったですね」
「ああ。だがその彼女ってのが誘拐されたイルカのトレーナーなんだ」
「あ、それは大変すよ」
ベアリーはルークの辛い気持ちを察した。
「絶対に彼女を取り返したい。ベアリー、お前の助けが必要なんだ。力を貸してくれ」
ベアリーは自分の左手のひらに右拳を打ち込んだ。
「そういうことなら、わかりました。任せて下さい」
「それからな、俺に電話する時は絶対、会社の電話使うなよ」
「わかりました。じゃ、がんばりますよ」
交差点でルークはベアリーに小さく手を振って別れた。
◇
ベアリーから電話が入ったのは二日後だった。
『先輩、マリア・グリーンのスケジュール、押さえられそうです』
ルークは思わず叫んだ。
『やったな』
『ただ、問題があります』
『動員は多い分には五万人でも十万人でもかまわない』
『そうじゃなくて、時期と規模、どっちを優先しますか?』
『当然、時期だ、早ければ早い方がいい。但し、一万人は最低条件だ、何人もの命がかかってるんだぞ』
『わかりました、その線でやってみます』
『がんばってくれ。スポンサーの方はどうだ?』
『ゲームソフト屋が食いつきました。実は来年発売のスペクタクルキャンペーンでテーマソングを歌わせたいらしいんです。それでセットしてくれということです』
『そいつはよかったな』
『当たりっす。本編CMもうちで取れそうっす』
『よかった』
ルークが報告すると、カノンは「やった」と手を叩いて大喜びした。
「本物のマリア・グリーンだよね?」
「当たり前だ。ニセ者を呼んでどうする」
「私の目の前で歌ってくれるのね?」
「そうだよ。僕らのコンサートでマリア・グリーンが歌ってくれるんだ」
「すごいすごい!」
その時、診察がひと区切りついたチョウ医師がカノンの部屋に入って来た。
「ずいぶんと賑やかじゃないか。どうかしたのか?」
「ドクター・チョウ」
ルークが答えるより早くカノンが言った。
「マリア・グリーンのコンサートが決まったの! お兄さんの広告会社が契約したの」
「これで臨界ジャンプが起こせたら博士夫妻やリサを拉致しておく意味もなくなる」
ルークが言うとチョウ医師も笑った。
「俺はいまだに信じられないところはあるが、なんだかカノンちゃんなら途轍もない凄いことを引き寄せてくれそうな気がしてならないよ」
「大丈夫だよ。きっとうまくいくから!」
三人はマリア・グリーンのコンサートを思い浮かべ久しぶりに笑顔で話し合った。
◇
時計の音がティックタックと響いている。
理沙はコンクリート打ち放しの部屋で椅子に腰掛けた姿勢で拘束されていた。頭にはヘルメットを被らされ黒っぽいゴーグルが視界を薄暗くしてる。その視界にサングラスをかけ、ピラミダル髭をたくわえたあの忌まわしい殺し屋の姿が近づいて来た。
「気分はどうだ?」
カークスが理沙の顎を指で摘んで聞くと彼女は睨み返した。
「いいわけないでしょ。何よ、この重いヘルメット?」
「お前に仕事に意識を集中してもらうための特注ヘルメットだ。頭に当たる部分は脳波測定器と外部からテレパシー波の到達をブロックするためのプロテクト装置が仕込まれているんだ。他にも楽しい仕掛けがある」
「あんたの仕事なんか絶対しないわ」
「そんな贅沢は言わせないぞ」
カークスは理沙の頬をつねった。
「さあ、仲間が今何をしているかを探るんだ」
「探る? 馬鹿じゃないの? 私にわかるわけないでしょ?」
「お前はテレパシーを使えるんだ」
そう言われて理沙は、マックスとまるで会話するようにテレパシーを使えるカノンを思い浮かべて呟いた。
「私はあんな風にテレパシーは使えない」
カークスがモニターを見ながら言う。
「もう少し集中してみろ。お前はテレパシーを使えるようになったんだ。意識覚醒チップDDM1のおかげでお前のテレパシー領域は覚醒済みなんだ。後はお前の努力次第だ。相手のイメージに集中して、声を思い出せば相手の心の声を聞き取れる筈だ」
そう言われて思わず理沙はカノンのイメージを思い浮かべかけたが、すぐに気を取り直してカークスを睨みつけた。
「あんたたちなんかに絶対協力しない」
「生意気な口を叩くならペンチで爪を剥いでやる」
カークスはちらと横のテーブルに視線を向け理沙も目で後を追った。そこには黒い大きなペンチや電動ドリルが並んでる。銃をルークに向けて撃ってきた男だから言葉だけの脅しではなさそうだ。
理沙は詩篇28篇を声を出さずに唱えた。
私があなたに向かって助けを求め、あなたの至聖所に向かって手をあげる時、私の願いの声を聞いてください。
カークスはペンチで理沙の小指の爪を挟み、少しだけ持ち上げる。
理沙は思わず日本風に「キャァーー」と悲鳴をあげた。
「ふ、一枚目の爪にちょっと挨拶しただけでAhhhhh! と喚くなよ。さあ、お前の仲間の様子を探るんだ」
「私たちを殺そうとしたあんたなんかに協力する筈がないっ」
「じゃ、さよならを言うんだな」
「誰に?」
「話の流れからしてお前の小指の爪に決まってるだろ」
カークスはペンチで理沙の小指の爪を折った。
理沙は「ギャアー」と悲鳴をあげる。
「さあ、三分の一取れたぞ、全部取るからな」
カークスがペンチで再び理沙の小指の爪を摘みにかかると、理沙が「ヒッ、やめて」と言った。
「仲間の居所を探るか?」
理沙は仕方なく答える。
「わ、わかった」
「素直でいいね。あともうひとつ警告だ。私の意識やここの警備状況を探ろうなどとしたら、もったいないがヘルメットに仕込んだ小型爆弾を起爆してお前の脳味噌を吹き飛ばすからそのつもりで」
「ひっ、ひどいっ」
「ふふふ、爆薬はきれいにお前の脳だけを破裂させてヘルメットは壊れないように量を調節してある。お前のヘルメットに頬ずりしても私には怖くないぞ」
「どこまでゲス野郎なの」
理沙は吐き捨てるように言ったがカークスはにやけてみせる。
「負け犬の遠吠えってやつだな。まずお前と一緒にいた子供が今何してるか探るんだ」
そう言われて理沙は抵抗する。
「カノンちゃんは何も関係ないわ。まだ中学生よ」
「私に口答えせずに素直に従うんだ。いい加減に立場をわきまえろ」
カークスは理沙の小指の爪を割るようにペンチに力を入れた。
「キャァーー」
理沙が悲鳴を上げるとカークスはペンチを緩めた。
「オーバーだぞ」
「待って、そんなことされたら集中できないでしょ」
「早く探るんだな」
理沙は心を落ち着け、カノンのイメージを思い浮かべカノンの声を思い出してみる。
カノンの声、カノンの声、カノンの声。
するとかすかな、精妙という表現がぴったりくるカノンの囁きが理沙の脳に届いた。
(あーあ、お芝居でも点滴はやだな。まだ半分残ってる)
カノンは吊り下げられてる点滴パックを見て考えているのだ。
理沙はあまりに鮮やかな印象にびっくりした。過去にもイルカたちの気持ちを聞いたような気がしてる時はあった。しかし、冷静に見たらそれはテレパシーで声を聞いたのとはほど遠く、自分が想像しているイメージがまずあり、現実のイルカの表情とほぼ一致していることでようやく実感される感覚だった。それに比べて今、理沙の意識に響いた印象はまるでその人の意識を拾ったようであり、カノンの心の声はドラマでも観ているようにイメージを伴って聞こえて来たのだ。
理沙はカークスを睨みながら心の中で(すごい、これがテレパシーなのか!)と叫んでいた。理沙は内心の興奮を抑えようと深呼吸してから言った。
「カノンちゃんはベッドから点滴を見てるわ」
「本当だな?」
「ええ、点滴パックやナースコールのボタンを見ていやだと思っている。病院ね」
母親と話をするのも嫌だと思ってる。嘘を吐かなければならないから。
会いに来る母親を待っているのか。
理沙は、カノンが家に帰れない口実を得るためにチョウ医師に頼んでわざと症状が重いふりをしているのだとわかっていた。しかし、それは隠しておこうと決めた。
「心臓病で入院してる女の子なんか、あなたたちの脅威にはならないでしょ。なぜそんなに気にするの?」
「念のためだ」
そう言ってカークスは理沙の椅子のまわりを一周して言った。
「じゃ、次はルークだ。奴は何をしている?」
「待ってよ。集中しないといけないんだから、そんなに素早く切り替えられないわ」
「それはそうだ。しばらく待ってやる」
理沙はルークのイメージを思い浮かべ、声を思い出す。
ルーク、あなたは今、何を考えているの。
そうやって問いかけるとルークが考えている様子が感じ取れる。
ルークはコンサートの企画をさらに練り直している。表向きはマリア・グリーンのコンサートだが、目的はテレパシー覚醒のきっかけづくりだ。実現できるかは未知数だが、それで自然発生的にテレパシーに目覚めた勢力が急拡大して臨界値を超えてひとつの勢力になればデイドリームプロジェクトは壊滅的な打撃を受ける。
理沙は黙ったままルークに応援のメッセージを送る。
(ルーク、大丈夫よ。きっとうまくいくわ。コンサートを通してテレパシーに覚醒した人間が次第に増えてやがて全人類に広がるわ)
そう告げると、ルークは見えない力に惹かれて突然に理沙への恋心を確かめる。
その瞬間、理沙は感電したように驚き、胸の底がじわりと温められるのを感じる。ルークのゆるぎない愛が離れていてもはっきりと感じられるのはこの上ない喜びだ。
「どうだ、まだか?」
カークスが急かすように聞くと、理沙は心の中を隠すために嘘を吐いた。
「今、彼はぼんやり海を眺めています」
「嘘をつくなよ」
「嘘なんかついてません」
「なめてるのか? 何のために脳波とテレパシー波をモニターしてると思う? お前の嘘を監視するためだ。嘘をつくな」
「いえ、本当です」
しかし、カークスは理沙の反論を無視して部下に何事か指示し、部下は両開きのドアの向こうに消えた。
◇
まもなく両開きのドアが開いてベッドが押し出されて部屋に入って来た。ベッドの上には白髪混じりのブロンドの髪を刈り上げられた、やつれた雰囲気の男性が眠っている。
その男の顔を凝視して理沙はハッとなり叫んだ。
「博士、ハルバート博士!」
カークスは口端に笑みを浮かべた。
「優雅に気絶している博士を電気ショックで起こしてやれ」
「やめて、そんな電気ショックなんてしたら大変!」
しかし、理沙の懇願には誰も耳を貸す筈もなかった。
理沙は詩篇39篇「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み……」を思い出したが、唱える余裕はなかった。
スポーツ刈りで顔幅の広い部下がハルバート博士の腕と胸に電極がつなぎ、それから電極につながる操作パネルの電源スイッチを入れて、電圧ダイヤルをまわした。
電撃の瞬間、ジジジッといやな音がして、ハルバート博士の体はベッドの上でそり返って絶叫した。
「Ahhhhh!」
理沙は蒼ざめた。
自分の頭に今つけられている装置がどういう仕組みで嘘を見抜くのかはわからないが、自分がテレパシーで読み取ったことと言葉で説明したことに明らかな相違があると、この悪鬼のような男にわかってしまうのは確かだ。
「ちゃんと報告しないと、その博士が黒焦げになっちまうぞ。
ルークはまたなんか企んでるんだろう?」
「企んでません」
「また嘘だ。おい、電気ショック!」
またも電撃が走り、ハルバート博士の体はベッドの上でそり返った。
「Ouch!」
「やめて」
「やめてほしければ正直に言うんだ。ルークは何を企んでいる?」
その時、苦しそうな息でハルバート博士が言った。
「リサか、絶対言うな! 私はもう死んでもいい。ルークたちに計画があるのなら成し遂げさせてやるんだ」
理沙の心は引き裂かれそうだった。
ルークが着々と進めている計画を今ここで明かす訳にはいかない。
しかし、それを隠し通したらハルバート博士が電気ショックを浴びてしまう。
だからといってルークの計画を明かしたら、今度はルークやカノンまでが捕まってひどい目に遭わされるに違いない。
どちらにしてもひどい結果しかないのだ。
カークスがまた聞く。
「さあ返事しろ」
理沙は究極の選択に心臓が捩られるような思いだった。
「リサ、私のことは心配するな。もう死んだ方が楽なんだ。君を恨んだりしない。むしろ生かされてる方が辛いんだ。死なせて楽にしてくれたら感謝する。死なせてくれ」
理沙は思わずハルバート博士の言葉に耳を傾けていた。
「返事がないな。おい、電気ショックだ!」
「リサ、私は大丈夫だ。ベスに愛してると伝えてくれ」
「博士、いやです!」
「電圧上げ、電気ショック!」
「Ahhhhh!」
すさまじい電撃に、ハルバート博士の体はベッドの上で何度か弾んで静かになった。
慌ててハルバートの口に手を近づけた部下の顔が蒼ざめた。
「カークス司令、こいつ、もう虫の息ですぜ。このままおっちんじゃうかも」
理沙はなぜか急に穏やかに見えるハルバート博士の顔を見ながら、激しいショックに打ち付けられて叫びに叫んだ。
「キャアアアー、キャアアアー」
カークスが理沙の叫びを上回る声で怒鳴った。
「うるさい。お前がルールを破って嘘を吐くからだ。この博士が死んだのは全部お前のせいだぞ。もし俺が警察に捕まっても、この博士殺しだけは俺じゃないからな」
カークスは続いて部下に怒鳴った。
「この爺の妻がいたな。今度はそいつを連れて来い。きっとこの頑固な女が妻も電気ショックで仲良くあの世に送ってくれるぞ!」
カークスの声に理沙は反射的に「待って」と叫んだ。
「おや、答える気になったか?」
もう誰も理沙の屈服を止めることはできなかった。
「ルークはコンサートを企画しています」
カークスはニヤリと唇に笑みを浮かべた。
「ほお、コンサートねえ。どんなコンサートだ?」
「マリア・グリーンの大きなコンサートです。彼の会社は広告代理店なんです。コンサートじゃ、あなたたちの脅威になる筈ないわ」
「我々の脅威にはならないと?」
「ええ」
カークスは部下に怒鳴った。
「何立ち止まってる? とっとと妻を連れて来い」
「お願い、もうやめて! なんでも正直に話すから……」
理沙は大粒の涙をこぼして切り出した。
◇
ルークはおかしな夢を見ていた。
ルークの前に理沙がいる。しかし、彼女はすすり泣いている。
「リサ、どうしたんだ?」
ルークが問いかけても、理沙は答えず、両手で顔を覆って泣いている。
手を取って顔を見ようとしてもルークを避けて見せようとしない。
理沙は同じ言葉「ごめんなさい。ごめんなさい」 を繰り返すだけだ。
カノンが理沙の隣に立って肩に手を置いて言う。
「大丈夫だよ、お兄さんはリサお姉さんに首ったけなんだからさ。
そりゃちょっとショックだったけど、終わったわけじゃないと思うよ」
カノンはルークに振り向いて「ね、お兄さん!」と微笑む。
「お兄さん!」とカノンの声が急に大きくなった
「うん、リサに首ったけだ」
ルークが言うと、カノンがルークの耳を引っ張った。
「寝ぼけてないで。電話だよ、ほら、後輩のなんとかさん」
カノンはルークにナースステーションの電話の子機を渡して出て行った。
ルークは診察室のベッドから上半身を起こすと言う。
『やあベアリー、まだ7時じゃないか、早いな』
『先輩……』
『なんだ、元気ないな』
『あの、コンサート、急に没になりました』
『えっ!』
ルークは目の前が真っ暗になったように感じた。
『マリア・グリーンのコンサート、今朝というか今日の未明、突然、所属事務所とスポンサーの双方から断りのファックスが入ったらしいんすよ』
『なんだとおー?』
ルークは思わず大きな声で叫んだ。
『ついさっき部長から俺のスマホに直接電話があって教えられたんですよ。びっくりして飛び起きて足の脛をテーブルにぶつけて、頭をドアにぶつけました』
『契約書は交わしたんだろ。どういう理由だよ?』
『理由はメンバーの体調不良だそうです』
『……』
きっと巨悪組織ATOがコンサートの企画をルークたちが主導していると知り、念のために潰しにかかってきたのだろう。おそらく脅したり、巨額の補償金を提示したりして企画を一挙に潰したのだ。
『もう訳わかんないす』
『訳はわかるだろう、俺たちは巨悪組織ATOを相手にしてるんだぞ。これぐらいのことは想定の範囲内だ。へこたれるな』
ルークが叱咤しても、ベアリーの声は頼りない。
『俺、もう自信ないすよ』
『拉致された人間の命がかかってるんだぞ』
『それはもう何度も叩き込まれましたから、だけど』
『だけどじゃない、なんとか考え直してくれるよう説得して来い』
『はい。だけど』
『だけどじゃないって』
『部長がそっちは放っといていいと、スポンサー回りのノルマをよこしたんすよ』
『お前、人の命とノルマとどっちが大事なんだよ!』
『わ、わかってます。じゃノルマは説得してみてからにします』
受話器を置いたルークは口を開いて、息をするのも忘れそうなほど呆然とした。
つづく
ディスカッション
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