八咫烏のタイムダイバー 公開済み全章

2021年5月12日

更新状況 2021年5月 8日 第9章を投稿
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八咫烏のタイムダイバー表紙

第1章 桜受家おうけけ秘巫女ひみこ旭子あきこ

 京都の南、とある神社の境内と隣接地にまたがる広大な敷地に地下要塞がある。
その存在は一般に知られる事はなく報道も絶対されない。ヒントを請われるなら、
歴史に詳しければ八咫烏やたがらすという言葉を耳にした事があるだろう。

 古事記の神話の神武東征絵図に描かれるのは神武軍を先導したとされる金鵄烏きんしからす
が、もちろん神話の修飾であって実際には三つの古代氏族である。

 それはスサノオから伝わる神刀布都御魂ふつのみたまをもたらした高倉下タカクラジ物部もののべ氏、出雲から
磯城登美しきとみ家を経て大和に入ってた賀茂氏、同じく出雲から大和に入ってた三輪氏
であった。

 そもそもこの神武東征の歯車を動かした大元は紀元前二百年前後に中国から渡来
した徐福であった。彼は秦の始皇帝を言葉巧みにそそのかして三千名の若い男女
と軍隊、技術陣を乗せた大船団を連ねて上陸したのだから日本史に痕跡を残さぬ
筈がない。ところが記紀には徐福の記述が見当たらない。歴史研究家や教育者は
正史を鵜呑みにせずに、まずこの点に疑問を持つべきであった。

 それもその筈、徐福は当初、火明ホアカリを名乗り出雲を乗っ取ろうとしたのだ。しかし出雲は日本で最も早く国家としての体裁を整えた大国で、軍隊も法規も完璧だったため徐福の手下により国王と副王を亡き者にされても権力継承が揺るがなかった。
 そこで徐福は出雲を当地で生まれ出雲族の血の入った五十猛イソタケに任せた。その後五十猛の子孫は出雲族と大和に進出し混血融和を進め物部氏となった。
 出雲から撤退した徐福は一転、饒速日ニギハヤヒ(故郷の饒安県から一字取った)と名乗って小国家乱立の九州を攻略した。
 こうして徐福は吉野ケ里に環濠を備えた防御力の高い巨大集落を形成、また現地の出雲族とも混血が進み筑紫物部氏の大勢力となって着実に覇権を広げたのだ。

 徐福なき後、力を蓄えたその子孫五瀬命いつせのみことと弟の神武(磐余彦命いはれひこのみこと)は大和を制覇すべく進軍するが、機内に上陸したところで体格に勝れた敵将長脛彦ながすねひこの弓矢に五瀬命が負傷落命してしまい迂回を余儀なくされた。
 だが敵対する両軍には血を遡れば徐福という共通祖先を持つ氏族が多数あった。これに早い時点で気付いて神武に通じた氏族が八咫烏という訳である。

 これが記紀における有名な場面、長脛彦が交渉の席で「私はずっと天神の御子にお仕えして来た。だが神武軍も天神の御子と言われる。天神の御子が二人もいるのはおかしい」と疑うと、神武が「それでは神具を見せよ」と返したところ、長脛彦が持って来たのは神武所有と全く同じ神具だったという種明かしに直結するのである。

 この視点を重視すれば、なぜ饒速日のした東征を神武が再度するのかという謎や、神武が応神や祟神と同一人物と考えられる謎や欠史の謎が氷解合点されるだろう。
 つまり、記紀には徐福=饒速日ニギハヤヒの子孫である神武を歴史の一番古い初代天皇に置こうという画策があり、神武に関する記述を応神や祟神、そして磯城しき王朝初代の天村雲あめのむらくもに分散させ、初代の天村雲を神武の名で上書きした。結果、記述の少ない磯城王朝の王たちは欠史八代などと酷評される事態になった訳である。


さて八咫烏であるが、より明確な形となったのは、聖武天皇の時代に藤原家に対抗するために制定された裏組織であり、天皇の駕籠を担いだり葬儀を行う八瀬童子やせどうじという実働部隊であった。さらに八咫烏ではいざ天皇に危害が及びそうな場合には寺社を使って安全に奈良吉野まで逃がすルートが決められていた。

 八咫烏は秘密組織として代々継承されていったのだが、その組織を維持するために独立した家を持たせず全ての構成員を結社の直属とした。
 南北朝で朝廷が分裂した時には八咫烏の四つの家も南北に分かれてそれぞれの朝廷に仕え、戦国時代でも天子様を守り抜く事が出来た。

 だが、江戸幕府後期になって幕府や朝廷が陰陽道や祭祀儀礼を軽視するようになると八咫烏は経済的な裏付けを失い勢いに陰りが見え、明治維新で薩長が権力を握ると表立った動きが出来なくなり、地下の秘密結社としてしか生きる術がなくなった。

 当然のことながら極めて閉鎖的な社会を営んでいたわけだが、近親婚ばかりでは組織が廃れてしまうから、地方に分家を分散して新たな血を取り込む事も行われた。
 こうして明治までに本家筋四家と地方分家筋十二家に分かれて皇室の財産を運用し、その利益で会社を設立運営し、国家の殖産興業を手伝ってきた。

さらに太平洋戦争になると、防空壕を掘るという大義名分も得て八咫烏は地下に大きな住居を構えるようになった。さらに本土決戦の様相を見せるに至って、それは国体護持のゲリラ基地として大規模化、地下要塞化したのであった。

 京都の南にあるのは本家筋のひとつ南朝派桜受家おうけけで、古の天皇から桜の苗を賜ったのを機に家名を変えたものだ。そこの当主は代々棒頭ぼうがしらと名乗る男が継いでいた。また八咫烏結社の構成員達は明治維新になっても苗字を与えられなかったのだが、次第に商業活動が活発化し一般と交流が増えるようになると不便となり、桜受家では独自の方式を採用した。それは外世間で苗字として通用してる苗字を名前につけるというものだ。
 例えば赤ん坊は鈴木と名付けられ成長して外の世界と交渉する場合にも、いちいち偽の苗字を作るという面倒をしなくて済むし、突っ込んでお名前はと尋ねられたら個人的に用意していた、例えば権太郎を使って答えればよいわけだ。

 本家筋の棒頭は表向きの当主なのは間違いないが、実際の指図は秘巫女ひみこと呼ばれる巫女頭にお伺いを立てるのが古くからの掟で、結局、どこの八咫烏結社でも権力は秘巫女が握っているという点が共通している。
 桜受家当代の秘巫女は旭子あきこという四十代後半の、しかし外見はもっと若く三十歳そこそこに見える美しい女性である。

 桜受家の地下最下層三十階には秘巫女の仕事場である祈祷広間があった。中央に白木で組まれた大きな階段があり上からは光が差し込んでくる。それは地上から鏡を屈折する工夫で万が一の敵の侵入を避けながら届けられた太陽の光であり、階段の中腹に座した大きなご神鏡が輝いている。
 その広間の左側には彩やかな屏風絵の貼られた襖で仕切られた十五畳ほどの部屋があり天子様の御座所とされていた。また右側には障子で仕切られた十五畳ほどの部屋があり秘巫女の通常の居室になっている。

 そこへ突然、
「旭子さま~」

 部下の巫女二人、壬生野みぶの古相寺こしょうじが擦り足で足音を消すのも忘れて板敷の広間をパタパタと駆け寄って来ると旭子は眉間に皺を寄せて叱った。

「なんです、神前ですよ、二人揃ってお行儀が悪い」
 巫女たちは肩で息をしながら報告する。
「申し訳ありません。しかし一大事なのです」
「三本がすごい情報を入手したのです」
 この桜受家で三本というのは八咫烏の足から名付けられた現場実動員及び特務員を指す綽名だ。もちろん今やこの地下最下層までネット回線網に接続しているが、特務員からの報告は暗号帳を用いてアナログ電話で送られて来るため、壬生野と古相寺はベルで呼び出され送話管のある部屋まで移動し地下二階の連絡係から報告を聞いてきたところだ。

 旭子が「一大事?」と緊張した声で尋ねる。
 巫女服にはミスマッチな筈の眼鏡が妙に似合う壬生野が説明する。
「はい、C205型重力歪曲時間転移装置の搭乗コード端末の設計図が手に入ったのです」
 旭子は一瞬、あっと口を開き、喜びがアドレナリンと共に上昇するのを感じた。
前々から米国に潜入させていた特務員にいくつかの情報や機械を盗むように指示を出していたのだが、そのひとつがタイムマシンへの搭乗コード端末である。

C205型は伝説のジョン・タイターの使ったマシンC204型重力歪曲時間転移装置の改修機であり設計図は既に入手して機械自体は境内の庭に物置小屋に偽装して完成していた。前型機では特異エリアに入れば誰でも転送できたり、また搭乗者を見失うという欠点があったため、新型機では宇宙のどこにいても遅延なく量子コンピューターと同期できる搭乗コード端末により搭乗員を管理するように改修されたのである。

「それはそれは、よくぞ成し遂げましたね。しかし、一大事というのは天子様に何かある、または何かあった時に使う言葉ですよ、きちんと使い方をわきまえなさい」
「はい、旭子様」

「それで三本は無事なの?」
 訊かれて今度は背の高い古相寺が答えた。
「はい、逃げる時に腕を骨折して銃弾二発を腹部に受けましたが高度医療回復装置で回復できる傷です」
「感状を書いてあげましょうかね」
「ええ、きっと彼、喜びます」
「貴方たちもチョコレートでお祝いしましょう」
旭子の声に壬生野が声を上げる。
「やったぁ、あの苦くないのでお願いします」
 セキュリティーの観点から地上との自由頻繁な往来は出来ない。それを許してたら菓子を買うため巫女たちが入れ替わり立ち替わり地上のコンビニ等に出入りして結社の存在が露見してしまうのは明白だからだ。そのため地下では日持ちの悪いケーキ類は滅多に食べられない。その代わり保存の効く袋菓子やチョコレートは各種集まって来る。
 巫女の壬生野が苦くないのと言ったのは、ストイックな旭子が松果体の覚醒維持のためにカカオ90%のチョコばかりストックしてるのを知っているからだ。

「これからが大変です。三本の精鋭をタイムマシンで送り込まなければなりません。優秀な特務員のリストを見せてもらいますよ」
 旭子が次々と口にチョコレートを運んでいる巫女たちに指示を出した。
 そこでいつもタイムトラベルしたいと言ってた壬生野が売り込んだ。
「私ならケネディー大統領の演説会場に行ったり暗殺された現場に行き、真実を報告出来ます。旭子様、現場で特務員の連絡調整するためにも私の派遣が必要かと思います」
 なにしろ学生時代は毎日図書館で歴史書に没頭していたという壬生野はその頃からタイムマシンが出来たらジョン・F・ケネディーに会いに行きたいというのが口癖だった。
 しかし旭子の返事は冷たい。
「当時の写真を分析するとどうやら未来から取材に来た人間が既に映り込んでいるようです。しかし、私はそんな観光目的に三本や貴方を送るつもりはありません」
「か、観光だなんて」
「ちょっと言い過ぎましたね。しかしもっと大事な事案があるのです」
 壬生野がしょげ返ると古相寺が聞き返した。
「前にもタイムマシンができたら何を目的にされるかお聞きした時、まだ秘密とお答えになりました。でももう教えていただかなくてはなりません、その目的に合う人選をしなければならないわけですし」

 旭子はひとつ息を吸うと、遠い向こうを直視する目になった。

「私はあの戦争を許せないのです。
戦争である以上民間人も少しは巻き込まれる事もあります。しかし、戦時中にあっても穏やかに暮らしていた民、悪の道に足を一歩も踏み入れた事もない、なんの罪もない、無辜なる二十万余の民が一瞬にして生命を断ち切られたのです」
 旭子は原爆病院にいる被爆者の意識を読んでみたことがあった。当日は朝7時9分に空襲警報があったがまもなく解除されいつもと変わりない日常を過ごしていた。多くが卓袱台を囲んでの朝食、もしくはそれが終わった頃合いで家族で笑い合う声もあった。
と、突然、まばゆい閃光が差し込み、それから突風の衝撃が引き戸や壁を粉々にして吹き飛ばした。たまたま奥の台所に立っていた女性はつぶれた家屋から這い出した。卓袱台を囲んでいた家族は火傷は部分的だったもののすでに息をしてなかった。

「このような事……、許されると思いますか?」
 旭子が赤く染まった顔で憤怒をぶつけてくると、巫女達は恐れおののいた。

「旭子様の仰る通りです」
 旭子は扇子を握り怒りを堪えるとそっと溜め息を吐いてがらりと口調を整えて巫女達に問いかけた。
「さてタイムマシンをどう使ったらよいとあなた達は考えます?」
 古相寺が考えながら口を開く。
「つまり過去に行って原爆を止めるために行動するということですよね。ならば原爆を開発した科学者に非人道的だと訴えて手を引かせるのはどうですか?」
「うーん、当時、日本人は憎まれ、収容所に送られてる状況ですから、米国内で日本人が開発者たちに調略工作するのは難しいでしょう」
「ではアメリカ合衆国で一番の権力を持った者に心変わりさせるのはどうですか……」
「権力というものは利権や利害が絡み合ってますからね、原爆に関する決定を覆すのはなかなか簡単ではなさそうね」
「では逆に日本が先に原爆を開発したら逆転できませんか?」
「日本には物資がないから、ウランがある程度まとまった量が必要ですし、他にも遠心分離機など高度な技術が必要ですから、難しそうね。ドイツからUボートでウランを運ぼうとした計画も実行されたけれど途中で撃沈されてしまったと聞きます」
「旭子様には何か策がおありですか?」
 古相寺が聞くと旭子は小さく息を吐いた。

「いいえ。本体の設計図を手に入れた時から考えてますが、まだ、これという策はありません。歴史記録を紐解いて、そこから使えるものがないか知恵を絞っているところですが、伊号第58潜水艦をどう動かしてもテニヤン港に到着する前にインディアナポリスを撃沈させることは出来ぬようなのです」
 古相寺は「見せて下さい」と言って旭子の大型タブレットを手に取った。

「インディアナポリスというのは何です?」

 壬生野が尋ねると旭子は頷く。
「米国の重巡洋艦で、原爆の部品を西海岸からテニヤンという日本攻撃の拠点に運んだのです。これが荷揚げする前に撃沈できれば原爆投下は大きく遅れる筈です」
「なるほど」
「史実ではテニヤンに原爆を荷揚げした後、マニラに向かうインディアナポリスを7月30日に伊号第58潜水艦が撃沈したのですが、これを荷揚げ前までに早める事が出来なさそうなのです」

 するとしばらくタブレットであれこれ検索していた古相寺が、突然、自分は天才だと言わんばかりに「わかったー」と叫んだ。

「じゃあ別の潜水艦に攻撃させればよいのです」
「近くに動員出来る潜水艦などないですよ」
「ほら、ここ。1月に伊号第12潜水艦が沈没してます。これを使うのです」
 旭子が溜め息を吐いて言った。
「あなた、おあほね、沈んだ潜水艦を引き揚げるのにどれほど資材と人員がいると思ってるのですか?」
「ですから撃沈されないコースを事前に特務員が通信しておくんです」
「戦争中の潜水艦は滅多に浮上しないものらしいからうまく出来るかしらね」
「きっと通信のタイミングがありますよ。そこで水上偵察機で特務員を浮上地点に運んで参謀将校として乗り込ませインディアナポリス撃沈の極秘任務を発令するのです」
 古相寺が自説をぶち上げると旭子も「ほお」と言って目を輝かせた。

慌てて壬生野が問題点を指摘する。

「待って下さい、撃沈は7月なんですから半年も後ですよ」
「たっぷり訓練が出来ます」
 壬生野が突っ込む。
「それまでの燃料や食料はどうするつもり?」
「燃料は近くに昭和の桜受家の特務員や連絡員がいるかもしれません。食料は魚を釣れば良いでしょう」
「魚を釣ればって、あんたねえ、ゲームじゃないのよ」
 壬生野の困惑に古相寺が両こぶしを握りしめて言う。
「私達の特務員を信じましょう」

そこで旭子が古相寺に質問する。

「その後はどうするつもり?」
「えっ、その後……ですか?」
古相寺の目が泳いだ。

「一回阻止したとしても、米国の資源は莫大ですからいずれまた原爆を作って投下しようとするでしょう。次は警備も厳重となり同じ攻撃は難しくなりますよ」
「そうですね、どうしましょう?」
 古相寺が途方に暮れると旭子が言った。

「表の天子様たる裕仁様に今回はわが桜受家の働きで原爆を止めたが次は阻止できないぞ。一刻も早く降伏せよと説得すればよいのです」

「なるほど、さすがは旭子様です。壬生野も張り切るでしょう」
「いえ、この作戦はお前のひらめきが冴えておったので、裕仁様の説得もお前が行ってしてきなさい」
 古相寺は一瞬、眩暈がした。
「わ、私は現場に向いてません。いつも旭子様のすぐ前、出来れば旭子様の後ろに隠れていたいタイプなのです。朝は低血圧気味ですし現場なんてとてもとても。格闘訓練も殆ど受けてませんし」
「お前に潜水艦に乗れというわけではないから大丈夫です」
「だって戻れないかもしれませんよ。そしたら知らない人ばかりの世界で死んでしまうかもしれません。そんなの嫌です」

「ふ、中学生みたいなこと言わないの」
 旭子は古相寺を笑い飛ばした。
「明日の午後までに作戦に投入できる特務員のリストをまとめておいてください。現在潜入中でも重要でないCランク以下の作戦なら呼び戻して参加させる前提でリストをお願いしますよ」
 古相寺は(待って下さい)(私は向いてません)(説得するなんて無理です)と盛んに反論を並べ立てるが、旭子は天井から流れる琴の音のボリュームを上げて取り合わなかった。

第2章 古相寺こしょうじさんの大事件

「あ~あ、なんで私が行くの~? タイムマシンなんてヤやわ~~」

 クリーム系のタートルネックセーターにジーンズという平凡な私服の古相寺はソファーで手と足を同時に上下に振り揺すり喚いている。
「旭子様が決めたんですから、しょうがないではありませんか」
キッチンから壬生野みぶのが声をかけた。

 ここは八咫烏やたがらす結社桜受おうけ家の地下三十階建ての本部内地下九階にある居住区だ。
太陽光がドライエリアにしか入らない点を除くと普通のマンションの若者向け1Kと変わらないが、今はもう秋の夜七時なので外は暗い。
巫女の勤務を終えた二人は本部内にあるコンビニで弁当を買って今、壬生野の部屋で食べ終えたところだ。地上コンビニチェーンの揚げ物ばかりの弁当と違い、本部内食堂に勤める栄養士のお母さん達が作ってくれる和定食なので美味しいだけでなく健康志向で安心できる。
トレイにカップと紅茶ポットを乗せた壬生野がゆっくりとした足取りで進み、ソファーの隣に座ると、古相寺は足を引き寄せてソファーの上で体育座りになる。
「しょうがなくない~っ」

 壬生野はポットを持ちふたつのカップに注いでやる。香りが湯気とともに立ち上がり二人にささやかな癒しをもたらす。
「美穂、どおぞっ」
美穂は古相寺が小学校に通う時に自分で決めた名前だ。桜受家では全ての民が桜受家に直属なので強いて言えば桜受古相寺が姓名にあたるが、桜受の名を秘した古相寺に自分で美穂と名を加えたと考えてもらってもよい。壬生野がその名を呼んでカップをテーブルの古相寺側に置いて淡いピンクの縁どりの眼鏡をすっと指で上げると、古相寺は「ありがとー」と言って両手で包むように持ち上げた。

「だけど私なんかじゃ茜に申し訳ないよ」
茜というのが壬生野自身が名付けた名前である。
「いいんだよ、私は」
「よくないって、ずっと茜はタイムマシンに乗りたがってたじゃない、たしか中学生ぐらいから言ってたよね」
すると壬生野はちょっと首を傾げて訂正を入れる。
「タイムマシンに乗りたいて言い出したのは小学校五年からかな。ケネディーに会いたいて思ったのは中学二年だけど」
普通に聞いてればあり得ない話だが、結社の娘達は社会常識の洗脳や決めつけから自由な面があるのだ。
「そんなタイムマシンに熱い茜を差し置いてさ、巫女として一番出来の悪いアタシが派遣されるなんておかしいっしょ?」
壬生野はうっかり素直に頷きかけて「うっうううん」と首を横に振った。縦に動きかけてたのを急に横に振ったせいか首が痛い。
「そっんなことないよ、美穂ちゃんはよくやってるよ」
(慌ててフォローしちゃった、あざとくてばれたかな)
壬生野は紅茶を飲みながらちらっと古相寺を盗み見たが、どうやら気付いてないようだ。
(鈍感だなあ、でもそのおおらかなとこが美穂の長所なんだよね。羨ましい、ビビリな私に半分、わけてくんないかな)
と思いながら壬生野は高校2年1月に起きた神咒式術しんじゅしきじゅつ実践講座の時の古相寺の大失敗を思い出す。

   ○

 あれは二人が高校二年の冬。
結社の巫女は神社でお守りを物販してるようなバイト巫女とは全く違う。時には結社を守るため、時には天子様を守るため、最近では陰謀による人工地震から国を守るために、霊的結界を張ったり、敵の結界を解いたりと様々な神咒式術を駆使し実行しなければならないから真剣そのものなのだ。
そのため中学生ぐらいで結社の女子は揃って巫女の基礎教育を受け、三年かけて選抜されて素質のある者は高校入学と並行して正式の巫女修行が始まる。じゃあ男子が楽でいいかというとそうはいかない、男子は男子で結社を守るために武闘術の厳しい訓練を受けなければならない。その中から素質のある者が特務員にスカウトされる点も同じだ。

 さて、そんな巫女修行の中でも高度な術に入る 十種 神宝 神咒とくさのかむだからしんじゅ というものがある。
これは正式に行えば死んだ者を甦らす事も出来るという霊験すさまじい式術だ。
ただ必要な十種の神具を揃えるのが大変で、瀛都鏡おきつかがみ、邊都鏡へつかがみ、八握剣やつかのつるぎ、生玉いくたま、死反玉まかるがえしのたま、足玉たるたま、道反玉みちかえしのたま、蛇比禮おろちのひれ、蜂比禮はちのひれ、品品物比禮くさぐさもののひれ、これらにひとつひとつに魂を入れ、さらに死んだ者の魂を召喚して神咒を正しく唱え聞かせなければならない。

 この式術を伝授出来るのは桜受家でも数名しかいないが、引退してる巫女や先代の秘巫女の手を煩わせるのは心苦しいし、旭子も最新の巫女候補の様子を把握しておきたい気持ちがあった。
そこで今日は旭子が助手の巫女橋口を伴い、直々にきらびやかな秘巫女の正式衣装で講師にやって来ているのだ。
もちろん結社の娘たちにとって秘巫女はなれるものならばなってみたいという憧れの存在ではある。しかし、それが実習の先生で自分に評価が下されるとなると、ほとんどの生徒たちは憧れよりも緊張と恐怖でガチガチになってしまっていた。

 講師の旭子が魂を入れた十種の神具を並べたテーブルに、名札をつけたジャージ姿の生徒が一人、甦らせる対象のハムスターを乗せたトレイを持って来る。ハムスターを甦らせるといってもたかが結社講義でいちいちハムスターを死なせていてはむしろ教育的に問題があるので、死なせたものではなく冬眠させてあるハムスターを使う。
そこで生徒は指で秘伝の印形を作り、暗記してきた神咒を唱えてハムスターの霊を呼び覚まし、さらに神具からの霊力を作用させるという実習だ。

 ハムスターはうつ伏せで、まるで死んでるかのようにぴくりとも動かない。
「では壬生野さん、始めなさい」
旭子に促された壬生野は「はい」と返事して指を覚えた形に組み、覚えた神咒を唱え出す。指に力が入りすぎて合わせた指の表面が白くなってゆき、眼鏡が立ち昇る息で曇ってゆく。

 神咒のポイントは一般に簡略版が知られたひふみの正式な数詞で、『一二三四五六七八九十瓊音ひふみよいむなやことにのおと 布留部由良由良ふるべゆらゆらと 由良加之奉ゆらかしたてまつる 』にあり、これを正しい古代の発音で唱えられた時、神霊界の神具の玉がゆらゆらと揺れては互いに当たり合い弾き合う、なんとも言われぬ美しく凛々たる旋律を奏でて死者の魂をこの世の体に引きずり込み瞼を開かせるのだ。

 壬生野は次第に神咒を大きな声で唱え続けた。
由良由良ゆらゆらはらひ 由礼由礼ゆれゆれはら
比礼比礼ひれひれきよめ 比良比良ひらひらきよめよ」
すると突然に、
ハムスターはぶるっと身震いし、つぶってた目をパッと開いた。

 ハムスターの神経に見えない小さな雷が落ちて血流が堰を切ったように活発化したのだろうか。聞き耳をしっかりと立てたハムスターはつぶらな瞳で周囲を見回すとひげをもたげてちょろちょろと動き出した。

 ワーッ! すごい!
見物してた生徒たちから歓声が上がり拍手が起こる。
実は旭子も後ろでこっそり念を送ってやるので間違いなく神咒を唱えられれば確実にハムスターは冬眠から覚醒するのだ。

「おめでとう、見事でしたよ」
秘巫女の旭子が褒めると壬生野はポーと上気した頬で礼を言いお辞儀する。
旭子は頷いて受け止める。今回の式術はいわば冬眠覚醒用の簡易版だ。本当に死者を蘇らせる式術の全てはまだ教えるわけにはいかない。しかし、このように成功体験を与えてやったことでこの子らも自信を持つであろう。子供にはそれが何より大切なのだ。

「時間はどう?」
旭子が聞くと助手の巫女橋口は「13分21秒です」と答えた。
「10分を切ったのは菊高さん一人だけね」
旭子のつぶやきを聞いて菊高麗子はふふと微笑んだ。隣の同級生達が褒めそやす。
「麗子さんは先代の秘巫女さまの姪やから当然といえば当然やわ」
「うちも旭子さまの次の秘巫女は麗子さんで決まりやと思うとるよ」
菊高は傾げた頬を手で支えて照れて見せる。
「やだ、困りますわ、まだ正式な巫女になる前からそんなプレッシャーかけられては」

 次の生徒は古相寺だった。どのクラスにも一人はいる、順番を逃げて逃げて一番最後にまわってしまうタイプ、それが古相寺だ。
古相寺はトレイにうつ伏せになったまま動かないハムスターをじっと見詰めていた。その目には本気で心配してるような真剣さが浮かんでいる。
(美穂、がんばって)
壬生野が古相寺の横顔に無言の声援を送った。

「では古相寺さん、始めなさい」
「はい」
旭子に促されて古相寺も指を決められた形に組み、ゆっくりと神咒を唱え出す。
見物している生徒と助手橋口は古相寺の式術が10分を切れるか注目していたが、ハムスターはぬいぐるみのようにじっとしている。
やがて生徒たちの間に沈黙のうなずきが広まった。
(やっぱり10分は切れなかったね)(ま、そうなりますわ)

 古相寺の神咒を唱える声は次第に小さくなってゆく。
(あれ、なんかおかしくない?)
生徒たちのあちらこちらから、かすかなざわめきが生じた。
古相寺の声はゆっくりと小さくなってゆく。

「古相寺さん」
旭子が声をかけても古相寺は答えず、その代わりゆっくりと前傾してテーブルに額をつけ鼻をつけ頬をつけてしまった。

「やだ、この子、寝ちゃってる」
助手の橋口が古相寺の肩を起こそうとしてそう告げると、旭子は古相寺の息を確かめて無事を確認した。
一体、何が起きたのかを思い巡らすと旭子は生徒の群れを見回して、菊高麗子を見つけ出して聞いた。
「菊高さん、あなた、何かしてないわよね?」
式術の補助に徹していた旭子にはっきりと察知出来たわけではなかったが、もし神咒を術者に逆に返す高度な秘術を行えるとすれば菊高麗子に違いない。

 菊高は腕組みしてた手を胸の前に挙げると左右に大きく振った。
「えっ、私が? まさか、神咒返しですか?
そんなこと出来ません。仮に出来たとしても動機がありませんわ。
古相寺さんのような、こう言ってはあれですが、あまり式術の出来がよろしくない方をわざわざ苛めても少しも面白くないではありませんか」
旭子は菊高の意識を読もうとしたが(きっと古相寺さんは徹夜して神咒を覚えたので、疲れて本番で寝込んだんだ)という台詞がびっしりと繰り返されていた。それはまるで琵琶法師説話で耳なし芳一の全身に鬼を避ける経文が隙間なく書いてあるのを思い出させたが……。
「それもそうね」
旭子は一応納得するとそれ以上の詮索はしなかった。

 古相寺は脈を確かめても大きな不調はなさそうなので、スケジュールのタイトな旭子は帰ることとし、助手の橋口と親友の壬生野を残して生徒達を帰した。

「美穂、大丈夫かな?」
壬生野のつぶやきに橋口が応じる。
「まあ落ち着いてるようだし大丈夫でしょう。この式術も本格的にすると術者はものすごい体力を消耗するのだと旭子様も言っておられましたから、古相寺さんが特別疲れやすい体質だったのが原因かもしれませんね」

 しばらく様子を見ていると古相寺は不意に頭を持ち上げ、何事もなかったように両拳を広げ伸ばしてウーンと唸って目を覚ました。
「あれ、今、何時? 本部の講義室? なんか特訓があるんだっけ?」
橋口が吹き出した。
「古相寺さんたら、何も覚えてないの?」
「美穂、神咒を唱えててそのまま寝落ちしたんだよ!」
「えっ、えっ、何の神咒だっけ?」

 橋口が「ほら、冬眠してるハムスターを起こす十種神宝神咒よ」と言うと、古相寺はようやく思い出して叫んだ。
「そうだった、ハムスターが気持ちよさそうに寝てたからね、あの眠気が伝染してきて私も寝込んでしまったんだよ」
「はっ? アハハハハッ」
いよいよ橋口と壬生野が噴き出した。
「そんなあ、あり得ないっしょ」
「人間同士なら眠気の伝染はたまにあるよね。けどねえハムスターから伝染して寝込んだなんて、美穂ちゃん、人類初かもしれないよ」
ケラケラと笑う声が講義室に響き、古相寺は真っ赤な顔になりいたたまれなくなって叫んだ。
「もう、やめてよ」
二人はびっくりして笑い声を止めた。
「今のは絶対秘密にして、お願い」
古相寺が柏手を打って拝むので橋口と壬生野はひきつりそうな笑いを裂いて止めながら「うん、うん」と頷いた。
これが桜受家秘史に残る古相寺神咒寝落ち事件の真相である。

   ○

 古相寺のティーカップが空になったようだ。
「もう一杯どうや?」
壬生野は頷いた古相寺に紅茶のお代わりを注ぐ。
「それにしても旭子様はどうして私なんかを選ばりはったのかな?」
古相寺はまだ納得がいかないのだ。
「秘巫女様が決めはったんやから桜受家では絶対やき」
壬生野が言うのに、古相寺は話を袋小路に追い込み始める。
「あ、もしかして危険だから出来の悪いうちにやらせた方が万が一の時に被害が少ないというソロバンか……」
「それは違うと思います。ソ連のライカ犬じゃあるまいし」
「何や、そのライカ犬て?」
壬生野は眼鏡をそっと持ち上げ気味に図書館の虫らしい雑学ネタを披露する。
「宇宙開発の始まった頃、ソ連が宇宙へ送り出した野良犬の名前です。女の子です。帰還する装置の完成が間に合わなかったので安楽死させる予定で打ち上げられたんです。でも美穂はそんな事ないでしょ」
壬生野の言葉を聞くうちに古相寺の表情が強張っていった。
「わからへんよ、そうかもしれへんやない!」
「それはないですっちゅうの」
「うち、今すぐ旭子様に直に聞いてくるわ!」
立ち上がった古相寺を壬生野が止めようとする。
「そう言われても旭子様のお部屋は警備が厳重で近付けない筈やから。やめときや」

 古相寺は壬生野が止めるのも聞かず部屋から飛び出してみたが、自分が旭子の部屋がどこかなど知らないことに気付いた。しかし地下最下層三十階の奥殿秘巫女の居間には緊急時にすぐ旭子の携帯を呼び出せる直通の赤電話があるのを思い出した。

 古相寺は急いでエレベーターで地下三十階に降りた。巫女の控室兼事務室には夜間も当直の巫女が二名詰めている筈だ。
古相寺は勢いをつけてドアを開いた。
「あら、古相寺さん、どうしたの?」
今日は最年長の巫女39歳の奥山紅葉と、よりによってあの古相寺の秘密を知る4歳年上の橋口観月だ。
「あの、その、ス、スマホをどこかに忘れちゃったみたいで」
古相寺はドギマギしながらスマホを探すふりを始めた。
「あら、そう。この辺にあればいいけど」
奥山が言うと、橋口が余計な提案をする。
「ちょっと呼び出して鳴らせばすぐどこかわかるわよ」
「あ、いや、電話代がもったいないですから」
「出なきゃ電話代はかからないでしょ」
橋口は事務所の電話で登録リストから古相寺のスマホを呼び出した。
古相寺はポケットのスマホを撫でた。この階に降りる時はスマホ使用禁止なのでいつも習慣で機内モードにしてるのだ。そのおかげで嘘はバレずに済んだ。
「私、祈祷の間を探してきます」
「あ、いいけど、天子様の御座所と秘巫女様の居間には近寄らないでね」
「えっ、なんで?」
「警備装置の電源が入ってて警戒してるから近づくだけで警報が鳴って、怖ーい警備員が飛んで来るわよ」
古相寺はこっそり唾を飲み込んで祈祷の間に入った。

(直接聞くしかないもの)
古相寺は迷うことなく秘巫女の居間の戸を開いて飛び込んだ。
とたんに耳を刺すベルの音と腹を振るわす電子的なけたたましい警報低音が鳴り響き、赤色灯が赤い灯台のように周囲に光を放つ。
古相寺はそれでも一直線に秘巫女直通の受話器を取って、反対の耳を左手で塞いで『もしもし、旭子様、もしもし、古相寺です』と叫んだ。

 奥山と橋口が大声で何か叫んでいるようだが古相寺には聞き取れない。古相寺は来ないでという風に手を振った。
まもなく騒音の向こうで旭子の声がした。
『古相寺さん? えっ、何の騒ぎ、どうしたの?』
古相寺は思い切り大声を張り上げた。
「私はライカ犬なんですか?」
『何の話? あなた、祈祷の間なのね、すぐ行くから待ってなさい』

   ○

 古相寺は事務室の椅子にかけてうなだれていた。

 警備員二人が神社の門にいる仁王像のように古相寺の両脇に立って睨みおろしている。
ドアが開く音がして振り向くと入ってきたのは頭にはタオルを巻いたまま顔にはパックが貼り付いており高そうなシルクのパジャマを着ている女性だ。
奥山が「部屋をお間違えじゃ……」と言いかけて絶句した。
「あ、旭子様、見違えしまいましたわ、古相寺さんがお部屋に入って警報が鳴ったんです」
いつもこのフロアにいる時は秘巫女の正装ばかりだから、シルクのパジャマという現代の服装の旭子が全く想像できなかったのだ。
「古相寺さん、大丈夫?」
古相寺は立ち上がってお辞儀した。
「旭子様、すみません」

 警備員は近づいて来るパック顔の女性に取り敢えず敬礼した。
「あの、旭子様ですか? 失礼ですが端末に認証していただけますか?」
「指紋でよいか?」
「はい、お願いします」
旭子は警備員のタブレットに指を置いたが、なかなか認証されない。
「ああ、どうやら風呂上がりだから指紋の反応が悪いのだな」
旭子は指紋認証をあきらめてパックを外してコットンで顔を拭いた。
するといつもの顔が戻った。三十歳前後の風呂上りの顔はたっぷり水分と熱を帯びて美しいハリを保っている。しかもシルクのパジャマは胸の谷間が少し覗けそうなのだ。警備員はぽかんと口を開いて女性の顔がきれいになるのを眺めて「ああ、秘巫女様」と感嘆の声を漏らした。

「秘巫女様、認証の必要はなさそうですが形式ですのでお願いします」
旭子がタブレットに向かうと今度はすぐに顔認証が通った。
「この子がうっかり警報を鳴らしたようだけど、始末書を書かせて明日届けるからそれでいいわね?」
「もちろんです、秘巫女様。では私たちは失礼します」
「ご苦労様。あ、今見た私の恰好を他の人にべらべら喋っちゃだめよ、今日は特別サービスだからね」
「はい、目の保養をさせて頂きました」
旭子は笑って警備員を見送った。

「丁度食べかけてた時だったから持って来たの。よかったら食べなさい」
旭子は袋からアイスクリームを出して奥山と橋口に渡した。

 そして古相寺の前にもひとつ置いて自分はカップを開けて食べ始めたが、古相寺はひどく緊張した顔で手をつけない。
「あの、旭子様に聞きたい事があるんです」
「ああ、ライカとか言ってたわね? 何なの?」
古相寺はじっと旭子を見詰めた。
「ソ連は帰還できない宇宙船にライカっていう野良犬を乗せはったんです。ソ連のライカと同じように、タイムマシンが失敗するかもしれんから、被害の少ない、巫女として出来の悪い私を選ばりはったんですか?」
旭子が真顔から一気に笑いに解き放たれた。奥山と橋口もびっくりして振り向く。
「ハハッハハハハハッ、あなたねえ、そんな事を心配してたの、フフフッ」
「違うんですか?」
「おあほねえ、あなたは自分で見つけた伊号潜水艦を使うって、きっとうまくいくって力説してくれたじゃない。私はあなたのあの熱意に感動して採用することにしたのよ。大きな事を成し遂げるには熱意のあるひとを入れることが何より大事なの。だからあなたは外せないと思ったわけ。
タイムマシンの開発は米国で済んでて、既に何人も過去に送り出しているんだからその失敗を恐れることはないわ」
古相寺の顔にじわじわと赤みが差した。
それはまるで、秘巫女の神咒を聞いて古相寺が死から蘇ったようにも見えた。

第3章 選ばれし特務員

 八咫烏結社桜受家の地下三十階建て本部内、地下九階にある壬生野の部屋。
招集する特務員4人にタイムマシンのしくみを説明をせよと旭子に命じられた古相寺の頭の中は沸騰寸前になった。超先端科学の大問題の解説を巫女で頭の回転数もゆっくりな古相寺にしろというのはかなり大変な仕事である。そこで例によって古相寺はもらった概要書をちょっと読んだだけで壬生野を相手に説明の練習をしようというのだ。

「ヨーロッパにセルンという組織が持つ巨大なハドロン型加速器があります」
そのひとことで壬生野はドキリとする。桜受家の同僚巫女に『STEINS;GATE』シュタインズ・ゲートのファンがいないのは遠回しな質問で確認済みだが、壬生野はあのアニメの熱狂的ファンなのだ。タイムマシンに興味のあった壬生野があのアニメに惹かれるのはむしろ自然な流れだ。そして桜受家が手に入れたのはジョン・タイターが使ったタイムマシン後継型となれば開発現場であるセルンの名前が出て来るのも当然の流れである。
身構えた壬生野の霊体は次の言葉でズッコケた。
「これは大きなお鍋みたいなものです。ジャガイモ、キャベツ、人参、玉ねぎ、ベーコン、パセリ、材料を入れて反時計回りにぐるぐるとかき混ぜます。
なぜ反時計かというと宇宙はそう出来てると決まってるからです。
想像して下さい。煮込んで美味しそうなポトフの香りがしてきましたね。
でもちょっと待って下さい。私たちは時間を遡るんだから、逆回転にします。すると材料は次第に元の形に戻ってゆくのです、ほら豚さんの足が出来て来ましたよ」
そこで壬生野は思い切ってというか、耐えられなくなり発言した。

「あのさ、美穂ちゃんさ、お鍋の比喩はやめようか。
ほら、相手は男の人だから料理に詳しくないから実感がわかないよ、たぶんだけど」
古相寺は一生懸命説明しようとしているのはわかるが、ダメ出しこそ親友の証なんだ。壬生野は自分に言い聞かせて古相寺の反応を待った。
「あっ、そうか。男性にお鍋は受けないのか。なるほど。
じゃあ何を使って説明したらいい?」
「そうだね、まさかSTEINS;GATEに出てきた電話レンジなんて話を持ち出してもますます特務員さんにはわからないだろうしなあ」
壬生野の脳内で過去に得た情報がめまぐるしく現れては消えしてゆく。
「とりあえず何か原理的な説明を入れたらどうかなあ?」
「原理的な……。とは何を使って?」
古相寺の問いかけに壬生野は「う~んとねえ~」といよいよ真剣に考え込み5、6分の沈黙の後に口を開いた。
「そうだ、定規がいいよ。
皆さんは時間はこの定規のように一直線に未来に伸びて流れてゆくと思ってますが、それは勘違いですってね。
この宇宙は波動から成り立っていて、時間というレールは存在しないのです。
私たちは位置を示す波動を変えることで空間と時間を簡単に飛び越えてゆけるのです」
古相寺が驚いた。
「すごいよ、茜の説明はうまいなあ」
「きっと美穂のためにってうまい説明をって考えてたからひらめいたんだよ」
壬生野は照れくさそうに笑った。

   ○

 四人の男は桜受家の最下層三十階の奥殿に呼び出され一列に正座していた。
服装はおしゃれの対極にある緑灰色のトレーナー上下で、統一のとれた彼らの制服としては訓練時に着用するそれしかなかったというわけなのだろう。
彼らは結社の現場実働員の中でも特殊技能が優れ格闘や狙撃なども一級の腕を持つ三本と呼ばれる特務員であった。
英語圏なら諜報工作活動のエリートスペシャリストとして認められるところだが、滅私奉公が仕事の前提とされる結社においては究極の影働きでしかない。
そんな彼らが、結社の幹部でも一握りの者しか参内を訪されない最奥の神殿に召し出される事なぞ、あり得ない。それは結社創設以来初めての事だった。

 それにしてもなんという威圧感だろう。
四人の右端、末席に座っていた最年少23歳の松丸は思った。
おそらくは巫女に召喚された四神青龍せいりゅう・朱雀すざく・白虎びゃっこ・玄武げんぶが結界の四方に立って入室と同時に男たちを見下ろしているためだ。こういう環境におかれるとそれだけで常に敵が死角から攻めて来る気配がして注意力を消耗する。式術や魔術を駆使する敵と闘うと疲れるわけだ。

 神殿は一部が天井を突き抜けて高さが二十メートルもあり、中央に自然光の明かりが降り注ぐ階段があり、途中にご神鏡があり、遥拝のための高さ六十センチほどの柱で仕切られた秘巫女の座所があり、その手前に椅子が男たちに向いて置かれてある。
この神聖なフロアが一番地下にあるというのが地上の感覚からすると不自然に思われるかもしれないが、万が一の事態での安全が優先された結果なのだろう。
天井から琴がつま弾かれる音が流れて、その音色が自然光と共に洩れてくるのは癒しの効果もありそうである。

 左には彩やかな大和絵の施された天蓋を持ち屏風絵の貼られた襖で仕切られた小部屋があり、俗に言う東京の表天皇や京都御所の地下におわします本天皇などの天子様が結社を訪問する時の御座所と伝えられている。
右には障子で仕切られた、しかし天井のない秘巫女の執務室があるのだが、現在、在室の気配はないようだ。

 男たちは半ばは顔を知っていたが、半ばは知らぬ者で、もちろん訓練の行き届いた彼らが私語など交わす筈もなく、沈黙の時間が過ぎてゆく。
ただ殆どの者たちが高度な作戦を思い描いており「自分とおそらく同等の能力を持つ者が四人も招集されたという事は、これは暗殺などの単純な仕事ではないな。どこかの国の警備の厳重な首脳や権力者を拉致し、同時にその周辺数名も拉致して潜入させる、つまり国家の指導部をこちらの思い通りの影武者にそっくり入れ替えるぐらいの作戦をやるおつもりかもしれぬ」と勘ぐっていた。

 おもむろに琴の音が止まって何か起きるのかと期待してると、突然に太鼓がドンと心臓を驚かして鳴り響いた。
すると背後中央の扉が開いて巫女たちが五人ほど入って来たが、見た目とは反対に気が張り詰めるのを感じる。
巫女の一人が声を張り上げる。
「秘巫女様が参内いたします」
再び太鼓がドンと鳴り響いて巫女衣装というよりお妃の装束に近いような衣を着た旭子が現れた。頭には金細工の冠を被り、さらにその上に金銀の七夕飾り状のものが乗っている。胸には翡翠色の勾玉を連ねた首飾りがさがり、手には鮮やかな緋色の扇を持った旭子は見た目でいえば三十歳ぐらいだろうか、肉感的というよりやや痩せた知性の優るタイプの美女である。

 四人の男は写真でしか見たことのなかった当代秘巫女旭子様の美しく凛々しい生姿に魅了されて自然と平伏した。

 徐福の血は結社氏族に八咫烏となるきっかけとなったが、結社の氏族の起源はそれよりもずっと古く、1万年前の縄文ウガヤ王朝時代のムラにさかのぼる。その頃のウガヤのクニは文字こそ持たなかったが精神性はむしろ現代より高く、宇宙や生命の成り立ち、仕組みなども洞察していたし、争うことの無益さも熟知して避けていたのだ。
ムラではクニの王と姫巫女を模して、ムラ長は獲物や実や米などの収穫計画や現物分配、土地の境界制定などの政事を担当し、巫女は気候の安定のための雨乞い、雨止め、そして神の御心を伝え民に喜び事と禁じ事を伝える祭事を担当した。
こうしてマツリゴトは長と巫女の両輪によって紡がれて来た。

 現代の結社の対外的なトップは結社内で棒頭と呼ばれる男だが、男というものは権力欲から中立でいることが難しく、たとえその身が清廉潔白を貫いたとしても後代の血統が争いの火種を残してしまうのはあらゆる国の黒歴史が証明している。
それゆえ実際の指図は秘巫女と呼ばれる巫女頭にお伺いを立てて承認をもらう掟がかなり古くに作られていた。
秘巫女の選抜については男たちの意見は聞かれもせず、次世代の最も能力の優れた巫女が秘巫女の地位を引き継ぐと決められていて、つまり実質的な権力が巫女の能力で引き継がれてゆくことで無用な血の争いと縁を切り、結果としてこの結社は1万年という信じられぬほどの長きに渡り存続しているのだった。
マツリゴトは古代の初期大和朝廷においても模倣されたのだが、とりわけ民から大王を凌ぐ人気を集めたのが倭迹迹日百襲姫わととひももそひめであり中国史書に卑弥呼と蔑称された第一の人物である。時代が下り魏に朝貢し金印を授かった卑弥呼は宇佐の姫巫女であり第一の卑弥呼とは別人なのだが、現代では混同されているようだ。

 座所の手前の椅子に旭子が微笑みを浮かべて座ると、髪飾りにかかった薄絹のヴェールがひと呼吸遅れてふわりと肩のまわりに収まった。
「今日は忙しいところを急に呼び立ててすまなかったの、旭子じゃ」
旭子が艶のある、しかし巫女達と話す時のフランクな様子とはガラリと違って威厳ある年寄りじみた口調で言うと、男たちはハハアと再び頭を垂れた。そして男たちは旭子の年寄り口調から(旭子様は見た目は三十歳でも年齢は案外いってるかもしれんな)と考えるのだった。男たちの意識を読み取った旭子は、整形などもなく実年齢より二十歳近く若い自分の外見と肌で男の心を手玉に取っている事が可笑しくて悪戯っぽい目で笑った。

「今回呼び立てた用件はそなたたちが思ってた通りに暗殺などではない。が、正解を当てた者もおらんし、ニアピン賞も誰にもやれぬようじゃ」
旭子は男たちの意識を読み頷くと一人の男に扇を向けて言った。
「望月、ヒントなど手間のかかる話は抜きじゃ」
望月はばかな質問を思い浮かべてしまったと後悔した。
「はっ、恐れ入ります」
旭子は嬉しそうに告げた。
「実はな、米国の国防総省施設内に秘匿されているタイムマシンの設計図、マニュアルが全て手に入ったのじゃ」
男たちから「おお」とどよめきが上がった。
「ではタイムマシンがいよいよ動かせますな」
「それはおめでとうございます」
「我らもタイムマシンで時間を超えて活動出来るぞ」
そこで四人の中で最年長の四十代の白岩が伺いを立てた。
「なるほど。となれば作戦の方向としては過去の不都合案件への派遣となりますかな」
旭子が頷く。
「うむ、そうなるの」
「となれば相当な下調べが必要ですし、派遣先でも情報収集と細部の修正などが必要ですので単独作戦ではなくチームで当たる方がよい、そこで我ら四人をお召しですか?」
「うむ、白岩の言う通りだの。今日、そなたたち五人を呼んだのは、タイムマシンで過去へ出向いて大仕事をしてほしいのじゃ」
旭子が言うと松丸が声を上げた。
「あれっ、五人? ですか?」
「そなたたちに加えて巫女から古相寺という者が参加する。古相寺、列に加わりなさい」

 巫女の古相寺が男たちの前に進み出てお辞儀した。
「皆さま、よろしくお願いいたします」
白衣の下に朱の掛襟を重ね閉じて、束ねて水引で縛った長い黒髪を緋袴へ落としたお約束の巫女衣装に、現代風のくりっとした目が愛らしい。
会釈をされた男たちの顔がニヤけたように見えた。
「このような若い女子と旅できるとは何やらデートのようですな」
30代半ばの望月が鼻の下を伸ばして言うと旭子が叱った。
「そのようにふざけてる暇はないと思え。今回の任務は格別危険な任務になる。古相寺は連絡役を務めると同時に死んだ者の骨を拾い埋葬する役だ」
そう言われたら普通ならびびるところだが、男たちにはピンと来なかった。
なぜなら結社に生まれて以来、「お前は天子様の御為に生きて死ぬ定めだぞ」と完璧に洗脳されているため、男たちには死を恐れる気持ち自体が希薄なのだ。

「お言葉ですが旭子様、わしたちを見くびらないで頂きたいですな。わしたちは死など少しも恐れずに奉公して参りましたで……。わしも敵に斬りつけられ出血多量で心臓が止まった事がございますし、他の者も同様です。なあ、皆、心臓が止まった事がある者は手を挙げて秘巫女様に口上申し上げよ」
白岩の呼びかけに全員が手を挙げた。

 トレーナーの上からも見事に鍛えられた筋肉質ボディだとわかる望月が立ち上がって言った。
「望月です。私は半島の北側に潜入して日本政府に把握されていない日本人人質を救出しました。
詳細は秘巫女様は御存知でしょうが、とある血筋にあたる重要人物なのでどうしてもと大物から依頼があったそうで、中国政府の親善使節一行が訪れたタイミングで一行の一人と入れ替えて安全に助け出したのです。
入れ替えられた方も亡命希望だったのでセットされたのですが、そちらを連れて国境を抜けるためには私1人で27名の敵警備部隊を倒さねばなりませんでした。
もちろん他の者が入手した建物の図面と配置を元に手順を練りあげ、まず気付かれずに一人ずつ倒して死体を隠し、爆弾で控室を吹き飛ばし、まあ古典的な作戦です。
無事に国境を超えられるとわかった頃合いで、ガラスで足に怪我を負ってた対象を新たな追っ手から逃がすために、わざと目立つ形で敵を引き付けて、包囲されたところで氷点下の急流の川に飛び込みました。
あの氷点下の水はどんなに力があっても瞬く間に手足も心臓も動けなくなります。意識がホワイトアウトしましたが、幸い南側の水力発電所の取り入れ口につっかえて撤収部隊に発見されました」

 続いて矢吹が立ち上がった。
「矢吹です。私が参加したのはヤの形容がつく組織が結社の企業を脅して従業員2名に全治一か月から二か月の怪我をさせたため、同様の被害を防止するため実効的な警告をしたのです。
平たく言うとヤクザにオトシマエをつけさせたわけです。
デリバリー業者から商品を受け取るために開けられた玄関にすっと飛び込み、その場にいた組員3人を蹴りと締め技で床に転がして奥に進みました。
奥の控室に入った私は態勢を常に変化させて狙いをつけさせずにハジキを構えようとした組員全員の利き手を拳銃で撃ち抜きました。日本刀を抜いて来た組員は面倒なので両手を撃ち抜きました。
続いて2階の事務所に入ったんですが内容は同様なので省略します。
会長室に組長が不在のためさらに上の階に入ると組長はベッドで女二人とお楽しみのようでした。ええとどっちが妻なのか内縁なのか愛人なのかはわかりません。
私は組長の口に拳銃の銃口を咥えさせて言いました。
『うちの企業の社員をえらい目に遭わせてくれたな。俺はお前たちとは異業種だが、そこの軍隊みたいなもんだ。お前のそのパールを埋め込んだチン●か、まだ十本揃ってる指のうち二本か、どっちを詰めるか、返事をしろ。右目をつむったらチン●、左目をつむったら指二本だ』
予想通り組長は左目をつむりました。
私はナイフで組長のふたつの小指を始末しました。
引き上げる時にちょっと増上慢になって油断しました。部屋をゆうゆうと出て行くとふたつ先の部屋の扉が開いて、奴の娘だと思いますが、「お兄さん、やるじゃん」て声をかけてきました。
銃身を切り詰めた散弾銃を構えてるのが目に入り、次の瞬間、閃光が見えました。
お恥ずかしい話です。私は娘を突き飛ばし、慌ててアドレナリンのアンプルを注射してなんとか建物から出ました。
ワンブロック先の撤収用の車が見えたところで心臓が止まって倒れました。結社の外科医は散弾は全部取ったというんですが、どういうわけか今でも肺や心臓の中に鉛の粒があるって感覚が残ってます」

 最後に松丸が立ち上がった。
「望月さん、矢吹さんに比べると地味で申し訳ないです、松丸です。
自分は京都御所の地下におわします本天皇さまが小学校でつきまといにあってるようだとの情報を確認しろとの命令で出動しました。本天皇様は(世間では裏天皇とも呼ばれているようですが)、皆さんご存知のようにまだ小学五年生です。偏りのない教養と判断力を養うために、結社の貴族塾ではなく普通の小学校へ入学し、地下道を御所から町家まで車で移動し、町屋から通学されているように装っています。
本天皇さまにつきまとっているのは同級生女児とその母親で正体に関するなんらかの情報を得ている可能性があるため、その情報の出所、所属組織などを調査しました。
調査はその同級生女児の家庭教師である親戚の男子大学生を感染症陽性の疑いで隔離して始まりました。まずスマホをすり替えて隣室で通信を管理できるよようにして、私は当人そっくりに3Dプリンターで作られたゴムマスクを着用して当人のスマホを携帯して、対象家庭に潜入しました。
まずリビングとトイレに盗聴器を仕掛けました。それから当人の口調と頻度の多い話し方を混ぜて母親と世間話をしましたが、クラスにライバルはいるのか等を聞いてもはぐらかされた印象でした。続いて女児が帰宅し、イヤホンの指示を聞きながら授業を行いました。同級生に嫌いな男子はいるかとか、お父さんより好きな男子はいるかとか聞いてみますがぼんやりした答えしか得られませんでした。

 それでも授業のたびに質問してると、女児は急に私を真顔で見て『うちを口説こうとしてもあかんよ、私は○○君と結婚すんやもん』と本天皇さまの名前を挙げたのです。私は興奮を隠して『へえー、もう婚約したの?』て聞くと『両方ん親が決めるから従わなあきまへんもん』と答えたのです。そこで『相手の親は偉い人なの』と聞くと『秘密。東京でなっとあれば○○君が有名になるかもしれへんやけど』と答えました。
女児への授業は前半45分と後半45分で間の休憩時にはいつも紅茶とケーキが提供される習慣でした。ケーキは毎回手作りです。

 女児が情報を漏らした翌回の授業日のことでした。私は再び探りを入れましたが女児は前回以上のことは言わず、休憩になりました。
母親は『今日はブルーベリーを入れてケーキ作ったん』とチーズケーキを出してきました。 私はわざと『ブルーベリーですか、目の疲れにも効く言いますね』と返事しながらケーキを少しずつ食べました。母親は私の食べぶりに安堵したようで部屋を出て誰かとスマホで話しているようでした。女児は先に部屋に行ってしまってたので私はゴムマスクの唇をずらして残りのケーキ半分をマスクの顎の内側に押し込みました。
こうして後半の授業に臨んだんですが、半分過ぎたところで痙攣が起こり、舌を引っ込める事が出来ずに噛みながら血の混ざった泡を吹きました。
女児は驚いて母親を連れて来たので私は救急車を呼んでくれと何度も叫びましたが、痙攣のため聞き取れないようでした。そこへ盗聴で私の異変を聞き付けた監視チームが警察の服装で乗り込んできて私は救い出されました。救急外来で私は麻痺状態になり心停止しましたが、胃洗浄と蘇生措置でなんとか生還出来ました。ゴムマスクの内側に半分捨てたおかげです」

 男たちが死に瀕した体験談を語り終えると、旭子は大きく頷いた。

「そのほうらが命を捨てて奉公してくれてる事はちゃんと知っておる。その気持ちをありがたく思っておるのは吾も誰にも負けぬつもりだ。
ただな、それでもそなたたちを送り出すのを躊躇う程、今回の任務は今までの任務とは桁違いに難しく危険なのじゃ」
旭子の言葉は奥殿の乾いた空気に響き渡った。

第4章 秘巫女ひみこのぞ

 旭子は古相寺に視線を向けると言った。
「古相寺、今回使うタイムマシンのしくみについてこの者たちに説明してやってくれるか?」
「はい、秘巫女様」
答える古相寺の横顔に壬生野が拳を握って声を出さずにエールを送った。
古相寺は立ち上がると秘巫女の椅子の隣に立ち四人の男たちを見渡し、手に持って来た定規を掲げて見せる。
「私達は学校へ通う前から、『こんな事は学校で教えるまでもない常識なんだから絶対忘れるなよ』という耳には聞こえない前置きをされて『時間とはこの定規のように一直線で、等間隔に日付や時刻が並んでいるものなんだぞ』と叩き込まれてきました。
さらに『時間はいつでも過去から未来への一方通行であり、お前の後悔の生みの親は時間なんだ』と信じ込まされて来ました。
今、冷静になって振り返ると、それは時間というものに根拠も示さずに神聖不可侵の特権を与えていたの同じ事でした。
ところが最近の量子理論の研究者は、時間という不動の次元軸があるのではなく、時間は空間と同じに扱えるブロックのようなものだと考えているのです。
映画の『インターステラ』では主人公が四次元立方体の中で移動すると行きたい時間に移動する事で説明してましたが、時間は空間と同じように動かせるものなのです」
壬生野はブラッシュアップした説明を古相寺がうまくやりこなした事にホッとした。
男たちの目が丸い点になったと見ると古相寺は予定通り口調を切り替える。
「簡単に言えば、時間なんて定規のようなもんだと思ってたら、定規なんかない。時間はお店で手に取った品物についている値札みたいなもんだと分かったのです。
値札の波動を変えてやると、その品物はポンと時間や空間を飛び越えて別の店に現れるのです」

 すると望月が「ちょっと聞いていいかいな」と手を挙げた。
質問など想定していなかった古相寺は動揺して視線を泳がせ壬生野をちら見してから言った。
「ど、どうぞ」
「その波動を変えるってのはどうやるんや?」
「それは、たしかブラックホールを利用するんです、ね?」
古相寺は壬生野に縋るような眼を向けた。
壬生野は強く頷いて心の中で古相寺を応援する。(ブラックホールの説明は昨日たっぷり予習したんだから思い出して答えて、美穂、頑張りや)
望月の質問が続く。
「ブラックホールがワームホールに繋がっていてそれを使ってタイムトラベル出来ると聞いたことはあるで。そやけどそない簡単にブラックホールがコントロールできるもんと思えんのや。自分の行きたい時代の決めた時刻に行けるもんかいな?」
「あ、ああ、よくご存知ですね」
「結社の中に、まだ動いてないがタイムマシンが出来たそうやと聞かされた時に、そりゃあ少しは本読んだり勉強しますがな」
古相寺は「なるほどー」と返して壬生野へ目配せしてくるが、望月の疑問は続く。
「『インターステラ』みたいにな、特異点に飛び込んで落ちて行くのは無謀や、無責任やと思うで」
古相寺はダジャレを思い出す。
「あれです、私たちの場合は八咫烏だけに、カー・ニューマン・ブラックホールなんです。八咫烏だけにカー。なので大丈夫です」
古相寺は耳を澄ませたが一人が小さく笑っただけだった。ただその一人が旭子だったから救われた。勢いづいて壬生野が「うまい」と声をかけたのだがそれは空回り感が漂い望月が苦笑した。

「滑ったな。で、そのカーなんちゃらブラックホールなら大丈夫いう根拠はどの辺にあるんかいな?」
望月がさらに質問すると、古相寺の声が震えた。
「それは、その、あの……」
「コショージさんやったかな? 秘巫女様から指名を受けた以上、あんたも責任持って説明してもらわねばあきまへんで」
望月が意地悪く言うと古相寺はいよいよ困って俯いた。そこで放っておけずに「待って下さい」と声を上げ立ちあがった者がいた。

 古相寺の窮地に声を上げたのはもちろん壬生野だ。だが、彼女に加えてもう一人の男も立ち上がっていた。一番若い松丸だ。壬生野は驚いて松丸を見返した。
「先にいいですか?」
松丸が言うと壬生野は「ええ」と譲って腰をおろした。

「望月さん。それは遠心力みたいなもんのおかげですよ。いや、私もタイムマシンの話を聞いてにわかに本を何冊も読み出した素人ですから物理学者の本当の説明はできませんから私の直感という事で聞いて下さい。
普通の静止してるブラックホールは特異点が小さいですが強力で、いわば巨大な蟻ジゴクみたいなものです。
カー・ニューマン・ブラックホールは全体が高速回転してるので、特異点もドーナツ状に広がって事象の地平面も外側に押し出してきてます。その点で危ない感じがしますが、しかし、同時に回転してるエルゴ領域と事象の地平面が私たちを外周に挟み込んでずれないように留めているのではと思います」

 古相寺がそこで「エルゴ領域てなんでしたっけ?」と立場を忘れたまさかの質問を投げかけてくるが、松丸は微笑んで答えた。

「『天空の城ラピュタ』で人が近づかないよう天空の城を取り巻いている「竜の巣」というのがありました。あの雰囲気で考えてもらうと当たるといえずとも遠からずと思います。このエルゴ領域の中にあると特異点に入らない代わりに外に逃げ出すのも困難な感じです。
こうして高速回転がさらに速くなるとエネルギーと質量が釣り合った極限ブラックホールの状態になります」
古相寺は頷いた。

ドーナツ状の特異点
「こうなると、事象の地平面もエルゴ領域もぺしゃんこに消えてしまい、極限まで広がったドーナツ状の特異点が露出します。この時、物理法則が破綻して制限が取れるようです。
ホーキング博士は物理法則は破綻しない筈だと主張し『インターステラ』の監修をしたソーン博士と賭けましたが、シミュレーションの結果、負けを認めました。極限ブラックホールに発達するともはや物理法則は成り立たないんです。
この時、特異点のドーナツのすぐ外側に物理法則の制限を解かれたCТCと呼ばれる『閉じた時間の輪』が出来ます。すると特異点に落ちることなくドーナツの少し上を進んでた私たちは時間を順方向にも進め、逆方向にも遡れるようになってて、タイムトラベルが可能になるのだと考えられてるようです」
壬生野が拍手を始めるとその場が拍手を送り松丸の説明を褒めた。

 旭子がにこにこして古相寺に聞く。
「古相寺、これぐらい説明してくれると後が助かるのう」
「あっ、はい、助かりました」
「それでは古相寺、後を続けなさい」
古相寺は咳払いをして続けた。
「後を続けるのもおこがましいですが、秘巫女様のご指名なので続けます。
このような原理だからこそ比較的小さな機械装置、今、結社に完成しているのは小屋サイズですが、タイムトラベルが可能になったわけです。だからといって安心できるとまでは言えません。時間旅行の足場はとても弱くて、揺れたりズレたりしてしまうものなのです」
古相寺はゆっくりと男たちを見回した。すると年長の白岩が言い放った。
「わしらは時間が一日ずれようがひと月ずれようがびびったりしまへんで」
おそらく白岩は特務員のまとめ役は自分だいうと考えがあり、良いところを見せたいのだろう。しかし、古相寺は聞き返さずにはいられなかった。
「そんな大雑把な感覚で本当に大丈夫だとお思いですか?」
白岩は唾を飛ばしそうな勢いで切り返す。
「時間がずれたって死ぬわけやない、びびるかいな」
「時間が2分ずれたらこの時代に戻れなくなります。今までの作戦ではどんな事態であろうとこの結社に戻ってこられました。たとえ瀕死であろうと仮死状態だろうと結社の撤収部隊が回収して高度医療回復装置で健康体に戻れました。
しかし今回のタイムトラベルでは機械装置の本体が設定された帰りの時間と場所を厳守してその場に来てもらわなければ二度とこの世界に戻れないのです。行った先では少しの怪我をしても撤収部隊はないので例えばそこが南方ならつまらぬ伝染病で呆気なく死ぬかもしれません」
そこで白岩は顔に焦りが浮かんだ。
「南方てえと太平洋戦争時代に行くってことですか?」
古相寺は振り向いて、旭子の口が開くのを待った。
「そうじゃ。行く先は太平洋戦争時代じゃ。古相寺、続けなさい」
古相寺はお辞儀して続けた。
「戦争のまっただ中に飛び込むことになりますので、行く時は五人でも帰りに五人揃うことは難しい。正直な予想ではおそらく一人も指定場所に辿り着けない可能性が97%と考えられています」
古相寺がそう言って口を噤むと、沈黙が広がった。

 過酷な作戦を生き抜いてきた特務員たちだったが、言われてみれば現代においては常に作戦行動中は撤収部隊が遠巻きに待機してくれていた。たとえ手足が千切れたり内臓が破裂したり土中に埋められても撤収部隊が助け出し最高度の救命措置をしてくれ結社に戻れば高度医療回復装置で失われた手足や臓器さえ再生することが可能なのだ。そのように助けられると知っていればこそ思い切り無茶が出来た面があることは否めない。
さらに結社に戻れないとなれば、金一封を頂き、地上のネオン街に這い出して、うまい飯をたらふく食い、酒を浴びるほど飲んで、いい女と汗だくで生きてる喜びにひたる事も出来ないではないか。

 重い沈黙を破って松丸が言った。
「自、自分は古相寺さんにはきちんと現代に帰っていただきたいと思います。なんといっても秘巫女様直属の巫女様なのですから」
旭子は松丸が古相寺に一目惚れしたのを読み取って心の中で笑った。もっともその紅潮した顔と古相寺を見詰めて震えるような睫毛を見れば誰にもばれてしまっていたが。
残る四人の男たちはバラバラと揃わぬ拍手をしてはやした。
「よおよお、色気づいたか、優男」
「こんなとこでええカッコ見せて」
「抜け駆けしようたあ百年早いんだよ」
古相寺もこのような冷やかしに慣れていないらしく俯いて頬を染めている。
「いえ、自分は純粋に古相寺さんまで危険な目に遭わずともよいと思ったからで。自分たちに付き合わずに途中で帰還して頂いてもよいのではと思った次第で」

「いや、古相寺は古相寺で大詰めに関わる大事な役目があるのだ」
旭子がそう言うと、白岩が首をすっと前に突き出して聞いた。
「さて、そろそろこの辺で、秘巫女様が絵を描いた、全米が震えて泣き出すような作戦の詳細をお聞きしたいと思いますが」
そう言われた旭子はちょっと不愉快に思う。
「誰ぞ、そのような噂を申しておったかや?」
「いえ、聞かずとも言わずもがなでございます。秘巫女様がじきじきにご立案なされば、常人の思いも及ばぬ作戦に違いありませんから」
旭子は扇をパチンと音を立てて頷いた。

「これは極めて困難な作戦じゃ。歴史に残る勇猛な武将と並べても見劣りしない武者魂を持ったお主達が涙を流してこんなことならもう帰りたいと喚き散らすであろうが、それでもそなたらの命を捨てたつもりで成し遂げてもらいたいのじゃ」
白岩が芝居がかった大声で応じた。
「おう、お聞かせくだされ」
「行くのは現地での準備や訓練期間もあろうから昭和19年の秋とする。前年にミッドウェー海戦の大敗、この年に入りガダルカナル島撤退と、日本の勢力は狭まり、いよいよ明らかな劣勢に転じている時期じゃ。
古相寺は当時の三本特務員の中で海軍省に潜入している外山と小柴という者に連絡を取り、我らに必要な情報の提供を求め、なりすましのための身分証、そして命令書の偽造を依頼して潜入させるのじゃ」
「かしこまりました」
「松丸、そなたは海軍省の通信部門に潜入し、毎日、伊号潜水艦の動きを細かに収集してくれるか」
「はい、お任せ下さい」
そこでまた男たちが冷やかす。
「秘巫女様のお情けの差配じゃな」
「通信事務なら憧れの古相寺様と何度も会えようて」
「しかし当時はデートも出来ん時代らしいぞ。顔だけ見て何も手出し出来ぬでは狗神憑いぬがみつきのごとき苦しみだろう」
そこで旭子が「お黙り」と一喝して一同は静まり返る。

「矢吹、そなたはバイクの操縦が得意と聞く、作戦では3か月ほど訓練してから水上偵察機のパイロットになってもらうといたす」
矢吹はゲッと声を出して驚いた。
「そ、そんな水上偵察機など、模型飛行機もドローンも動かしたことはないですが、3か月で覚えられるものですか?」
「まあ、バイクも偵察機も手足四本使って動かすそうですから似たものでしょう。もし出来なければ作戦はそこで終わりですから矢吹ならなんとしても覚えるでしょう。吾も巫女たちとうまくゆくように祈祷するゆえ大船に乗るつもりで励みなさい」
矢吹は旭子の機械に詳しくなさそうな話しぶりから反論をあきらめた。

 白岩が自分の序列上位をアピールしたくて聞いてくる。
「それで偵察機はどのように投入されるおつもりですか?」
「昭和20年1月15日、伊号第12潜水艦は敵に発見されたと打電し、その後、米軍による撃沈記録があります。そこで白岩は矢吹と前日にわかってる座標海上付近を飛び回り浮上した伊号第12潜水艦を発見するのです」
白岩は慌てた。
「あ、いや、ちょっとお待ちくだされ。座標がわかっていても広い海で偵察機から潜水艦を発見するというのは砂漠で落としたコインを翌日に気付いて探し出すような至難の技ですぞ。仮に潜水艦を発見できたとしても米軍に見つかり偵察機潜水艦双方とも攻撃を受けて御陀仏の可能性があります」
「そうかもしれませんが、そこは要領よく立ち回りなさい。米軍より先に伊号の潜望鏡を見つけて、その前方に着水し、まずは白岩を極秘任務の命令書を持った参謀として乗り込ませるのです。伊号はすぐに潜航させて米軍による索敵から回避させ、落ち着いたところで今度は望月をピストン輸送で乗り込ませ、矢吹自身も偵察機ごと乗り込むのです。カタログでは伊号第12潜水艦は零式小型水上偵察機一機を格納可能となってます」
白岩の脳は真っ白になった。
まもなく撃沈される予定の伊号潜水艦を見つけて、それに参謀と偽って乗り込み、己を撃沈する予定の米軍駆逐艦、掃海艇から逃げ切る。発想からして無謀な作戦だ。

 すると旭子が白岩の意識を読んで叱った。
「無謀とは言わせません。既に日本軍は制海権も制空権も日本列島の周辺だけに縮小しています。吾が使用したい海域に動ける潜水艦は調べてもなさそうでした」
そこで旭子は古相寺を見て頷いた。
「吾があきらめかけた、ところに古相寺が伊号第12潜水艦が近くの海域で沈没した記録を見つけてくれたのです。
撃沈された筈の潜水艦をこっそり助けてしまえば司令部は呼びかけません。だから沈没予定の伊号第12潜水艦に白羽の矢を立てたのです。」
だからそれを無謀と言う……、と言葉を並べかけて白岩は慌てて首を振った。考えることは秘巫女様に筒抜けなのだから、もう否定などしない方が賢明だ。

「では、その伊号第12潜水艦で何を攻撃するおつもりですか? マッカーサーが乗る戦艦とか、立ち寄る空母とか」
「マッカーサーではありません。彼一人倒しても、米軍の大勢に変化はないでしょう。
目標は重巡洋艦インディアナポリスの撃沈です」

 白岩はあれっと疑問を抱いた。おぼろげな記憶だがたしか映画で重巡洋艦インディアナポリスが日本軍の伊号潜水艦により撃沈されるストーリーがあったような気がするのだ。
すると旭子がそれを受けて続けた。
「白岩のあまり自信のない記憶にあるように、確かに放っておいてもインディアナポリスは伊号第58潜水艦に沈めらる。これは歴史的事実であり米国で映画にもなりました。しかし悔しいことに、それはテニアン島で原爆の部品を下ろした後だった」
そこで旭子の声が大きくなった。
「よいか白岩、なんとしてもテニアン島に着く前に、原爆の部品を積んだインディアナポリスを沈めて、広島長崎の無辜なる民に対する殺戮を回避するのじゃ」
激しい語気に白岩始め男たちは秘巫女様が広島長崎の犠牲者への深い思いからこの作戦を考え出したのだと気付いた。
「戦争だから戦っている兵士が傷つき亡くなるのは止むを得ぬ点もあろう。しかしな、広島長崎の原爆の被害者は大半が平穏に暮らしておった民ではないか、
中でも朝早くから空襲に備えて防火地帯をつくる作業をしていた中学や女学校の生徒が約八千数百人もおったのじゃ。うち六千人が原爆の直撃を受けて一瞬のうちに溶けるように亡くなった。
生き残った子供もひどい火傷に苦しみ激痛に苛まれて線香花火のような余命で早ければその日のうちに、残ったものでも新年を迎える者はほぼなかったのじゃ。
敵軍にとっては何の罪咎もない民ではないか。この無辜なる民たちの命を一瞬で根こそぎに奪い去った事、勝者がいかなる理由で正当化しようとも人道に照らして許されるものではないわっ」
旭子が叱り飛ばしパチンと鞭打つような音を立てて扇を閉じ、その場をぐるりと見渡した。美しかった瞳が恐ろしい般若の如きいかつい目つきに変わっており、一座は恐れおののいて平服した。

 ひと呼吸おくと旭子の夜叉の表情は柔和に戻った。
「しかし、今更どう怒ろうと虚しい後の祭りじゃ、と、事の次第を知りてよりはずっと堪えておった。それがタイムマシンなるものが実用化され実際に米国の国務省施設に隠されてあると聞き及んだのじゃ。早速、情報収集に長けた三本を二名潜入させたのが三年前。最初の一年は何の成果も得られなんだが、二年目の後半になって念願の設計図を入手した。最初はこれであの昭和時代へも行けるのかと嬉しく思っていたが、機械を組み上げてみると単独で動かせるのではなかった。機械はジョン・タイターの使用した物より改良されて親機だけでなく、子機にあたる搭乗コード端末が必要だったのじゃ。それをようやく今回三本が取得してくれた。
おかげで我らが無辜なる民を救う道具が揃ったわけだ。しかし、これから先はそなたたちの力なしには成し遂げられぬ大事業ぞ。先ほど白岩が申した通り砂漠の中からコインを探し出すほど難事であることは承知の上じゃが……、」
そこで旭子は椅子からするりと降りて上半身を倒し両手と額を床につけた。薄絹のヴェールがひと呼吸遅れてふわりと床に広がる。
「この通りじゃ、そなたたちの命、無辜なる民たちを救うため吾にくれ」

 これには四人の男、そして古相寺も度肝を抜かれた。
この結社にあっては雲の上の存在であり、天主様こと本天皇に助言という名目で指図することさえある秘巫女職なのである。普通なら傲慢になっても止むを得ない頂点にある旭子が、会社でいえば平社員扱い、人聞きの悪い言葉を使えば使い捨てである特務員たちに土下座したのだ。
「あ、いや、もったいない」と白岩が止めようとするがあまりの驚きで腰が抜けて動けない。一番傍にいた巫女である古相寺も慌てて近寄り手を取り「旭子様、お顔をお上げ下さいませ、このような事をなされては、示しがつきませぬ」と諫める。
他の三人の男たちや残りの巫女たちは旭子より頭を低くしようと床に伏せた。

 しかし旭子は土下座したままもう一度こいねがった。
「皆の者、吾が願い、聞き届けてくれるか?」

 白岩が床に額を擦りつけるようにして答える。
「承ってござる。元より天子様の御為に捨つる命でございますが、秘巫女様の広島長崎の民へ手向ける深い情けは京の裏御所におわします天子様も全く同じお気持ちに相違ありますまい。
どうぞ頭をお上げくだされ」
すると旭子は頭を上げてその場で座り直して思い出したように聞かせた。
「裏御所の天子様はほんに優しいお子ですよ、何年か前、暦の講義に参内した時のこと、たまたま天子様が畳の上の小さな蚊の骸をお見つけになり『朕は殺生しとうない。あの煙をやめてたもれ』と侍従に仰せになったのです。
御前を下がってから侍従に仔細を聞いたところ、新しい部屋が大きくなって以前使ってた蚊帳が届かぬため張らずに蚊取り線香を焚いておったそうで、蚊の命さえ憐れむお方なのです
きっと広島長崎の無辜なる民を救うこと御同意下されよう」
旭子の言葉に白岩は頭を垂れた。
「承ってそうろう。我ら、天子様、秘巫女様の御心のままに、この大役、命を捨てても、きっと成し遂げまする」
男たちも古相寺も「命を捨ててもきっと成し遂げまする」と続けざまに答えた。

第5章 タイムダイバー隊出発

 桜受家最奥殿でのタイムマシン派遣隊の顔合わせから一か月が過ぎていた。
タイムマシンC205型重力歪曲時間転移装置と搭乗コード端末機が完成し桜受家の技術部による本格稼働試験が始まった。

 今日は手始めに14時44分にアラームがセットされた目覚まし時計とポットと万年筆の3点セットを14時43分の過去に送り、4分間滞在させた後に再び現在に呼び戻すという実験が行われるところだ。当然、目覚まし時計は過去で誰かに止められなければ鳴り響いた状態で帰還する筈である。

 タイムマシン装置本体は神社と隣接する学校との境界にある長さ8メートル、奥行き5メートルの物置小屋の中にある。
タイムマシンの稼働にはまず装置の中心に小さなサイズのカー・ニューマン・ブラックホールを作り出すのに30分、さらに回転と電圧を上げて同じサイズの極限ブラックホールに成長させるのに15分かかる。

 一般にタイムマシンと聞くと乗り物の中に乗り込むイメージを持たれるだろうが、このように小さいが危険なブラックホールを扱うので、重力歪曲時間転移装置では人は装置の外側に出来る特異点のドーナツのさらに外側に立ってワープするのである。
具体的には装置の中心半径6メートルの円上、小屋外側にある搭乗コード端末機の近くの物体がタイムワープされるという仕掛けになる。
ということで小屋から半径6メートルの円周には赤いビニールテープが釘付けにされてその内側にある東屋の池のほとりに3点セットが搭乗コード端末機の半径1メートル以内にひとまとめにされて置かれた。

 地下三十階にある最奥殿横の事務室には秘巫女の旭子や古相寺をはじめとした十名の巫女たち、そしてタイムマシン派遣隊の男性4人、技術部の島崎部長と部下二人が60インチのモニターを食い入るように見詰めている。

 事務室の壁時計が14時58分を告げていた。
背の高い島崎部長が腕時計Gショックを確かめて旭子にリモコンを渡した。
「それではカウントダウンに移ります。秘巫女様はゼロでスイッチをお願いします」

 技術部の部下がカウントダウンする。
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
旭子はリモコンのボタンを押した。

「押したわ」
「ありがとうございます。システムスタートしました」
地下の高圧線を通しておそらく京都府全体が2時間で消費する電力がほんの一瞬で地下にあるフリーエネルギー充電池を使って供給された。
物置小屋を映し出してるモニターのスピーカーからモーターの唸るような音が聞こえ、扉や閉じられた雨戸と壁とのわずかな隙間から光が漏れ出た。

 かと思うと黒い霧が小屋の中央から湧いてきて次第に濃くなってゆき、両端以外の小屋の中央部をすっかり覆い隠して池のほとりにある3点セットの1メートル手前まで迫っている。しかし3点セットは動く気配も消える気配も見えない。そんな状態が30分も続いた。

 すると古相寺が大きな声で元気づける。
「皆さん、大丈夫ですよ、これがカー・ニューマン・ブラックホールですから」
だが、かえって巫女たちから不安のささやきが漏れ出した。

「島崎、これでよいのか?」
おもむろに旭子が技術部部長に尋ねると、部長は笑顔で答えた。
「ええ、ご安心ください、これは正常のプロセスです」

 壁時計は15時40分になった。
黒い霧は次第に濃くなってゆき水平方向に自転してるように見える、長さ50センチほどの小さな稲妻が外に向けて光を放つ。巫女たちのささやきがざわめく。
「島崎、これでよいのだな?」
「はい、カー・ニューマン・ブラックホールのエネルギーが上がり極限ブラックホールが完成しつつあるのです。もうひと息です」

 するとどこからか枯れ葉が数枚風に乗ってやって来た次の瞬間、搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆がふわっと宙に50センチも浮き上がった。
「あーっ」
皆が一斉に声を上げると、搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆はびょーんと小屋の長辺方向に30センチほど伸びたように見えた。
菊高があり得ないと叫びそうになった瞬間、それらは音もなく空中に消えてしまった。
壁時計は15時43分。搭乗コード端末機と3点セットはちょうど1時間の過去に飛んだ筈である。
物置小屋の中央は依然として黒い霧に包まれている。

「島崎、うまくいったのか?」
「はい、おそらく。現在端末からの信号がありますので消滅した訳ではないです。今から3分後に戻るようにセットしてあります」

 壁時計が15時44分を示してるのを確かめてみんながモニターに映し出された東屋の池のほとりを注視した。

 時計が15時47分を過ぎた。
不意に地上50センチの空中に搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆が現れた。目覚ましがけたたましく鳴り響いている。それらの形は伸びた状態だったがすぐに縮んで正常に戻り、地上に落ちた。
拍手と歓声が沸き起こった。
地上にいた技術スタッフが駆け寄り目覚ましのベルを止めた。

「秘巫女様、実験成功です」
「でかしたな」
「秘巫女様、我らも安心して仕事が出来ます」
タイムマシン派遣隊の男4人はガッツポーズをした。その輪からすっと抜け出した松丸は古相寺のそばに歩み寄って手を差し出し、白い歯を見せて言った。
「これで行けますね。よろしくお願いします」
古相寺は壬生野に「ほら」と手首をつかまれ押し出されて、松丸と握手した。
「あっ、はい、宜しくお願いいたします」
「じゃあ、また」
松丸はさわやかな笑顔を残して去った。

「美穂、どないや? 恋人と手を繋いだ感じは?」
壬生野がからかったが、古相寺はしらばくれる。
「し、知らんよ、なんとも思ってへんもん」
そう言いながら、すぐに手でさかんに顔を扇ぐ古相寺だった。

 稼働実験は順調に進み、次第に目標時を遠い過去へと広げてゆき、5年前に送り出した3点セットを呼び戻す実験も成功した。

   ○

 いよいよ明日の出発を前に、その夜は同僚巫女たちが本部内にある食堂に集まり古相寺を送り出す送別会が開かれていた。

 瑣事になるが、地上世間ではマスコミや政府主導によるインフルエンザ感染症を特別視した集団ヒステリー症が全国的に蔓延しており、不活毒式免疫抑制剤の接種キャンペーンが繰り広げられているやに聞く。しかし、結社の地下要塞内ではそのような事態を演出する毒散布もないためか集団ヒステリーもなく、もちろん危険な不活毒式免疫抑制剤の接種などする筈もない。当然、全員朝から晩までノーマスクである。
おそらく少し先の未来で歴史が当惑した珍事件、歴史当惑珍事件として記録されるに違いない。

 脱線したので話を元に戻そう
本部内の食堂は夜8時で終了なのだが、今夜は特別に頼み込んで貸し切りにしてもらった。居酒屋も本部内に数軒あるのだが、そちらは他部門の目と耳があるため思い切り騒げないから食堂になったのである。秘巫女の旭子は最初に挨拶してお神酒で乾杯すると、金一封を最年長の奥山紅葉に渡して帰ってしまった。

 奥山女史が酔っぱらった声で演説する。
「二日酔いなんて許しませんよ。皆さん、明日もちゃんとお勤めしてもらいますからね」
皆は適当に「イエー」と声を上げて拍手する。
「あなたたちはもう最初にお神酒を飲んだんだから、ウイスキーはダメよ、ちゃんぽんは悪酔いするからね、ビールにしてトイレでサッと出せば悪酔いしないから」
すると早くも酔いのまわった古相寺がろれつの定まらない舌で言う。
「えへー、そうなんれすか、締めにちゃんぽんわ、だめれすかあ? うち、ちゃんぽん好きやのに」

 すると菊高麗子が腕組みして言い放った。
「古相寺、あんた、また変な事言ってはるし。この前、あんたがタイムマシンの変な説明した噂が漏れて、天神結社の知子様にお小言を頂戴したそうやないの。あんたのせいで桜受家の評価が下がったりしたら、うちにとってえらい益体やくたいやわ、気ぃ付けてよ」

「ごめんなはい、きったかさん」
古相寺が謝ると、さらに菊高はさらに1センチ顎を上げた。
「そもそもなんであんたみたいな巫女としての出来が今ひとつ、いえ今ふたつ、いえ今みっつな方が、大事なタイムマシン派遣隊に選抜されたのかが意味不明やということやわ。
旭子様は素晴らしい秘巫女様やけど、今回の選抜については疑問が残るわ」
菊高はフーッと溜め息を吐いて古相寺を見詰めた。

 古相寺はてっきり菊高自身がタイムマシン派遣隊に入りたいのだなと感じて提案した。
「あの、もひよろひければ私から一生懸命旭子様にお願い申ひ上げて、菊高さんに替えてもらいまひょうか?」

 すると菊高はぎゅっと腕を掴んでた手に力を入れて「私はそんな事を言ってるんじゃあらへん」と叫んだ。

「あんたがそないな事を言うたとしても、すでに次期秘巫女と皆さんに噂されてる優秀な私に、そんなん帰って来れへんかもしれん危険な役目なんか旭子様が任せる筈がないでしょが。そうではなくてな、惜しみない者を選ぶにしても、あんたよりもう少し良い人がいるんやないかと感じただけやわ」
この言葉にはさすがにちょっと鈍いとこのある古相寺もしなだれて涙目になった。

 壬生野が古相寺の肩を抱いて撫で、菊高に振り向いた。
「ちょっと菊高さん、あんまりやで。
美穂はあんたに比べたら足りてないとこはあるかもしれへんやけど、性格はあんたよりずっといいしな……。相手ん立場にたって思いやるとこは巫女ん中でも一番やて、うちはよう知っとる。これ以上美穂ん悪口しゃべるならな、馬と鹿の頭で蠱物まじものしてあんたん脳みそをおバカの脳みそに入れ替えてやるわっ」
菊高も言い返す。
「ふんっ、そんな外道の術にうちがやられると思うてんの」

 と突然、奥山が大声を出した。
「そこおっ、喧嘩してると、旭子様に報告してタライを抱えさせるわよ!」
賑やかにしゃべってた室内が一瞬で凍り付いたように静かになった。
タライとは巫女たちにとってへたすれば大火傷を負う危険のある恐ろしいお仕置きだった。
菊高は素早く「喧嘩じゃありません、ご心配なく」と声を上げた。そしてそつのない優等生らしく古相寺と壬生野に向かって「少し言葉が過ぎたところがあったら謝りますわ」と軽く顎を引いて見せた。
「きったかさん、これからもずっと仲良うひてくらさい」
古相寺は嬉しそうに言った。壬生野は相手を疑う事を知らない古相寺に少し呆れたものの、そんな古相寺のまっすぐな性格に強く憧れ、ずっと応援してゆくんだという自分の決心を確かめると何やら誇らしい気持ちが沸き上がるのだった。

「美穂、いよいよ明日、出発やけど困った時や、ううん、何もなくても毎日遠慮せいで言っておいで。私もいざちゅう時は、美穂んところ、飛んでゆくつもりでおるしな」
壬生野が言うと古相寺が突然、鼻の下をこすって笑う。
「美穂、どうかしたん?」
「だってえ、言っておいでとか情弱なことをいわれても困っちゃうでな。うち、技術ん人に聞いたんやけどタイムトラベルしたらスマホは使えへんだって。わかる? つまりね、メールもLINEもツイッターもインスタもつながらんのんよ、茜は知らんかったのね」
古相寺は生まれて初めて自分が親友の壬生野の往生する顔を見る番だなと身構えたが、壬生野は別の意味で「えーっ?」と声を上げた。
「もしかして、美穂はあのコード端末機で短いメッセージを送れるんを知らへんの?」

 壬生野に言われて古相寺は白目が全周に見えるほど目を開いた。
「えっ、なん? あのごつい機械で、そないなことが出来はるん?」

「知らんかったんかい? そやから毎日メッセ頂戴ゆうてんよ」
壬生野が突っ込むと古相寺は飛び上がった。
「ほうか、やったあ、これでちびっとは寂しさも紛れるんね。すごいわ!」
「美穂はほんに天真爛漫のかたまりやな、可愛らしゆうてええわ」
「よし、そうと決まればもっとビール飲もうな」

 古相寺がテーブルに並んでるビール瓶の前まで行って持ち去ろうとすると、奥山がその手を捕まえた。
「古相寺はもう飲んだらダメや。あんたは明日は大事なお勤めなんやからな、アルコールはもう打ち止めや」
古相寺の眉間に二条城の屋根のように眉が寄った。
「そんなあ」
「古相寺は間違っても二日酔いになれへんのやで。もし古相寺が二日酔いなったら監督のうちまでタライのお仕置きに決まりや、そんなん勘弁しといてくれな」
古相寺はムッとしたがそれを堪えて訊いた。
「ほな、たこ焼きとたい焼きとおはぎとチョコをありったけもらってええですか」
「うん、そっちゃは好きなだけ持っておゆき」
古相寺は壬生野も呼んでお菓子をたっぷり抱えた。

   ○

 いよいよタイムマシン派遣隊出発の日が来た。
秋の空は風が時々、強く吹くものの高く晴れ渡った。
旭子が壬生野ら十人もの巫女を従えて神社の小さな宝庫となってる桜受家の地上口から出ると、たまたま境内を歩いていた巫女が思わず声を上げた。
あそこは使ってないと教えられていた宝庫から知らない巫女達が出て来ただけでも驚きだが、一番偉そうな巫女は尋常でないオーラを放っている上に、十二単衣のうちの何枚かと思える艶やかな衣に絹の薄衣を天女のように羽織っているのである。その旭子がそっと頷くと、神社の巫女は深々と礼をしたまま動けなくなった。
奥山、菊高が目も合わせずに通り過ぎる。
神社の巫女は地下に別系列の一般参拝できない秘密の神社があるのだとは教えられていた。滅多に地上には姿を見せないが、もし宮司や巫女をお見かけしても話しかけたりせず無礼のないように距離を置きなさいと注意されていたのだ。
だが、実際会ってみたらどうしてよいかわからない。

 そこで壬生野が声をかけお辞儀した。
「ご苦労様でございます」
神社の巫女はホッとして会釈を返し本殿の方に足早に立ち去った。

 旭子たちは広い庭の中に池に面した東屋にたどり着いた。すでに腰かけて待っていた五人の男と古相寺が一斉に立ち上がった。いよいよこれから太平洋戦争の真っただ中にタイムトラベルするのだ。
「皆の者、ご苦労じゃな」
旭子が声をかけると、一同から「はっ」と切れの良い返事がくる。

 男たちは国民服といわれた陸軍カーキ色の布地の服にズボンの裾はふくらはぎ全体をゲートルと呼ばれた包帯のような帯でグルグルと巻き絞っていた。しかし、古相寺はグレーとピンク、ツートンのスポーツウェアの上下である。
「男たちの服はよいとして、古相寺は目立ちすぎではないか」
旭子が言うと古相寺は睨み返す勢いで言う。
「だって死ぬかもしれないのに、おしゃれもできないなんてあんまりです。せめてこれぐらいはお許しください」

 するとタイムマシン派遣隊の服装の時代考証役を務めた巫女の塔柿杏子が明かす。
「憲兵に睨まれたら損だから地味なモンペにしろと言ったのですが、言うことを聞かないのです。そのうえ、昨夜、部屋を覗いたら『明日から木の根っことすいとんしか食べられないんだから』とたこ焼きとたい焼きとおはぎとチョコを鼻血を出しながら自棄食やけぐいしてました」
告げ口に古相寺は頬を真っ赤に染めながら言い訳する。
「だって死ぬかもしれないのに、木の根っことすいとんじゃあんまりです。だから可能な限り食いだめしようとしたんです」
旭子は呆れ顔になったが、今日ばかりは責めることはしなかった。菊高はひとこと言ってやりたい顔をしてたが空気を読んで黙り込んだ。

 そこへ技術部長の島崎が近寄ってくる。背が高く胴も長いためなのか作業着の上着が短すぎる。
「島崎、タイムマシンは問題ないな?」
「はい、既にアイドリングに入り、最終チェックも済ませました」
旭子は神社と隣接する学校との境界にある長さ8メートル、奥行き5メートルの物置小屋に目をやった。すでにシステムが運転を始めているため小屋の中央部にはすっかり黒い霧がまとわりついて覆っている。

 東屋で円陣を囲んだ一行が手に盃を持つと奥山と壬生野が徳利で注いでいった。注いでいるのは酒ではなく水である。全員に水盃が行き渡ったのを見極めて旭子が述べた。
「皆、準備は抜かりなく出来たようじゃな」
旭子が問うと、一斉に「はっ」と声が返った。

 五人には昨日の昼に旭子から一人ひとりを呼び出して作戦参加意思の最終確認をしてあった。もちろん辞退したとて勤務評価は今のまま下がることもないし、もし心残りがあるならむしろ辞退してくれた方がチーム全体が互いに安心できるから遠慮はいらないぞ。そう趣旨を伝えてからの確認だったが……。

「一人も欠ける事無くこの原爆阻止作戦に参加してくれて大変嬉しく思うぞ。
後世に語り継ぐためにそなたらを桜受のタイムダイバー隊と名付ける」
「タ、タイムドライバーですか」
白岩が本当にぼけたのか場を和ますための冗談かわからぬように言うと、壬生野がすかさず訂正する。
「ドライバーではなくダイバーです。スキューバダイビングが海に飛び込むものなら、皆さんは時間に飛び込むタイムダイバーです」
すると古相寺が元気に言う。
「なんだか戦隊ものみたいで、すっごく気に入りました」
そのひと言で男たちのど緊張がぐっと和らいだ。古相寺の神経はなかなか太いようだなと旭子は微笑んだ。

 旭子が言葉に力を込めた。
「そなたらは間違いなく大役を果たして20万の無辜の民を救うてくれるであろう事、吾にはもう見えておる。
あらかじめ礼を申しておく、ありがとう」
旭子が頭を垂れるとタイムダイバー隊員が揃ってお辞儀した。
「現場は物資の不足した時代状況ゆえ、当初の計画を修正せねばならない事も多々あるだろうが、臨機応変に対処してくれよ。
ただ手回りの小さき機材なら持ち込めると聞いて安心した。工夫して当たってくれよ。
体調を崩さぬように気をつけよ。
またこのような事を軽々しく口にしたくないが、そなたらが作戦遂行のために敵前に屍となって弁慶のように立ちはだからねばならぬ時もあるやもしれん、それでも頼むぞ」
旭子は感極まって涙声になった。
「しかし任務を終えれば、たとえこの時代に戻れずとも、いつかは皆死ぬるぞ。その時はあの世で吾とともに今度は水盃ではなく最上の酒を飲み交わし昔話に花を咲かそうぞ。
吾も死ぬる時は自慢のそなたらの手柄話を楽しみに死ぬるでな」
これには命知らずの男たちも感極まって「もったいない」と涙を流した。

   ○

 島崎部長が「皆様、搭乗コード端末機の時計を確認ください」と言った。
五人は腰に巻いたカーキ色のウェストポーチの覆いを開いた。そこには緑色の液晶数字があり、SET TIME TO MOTHER とか SHOW PROGRAMED PLACE & TIME などと表示されたボタンが7個並んでいる。
液晶には行く先の時刻である 1944Y 10M 15D  15:00 が表示されている。地理的にも好きな地点に移動可能だが、今回は同じ神社の境内の座標が表示されているようだ。
「ではSYNCHRONIZE と書かれた黄色いボタンを押します」
すると六個の端末の液晶数字が一斉に親機のタイミングでぐるぐるとめまぐるしく動き点滅し始める。
「数字が一桁になったら読み上げてください」
と次の瞬間、ピコーンと音がして秒表示がゼロゼロになり、五人は声をそろえて秒を数え始める。
「ひと、ふた、みい、よー、いつ、むゆ、なな、やー、ここの、たり」
島崎部長がすかさず言う。
「あと9分50秒でワープします」

 そこで白岩が旭子に挨拶する。
「秘巫女様、それでは桜受のタイムダイバー隊、出動します」
「うむ、頼むでな」
旭子が頷くと、五人の隊員たちは地面に釘で打ち付けられたテープが描く円弧に沿って互いの距離を取って並んだ。安全のため一人の占める空間は半径1.3メートルまでとマニュアルにあり、隊員たちは隣の者と2メートル近く離れた。
映画「ターミネーター」のタイムマシンでは全裸の格好で送り込まれていたが、幸い桜受家のタイムダイバー隊は服を着たまま替えの服と下着の入ったナップザックを背負い、搭乗コード端末の入ったウェストポーチを腰に巻いたままである。変わった携行品としては矢吹や松丸、望月はドローンやスマホ、太陽光発電板などを携行してゆく。古相寺はこっそり口紅と基礎化粧品、日焼け止めを持った。

 東屋でタイムダイバー隊を眺めていた旭子は島崎部長に尋ねる。
「この前の実験では地下にいたが、近くにおってもよいのか?」
「大丈夫です。米国のビデオを見ましたが搭乗端末を持った者だけがワープし、持たない白衣の研究者は親機に近くてもそのままなのです」
島崎はそう言うとデジタル腕時計に視線を落とし、部下が「あと30秒です、28、27、26、25、24」とカウントダウンを始めた。
小屋の中央を包む黒い霧は次第に濃くなってゆき自転を始め、小さな稲妻が霧から外に向けて光を放つ。
島崎が叫んだ。
「カー・ニューマン・ブラックホールが極限に達します」

 さすがに男たちは緊張に満ちた引き締まったいい顔で秘巫女を見つめていた。ただ古相寺は何を思ったのかVサインを裏返して頬にあて首を傾げている。

 旭子が意識を読むと(永遠の別れかもしれないのに真面目にしてるのはきつすぎだからこうしてやる。悪気はないのはわかるけどどうして私が派遣されなければならないのか納得いかないもの。特務員の方だけでよいような気もするもの)という思考が読めた。
旭子は先方には読み取れないのを承知で念を古相寺に送った。
(仕方ないのだ。この仕事は熱意があり、物怖じを知らないお前でなければうまくゆかない。こらえてやり遂げておくれ)

「9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
島崎の部下のカウントダウンがゼロに達すると、つむじ風が通り抜けたと思った瞬間、5人の隊員たちの体が宙に50センチも浮き上がった。
だが今までの実験を見てきた隊員たちは声をあげるでもなく、冷静に旭子の方を向いていた。
次は伸張が起きる筈だと旭子が考えていると、隊員たちの体はびょーんと小屋に並んだ方向に50センチほど伸びた。
さすがに東屋の巫女たちから小さな悲鳴が起きた。ただ菊高だけは(こんな危険な派遣は馬鹿げてるわ)と冷ややかに眺めている。

 次の瞬間、隊員たちの姿は音も声も立てず跡形もなく消えてしまった。

 後には風が運んだ枯れ葉が次から次へと飛ばされて来ては、またどこかへと去ってゆくのみだった。

第6章 昭和の秘巫女公子きみこ

 古相寺の目に、旭子の立っていた東屋が虹色の球に包まれるのが見えた。
さらに七色の雨が横殴りに自分に叩き付けて来て驚くが、それは見た目は雨でも感触はない光だけのもので、その中を自分の体が勝手に突き進んでゆくのを感じる。
まるで自分が飛んでいるみたいや。
しかし、本当の自分はただ立っているだけの筈だ。まるで鮮やかな絵の具が勝手に自分の周囲にポタポタと色を塗りたくってゆきながら景色がどんどんと後退してゆくために、自分の方がすごい速度で前進していると感じるのだ。前方の虹色の球はというとずっと同じ距離のままで近くなる気配はない。

 この状態はいつまで続くんだという疑問が繰り返し浮かんで来ると、鮮やかだった絵の具は色褪せ、ただ灰色に光る雨へと変わってくる。

 やがて虹色の球も透き通っていき、再び東屋が見えてきた。
だが、そこには誰の姿もない。
えーと、うちは何してたんだっけと周囲を見渡した古相寺は、横に国民服姿の特務員たちが立っているのを見つけて自分たちがタイムトラベルしたのを思い出した。
急いでウェストポーチを開きコード端末機の表示を確かめると、NOW 1944Y 10M 15D  15:01 という時刻になっている。成功したんだわ。
古相寺はすぐにメッセージモードに切り替えて、壬生野充てに報告しようとする。しかし日本語変換がないのでローマ字で送るしかない。

to Mibuno Akane < ima tsuitayo!!! yoteidoori!!! zenzen heikiyatta!!!

 送信してしばらく液晶を見ていたが、返事はすぐには来なかった。届く過程に時間がかかるのか、届いてから技術さんが文書にして壬生野に渡してくれるまで時間がかかるのだろう。

 古相寺はコード端末機をしまうと、まるで居眠りしてるかのように俯いて立ってる白岩に歩み寄って声をかける。
「白岩さん、タイムトラベル、成功しはったみたいですねえ?」
白岩はハッと顔をあげて驚きの声を出した。
「おっ、ああ、古相寺か。そうか、そうか思い出したぞ、たしかわしたちはえーと」
白岩は頷いてみたものの自分たちの隊の名前が出て来ない。
古相寺が失笑する。
「ややわ、思い出してないやありまへんか、私たちは桜受のタイムダイバー隊です」
「おう、それそれ、それや。あんまり視界がぐるぐるどしたもんで目をつぶっててな、ちょいと度忘れしただけや」

 白岩は照れ隠しに周りをキョロキョロして言う。
「皆、揃ってるようやな? 点呼を取るぞ、望月、無事か?」
「おう、手足もあれもついとるで」
「矢吹は?」
「ここにいてます」
「松丸」
「はい、無事です」
「で、古相寺もおるし全員揃っとるな。では早速、結社の奥殿に乗り込もうぞ」

 意気込む白岩の腕を古相寺が引き留めた。
「待ってください。私たちは80年も時代を遡って来たんですよ。
当代の桜受家にはうちらの顔を見知った者は一人もおらんです。皆様のようにむさ苦しい方々が徒党を組んで行けば、どこぞんヤクザが難癖を付けに来やはったと疑われるのが関の山です」
白岩が眉間に皺を立てた。
「な、なんだと、てめえ、たいがいにしとけよ」
「まあ気ぃ落ち着けて下さい。もちろん私は皆様が桜受家の誇る選りすぐりん特務員と知ってますけど、こん時代の事務員や警備実動員にはそうは見えないですよね?」
「うん、まあな……」

「すると当代の秘巫女様が防御戦闘の式術を発動しはり、特務員も非番の者まで招集して総構えで繰り出して闘うなどという、身内同士が愚かで無益な殺生沙汰を起こす事になってしまいますよ。
ここは最初に私が一人で参内して当代秘巫女様に事情を細かく打ち明けて、特務員皆様の特別待遇を得たのちに紹介いたしますので、しぱらく東屋でおくつろぎ下さい」
古相寺が言葉巧みに落ち着かせると白岩がにやりと笑った。
「古相寺、おめえにしてはえらい賢くなったな?」
白岩に言われて古相寺はペロリと舌を出した。
「最初はこうしろと旭子様に教えられてきたので」
一同が笑い望月が言った。
「ほななきゃ古相寺にあんな口上が出来る筈ないわな」

   ○

 桜受家の入り口は現代と同じ宝物庫にあった。
外側の木製扉は特に施錠はされておらず、内側に入れたが奥の部屋に進むと厳重な鉄扉になっている。
そこで古相寺は困ってしまった。現代は鉄扉のすぐ横の壁に暗証番号と指紋の認証装置があるのに、この太平洋戦争時代にはそのようなセキュリティー装置がないのだ。そればかりかインターホンすらない。

 あるのは鉄扉に開いている鍵穴だけだ。

 古相寺はとりあえず鉄扉を叩いてみた。
最初は単調に叩いてから大き目の鍵穴の暗い奥を覗いてみたり、耳を扉に押し付けて誰かが来る気配がしないか聞いてみたが、何の反応もない。
古相寺はさらにしばらく鉄扉を叩き続けてみたが、反応はなかった。

 しまいには扉を叩きながら大声で叫んだ。
「緊急の用で来ました、私は桜受家の巫女の古相寺と申します。ここを開けて下さい」

「緊急の用で来ました、ここを開けて下さい。私は桜受家の巫女の古相寺と申します。緊急の用で参りました、開けて下さい」

「聞こえないのでおじゃりますか?」
言い方がおかしな京ことばになってくる。
「そんな筈あらしまへんわなあ? 建物の造りは知ってますよって。
わらわは桜受家の巫女、古相寺と申します。緊急の用で参りましたゆえ開けてたもれ」
とうとう古相寺もきれてしまう。
「聞こえぬのか、とっとと開けろっつうの、このおたんこなす」

 古相寺がそこまで言うと扉の向こうから女性の声で咳払いがした。
「鍵は貴方が扉を五回叩いた時にお開けしましたよ」
古相寺は慌てて謝りながらドアについてる把手を引いた。しかし、びくとも動かない。
「申し訳ありません、て、ドアの把手がびくともしませんが」
すると声の主は冷たく言い返す。
「それぐらいの仕掛けを見破れひんとは、ほんに当家の者ですか?」

 古相寺は愕然とした。
現代では暗証番号と指紋認証で簡単に入れるのが当たり前だったので、まさか入口にそれ以外の仕掛けがあるなどと思いもよらない。
「私の知ってる扉にはこういう仕掛けはなかったんです、教えてください」
「よう言わんわ」
「お願いします、本当に緊急の用なんです、開けて下さい」
「どのような用です?」
「大変な機密を含みますので秘巫女様に直接お話ししたいのです」

 相手は冷たく言い放つ。
「開いてる扉も開けられないような身内が秘巫女様に直接談判しはりたいと?」
「仕掛けを見破れない点はお詫びいたします、どうかここを開けて下さい」
「そう言われても鍵は開いておると言うとるに」
「降参です、お姉様、開けて下さい」

 すると鉄扉は動かないままなのに、なんと扉の左隣の壁がまるごと奥に引っ込んで隙間が広がった。
まさに意表を突く仕掛け、これでは鍵穴をどうにかすればと考えてるコソ泥は永久に中に入れない。
顔を覗かせた四十代の女性は紺色事務服に名札の布が縫い付けられてあって「酸漿ほおずき」とある。ほおずきの鬼灯という当て字を思い出し古相寺はぞっとした。
「身内ならご存知かと思いますが、あんさんの懇願で秘密の鍵を開けてくれたのやから、潔白の申し開きと絶対に口外しない誓いをして頂きますよって」

「まさか……?」
古相寺はここであのタライの尋問を自分が受けるのかと青くなった。
「あのタライ責めですか?」

 酸漿さんは表情を変えずに冷たく返した。
「それぐらいは知ってはりましたか、説明が省けました」
扉の内側の階段を降りると通路と事務室になっていて、奥の部屋からは早速頭にハチマキをした強面を先頭に三人の警備実働員が現れた。

「さあ、こちらへ」
酸漿さんに手を引かれて古相寺は警備実働員に引き渡される。
「なんでも当家の巫女と言いはりましてな、大変な機密を含む用で直々に秘巫女様に談判したいそうどすが、扉の仕掛けも知らへんのどすえ」

 古相寺はもう逃げ出したかった。
そこで勝手ながら白岩に身代わりを頼もうと考えた。白岩はああ見えて漢気も備えている、きっと私の身代わりを引き受けてくれるだろう。
そんな計算を素早くして提案する。
「あの実は白岩という連れが外まで来ておりましてその者が尋問を受けるのが得意なのです。その者に代わってもらってよいでしょうか?」
「ふん、それが本当なら大方、特務員やな。特務員にそないな尻拭いをさせるのは卑怯やないかね?」
「そ、それは、人には得手不得手があるではないですか。お願いです、許してください、タライ責めは研修の時にぬるま湯でやっただけなんです。熱い油のタライなんて絶対に無理です、ひっくり返して引火して火傷で死んでしまいます」
「身内なら大丈夫やで。死ぬ手前で手加減したるさかい、さ、奥の部屋や」

 三人の実働員に囲まれたまま入った十畳ほどの部屋は床がコンクリート打ちっ放しで中央にポツンと薄い座布団が置いてある。
古相寺はいかにも囚人が着そうなグレーの着物を渡されて隅っこを指で示される。そこには筵が吊るされただけの扉の小部屋がある。現代の研修の時はもっと立派なシャワー室になってた記憶があるのだが。
「あそこで着替えて来い。その変な服では火傷後に剥がすのが大変やでの」
「もう許してください。秘巫女様に会わなくても構いまへんから帰して下さい」
古相寺は泣きそうになりながら頼んだが冷たく却下される。
「そうはいくかいな。扉の秘密を知られたからには誓わせずに帰すわけにはいかへんで」

 大事な端末機の入ったウェストポーチを外し灰色の着物に着替えた古相寺が戻ると、実働員二人が一斗缶からタライに油を注いでいるところだ。
「お前はそこ」
古相寺は部屋の中央に歩み寄り「正座だ」と命令される。
極度の不安に包まれながら座布団に正座した。
古相寺の両膝の外側に左右ひとつずつ、そして膝の前にひとつ、火の点いた蝋燭が立て置かれると、二人の実働員がタライを古相寺の頭に乗せる。

「さあしっかりタライを持てよ、こぼすと火傷するぞ」
古相寺は仕方なくタライを持ちながら文句を言う。
「ひどいです、身内なのに」
「本当に身内か調べるためのタライ責めやないか。お前の所属はどこや?」
「秘巫女様直属の巫女衆です」
「お前の顔は今日初めて見たぞ」
古相寺はでまかせを口にする。
「それは、わ、私は先代様に採用されてすぐに地方に派遣されまして、その辺の特殊な事情も含めて当代の秘巫女様にお話ししたいのです、そもそもウソならわざわざ秘密結社の桜受家に尋ねて来る筈もないでしょう」
「それはどこぞのマタハリか川島芳子が賭けに出て来たのかもしれんしな。本当はお前は鬼畜米英のスパイで当家を篭絡し、わが国を分断しようという策略ではないのか?」
早くもタライを支える腕が疲れ始めて来たので早口で言う。
「そのような手間のかかる事を合理精神の米英がするとお思いですか? まさか大本営発表の大盛り改竄戦局報道を真実と思ってないでしょうね?」
実働員古相寺の刺激的発言には答えずに訊いてくる。
「さて。何かお前の身分を明かしだてるものはないのか?」

 結社の有力者にはやんごとなき家から国宝級の宝物や叙位叙勲の標や証書を頂いてる者も多いが、古相寺個人には何もなかった。代わりにスマホの旭子様の凛々しい正装姿の動画を見せたらという考えが浮かんだ。
そこに映っている祭壇やご神鏡は明治時代の終わりに作り直されたというから今の時代と同じに違いない。だが、それを見せてスマホを取り上げられたら今後の活動に支障をきたすだろう。昭和時代ではもちろん基地局電波がないから通話やメールはできないが、テザリング機能で近くの仲間とテキストや画像を送るという使い方は可能な筈とレクチャーされている。そう考えると大事なスマホを見せるわけにはいかなかった。

 古相寺は方向を変えて提案してみた。
「ならば桜受家で使う祝詞をそらで全て言えます」
「ふん、そんなもん、本が出てるでな、必死で覚えれば取り繕える」
「いえ、当家の祝詞は独特の発声を使ってますから巷の本とは違います」
「ほう、ではそうやな、五形ごぎょうはらひを聞かせてもらおうか?」
「謹請三元三行三妙加持 ひとにかかりなすおほかみとまをしまつるは
天八下魂命あめのやくだりむすびのみこと天三降魂命あめのみくだりむすびのみこと天合魂命あめのあひむすびのみこと天八百日魂命あめのやおひむすびのみこと天八十万魂命あめのやそろづむすびのみこと、是の五柱神いつはしらのかみのつつしみて……」
そう宣っているうちにタライを押さえてる腕がぷるぷると震え始めた。
ううっ、もう腕が支えられない。そうなればタライは落下して中の油は蝋燭の火に引火して自分は炎に包まれて大火傷する。
「ああ、腕がもう、助けて」
古相寺が叫ぶといつの間にかタライの両脇に待機していた実働員がさっと手を伸ばして支えてくれた。
「正直に言わないとタライを離すぞ、お前はスパイだな?」
「違います、なんで私が」
古相寺が答える間にタライを支えてた実働員が手を離してしまう。
古相寺は必死でタライのバランスを取ろうとするが、タライは前に傾きかける。前には火の点いた蝋燭があるのに。
「あぁぁー」
古相寺が叫んだところで両脇の実働員が手を伸ばして支えてくれた。
「さ、正直に言えば許してやる、お前はスパイだな?」
古相寺は泣き出したいのをこらえながら否定する。
「違います、本当に私は秘巫女様の部下です」
「まだとぼけるか、それ離すぞ」
また実働員がタライから手を離してしまい、タライはゆっくりと前に傾いてゆく。古相寺は必死で立て直そうとするが、手に思うほどの力が入らない。
大火傷を覚悟しなければと考えが走った……。

「止めよ」

 瞬間、背後から声が響くと、実働員が鷹が獲物を獲る神速でタライを支えた。だがタライから卵大の油が宙に飛び出し、それは前方の蝋燭をかすめて引火したまま床に着地した。
ただ油は古相寺の着物につながってないから火傷の心配はない。

 振り向くとひと目で秘巫女とわかる女性が扉を開けたところに立っていた。古相寺も写真で見知っている昭和前半の桜受家秘巫女、公子である。年齢はまだ20代半ば。古相寺と5歳も違わない筈だが、落ち着き払った威厳をすでに身に纏っている。
タライは古相寺の頭から床に下ろされた。

「これはこれは秘巫女様」
実働員たちが頭を垂れる。
「このようなむさくるしいところへ、どうされたのです?」
「吾に会いたいという者、いかなる化け物かと確かめに来たのじゃ」
実働員の一人がかしこまった。
「お手を煩わせて申し訳ございません。これより口を割らせますので、ご見物下さい」

「もうよい、吾が親しく話すゆえ元の身なりにさせて最奥殿に参らせよ」
「えっ、これは通用扉の開け方も知らぬ、見え透いた嘘を吐く輩でございますぞ。秘巫女様に害をなすやもしれません」
「吾が心の底まで見通したゆえ心配無用じゃ。その者は害はなさん」
「しかし、誰も顔を知らぬ輩ですが……」
「吾がよいと言ったらよいのじゃ」
実働員は慌てて深く頭を垂れた。
「はっ、秘巫女様がそう仰せなら間違いありますまい」

   ○

 古相寺はグレーとピンクのツートンカラーのスポーツウェアに戻って奥殿内の秘巫女の執務室に参内した。そこは現代より工事が進んでないためか地下6階が最下階になっていた。調度品は古相寺の時代とほぼ変わってないが、ただ電話は大正時代設定のドラマに出てくる木箱にベルふたつと小さなラッパがついたやつだ。
公子の衣装は旭子と同じように妃を思わせる鮮やかな装束の上にふわりとした羽衣をまとっている。
巫女が客用の蓋付きの湯飲みでお茶を出してくれて、古相寺は恐縮してしまう。

「よう、おいでやしたな」
「秘巫女様、助けて頂きありがとうございました、古相寺と申します」
公子は微笑を浮かべて頷いた。
「そなたの心にはここと同じ祭壇もご神鏡も映ってはりました。そして旭子様という秘巫女のお姿も見えはりました」
旭子様は読心能力に秀でているが、どうやらこの公子様は透視能力に秀でているようだ。いずれにせよ秘巫女になるぐらいの者は先天か修行かはおいて尋常ならざる能力をお持ちのようだ。

「はい、是非、公子様に旭子様の原爆投下阻止作戦にご理解賜り、ご援助頂いて成功させたく参りました」

「詳しく話してみなさい」
公子は扇を宙にもたげて促した。
古相寺は「はい」と答え、日本が太平洋戦争に敗れるという衝撃と古相寺たちがタイムトラベルして来たという衝撃を公子が受け止めてくれるよう願いながら打ち明けた。

「残念ながら米国はこの太平洋戦争で日本に勝ちそうな勢いにあります。そしてこれからどう賢明な手を打っても、もはや逆転することは難しいかと思われます」
「うむ。だいぶ押されてるという真相は各地の連絡員、特務員から聞いています」
「私のお仕えする旭子様は憂いております、このままこの国が悪い形で、敗けてしまう、ひどい負け方を憂えておいででして」
「ずいぶんとまわりくどい言い方をしはりますね」
古相寺は慌てて頭を下げた。
「秘巫女様を驚ろかすつもりはないのですが、歴史というもの、専門家は世界線という言い方をしますが、やがて科学の力でさかのぼることができます。実は私は四人の特務員と共に80年先の未来の桜受家から来たのです」

 さすがの公子もしばし目を開き口も開いたまま息を止めた。
「残念ながら私の使っていた歴史の教科書には日本が昭和20年8月に太平洋戦争に敗けたと書いてあるのです」

 公子はようやく言葉を発した。
「ふむ……、つまりこういうことか、そなたの主の旭子さんは80年先の未来のここの秘巫女なのだな?」
「その通りです。
日本に勝ったアメリカ合衆国はイギリスに代わり世界一の強大国になります。
そして極秘に先進技術タイムマシンという時間旅行の機械を開発したのです。旭子様はせめて悲惨すぎる戦争の負け方だけでも変更すべく、特務員にその設計図を盗み出すよう命令して見事成功し、私たちを『桜受のタイムダイバー隊』と名付けて、時間旅行の機械を使ってこの昭和時代に派遣したのです」
すると公子は古相寺をじっと見詰めて言った。
「今、そなたの頭の中に大きなキノコのような雲が見えるが……」
古相寺は公子様の透視能力に改めて驚いた。
「はい、それは歴史の教科書で私が一番衝撃的だった写真なんです。雲は新型爆弾の爆風が起こした巨大なものです。原子爆弾と言って、たった一発で広島の街が全て吹き飛び焼け野原となりました」
「なんじゃと………」
公子が扇を持つ手に震わせた。
「はい、それほどすさまじい威力なのです。米国は日本に早く降伏させるためあえて広島の街を一発の爆弾で吹き飛ばしたのです。さらに念を入れ、その三日後には長崎の街も全て吹き飛び焼け野原とされたのです」
「それで、その街の被害は? 民たちは避難出来たのであろうな?」
「そこなのでございます。広島も長崎も民は何の警告もされず避難できないまま両市併せて最終的には20万人を超える一般市民が亡くなりました、いえこれから亡くなってしまうのですが」
「なんという、鬼畜米英め、武士の風上にもおけぬ、外道の極みじゃ」
「はい、旭子様の怒りもはなはだ激しく、なんとしてもタイムマシンで歴史に先回りして無辜なる民を救ってこいとのご命令で私どもが派遣された次第です」
公子は大きく何度も頷いた。
「さすがは吾が後継者じゃな、吾は今知ったばかりが、吾もタイムマシンとやらを手に入れる算段をし、まったく同じ思いで同じことを立案実行するであろう。
大儀じゃろうが、そなたたち、是非に頼むぞ」
「はいっ、そのお言葉、旭子様も恐悦至極きょうえつしごくに存じることでしょう」
古相寺は何度も手のひらに書いて暗記した四字熟語がうまく言えると安堵しながら深々と頭を垂れた。

「となれば、『桜受のタイムダイバー隊』だったな、吾はいかにそなたたちに手助けすればよいのじゃ?」
「はい、四人の特務員を海軍に入れてください。まず白岩という者は書類上で海軍参謀本部の大佐にしてください。矢吹と望月の二人は水上偵察機の乗員。そしてもう一人松丸は海軍省の艦隊司令通信部に入れてほしいのです」
「平時はさすがに難しいが、今は戦時ゆえ異動や補充は頻繁で現地なら怪しまれる事も少ないだろう。海軍じゃな」
「はい、それで一応私の時代にあるもので基礎訓練をしましたが、実物で慣れておきたいので白岩、矢吹、望月の三名は伊号潜水艦や水上偵察機の訓練に参加させてください」
「承知した。わが桜受家では陸海軍に特務員と連絡員が何名も潜入しておる。命令書類の偽造や訓練艦艇への名簿を用意するよう手配しよう」
「はい、あてにしておりました、ありがとうございます」
「それで伊号潜水艦を使ってその新型爆弾を阻止するのだな?」
「はい、新型爆弾は米国の本土から巡洋艦で飛行場のある島に運ばれます。日本軍の制空権、制海権はもはや希薄ですので、単独で巡洋艦を撃沈できるのは潜水艦しかないだろうという作戦です」
「うむ、難儀そうじゃな」

 公子は古相寺の服をじろじろと見た。
「それで古相寺と申したな、そなたはどうするつもりか?」
「はい、とりあえずは海軍省の近くの喫茶店などで働きながら連絡や調整をするつもりでおります」
「そうか……いや、たしか、海軍省は今年の初めに帝都都心から神奈川日吉とかいう田舎にある慶應義塾校舎に疎開を始めたと聞いたぞ。そのような場所に洒落た茶店があるかどうかはわからぬが」
「そうなんですか? でも慶應の前なら何かお店があるでしょう、そこを拠点にします」
「では決まれば近くの桜受の連絡員にも知らせるように手配しよう」
古相寺は頭を下げた。
「ありがとうございます。それと公子様は表の天子様への伝手つてはお持ちでしょうか?」
公子は顎の前で小さく扇を振った。
「もちろんいくつか伝手はあるが、何をするつもりじゃ?」
「失礼ながら今の軍部主導の政権がこの後もなかなか降伏しない気配があります。今後の歴史では我が国はいったん降伏したのちに米国の指導を受けて世界が驚くほどの素晴らしい復興を遂げます。
ですからなるべく早く、出来れば新型爆弾を落とされる前に降伏をした方が国のためになります。それを表の天子様に申し上げて軍人や政治家の言い分にとらわれず一刻も早く降伏を決断されるよう注進いたしたいのです」
古相寺が言うと公子は扇を傾けゆっくり開いた。
「なるほどな」

 扇が開くと描かれた模様の紅葉がさーと広がり黒蒔絵塗りの牛車が現れ、それはまた折りたたまれて紅葉に消えてゆく。
「しかし、裏の天子様を支え申し上げておる吾の立場ではその手引きをする事はいささか思案せねばならぬな。
表はなんといっても御維新の折、我らが天子様が恐れ多くもお隠れ遊ばされた折に、どこぞの田舎武者にすり替えて居座ったと今や一部の民からも非難されておるほどじゃ。それがゆえ表側は裏の我らに対してハリネズミの如き心持ちと聞く。
そこへ裏の者が早う降伏せよなどと申せば、あらぬ警戒をいたして却って意固地になり針を立てて事態が膠着するやもしれぬ。
そう考えてみると吾が関わったと知られない方がよいかもしれぬ。
うむ、古相寺、ここはそなたの知恵でなんとかつないでもらい、わが桜受の名は耳に入れずに説得申し上げるのがよかろう」
扇はたたまれて公子の手の内に収まった。桜受家の実質的な主である秘巫女にそう言われては古相寺は承服するしかない。
「かしこまりました。そのようにいたします」
「うむ。兎にも角にも旭子さんの作戦がうまくゆくよう吾も力を尽くそう。早速、そなたの連れて来た特務員も中に呼びなさい。もろもろ手筈を整えるまで、しばらくゆるりと客間に滞在するがよい。このご時世、外世間にあってはろくな物も食べられぬでな」
「はい、ありがとうございます、お言葉に甘えさせて頂きます」
どうやら木の根とすいとんはまだ食せずにすみそうな古相寺であった。

第7章 飛鶴の間にて

 昭和19年の桜受本家は地下が6階までしかなかったが、地下トンネルがいくつか張り巡らされていて近隣に配置された連絡員から日常消耗品や食材などが運ばれてくる。
そのおかげで官製の配給に頼らず平時と同じ食材が手に入るし平時と変わらぬ日常活動が可能だった。
旭子に派遣された特務員4人は地下2階にある12畳の大きな客間である飛鶴の間を、古相寺はすぐ隣の8畳孔雀の間をあてがわれ「海軍はんの手筈が整うまでのんびりとお過ごしやす」と言われていた。
もっとも古相寺は酸漿さんの用意してくれた事務員の制服を着て、日中は特務員たちの飛鶴の間でまだ空白だらけのアドレス帳とスケジュール帳を少しずつ埋めている。

 一方、現代時にいる壬生野は秘巫女旭子に定期通信を命じられて午前に30分、午後に30分、技術部の部屋に行き、パソコンで古相寺のコード端末機と交信をしている。技術部のスタッフがローマ字変換を組み込んでくれたので今はローマ字ではなく日本語文でやりとり出来る。
内容はというと連絡というより普通の仲良しのラインのやりとりだ。

『茜、おはよ! 昨日の夕飯は焼き松茸と明石の鯛飯と吸い物やったわ』

『ずるい!どないなってるん、いい御膳ばっかりやへん』

 壬生野が眼鏡を曇らせて嬉しそうに口を尖らせている顔が目に浮かんだ。

「ふふっ」

 古相寺は声を出してしまい部屋にいる特務員たちの視線を集めて慌てて俯いた。

『えへへ、役得やわあ』

『木の根とすいとんの筈でなかったの?』

 古相寺は笑みを浮かべて返す。

『笑うしかないわ。まあ、死刑囚の最後の晩餐みたいなもんやね』

『特務員さん達はともかく、美穂はすいとんでもええのに』

『きっとタライされたからな、悪い思うて御馳走ぜめしてくれはるんや』

『納得いかんわ』

『ふふふっ。菊高はんに御馳走の話、しゃべってくれはった?』

『うん。つまらなそうな顔しいはってたけどきっと悔しがってはるよ』

 古相寺には菊高の悔しがる顔が想像つかなかった。

『あの人は言い方がきっついから苦手やわ』

 すると壬生野が突然に

『うちも旭子さんにお願いして、そっちへ行こかいな』

 予想せぬ言葉に古相寺は疑問符が浮かぶのみだ。

『えっ、茜がこっち来て何をしはるん?』

『美穂、知っとった? ケネディは太平洋戦争に参加しはっててな』
『魚雷艇の艇長しはってたんよ』

 JFケネディはハーバード大学を卒業した直後、太平洋戦争開戦となったため海軍に志願。1943年8月、海軍中尉となって魚雷艇で南太平洋ソロモン諸島近海を航行していたのだが……。

『そないなんね?』

『その魚雷艇が日本の駆逐艦に体当たりされて沈没どしたんや』

 ケネディの魚雷艇は突然に駆逐艦「天霧」と出くわしてしまう。距離が近すぎ砲撃できないため駆逐艦艦長は体当たりを決行。魚雷艇はまっぷたつに折れて沈没した。

『えー! ほして死にはったん?』

『おあほやな。その後大統領になりはったやないか』
『でな、戦後、その駆逐艦の艦長はんとも仲直りしてな友好を温めたんやて』

『そうなんやね、日本と妙な縁がおありやったんやな』

『えらいピンチやからうちが助けに行ってあげたいんや』

 海に投げ出されたケネディは生き残った部下達を率いてサンゴ礁に辿り着いたらしい。そこで見かけた原住民を呼び寄せ、ヤシの実に救援依頼のメッセージを彫ったものを渡してニュージーランドの沿岸監視隊に届けるよう依頼、九死に一生を得たのだった。

『茜もおあほやな。助かってはるもんを助けに行きはるん?』

『そしたらうちが命の恩人やない』

『はあ、なるほど、そういう狙いか』

『どないしよ、きっとうちにプロポーズしはるわ』

 事情通からやんごとなき裏一族と呼ばれている結社の巫女は絶大なる霊能力を持っているのだが、その霊能力に支障を来たさぬよう結婚や妊娠は禁じられている。
だが、古相寺、壬生野のような平凡な巫女なら結婚する者もいるようだ。
だからといって歴史上の人物に恋したり結婚願望を持つのはそれはそれで尋常ならざる女といえるかもしれない。

『妄想キタなあ、ほんまに茜ちゃんはケネディはんのことお好きやなあ』

『私がケネディはんと結婚したら美穂もホワイトハウスに呼んであげるな』

『そんなんなったら歴史がおかしくなって往生するんと違うの』

 古相寺が突っ込むと壬生野は冷静に返す。

『歴史が往生するんやないかて心配はタイムパラドックスいうんや』

『その単語聞いたことあるけど、どういうこと?』

『例えば自分が生まれる前に両親が結婚せんようにすれば自分が生まれなくなる』

『道理やね』

『そない考えられるから、映画で自分が途中で消え始めるて場面があったんやな』

『あれや、バックトゥザフューチャーのマイケル』

『うん、でもなタイターはんは別の世界線になるから問題ないで言うてはる』

『えっ、嘘や、ほんまに問題ないがか?』

『よく聞くパラレルワールドちゅうが無限に開かれるらしいわ』
『だからうちがケネディはんと結婚しても問題ないんて』

 古相寺にはどう考えても問題があるようにしか思えなかった。
『いやいや、問題あるて、そもそも』
『ケネディはんはうちらの生まれた時にはもう死んではったおひとや』

『ジョン・タイターはんの事を嘘やと否定する輩はあちこちにおるが』
『美穂がその時代におることがタイターはんの時間旅行を証明しはってるんやで』

『そ、そうなんかな』

『まだ信じられんと思うけど、晩餐会に呼ばれた美穂は信じてくれはる』
『旭子様、やなかった公子様も、きっとうちに伝言を頼みはるに違いないで』
『「旦那はんに日本の事は手加減して、お守りおくれやす言うてくれえ」とな』

 古相寺は壬生野の思い込みの熱に逆に寒イボが立ちそうに思った。

『ああ、うち茜がちょっと怖うなったわ』

『のろけ話はこれぐらいにしといてやるわ』
『実はひとつ気になる事があんねん』

『何ね?』

『たぶんやで緯度経度だけじゃ偵察機で潜水艦を発見するんは無理やと思うの』

『なんで?』

『緯度1度は111キロ、経度1度は赤道で111キロ、緯度35度で80キロ』

『そないに広いの?』

『当然もっと細かい指示はするだろうけど、測定器の誤差もあるから』
『仮に10分の1に絞れるとしても縦11キロ横8キロの広い四角形や』
『飛行機はスピードも出てるし潜望鏡を見つけるなんて無理っぽいよ』

『せやかてそれが出来んと白岩さんたちが乗り込めんで作戦が成り立たん』

『だから気になっとるんよ。美穂もどうやったら飛行機から』
『潜水艦が見つけられるか、もいっぺんよう考えはってみてよ』

『そう言われてもな、ここはスマホでググる、アヒる(注1)が出来ひんの』
『うちの脳はスマホに8割方貸しとるきに』

『ふふ、口癖出たな。ほなうちが美穂の分も頑張ってみるわ』

『うん、頼むわ。うちも特務員の皆に相談しとくし』

   ○

 白岩は松丸と互いの手が届くように大きな座卓の角に厚さ2センチほどの将棋盤を置いて将棋を指していた。
「おっと戴き、飛車成りの龍で王手と来たで」
白岩の指が挟んだ駒が盤面にピシリと音をたてて置かれると、松丸の右手が覆うように飛び出して来た。
「あ、待った」
「なんや、おめえは待ったで弾が止まってくれるような仕事をしてるんか」
「だってそこにいるの忘れてたんです」
「注意力散漫だ、そないなことでは特務員失格だな」

 そう批判された松丸はすぐさま切り返した。
「じゃあ白岩さん、また卓球をやりましょう。白岩さんの運動神経がまだ特務員合格レベルか判定してあげますから」
どうやら卓球での二人の力の上下関係はすでに確定しているらしい。白岩は舌打ちして開き直る。
「チッ、特務員たるものな、普段は体を休めて有事に備えるんだよ。カール・ルイスを見ろよ、練習なんか他の選手よりしないのに金メダル取ったんだぞ」
「へえー、白岩さんはそのカールて人を見たんですか?」
「いや、俺は知らないが館のとと達が陸上の試合見るたびによく話しはっとった」

 そこへ古相寺が割り込んで来た。
「ちょっと白岩さん、よろしいですか?」
白岩の目尻がにやと笑った。
「なんや、詰め将棋でも教えてほしいんか?」
しかし古相寺の顔は真剣だ。
「作戦の事です。皆さんにも聞いてもらっていいですか?」
古相寺の真剣な振りに白岩が音頭を取った。
「よおし、皆、ぐだぐだに丸まった背筋をピッと伸ばして古相寺はんの話を聞こうか」

 特務員たちが座卓を囲んだところで古相寺が述べる。
「話は潜水艦を最初に見つける方法についてです。
今のところ時刻と座標を指示してそこで落ち合うという方法になっていますが、同僚の巫女からそんなにうまくゆくのかと疑問の声が上がってます。そこで皆さんの知恵を出し合い、より確実な方法について考えて頂きたいと思いました。どうでしょう?」
白岩が頷いた。
「わしの印象は顔合わせの時、秘巫女様に申し上げた通りや。
『砂漠に落としたコインを翌日になって気付いて探すようなもんや』
だが秘巫女様から一旦命令が下った以上、死に物狂いで潜水艦に辿り着く。いつもそれでなんとかやって来たんやから、今回も心配ないと思うで」

 古相寺は頷いたが完全同意ではない。
「皆さん、何かもっと確実に、またはより高い可能性で潜水艦を探し見つける案はありませんか?」
古相寺の問いかけに望月がつぶやく。
「問題はな、潜水艦ちゅうやつは敵の駆逐艦や飛行機に見つかったら深海に潜って逃げ回り辛抱するしかええ手がないんや」
そこで古相寺は思い付きを言ってみる。
「飛行機は無理ですが駆逐艦なら潜水艦の魚雷で戦えますよね?」
「まあな。ただ敵さんも潜水艦にやられるのはイヤやから2、3隻でチームを組んで行動してるのが普通らしい。するとな駆逐艦一隻を沈めようとする間に自分も他の敵の攻撃を受けることになり勝ち目はほぼないということや。
だから潜水艦ちゅうやつはなるべく海上に姿を晒したくないんやな。こっちは空からそれを見つけたいんやから大変なのは当然や」

 古相寺が何か思いついたらしく急ににこやかな表情になった。
「あのう、例えば時刻を決めておいて花火を上げたらどうです?」
一座からクスッと笑いが漏れたが……、
「それはいいですね」
松丸が全力で褒めにかかる。
「ま、軍事的には花火ではなく信号弾でしょうけど。それを上げてもらえばわかりやすいですよね?」
松丸の言葉に望月が頷いた。
「まあな、あまり明るすぎては目立たないだろうが晴れてる夜明け、夕方ならわかりやすいかもしれんな」
白岩が釘を刺した。
「問題は敵にも信号弾を見つける可能性があるという点やな。
わしたち偵察機は伊号12潜水艦の脇に着水し、伊号12潜水艦は大急ぎで偵察機をクレーンで持ち上げ、主翼を分解して格納筒に入れる必要がある」

 古相寺が驚いて声を上げる。
「分解までするんですか?」
「そうなんや」
「写真で見ましたけど、甲板に艦から発進するためのレールがあるんですよね。その上に乗せたまま落ちないようにチェーンか何かでしっかり固定しておいてサッと潜ればいいじゃないですか? その方が分解より早いと違いますか?」
男たちがドッと吹いた。
「古相寺、あのな、そんなことしたらな、水圧で翼が折れたり、エンジンに海水が入って錆びてしまい使い物にならなくなるわ」

 古相寺は「そうですか」としょげ返る。
白岩がさらに説明する。
「格納筒は狭いから主翼は分解して折り畳まんといかんのだが、そのためクレーンで吊り上げてから主翼を分解して格納するまでトータル30分ぐらいかかるだろう。
その時に敵が飛行機なんか繰り出してきたら格好の標的にされるわけや」
「そうなると信号弾も危うい方法ですか……」
松丸が言うと古相寺始め一同静まり返った。
古相寺は沈黙の空気に耐えられずにつぶやいた。
「何か方法が見つかりますよ」
松丸が同調する。
「そうですね、期待していきましょう」
「わしもあきらめてなんぞおらんよ。いつも石に齧りついてやってればなんとかうまくいくんや、秘巫女様のお力もあるからな必ず良い方向に動くで」
古相寺はホッと安堵して笑顔を弾けさせた。
「そうですよね、きっとうまくいきますよね。ありがとうございます」

   ○

 伊号12潜水艦の発見方法を巡っていったんは落ち込みかけた古相寺の気分もなんとか上向き、お昼には鴨と九条ねぎのうどんを平らげる頃にはすっかり元気を取り戻した。
ただ今すぐやらなければという作業があるわけでもなかった。
「それにしても退屈ですね」
古相寺が一人向かっていた囲碁の盤から顔を上げ窓を見ながらまわりに聞こえるようにつぶやいた。

 客間は地下二階にあるが、一面はいわゆるドライエリアに面して窓が開け、地上からの天然光が差し込み竹が伸びており殺風景を緩和している。

「ちょっと観光してきませんか、渡月橋とか嵐山とか」

 すると座卓に風呂敷を広げて拳銃を分解掃除していた望月が反論した。
「ここに来た時『私達は人目についてはいけません』とか言ってたのは古相寺だぞ」
「ま、確かに言いましたが、私もこの地味な事務服になりましたし、皆さんも国民服が板について怪しまれないでしょう。それに外に出てもこの時代はスマホで写真撮る人もいないし、変な証拠が残るとも思えません。こう言ってはあれですが作戦が始まれば皆さん、死ぬかもしれませんし、二度とこんな観光のチャンスはありませんよ」

 すると白岩が混ぜ返す。
「観光言うけどな、このご時世、外へ行ったってうまいもんなんぞ食えないんやで。まともな団子すらないという話やないか」
古相寺は苦笑した。
「あ~観光より食い気ですか」
「当たり前や、ここにおればだ、トンネルでつながってる一流旅館の板前が世間には出せない贅沢なうまい料理を作ってくれるんやで。ここは今日で何日や?」
「5日目ですね」
「我が生涯でこんなに毎日ご馳走を食らったのは初めてだでぞ」
白岩が感慨深げに述べると古相寺も頷く。
「そう言われてみると戦時下とは思えない宮様並みのいい待遇ですから。公子様のおもてなしのお陰ですね。
ただ白岩さんたちは潜水艦に乗ってしまったら一週間後からは寝ても覚めても缶詰ばかりだと言ってましたっけ」

「うわあ、言わんといて。考えただけでぞっとするわ」
白岩が寒気でもするように両腕をさすって言うと古相寺が笑った。
「その言葉づかい、ちょっと気ぃつけて下さいよ。仮にも参謀本部の将校として乗り込むんですから。あの人のしゃべりからして、大阪にいてる縁台将棋のおっちゃんじゃないんかと疑われては帝国海軍の錨が腐って海の底に沈みます」
「ふん、こう見えてもな、わしは東京弁得意なんやで。本番に強いタイプやから安心しいや」

 矢吹が立ち上がった。
「松丸君、焼きのまわった中佐爺は放って、卓球しに行こうや」
「あ、はい」
二人が立ち上がると白岩が声をかけた。
「ちょっと待てや」
「おっ、また負ける気になりましたか?」
「わしは大佐や。艦長が中佐やからわしが大佐の方が命令下達に問題が起きずに丸く収まるからの、そこだけ厳しく注意しとく」
「なんだ、腰は立たないんですか。了解しました、大佐殿、艦長より偉い大佐殿はそこで休んでてください」

 矢吹と松丸が連れ立って戸を開けようとした時にちょうど事務員の酸漿さんが入って来た。そこで矢吹が問いかける。
「やあ、どうしはりました?」
古相寺も思わず立ち上がった。
「ちょうどよかったわ。四時にね、海軍から特務員が来られると電話が来ましてん。その時には部屋におって下さいな」
「それはどうも連絡ありがとうございます」
古相寺が礼を言うと、酸漿さんが笑った。
「あんた、事務員の服がえらいぴったりやわ、何やら一緒に働きたいわ」
「ありがとうございます。今回は私も特務員さんの連絡係を仰せつかってますので、その機会には是非ご一緒させてください」
「そうか、じゃあそん時はうちを手伝うてな」
矢吹と松丸は「酸漿さん、まだ2時間あるからうちらは卓球してきます」と言い酸漿さんを追い越して出て行った。

  (注1)アヒるとは検索をgoogleやyahooでなくDuckDuckGoを使ってすること。検索結果に偏向がないので真実を調べる際に重宝する。

第8章 桜受家の海軍士官

 16時4分前に廊下で酸漿ほおずきの「こちらです」という声がして、すぐ紺色の海軍一種軍装を着用した二人の士官が飛鶴の間に入って来た。
制服を着た士官のする白い手袋の敬礼は凛々しくて、古相寺は白岩たちと同じ特務員とは思えないなと感心した。しかし、すぐに白岩たちも制服に身を包んで慣れてゆけば同じように凛々しく感じるのだろうと思い直した。
先に襟章に金線一本、桜ふたつの若い方の士官が挨拶する。
「はじめまして、小柴中尉です。こちらは外山少佐であります」
紹介された外山少佐が再び敬礼挙手のまま一同へゆっくりと視線をまわした。襟章は幅広の金線二本に桜ひとつである。
「外山です」
「わざわざ、ご苦労様です、白岩です、どうぞ」
白岩達は大きな座卓の下座に立って、お辞儀をして迎えた。小柴中尉は20代半ばぐらい、外山少佐は白岩と同じ40歳ぐらいだろう。

「少佐様、座布団をおあてになってください」
古相寺が勧めると、外山少佐は笑いながら腰を下ろす。
「いやいや、格式ばった挨拶はこれぐらいで、私らは同じ八咫烏結社の特務員ではないですか、しかも私は秘巫女様の後ろ盾でズル出世した少佐ですからな、内輪では全然威張れないんですわ」

 公子によればタイムトラベルの件は万が一おかしな噂が立つのを恐れて伏せてあるそうだ。そこで表向きは白岩たちは親しい明院寺家の特務員で桜受家が便宜を図ってやるという話に作り変えられていた。

「まことにありがたいことで。桜受家の三本といえば八咫烏随一の実力ですからなあ、我らも是非薫陶を受けたいものです」
白岩が囃すと外山少佐もまんざらでもなさそうだ。
「いやはや薫陶などおこがましい。右も左もわからぬ状態でいきなり少尉だと言われて海軍軍令部で英文の注文書やら任されて青くなりました」

 そこへ酸漿さんがお茶を淹れてくれたが、茶菓は干し芋だった。
これには外山少佐が思わず声を上げた。
「酸漿さん、なんだこれは? 菓子はまた八つ橋だろうと楽しみに来たのに、いつから干し芋に化けてしまったんや?」
外山少佐はがっかりして抗議したが、酸漿さんは澄まして言う。
「海軍さんが踏ん張ってくれんと次は笹の葉をしゃぶることになると思いますよ」
外山少佐が大声で笑ったのので白岩たちも気兼ねなく笑った。
「まったく酸漿さんにはかなわんな」

 笑い声が引き潮になったところで、望月が尋ねた。
「外山少佐はいつ海軍へ入られたんです?」
「特務員の実践を数年積んで昭和3年に海軍本省に派遣されました。
そして翌年はロンドン軍縮条約会議が行われるというので列強の戦力分析やら交渉の予想などの文書をまとめたりてんやわんやでした。ま、私は上司に言われた通りに辞書片手に翻訳するだけでしたが、俺は翻訳するために特務員になったんじゃないぞと思いながらもう少し派手な命令が来ないかと思ってました。
その時、交渉の海軍側次官随員として渡欧されたのが後の連合艦隊司令長官、今は亡き山本五十六やまもといそろく元帥閣下げんすいかっかでした。会議の結果、日本の艦船保有比率は英米の6.975割に制限されてしまい、そこで山本元帥閣下は航空を海軍の主力に据える航空主兵主義を上層部に訴えていよいよ強力に押し進めたのです」

 望月は頷いた。
「それが真珠湾につながったというわけですか」
「ええ、とにかく日本は戦艦の数を制限されたのですから、大きな大砲を積んだ戦艦が有利という大艦巨砲主義に捉われていたら太平洋戦争の緒戦で真珠湾やマレー沖の大戦果を上げることは出来なかったでしょうな。特にマレー沖で英国の誇る最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を航空機だけで撃沈したことは画期的で、世界の列強が一番衝撃を受けたのはそこなんです」

 古相寺が感心して言う。
「山本はんはえらい頭がよろしかったんですね」
すると外山少佐はにやにやして言った。
「というか、元帥閣下はとびきりのギャンブラーなんです」
思いがけない返事に古相寺はすぐ聞き返した。
「そうなんですか?」
「ええ、暇があれば部下たち相手にポーカーなどしてはりましたね。
昭和11年末に元帥閣下は海軍省次官になり私も親しくさせていただきましたが、ほんまポーカーフェースなんです。
元帥閣下は相手を観察して計測すれば必ず勝つ機会がわかるというのが持論でして。
2年ほど遊べば戦艦1、2隻の金は作れると豪語されてました」

「話を面白くしようとしての大風呂敷ですよね?」
松丸が笑いながら言うと、外山少佐は真顔で返した。
「いやいや、実際、元帥閣下はあまりにも勝ちすぎてしまうのでモナコのカジノ協会から出入り禁止になってるんですよ」
松丸は感心した。
「ほおー、そうなんですか」
「ええ、大事なのは相手を観察してという点でして、元帥閣下は若い頃から米国についてよく調べており駐在武官もなさったから観察は十分でした。それで英米を刺激するだけで利の少ない日独伊三国同盟に反対でした。
そこで海軍次官の立場で戦争を回避したいとお考えだったのですが、米内大臣が三国同盟に狂信的な右翼による山本閣下暗殺を危惧されて海軍省次官から連合艦隊司令長官に配置換えしたのが本当のところです。
開戦前に近衛首相に聞かれた時、元帥閣下は半年、1年は暴れて見せるがその後は全く確信がないから日米戦争を回避するよう答えたそうですが、どうも近衛さんは海軍は最初の1年はやれる自信があると、そこだけ大きく受け取ったようです」

 白岩が頷いた。
「なるほど」
「大きな声では言えませんが、ミッドウェーでの大敗で元帥閣下の責任を追及する声が海軍内からも上がりました。
しかし戦の勝敗というものは様々の要素の積み重ねで決まりますからな。作戦の前提としての山本元帥閣下ならではの航空重視の用兵がなければ、そもそも緒戦からあれほどの連戦連勝はなかった事に気付かなければならんのです。
おそらく従来の大艦巨砲主義で戦っていれば最初の1年ほどで米国の艦隊がどんどん充実して今のような位置まで攻め込まれていたであろうと思いますね。
なんだかんだ言われても山本元帥閣下は稀有な戦略家である事に間違いはないのですよ、惜しい方を亡くしてしまった」
古相寺には外山少佐が小さく溜め息を吐いたように見えた。

「大本営発表如きに惑わされない皆さんは既にご承知と思いますが、戦局はいよいよ大変な坂に差し掛かりました。毎日のように制海圏、制空圏が狭まっております。
海軍というところは司令長官が連合艦隊旗艦に将旗とともに座乗するのを伝統として来ました。しかし、もはや残る大型艦艇は弩級戦艦武蔵と大和ぐらいです。しかし我らが戦いで航空兵力が戦艦に勝ることを世界に示してしまった以上、制空権がなければ弩級戦艦など張りぼての虎のようなもので、実戦に投入しても沈没させられる確率の方が高いありさまです。
まあ、いずれは古い体質の大艦巨砲主義者の実戦で使えととの大声に押されてのこのこと繰り出すことになるでしょうが、彼らはその結果は考えてないのです。
いずれ長官旗は日吉の艦隊司令部に掲げられて海軍軍人として良い恥さらしをすることになりましょう」
白岩もそれには返す言葉もなかったが、古相寺はつい質問してしまう。

「日吉と言われると、海軍が慶應義塾の校舎に入られたとある方に聞いたのですが?」
「ええ、最初に第一校舎に入ったのは海軍軍令部でして、艦隊司令部は寄宿舎の方に引っ越しました。大きな防空壕も今、工事してるところです」
「その、近くに喫茶店とかお店はあるんでしょうか?」
「ああ、それなら校舎の前にロッジ風の赤屋根のしゃれた学生食堂があります。私も何度か飯を食べましたよ。和風も洋風もうまい店です。この食料事情では外世間の店はたいしたものは出来ませんが、学徒出陣で生徒が減ってたところに海軍が越して来て感謝されてます。それで海軍からも食材を都合してやってるようですな」
「私が行ったらそこで働けますかね?」
「いやあそれは私にはなんとも言えませんな。ああ、するとあなたは連絡係を希望されておるんですね?」
「そうなんです」
「なるほど。しかしながら海軍の客の数は大学生の数より少ないでしょうから女給の就職は厳しいやもしれませんな。一応、聞いてみましょう。海軍の人間から聞かれれば店の者も考えるかもしれません」
「ありがとうございます、私、古相寺と言います」
すると小柴中尉が字を尋ねて返した。
「こんな可愛い女給さんがいたら客の数が増えますね」
「ほんな言わはったら困ります」
古相寺は頬を染めながら手を振り、松丸は苦虫を噛んだような顔になった。

 外山少佐はようやく本題に入った。
「白岩さん達は奇特にも、その海軍でひと仕事したいということですな」
「ええ、お願いできますか?」
「日付が先のものについては、現時点での確約はできませんが、一通り揃うと思います、小柴君、説明してくれ」
小柴中尉はカバンから書類を取り出して読み上げた。
「まずは望月さん、矢吹さん、零式小型水上偵察機に搭乗希望ということでしたが、基礎の飛行訓練はもう出来てるのですね?」
「はい、以前にセスナでシミュレ、いえ瀬砂町の菫の咲く飛行場で練習してました」
「どちらが操縦でどちらが偵察になりますか?」
「私は偵察で、矢吹君が操縦を担当します」
「わかりました」
小柴中尉が書き込むと矢吹が言った。
「ただ実機を使った習熟訓練をしておきたいのです」
「当然です。ただ訓練機は型が古い九六式小型水上機になる可能性もあります。それと遅くとも12月1日までに零式小型水上偵察機を手配してほしいという事ですが機体自体は何か所かにある筈ですが、必要な時期に指定場所に運んで行けるパイロットが足りてないんです」
「では受け取りに行きますよ」
「わかりました。では11月中旬ぐらいから動けるように待機してください。機体はどこで出るかわからないので」
「了解しました」

「次に松丸さん」
「あ、はい」
「司令部電信室に入りたいとのことでしたが、知識はもう詰め込んであるんですね?」
「ええ、もちろんです。ハムのレジェンドからも手ほどき受けたので大丈夫です」
「ハムノレジェンド?」
そこで白岩が松丸を小声で叱る。(ハムなんてまだないやろ)
「あの、最新式の無線機のことです、なんでもド、ドイツ製だそうで」
「そうでしたか、研究熱心ですね。なるべく夜間当直になるように勤務を組ませましょう」
そこで古相寺が質問する。
「なぜ夜間がいいのですか? バレにくい?」
「あ、いや、皆さんは結局潜水艦で仕事されたいのでしょう。潜水艦が通信を行えるのは浮上した時にほぼ限られます。潜水艦は敵に発見されない事が一番の防御ですから、浮上するのは夜間が多いんですよ」
古相寺は納得した。
「それで電信室は慶應義塾の寄宿舎にあるんですね?」
「あ、電信室は万が一にも爆撃されてはまずいので、えーと少し離れた場所の地下壕になります」

「それで白岩さんですが、参謀本部の大佐という役職で、制服一式、それに極秘の印が押された作戦指令書を用意しますが、作戦の内容はどうしますか?」
白岩は唇を噛んで頷いた。
「それはぎりぎりまで情報を収集してから細部を決めますので出来れば白紙で」
そうはぐらかすと外山少佐が食いついた。
「わかります。ただ我々としてもおおよそどんな作戦なのか知りたいところですな。明院寺家に手を貸すが中身は全く知らないでは、うちの秘巫女様に報告申し上げる際に納得頂けなくなってはいかんと思いますでな」
いやその秘巫女様が納得されて話を外山少佐に持って行ってるのだが、それを言うわけにはいかないのが辛いところだ。
「………」
「では目標は戦艦ですか? 空母ですか?」
白岩は少しは情報を与えてやろうと打ち明けた。
「それは戦艦でも空母でもない。新型兵器を積んだ巡洋艦です」
「巡洋艦ですか、大型艦を一隻で沈めるのは至難の技ですぞ、当然、巡洋艦には駆逐艦が通常2隻以上随伴してますからな。へたすりゃあ魚雷を撃つ前に爆雷で深海に追いやられてしまう」
「そうでしょうな。しかし、わしらの駒はそれ以上望めないでしょう?」
「たしかに。結社が自由に手配して使えるとなると船一隻、飛行機数機というのが限界でしょうな」
「なんとかその手駒でうまい戦術を編み出さねばなりません」
白岩がそういうと小柴中尉が声を上げた。
「回天は? 回天を一気に繰り出せばあるいはうまくゆくかもしれません」
回天というのは魚雷に操縦する人間を乗せるという特攻兵器だ。
「回天ですか……」
白岩はそれはあまり考えてなかった。すると外山少佐が述べた。
「回天は港の中なら、うまく港内に忍び込めれば可能性があるだろう。しかし小さい回天では外洋に出たら波に翻弄される可能性が高いし、さらに潜望鏡すらまともに覗けない。戦果は望み薄だ」
「そういえばずっと前、回天の潜望鏡は短すぎると参謀の誰かが言われてましたね」
白岩が頷くと外山少佐が述べた。
「そういうことだ。まあ、白岩さんとこの秘巫女様は不甲斐ないわしら海軍に花を持たせようと白岩さんに乾坤一擲の御命令を下してくださったんだな。八咫烏がひとたび動くとなれば、それはその辺の民が動くのと訳が違うからの。天界神界の護法善神集まり来りて必ずや勝利をあげること明らかなり。ありがたいことじゃ」
外山少佐が拝み出しそうな勢いなので、白岩が切り返す。
「買い被られては困りますな。わが秘巫女様は何もしないのも心苦しいから惜しみないわしらに特攻でもして散って来いということだと受け取りましたがの、ハハハッ」
「いやいや冗談でもなくなりそうです。戦艦も空母もない海軍に残された戦法は特攻ばかりになりそうな気がしますな。そういう事情で、間髪を入れずわしらも明院寺家の皆さんの後を追いますで」
すると白岩も返す。
「わしらで米英の鼻をあかしてやりましょう」
外山少佐と白岩はがっちりと握手した。
それを見ていた古相寺は胸が痛んだ。特攻などという非人間的な作戦をすでに自分の予定に決めている特務員たちに心の中で(そんなのおかしいよ)と叫んでいた。

   ○

 外山少佐が帰って6時になると古相寺は飛鶴の間で壬生野との通信を始めた。

『茜、今日はこの昭和時代の特務員さんが二人来てくれはったよ』

『白岩さん達の身分をごまかしてくれるひとやな?』

 古相寺は座卓の向こうで詰将棋の本を見てる白岩の顔を盗み見て苦笑いしながらコード端末機に文章を打ち込む。

『聞こえが悪いけどそないゆーことや』

『でどないな感じの人やった?』

『一人は外山少佐いいはって白岩さんと同じぐらいの歳やけど、カッコイイの』
『海軍の制服を着てはるせいかもしれんけど敬礼がええんよ』

『ほうか? あん歳をカッコイイ言う美穂は痛いなあ』

『自分かて中年のケネディとかカッコイイ言うやないの?』

『ケネディさんは別格やもん比べたらあかんよ、人類ん中で一番ええんよ』

『ふふふ、茜の好みじゃ話にならんわ』

『もう一人は?』

『そっちは小柴中尉いうて、二十代半ばすぎかな』

『そっちはカッコよくないんの?』

『そうやね、普通や』

『ふーん、普通か。ほな松丸さんと比べてどうやの?』

『なんで比べなきゃあきまへん?』

『やっ、何やら松丸さんを守りたい雰囲気に聞こえるよ?』

『そんなことないって。男しに興味ないもん』

『ふうん、そういうことにしといてあげるわ。で、いつから日吉に行くん?』

『明日の昼に出発や。タイムダイバー隊員の準備が揃うから』

『ほうか。松丸さんは同じ方向やから同じ汽車やな』

『そうやけど。それより白岩さんや望月さんや矢吹さんとはお別れや』

『うん、そうやな』

『もしかしたら戦死なさって、もう会えへんかもしれへん。怖いわ』

『会える可能性もあるやろ』

『たいがい言わんといて。会えへん可能性の方が大きいんやで』

『うん……』

『うち、どないしたらええんや? うちに出来ることはあるん?』

『そないやな、無事に帰ると信じてあげることやろな』

『うん、それはわかる。でももっと形んあること出来んかいなと思っとるんや』

『うん、ほなら無事で帰るよう願いを込めてお守りをこしらえるちゅうは?』

『巫女としてはありきたりやけど、それがええかな』

『うん。それが一番や』

『さすが茜や』

『うちも旭子様と一緒に無事を祈ってるからな』

『うん。おおきに』
『話は変わるけどこん前の潜水艦を見つけるいい方法はあったん?』

『うーん、そっちはまだ。もうちょっと探してみるわ』

『ほうか、期待しとるし。茜、また明日な、ごきげんよう』

『うん、ごきげんよう』

   ○

 晩の御膳が食堂の女給さんと酸漿さんによって座卓に並べられた。
「板長さんが今晩は松茸が手に入りましたで味わってください言うてはりました」
「おお、土瓶蒸しかいな、贅沢なご馳走やなあ」
「はあ、松茸がそないに贅沢ですか?」
昭和時代にはそれほど贅沢品でもなかったかと思い直して白岩は聞いてみる。
「酸漿さんの分もあるんかい?」
「ええ、松茸はぎょうさん採れはりましたで後でいただきます」
「それはよかった」

「お魚は子持ち鮎、ご飯は栗ご飯になってますので」
「このご時勢にありがたいこっちゃ」
男四人はうまいうまいと言いながら食べていたが、昨日まで食事時によく使われていた単語を今日は誰も口にしない事に古相寺は気付いた。そう、昨日までは『最後の晩餐やから』と笑いながら言ってたのが、今日は本当に最後なので皆揃って避けているのだ。命知らずの特務員が縁起を担いで避けるなんて、そう思うともう喉を通らなくなった。

「皆さん、今日は上がりますので。おやすみなさい」
古相寺が座を立つと白岩が声をかける。
「おやすみ、てか、まだ栗ご飯残ってるやないかもったいない、よし一番若い松丸食え」
「えっ、いいんすか?」
そういう今まで松丸にきつく当たってた風当りの変化も胸に染み入るようで、古相寺は急いで部屋を出た。

 お守りを作るための材料をと思ったが、コンビニが夜も開いてる時代でもないし内部で調達するしかない。ところが、公子さん以外の巫女達は本当の事情を知らないので古相寺を他家の者として分け隔てて扱うところがあるのだ。
古相寺はまず酸漿さんに聞くために事務室を訪れた。

「酸漿さん、まだいはりますか?」
「ああ、古相寺さん、食事は済みはったん?」
「はい、ごちそうさまでした。今までありがとうございました」
「気にせんといて。秘巫女様が『あれは八咫烏の決死隊ゆえ余分に金をつこうてでも充分もてなしてやれよ』と仰せでな」
「はい、隊の皆が感激してたと酸漿さんからも公子様にお礼を申し上げて下さい」
「承りましたで、いよいよ明日は出発やな」
「はい。それでうちの隊員にお守りを作りたいのですが余った布などありませんか?」
「ああ、ハギレやな、ならそこそこあるかもしれへん。おいで」

 酸漿は事務室の壁際の戸棚から行李を持ち出して、机の上で開けた。
「うわー、ぎょうさんありますねえ」
「持つのが男しなら赤い柄より渋めのこの濃緑やら、この群青やらがええかもな」
「そのふたつがええです」
古相寺は濃緑と群青の布地を受け取ると机に向かった。
「サイズはどれぐらいがええですか?」
「古相寺さん、サイズなんて敵性語をうっかりお使いおすな」
「なんですか?」
「ほら、鬼畜米英の言葉は軽佻浮薄けいちょうふはくだから日本語を使えちゅうことです」
古相寺は(戦争中にそんなアホくさい細かいことしてはったんや)と驚きながら慌てて知ったかぶりをする。
「そ、それは知ってます、サイズのサイは年齢の才と同じかと思うてたので」
「ああ、なるほどな、どれ、一枚はうちがしよるきに」

 酸漿と手分けして古相寺は布地にとりかかる。
「縦の寸法は袋縫いにするからお守りの寸法の倍にしいや、横は両端に縫い代を足してやから、縦は五寸、横は一寸五分ぐらいでどないやろ?」
「わかりました」
寸法通りに布地を裁断すると今度は袋縫いに移るが、古相寺は針に糸を通すところでだいぶ時間がかかり、ようやく縫い始めてふと見遣ると酸漿はもう最初のひとつを完成させている。そしてふたつめも驚くような速さで縫い進めてゆく。
「酸漿さん、速いですねえ」
「速いか遅いかは単純な繰り返しが好きか苦手かの差や。
どれ貸してみなさい、中身はあんたに任せるきな」
「ありがとうございます。あの弾除けのお守りってありますか?」
「弾除けはさすがに聞かんけど、千人針にサムハラを書くのは流行ってはるわ」
「サムハラですか?」
今でこそサムハラ神社は有名だが、最初のサムハラ神社は昭和10年に岡山に創建したが無許可のため特高に睨まれ翌年に撤去していた。
「ほら、加藤清正が刀に彫ってて無事だったとか、日露戦争の激戦地の二〇三高地でサムハラの字をつけてた人が生き残ったとかで、弾除けと意味は同じよね」
「それええです! どない字を書くんですか?」
「たしかどこかに書いておいたわ」
酸漿は立ち上がって机の上を探して書類入れから紙を持って来た。
古相寺はそれをお守りの表に書こうと決めた。

 酸漿は古相寺の手がけてた布地を瞬く間に縫い上げた。
合計五枚のお守り袋を受け取ると古相寺は涙目になって感謝した。
「酸漿様、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません」
「たかがお守り袋で一生思い出されてはこそばゆいので忘れてええわ」
「だって私が一人で作ってたら真夜中までかかったかも」
「それより中身はどうしはるつもり?」
「丑の刻が良いとされてるので明日の二時半から三時すぎに書きます。ついては礼拝所にその時刻に入ることは出来ますか?」
「それでは警備に頼んでおきますから、そこで鍵を受け取って入りなさい」
「はい、ありがとうございます」

   ○

 午前二時にスマホのアラームが鳴ると古相寺は飛び起きた。なにしろタイムダイバー隊の仲間たちに気合を込めてお守りを作るのだから、いつものようにしばらく寝ぼけているなんて暇はないのだ。古相寺は素早く口をゆすぎ顔を洗って警備室に向かった。

 ドアをノックしようとすると内側から開いて警備の特務員が顔を見せ笑った。
「やっぱり、この前のタライの娘だな」
「その節はどうもお手間をかけまして。礼拝室の鍵をお借りします」
「秘巫女様は毎朝4時には来られるから、その前に終えて戸締りしてすぐ鍵を返してくれよ」
そう言われて鍵を受け取り古相寺は地下6階の礼拝室に入った。
巫女の控室に入ると予備のものらしい巫女服を見つけ袖を通して水引で髪をしぼると心持ちも一気に引き締まる。

 巫女の作業机の引き出しからお守りの表紙、中板、中紙も見つかった。
続いてお守りの中紙に書く霊符の手本も各種6枚ずつ出て来た。
あとは先細の筆ペンだ。お守りの中紙は普通の霊符の用紙よりふた回りも小さい。力が入りすぎてボテッと筆先を広げてしまう癖のある古相寺には普通の太さの筆先で細かい字を書くなんて無理なのだ。
古相寺は全ての引き出しや筆ペンを探してみたがどこにも見つからない。
そしてやっと古相寺は気付いた、この昭和時代に細い筆ペンなんて実用発明品はまだ出来ていないのだ。
絶対絶命のピンチ。しばらく自分の頭を叩いていた古相寺だが、ふとひらめいてその方法を実行することにした。

 古相寺は礼拝の所作をして祈祷の座所に入った。
二回拝して焼香し、手を胸に当てて勧請文を唱え、加持を行い、柏手を打っていくつかの神咒を誦し、瞑目して、一気に用意していた符の手本をなぞり相手の名を記す、さらに表紙にサムハラの神字を記す。
こうして自分も含めた隊員五名分の中紙と表紙が出来ると祓い詞を唱えて願文を奏上し入魂した。
そして古相寺は送神文を三度唱えて二礼して退座した。時刻はまだ三時半だ。

 お盆に中紙表紙を載せて巫女の控室に入るとなんとそこには秘巫女の公子が座ってお守り袋を触っていた。
「あっ、公子様、お早いんですね」
「そなたも早起きして隊員にお守りを作ってたらしいのう」
「はい、良いものが出来たと思います」
「どれどれ、見せなさい」
まず公子はサムハラの表書きに目を止めた。
「当節はこれを千人針に書くのが流行りらしいのう。そなたも目ざといわ」
「酸漿さんが教えてくれはって」

 次に公子の目は中紙の符に釘付けになった。
「おや、この霊符、古いやないか? どうや?」
古相寺の心臓が罪の寒さに震え出した。
「そ、それはその……」
「この字は古いし紙も色褪せとるん? はっきり答えい!」
「あの、うち不器用で紙が小さいと符を書けないので、仕方なくお手本を使いました」
古相寺の言い訳に温厚な公子がキレた。
「何事かあ! それでも桜受の巫女かー」
公子の怒声に古相寺は床に突っ伏した。
「申し訳ございません」
「米粒に経文を書く者もおるに小さくて書けん?
手本をそのまま使うなど、ごまかすにもほどがある」
古相寺は額を床に擦りつけて謝る。
「申し訳ございません、申し訳ございません」
「ちゃんと心を込めて手書きせんかー」
「申し訳ございません」
古相寺は額を床に付けたまま息を止めた。

 公子は持っていた扇をピシッと閉じると深呼吸して言う。
「本来ならばタライの罰を与えて、後日、佳き日の丑の刻に作り直させるべきだが、残念ながらそなたは本日出立せねばならぬ。
次善の策として今すぐ作り直しなさい。日の出前ならよしとする流派もあるでな」
「あの、私の手では細かい符は無理かもしれませんが……」
「そなたはきれいに書こうとしておるが、符は清き心が書くもので多少線が太くなる程度は構わぬのじゃ」

 再び、古相寺は礼拝の所作をして祈祷の座所に入った。
二回拝して焼香し、手を胸に当てて勧請文を唱え、加持を行い、柏手を打って……と同じ手順を繰り返し、今度は赤口の朱墨と青墨のふたつの硯を用意して、瞑目すると金光が舞い降りるのを観じて符を描いてゆく。
よい、それでよいぞ。
誰かの声が響いたように思うが気をそらすこともなく符の線を伸ばしてゆく。
五人の符が出来上がり、祓い詞を唱えて願文を奏上し入魂まで終えると古相寺は感激で涙を流した。
神がすぐそばにいて自分を導いてくれたようにと感じたからだ。

 控室にさがると、公子が微笑んで頷いた。
「出来たか?」
「はい、おかげ様で出来ました。少し線が太くなったところはありますが私にしたら上出来だと思います」
「うむ、袋に入れて完成させなさい」
古相寺は中板、中紙をお守り袋に詰めて守り結びで閉じる。そして表にサムハラ神字の紙を貼ってお守りを完成させたのだった。

第9章 別れの時

 お守りを完成させた古相寺が自分の孔雀の間に戻ると午前5時すぎだった。
いつもなら5時にはすっきり目覚めているのだが、今日は2時起きしたためのだるさが辛くてつい二度寝してしまい、小一時間ほどたった6時半にまたスマホのアラームで飛び起きた。
どうやら隣の飛鶴の間も起き出してぼんやりと話し声が響く。
布団をきれいに畳んで事務服に着替えた古相寺は朝食もそこそこに、地下6階の秘巫女公子の執務室を訪れた。

「公子様、先ほどはご指導ありがとうございました」
古相寺が少しおどおどしながら挨拶すると、公子は微笑んだ。
「うむ。良いものが出来てよかったのう」
「はい。これでちゃんとしたお守りを渡せます」
「出立は午後か?」
「はい」
「そなたは海軍省に近いところに移り連絡係をするということであったな」
「はい」
古相寺の予定としては古相寺は海軍司令部通信課の松丸と連絡を取りつつ、表の天皇裕仁様に会い一刻も早い降伏の決断を促すという考えただけでも眩暈がして尻込みしてしまう大役がある。
そのための工作資金と生活資金にあてるようにと秘巫女旭子から純金の500グラムのインゴットを3枚預かっていた。古相寺はその1枚を差し出して言った。
「それで資金にあてるよう旭子様から預かって来た純金がこれなのです。これを換金していただけないでしょうか?」
公子は扇で純金のインゴットを触るようにして頷いた。

「そうか、そうだな。未来の金は使えん。活動資金もいるし、特務員たちも当節のこづかい銭を持っておらんだろうから羽目も外せまい。よし待っておれ」
公子がわざと大きな音を立て柏手を打つと控室から巫女が飛んできた。
「公子様、ご用ですか?」
「現金十円札で五百円の束をな、六つ七つ、いや十。持って参れ」
巫女はまた飛ぶように引き返してゆく。

「助かります。外世間ではどこで換金したらよいか見当が付きませんから。というか、いくらになるとか、そもそもこの時代の物価もわかりませんし」
「そなたでは鴨葱にされて使えもしない軍票の束を渡されて泣き寝入りかもしれんな」
公子がからかうと古相寺は声を上げた。
「そんなあ」
「特に純金となると目の色が明らかに変わる輩がいるからのう。だからこそ相手によっては工作に使えるのじゃ。さらにこの戦時下ゆえ紙幣より純金の方が人気が高いから、使いようがあるぞ」

 そこへ巫女がお盆に札束を載せて戻って来た。ひと束五百円は十円札が50枚だから、今の百万円束の半分ぐらいの厚みだ。しかし古相寺の興味は別のところだ。
「この肖像は誰ですか?」
「和気清麻呂じゃ」
「どんな事をされた方ですか?」
「道鏡の野望による神託工作を退け、平安京の造営工事を進めた方じゃ。それから千年以上経って正一位護王大明神の神階神号を授けられ、護王神社に祀られた」
「なるほど」
「そなたの時代は違うのだな?」
「ええ、福沢諭吉が一番高額の一万円札です」
「ほおー。あの諭吉がか、ずいぶん出世したな。それにしても一万円とはインフレが進んでおるのか?」
「インフレという声は聞かないです」
「まあよい。これを一人にひと束ずつ配ってやりなさい。そなたもだぞ。余りは引っ越しやら活動資金にあてるがよい」
「ありがとうございます。ではこの純金どうぞお納めください」
古相寺は純金のインゴットをさらに押し出した。
しかし、公子は受け取らずに扇で押し返す。

「今、申した事を忘れたか? 紙幣より純金の方が使いようがある。それは表の天子様に会う工作のために持っておるがよい」
古相寺はびっくりした。いくらなんでもそれは虫がよすぎるのではないか。
「それでは困ります。旭子様にも叱られます。お納めください」
すると公子は扇を少し開いてピシッと音を立てた。毎度のことながら古相寺はビクリとしてしまう。
「吾は桜受家の当主じゃぞ。吾が命を捨てて働いてくれはる桜受家の部下に給金を出すのは当たり前の話ではないか。札は隊員に配り余りは活動資金にせよ。純金は表の天子様への伝手を買う対価とするのじゃ。わかったな、古相寺」
古相寺は感激で涙を浮かべた。
「公子様、私たちのことをそれほどまで……」
「さあわかったら、全部持ってさがれ」
古相寺は「ありがとうございます」と感謝してさがった。

   ○

「ちょっと、白岩さん」
古相寺は飛鶴の間に首だけ入れて白岩を廊下に呼び出した。
「なんや古相寺、こっそり呼び出すとはわしに惚れたか?」
白岩がふざけて言うのをぴしゃりと返す。
「それは絶対ないっです、それより公子様が私たちにお給金を下さいましたので、皆さんにお配りください」
「ずっと御馳走になった上にそこまでしてもらってええんか?」
「私も遠慮申し上げたんですが押し返されて。公子様は時代は違っても桜受家の秘巫女様ですから、公子様のお申し出は私たちには絶対です、それとも突き返しますか?」
「あほこけ、突き返すのはあかんやろ」
「ということです。ここはインチキ大佐殿から隊員にお給金をお配りください」
「インチキは余計や。で、なんぼや」
「一人五百円です」
「なんか喜んでええんか、子供やないぞと怒った方がええんか、わからん金額だな」
「巫女に聞いたところ巡査の初任給が41円だそうです」

 白岩が思わず「なんだと」と声を上げた。
「つまり、新米巡査の一年分やないか、えらいごつい給金やぞ」
「ええ、よかったですね。一度きりと思いますが」
「充分や。たらふく酒が飲めるぞ、ええとこで酌してもらって後はしっぽりや」
「任務に差し障りがない範囲でお願いしますよ」
「生き返った。俺は生き返ったで」
「今まで死んではったんですか?」
古相寺のツッコミに「正解や、半分死んでた」と答えて札束をふんだくると白岩は部屋の中に入って演説をぶった。
「諸君、諸君の滞在中の絶え間ざる研鑽の姿勢に感激して当代の秘巫女様が給金をくださるそうだ」

「俺たち、研鑽したかな」
矢吹がつぶやくと望月が言う。
「俺は毎日拳銃を磨いてたから研鑽のうちだな」
すると松丸が言う。
「僕は卓球で白岩さんを完封するために王子サーブを研鑽してましたが、まさか給金を頂けるとは」
白岩が「お前だけなしや」と笑う。
望月が訊ねる。
「で、なんぼ貰えるんや?」
「聞いて驚くな、なんと五百円や!」
白岩の嬉しそうな声に松丸が一気にしょげる。
「まさかのワンコインすか」
「松丸、あほやな。物価の価値が全然違うんやぞ。当代五百円いうたら新米巡査の1年分の給料やで」
松丸の声が裏返った。
「えっ、そんなに!」

 白岩は一人ひとりの手に帯封の五百円を手渡した。
「皆、好きに使うてくれ」
望月が封を破って紙幣をしげしげと見ながら言う。
「80年前でも新札とはこれいかに。問題はこの戦時下、この金を使える店がほとんどないだろうちゅうことだ」
すると白岩が言う。
「心配すな。軍隊のおる町には必ずええ酒とええ女のいてる店はあるもんや」
「そっち方面しか必要ない奴はそれでええけどな」

 どさくさに紛れて古相寺も愚痴を言ってみる。
「そうですよ、マッケンドーサーできないなんてひどい時代ですよ」
「マッケンドーサー? なんやそれ」
「私は外出許可が貰えるとマクドにケンタにミスドにサーティワンをはしごするんです」
「美食とは真逆の食い気やな」
男たちが笑う中、松丸が「女の子らしくていいじゃないですか」とかばった。

 古相寺は男たちの雑談から抜けると部屋の隅でコード端末機を起動させた。もう壬生野と定時交信する時間なのだ。

『茜、おはよー』

『美穂、おはよ。いよいよ今日は出発やね』

『うん、茜が言うとったお守りを作りよったんやけど、お守りの符の紙が小さすぎや』
『うち細かい字は細字の筆ペンが頼りやん、それこの時代ないし卒倒した』

『で、どないしたん?』

『で、ずるして手本をそのまま使うたら、公子様に見つかってえらい叱られた』

『そりゃ叱られるわ。で作り直したん?』

『うん。そしたらなんとか手書きで出来て、神さんに助けてもろうた気がしたわ』

『えらいで、苦手を克服しはったな』

『それからな旭子様から預かった純金を君子様に換金してもらおうとしたんよ』

『うん』

『そしたらな公子様が純金は表の天子様に会う工作にとっとけて言いはって』
『五百円の束で十個、現金をうちらに下さったんよ』

『公子さん、太っ腹やな。そやけど物価がピンと来ーひんわ』

『皆、そない言うとる』

『待って、今、あひっとるでな、よし、昭和19年やと500倍から700倍やわ』

『てことは?』

『そっちの五百円は現代の25万円から35万円ぐらい』

『そないなんね、こっちの巫女さんが警官の初任給41円言うとって』
『白岩さんが巡査の給料1年分やなとか言うとった』

『ありがたいことやね。うちらが桜受家ちゅう証拠はないのにな』

『うん。旭子様は手紙や印刷物じゃインチキ臭いいうて何も持たさずに来たから』
『でも公子さんはうちの頭の映像を透視されて全てわかってくれはった』

『さすがは桜受家の秘巫女様やな』

『うん。ところで茜、例の潜水艦を見つけるうまい方法は見つかったん?』

『それな、まだというか、ちょっと面白い記事は見つけたけども』
『もうちょっと実際に可能か検討させてくれるかな?』

『おっ、なんかありそうなんやね?』

『まだ出来るいうて出来んとげんなりさせるし、もう少し検討させて』

『わかった、楽しみにしとるきに』

   ○

 午前11時に外山少佐と小柴中尉が、大きな包みを抱えた若者を従えてやって来た。

「白岩さん、お待たせしました。制服と書類をお持ちしました」

 軍服は海軍の場合、第一種軍装と呼ばれる紺色の冬用ジャケット、第2種軍装と呼ばれる白色の夏用ジャケット、そして第3種軍装と呼ばれる開襟平襟背広型の略衣に分かれていたが、冬に向かう今、用意されたのは紺色の第1種軍装だ。これは大佐になりすます白岩だけでなく、偵察機要員の望月と矢吹、通信要員の松丸も同じ紺色の制服で、いわば着任などの挨拶用だ。実際の仕事ではそれぞれあった制服に着替えることになる。
白岩はじめ、男たちはズボンを脱ぎ出し、古相寺は慌てて廊下に避難した。

 2日目に採寸があってから結社の仕立て屋が大急ぎであつらえてくれたに違いない。ズボンの胴回りも股下も、背広の胴回りも腕回りも袖の長さもぴったりでなおかつ動きやすさもあり文句のつけどころがない仕上がりだ。
「いやはや、こんなにぴったりだと気持ちええですな」
「ええ、見た目も清々しいですな」
「物資窮乏の折、公子様にはご負担をかけましたな、ありがとうございます」
「同じ八咫烏結社ですから当然のことと仰せでした」

「南方に行かれる場合は暑いですから、南方向きの第3種軍装も用意しておきました」
「これはありがたい。何から何までお世話になりっ放しで恐れ入ります」
「皆さん、合ったようですな。帽子を被ってください」
外山少佐が言って全員が帽子を着用するとそれもぴったりだった。
「小柴、お嬢ちゃんを呼んで来てくれ」

 小柴中尉に連れてこられた古相寺が飛鶴の間に入るとは男たちは衣ずれの音まで揃って一斉に敬礼した。

 古相寺はそれを見て声を上げた。
「おおー、見違えました!」

 すると白岩が返す。
「わしは本番に強い言うたろ、大佐にしか見えんやろ?」
「まあまあですね。お爺ちゃんお婆ちゃんが喜ぶ『孫にも衣装』ですか?」
「古相寺、お前、馬子って漢字も知らねえのか?」
白岩が呆れると、古相寺は余裕で返した。
「残念でした、知ってます。こう見えても漢字検定2級ですからね。
でも本当に皆さん素敵に似合ってはりますよ」
紺の制服を着て見違えるように凛々しくなった男たちにしばし古相寺は見とれた。

 外山少佐が白岩に言う。
「それでは白岩大佐殿におかれては呉の先、大竹にある潜水学校に出頭して下さい。急に潜水艦艦長に配置替えになるのだが潜水艦の実戦経験が少ないので実習に参加するという名目です。それで大丈夫ですかね?」
「昔、見学させてもろうたから、潜水艦操艦のイロハぐらいはわかります」
白岩はそう答えたが、昔というのはタイムダイバー隊に決まってからで、白岩が体験入隊したのは現代の海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦である。もちろん潜水原理や構造的には大きな違いはないが、機器の性能が劣っていたり、操作や、かかる作業手間、所要時間が大いに違うだろう。どんな緊急場面でも迅速に指示出来るようにその点を頭に叩き込んでおかなくてはならない。
外山少佐はさらに書類と書類入れを手渡す。
「それからこれが白岩さんへの命令書。こちらが伊号潜水艦で見せる参謀本部による極秘作戦命令書です。内容詳細は空欄にしてありますから書き入れてください」
「ありがとうございます」

 外山少佐は次の書類を小柴中尉から受け取って望月と矢吹に差し出す。
「望月大尉と矢吹少尉への訓練の命令書です。水上偵察機の訓練を特別に行う手筈を整えましたので岩国航空隊に出頭してください。現地では予科練生用の燃料確保が難しいため予科練生の訓練はもうやめておるのですが、今回は別の機体からの再訓練ということで無理やりにやらせます」
「ありがとうございます」
「前に言ってたように飛行機は少し旧式の九六式小型水上機になりますが」
「全くかまいません。これで技術を磨いて実戦に臨めます」
「それは頼もしい限りですな」

「そして松丸一等兵曹、艦隊司令部電信課への辞令です」
外山少佐が書面を差し出すと松丸はお辞儀の敬礼をして受け取った。
「謹んで頂きます」
「地下壕がまだ工事中で通信課の場所についてはまた移動するかもしれません。艦隊司令部でよく聞いてください」
「はっ、了解しまました」

「これで皆さん、立派なというと語弊がありますが、事情を知らぬ者から見たら立派な海軍士官です。どうぞ八咫烏の名を大事にしつつ、海軍の名もそこそこ汚さぬよう行動してください」
外山少佐が訓示らしきものをすると、白岩大佐が号令をかける。
「外山少佐殿、小柴中尉殿に礼」
タイムダイバー隊四人の男の敬礼を受けて、外山少佐、小柴中尉は答礼して部屋を出て行った。

   ○

 秘巫女公子に宝物庫の出入り口で見送られて桜受家の地下要塞を出発したタイムダイバー隊一行は京都駅に着いた。
明治10年にこじんまりしたレンガ造りで完成した京都駅は、大正3年に大きな塔を取り込んだルネサンス風の木造駅舎に改築されて、現代の雰囲気とはまるで違う。もちろん北側にどんくさいロウソクみたいなタワーなどない。
ホームはそこそこの客がおり、買い出しのためか大きなリュックや風呂敷を持った者が目立つ。
ここで白岩、望月、矢吹たちは広島の大竹と岩国方面に向かい、松丸と古相寺は横浜日吉方面に向かうのでお別れである。

 望月がからかう。
「古相寺はなんで事務服なんや。また桜受に帰るんか?」
「違いますよ。やはりこの時代に来てみるとスポーツウエアではさすがに浮くので酸漿さんに相談したら下さったんです。こういう地味な服の方が就活に向きそうですし」
白岩が笑いながら言う。
「今やから教えるがな、古相寺が最初、一人で桜受家に乗り込んだ後な、皆であれはきっとタライやられへんでと笑っとったわ」
男たちが笑う中、松丸一人が「僕だけは笑ってませんよ」と言い訳する。
「ひどい、わかってて助けに来いひんかったんですか?」
「細かいこと言うな。行かなくても助かったやないか」
「ほんまもう、えげつないんやから」

 古相寺は自棄みたいになってウェストポーチからお守りを取り出した。
「そない鬼のような皆さんにも神様の加護があるようにお守りを作りました。一人ずつ手を出して下さい」
白岩が最初に手を出すと古相寺はパンと叩いてからその上にお守りを乗せる。
「おおきに、最初に出してくれとったら悪口は控えたったのに」
古相寺はあっかんべーしてやる。
次に望月が「ありがとうよ」と続く。
そして矢吹が「どうもな」と続き、最後に松丸が手を握りそうな勢いで「自分のためにわざわざありがとう」と言いながら貰った。

 いよいよ列車の時刻が近づいて来た。
矢吹が溜め息とともに言う。
「今日からあの夢のような御馳走ともお別れか」
白岩が唸る。
「ううむ、毎日ごっつい御馳走やったのう」
古相寺も相槌を打つ。
「私もです。毎日すいとんだと覚悟してきたのに、こんなに美味しいものがこの世にあるのかという御馳走が日替わりで食べられて」
望月が笑って言った。
「これで思い残すことなく死ねるな」

 すると古相寺が突然、猛然と怒鳴った。
「そういう言い方はやめて下さい。死ぬのは仕方ないみたいな言い方」

 何事かとホームの他の客が視線を集める中、望月が冷ややかに言う。
「そういう古相寺も最初の顔合わせの時、生きて帰る確率はないみたいに言うたぞ」

 古相寺の口調は負けてない。
「あれはただの機械の予想です。途中でダメになりそうになってもあきらめて特攻とかせんといて下さい。絶対にあきらめんと命令をやり遂げて、生きて皆で帰るんです。
皆は桜受の特務……じゃない」
古相寺は外世間で禁句の特務員と呼びそうになって慌てて言い換える。
「ほれ王家に仕える身なんですから、やり遂げて生きて帰るんです」

 言いながら古相寺の目から堰を切ったように涙が溢れる。
さほど長くない期間でも、いろいろと話もし、口喧嘩もした仲ではあったが、秘巫女の命令一下、安全かどうかも確証のないタイムマシンでこの暗雲渦巻く時代に飛び込んで来た仲間なのだ。だが、この時を最後に二度と会えぬかもしれん。いや、そんな筈はない、うちの今まで聞いた中では特務員ちゅう人らは不死身や。戦争なんかで死ぬ筈ない……。

「そんなん跳ね除けて『皆で生きて帰るんや』て、皆で言うて下さい」

 涙が古相寺の頬を流れ、顎から、大粒が落ちる。

「皆で言うて下さい。お願いします、『皆で生きて帰るんや』って言うてください」

「ちっ」
白岩が鼻水をひとつ啜って言う。
「泣き虫のおなごがうっさいからの、ここは声揃えて言うたるでえ、ひぃー、ふぅー、みぃっ」

『皆で生きて帰るんや』

 戦時下のホームで、海軍士官達がそう声を揃えた事は、実に奇妙な光景であった。

 つづく