改訂版ドルフィン・ジャンプの13 フルブリーチ

2023年2月25日

改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です

ドルフィン表紙


 

  13 フルブリーチ

 近くで誰かが語りかけてくる。
 肩を揺すられ瞼を開くと、視界いっぱいに黄金と橙を溶かした眩しさが広がった。
「ルーク、コーヒーが入ったわよ」
 逆光の中で女性が微笑んでいるのがぼんやりと映る。 
「ターバンをチェックしてから来てね」
 ルークは一瞬何のことかわからなかったが、頭の中で寝ぼけている意識を叩き起こして、自分がクルーザーにいること、発信機の電波を遮断するためアルミホイルのターバンをしていること、明け方の夢を思い出した。

 空は東から濃い橙に染まり、たなびく雲を割って赤い太陽が顔を覗かせ、海面には黄金の光が乱舞している。 
 デッキの手すりにハルバート博士とカノンと理沙が並んでもたれていた。
 ルークはハルバート博士とカノンの間に入って「おはよう」と声をかける。 
「ルーク、おはよう」
「お兄さんは眠れた?」
「ぐっすりだよ。それで明け方マックスの夢を見たんだ」
 カノンが声を上げた。
「すご~い! マックスはなんて言ってた?」
「う~ん、悪いことが起きるけど、いいことがあるとか」
「それ、きっとテレパシーだよ、ルークも初めてのテレパシーが出来たね」
「でもあれじゃあ意味がわからないよ」
 カノンはふてくされるルークにふふっと笑った。

 その時、ハルバート博士が叫んだ。
「あそこ、鯨だよ!」
 博士の指さす海面に黒い影がよぎった。
 次の瞬間、15メートルほど先にホーッと音を立て噴水が上がり、霧のように広がる。
「こんなに近くで鯨の潮を見たのは初めてだ!」 
 ルークが騒ぐとハルバート博士は「グッモーニン」と鯨に挨拶する。 
「おはよう」  
「おはよう」  
 ルーク、カノン、理沙も博士に続けて鯨に挨拶を送った。 
 鯨はしばらく海面に浮かぶと、全身を沈めかかり、姿を消すと思われた瞬間、海上に垂直に尾びれを立てる。  
「あの鯨、昨夜の鯨かな?」
 博士はその光景を眺めたまま答える。  
「うむ、その可能性もあるね」
 鯨はカクテルグラスのように優雅なシルエットの尾びれを皆に見せつけると静かに水中に沈んだ。  
「今、潜ったから、フルブリーチングもしばらくおあずけだな」
「フルブリーチって?」 
 カノンが尋ねると、ハルバート博士は手のひらを水平にして説明してくれた。
「この手のひらが鯨で手首は尾、指先は頭だとする。鯨がこうして海中で尾を振って、水を蹴り反動で頭を海上に突き出す」
 ハルバート博士は指を上にそらせた。
「そして、さらに伸び上がって、背泳ぎのスタートみたいな姿勢で反り返り、背中で海面を叩く特殊な行動なんだ。その時……、」
 博士の掌がひっくりかえった。
「体重70トンの巨大な鯨でも全身が、一瞬、宙に浮くんだ。それはもの凄いよ。
 私が初めてフルブリーチを見たのは、今から27年も前だが、鯨の力強さと、空中に現れた全身を眺めた感動には鳥肌が立った」
 ハルバート博士の瞳は眼鏡の奥で子供のようにきらめいた。 
 そこへエリザベスが現れて口を開いた。
「私も24年前、初めて、フルブリーチングを見てすごく感動したわ」 
 エリザベスが思い出すように言うと、博士は手すりを掴んで喋りはじめる。
「大学二年の夏、僕はカリフォルニア、メキシコと旅行してね。その時、ザトウ鯨に出会いフルブリーチを見た瞬間、こりゃなんてすごいんだって感激してしまったんだよ。
 あの巨大な鯨が宙に浮くってことは人間が宇宙遊泳するより大変に違いない。そしてこの感動を追究してゆくことには深い意義があると直感したね。 
 そこでそれまで専攻していた経営学をやめて生物学部に入り直し、鯨、そしてイルカの研究を始めたわけだ。
 クジラ目は進化の系統樹を遡れば、人間の祖先が陸に上がった後に海に戻った兄弟であり、水中で最も進化した知的生物なんだから……と、最初はそう考えていたんだ」
 博士はルークたちを振り向いた。ルーク、カノン、理沙はハルバートの言葉の続きに耳を欹てた。
「しかし、最近、進化論は否定されてきてる。ダーウィンの言う選択や適応によって動物が進化したというのはどうやら嘘なんだ」
 理沙はびっくりして聞き返した。
「進化論は嘘なんですか?」
「ああ。元々キリスト教徒は以前から人間が動物の延長だという考え方を受け入れない傾向があったんだが、最近の否定は純粋に学問的な否定だ。ひとつには全動物種の9割と人類は10万から20万年前に同時に出現したと考えられること。ひとつには進化論が真実なら必ず生まれる筈の種と種の中間状態の化石が全く見つからないこと。これに対して進化論支持者は全く反論できていない」
 理沙はなるほどと頷いた。
「私は鯨やイルカを知性の高い動物とみなす感受性には何か悪い意図がある気がした。そこに隠れているのは、知性のない生物は支配していいんだという発想であり、鯨やイルカは知性を持っていても絶対に人類よりは下だという思い上がりだ。
 その発想は愚かで野蛮だろう。 
 いっそ、こう言った方がいい。鯨やイルカは人類が生きるのとは全く違う場所である海に最適化された地球人なんだ、さらにコミュニケーション能力にもすぐれている地球人であり、我々の狭い心を開いてくれる同胞であるんだ」
 ルークは博士を見つめ返した。博士はまた海を見つめる。
「人類は陸に残り、道具を使い外敵を支配しようとした。それだけじゃない。人間は民族毎に違う言葉で話し出した」
 そこでカノンが手を上げた。
「あ、それ神話にもあります。バベルの塔」
「うん、そうだね。更にある部族が土地を囲いここは自分のものだと宣言して他人を追い出した。追い出された部族もこっちは俺のものだと宣言して相手を入れなくなった。やがて他人の土地に便利なところを見つけると自分の土地にしようという気持ちが起きて、遂に人間同士の争いが始まった」
 博士が言うとカノンが興奮した様子で叫んだ。
「そうか、そこから戦争が始まったんだ」
 博士が微笑を浮かべて聞き返した。
「どうしたんだい?」
「私、戦争って大嫌いだからいつも無くなればいいのにって思ってたけど、始まりの原因がそういうことだってわかれば、戦争を無くす方法も誰かが考えつくんじゃないかと思ったの」
「誰かって誰だい?」
「えーと、それはたぶん頭が良くて演説の上手な政治家かな」
 博士は眼鏡をちょっと持ち上げて頷いた。
「なるほど。でもこんなに長い歴史の中で誰も具体的に戦争を無くせなかった。いや誰もがその課題を最初からあきらめてしまってるように見える。でも戦争を無くしたい強い気持ちがあるならそれをカノンちゃんがやってみたらどうかな?」
 博士が話を向けるとカノンは驚きのあまりプッと噴き出した。
「えーっ、そんなの絶対無理だよ。誰も中学生の意見なんかまともに聞かないよ」
 博士はカノンをじっと見詰めて言った。
「やってみなきゃわからないさ。それにカノンちゃんにはテレパシーがあるじゃないか。テレパシーのすごいところは言葉の違う相手でも通じるってところだ。実際、カノンちゃんはイルカとも鯨とも話が出来た、素晴らしいよね。
 皆にテレパシーを教えてそれが広まったらバベルの塔が解決して言葉の壁がなくなる。そこでカノンちゃんが呼びかけるんだ。そしたら人々は実は皆がわかり合えるんだって気づく。そうやって絶対に無理だと思われてきた課題の解決方法をカノンちゃんが提案できるんだ。
 戦争を無くすのは政治家ではなくてテレパシーの出来るキミだよ」
 ハルバート博士がまるで預言のように断言するとカノンは「そんなあ」と言いながら頬を赤く染めた。
「もしチャンスがあればチャレンジしてごらん」
 博士が言うとカノンは黙って瞬いた。
「さて、話を戻そう。人類に対して海で暮らす鯨やイルカたちは強力な外敵がいなかったし、食べるのにも地上ほど困らなかったから、海を囲ったり物を所有するという発想はしなかった。だから道具も武器も持たないし、戦争もしない。共同体の子供はみんなで協力して育てて自然と調和してゆく文明に進んだ。
 一部の人間は彼らに文明がないと考えてるが大きな間違いだ。彼らが互いにコミュニケートし共同体のシステムを運営してるからにはそれは立派な文明と言える。
 まず陸の地球人である人間は海の地球人である鯨やイルカと対等な生物なんだと認識を改めるところから始めなければいけない。
 そのうえで陸の地球人の文明が行き詰まってる現在、我々は海の地球人である鯨やイルカたちの文明をもっと学ぶべきなんだよ。もし宇宙人がこの星を観察したら、陸の地球人と海の地球人のどちらの文明に未来の可能性を感じるだろうか?」
 ルーク、カノン、理沙は深く頷いた。 
「私たち人間は、物質にしがみついて滅亡の危険だらけの道を歩むのか、鯨やイルカたちに学んで共生する文明に進化するか、とても重要な分岐点に来てるように思う」
 ハルバート博士はそう言って締めくくった。

 ルークは明るさを増してくる空を眺めた。そして理沙にきちんと謝らなければと思い、いつどんな風に謝ろうかと考えながら理沙を視界の隅で捉え続けた。

「そろそろ来そうね」 
 エリザベスがおもむろに言うと博士が苦笑して言った。 
「ルーク、彼女の勘は不思議なほど当たるんだ。どうも、こういう勘の世界では我々男は女性に勝ち目はなさそうだよ」  

 まもなく20メートルほど先の海上にまた鯨の黒っぽい影が現れた。 
 二頭目の鯨は海面からやや深いところでとどまっている。  
 と思われた次の瞬間、ザーと海面が小山が出来るように盛り上がった。
 続いて鯨の頭が少し海から突き出た。
 それは海面から80度くらいの角度で少しずつ空を突き刺すようだ。 
 ハルバート博士が叫ぶ。  
「ヘイ、カモン!」  

 鯨は5メートルも頭を宙に持ち上げると、さらに伸びながら上体を後ろに反らした。 それは水泳の背泳ぎがスタートする瞬間のスローモーションが始まるようだ。
 鯨の体が雄大に回転してゆくさまを、ルークはコマ送りの連続写真を写すように瞳に焼き付けた。 
 その瞬間、鯨の70トンもの巨体が殆ど宙に浮かんでいた。
 そして、70トンの巨体はそのまま反らした背中全体で海面を叩く。
 ドバァーンと爆発のような音が響く。
 その激しい音は、意識の深い底で忘れられていた扉をノックし、眩ゆい光の世界が開かれてゆくようだ。 
 大きな波しぶきが鯨を包むと、彼は海の中へと消えた。
 海面に残された波が起伏をどんどん広げてゆき、クルーザーまで大きく揺れ出した。
 その揺れの中でなんともいえない余韻が続いてゆく。

 ルークは新たな感動を噛みしめた。 

 この星で最も巨大な生き物が、その巨大さゆえに増す重力が下へ下へと引き落とす力を振り切って、宙に飛び出てきて回転したのだ。
 それはどこか胸を熱くする光景で誰もがしばらく声が出なかった。 
 余波に揺れるクルーザーの中で、パチパチと拍手が起きる。 
 振り向いたルークとハルバート夫妻は瞳を潤ませてさかんに手を打っているカノンと理沙に頷き合わせるように拍手を始めた。 

つづく