怪盗三日月とかぐや姫

2022年1月15日

更新状況 2022年 1月15日 第三章を投稿 最新章リンク ←クリックでGO

※登場人物が実在人物と同名でも内容はフィクションになります 

かぐや表紙

目次
起 空海参内
第一章 怪盗三日月
第二章 怖れぬ目
第三章 怪盗の恋心
第四章 怪盗の妻問い

 

 起 空海参内

 弘仁十一年(820年)十月、高雄山寺にあった空海は嵯峨天皇より急なお召しを受けた。

 空海は若き頃、虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほうを修して常人の十倍百倍の理解力と記憶力を得た上に、奇跡の運命を引き寄せて遣唐使に選ばれ、最晩年を迎えていた密教継承者恵果阿闍梨けいかあじゃりの口伝を受けることが叶った。恵果の方も空海の非凡な資質を見抜くと並みいる弟子を差しおいて留学僧の空海に阿闍梨の地位を継承させ、遺言でその成果を日本に持ち帰ることを許したのだった。
 しかし大同元年(806年)10月に唐から帰国した空海は、20年の留学期間を2年で切り上げたことを訝しむ官僚達によって入京を許されず、大同四年(809年)になってようやく入京を許された。

 いざ朝廷に呼び出されてみれば、知識、法力とも並ぶものなく、そのうえ詩書にも明るく筆も立つため、書を好む嵯峨天皇にたちまち気に入られ重用され、まもなく官寺の別当に任ぜられて頭角を現した。さらに大同五年(810年)薬子の変で騒然となった国情を鎮護国家の祈祷で落ち着かせて嵯峨天皇の信頼を盤石にした。

 以来、帝は大事な仏教修法が必要な時は、まず空海に命じるようになっていた。
 今回はどのような用であろうかと空海は考えながら、唐で口伝された密教の占法で用件を探ったが、鎮護国家の徴も、病気祓伏の徴も出ない。
「このたびは気楽な用じゃ」
 空海は従者に言ってのんびりとした心地で宮中に参内した。

 しかし、紫辰殿に上がった空海は、昼の御座所の前ではなく、奥の御寝所の傍らに通された。
「おお、別当、よく参ったな」
 齢三十を過ぎたばかりの帝は嬉しそうに言い、身を起こすと御簾を巻き上げさせた。賢しそうな目はすっきりとして病の気配は見えないようだ。
 ひとまわり年長の空海は畏って言上する。
「これはこれは。
 予め占を立てた時は病の気配は見えませなんだゆえ、驚きました」
「別当、さすがであるの。
 まわりがうるさいゆえこうして隠れておるが、格別病などではないのだ。
 他でもない、別当もあのかぐや姫のこと、よもや忘れはしまい?」
「はい、天子様によく似たお方に得手でもない恋文の指南を命じられましたゆえ」

 空海が言うと帝は笑みを洩らした。何しろそのために昨年、空海は勅命によって内裏の中務省に居住させられて、嵯峨天皇から迦具夜かぐや姫に送る恋文の指南を命じられ、今日も返事は来ないか今日も来ないかと待ったのであった。
 さすがの空海も色恋沙汰に勅命で付き合わされるのは阿漕あこぎなことだと感じてたが、これも愚かな恋にも清浄なる菩薩の境地を見い出せという理趣経の導きなのであろうと諦観したのだった。

「うむ。どうも、あの姫が月に帰ってしもうて以来、朕は食が細り気味で、何もする気が起きぬでな。
 いかなる縁あってか皇子に生まれつき、今日まで恋の実らぬことなく、産ませた子も手足の指の数より多いこの身だか、かぐや姫のおかげてようやく恋に悲しむことを覚え、美しい面影に涙する毎日なのだ……」
「お察しいたします」
「そこでこう思い立ったのだ、
 かの姫のこと、どうせ忘れようとして忘れられぬことならば、誰ぞにいい加減な噂を広めらられる前に、先手を取って、書き残しておきたいものだとな。
 それも形式張った記録ではなく、いかなる噂にも乗じられる隙のない、美しい話として残したいのだ」
「なるほど」
「姫に心寄せた者も多いが、それらの者だち皆の慰みにもなるような物語を残して、後世まで伝えたい」
「なかなかの思いつきでございます」
「そこで、唐土の高僧すら舌を巻かせたそちの文才を頼みたいと思うがどうだ?」
「手前の拙文でよろしければ」
 空海が承知すると帝は頷いてさらに付け加えた。
「ただし、くれぐれも朕の名は出してくれるな。
 美しい話にうつつの名は興が醒める。既に公の記録からもかぐや姫のことは削らせてある。
 書き手が別当であることも悟られぬようにせよ。
 そうじゃ、女房どもの好く仮名書きにするがよい。
 出来上がったものも、内裏へ奉るには及ばない。
 どこぞ朕の耳の届きそうなところへ流してくれればそれでよいのだ」
「承知いたしました」
 空海は平伏して御寝所から下がった。

 橘の植え込み脇の渡り廊下を歩きなから、空海はさてどのように話を組立てようかと思案した。
 袖の内の数珠をつまぐり半眼にした空海の瞼にあの怪盗の容貌か浮かんだ。
 できることならおぬしの話を取り入れてやりたいが、そうなると読み手や当事者に全てを明かさねは収まりがつかなくなる。
 ここはやはりおぬしの事はおくびにも匂わせず、吐蕃とばんの『斑竹姑娘』や我が国の竹取伝説、天女伝説、富士伝説をからめて夢物語のごとく書くしかあるまいな。
 低く垂れこめる雲を見上げた空海はそう決めながらも、かえって心の内に、あの怪盗とかぐや姫の恋物語を、想像も届かぬ仔細に渡って、ああであったであろうか、こうであったであろうかと様ざまに想い巡らしてゆくのであった。

 

第一章 怪盗三日月

 
 
 大同4年(809年)、唐から帰国した空海が入京を許されずに和泉国に滞在してた頃、大きな屋敷が盗賊団に襲われた事があった。
 何人かが殺され、金品が奪われ、馬が奪われた。その馬の世話係だった上背のある若い馬子が居なくなった。名を広忠といい、力はあるのだが手加減ということが出来ない欠点があった。事件後いつまでも戻らぬため、屋敷では恐ろしくなって逃げたのだろうと考え忘れ去られてしまった。

 それから半年ほどしてから三日月の晩に限って、都に凶悪な怪盗が出没するようになった。何度か犯行が重なってくると人々も気付いて役人が三日月の晩には見回りに出るようになったのだが、これがなかなか捕まらない。

 この怪盗三日月、六尺に届こうかという上背があるうえ、荒くれ男の図太い腕をもへし折る怪力、大きな牛を一撃のもとに殴り倒す拳、馬を追いかければ馬の方が根負けする強靭な脚力をすべて合わせ持つ怪物であった。
 そのうえ、強盗の手口も残忍を極めた。
 堂々と家に乗り込むと、立ち向かう家人の命を蚊のごとくに潰し、腰を抜かした女に酌をさせて、鉄の堅牢な錠前を力任せに抉じ開け、金品を選んで持ち去るのだ。
 家筋などはおよそわからぬが、押し入った時に、誰何されて「ひろただ」と答えたので生き残りから名が伝わった。そして人々は彼を怪盗三日月あるいは三日月広忠と呼んで恐れたのである。
 被害が重なると朝廷も威信にかけて怪盗三日月追捕の命を発し、懸命の市中見回りと近郊捜索を重ねたが、広忠は発見されても嘲笑うように捕り方を振り切り、どうしても補まらなかった。

 そのようなある三日月の晩のこと、
 広忠は、朝廷でも有力派閥に属する右大臣の屋敷に侵入した。
 いや侵入などという、こそこそしたものではない。
 広忠は憶病な貝のごとく閉じらている正門を平手で鼓のごとく叩いた。
 突然響き渡る、聞いたこともない音に門番は驚いた。
「何者じゃ?」
 すると広忠はにやりと笑みを浮かべて、
「三日月追捕の探索である、この門を開けよ」
 と堂々と偽りを叫んだ。

 門番は少しだけ門を開いて聞く。
「怪盗三日月が出たのか?」
「そうとも。今、お主の目にしてる俺が怪盗三日月広忠じゃ」
 目の合った門番に声を上げさせる暇も与えず、広忠は門番の喉をひと突きにすると、悠然と敷地に入った。
 
 広忠は太刀を片手にぶらさげ、堂々と寝殿造りの正殿の内に上がり込んだ。
「お楽しみじゃのう」
 そう声をかけられた、酒を飲んでいた右大臣と客人は、誰だろうかと酔いにかすむ目をしばたたかせた。
 ようやく抜き身の太刀に気がついた時には命運は極まっていた。
 一瞬、ヒェッと声にならぬ声が上がったかと思うと客人の狩衣から血が染み出した。
 客人が前のめりに倒れると同時に、広忠の眼尻に寄った黒光りが右大臣に定まる。

「ひ、怪盗三日月じゃあ、出やれ」
 床を這うように逃げてゆく右大臣の声は情けなくかすれていたが、脇の板戸が開いて三人の武者が飛び出してきた。もちろんまだ武士という職分はないが、権勢を競う貴族は警備の者を雇っていた。 

 しかし、三人の武者を前にしても広忠は血の滴る刀を片手にぶらりと持つだけで構えもしない。
 武者の一人が「ヤー」と叫んで斬りかかる。
 と、広忠の刀がビュンと風切り音を立て、瞬間、かん高い音が響き、鋼がぶつかる火花が光るや、武者の太刀はあさっての方角に吹っ飛ぶ。
 次の瞬間、武者は床に広がり出した血の海に蛸のように手足を広げた。

 広忠が血走った目で睨みつけると、残る二人はほとんど戦意を失っている。
 中でも一人は股間から脹脛にかけて漏らし小便で袴を染めている。
「そ、それ、二人でかかれ」
 右大臣が言うと、もう一人の武者が半ば白棄になって突っかかった。
 しかし、広忠はこれをサッとかわして相手の脇腹を突き返した。
 そして、刃のこぼれてきた己の刀を捨て、武者の無傷の太刀を奪い取る。
 そして振り向くや、逃げ出しにかかっている漏らし武者をダッと追って戸口の手前で斬り殺した。

 またたく間に、用心棒の武者を始末した広忠は右大臣に向き直った。
 右大臣はなぜかまだ酒の瓶子をしっかり手に握ったまま腰を抜かして、顔を真っ青にしている。
 広忠は右大臣の手から酒の瓶子を取り上げると野太い声で命令した。
「やい、主、飯を用意しろ」
「わ、わかった、誰ぞ、飯じや。早う、飯じゃ」
 ちょうど物音に様子を伺いに来た家司は、切追した主の声と姿に出くわし「たっ、ただいま」と叫び、どたどたと走り去った。

 広忠は瓶子にそのまま口をつけ酒を飲み干すと、右大臣に尋ねる。
「姫はあっちか?」
 大臣は恐怖の底から声を奮い立たせて懇願した。
「そればかりは許してくりょ。金は幾らでもやるに」
「ほほお、よい心掛けじゃな」
 広忠は笑った。

「聞いてくれるか?」
 藁にもすがる心地の右大臣が喜びかけた。
 が、広忠はあっさりと大臣の期待を裏切る。
「だが金の前に、姫を抱きたいんじゃ」
 広忠が対屋に渡ろうとするのに大臣はすがりつく。
「のう、姫だけは許してくりょ。
 姫よりよい女をいくらでも世話するに。
 お願いじゃ、姫は東宮と縁談を進めている最中なんじゃ」
 右大臣はどうやら出世の種大事さに必死のようだが、広忠が心変わりする様子はない。
 広忠は斬るのも面倒で「うるさい」と右大臣を渡り廊下から蹴落とした。

 対屋に入ると姫は侍女二人と何やら夢中で喋り合っていてなかなか広忠に気付かなかった。
「女、相手しろ」
 広忠が床に太刀を投げ出して言うと、ようやく三人は踏みつけられた猫のような悲鳴を上げた。
 広忠は耳を裂く声に少しも構わず、一番いい着物を着ていた姫をつかまえるとニ藍ふたあおいうちぎとその下の単と袴を剥ぎ取り、裸にして己の胸に抱きかかえるとそのまま胡坐をかいて座った。
 全裸となった姫はぶるぶると震えながら、やっとの思いで言う。
「い、命ばかりはお助けくだされ」
「ふふ、怖いか? もっと震えろ」
 広忠のあまりの恐ろしさに姫は素直に素直に「はい」と返事した。恐怖から全身に走る震えは命令されずとも止まる気配はない。
「俺が嫌いか?」
 さすがに姫は素直にうなづけず涙目でかぶりを振る。
「わしはおなごは殺しはせぬことにしとる。
 言うてみろ、わしが嫌いだと、命令だ」
 姫は仕方なく気の進まぬまま小さく答える。
「嫌いじゃ」
「鬼のようだろ?」
「鬼のようじゃ」
「わっははは」
 広忠は、己が恐怖の的であるということを確かめると豪快に笑った。
「それでよい、そうこなくてはのう」

 まもなく飯が運び込まれてきた。
 広忠は震えてむせび泣く全裸の姫を膝に乗せて酌をさせると食事にかかった。

 その夜の広忠はいつにも増して大胆だった。しかし、そうまで悠然とされれば、いかに足の遅いお上でも間に合う。
 衛府の中将は今宵こそ威信回復と意気込み、盗賊一人に戦並みの大人数三百人を率いて大臣の屋敷を取り囲んだ。
 食事に満腹した広忠は、姫の震える膝を枕に敷いてのんびり酒を飲んでいた。

 そこへ、突然、四方の戸板が破られ、三十人ほどの武者がなだれ込み、あっという間に姫を引き離して、広忠に縄をかけてぐるぐる巻きにする。
 追捕の宣旨を読み上げる中将を、広忠は片目で一瞥すると鼻から息を抜いた。
「ふん」
「広忠、おぬしの悪運も尽きたな」
 中将は勝ち誇ったが、広忠は眠そうな声で「酒を邪魔されてはの」と呟き、背の後ろで縛られていた手に力を入れると、手首の縄が千切れた。
「まったく気分が悪いわ」
 そう言うと、今度は胸を巻いていた縄を糸のごとく引き千切った。
「お、おのれ」
 武者の一人が振りかかる刀を、広忠は徳利で受けて、その武者の手を逆にねじった。
 さらに、広忠は武者を軽々と人形のように持ち上げたかと思うと中将に投げつけ、中将はその場に倒れ込んだ。
 同じように次々に斬りつけてくる武者も人形のように他の武者に投げつけて、またたくまに部屋中に倒されてた武者とその呻き声で満たされた。

「ふぁあーあ」
 広忠は対屋から悠々と歩み出て大きな欠伸をした。
 庭で待機していた鎧姿の武者達ほ、まるで何事もなかったように現れて胸を掻いている広忠に唖然となった。
 捕り方は息を呑んで、誰も飛びかかれない。
 そこで、広忠は袴の紐を緩めると己れの一物を取り出し、しばらく虫の音と競うように小便の音を立てた。
「おのれ、我等をなめおって」
 一人が叫んで斬りかかった。
 酔いで動きの鈍くなっていた広忠は刀を避けきれず、音もなく右腕に傷口かぱっくり開いた。
 しかし、斬りつけた武者がやったと思えた時は殆どなかった。
 すぐに、広忠の凄まじい睨みに震え上がったのだ。
「小便してる者に斬りつけるとは卑怯だの」
 広忠は袴の紐を結び直すと、次の瞬間、左腕で武士の大刀を奪い、鎧の上から胸と腹をまっぷたつに斬り離した。
 怯える武者どもを睨み渡した広忠は、やにわに猛烈な勢いで走り出した。
 もはや、闘志の萎えかけた武者はあろうことか身を引いて、広忠に道を開けてしまう。
 広忠はあっという間に塀によじ登り、向こう側に飛び降りた。

「何をしてる、追え、追うのだ!」
 ようやくのことで対屋から這い出てきた中将が声を張り上げると、武者たちは我に返ったように、再び広忠を追いかけ出した。
 広忠は着物の袖を裂くと右腕の傷に簡単に巻きつけ、それから、西へひと晩、ひと昼、走りづめ、山を幾つか越えた。

 

第二章 怖れぬ目

 
 
 丹波の山麓集落にある家で、美しい姫が胸騒ぎに目覚めて襟を押さえ体を起こした。

 その家は丹波地方の元郡司が建てた家で、今 はその母系の老夫婦が住まいしていた。
 姫は膝立ちに蔀戸に近寄り、上半分を引き入れて上げる。
 すると、蔀戸の外には竹林が広がり、その上に楕円の月が輝いている。
 姫は巾着袋を開き、揃えた両手程の大きく丸い鏡を取り出した。
 その鏡の微妙な凹面は光を集めるに優れ、紙燭の僅かな光でも大きな篝火の明かりのように眩ゆく反射することができた。
 姫は室に差し込む月光を受けて眩しく光る鏡面をそっと眺めた。
 

 その時、戸板を怪力でたわませて家に入り込んだ広忠は、土間で水甕を見つけると傷を負った右手で柄杓を持って、乱れた息を潰すようにごっくごっくと水を飲んだ。
 そして一息つくや広忠は今度は鍋の中を調べた。
 なにしろまる一日何も口に入れていなかったから、腹は敷物の毛皮のごとく潰れている。
 鍋の中に煮物の冷めた残りを見つけた広忠は、鍋に口をつけて頭を反らせ、手で残り物を喉にかき込んだ。
 すっかり平らげて指をしゃぶると、次は鉢の中から妙り豆を見つけて口に詰め込み、詰め込み噛み砕く。
 そうしてるうち、置き方がまずかったらしく、鍋がずり落ち、それが甕に当たりかん高い音が響いた。

 すると、奥の室から澄んだ細い声が間いかけてきた。
「父上?母上?」

 広忠は一瞬、腰に差した太刀に手をやり、すぐに戻した。
 広忠のねぐらにしている洞穴はあとひと山だ。ここで騒ぎを起こすと、ねぐらまで探索の手が迫るかもしれない。いくら怪力の広忠でも寝る時は無防備だから、万が一そこに踏み込まれるのは面倒だ。
 広忠はこの女は脅して静かにさせようと決めた。
 姫は眺めていた鏡を床に置いて、白い汗袗かざみの上に、萌黄もえぎあこめを羽織って戸口に歩み寄る。
 広忠は戸口のすぐ外にそっと忍び寄り身構えた。
 姫は土間に降りようと戸を開けた。

 瞬間、待ち構えていた広忠は体当りするように姫を部屋の中に押し戻した。

 部屋の中は月光を反射する鏡のせいで意外に明るい。
 広忠は右手で素早く姫の口を塞ぎつつ、左手で姫の腹を押さえた格好のまま、数瞬、姫と目を合わせた。
 あまりに突然で怯える間がなかったのだろうか、姫は目を凝らして顎の輪郭を髭が縁取るいかつい広忠の顔をじっと見詰めている。
 何か言おうとして広忠に押さえられている唇を動かしてみたが、それも止めた。
 広忠はじっと見返してくる恐怖心のない美しい瞳と、手のひらにある柔らかな唇の感触に、不思議とどぎまぎした。
 そして妙に高揚した気分になり、広忠も手を引いて姫を見詰めた。
 僻村にはおよそ不釣り合いな姫の麗しさに驚いた点もあるかもしれない。
 しかし、それはまことの理由ではない。
 広忠は初めてだったのだ、自分を恐怖以外の目で見つめる女に出会ったのが。
 だから、この女は一体どういうつもりかと姫を見詰めたのだ。
 それは端から見たら、奇妙な光景であったろう。
 真夜中、美しい姫と、腰に刀をぶらさげた凶悪怪盗が見詰め合ったまま、黙り込んでいるのである。

 やがて、広忠は思い出したように「声を立てるな」と囁いて、姫の首をつかみ、刀を抜いてかざした。
 すると姫は小声で言う。
「その刀をおしまいください。
 益荒男ますらお手弱女たおやめに刀を向けたとあってはのちのち笑い草となりましょう。
 決して騒ぎませぬから下げてくださいませ」
 うんと一瞬、姫の言葉に危うく頷きそうになったが、広忠は小娘の口車に乗せられなめられては、と思い直し、姫の口を再び強く塞いだ。
 そうされながらも姫はしっかと広忠を見詰め返してくる。
 やはり恐怖を帯びた目ではないのだ。
 姫の澄んだ目だけで、広忠は胸の奥底をかき回されるように感じ始めていた。

「な、なんだ、その目は……、お、俺が怖くないのか?」
 姫の命を掌中に握っているはずの怪盗が、逆にまるで問い詰められているかのように小声で聞き返した。
「では、怖い方なのですか?」
 姫も囁いて聞くと、広忠も囁いて答える。
「お、おう、ひと目でわかるだろうが」

「申し訳ありません、怖い方は初めてなのです」
 姫がそう謝って、広忠の角張った顎を縁取るぼうぼうの髭や、汗の滲んだ高い鼻を見詰めていると、広忠は切れ長の下の、よく見るとつぶらな瞳を苛立たしそうに動かし小声で叱った。
「人の面をじろじろ見るんじゃねえ」
 姫は、いかつい男が恥ずかしがる風情がおかしくて笑みを洩らしそうになったが、さすがにそれは本気の怒りに遭うと悟り、すぐに噛み潰した。

 広忠は姫をじっと睨んで小さい声で脅す。
「いいか、やがて追っ手が来よう。
 おそらく家の者は叩き起こされ、お前も何かひとつふたつ聞かれるやもしれん。
 しかし俺のことは一言も喋ってはならねえ。
 手振りで示してもいけねえ。
 もしおかしな真似をしたらお前も家族も皆殺しだ」
 声は小さいが、すっかり凶悪な色に染まっている広忠の言葉に、ようやく姫も恐怖をひしひしと感じた。
「断っておくが、俺は追っ手が恐くてこんなことを言うんじゃねえ。
 今日はもういささか人殺しに飽いてしまっての。
 そこで、ここは静かにやりすごそうと決めたんじゃ。
 だが、お前が騒ぐ気を起こすなら、またひと暴れするまでのことだ」
 広忠が脅して睨むと、姫は黙って頷いた。

    ◇

 まもなく広忠の言った通り、たくさんの馬の脚音といななき、そして武具が甲冑にすれる音が響き、家の門が激しく叩かれた。

 広忠は姫を睨んで「よいな」と念を押し、姫のお気に入りの蘇芳すおう帳子かたびらが掛かっている几帳きちょうの陰に隠れて太刀を構えた。

 武者の声が響く。
「ここを開けよ」
 さらに、追捕の中将が自ら大声で怒鳴った。
「お上の命により探索をしておる衛門の中将惟匡である」
「何の御用でございます?」
 離れの小屋から飛び出た下男が戸を開けながら尋ねると、武者の掲げる松明の中から中将が大雑把に説明して聞かせる。
「都を騒がす怪盗三日月がこのあたりに逃げ込んでおるやもしれん、変わりないか?」
「はい、静かにございます」
「うむ、主人に問いたいゆえ案内いたせ」

 下男が家の戸口を叩くと主人が戸口に現れた。
「怪盗の探索をしておる衛門の中将惟匡である」
「これはお役目ご苦労さまにございます」
 追捕の中将は松明に照らされた主人の顔色を仔細に見ながら言う。
「うむ、都を騒がす凶悪怪盗が逃げておるのだ。
 主、何か気のついたことはないか?」
「都の怪盗ですか?
 ここは坂道が多いゆえ都から二日かかりますが」
 主人は不思議そうに言うが、中将が説明して聞かせる。
「並みの足の男ではないのだ。
 馬と駆け比べしても、ばてぬ男なのだ」
「はあ、それはそれは」
「それだけでない。
 とんでもない凶悪な大男でのう、怪力をいいことに、今日だけで十数人もひとを殺めておるのじゃ」
 中将が言うと主人は絶句した。
「……なんとまあ、恐ろしい」
「それらしき姿を見たり、足音を聞いたりせなんだか?」
「いいえ、手前はいっこうに」
「そうか。主の他に家族はいるか?」
「あそこに控えてますのが手前の女房です」
 主人が振り返って言うと、中将は板間に控える女に尋ねる。
「どうだ、お前は怪しい者は見なかったか?」
「いいえ、そのような大男は見かけませんでした」
「家族はこれきりか?」

「あとは奥の部屋に娘が寝てるきりです」
「うむ、姫にも答えてもらおう」
 中将が主人に姫の室の戸を開けるように言うと、几帳の陰の広忠は、息を止めて五感と剣先に神経を張りつめた。
「姫よ、起きただろう。
 お役人様の質問に返事を申し上げなさい」
 主人はそう言いながら姫の室に近寄り戸を開くと、紙燭の炎の光がこぼれ出て揺れた。

 姫は扇で顔を隠して「はい」と返事した。
 中将が尋ねる。
「夜分、済まぬな、凶悪な怪盗が逃げておるのじゃ。
 怪しい音や姿なぞ見かけなんだか?」
 几帳の陰の広忠は、いつでも飛び出し、斬りつける心構えで、耳をそばだてた。
 すると、姫は落ち着いた声で、
「部屋より一歩も出ませんでしたので、生憎とそれらしき姿も音も」と答えた。
 中将はうなづいて言う。
「くれぐれも気をつけられよ」
 広忠は緊張を解いて太刀を下ろした。

「怪盗が捕らえられるまで外を出歩かない方がよいだろう」
 中将は主にそう言い残して立ち去った。

 それから、几帳の陰の広忠は、追っ手の一行が集落から完全に遠ざかるのを待つことにしたのだが、さすがの広忠も山越えを重ねた疲労には勝てないと見え、やがて眠気の波状攻勢に上体を揺らし始めた。
 次第に揺れは大きくなり、しまいに広忠は上体を板敷きの床に倒して眠り込んでしまったのだった。

    ◇

 広忠が目を開けると既に蔀戸が上げられ外は明るみ始めていた。
「目が覚めましたか」
 女の囁く声に、はっとして上半身を起こした広忠は、すぐ傍らで徴笑んでいる姫を見つけ一瞬、息を呑む。
 姫も顔を隠そうとしてもう遅いと気付き思いとどまった。
 透けるような白い肌と艶々とした大きな瞳の姫は、広忠が今まで目にしたどの姫より美しく輝いていた。

 姫から目をそらした広忠は白分が姫の家に忍び込んだまま寝入ってしまったことに思い至り、己れの体にかけられている良い匂いの表衣を眺めてふうと安堵の溜め息を吐く。
 さらに右腕の傷を縛っていた汚い布が絹に替えられているのにも気付く。

「どうしてだ?」
 広忠が右腕を見たまま呟くように聞くと、姫は小声で、
「何がです?」
 と聞き返した。
「何故、俺を密告しなかった?
 このようにされても気付かぬほど深く寝入ってる時なら、いかに間抜けな追っ手でも俺の寝首を捕らえることができたろうよ」
 姫ほ、ほほっと息を洩らして囁く。
「寝顔が童子のようにろうたげでしたゆえ、そなたが悪人であるのをすっかり忘れていました」
 そう言われた広忠は羞恥で額から首の付け根まで真っ赤になったが、不思議と荒々しく返す言葉は口から出なかった。
「まあ良いわ。俺も男だ、受けた恩は恩とはっきりさせておきたい。
 おんな、何か欲しいものかあれば言ってみろ。
 必ずくれてやろう」

 広忠が聞くと姫は聞き返した。
「必ずですか?」
「必ずじゃ」

 姫は囁いた。
「では悪事をお止めくださいませ」

 広忠はびっくりした。
「悪事は俺の天職じや、やめるわけにはいかわえ。
 そういうことではなく、何か形ある物にしろ」
 すると姫は言い聞かせる。
「生きてるうち悪事ばかり働いていては、死んでから地獄に落ちます。
 そして来世はよくても、蜥蜴、うつぼ、蝙蝠ぐらいにしか生まれないのですよ。
 そなたも人に生まれついた今こそ、良いことを成さねばならないのです」
 姫が真剣に論すと広忠は鼻から息を吹いて笑った。
「俺に説教とはお笑いだ、
 俺がどんな悪事を重ねてきたかたっぷり話してやろうか」
 しかし、広忠がすごんでも姫の態度はびくともしない。

 そればかりか言の葉を継ぐ。
「そなたにだって善いところがある筈です。
 生まれついての悪人などこの世におりませんから」
 姫が自信を込めて断言すると広忠は呆気に取られて口をぽかんと開いた。

 極悪非道とか冷酷無情と言われたことは今まで数限りなくあったが、善いところがあるなどと言われたのは生まれて初めてのことだ。
 そんなところがないことは己れが一番よく知っていたが、この姫に言われてみるとなにやら照れくさく、もしかしたら少しは……などと感じるから不思議なものだ。

「まったく、お前はおかしな女だな。
 まあ、よい。とにかく今度ごの家に通りかかることがあれぱ、お前に土産を持って来てやろう」

  
  

第三章 怪盗の恋心

 

 
 追捕の手を逃れた広忠は、姫の家からひと山越えた渓谷にある、ねぐらに戻った。
 ねぐらは、広忠が材木をかついで運び、大きめの洞窟いっぱいに柱を突き立て、戸板を無理やりはめ込み、力任せに造ったいびつな小屋だった。
 広忠が帰ると、奥にいた女がまるで亭主を迎えるように迎えた。
「広忠様、お帰りなさいまし。
 御苦労さまでございました」

 女は三流とはいえ貴族の家に生まれ、某大納言の屋敷で姫君に仕えていた侍女であった。
 半年前のある夜、その屋敷に広忠が強盗に入ったのだ。広忠に震えながら食事を出したところ「お前は飯が作れるか」と聞かれて「はい」と答えると、広忠が出て行く時に肩に担がれてさらわれ、この渓谷の小屋に連れて来られたのだ。

 最初に広忠に「この家から出てはならぬぞ、このあたりは飢えた熊が多い、肉の柔らかい女が歩くと食われるでな」と脅された。すると侍女は、たとえ広忠が数日留守にしても、自分から険しい渓谷を降りて逃げようとはしなかった。そもそも物心ついてからは自分で地面を歩かない人生なのだから逃げる考えも思い浮かばないのだ。
 さらわれた時、すでに侍女はもはやわが命も長いことあるまいと覚悟した。
 それでも少しでも長く生きる道だと信じて、広忠の怒りを買わぬよう、短気をうっかり刺さぬよう注意を払って、飯を作ったり、洗濯をしたり、時には気紛れな広忠の欲望に喜ぶ素振りを見せたりして、飯盛り侍女として仕えてきたのだ。

 今、帰った広忠を見ると、いつものような戦利品を携えてないばかりか、どうやら腕には布を巻いて傷まで負っている様子。
 さては追っ手に痛い目に遭わされたのかもしれぬ。
 半年の生活で広忠の性格を知りつくした侍女は、これはうかつに何があったのかなどと聞いては、かえって生命取りになりかねないと心得て、目をそらしたまま問いかける。
「手当てをすべき怪我はおありですか?」
 しかし、広忠は何も答えず、見向きもしない。
 怪我は大事ないとすれば後は飯の心配をした方がよかろう。
「広忠様、何か召し上がりますか?」
 やはり広忠は答えない。

 それでも、返事がないからと気を利かさずに料理を出さずにいて殴り飛ばされたことがあったのを思い出す。広忠に言わせると指で小突いただけだが、侍女は部屋の隅から隅まで宙を飛んだのだ。
 あんな恐ろしい思いはごめんだ。
 侍女はさっさとかまどの火をおこし干し肉と有りあわせの野菜で鍋を作り、酒と共に出してやる。

 すると、広忠は黙ったまま全部平らげた。
 全部食べたのだからもう文句はないだろうと侍女は安心した。

「もう少し御酒をいかがです?」
 侍女が言うと、広忠は黙って杯にしてる椀を持ち上げた。

 椀に酒を注いでやって侍女はかまどに立つと自分用に残しておいた飯を口にかき込んだ。
 まもなく広忠の元に戻るとどうしたことだろう。
 広忠は椀を酒を注いだ時の高さに持ったまま、沈んだ目をあらぬ方向に向けたまま黙り込んでいる。

 なんだろう、この悪党の目が死んでるようだわ、不気味だこと。
 侍女の心配をよそに、広忠は酒に口もつけず、さっさと横になり寝てしまった。

    ◇

 翌日から小止みなく細い雨が降り続いた。
 その間も広忠はおかしかった。
 雨の日にはよくある、気紛れに侍女を押し倒すこともせず、強盗にも狩りにも出掛けず、日がな一日、筵に寝そべって雨を眺めているのだ。
 かと思うと、突然に「あーあ」と大きな溜め息を洩らして、侍女を驚かせる。

 これはかつてないことだった。
 侍女にはどうしたらよいか、わかりかねた。

 侍女が食事の準備をしていると広忠は不意に「ろうたげとはどういう意味じゃ」と聞いた。
 ほっとするような言葉だったので侍女は嬉しくなって振り向いて答えた。
「それは例えば幼き子供らの愛らしいさまをでる意味でございましょう」
 だが広忠は顔をそらして答える。
「お前になど聞いておらんわ」
 急に不機嫌になる広忠に侍女は一体何がいけなかったのかと震え上がった。

 それでも飯の膳を出しながら「食い糧が残り少のうなってまいりました」とおそるおそる口に出すと、広忠は頷きもせず飯を平らげた。そして蓑をまとうと死んだような目つきのまま外へ出かけ、夜遅くに米の入った布袋ひとつと猪を一頭担いで帰ってきた。

    ◇

 ようやく雨がやみ、晴れ上がった。
 洞窟小屋の外に出た侍女は眩しい陽光を浴びて鳥たちのさえずりに微笑んだ。
 続いて小屋のすぐ外に置いてある大樽に十分な雨水が溜まっているのを確かめると、侍女は洗濯を思い立ち、右肘を枕に寝ている広忠に言った。
「今日は天気もよいし、その着物を洗濯いたします。
 広忠様、さあ、脱ぎなされ」
 汚れた狩衣を脱がせにかかると、広忠は素直に従って袖を抜かせた。

「その汚れた布も洗いましよう」
 侍女はそう言って広忠の右腕に巻かれた、茶に変色した布を外そうとした。
 すると、広忠は突然、雷の如く、鼓膜が裂けるほどの大声で怒鳴った。

「勝手に触るなっ!」

「お前のような醜女など要らん、
 とっとと失せろー」
 そう言って侍女を軽く突き飛ばした。
 侍女は突かれて骨にひびが入ったかもしれぬ胸を押さえて言い返す。

「ひどいです、そのように突然、失せろと言われても困ります。
 熊が巣をつくる険しい谷をおなごに降りられる筈はない、熊はおなごの柔らかい肉が好物なんじゃと言われたのは広忠様ですよ」
「うるさい、熊に会うたら食われるまででよいではないか」
「そんな言いようはあんまりです。今まで広忠様に尽くしてきましたのに」
 
「ふん、お前などあの姫に比べたらヤモリのような顔だわ」
 そこで侍女は容姿を侮辱されたことより、あの姫という言葉に一気に引きつけられた。
 どうやらこの一人山賊の大男が姫に恋したらしい。なるほど、このところずっと様子がおかしかったわけがわかった。しかし、こんな悪党の山賊の大男が姫に恋するなどこの世でもっとも望み薄の叶わぬ恋ではないか。そう思いついた侍女は今までの腹いせにからかいたくなった。
「まさか、広忠様、どこぞの姫に恋をされましたのか?」
 侍女がさりげなく問うと、広忠はまるで少年のように髭もじゃらの顔を赤らめた。
「ばかを言え」
「ほほっ、そう言いつつ、広忠様のお顔が真っ赤ですよ、恋されたのですね?」
 侍女は、けたけたと笑い出しもう止められなくなった。
 しかし広忠は照れ臭さで反撃も出来ずにいる。
「どこの姫です?」
 聞かれてなぜか広忠は真顔で答える。
「山ひとつ超えたところの姫じゃ。名前はわからん」
「広忠様のように恐ろしい強盗の髭もじゃらの大男に恋されて、嬉しやと身を任せる姫がおいでとお思いですか?」
「うるさい、わかっておる」
「いえいえ、わかっておりませぬ。このところ広忠様が吐き出すあの長い溜め息はいまだ恋に心を奪われておる証」
 そう言われて広忠は真顔で縋るように問うてくる。
「俺はどうすればよい」

 侍女はきっぱりと言ってやる。
「あきらめるしかありませぬ。広忠様は恐ろしき人殺しの悪党です、姫と恋が叶う道理なぞ、どこをどう逆さにしても出てまいりませぬ」
「ひどい言われようではないか」
「実際、貴方様はひどいです。私のお仕えしてた大納言家でも何人も殺めたのですから」
「女は殺してないぞ」
「女を見逃せばよいという道理ではありませぬ」
「いや、あの姫が俺に優しうしてくれたのは気がある証に違いないのだ。
 そうだ、お前、あの姫に送る和歌を作れ。出来るであろう。お前とて姫に仕えていたのだからな」
 侍女は素早く思慮して、仮に自分が作った歌で広忠が失恋したら自分のせいにされてしまうと気付いた。
「そんな恋の歌など作れません。女には女の歌しか出来ないのは当然の道理です」
「小さな違いは気にせず男からの和歌を作ればよいのだ」
「出来ません」

 広忠は急に語気を荒げた。
「お前、俺の命令が聞けぬというのか?」
 侍女は土下座して断る。
「どうぞそればかりはご勘弁ください」
 広忠の目に怒りがこもった。
「そのような役立たずは、この場で始末してやろう」
 広忠が部屋の隅に立てかけてあった太刀に手をかけると、侍女は「ひいーっ」と叫びを上げて、裸足のまま逃げ出した。

 広忠には追いかける気力もない。床に太刀を放り出し大きな溜め息をひとつ吐いた広忠は、右腕の汚れた布を撫でて、それを枕にまた横になった。

    ◇

 広忠は「はああ~」と情けない溜め息を吐いた。
 あの姫はこの国一番の怪力とうそぶいてきた広忠を打ち負かしそうな勢いだ。
 そいつはふとした瞬間に、広忠が喉の奥から溜め息を洩らしたが最後、どこからかするりと心の正面に可憐な水仙の花のように立ち現れて像を結び、柔らかな微笑みを投げかけ広忠の力を全て奪ってしまう。
 広忠は見えない鋼の糸で魂をかんじがらめに絡め取られたようになり、うっとりとそいつに見惚れる。長く黒い髪、白く透ける肌、艶やかな瞳、愛くるしい唇、そして暖かいいたわり。
 いや、そうではない。あの姫には、今までカづくでものにしてきた女達にはない、広忠を引きつける何かがあるのだ。何より不思議なのは、美しい容貌を細かいところまでくっきりと思い出せるのだが、そういう外見は実はあの女自身からすればたぶんどうでもよい部分なのだ。広忠はそのことを直感した。
 あの姫の実である部分はまったく外見と違う別の何かだということをしきりに感じるのだ。その正体不明のものが強烈に広忠を惹きつけるように思える。

「まったくわからん」
 広忠はあの姫が巻いてくれた絹布を撫でながら何度も溜め息を吐いた。

「まったくわからん」
 思い返してみると、あの家で姫に出食わした時から広忠はおかしかったのだ。
 騒がれなかったからよかったものの、姫を見た瞬間、広忠はすっかり見惚れてしまってしばらく声も出せなかった。
 だが、それはひと目惚れとは全く違っていた。
 広忠はあの時に待っていたのだ、あの姫の目に怖れが浮かび、顔じゅうの肌が強張る瞬間を。だがあの姫は自分に少しも怖れを見せなかった。
 だからあの瞬間から広忠はおかしくなってしまったのだ。
 そのうえ忍び込んだ家で騒ぎそうな女を殴りもせず、手篭めにもせず、果てはその脇で前後不覚に眠り込んでしまうという間抜けたことなど、以前の広忠には全く考えられないことであった。

「まったくわからん」
 広忠は、また姫の面影に向かってふうーと溜め息を洩らした。
 ふとあの姫を手篭めにすることを考えてみた広忠は慌ててその思い付きを払いのけた。
 今の広忠は己れの肉欲を満たすだけでは、この不思議な感情が満ち足りるとは思えなかった。もしそんなことになれば、さすがにあの姫も涙を流して広忠を罵るだろう。
 あの姫の涙、それは今や広忠がこの世でもっとも見たくないものとなっていた。そしてなぜ密告しなかったと問う広忠を「寝顔が童子のようにろうたげでしたゆえ」と答えた時の姫の微笑みこそ、広忠がこの世で一番欲しい宝なのだ。

 広忠は不意に悟った。
 かつては、女どもを怖がらせたり泣かせたりして面白がっていたが、実は広忠の心はそこにあるのではなかったのだ。自分を恐怖の相手ではなく、一人の男として正面から見据えてくれる女を探し求めていたのだ。だが、大きすぎる体といかつい顔がいつもそのかすかな期待を全て打ち砕いてきた。
 だが広忠はあの姫に出会ったのだ……広忠を怖れることを知らぬ姫。
 もしかしたら、あの姫こそが広忠の求めていた女なのかもしれぬ。
 そこで広忠は口に出してみた。

「わしは、あのおなごに惚れた」

 そう言って広忠は、ふふふっと一人で照れた。
 今、広忠の心は、男と女が真に心と心を通い合わせた時だけに掬える胸の奥底にある何かを、あの姫の輝く微笑とともに掴むことを熱烈に求めている。
 凶悪で知られた怪盗広忠も二十路を半ば過ぎて、ようやくまともな恋を知ったのである。

 広忠は、姫に美しい布でも贈って好いたことを告げようかと考え付いたが、姫の答えを考えると、わだわだと胸を震わせた。
 こちらが姫を好くのはよいとしても、あちらの美しい姫が凶悪な怪盗のこちらを好く筈はなかろう。それはさっき追い出した侍女も言ってた通りだ。

 密告こそしなかったが、「悪事をやめろ」と言い出す気の強そうな姫なのである。
 広忠を怖れはしない。だからといってそれは好いてるということではないだろう。
 
 いやしかし、俺の寝顔を「ろうたげ」と言うたな。それは少しは脈があるということではないのか? 脈があるからこそ告げ口せずにいてくれたのではないのか?
 かすかな希望を繋げて自分に都合の良い姫を思い浮かべるが、侍女の声がそれを打ち消す。広忠様は恐ろしき人殺しの悪党です、姫と恋が叶う道理なぞ、どこをどう逆さにしても出てまいりませぬ。
 それがまともな考えというものだ。

 きっと、広忠が口説いたら、その時こそあの姫は自分の嫌う気持ちを、はっきりと正直に言って寄こすに違いない。
 今の広忠には、それが何よりもたまらなく恐ろしいのだ。
 分厚い胸板の毛を掻き毟った広忠は、火にかけていた猪の丸焼きを持ち上げると渓谷の奥深く投げ飛ばした。
「うおおーっ」
 広忠は熊も怯えるような怒鳴り声を上げた。

 こんなわけで広忠は姫に言い寄る勇気はないものの、あの麗しい姿をひと目だけでも見たい気持ちは次第に昂まり、狩りや強盗仕事の合間にちょくちょく出掛けては生け垣越しに姫の部屋を覗いてみた。
 しかしなかなか姫の愛くるしい姿を拝むことはできない。
 姫を見れない代わりに、広忠と同じ目的の男たちが垣に張りついているのに出食わすことはあった。
 しかも、その男どもの数は次第に増えてゆくようなのだ。
 そんな折、広忠はこいつら叩き斬ってやろうかと荒ぶる気持ちを起こすのだが、一方で、いやいや、そんなことをして、もし姫に知れてしまったら、ますます嫌われてしまうぞと気付いて思いとどまり、そっと身を隠すのが常であった。

 

第四章 怪盗の妻問い

 
 
 ある晩の真夜中、寝つけない広忠が山の頂きに出てぼんやり虫の歌を聞いていると東の山並みにようやく月が昇り出た。半月であった。
 溜め息を洩らし、姫のことを想いながら月を眺めていると、昔、笑い飛ばした話にあったように、本当に半月が姫の横顔に見えてきた。
 広忠はむしょうに姫に逢いたくなった。
 己れのような野暮ったい悪人が恋を打ち明けたら気丈な姫は笑うかもしれない。さらにすがりついて口説こうとしたら、お前のような凶悪な化け物など嫌いに決まってますと断られるに違いない。
 その時は、太刀で自分の背を突いて胸を破り、そのまま姫の胸から背まで突き通して、二人串差しにして無理死にしよう。
 そんな凄まじいことも考えながら、広忠は盗み貯めてある美しい布地から五本ほどを背負うと姫の家に急いだ。

 広忠が姫の家の垣に近づくと、まだ帰らぬ男が一人立って生垣を覗いていた。
 広忠が近づいて、でかい手でその男の口を塞いで睨みつけた。
 月明かりの下で突然に髭ぼうぼうの大男に睨みつけられたらたまったものではない。
 広忠がその男の手を口に運んでやると、その男は自分の手で口を押さえたまま、走って逃げ出した。

 生垣から姫の部屋を覗くと、運よく蔀戸しとみどが開け放たれ、姫が空を眺めている。
 その黒髪の細やかな線を束ねて月光を宿す輝き、空を見上げる瞳の潤んだ艶やかさ、頬からうなじへかけた柔肌の仄かな目眩ゆさ……広忠は久しぶりに目にする姫の、追憶を裏切らない美しさに感激した。
 しかし、声をかける決心まではつかぬまま、もう少し近くで姫の姿を見ようと、広忠は音も立てずに生垣を飛び越えた。
 そして庭の植え込みのもとに潜んだ。

 不意に姫は目を閉じ、青竹色のあこめの袖から半分ばかり覗く白魚のような手を揃え合わせて何事か神仏に祈り始めた。
 微笑んでいる顔もよいが、真剣に祈る姿もまた凛々しい美しさがあった。広忠は仏像なんぞじっくり見たこともないが、女菩薩という仏像はきっと姫の祈る姿に似ているのだろうと思った。

 姫は合掌したまま、目を開いて呟く。
「まことに、あの盗賊は今頃どこにおるのでしょう。
 また悪事などはたらいておらねばよいが」
 広忠は姫の言葉に我が耳を疑った。
 このあたりは裕福な家もない山奥だ。そうそう盗賊が稼ぎに来るような土地とは思えない。とすると姫の言う盗賊とはこの広忠のことに違いない。
 ということはだ、姫はこの広忠の身を案じてくれているのだ。
 これは見込みがあるかもしれんぞ。

 込み上げる喜びに広忠は胸を熱くした。
 もちろん身を案じたからといって好いてるという話にはならないのだが、久しぶりに姫に会えただけで舞い上がり、自分を案じているというので、さらに舞い上がった広忠にはそんな理屈はどうでもよくなっていた。
 すぐ大声で返事をしてやろうかとも思ったが、それではきまりが悪いので、広忠は垣の外に一旦そっと跳ね出た。
 そうして、姫が和歌をひとつロずさんだ直後に、わざと大きな音を立てて飛び降りてみせた。

 姫はびっくりして身を引きかけたが、すかさず広忠が小声で言う。
「俺だ、この間の約束通り土産を持って来てやったぞ」
 そう言うと、姫は安堵して徴笑みを浮かべた。その微笑みに広忠は蕩けそうな幸せを感じた。
「ちょうどそなたが悪事をはたらいてないかと案じていたのですよ」
 姫にそう明かされ見詰められた広忠は嬉しさに赤くなりながら縁のすぐ際に近寄って言う。
「そのように案じられては、こっちの仕事にけちが付くじゃねえか」
「まあ、悪事がなんで仕事でしょうか、のちのち罰を受けるのは、よいですか、そなた御自身なのですよ」
 そう言われると広忠はむっとなったが、それは腹に納めて背中の荷物を開いてやる。
「少ないがちょいとした代物を持って来たぞ」
 広忠が布地を出すと、梔子くちなし色、東雲色しののめいろ撫子色なでしこいろ秘色ひそく勿忘草色わすれなぐさいろが川のように広がった。月明かりの下でもその布の色鮮やかなことはひと目でわかる。
 広忠はさぞかし喜ぶだろうと考えながら姫の様子を伺った。

 案の定、姫は「なんと素晴らしい……」と呟いた。
 だが、すぐ次に愛くるしい唇から発せられたのは広忠に対する非難の言葉だ。
「そなたは他人様からこのような高価なものを盗んで平気なのですか?」
 姫に睨まれると、広忠はうかつに地面に跳ね出てしまった鯉のようにあたふたと口を動かした。
「どうなのです?」
 姫に問い詰められた広忠は出任せを言った。
「あ、いや、これは盗んだものではない。そ、そう、都で買うたものじゃ」
「そうですか。
 ならば、絹を買った代金はどこで手に入れました?」
 姫にさらに問われると再び広忠は出任せを言うた。
「そ、それは、蒔絵などを売ってだな、金に換えたのだ」
 姫は頷いて問う。
「では、その蒔絵はどこで手に入れました?」
 広忠は焦りながら答える。
「そ、それはだ、そう、余ってる刀などを売ったのだ」
「では、その刀はいつどこで手に入れました?」
 姫がしつこく問い質すので、広忠は言い逃れをあきらめて開き直っだ。

「もうよい、ああ、たしかにその絹は盗んだものじゃ。
 そんな恐い顔をするな」
 姫は真正面から広忠を睨んでさらに詰問する。
「そなたは物を盗むだけでなく、もっとひどい、口に出すのも憚かられることをなすとか。あの夜、そなたを捕らえに来た役人が父上に申していたそうです」
「それは向かってくる者から身を守るためじや、好きでしておるのではないぞ」
 広忠の答えに姫は嘆く。
「そなたの親がそなたの悪事を知ったらなんと思われることでしょう。
 親の心を考えてみたことはないのですか?」
 その言葉は広忠の顔を斜に構えさせた。
「ふん、親など知ったことか。
 俺はな、生まれて間もなく、その親の手で川に流されたんじゃ。
 それがどういう運のめぐり合わせか川下で橋のたもとにひっかかり、線香臭い糞坊主に拾われて育ったんじゃ」
 広忠が身の上を明かすと姫は「えっ」と言ったきり絶句した。
「だからのう、俺には殺してやりたい親はいても、人並みに慕いたいような温かい親はいねえんだ」
 広忠はそう言って、唾を吐き捨てた。
 姫はあこめの袖を目元に運んだ。
「そなたには、そのような辛い出来事があったのですか」
 姫は広忠の身の上につまされて涙声になっていた。

 しかし、続く姫の言葉は意外なものだった。
「実は、かく申す私も捨て子なのです」
 姫がそう打ち明けると、今度は凶悪怪盗広忠もあっと息を呑んだ。
「ほ、本当かよ?」

「はい、先の都遷りの頃、長岡京の朱雀門すざくもんの脇に置かれていたそうです。
 その頃養父は郡代官をしており御用で、門の新京移築に来てたまたま見つけてくださったのです。
 養父は四十路になりながら、子供に恵まれずにおりましたから、私のことを神よりの授かりものと思いなし、喜んで引き取り育ててくださいました。
 その時、私の傍らには手鏡ひとつと、着物の内には砂金の袋もあったそうです」
 姫が言うと、広忠は愛しい姫の生い立ちにうなづいた。
「それはきっと高貴な奴が、訳ありで捨てたんだな」
「今は、この丹波の山に住んでおりますが、養父の先祖はもともとは讃岐の豪族の出でしたから、その流れの女神様の名を勿体なくも私につけてくださり、母様は私を我が子のように大事に育ててくださいました。
 おかげで、今は立派な殿からもいろいろとお誘いいただくのですが、呑気にかまえるたちの私は、まだどなたもお迎えしていないのです」
 通い婚の時代であるから、姫が家にこもっていても夫がいないとは限らない。今の姫の言葉で、広忠は安堵して喜んだ。
 だが、次に口をついたのはふてくされた言葉だ。
「なるほど、捨て子は捨て子でも、悪がきは悪の道、砂金持参の姫は姫の道、運命は変わらぬもんだな」
 姫は言う。
「親の顔を知らぬ捨て子という点では一緒ではないですか。それがどんなに寂しいことかは私たちにしかわからぬでしょう。その後はお寺で育ったのですか?」
 そう聞かれて広忠は話を継いだ。
「うん、まあな。だが糞坊主はやたらとわしに経文を教えたがるのだが、わしの耳は経文が大嫌いでな。そこで商人の家に奉公に出され馬の世話をしていたんじゃ。
 じゃが、その家に盗賊が入っての、体の大きいのが気に入られてわしは盗賊の仲間にさせられたのだ」
「わかりました。そなたの悪事は盗賊仲間にされて身についたもので、やはり元々は悪人ではないことがはっきりしました」
「それはどうだかわからん。ある時、馬が脚に怪我をしての、しばらく休ませれば治る怪我だったのでわしは親方にそう言うたのだ。するとわしは遠くに使いを頼まれてな。そうして帰ってみると馬の姿がなかった。聞いたら誰も教えてくれん。そこで気の弱そうな奴を問い詰めたら、みんなで食べてしまったと答えたのだ。わしは許せなくなりその一味を親方子分全員を殺して一人盗賊になったのだ」
 広忠が言うと、姫は頭を垂れて「なんということでしょう」と震え出し打ちひしがれた様子だった。

 広忠は姫には受け入れがたい話なのだと悟った。
 もしかしたら馬を殺して食べたあいつらが悪いと納得してくれるかと思っていたが、やはり嫌われたのだろう。
 しかしだからといって無理死にしようなどという気持ちはなぜか起きなかった。

「わしはこれからも悪党のまま悪事を重ねてゆくしかないようだな」
 広忠がそう言うと、姫が顔を上げた。
「そのような言い方はよくありません、
 運命の惨い仕打ちがそなたを悪の道に導いたので、本当のそなたの心根は清いのです。
 たとえ親の顔は知らなくても、そなたも悪事を慎み、ひたすら魂を磨けば必ずや尊い人物になれるのですよ」
 姫は涙声にカを込めて諭した。

 広忠は、さっきは姫が同じような身の上だと言うのを違うと言い切って姫と考えが噛み合わなくなったが、そこをうまく言い変えればよいとようやく頭がまわった。
「尊い人物なんぞなりたくもねえが、親を知らない姫とわしは、ほれ、なんだ、同じ穴の熊かもしれねえな」
「はあ?」
「いや、熊がいやなら同じ穴の狸でも、同じ穴の猫でもいいんだぞ」
「ほほ、面白いたとえですね」
 姫が笑うと、広忠は姫の心をとらえたように錯覚して、ここで一気に口説いててみようと決心した。
「ところで、あのだな」
 言い出して広忠は喉で息がもつれてしまった。
「ひ、姫に、ち、ちょいと尋ねたいことが、あ、あるんだが」

 突然、どもりながら切り出す広忠を、姫は何事かと見詰める。
「どんなことでございますか?」
「わ、わしが、ひ、姫のもとに、か、通うてはいかんか?
 わしが、ひ、姫のお、おっ、夫ではおかしいか?」
 広忠の突然の求婚に、姫は頬を仄かに染めた。
 姫はなにやら考えているのか、言葉を選んでるのかしばらく間が開いた。

 広忠は気が気でなくて「どうじゃ、どうじゃ」と催促する。
 ようやく口を開いた姫は答えるのではなく聞き返した。
「もし、断ったらどうされます?」
「その時はだ……」
 と息を詰めた途端に(その時は姫を道連れに串刺しにして死ぬまでだ)という脅し文句はとうに引っ込んでいて、代わって広忠がしたのはみっともない懇願だ。
「姫の考えが変わるまで通いつめるまでじゃ、
 なあ、俺の願いを聞き届けてくれ。
 そもそも顔を俺に隠さんということは、俺に気を許してるという意味ではないか、
 俺の妻となってくれえ」
 広忠は表情の微妙な変化のひとかけらでも見逃すまいとじいっと姫の顔を凝視めた。

 ふと風が気まぐれにやんで、しばらくの間、虫の声か高鳴るように響いた。

「よいでしょう」
 姫の声がすると、広忠は大きくまばたいて聞き返す。

「い、今、なんと言った?」
「よいと言いました、そなたの妻になりましょう」
 広忠は信じられない心地で聞き返す。
「ほ、ほんとうに?
 いやではないのか?」

「いやと言ってほしいのですか?」
 姫が悪戯に言うと、広忠は慌てた。
「だ、だ、だめじゃ、言い直したらいかん。姫はわしの妻になるのだ」
「ええ」
 姫は領き、「その代わり」と続けた。
「今後は悪いことをしないと約束してください。
 約束できないなら妻にはなれません」
 決然とした姫の言葉だったが、思いがけない奇蹟に広忠は狂喜しそうな勢いだ。
「姫が妻になってくれるなら是非約束したいが、体に染み付いた天職じゃ、なかなかきっぱりとは断ち切九ねえかもしれん。
 だが八百万の神に誓って、いつかはきっぱりと足を洗うから、当面はそれで許してくれねえか?」
 姫は広忠の答えに溜め息を洩らしてから頷いた。
「いつかとは甲斐性のない約束ですね。
 でも、そういう答え方がまた、そなたの正直さの顕われなのかもしれませんね」
 広忠は縁に上がり蔀戸を越えると、姫の袖を捉えて手を探った。
 探し当ててみると姫の細い手はかすかに震えている。
 しかし、次の瞬間、姫は広忠の腕の布に気付いて笑った。
「まあ、その腕の絹が真っ黒ではありませんか。そんなになるまでつけっ放しだったのですね」
「ああ、これか、これは利き腕だから自分ではうまく換えられん。姫にまた換えてもらおうと思ってのう」
「はい、わかりました」
「俺は広忠じゃ。姫の名は?」
 広忠が囁くと、姫は恥じらいながら答える。
「かぐやと申します」
「おう、かぐやか、よい名じゃ、よい名じゃ。
 俺は先日逢うて以来、かぐやの面影が忘れられず胸の焦げる思いだったぞ。
 こんな俺だが、かぐやにだけはやさしい心持ちになれるんじゃ、安心しろ」
 そう言って広忠かぐやの肩を抱き寄せたが、自分の力でかぐやの体がつぶれたり折れたりはせぬかと心配しながら少しずつ力を込めた。
 かぐやは過去に抱いたどんな女よりも柔らかい肌をしていた。最初その温もりは真夏の賀茂川の温さだったが、やがて焚火のように温度を上げて過去に抱いたどんな女よりも熱い肌になった。
 広忠は好き合った同士で肌を合わせるという初めての幸福に酔い痴れた。

 

つづく