改訂版ドルフィン・ジャンプの23 マリア・グリーン
改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です
23 マリア・グリーン
夜のサンノゼ総合病院。外科診察室にある小型スピーカーからマリア・グリーンの歌が流れている。
チョウ医師が診察の時と同じ椅子に座り、カノンがベッドに座り、ルークが患者用の椅子に座り、三人は会議を始めていた。
「カノン、ビスケットがまだある、食べるかい?」
チョウ医師が勧めるとカノンは首を横に振った。
「もういい。ありがとう。でも、この雰囲気、慣れてきた。会議の前半の雰囲気」
チョウ医師が小さく笑った。
「じゃあ、カノン、早く後半のポジティブ会議の雰囲気にしてくれ」
「それにはお兄さんがもう少し落ち込んでくれた方がいいかな」
カノンが意地悪くからかうとルークが肩で息をした。
「十分、落ち込んでるよ。せっかく練りに練った作戦だったのに」
「なぜ急に企画が潰れたんだろうな?」
チョウ医師も嘆いた。
その理由について、ルークは推測できていた。
巨悪組織ATOはこちらの計画したマリア・グリーンのコンサートの真の目的に気付いて、潰しにかかったに違いない。だがどうして巨悪組織ATOがこちらの計画の目的に気付いたのか、そこが謎だった。
するとルークの心を読んだらしいカノンが口を開いた。
「これは言っていいかさっきからずっと悩んでたんだけど、隠してもしょうがないから言うね。実はね、リサお姉さんはテレパシーが使えるようになったみたいなの」
「え、リサも本格的にテレパシーが使えるようになったのか?」
ルークが驚いて言うとカノンが頷いた。
「ええ、私からリサお姉さんの心を読もうとしても何か網で覆われてるみたいで読めないんだけど、リサお姉さんが私の心を読もうとしてるのを感じたの。ほら誰かに後ろから見詰められていると、なんとなく気配を感じて振り返るとホントに誰か見てたって事があるでしょ。あんな感じ。私の心を覗いてすまなさそうな気持ちが響いてきた。きっとやつらに脅迫されて私たちの意識を読み取って、コンサートの計画を知ったんだと思うよ。
もう仕方ないよ。次の作戦を考えようよ」
ルークは頷くと笑みを作って言った。
「それでこそカノン、ポジティブ思考だな」
「うん、ポジティブ会議の後半に入ったようだ」
チョウ医師が言い三人で笑った。
しかし、当然ながら次の作戦の名案はなかなか出てこなかった。
「カノン、テレパシーで博士たちの監禁場所はわからないのか?」
チョウ医師の問いかけにカノンは頭を揺らした。
「無理みたい。なんかガードされていて、こちらからテレパシーで読み取ることができないの。リサお姉さんに気づいたのも私の心を読み取ろうとした引き波だったし」
ルークが頷いた。
「じゃあテレパシーで捜索するのは無理だな。仮に博士たちを取り返しても、その前に敵に見つからない隠れ家を準備しておかないといけないし。下手なところじゃ、またやつらに奇襲されて同じことの繰り返しだろう」
「前回の『臨界ジャンプ作戦』がよかったから、他のアイデアは見劣りするな」
「うーん、困ったなあ」
カノンは頬づえをついてマリア・グリーンの歌を聞いていたが、急に頷くと言った。
「お兄さん、私ね、やっぱりマリアのコンサートをやってみたらいいと思うの」
「だけど所属事務所もスポンサーも断ってきたんだよ」
「だからね、マリア本人に頼んで個人的に参加してもらうの」
ルークは首を斜めにして教えた。
「うーん、それは難しいな。大人の世界には契約という壁があるんだ。本人がカノンに頼まれて応援しようと思っても、事務所の契約書でもっとお金になる次の契約のために勝手に誰かを応援してはいけないみたいな規則を入れてあるんだよ」
「どんなに頼んでもだめかな?」
「難しいと思うよ」
ルークが言うと、カノンは泣きそうな顔になった。ルークは困ったなと思いながら仮の話をしてみせる。
「じゃあ、仮にマリア本人が参加してくれるとしようか。でも、スポンサーも告知CMもないコンサートに何人のひとを集められると思う?」
するとカノンは勇んで答える。
「マリアならほとんど告知なくても口コミですぐに三百人や五百人は集まるよ」
「うん。しかし、そんな人数じゃ臨界ジャンプは起きないだろう」
チョウ医師が言うと、カノンも頷いた。
「うん、すぐには起きないかも」
カノンは力のこもった目でチョウ医師とルークを交互に見つめた。
「だけど。だけどさ、百人でも五十人でもいいからテレパシーに目覚めてくれたら、それは私たちの心強い応援団になってくれるよ。
そしたら応援団の中から別のコンサートを企画してくれる人も現われるかも。そんなふうに小さいコンサートがあちこちで増えていったら、目立たないようにテレパシー人口が増えていって、何もしないでいるよりずっと早く臨界ジャンプを起こせるよ」
カノンにそう説得されてルークは降参したように両手を挙げた。
「どうやらまたカノンにやられたかな」
チョウ医師も続けた。
「ついつい常識的な判断で否定するのは社会に染まった大人の悪い癖だな」
「最初からあきらめて何もしなかったら、少しも前に進まない。カノンの言う通り、地道に仲間を増やしていくことを目指そう。奴らの予測より早く臨界ジャンプを起こせたら、それは僕らの勝ちになるんだ」
カノンは弾けるような笑顔を見せた。
「そうと決まったら、マリアにいつ会えるか調べてみる」
◇
ルークとカノンはロサンゼルスのはずれにあるカフェの前にレンタカーを停めた。
建物はログハウス建築で黄色に黒い字でグルテンフリー・ブレッド&カフェと書かれた木の看板がかなり痛んでいる。
「グルテンフリーてヴィーガンてこと?」
カノンが聞くとルークが答えた。
「違うよ。グルテンフリーは小麦粉を摂らないだけ。今の小麦粉は20世紀半ばの緑の革命による品種改良種なんだけど疲労や体調不良の要因と考えられ、実際グルテン断ちで調子いいってよく聞くよ。一方のヴィーガンは肉に加えて卵やバター、蜂蜜も摂らないんだ。だけど失敗する人が多いからヴィーガンは根本的に無理があるんだと思う。
しかし大人気のマリア・グリーンがこんな辺鄙な店に来るかね?」
ルークが疑問を挟むとカノンが答える。
「だって、彼女はここのパンが好きでわざわざ来るんだから」
「なんだかうまそうに見えない店だけどな」
「外観で判断しちゃだめよ」
ドアを開けると、リズム&ブルースが控えめに流れ、客席は半分ほど埋まっている。
カウンターの中は広い調理場になっていて、いかめしい顔をした太った男がオーブンの様子を眺めてる。
ルークは彼がオーナーと判断し尋ねてみる。
「この店、マリア・グリーンがよく来るって聞いたんだけど、本当に来る?」
すると太った男は無愛想に返す。
「知らねえな」
ルークとカノンが無言で頷きボックス席に腰掛けると、カウンターに座ってた女が立ち上がった。ウェートレスだったのだ。
「うちは初めてのお客はグルテンフリーのパンだけよ。コーヒーだけとかサワドーブレッドを頼まれても受け付けない」
「わかってます、一番のおすすめは何ですか?」
カノンが言うと、女は答えた。
「ひよこ豆ブレッドだね」
「それをお願い。飲み物は紅茶とコーヒーで」
まもなく出されたのは飲み物と皿に乗ったスライスされたひよこ豆パンのみ。
ルークとカノンはひよこ豆パンを口に入れて、思わず微笑んだ。麦の香りと発酵した酸味が口の中に溶け出したのだ。それは今までに食べたパンで最高の味だ。
「カノンの言った通り、最高だね」
「味に絶対の自信があるからよ」
「うん」
するとカウンターの中から無愛想だった男が笑顔で言う。
「ようこそ。うちはパン本来の味のわからないやつは客にしねえんだ」
そこへウェートレスの女がまた来て今度はメニューを渡して笑顔で聞く。
「お客様、ご注文をなんなりと」
「私、このパンを焼いてバターと蜂蜜で食べてみたい」
「僕はベーコンとチーズのサンドイッチで」
◇
ドアが開いて、ジーンズを履いて空色のサングラスをした女性が入ってきた。
カウンターの男の顔がほころぶ。
「やあ、我らの歌姫さん」
「こんにちわ、ボブ」
カノンが「彼女よ」と言ったが、ルークは疑問に思った。ルークの知る限りマリアはいつもドレスなのだ。投稿された買い物や美容室の写真もドレスだった。
「ドレスじゃないよ」
ルークが言うと、カノンは指を一本立てた。
「シッ、黙ってて」
女性はルークたちの隣のボックスに席をおろした。
サングラスを外すと、それはマリア・グリーンだった。
マリアは紅茶とプレーントーストを注文すると、周囲を見回し、振り向いていたカノンは思い切り視線を合わせてしまった。
カノンはすかさず言う。
「もしかしてマリア・グリーンさんですかあ?」
「え、ええ」
「私、カノンと言います。私、マリアさんの大ファンなんです」
マリアはにっこりして、
「もしかして、お名前はパッヘルベルのカノンから取ったのかな?」と聞き返した。
「そうなんです。お母さんがつけてくれたの」
「あの曲はシンプルだけど心が弾んで素敵だよね。それが名前だなんて羨ましいな」
「マリアさんにそう言われるとすごい嬉しいです。マリアさんて本名なんですよね?」
「うん、私の場合は完全に名前負け。子供の時からいやだったんだけど、はっきりこんなの嫌いって言ってしまうと本物のマリア様に叱られそうで、ずっと困ってるの」
マリアとカノンはあっと言う間に打ち解けて笑い交わした。
そこでルークがカノンを肘でこづいた。
「あ、マリアさん、こっちのお兄さんはルークさん」
「どうもはじめまして、ルーク・フリードマンです」
「はじめまして」
「水族館に行く時、知り合ったんだけど悪い人じゃないから安心して下さい。
あのね、私、マリアさんにお願いがあるの。そのいつか、どこかで会ったら言おうと思ってたお願いなんだけど聞いてくれる?」
「何かな? そっちに行くね」
マリアはわざわざルークたちのテーブルに移ってくれた。
「私たちの大切なひとを悪者から取り返すために、コンサートをしてほしいんです」
「え、なんかすごい理由だね?」
ここぞとばかり、ルークが口を開いた。
「マリアさん、政府が巨悪組織に乗っ取られてるって知ってます?」
カノンはマリアの気持ちが引いたのを読み取って、ルークの口を手でふさいだ。
「マリアさん、イルカは好きですか?」
「ええ、イルカは好きよ!」
「よかった。イルカも人間も哺乳類で元は同じ仲間ですよね。
だけど人間は、自分と他人の間に塀や壁を立てて、すごい利己主義の、心の狭い文明に生きてます。そしてほんの少し肌の色や宗教が違うだけで人間同士が殺し合う戦争を何度も繰り返してますよね。
でもイルカや鯨たちは、海を自分の海だなんて思わないし、道具を使って仲間を殺そうなんてしない。いつも仲間とコミュニケートして、子育ては共同でするんです。調和して一緒に生きてゆく、温かい文明を持っているんです。
どちらが素敵だと思いますか?」
「うん、それはイルカの方がいいわ。カノンちゃんは偉いこと、考えるのね」
マリアに誉められ、カノンは赤くなって首を横に振った。
「違うんです。私が考えたんじゃなくて、私たちの知り合ったイルカの先生、ハルバート博士から教えてもらったんです。
皆が悪いと思ってる戦争がやめられないなんて人間ておバカでしょ。でも皆がイルカや鯨みたいに調和を大事にして、自分の生活を少し我慢すれば、戦争が無くなり、飢える国も無くせると思うんです」
「うん、そうだね」
「だけど、今、沢山のお金と大きな権力を持ってる人は自分たちのお金や権力を少しでも失うのが嫌で、イルカみたいに調和を大事にする人が増えないように脳にチップを埋めてでも人々の心をコントロールしようと悪企みをするかもしれないでしょ」
「まあ、あるかもしれないね」
「それ本当なんです。実際にそういう事件が起きているんです」
「ほんとに?」
「私、尊敬するマリアさんに嘘なんかつきません。実は、このお兄さんもちょっと前まで悪いチップを頭に埋め込まれてて病院のチョウ先生に手術で取ってもらったんです。
その後、さっき言ったハルバート博士夫妻とイルカのトレーナーのリサとプログラマーのアランが悪い組織に誘拐されてしまったんです」
マリアは険しい表情になった。
「それは大変じゃない。警察には言ったの?」
「もちろん言いました。だけど警察もマスコミもそんな陰謀なんてある筈ないって頭から否定して相手にしてくれないんです」
カノンは目に力を込めてマリアを見つめた。
「そこで私たちは知恵を絞って、マリアさんのコンサートで呼びかけようと考えたの」
「どうして私のコンサートなの?」
マリアはカノンの瞳を覗き込んだ。
カノンは小さく息を吸って答える。
「だって、美しい音楽って調和でしょ」
ルークは、その時、カノンとマリアの間に見えない何かが繋がったように感じて慌てて瞬きした。
「素敵! 今のひとことで説得された!」
マリアが微笑むと、意外なほど簡単に引き受けてもらえたことにカノンが驚いた。
「え、ホントに?」
「ええ、カノンのお友達のためでしょ、引き受けるわ」
ルークは聞かなくていいのに聞いてしまう。
「あの、契約はいいんですか?」
「大丈夫です。私の契約は制約条項をなるべく無くしてあるんです。おかげでカノンちゃんのために役に立ったわ」
「じゃ、私たちのために歌ってくれるのね?」
「歌ってあげる、ただ、さすがにスケジュールに空きがないとね」
そこでルークが言った。
「今月の20日は?」
マリアはスマホのスケジューラーを開いた。
「ごめんなさい。その日はゲームメーカー主催の大きなコンサートみたい」
「そのコンサート、キャンセルになったんですよ」
「本当に? まだ聞いてないわ」
驚くマリアにルークが説明する。
「ええ、実はそのコンサート、元々僕らが呼びかけのために発案したんです。だけど巨悪組織ATOが圧力をかけてきたらしく事務所もスポンサーも降りたんです」
「いやねえ」
「もしかしたら、また圧力がかかるかもしれないし、もしかしたらマリアさんにとっても危険があるかもしれないんだけど」
カノンが心配すると、マリアは笑った。
「ボランティアでコンサートに出るのは私の自由よ。どんな邪魔が入っても出ますよ。あと私のバックバンドも基本的に私とスケジュール一緒だからきっと出てくれるわ」
カノンとルークは安心して微笑み礼を言った。
「ありがとう、マリアさん」
「カノンちゃん、指切りしようか」
「指切りって、指を切るの?」
「指は切らないわ。ゲイシャから始まった日本の風習よ。日本にコンサートに行った時に教わったの。大事なひととの大事な約束に指を絡ませて誓うの」
マリアが小指を立てて差し出すとカノンも小指を立てて、絡ませた。するとマリアは日本語の「指切りげんまん」の音に英語をあてはめただけのおまじないを述べた。
「ユー、ビッグ、エン、マン、ハリー、センド、ボーン、ノー、マウス」
カノンはマリアと約束して、胸がワクワクと高揚するのを感じた。
◇
カークスによって、連日、理沙は椅子に座らされヘルメットを被らされ、ルークたちのテレパシー監視を命じられていた。
「ルークは何をしている?」
理沙はルークの声を求める。あの高さ、あの響き、あの温もり、あの優しさ、理沙にとって最も心地よい、その声。
もしかしたら新たな情報を知らない方がいいのかもしれなかった。
そのためならルークの心を実際には探らずに探るふりだけをするというのも賢い選択なのだろうが、監禁されて不安の極にある理沙にとって、それは縋りたい、甘えたい、救いの声だったのだ。
そんな理沙に出来るのは情報をなるべく少なく申告することしかなかった。
理沙は、巨悪組織ATOに潰されたマリア・グリーンのコンサートを、ルークがカノンたちと手作り規模で開こうとしていることを読み取った。
「彼は今、音楽を聴いています」
「ふん、性懲りもなく、またマリア・グリーンだろう?」
「そうみたいです」
「コンサートを潰されて、いじけてるか?」
「……そうみたいです」
カークスは理沙の返答の一瞬の遅れを逃さなかった。
「まさか、まだコンサートを開こうとしているのか?」
「……わかりません」
「ちゃんと答えろ。ルークはまたマリア・グリーンのコンサートを企画してるのか?」
「わかりません」
カークスは理沙の顎を掴んで言った。
「正直に答えないなら、またハルバート博士の妻を連れてきて電気ショックで踊ってもらうしかなさそうだな」
「や、やめて下さい。もう電気ショックはやめて、ベスは耐えられない」
「私も同じ意見だ。あの妻もだんだん体力が落ちてきている、これ以上のダンスは無理だ。電気ショックを省きたいなら正直に答えるんだ。ルークはまたマリア・グリーンのコンサートを企画しているのか?」
理沙は観念して正直に答えた。
「え、ええ、そうみたいです。でも素人の手作りのチャリティーコンサートです。規模も小さいし、あなたたちの敵じゃないでしょ?」
「それはそうだ。仮に千人集めたところで何も変わらない」
「じゃあもう彼を狙うのはやめて下さい」
「ルークはまだ我々に歯向かおうとしているんだろう?」
カークスがそう聞くと、理沙はサングラスの下からカークスを睨み返した。
「私たちを助け出したい気持ちはずっと持っていてくれてます」
「そういうのを、身の程知らずと言うのだ。自分たちに勝ち目があるとでも思ってるのかね?」
「彼はきっと私たちを救い出してくれる。卑劣なあんたたちなんかに負けるもんですか。彼は絶対にテレパシー進化を起こそうと思い続けているわ」
理沙がそう言うとカークスはようやく治り始めた理沙の小指をペンチで掴んだ。
「キャアアアー」
「ふん、そういう危険な思想を持ち続ける以上、我々としても厳重に監視しないわけにはいかないんだよ。わかるな? コンサートはいつだ?
それともやっぱりあの妻の電気ショックダンスが見たいか?」
そのように脅されてしまっては、理沙はコンサートの日時を教えるしかなかった。
つづく
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