夢、高く買います!

夢祈願

 

  §1
 

 市岡政雄は山陰に向かうため、ファーストクラスに乗っていた。

 当然のことながら、座席はいつも使うエコノミーよりゆったりしていたし、機内食もグレードが違っていた。
 そしてキャビンアテンダントたちの対応が違っていた。国内ローカルの寂しい路線のせいか、ファーストクラスを見渡すと、客は、老夫婦が何組か、実業家らしき男が5、6人、そして市岡だけである。
 そこで市岡は美人のアテンダントに突然、苗字で呼ばれて驚いた。
「市岡様、ワインのおかわりをお持ちしますか?」
 エコノミークラスでは苗字で呼ばれたことはない。
「どうして私の名を?」
「ええ、大事なお客様ですから」
 そういって彼女は名刺まで差し出すのである。
「なんなりとお申し付けください」
 その名刺には手書きでプライベートなメールアドレスまで書いてある。

 それは彼女だけでなかった。アテンダントたちは自分のところにだけ入れ替わり立ち替わりやって来ては、とびきりの笑顔で微笑み個人アドレスを書き込んだ名刺をくれるのである。
 しまいには、
「本津賀町に行かれるんですよね?」
 と、キスするかと思うほど私の顔に唇を接近させて、私が訪問する町を言い当てるのだ。
 ここへ至って、私が訪問先へ行く理由について彼女たちへ情報が流れているに違いないと私は理解した。

 私は夢を売りに行くのだ、しかもとんでもない高額で。

 その地方で、かつてみっつの町のほとんどの土地を所有していたという大富豪が、私の夢を、とんでもない高額で買い取ってくれるというのだ。
 アテンダントたちが、私に親しくしようとするのは、過去にファーストクラスで招待され、大金を手にした男の玉の輿に乗ったアテンダントがいたからではないだろうか。うん、そうに違いない。
 そう考えると全てに納得がゆく。
 大富豪の秘書が東京から山陰行きのファーストクラスのチケットを購入した時点で販売店から情報に玉の輿フラグがついて、キャビンアテンダントたちに流れたのに違いない。
 私だって独身だったら、彼女らの甘い誘いに乗せられていたかもしれない。
 しかし、私には家庭がある。
 そして私の夢も家庭に大いに関係したことだ。

 『夢買い』の話は偶然、インターネットで見つけた。
 それは体裁としては『あなたの夢コンクール』という形で、自分の夢を原稿用紙五十枚にまとめて応募し、一等賞金は30万円となっていたのだ。
 その発表は5ケ月後になってた筈だが、応募したものの入賞はないだろうとあきらめすっかり忘れてしまっていた。
 発表からさらにひと月過ぎた先週の夜に『あなたの夢コンクール』事務局を名乗る男から、電話があった。

 テレビでニュース番組を見ていると、妻の宏美が電話の子機を持って来て聞く。
「あなたさ、『あなたの夢コンクール』事務局って知ってる?」
「あなたの夢……?、ああ、あれだな、思い出した」
 私は、缶ビールをテーブルに置いて、食べかけのサキイカを飲み込んだ。
 妻から子機を受け取ると電話の向こうの男が言った。
「実は、市岡様の夢のお話に本津賀会長が大変興味を持たれまして」
「はあ?」
「それで、正式に買い取らせていただけないかと思いましてお電話いたしました」
 買い取りという意味がわからなかったので、私は聞き返した。
「あの、1等になったんでしょうか?」
「いえ、1等は今回もありませんでした。しかし、会長があなたの夢は面白いと言われまして、是非、買い取らせていただきたいのです」
「夢を買い取るっていっても」
「いえ、特別なことではありません、ただ会長にじかにお会いいただいて、夢の話をたっぷりと語っていただけばよろしいのです。そうやって会長はあなたの夢を聞いて楽しむのです。
 ただ、こちらもお金を出す以上、独占までは無理でしょうが、なるべくあなたの夢は口外しないでいただきたいのです。
 それが買い取るという意味です」

 私は、なんだかバカらしくなって言ってやった。
「私も忙しいんですよ」
 すると電話の相手は私の答えを予期していたかのように、
「はい、それは皆さん、当然です。
 会長は現在、あまり外出できませんので、1日か2日、休んでこちらへ来ていただかねばなりません。そこで、休業補償としまして60万円を1週前にお振込みいたします。
 また往復と宿の手配等はすべて私どもでさせていただきます」
 私は驚いた。
 あの賞は、たしか賞金30万だった、それをあごあし付きで倍出すというのだ。
 私が嬉しさより当惑の混ざった心地で言葉が続かないでいると、相手はさらに言った。
「もし、お仕事の都合がつけづらいということでしたら、お勤め先に、私どもから、強い要望をお願いすることも可能かと思います」
 その自信満々の台詞にまた驚いた。
 まるで政治家が私の勤務先に圧力をかけるような口ぶりだ。
「それから夢自体の買取価格でございますが、会長の感動の程度によって若干上下いたします。大体、市岡様が現在お住まいの地域なら、4LDKの新築一戸建てに換算して、二軒分から五軒分の間の価格を見ていただいてよいかと思います」

「あっ」
 私は危うく子機を落としそうになった。

 夢の話をするだけで新築の家が数軒買える大金を払うというのだ。
 いまだに毎月、家のローンの支払いでこづかいも思うにまかせない私にしたら飛びつきたい話だ。
 いやいや、落ち着け落ち着け、おいしい話には裏があるに違いない。私は素早く呼吸を整えた。
「ちょっと驚きました。しかし、こんな言い方失礼だが、夢にそんなお金を出すとは、信じがたいですね」
 電話の相手は落ち着き払って説明する。
「ええ、皆さん、最初はそう言われます。
 しかし、会長は名前を本津賀文麻呂と申しまして、山陰地方の名士でして、知事を二期勤め、近県二名の総理の後ろ盾もなさった実力者でございます。
 嫌味に聞こえたら申し訳ありません、会長はあり余っているお金がかなりございまして、老後の道楽で夢を買い取るということをなさっているわけです。
 本津賀町のホームページを検索していただきますとすぐわかると思います。
 漢字はブックの本に、津々浦々の津、賀正の賀です。
 ただ、今日はもう遅いですので明日の昼にでも、本津賀町をネットで調べて町の代表電話かメールにご連絡いただけますか、本津賀会長のコンクールの話とおっしゃっていただけば、すぐに首席秘書の私にまわされますので、お話を続けさせていただきます。
 また町のホームページのリンク先で本津賀町企業ガイドというサイトの企業で上から八つはすべて会長の会社ですので、そちらから連絡いただいてもかまいません」
「はあ」
 こちらが調べて町に電話すればどこからでもこの会長秘書に通じるというのだから名士なのは間違いないのだろう。私は、それほどの名士なら、道楽で夢買いもするのかもしれないなと思い始めた。
「あと、これはオフレコでお願いしたいのですが、会長は現在、かなり体が弱っておりまして、なるべく早く市岡様に来ていただいて夢のお話をいただきたいのです。
 ここのところ、会長の楽しみはそれだけなものですから」
「……あなたのお名前は?」
「はい、会長の主席秘書官を務めております伴野と申します」
「まだ受けるとは決めてませんが、とりあえず明日、確かめさせてください」
「はい、では明日、ご連絡をお待ちしております。どうぞよろしくお願いします」
 私はきっとこの秘書は電話口で本当に頭を下げてると感じながら、受話器を置いた。

「なんだったの?」
「うん、1等になったかと思ったらどうも違うらしい。まだよくわからないんだ」
 妻に子機を返した私は、狐につままれた気分で、とりあえずノートパソコンをつけて、本津賀町を検索してみた。
 すると、本津賀町のホームページに、確かに、町の最大の功労者として本津賀文麻呂の名前と顔写真があった。
 撮影された時は七十歳前ぐらいか、もう少し脂ぎった雰囲気かと予想したが、それよりは痩せ気味で貴族っぽい顔立ちだ。
 リンクの本津賀町ガイドに飛んでみると、『あなたの夢コンクール』の案内ボタンもついていて、本津賀文麻呂が会長となっている企業八社が共同主催者だったことがわかった。
 まだ名士を騙る詐欺の可能性はあるが、何か提示された時点でぴしゃりと断れば、最初に振り込まれた60万はもらい得になる公算が強いという間抜けな詐欺だ。

 私は、翌日の昼に本津賀町町役場に電話を入れ、伴野秘書に応諾を伝えた。

 

  §2

 

 空港に出迎えてくれたのは大型のリムジンと50代ぐらいの伴野首席秘書官だ。

 こんなリムジンに安っぽい背広の男が乗り込めば、すぐ空港の噂になるだろうな。
 私がアテンダントの態度に妙に納得して、無駄に長い車内に乗り込むと、伴野秘書は向かいに控える。
「40分ほどかかりますが、何かお飲みになりますか?」
 伴野秘書の脇にミニバーのボックスがあるのだ。
「いや、車で飲む習慣がありませんから」
 断った私は気になって聞いてみる。
「あの会長さんは相当具合が悪いのですか?」
「いえ、今すぐどうということはありませんが、もう外出は週に一度ぐらい車椅子で庭を眺めるぐらいです。
 ただ影響力の非常に大きな方ですので、外部には漏らさないでいただきたいのです」
「はい、わかってます」
 うなづいた私は、もう一度、夢の話の念を押した。
「それで、私の夢の話でいいんですか?」
「もちろんです。もともとあの賞は、会長がいろんな夢の話を集めるために始めたものでして、ただ最初から高額の賞金を明かしてしまいますと、賞金稼ぎのプロの方が話を作ってでも応募して来てしまいます。
 会長は偽りない本当の夢をお聴きになりたいのです。そこでわざと低い賞金にして、会長がひとつひとつ吟味して、これは善いというものを選んで、こうしてお呼びするのでございます。
 そのため、ご疑念をおかけしたこと、大変、申し訳なく思います」
「なるほどそういう仕組みだったんですね。ならば仕方ないことです」
 私はそう言いながら、いよいよ自分の夢が家何軒分に化けるかと思うと、胸が高鳴るのを押さえきれなかった。

 30分ほど走って、リムジンは門番のいる門をくぐった。

 さっきは40分と言ってたがわりと早く着いたなと私が思った瞬間、伴野秘書がこともなげに言った。
「あと10分ほどで着きますので」
「えっ」
「初めての皆様は驚かれるんですが門から玄関まで車で10分かかるんです」
 敷地の広さは大したものだ。
 外を見るとゴルフ場がそのまま日本庭園になってるような印象がある。

 やがてエントランスに着くと、屋敷は築年数は経ていそうだが、がっしりしたコンクリート造りだ。
 執事か、あるいは秘書なのかわからないがまだ若い男がドアを開き、伴野秘書に伴われて中に入ると、そこはやたら広い吹き抜けのホールで、幅が五メートルはある階段がある。
「なんか首相官邸みたいですね」
 私が言うと、伴野秘書はうなづいた。
「ええ、このホールは旧首相官邸のホールと同じ設計になってます」
 2階にあがり部屋をいくつか通り過ぎ、次の執事か秘書の立っているドアの前で止まり、伴野秘書が問いかける。
「いかがだ?」
「はい、顔色もよく、楽しみにお待ちになっておられます」
 うなづいた伴野秘書はドアを開けて、室内に一礼して声高に「市岡様をお連れしました」

「うん」
 小さく声が返った。

 私が室内に入ると、大きな窓を背にしてベッドから上半身を起こした本津賀文麻呂の顔があった。
 ホームページの写真より十年ぐらい老けて見える。
 鼻に細いチューブをつけているのは酸素なのだろう。
 この人物が私の夢の話を高額で聴いてくれるのだ。

 私はベッドの1メートル手前で深くお辞儀した。
「はじめまして市岡政雄です」
「よく来てくださった」
 本津賀老人は手を差し出したが、それは布団についたままで高く持ちあげる力はないようだ。
 私は急いで歩み寄って握手した。
 指には力がないが、見つめ返す目には強さがあった。
 伴野秘書が素早く、私の後ろに椅子を滑り込ませ、いつの間にか現れたメイドがサイドテーブルにカップを置いて紅茶を注いでくれた。
「ま、おかけになって」
 私は椅子にかけて、紅茶に口をつけた。

「市岡さんの話は拝読しました。
 あれはよかった、最近の中では一番楽しかった」
「ありがとうございます」
「市岡さん、あなたは文学部だったんですな」
「はあ、取り得の残らないところを出てしまいました」
「いや、わしも文学部に入りたかったが、親父に政治か経済のどちらかにしろと、やりんむりん言われてな、
 わしは(じゃなぜ文麻呂と名つけた)と食い下がったが、(文月の文じゃ)と一蹴されたでの、ハハハッ」
「そうですか」
「では、ぼちぼち、お願いしますかな」
 そう言うとメイドが窓のカーテンをおろし始める。

 伴野秘書が市岡が応募した原稿を渡して囁く。
「市岡様、なるべくアドレプは控えめに、いただいた原稿の順序でお願いします。
 市岡様も今入ってきた側の壁をご覧下さい」
 原稿の順序ってどういう意味だと思いながら振り向くと、入ってきた壁面いっぱいに大きなスクリーンが降りている。
 どうやら映像付きで夢を語れということかもしれない。
 もちろん私は映像資料など提出していないから、本津賀家の秘書が原稿に合わせて用意した映像が順序よくスタンバイしているのだろう。
 原稿に一瞬目を落としたが、今さら確認する必要はない。
 何しろ家数軒分になる話なのだ、この一週間、暗唱できるほど何度も読み返して練習したから、こちらの準備も万全だ。

 

  §3

 
 スクリーンに夕焼け空が映り、カメラが下を向いて郊外の駅にズームインしてゆく。
 通勤電車が着いて、ホームに人々の忙しい歩みが捉えられる。
 ホームを歩いてゆくサラリーマン風の男に焦点が合う。
 顔は顎より上はぼんやりとしか映っていない。
 まずまずの演出だ。この映像を作るだけでもかなり金がかかったろう。
 感心している暇もなく、伴野秘書の「お願いします」という小声がかかった。
 私は覚えている冒頭を話し出す。

「私は市岡政雄、生まれは新潟の豪雪地帯です。
 高校までは田舎で過ごし、青稲田大学文学部を出て、現在45歳。
 中堅の広告会社で企画部門に勤めています。
 知り合った当時、取り引き先のデザイン会社で事務をしていた妻の宏美はひとつ下の44歳です。
 今は家にいて、ちょっとしたイラストの副業をしています。
 長男の翔也は18歳。
 大学受験を控えていますが、こういうと親バカですが、私に似ず成績が抜群なので東大合格も間違いないです。
 長女の優菜は16歳。
 こちらはおっとりしてマイペース、ディズニーランドが大好きで年に何度もせがまれたのですが、最近は友達と行くのでこっちは楽になりました。
 まあ、ごくありふれた家族と言えるかと思います。
 振り返ると、なぜ私が文学部に進学したのか、今では自分でもわからないのですが、私は文学というものの力を異常に過信していました。
 もっとも中学の頃は医者になろうと思っていたのです」

 ここで映像は、病院の手術室でてきぱきと指示を出して手術を執刀している医師の姿に切り替わった。
「医者という職業のいいところは、人を助けるという行為が明解にわかることです。
 自分が治療し、病人が治る。この単純明解さ、しかも感謝される。
 しかし、ふと思ったのです。
 世の中で苦しんでいる人は、病気の者とは限らないのです。
 いや、むしろ、病気より他の理由で苦しんでる数の方が多いに違いない。
 そういう多種多様な苦しみを癒すには何が必要かと考えた時、私は心の持ちように働きかける文学という力に希望の光を見出したのです。
 その辺が今思うと非常に短絡的なのですが、
 とにかく、私は高校の頃には文学部に志望を変えていました」

 映像は青稲田大学のキャンパス風景に切り替わる。
 パソコンの画面に小説を打ち込む男の後ろ姿。
 学生たちが教室、階段、ゼミの部屋、いろんな場所で議論をしている。
「文学部に入った私は自分の創作活動に打ち込んだり、仲間と議論をしました。
 しかし、世間を唸らせる発想や、強烈な体験があるわけでもない私の創作は、むしろ古臭いものだったように思います。それでいて、神話の力やおとぎ噺の力を取り戻そうとするアジテーションみたいでもありました。
 仲間たちとの議論は、どういったハナシが受けるかとか、簡単な新人賞の取り方みたいな手前勝手なものが多かったのですが、ある時は『飢えて死ぬ子供の前で文学は無力か?』というサルトルの命題についても熱く論じ合ったのです。
 結局、大学で私が得たのは、創作を通じて親交を暖めたFという友人と、四季の数と同じくらいの新人賞に落ちた回数と、実を結ばない議論の記憶の断片ぐらいだったように思います
 広告会社に就職すると、就職しても書くぞという決意はあったものの、次第に執筆に向かう時間は減っていきました」
 
 映像は、夜、残業している男の姿を映し出す。表計算の数字がスクロールしてゆき、評価を打ち込む男の手元がアップになる。
「就職して間もない頃、私にとって一番ショックな出来事が起きました。
 大学時代一緒に議論し、互いに創作を励まし、互いの一番の読者であり、半年に一度は会っていたFが、何の前触れもなく自死してしまったことでした。
 いえ、後から思えば前触れのようなことがありました。Fは他愛ない雑談の中で(自殺というのはどういう罪だと聞かれたんだがどう答えたらいい)と尋ねてきたのです。私は淀んだ空気を吹き飛ばそうと明るい口調で(そんなもんだめだ、大体それを考える奴は死後は無になると勘違いしてるが、人間の本体は物質身体じゃなくて大きな意識体だ。自殺は自分が殺人の加害者になり被害者になるという二重のカルマを自分の本体たる意識に与えるんだぞ、やめとけと言ってやれ)と答えたのでした。
 Fは私にとって最高の読者だったのに、病んだ現代人を救うのだと嘯いていた私は彼の心を少しも気付けず救えなかったのです。
 仮に私の小説が賞を取ってベストセラーになっていたとしても、ひとの生き死ににとって文学も医学と同じぐらい無力なのだ、これが現実でした。
 やはり、もっと強い力が、権力さえも掌握する力がなければ、ひとを救うことはできないのだ、そういうあきらめにも似た感情が強まり、私は書くことをやめたのです。
 しばらくした頃、取引先で事務をしていた宏美と次第に深い仲になり、結婚しました」

 映像は、若い夫婦が赤ん坊をあやしている場面になった。
 赤ん坊ははやされて笑い、はいはいをして笑い、少し大きくなって、つかまり立ちして尻餅をつき、よちよちと歩いて鳩を追いかけ、はばたきに驚いて泣き出す。
「まもなく、長男の翔也が生まれました。
 それまで想像もつかなかった喜びでした。自分の生命を引き継いでいる、この小さい生命が次第に成長してゆく楽しみ。
 その後、妹の優菜も生まれましたが、私は長男の翔也がものごころ付きはじめると、少しずつ自分の描く夢をこの子に託したいと思い始めたのです。
 それは、翔也を人格者として育て、政治家として出世させ、権力の座につかせ、世の中を救うような大人物にする。
 そうです、これが私の最大の夢なのです」

 映像は田舎の豪雪の様子に切り替わった。
 雪が屋根を覆いつくし、1階部分は雪の階段を降りないと辿り着けない。その階段の段差すら埋めようとする雪を、背中の曲がった老女がスコップで掘り起こしている。
「私は正月に里帰りした折、幼稚園児の翔也に(どうしてあのおばあちゃんの背中は丸いの?)と尋ねられて、(雪おろしが大変だから曲がったのんだよ、可哀相だね)と言ってやります。
 すると翔也は(そうか、可哀相だね)と言います。
(この雪おろしの作業で毎年何人かの人が死んでいるんだよ。
 お前はいっぱい勉強して、こういう人を助けてあげる大人にならなければならないよ)と教えてやります。
 すると翔也は(うん、僕が助けてあげるよ)とうなづきます」

 映像が夏の田園地帯の風景になる。
「盆休みで帰省した時、私は小学生の翔也に山脈を指差しながら、おらが土地の総理田中角栄について話してやります。
(昔、この山脈を削って豪雪をなくそうと演説した政治家がいたんだ。その人は総理大臣になって日本全国に道をいっぱい作った。そういう政治家になってみんなを幸せにするって素晴らしい仕事だろ。お前もたくさん勉強すれば、そういう偉い政治家になれるよ)と導いてやります。
 すると翔也は(僕、偉い政治家にるよ)と宣言して、私を感動させます」

 映像が詰襟の学生服を着た男子中学生になる。
「私は中学生の翔也に教えます。
(官僚を最も完璧に操縦出来たのがおらが土地の総理なんだよ。彼は全ての数字を暗記して手順を示して官僚を従わせた。今の政治家は何も勉強せず官僚にカンニングペーパーを作ってもらって読むだけだ。ただ、彼にも誤りはあった。賄賂は絶対にいけない。そのせいでそれまでの功績にまでケチがついてしまった。
 それから、利益誘導型の政治も間違いだった)
(利益誘導型って何?)
 翔也が尋ねると、私は答えてやります。
(自分とつながりのある人に優先して仕事をまわすことだ。それは不公平だし、仕事をもらった人もいろんな面でできない人間になってしまう)
 私が答えると翔也はうなづきます」

 映像がアイビー風のワッペンのついたカーディガンを着た男子高校生になる。
「私は高校生の翔也の意見を聞いてます。
(調べてみると、今、外国為替市場には実際に貿易で必要な額の20倍以上の想像を絶する資金が動いてるんだよ。
 それは一国の政府の力では歪んだレートを維持できないことを表わしている。実際イギリスの中央銀行はジョージ・ソロスの売り浴びせに屈服して変動相場制に移行したんだから。
 ところが、日本は今も何も考えてないんだよね、ただ円高の時だけ米国債だけを買って売りもしないんだから。
 経済だけじゃない、環境問題だって相当に深刻だよ。温暖化か寒冷化が進めば大変な事態になるのに、手ぬるい対策しかないんだからさ。
 これからは持続可能な再生産型経済と環境のホリスティック社会に、政治が導いてゆかなければならないと思うんだよね)
(お前ならきっとできるよ)と私は励ましてやります。
 すると翔也は(うん、僕が総理大臣になれば楽勝だね)と言います」

 映像は銀杏並木を映し出す。
 かつては学生運動の砦だった安田講堂の下を息子と父親が歩いている。
「私は誇らしい気持ちで東大生となった翔也を眺めて聞きます。
(進路はどうするつもりなんだ?)
(うん、ステップとして官僚になって政務次官になるか、政治家の秘書になるのが一般的だけど、この間のニューヨークの弁論大会で1位になったから、アメリカのCNNを受けないかって誘われてるんだ、アンダーソン・クーパーとか最近ならタッカー・カールソンとかカッコイイよね。あっちで修行して、日本でキャスターになって、選挙に出るってのもありかなって。結局、どのステップも時間をかけなきゃいけないけど。
 父さん、どう思う?)
(父さんはアメリカのことはわからないな、お前の判断力を信頼してるから、好きな道を行けばいいじゃないか)
(ありがとう、父さん)
(優秀な息子で鼻が高いよ)」

 映像は30歳ぐらいの翔也がキャスターとして大臣に質問をしているところだ。
「大臣は翔也の質問に真正面から答えず、言います。
(これからは、そういうことも含めて、改革案を検討していこうと、)
(ちょっと、あなた)
 翔也がキレる、私は今までの経験からこれはまずいと思って缶ビールを握り締めて心の中で言ってやります。キャスターが感情的になってはいけないぞ。
 しかし、続く翔也の言葉は私の心の声が届いたかのように落ち着いていました。
(私は、あなたのコメントいただくために命かけてます。あなたも政治生命かけて答えてください。
 質問は簡単な二択です。その時点で、大臣は事実を知っていたのか、知っていなかったか、どちらなんですか?)」
(それはですね……)
 大臣は汗を拭って答えた
 映像は新聞の紙面に切り替わる。翔也に知らなかったと答えた哀れな政治家が解任された記事だ。

 映像はフラッシュが煌めく記者会見の模様だ。
「翔也は、深々とお辞儀をして挨拶します。
(これまで番組を応援してくださった皆様には大変心苦しいんですが、この政治状況は外から批判しているだけでは改善されないと思い、今週をもちましてキャスターを降板させていただき、選挙に立候補いたします)

 映像は同じようにフラッシュが煌めくが、今度は当選風景だ。
 それも今までの日本の選挙では見たことがないような広いホールを貸しきった当選報告会だ。
「翔也は、深々とお辞儀して、会場をゆっくりと見渡して、口を開きます。
(当選した今、はっきりとここで言わせていただきます、私は無力です)
 意表をついた第一声に、会場が水を打ったように静まり返る。
(応援してくださった皆様の後押しがなければ、私は何もできないんです。
 当選したからそれで終わりじゃない、これは皆様の最初の一歩です。
 どうか、最後までご支援をお願いします。
 日本を皆様の力で、私を使って、皆様の力で、よくしてください、これが民主主義なのです)
 詰めかけた支持者から歓声と拍手がドッと沸きます」
 
 映像は総理官邸の階段の記念撮影だ。
 一番下の段の中央の位置に立つのは、今の私と同じぐらいの歳の翔也だ。
「総理大臣となった翔也は国会の演壇で話しかけます。
(国民の皆様には、現在直面している状況が今までの報道以上に危機的であることを認識していただきたいのです。
 私は、環境破壊、劇的な環境崩壊からわが国と地球を守ること、様々な事件事故伝染病災害の恐怖で私達の判断力を奪い世界統一政府へ誘導しようという流れを明確に断り、経済や福祉を失速させずに持続再生型へと転換させること、よりクリアーで効率的な行政システムに移行させること、同時にみっつの舵をとらなければなりません。
 これらの課題を解決するため、全ての国民の皆様の率直なご意見とご協力をお願いいたします)
 議場の議員から一斉に拍手が沸き起こり、翔也は顔をひきしめてうなづきます。
 私はテレビ中継を見ていて、涙ぐんでしまいます。
 まさか、翔也が、本当に総理大臣となり、天下、国家のために奮励邁進するとは。
 それは夢であったのに、翔也は私の期待に見事と応えてくれたのです」

 映像は拍手の鳴り止まない議場をゆっくりと映し出した末に、フェードアウトしてゆく。

 私の脇でパンパンという小さな小さな拍手が起きた。
 本津賀文麻呂の拍手だ。
 自分の息子を総理大臣にしたいなどという親バカの夢に、この大富豪が本当に喜んでくれるとは思ってもみなかった。
 私はさっきの握手で、本津賀会長が拍手することがどんなに大変かを推察できたから、会長が本当に私の夢を喜んでくれたのだと納得した。

「だんだん、だんだん、えがったわ」
 本津賀文麻呂がうなづいて方言を言うと、隅に控えていた伴野首席秘書が近づいてそっと会長の頬を拭った。
 メイドがカーテンを開けて、室内が明るくなってくる。

「市岡さん、あなたの息子さんが総理大臣になって、この国のために働いてくれたら素晴らしいですな。
 私も政治家の端くれでした。ですから、選挙にいかに金がかかるかはよう知っとります、あなたの夢の実現のために値段は多めにしておきますから、翔也君を必ず総理に育ててくださいよ」
 本津賀文麻呂は再び手を差し出し、私は両手でしっかりと握った。
「はい、きっと」
 本津賀文麻呂は力強い目で私を見ると、もう一度うなづいた。

 
 私は伴野秘書に1階の部屋に招かれ、書類を手渡された。
「電話でもお話したように、個人で受け取ると贈与税で半分取られてしまいますので、この書類に従って、まず受け渡しのための法人をお作りください」
 私は時々メモしながら、受け取り口座の作り方を学んだ。

 そして、最後に、私は尋ずにおられなかった。
「それで、下世話な質問ですみません、一体、いくら、いただけるんでしょうか?」
「ええ、おめでとうございます、7本です」
 私は7という数字だけで舞い上がった。
「えっ、7軒分ですか?」
 私の言葉に伴野秘書は微笑んだ。
「いえ、7本は7億です」
 私はめまいがしそうだった。
 息子を総理にしたいという夢の話が7億になったのだ。
「そんなに?」
「会長にも優秀な息子さんがいたのですが、19年前、これから党の中堅になろうという時に交通事故で亡くされまして。
 おそらく、ご自分の夢を市岡様の夢に重ね合わせたのではないかと」
「なるほど、それで」
「いや、私としたことが余計なことを申しあげてしまいました。今の失言、秘匿してください」
「はい、もちろんです」
「私も市岡様の夢、楽しみにしております」
「ありがとうございます」

 

  §4

 
 私は夢を売ったことは翔也の東大受験が終わるまでは家族には秘密にしておくことにした。

 すでに7億の選挙資金があるなどと言ったら、おかしな動揺をきたして、合格確実の判定を続けている東大入試に落ちてしまっては本末転倒だと考えたのだ。
 しかし、そのことは隠せても、私の不自然ににやけた顔は家族に気付かれてしまう。
 
 その日曜の夜は、私がリビングのソフアで新聞を読んでる横で翔也も優菜もそれぞれの雑誌を読んでいた。
「やだ、お父さん、何ニヤニヤしてんの」
 新聞から目をあげてボーっとしているところを優菜に指摘された。
「えっ、そうか」
「そうだよ、キモイよ」
「ごめんこめん、ちょっと頭の中で将来のこと考えてたんだ」
「あ、もしかして、私のウェディングドレス姿?
 早すぎだって、あたし、まだ高校一年だよ。早すぎ」
 優菜が女の子らしいことを言ってきた。
「そういえば、優菜は幼稚園の頃、お父さんのお嫁さんなるって言ってたなあ」
 私がからかうと、優菜はムッとしてキッチンに駆け込み、奥で「お母さん、お父さんがイジめるう」と言ってる。
「ばっかみたい」
 翔也がつまらなさそうに言う。
 テーブルの週刊誌をぱらぱらとめくる翔也に、私は言ってみる。
「気分転換なら、丁度、今、人気のドラマやってるみたいだぞ」
「いいよ、そういうの、つまらないんだよね」
「どうだ、受験の方は?」
「別に、予定通りだよ。もういくつやっても、本番も模試も変わりない。僕の受験道は完成した」
「お前はたいしたやつだよ」
「父さんさ」
 急に言われて、翔也を見つめた。
 翔也がいつになく笑顔なのは、私の顔がにやけていたせいだろう。
「うん?」
「えーと、やっぱ、今はいいや」
 翔也がテーブルに置いてあったクッキーをつかんで、自分の部屋に戻る後ろ姿に、私は、そっとつぶやく。
(総理大臣になれよ)

 

 ついに翔也の入試が今日終わる。それは翔也にとって合格という意味だ。
 私は夕食に間に合わせるため、いつもより早めに仕事を切り上げて家に帰った。
 今日は受験をねぎらう夕食の席で、政治団体の口座残高を見せるつもりで通帳も用意してある。

 私が一番最後にテーブルにつくと、宏美が言う。
「今日は翔也のご苦労さま会だから、翔也の好きなヒレカツなの」
「うん、うまそうだな。翔也の受験が終わったということは合格したみたいなもんだ、まずは乾杯」
 私と宏美はビール、優菜がオレンジ色の炭酸、翔也がミネラルウォーターを手に乾杯を交わした。パチパチと拍手で区切り、食事に移る。
「いただきます」
「いただきまあす」
 ヒレカツを口に運びながら私が言う。
「今日は、父さん、ちょっと発表があるんだ」
 すると翔也も
「僕も発表がある」
「そうか、じゃあ、翔也からしろよ」
 翔也は箸を置くと、何枚もの紙をまとめてテーブルの上に広げた。
「東大入試だけど、予備校の模範解答と合わせてみたら、正解率98.7パーセントだった」
「すっごーい」
 宏美と優菜の声が揃い、拍手が起きる。
「えらいな、どれどれ見せてみろ」
 私は赤ペンで採点されてる用紙を手に取って眺めた。
「ほおー、丸ばかり……」
 どの科目も丸ばかりで百点満点の科目もいくつもある。
 
 だが、唐突に私の目はある欄に釘付けになった。
 そこには受験番号の欄と名前の欄が鉛筆で埋められてる。
 数瞬、何がおかしいのか理解できなかったが、そのまま声が出た。
「これは、どういうことだ?
 お前の名前と番号が書いてある、わざわざ答案再現したものに名前と番号まで書くか?」
「あ、気付いた? へへ、これ、本物だよ」

 急にめまいがした。

 おっとりした優菜が呑気に聞き返す。
「お兄ちゃん、本物って、どういうこと?」
「つまり、ささーと答えを書いて、そのまま持って出たんだよね、全教科」
 震えがきた。
「ま、まさか」宏美の声が上擦る。

 それはつまり答案を提出してないということだ。
 それはつまり採点されないということだ。
 それはつまり不合格ということだ。
 それはつまり……、

 私は思わずテーブルを拳で叩いた。
「全てぶちこわしじゃないか?」
「まあ、冷静に、冷静に」
 翔也は悪びれもせずに言う。
「お前あー、何を考えてるんだ?」
「これは受験道に対する、僕なりの美しい到達点なんだよね」
「ふざけるな!」
「イチローって野球選手じゃないんだよね。剣術家が剣の道を究めるように、彼は野球の道を究めてるわけ。
 じゃなきゃ、あんな弱いチームでやってられないでしょ。
 あらゆる投球から体の反応だけで美しいヒットを打つことが彼の剣の道なんだよ。
 僕も受験を究めるということで、全ての教科を規定の半分以下の時間で書き上げ、この正解率に到達したんだよ」
「くだらん、お前、自分のしたことがわかってるのか?」
「普通、わかるでしょ」
「お前はみんなに将来、総理大臣になるって言ったじゃないか」
「それは言ったことあるけど、昔だよ。優菜に、お父さんのお嫁になるって言ったぞって、いいがかりつけるのと同じだ」
「昔じゃない、高校3年になってからも言ったぞ」
「だから高校がもう昔なの。進路に変更はつきものでしょ」

 そこで私は政治団体の口座残高を開いてテーブルに叩きつけてやる。

「これを見てみろ」
「何?」
「みんながお前に期待してるんだ、その証しだ」
「なにこの残高? 万、十万、百万、千万、 
 げっ、7億?」
「7億ーッ」
 宏美が「ちょっちょっと、どうしたの?」と聞くと、翔也が通帳を渡した。
 宏美も桁を数え、優菜も加わり「すっごい~」と声を上げる。
「お前を総理大臣にって山陰の本津賀って大物がポンと出してくれたんだ。わかってるのか、その期待を? 高校3年のお前に選挙費用7億だぞ」
「バッカじゃないの」

 鈍い打撃音、私は反射的に翔也の頬を打っていた。
 翔也は頬を押さえて、私を睨んだ。
 いや、哀れむような色も混じっていたかもしれない。
 大きな音を立てて、翔也はドアから飛び出て行った。

「あなた、そんなぶたなくても」
 宏美が言うと私は頭を垂れた。
「すまん、ついカッとした」
「今ひとつわからないんだけど、どういうことなの?」
 私は自分の真っ白な頭に思考を無理やり流し込んでやる。
「うむ、去年、夢コンクールに応募したのを山陰の大物に話したんだ。そしたらその大物は翔也を総理にする夢にポンと出資してくれたんだ」

 宏美は「ああ、去年の山陰出張てそれだったのね」と思い至ったようだ。
「私立受験はもうできないか?」
「今からじゃ、いいところはないわよ、だから私が滑り止めは必要だと言ったでしょ」
「いや、あいつは確信犯なんだ、私立を受けてても意味ないだろな、来年東大を受け直すなんてこともあり得ない」
 しかし、頭の中は再び真っ白になってゆく。
 私の壮大な夢を、能力は十分足りているはずの翔也が踏みににじってゆくというのか?
 
 宏美は自殺まで心配し出して警察に届けた方がいいと言ったが、私は不要だと答えた。
 殴られて萎むようなしおらしい人間なら、受験の答案を出さずに帰るなどという大胆な犯罪を起こす筈がない。そう、これは犯罪なのだ。
 それにやつの頭の回転はこちらよりずっと上なのだ、殴られることも想定内で、訳のわからないことをする大馬鹿者だ。

 そう言ったものの、私は急に思い立って手早く身支度して暗い町に飛び出して翔也の姿を探し続けた。
 Fのことが脳裏に浮かんできたからだ。
 やつも頭の回転は抜群だったが、私の意表を突いて事を起こした。まさか翔也に限って、そんなことないと思うが………。
 こっちの心臓が破裂しそうなほど走ったところで翔也の居所がわかった。
 妻と優菜が手分けして同級生に電話してあたるうちに(ああ、来てますよ)と返事があったのだ。
 私はホッとして帰宅した。

 

  §5

 
 翌日、その電話が入ったのは、出社して2時間ほどした時だった。

「市岡様、お久しぶりでございます、伴野です」
「ああ、伴野さん、その節はお世話になりました。
 本津賀会長はお元気ですか?」
「はい、おかげさまで元気になさってます。
 これも市岡様の夢を聞いて、生きる張り合いが出たのかと思います」
 私は青くなった。
 その会長が、もし翔也が東大受験をボイコットしたと知ったらどうなるだろう。
「いや、その、なんといいますか」
 私が言いよどんでいると、伴野秘書が用件を伝える。
「実は、今日、お電話いたしましたのは他でもありません。会長が急に会いたいと申されまして、お忙しいとは思いますが来て頂きたいのです」
「そうですか、しかし、今日はちょっと仕事が詰まってまして」
「では明日いらしてください、チケットは都内からバイク便で今夜届くように手配いたします」
 それでも急すぎる話だが、弱味のある手前、私はすぐ了承した。
「わかりました」
 私は受話器を置きながら覚悟した。会長は東大の試験日程を知ったうえで会いたいと言って来たに違いない。行けば必ず翔也の結果を必ず尋ねられるだろう、そうなったら正直に話すしかない。
 翔也にはおらが総理に負けないぐらいの頭脳はあるように思えるから東大など出なくとも総理になれなくはない筈だが、昨晩の翔也はその夢をあっさり放り出してるように聞こえた。
 夢の実現性に重大な障害が生じた以上、あの金は返すしかない。
 それが筋だろう。
 それを聞いて会長がふさぎこむかもしれない。だが、なんでもないふりをして騙すのは正義に反する。
 いや、その辺はまず伴野首席秘書官によく話してみよう。
 金は返してもらうが、会長には嘘をついてほしいと頼まれるかもしれない。うん、その方がいいだろう。
 私は暗澹たる思いに浸った。
 せっかく手に入れた大金だが、仕方ない。
 こうなると、翔也のことではなく別な夢で、たとえばインカの遺跡を撮影旅行したいという夢で応募しておけばよかったか。
 そんなことを考えてから、私は自分の発想を笑った。
 息子を総理大臣にしたいという話だからこそ、本津賀会長は自分の息子へかけた夢に重ね合わせて買う気になったのだ。
 私は大きく溜め息を吐いた。

 

 飛行機を降りると雪が降り出した。
 リムジンの中で、私は伴野首席秘書官に全てを話した。

「そんなに思いつめないで下さい。
 会長は度量の大きい方ですから、返せとは仰らないですよ」
 しかし、私は伴野秘書の言葉に納得できるわけがない。
「それでは私の気持ちが収まらないんです。
 それに会長に私の息子のことを聞かれたら私はどう答えたらいいんです?」
「心配なさらないでください」
「お願いします、私は嘘をつくのはいやですが会長に心労をかけるのはそれ以上にいやなんです。
 伴野さんからうまく切り出していただけませんか」
 私にできることは伴野秘書にすがるだけだ。

 本津賀の大きな屋敷にも雪が降り積もっている。
 旧首相官邸そっくりの階段を上がり、廊下を抜けて部屋に入ると、本津賀会長が嬉しそうに手を差し出した。
「久しぶりですな」
「またお目にかかれて光栄です」
「少し顔色が冴えないようですな」
「あ、ええ、ちょっと飛行機が揺れまして」
 会長はちらっと側面の窓に目をやり、
「市岡さんの田舎とこっちでは雪はどうです?」
「雪の量は、やはり私の田舎が上のようです」
 私はようやく少し微笑を浮かべた。

 そこへ伴野秘書が切り出した。
「会長、市岡さんの息子さんのことですが」
 私はハッとして伴野秘書を見やった。どうつなぐつもりかと聞き耳を立てる私に伴野秘書は無神経に言い放った。
「市岡様は息子さんが東大受験に答案を提出しないでボイコットしたことで、ずいぶん心を痛めておられます」

 私は焦った、そんな言い方では会長にショックを与えてしまうじゃないか。
 だが木津賀会長はさほど動揺を見せずただ目を閉じて聞いている。

「それで、息子を総理大臣にする夢の実現性がなくなったから、お金を返そうと仰られて、まったく正直な方です」
 すると木津賀会長は目を開いて笑った。
「ハハハッ、本当に気持ちのよい方ですな。あれは夢を聞いた代価です、夢が実現するところまでは条件にしてませんぞ。
 どうしても邪魔なら、どこかに寄付されれば済むことじゃ」
 私はどう答えてよいか言葉が浮かばなかった。
 しかし、木津賀会長は微笑すら浮かべていた。
「市岡さん、息子を総理大臣にするというあんたの夢、そして私の夢は可能性は殆どなくなったかもしれませんな。
 だが夢がすべて叶うわけではない、そんなことはあなただってよくご存知でしょうが」
「会長にあれほどのご援助をいただいたのに、申し訳ないです」
 私が頭を下げても木津賀会長は微笑んだままだ。
「しかし、あなたと私の夢は、まだ終わってないようじゃ」
 木津賀会長が目配せをすると、次の間の前に立っていた執事がドアを開いた。

 私が振り向くと、翔也が照れくさそうに入ってきた。
 私は驚いて口を開いた。
「翔也っ、なぜここにいる?」
 それに木津賀会長が答える。
「昨日の朝一番で、東京から飛んで来ての」
 私は翔也に問いかける。
「どうしてここがわかったんだ?」
「本津賀さんて言えば保守党で有名だよ、すぐ調べがつくさ。僕としたら知らなかったとはいえ、本津賀さんに悪いことしたから謝りに飛んで来たわけ」
 本津賀会長が笑う。
「翔也くんは私に受験をボイコットしたことを詫びてくれましてな。
 そして、よく考えた末、総理大臣にはならないから金は返すと」
「そうですか、会長、申し訳ありませんでした。この愚かな息子を許してください」
 私は頭を下げた。
「いやいや、それがまだ続きがあるんだで、なあ、翔也君」

 翔也は、私のすぐ前に歩み寄って言った。
「俺ね、冬休みに、子供の時書いたノート探して物置をひっかきまわしたんだよね。
 そしたら、父さんが昔書いた小説の原稿がさ、出てきたんだ」

 私は「あ」と息を洩らした。
「なんか、最初はSFだったり、おとぎ話風だったりなのね。
 だけどしまいに大上段に振りかぶって、ああだこうだって説教が入って、なんかもうダサダサなんだな、これが」
 私は赤面する。
「けど、少し我慢して何篇も読んでるとね、なんか心が落ち着いてきて、楽しいの。
 あれえ、親父ってけっこうジャブだけのボクサーのふりして、実は空手の七年殺しぃみたいな、ちょっとした文章の魔術師じゃないのって、すげー感心したんだ。
 父さんは親友が死んで小説やめちゃったみたいだけど、それっておかしくない?
 医者がたまたま患者が一人死んだからって、医者やめないでしょ、普通」
「あ、あのだな」
 私が反論しようとして言葉を探すうちに、翔也が続ける。
「こんなに面白いのにもったいないでしょ。
 だからさ、俺、そん時に、政治家はもうやめて、親父の夢継いで小説家目指したるって、決心しちゃったんだよね。だって血筋なのか俺もそういう物書きとか嫌いじゃないんだよ」

 急に何かがこみ上げて私は声が出なくなった。

「いいじゃん、小説。たかが小説、されど小説。
 小説だって奇跡のひとつぐらい、誰かの心に起こすかもしれないよ」
 翔也が言うと本津賀会長が笑う。
「どうじゃ、あんたとわしの夢はまだまだ続いてゆくんだで」

 私は不覚にも息子の前で涙をこぼしていた。
 いつの間にか雪がやみ、大きな窓一面から目眩い光がこぼれてくる。どんなに厚い雲の上にも太陽はずっとあるのだ。