八咫烏のタイムダイバー 公開済み全章

2021年7月24日

更新状況 2021年 7月24日 第20章を投稿 最新章リンク ←クリックでGO

※登場人物が実在人物と同名でも内容はフィクションになります 

八咫烏のタイムダイバー表紙

目次
第1章 桜受家おうけけ秘巫女ひみこ旭子
第2章 古相寺こしょうじさんの大事件
第3章 選ばれし特務員
第4章 秘巫女ひみこのぞ
第5章 タイムダイバー隊出発
第6章 昭和の秘巫女公子
第7章 飛鶴の間にて
第8章 桜受家の海軍士官
第9章 別れの時
第10章 司令部通信室と赤屋根食堂
第11章 潜水学校と水上偵察機
第12章 パミール号と旭子の謎解き
第13章 伊号第12潜水艦応答す
第14章 潜水艦訓練と偵察機調達
第15章 偵察機 鴨川支流に着水す
第16章 奇跡の遭遇
第17章 秘密作戦
第18章 ドイツ原爆とリトルボーイ
第19章 ヘッジホッグの脅威
第20章 艦内徒競走と富士山

 

 

第1章 桜受家おうけけ秘巫女ひみこ旭子あきこ

 京都の南、とある神社の境内と隣接地にまたがる広大な敷地に地下要塞がある。その存在は一般に知られる事はなく報道も絶対されない。ヒントを請われるなら、歴史に詳しければ八咫烏やたがらすという言葉を耳にした事があるだろう。

 古事記の神話の神武東征絵図に描かれるのは神武軍を先導したとされる金鵄烏だが、もちろん神話の修飾であって実際には三つの古代氏族である。
それはスサノオから伝わる神刀布都御魂ふつのみたまをもたらした高倉下たかくらじの物部氏、出雲から磯城登美しきとみ家を経て大和に入ってた賀茂氏、同じく出雲から大和に入ってた三輪氏であった。

 そもそもこの神武東征の歯車を動かした大元は紀元前二百年前後に中国から渡来した徐福であった。彼は秦の始皇帝を言葉巧みにそそのかして三千名の若い男女と軍隊、技術陣を乗せた大船団を連ねて上陸したのだから日本史に痕跡を残さぬ筈がない。ところが記紀には徐福の記述が見当たらない。歴史研究家や教育者は正史を鵜呑みにせずに、まずこの点に疑問を持つべきであった。

 それもその筈、徐福は当初、火明ホアカリを名乗り出雲を乗っ取ろうとしたのだ。しかし出雲は日本で最も早く国家としての体裁を整えた大国で、軍隊も法規も完璧だったため徐福の手下により国王と副王を亡き者にされても権力継承が揺るがなかった。
 そこで徐福は出雲を当地で生まれ出雲族の血の入った五十猛いそたけに任せた。その後五十猛の子孫は出雲族と大和に進出し混血融和を進め物部氏となった。
 出雲から撤退した徐福は一転、饒速日ニギハヤヒ(故郷の饒安県から一字取った)と名乗って小国家乱立の九州を攻略した。
こうして徐福は吉野ケ里に環濠を備えた防御力の高い巨大集落を形成、また現地の出雲族とも混血が進み筑紫物部氏の大勢力となって着実に覇権を広げたのだ。

 徐福なき後、力を蓄えたその子孫五瀬命いつせのみことと弟の神武(磐余彦命いはれひこのみこと)は大和を制覇すべく進軍するが、機内に上陸したところで体格に勝れた敵将長脛彦ながすねひこの弓矢に五瀬命が負傷落命してしまい迂回を余儀なくされた。
だが敵対する両軍には血を遡れば徐福という共通祖先を持つ氏族が多数あった。これに早い時点で気付いて神武に通じた氏族が八咫烏という訳である。

 これが記紀における有名な場面、長脛彦が交渉の席で「私はずっと天神の御子にお仕えして来た。だが神武軍も天神の御子と言われる。天神の御子が二人もいるのはおかしい」と疑うと、神武が「それでは神具を見せよ」と返したところ、長脛彦が持って来たのは神武所有と全く同じ神具だったという種明かしに直結するのである。

 この視点を重視すれば、なぜ饒速日のした東征を神武が再度するのかという謎や、神武が応神や祟神と同一人物と考えられる謎や欠史の謎が氷解合点されるだろう。
 つまり、記紀には徐福=饒速日ニギハヤヒの子孫である神武を歴史の一番古い初代天皇に置こうという画策があり、神武に関する記述を応神や祟神、そして磯城王朝初代の天村雲あめのむらくもに分散させ、初代の天村雲を神武の名で上書きした。結果、記述の少ない磯城王朝の王たちは欠史八代などと酷評される事態になった訳である。

 さて八咫烏であるが、より明確な形となったのは、聖武天皇の時代に藤原家に対抗するために制定された裏組織であり、天皇の駕籠を担いだり葬儀を行う八瀬童子という実働部隊であった。さらに八咫烏ではいざ天皇に危害が及びそうな場合には寺社を使って安全に奈良吉野まで逃がすルートが決められていた。

 八咫烏は秘密組織として代々継承されていったのだが、その組織を維持するために独立した家を持たせず全ての構成員を結社の直属とした。
 南北朝で朝廷が分裂した時には八咫烏の四つの家も南北に分かれてそれぞれの朝廷に仕え、戦国時代でも天子様を守り抜く事が出来た。

 だが、江戸幕府後期になって幕府や朝廷が陰陽道や祭祀儀礼を軽視するようになると八咫烏は経済的な裏付けを失い勢いに陰りが見え、明治維新で薩長が権力を握ると表立った動きが出来なくなり、地下の秘密結社としてしか生きる術がなくなった。

 当然のことながら極めて閉鎖的な社会を営んでいたわけだが、近親婚ばかりでは組織が廃れてしまうから、地方に分家を分散して新たな血を取り込む事も行われた。
こうして明治までに本家筋四家と地方分家筋十二家に分かれて皇室の財産を運用し、その利益で会社を設立運営し、国家の殖産興業を手伝ってきた。

さらに太平洋戦争になると、防空壕を掘るという大義名分も得て八咫烏は地下に大きな住居を構えるようになった。さらに本土決戦の様相を見せるに至って、それは国体護持のゲリラ基地として大規模化、地下要塞化したのであった。

 京都の南にあるのは本家筋のひとつ南朝派桜受家で、古の天皇から桜の苗を賜ったのを機に家名を変えたものだ。そこの当主は代々棒頭ぼうがしらと名乗る男が継いでいた。また八咫烏結社の構成員達は明治維新になっても苗字を与えられなかったのだが、次第に商業活動が活発化し一般と交流が増えるようになると不便となり、桜受家では独自の方式を採用した。それは外世間で苗字として通用してる苗字を名前につけるというものだ。
 例えば赤ん坊は鈴木と名付けられ成長して外の世界と交渉する場合にも、いちいち偽の苗字を作るという面倒をしなくて済むし、突っ込んでお名前はと尋ねられたら個人的に用意していた、例えば権太郎を使って答えればよいわけだ。

 本家筋の棒頭は表向きの当主なのは間違いないが、実際の指図は秘巫女ひみこと呼ばれる巫女頭にお伺いを立てるのが古くからの掟で、結局、どこの八咫烏結社でも権力は秘巫女が握っているという点が共通している。
 桜受家当代の秘巫女は旭子あきこという四十代後半の、しかし外見はもっと若く三十歳そこそこに見える美しい女性である。

 桜受家の地下最下層三十階には秘巫女の仕事場である祈祷広間があった。中央に白木で組まれた大きな階段があり上からは光が差し込んでくる。それは地上から鏡を屈折する工夫で万が一の敵の侵入を避けながら届けられた太陽の光であり、階段の中腹に座した大きなご神鏡が輝いている。
 その広間の左側には彩やかな屏風絵の貼られた襖で仕切られた十五畳ほどの部屋があり天子様の御座所とされていた。また右側には障子で仕切られた十五畳ほどの部屋があり秘巫女の通常の居室になっている。

 そこへ突然、
「旭子さま~」

 部下の巫女二人、壬生野みぶの古相寺こしょうじが擦り足で足音を消すのも忘れて板敷の広間をパタパタと駆け寄って来ると旭子は眉間に皺を寄せて叱った。

「なんです、神前ですよ、二人揃ってお行儀が悪い」
 巫女たちは肩で息をしながら報告する。
「申し訳ありません。しかし一大事なのです」
「三本がすごい情報を入手したのです」
 この桜受家で三本というのは八咫烏の足から名付けられた現場実動員及び特務員を指す綽名だ。もちろん今やこの地下最下層までネット回線網に接続しているが、特務員からの報告は暗号帳を用いてアナログ電話で送られて来るため、壬生野と古相寺はベルで呼び出され送話管のある部屋まで移動し地下二階の連絡係から報告を聞いてきたところだ。

 旭子が「一大事?」と緊張した声で尋ねる。
 巫女服にはミスマッチな筈の眼鏡が妙に似合う壬生野が説明する。
「はい、C205型重力歪曲時間転移装置の搭乗コード端末の設計図が手に入ったのです」
 旭子は一瞬、あっと口を開き、喜びがアドレナリンと共に上昇するのを感じた。
 前々から米国に潜入させていた特務員にいくつかの情報や機械を盗むように指示を出していたのだが、そのひとつがタイムマシンへの搭乗コード端末である。
C205型は伝説のジョン・タイターの使ったマシンC204型重力歪曲時間転移装置の改修機であり設計図は既に入手して機械自体は境内の庭に物置小屋に偽装して完成していた。前型機では特異エリアに入れば誰でも転送できたり、また搭乗者を見失うという欠点があったため、新型機では宇宙のどこにいても遅延なく量子コンピューターと同期できる搭乗コード端末により搭乗員を管理するように改修されたのである。

「それはそれは、よくぞ成し遂げましたね。しかし、一大事というのは天子様に何かある、または何かあった時に使う言葉ですよ、きちんと使い方をわきまえなさい」
「はい、旭子様」

「それで三本は無事なの?」
 訊かれて今度は背の高い古相寺が答えた。
「はい、逃げる時に腕を骨折して銃弾二発を腹部に受けましたが高度医療回復装置で回復できる傷です」
「感状を書いてあげましょうかね」
「ええ、きっと彼、喜びます」
「貴方たちもチョコレートでお祝いしましょう」
旭子の声に壬生野が声を上げる。
「やったぁ、あの苦くないのでお願いします」
 セキュリティーの観点から地上との自由頻繁な往来は出来ない。それを許してたら菓子を買うため巫女たちが入れ替わり立ち替わり地上のコンビニ等に出入りして結社の存在が露見してしまうのは明白だからだ。そのため地下では日持ちの悪いケーキ類は滅多に食べられない。その代わり保存の効く袋菓子やチョコレートは各種集まって来る。
 巫女の壬生野が苦くないのと言ったのは、ストイックな旭子が松果体の覚醒維持のためにカカオ90%のチョコばかりストックしてるのを知っているからだ。

「これからが大変です。三本の精鋭をタイムマシンで送り込まなければなりません。優秀な特務員のリストを見せてもらいますよ」
 旭子が次々と口にチョコレートを運んでいる巫女たちに指示を出した。
 そこでいつもタイムトラベルしたいと言ってた壬生野が売り込んだ。
「私ならケネディー大統領の演説会場に行ったり暗殺された現場に行き、真実を報告出来ます。旭子様、現場で特務員の連絡調整するためにも私の派遣が必要かと思います」
 なにしろ学生時代は毎日図書館で歴史書に没頭していたという壬生野はその頃からタイムマシンが出来たらジョン・F・ケネディーに会いに行きたいというのが口癖だった。
 しかし旭子の返事は冷たい。
「当時の写真を分析するとどうやら未来から取材に来た人間が既に映り込んでいるようです。しかし、私はそんな観光目的に三本や貴方を送るつもりはありません」
「か、観光だなんて」
「ちょっと言い過ぎましたね。しかしもっと大事な事案があるのです」
 壬生野がしょげ返ると古相寺が聞き返した。
「前にもタイムマシンができたら何を目的にされるかお聞きした時、まだ秘密とお答えになりました。でももう教えていただかなくてはなりません、その目的に合う人選をしなければならないわけですし」

 旭子はひとつ息を吸うと、遠い向こうを直視する目になった。

「私はあの戦争を許せないのです。
戦争である以上民間人も少しは巻き込まれる事もあります。しかし、戦時中にあっても穏やかに暮らしていた民、悪の道に足を一歩も踏み入れた事もない、なんの罪もない、無辜なる二十万余の民が一瞬にして生命を断ち切られたのです」
 旭子は原爆病院にいる被爆者の意識を読んでみたことがあった。当日は朝7時9分に空襲警報があったがまもなく解除されいつもと変わりない日常を過ごしていた。多くが卓袱台を囲んでの朝食、もしくはそれが終わった頃合いで家族で笑い合う声もあった。
と、突然、まばゆい閃光が差し込み、それから突風の衝撃が引き戸や壁を粉々にして吹き飛ばした。たまたま奥の台所に立っていた女性はつぶれた家屋から這い出した。卓袱台を囲んでいた家族は火傷は部分的だったもののすでに息をしてなかった。

「このような事……、許されると思いますか?」
 旭子が赤く染まった顔で憤怒をぶつけてくると、巫女達は恐れおののいた。

「旭子様の仰る通りです」
 旭子は扇子を握り怒りを堪えるとそっと溜め息を吐いてがらりと口調を整えて巫女達に問いかけた。
「さてタイムマシンをどう使ったらよいとあなた達は考えます?」
 古相寺が考えながら口を開く。
「つまり過去に行って原爆を止めるために行動するということですよね。ならば原爆を開発した科学者に非人道的だと訴えて手を引かせるのはどうですか?」
「うーん、当時、日本人は憎まれ、収容所に送られてる状況ですから、米国内で日本人が開発者たちに調略工作するのは難しいでしょう」
「ではアメリカ合衆国で一番の権力を持った者に心変わりさせるのはどうですか……」
「権力というものは利権や利害が絡み合ってますからね、原爆に関する決定を覆すのはなかなか簡単ではなさそうね」
「では逆に日本が先に原爆を開発したら逆転できませんか?」
「日本には物資がないから、ウランがある程度まとまった量が必要ですし、他にも遠心分離機など高度な技術が必要ですから、難しそうね。ドイツからUボートでウランを運ぼうとした計画も実行されたけれど途中で撃沈されてしまったと聞きます」
「旭子様には何か策がおありですか?」
 古相寺が聞くと旭子は小さく息を吐いた。

「いいえ。本体の設計図を手に入れた時から考えてますが、まだ、これという策はありません。歴史記録を紐解いて、そこから使えるものがないか知恵を絞っているところですが、伊号第58潜水艦をどう動かしてもテニヤン港に到着する前にインディアナポリスを撃沈させることは出来ぬようなのです」
 古相寺は「見せて下さい」と言って旭子の大型タブレットを手に取った。

「インディアナポリスというのは何です?」
 壬生野が尋ねると旭子は頷く。
「米国の重巡洋艦で、原爆の部品を西海岸からテニヤンという日本攻撃の拠点に運んだのです。これが荷揚げする前に撃沈できれば原爆投下は大きく遅れる筈です」
「なるほど」
「史実ではテニヤンに原爆を荷揚げした後、マニラに向かうインディアナポリスを7月30日に伊号第58潜水艦が撃沈したのですが、これを荷揚げ前までに早める事が出来なさそうなのです」

 するとしばらくタブレットであれこれ検索していた古相寺が、突然、自分は天才だと言わんばかりに「わかったー」と叫んだ。

「じゃあ別の潜水艦に攻撃させればよいのです」
「近くに動員出来る潜水艦などないですよ」
「ほら、ここ。1月に伊号第12潜水艦が沈没してます。これを使うのです」
 旭子が溜め息を吐いて言った。
「あなた、おバカね、沈んだ潜水艦を引き揚げるのにどれほど資材と人員がいると思ってるのですか?」
「ですから撃沈されないコースを事前に特務員が通信しておくんです」
「戦争中の潜水艦は滅多に浮上しないものらしいからうまく出来るかしらね」
「きっと通信のタイミングがありますよ。そこで水上偵察機で特務員を浮上地点に運んで参謀将校として乗り込ませインディアナポリス撃沈の極秘任務を発令するのです」
 古相寺が自説をぶち上げると旭子も「ほお」と言って目を輝かせた。

 慌てて壬生野が問題点を指摘する。
「待って下さい、撃沈は7月なんですから半年も後ですよ」
「たっぷり訓練が出来ます」
 壬生野が突っ込む。
「それまでの燃料や食料はどうするつもり?」
「燃料は近くに昭和の桜受家の特務員や連絡員がいるかもしれません。食料は魚を釣れば良いでしょう」
「魚を釣ればって、あんたねえ、ゲームじゃないのよ」
 壬生野の困惑に古相寺が両こぶしを握りしめて言う。
「私達の特務員を信じましょう」

 そこで旭子が古相寺に質問する。
「その後はどうするつもり?」
「えっ、その後……ですか?」
 古相寺の目が泳いだ。
「一回阻止したとしても、米国の資源は莫大ですからいずれまた原爆を作って投下しようとするでしょう。次は警備も厳重となり同じ攻撃は難しくなりますよ」
「そうですね、どうしましょう?」
 古相寺が途方に暮れると旭子が言った。

「表の天子様たる裕仁様に今回はわが桜受家の働きで原爆を止めたが次は阻止できないぞ。一刻も早く降伏せよと説得すればよいのです」
「なるほど、さすがは旭子様です。壬生野も張り切るでしょう」
「いえ、この作戦はお前のひらめきが冴えておったので、裕仁様の説得もお前が行ってしてきなさい」
 古相寺は一瞬、眩暈がした。
「わ、私は現場に向いてません。いつも旭子様のすぐ前、出来れば旭子様の後ろに隠れていたいタイプなのです。朝は低血圧気味ですし現場なんてとてもとても。格闘訓練も殆ど受けてませんし」
「お前に潜水艦に乗れというわけではないから大丈夫です」
「だって戻れないかもしれませんよ。そしたら知らない人ばかりの世界で死んでしまうかもしれません。そんなの嫌です」

「ふ、中学生みたいなこと言わないの」
 旭子は古相寺を笑い飛ばした。
「明日の午後までに作戦に投入できる特務員のリストをまとめておいてください。現在潜入中でも重要でないCランク以下の作戦なら呼び戻して参加させる前提でリストをお願いしますよ」
 古相寺は(待って下さい)(私は向いてません)(説得するなんて無理です)と盛んに反論を並べ立てるが、旭子は天井から流れる琴の音のボリュームを上げて取り合わなかった。

 

第2章 古相寺こしょうじさんの大事件

 

「あ~あ、なんで私が行くの~? タイムマシンなんてヤやわ~~」

 クリーム系のタートルネックセーターにジーンズという平凡な私服の古相寺はソファーで手と足を同時に上下に振り揺すり喚いている。
「旭子様が決めたんですから、しょうがないではありませんか」
 キッチンから壬生野が声をかけた。

 ここは八咫烏結社桜受家の地下三十階建ての本部内地下九階にある居住区だ。
 太陽光がドライエリアにしか入らない点を除くと普通のマンションの若者向け1Kと変わらないが、今はもう秋の夜七時なので外は暗い。
 巫女の勤務を終えた二人は本部内にあるコンビニで弁当を買って今、壬生野の部屋で食べ終えたところだ。地上コンビニチェーンの揚げ物ばかりの弁当と違い、本部内食堂に勤める栄養士のお母さん達が作ってくれる和定食なので美味しいだけでなく健康志向で安心できる。
 トレイにカップと紅茶ポットを乗せた壬生野がゆっくりとした足取りで進み、ソファーの隣に座ると、古相寺は足を引き寄せてソファーの上で体育座りになる。
「しょうがなくない~っ」

 壬生野はポットを持ちふたつのカップに注いでやる。香りが湯気とともに立ち上がり二人にささやかな癒しをもたらす。
「美穂、どおぞっ」
 美穂は古相寺が小学校に通う時に自分で決めた名前だ。桜受家では全ての民が桜受家に直属なので強いて言えば桜受古相寺が姓名にあたるが、桜受の名を秘した古相寺に自分で美穂と名を加えたと考えてもらってもよい。壬生野がその名を呼んでカップをテーブルの古相寺側に置いて淡いピンクの縁どりの眼鏡をすっと指で上げると、古相寺は「ありがとー」と言って両手で包むように持ち上げた。

「だけど私なんかじゃ茜に申し訳ないよ」
 茜というのが壬生野自身が名付けた名前である。
「いいんだよ、私は」
「よくないって、ずっと茜はタイムマシンに乗りたがってたじゃない、たしか中学生ぐらいから言ってたよね」
 すると壬生野はちょっと首を傾げて訂正を入れる。
「タイムマシンに乗りたいて言い出したのは小学校五年からかな。ケネディーに会いたいて思ったのは中学二年だけど」
 普通に聞いてればあり得ない話だが、結社の娘達は社会常識の洗脳や決めつけから自由な面があるのだ。
「そんなタイムマシンに熱い茜を差し置いてさ、巫女として一番出来の悪いアタシが派遣されるなんておかしいっしょ?」
 壬生野はうっかり素直に頷きかけて「うっうううん」と首を横に振った。縦に動きかけてたのを急に横に振ったせいか首が痛い。
「そっんなことないよ、美穂ちゃんはよくやってるよ」
(慌ててフォローしちゃった、あざとくてばれたかな)
 壬生野は紅茶を飲みながらちらっと古相寺を盗み見たが、どうやら気付いてないようだ。
(鈍感だなあ、でもそのおおらかなとこが美穂の長所なんだよね。羨ましい、ビビリな私に半分、わけてくんないかな)
 と思いながら壬生野は高校2年1月に起きた神咒式術実践講座の時の古相寺の大失敗を思い出す。

   ○

 あれは二人が高校二年の冬。
 結社の巫女は神社でお守りを物販してるようなバイト巫女とは全く違う。時には結社を守るため、時には天子様を守るため、最近では陰謀による人工地震から国を守るために、霊的結界を張ったり、敵の結界を解いたりと様々な神咒式術を駆使し実行しなければならないから真剣そのものなのだ。
 そのため中学生ぐらいで結社の女子は揃って巫女の基礎教育を受け、三年かけて選抜されて素質のある者は高校入学と並行して正式の巫女修行が始まる。じゃあ男子が楽でいいかというとそうはいかない、男子は男子で結社を守るために武闘術の厳しい訓練を受けなければならない。その中から素質のある者が特務員にスカウトされる点も同じだ。

 さて、そんな巫女修行の中でも高度な術に入る 十種 神宝 神咒とくさのかむだからしんじゅ というものがある。 これは正式に行えば死んだ者を甦らす事も出来るという霊験すさまじい式術だ。 ただ必要な十種の神具を揃えるのが大変で、瀛都鏡おきつかがみ、邊都鏡へつかがみ、八握剣やつかのつるぎ、生玉いくたま、死反玉まかるがえしのたま、足玉たるたま、道反玉みちかえしのたま、蛇比禮おろちのひれ、蜂比禮はちのひれ、品品物比禮くさぐさもののひれ、これらにひとつひとつに魂を入れ、さらに死んだ者の魂を召喚して神咒を正しく唱え聞かせなければならない。

 この式術を伝授出来るのは桜受家でも数名しかいないが、引退してる巫女や先代の秘巫女の手を煩わせるのは心苦しいし、旭子も最新の巫女候補の様子を把握しておきたい気持ちがあった。
 そこで今日は旭子が助手の巫女橋口を伴い、直々にきらびやかな秘巫女の正式衣装で講師にやって来ているのだ。
 もちろん結社の娘たちにとって秘巫女はなれるものならばなってみたいという憧れの存在ではある。しかし、それが実習の先生で自分に評価が下されるとなると、ほとんどの生徒たちは憧れよりも緊張と恐怖でガチガチになってしまっていた。

 講師の旭子が魂を入れた十種の神具を並べたテーブルに、名札をつけたジャージ姿の生徒が一人、甦らせる対象のハムスターを乗せたトレイを持って来る。ハムスターを甦らせるといってもたかが結社講義でいちいちハムスターを死なせていてはむしろ教育的に問題があるので、死なせたものではなく冬眠させてあるハムスターを使う。
 そこで生徒は指で秘伝の印形を作り、暗記してきた神咒を唱えてハムスターの霊を呼び覚まし、さらに神具からの霊力を作用させるという実習だ。

 ハムスターはうつ伏せで、まるで死んでるかのようにぴくりとも動かない。
「では壬生野さん、始めなさい」
 旭子に促された壬生野は「はい」と返事して指を覚えた形に組み、覚えた神咒を唱え出す。指に力が入りすぎて合わせた指の表面が白くなってゆき、眼鏡が立ち昇る息で曇ってゆく。

 神咒のポイントは一般に簡略版が知られたひふみの正式な数詞で、『一二三四五六七八九十瓊音ひふみよいむなやことにのおと 布留部由良由良ふるべゆらゆらと 由良加之奉ゆらかしたてまつる 』にあり、これを正しい古代の発音で唱えられた時、神霊界の神具の玉がゆらゆらと揺れては互いに当たり合い弾き合う、なんとも言われぬ美しく凛々たる旋律を奏でて死者の魂をこの世の体に引きずり込み瞼を開かせるのだ。

 壬生野は次第に神咒を大きな声で唱え続けた。
由良由良ゆらゆらはらひ 由礼由礼ゆれゆれはらふ 比礼比礼ひれひれきよめ 比良比良ひらひらきよめよ」
すると突然に、 ハムスターはぶるっと身震いし、つぶってた目をパッと開いた。

 ハムスターの神経に見えない小さな雷が落ちて血流が堰を切ったように活発化したのだろうか。聞き耳をしっかりと立てたハムスターはつぶらな瞳で周囲を見回すとひげをもたげてちょろちょろと動き出した。

 ワーッ! すごい!
 見物してた生徒たちから歓声が上がり拍手が起こる。
 実は旭子も後ろでこっそり念を送ってやるので間違いなく神咒を唱えられれば確実にハムスターは冬眠から覚醒するのだ。

「おめでとう、見事でしたよ」
 秘巫女の旭子が褒めると壬生野はポーと上気した頬で礼を言いお辞儀する。
 旭子は頷いて受け止める。今回の式術はいわば冬眠覚醒用の簡易版だ。本当に死者を蘇らせる式術の全てはまだ教えるわけにはいかない。しかし、このように成功体験を与えてやったことでこの子らも自信を持つであろう。子供にはそれが何より大切なのだ。

「時間はどう?」
 旭子が聞くと助手の巫女橋口は「13分21秒です」と答えた。
「10分を切ったのは菊高さん一人だけね」
 旭子のつぶやきを聞いて菊高麗子はふふと微笑んだ。隣の同級生達が褒めそやす。
「麗子さんは先代の秘巫女さまの姪やから当然といえば当然やわ」
「うちも旭子さまの次の秘巫女は麗子さんで決まりやと思うとるよ」
 菊高は傾げた頬を手で支えて照れて見せる。
「やだ、困りますわ、まだ正式な巫女になる前からそんなプレッシャーかけられては」

 次の生徒は古相寺だった。どのクラスにも一人はいる、順番を逃げて逃げて一番最後にまわってしまうタイプ、それが古相寺だ。 
 古相寺はトレイにうつ伏せになったまま動かないハムスターをじっと見詰めていた。その目には本気で心配してるような真剣さが浮かんでいる。
(美穂、がんばって)
 壬生野が古相寺の横顔に無言の声援を送った。

「では古相寺さん、始めなさい」
「はい」
 旭子に促されて古相寺も指を決められた形に組み、ゆっくりと神咒を唱え出す。
 見物している生徒と助手橋口は古相寺の式術が10分を切れるか注目していたが、ハムスターはぬいぐるみのようにじっとしている。
 やがて生徒たちの間に沈黙のうなずきが広まった。
(やっぱり10分は切れなかったね)(ま、そうなりますわ)

 古相寺の神咒を唱える声は次第に小さくなってゆく。
(あれ、なんかおかしくない?)
 生徒たちのあちらこちらから、かすかなざわめきが生じた。
 古相寺の声はゆっくりと小さくなってゆく。

「古相寺さん」
 旭子が声をかけても古相寺は答えず、その代わりゆっくりと前傾してテーブルに額をつけ鼻をつけ頬をつけてしまった。

「やだ、この子、寝ちゃってる」
 助手の橋口が古相寺の肩を起こそうとしてそう告げると、旭子は古相寺の息を確かめて無事を確認した。
 一体、何が起きたのかを思い巡らすと旭子は生徒の群れを見回して、菊高麗子を見つけ出して聞いた。
「菊高さん、あなた、何かしてないわよね?」
 式術の補助に徹していた旭子にはっきりと察知出来たわけではなかったが、もし神咒を術者に逆に返す高度な秘術を行えるとすれば菊高麗子に違いない。

 菊高は腕組みしてた手を胸の前に挙げると左右に大きく振った。
「えっ、私が? まさか、神咒返しですか?
 そんなこと出来ません。仮に出来たとしても動機がありませんわ。
 古相寺さんのような、こう言ってはあれですが、あまり式術の出来がよろしくない方をわざわざ苛めても少しも面白くないではありませんか」
 旭子は菊高の意識を読もうとしたが(きっと古相寺さんは徹夜して神咒を覚えたので、疲れて本番で寝込んだんだ)という台詞がびっしりと繰り返されていた。それはまるで琵琶法師説話で耳なし芳一の全身に鬼を避ける経文が隙間なく書いてあるのを思い出させたが……。
「それもそうね」
 旭子は一応納得するとそれ以上の詮索はしなかった。

 古相寺は脈を確かめても大きな不調はなさそうなので、スケジュールのタイトな旭子は帰ることとし、助手の橋口と親友の壬生野を残して生徒達を帰した。

「美穂、大丈夫かな?」
 壬生野のつぶやきに橋口が応じる。
「まあ落ち着いてるようだし大丈夫でしょう。この式術も本格的にすると術者はものすごい体力を消耗するのだと旭子様も言っておられましたから、古相寺さんが特別疲れやすい体質だったのが原因かもしれませんね」

 しばらく様子を見ていると古相寺は不意に頭を持ち上げ、何事もなかったように両拳を広げ伸ばしてウーンと唸って目を覚ました。
「あれ、今、何時? 本部の講義室? なんか特訓があるんだっけ?」
 橋口が吹き出した。
「古相寺さんたら、何も覚えてないの?」
「美穂、神咒を唱えててそのまま寝落ちしたんだよ!」
「えっ、えっ、何の神咒だっけ?」

 橋口が「ほら、冬眠してるハムスターを起こす十種神宝神咒よ」と言うと、古相寺はようやく思い出して叫んだ。
「そうだった、ハムスターが気持ちよさそうに寝てたからね、あの眠気が伝染してきて私も寝込んでしまったんだよ」
「はっ? アハハハハッ」
 いよいよ橋口と壬生野が噴き出した。
「そんなあ、あり得ないっしょ」
「人間同士なら眠気の伝染はたまにあるよね。けどねえハムスターから伝染して寝込んだなんて、美穂ちゃん、人類初かもしれないよ」
 ケラケラと笑う声が講義室に響き、古相寺は真っ赤な顔になりいたたまれなくなって叫んだ。
「もう、やめてよ」
 二人はびっくりして笑い声を止めた。
「今のは絶対秘密にして、お願い」 
 古相寺が柏手を打って拝むので橋口と壬生野はひきつりそうな笑いを裂いて止めながら「うん、うん」と頷いた。
 これが桜受家秘史に残る古相寺神咒寝落ち事件の真相である。

   ○

 古相寺のティーカップが空になったようだ。
「もう一杯どうや?」
 壬生野は頷いた古相寺に紅茶のお代わりを注ぐ。
「それにしても旭子様はどうして私なんかを選ばりはったのかな?」
 古相寺はまだ納得がいかないのだ。
「秘巫女様が決めはったんやから桜受家では絶対やき」
 壬生野が言うのに、古相寺は話を袋小路に追い込み始める。
「あ、もしかして危険だから出来の悪いうちにやらせた方が万が一の時に被害が少ないというソロバンか……」
「それは違うと思います。ソ連のライカ犬じゃあるまいし」
「何や、そのライカ犬て?」
 壬生野は眼鏡をそっと持ち上げ気味に図書館の虫らしい雑学ネタを披露する。
「宇宙開発の始まった頃、ソ連が宇宙へ送り出した野良犬の名前です。女の子です。帰還する装置の完成が間に合わなかったので安楽死させる予定で打ち上げられたんです。でも美穂はそんな事ないでしょ」
 壬生野の言葉を聞くうちに古相寺の表情が強張っていった。
「わからへんよ、そうかもしれへんやない!」
「それはないですっちゅうの」
「うち、今すぐ旭子様に直に聞いてくるわ!」
 立ち上がった古相寺を壬生野が止めようとする。
「そう言われても旭子様のお部屋は警備が厳重で近付けない筈やから。やめときや」

 古相寺は壬生野が止めるのも聞かず部屋から飛び出してみたが、自分が旭子の部屋がどこかなど知らないことに気付いた。しかし地下最下層三十階の奥殿秘巫女の居間には緊急時にすぐ旭子の携帯を呼び出せる直通の赤電話があるのを思い出した。

 古相寺は急いでエレベーターで地下三十階に降りた。巫女の控室兼事務室には夜間も当直の巫女が二名詰めている筈だ。
 古相寺は勢いをつけてドアを開いた。
「あら、古相寺さん、どうしたの?」
 今日は最年長の巫女39歳の奥山紅葉と、よりによってあの古相寺の秘密を知る4歳年上の橋口観月だ。
「あの、その、ス、スマホをどこかに忘れちゃったみたいで」
 古相寺はドギマギしながらスマホを探すふりを始めた。
「あら、そう。この辺にあればいいけど」
 奥山が言うと、橋口が余計な提案をする。
「ちょっと呼び出して鳴らせばすぐどこかわかるわよ」
「あ、いや、電話代がもったいないですから」
「出なきゃ電話代はかからないでしょ」
 橋口は事務所の電話で登録リストから古相寺のスマホを呼び出した。
 古相寺はポケットのスマホを撫でた。この階に降りる時はスマホ使用禁止なのでいつも習慣で機内モードにしてるのだ。そのおかげで嘘はバレずに済んだ。
「私、祈祷の間を探してきます」
「あ、いいけど、天子様の御座所と秘巫女様の居間には近寄らないでね」
「えっ、なんで?」
「警備装置の電源が入ってて警戒してるから近づくだけで警報が鳴って、怖ーい警備員が飛んで来るわよ」
 古相寺はこっそり唾を飲み込んで祈祷の間に入った。

(直接聞くしかないもの)
 古相寺は迷うことなく秘巫女の居間の戸を開いて飛び込んだ。
 とたんに耳を刺すベルの音と腹を振るわす電子的なけたたましい警報低音が鳴り響き、赤色灯が赤い灯台のように周囲に光を放つ。
 古相寺はそれでも一直線に秘巫女直通の受話器を取って、反対の耳を左手で塞いで『もしもし、旭子様、もしもし、古相寺です』と叫んだ。

 奥山と橋口が大声で何か叫んでいるようだが古相寺には聞き取れない。古相寺は来ないでという風に手を振った。
 まもなく騒音の向こうで旭子の声がした。
『古相寺さん? えっ、何の騒ぎ、どうしたの?』
 古相寺は思い切り大声を張り上げた。
「私はライカ犬なんですか?」
『何の話? あなた、祈祷の間なのね、すぐ行くから待ってなさい』

   ○

 古相寺は事務室の椅子にかけてうなだれていた。

 警備員二人が神社の門にいる仁王像のように古相寺の両脇に立って睨みおろしている。
 ドアが開く音がして振り向くと入ってきたのは頭にはタオルを巻いたまま顔にはパックが貼り付いており高そうなシルクのパジャマを着ている女性だ。
 奥山が「部屋をお間違えじゃ……」と言いかけて絶句した。
「あ、旭子様、見違えしまいましたわ、古相寺さんがお部屋に入って警報が鳴ったんです」
 いつもこのフロアにいる時は秘巫女の正装ばかりだから、シルクのパジャマという現代の服装の旭子が全く想像できなかったのだ。
「古相寺さん、大丈夫?」
 古相寺は立ち上がってお辞儀した。
「旭子様、すみません」

 警備員は近づいて来るパック顔の女性に取り敢えず敬礼した。
「あの、旭子様ですか? 失礼ですが端末に認証していただけますか?」
「指紋でよいか?」
「はい、お願いします」
 旭子は警備員のタブレットに指を置いたが、なかなか認証されない。
「ああ、どうやら風呂上がりだから指紋の反応が悪いのだな」
 旭子は指紋認証をあきらめてパックを外してコットンで顔を拭いた。
 するといつもの顔が戻った。三十歳前後の風呂上りの顔はたっぷり水分と熱を帯びて美しいハリを保っている。しかもシルクのパジャマは胸の谷間が少し覗けそうなのだ。警備員はぽかんと口を開いて女性の顔がきれいになるのを眺めて「ああ、秘巫女様」と感嘆の声を漏らした。

「秘巫女様、認証の必要はなさそうですが形式ですのでお願いします」
 旭子がタブレットに向かうと今度はすぐに顔認証が通った。
「この子がうっかり警報を鳴らしたようだけど、始末書を書かせて明日届けるからそれでいいわね?」
「もちろんです、秘巫女様。では私たちは失礼します」
「ご苦労様。あ、今見た私の恰好を他の人にべらべら喋っちゃだめよ、今日は特別サービスだからね」
「はい、目の保養をさせて頂きました」
 旭子は笑って警備員を見送った。

「丁度食べかけてた時だったから持って来たの。よかったら食べなさい」
 旭子は袋からアイスクリームを出して奥山と橋口に渡した。

 そして古相寺の前にもひとつ置いて自分はカップを開けて食べ始めたが、古相寺はひどく緊張した顔で手をつけない。
「あの、旭子様に聞きたい事があるんです」
「ああ、ライカとか言ってたわね? 何なの?」
 古相寺はじっと旭子を見詰めた。
「ソ連は帰還できない宇宙船にライカっていう野良犬を乗せはったんです。ソ連のライカと同じように、タイムマシンが失敗するかもしれんから、被害の少ない、巫女として出来の悪い私を選ばりはったんですか?」
 旭子が真顔から一気に笑いに解き放たれた。奥山と橋口もびっくりして振り向く。
「ハハッハハハハハッ、あなたねえ、そんな事を心配してたの、フフフッ」
「違うんですか?」
「おあほねえ、あなたは自分で見つけた伊号潜水艦を使うって、きっとうまくいくって力説してくれたじゃない。私はあなたのあの熱意に感動して採用することにしたのよ。大きな事を成し遂げるには熱意のあるひとを入れることが何より大事なの。だからあなたは外せないと思ったわけ。
 タイムマシンの開発は米国で済んでて、既に何人も過去に送り出しているんだからその失敗を恐れることはないわ」
 古相寺の顔にじわじわと赤みが差した。
 それはまるで、秘巫女の神咒を聞いて古相寺が死から蘇ったようにも見えた。

 

第3章 選ばれし特務員

 

 八咫烏結社桜受家の地下三十階建て本部内、地下九階にある壬生野の部屋。
 招集する特務員4人にタイムマシンのしくみを説明をせよと旭子に命じられた古相寺の頭の中は沸騰寸前になった。超先端科学の大問題の解説を巫女で頭の回転数もゆっくりな古相寺にしろというのはかなり大変な仕事である。そこで例によって古相寺はもらった概要書をちょっと読んだだけで壬生野を相手に説明の練習をしようというのだ。

「ヨーロッパにセルンという組織が持つ巨大なハドロン型加速器があります」
 そのひとことで壬生野はドキリとする。桜受家の同僚巫女に『STEINS;GATE』シュタインズ・ゲートのファンがいないのは遠回しな質問で確認済みだが、壬生野はあのアニメの熱狂的ファンなのだ。タイムマシンに興味のあった壬生野があのアニメに惹かれるのはむしろ自然な流れだ。そして桜受家が手に入れたのはジョン・タイターが使ったタイムマシン後継型となれば開発現場であるセルンの名前が出て来るのも当然の流れである。
 身構えた壬生野の霊体は次の言葉でズッコケた。
「これは大きなお鍋みたいなものです。ジャガイモ、キャベツ、人参、玉ねぎ、ベーコン、パセリ、材料を入れて反時計回りにぐるぐるとかき混ぜます。
 なぜ反時計かというと宇宙はそう出来てると決まってるからです。
 想像して下さい。煮込んで美味しそうなポトフの香りがしてきましたね。
 でもちょっと待って下さい。私たちは時間を遡るんだから、逆回転にします。すると材料は次第に元の形に戻ってゆくのです、ほら豚さんの足が出来て来ましたよ」
 そこで壬生野は思い切ってというか、耐えられなくなり発言した。

「あのさ、美穂ちゃんさ、お鍋の比喩はやめようか。
 ほら、相手は男の人だから料理に詳しくないから実感がわかないよ、たぶんだけど」
 古相寺は一生懸命説明しようとしているのはわかるが、ダメ出しこそ親友の証なんだ。壬生野は自分に言い聞かせて古相寺の反応を待った。
「あっ、そうか。男性にお鍋は受けないのか。なるほど。
 じゃあ何を使って説明したらいい?」
「そうだね、まさかアニメに出てきた電話レンジなんて話を持ち出してもますます特務員さんにはわからないだろうしなあ」
 壬生野の脳内で過去に得た情報がめまぐるしく現れては消えしてゆく。
「とりあえず何か原理的な説明を入れたらどうかなあ?」
「原理的な……。とは何を使って?」
 古相寺の問いかけに壬生野は「う~んとねえ~」といよいよ真剣に考え込み5、6分の沈黙の後に口を開いた。
「そうだ、定規がいいよ。
 皆さんは時間はこの定規のように一直線に未来に伸びて流れてゆくと思ってますが、それは勘違いですってね。
 この宇宙は波動から成り立っていて、時間というレールは存在しないのです。
 私たちは位置を示す波動を変えることで空間と時間を簡単に飛び越えてゆけるのです」
 古相寺が驚いた。
「すごいよ、茜の説明はうまいなあ」
「きっと美穂のためにってうまい説明をって考えてたからひらめいたんだよ」
 壬生野は照れくさそうに笑った。

   ○

 四人の男は桜受家の最下層三十階の奥殿に呼び出され一列に正座していた。
 服装はおしゃれの対極にある緑灰色のトレーナー上下で、統一のとれた彼らの制服としては訓練時に着用するそれしかなかったというわけなのだろう。
 彼らは結社の現場実働員の中でも特殊技能が優れ格闘や狙撃なども一級の腕を持つ三本と呼ばれる特務員であった。
 英語圏なら諜報工作活動のエリートスペシャリストとして認められるところだが、滅私奉公が仕事の前提とされる結社においては究極の影働きでしかない。
 そんな彼らが、結社の幹部でも一握りの者しか参内を訪されない最奥の神殿に召し出される事なぞ、あり得ない。それは結社創設以来初めての事だった。
 
 それにしてもなんという威圧感だろう。
 四人の右端、末席に座っていた最年少23歳の松丸は思った。
 おそらくは巫女に召喚された四神、青龍せいりゅう・朱雀すざく・白虎びゃっこ・玄武げんぶが結界の四方に立って入室と同時に男たちを見下ろしているためだ。こういう環境におかれるとそれだけで常に敵が死角から攻めて来る気配がして注意力を消耗する。式術や魔術を駆使する敵と闘うと疲れるわけだ。

 神殿は一部が天井を突き抜けて高さが二十メートルもあり、中央に自然光の明かりが降り注ぐ階段があり、途中にご神鏡があり、遥拝のための高さ六十センチほどの柱で仕切られた巫女の座所があり、その手前に椅子が男たちに向いて置かれてある。
 この神聖なフロアが一番地下にあるというのが地上の感覚からすると不自然に思われるかもしれないが、万が一の事態での安全が優先された結果なのだろう。
 天井から琴がつま弾かれる音が流れて、その音色が自然光と共に洩れてくるのは癒しの効果もありそうである。

 左には彩やかな大和絵の施された天蓋を持ち屏風絵の貼られた襖で仕切られた小部屋があり、俗に言う東京の表天皇や京都御所の地下におわします本天皇などの天子様が結社を訪問する時の御座所と伝えられている。
 右には障子で仕切られた、しかし天井のない秘巫女の執務室があるのだが、現在、在室の気配はないようだ。

 男たちは半ばは顔を知っていたが、半ばは知らぬ者で、もちろん訓練の行き届いた彼らが私語など交わす筈もなく、沈黙の時間が過ぎてゆく。
 ただ殆どの者たちが高度な作戦を思い描いており「自分とおそらく同等の能力を持つ者が四人も招集されたという事は、これは暗殺などの単純な仕事ではないな。どこかの国の警備の厳重な首脳や権力者を拉致し、同時にその周辺数名も拉致して潜入させる、つまり国家の指導部をこちらの思い通りの影武者にそっくり入れ替えるぐらいの作戦をやるおつもりかもしれぬ」と勘ぐっていた。

 おもむろに琴の音が止まって何か起きるのかと期待してると、突然に太鼓がドンと心臓を驚かして鳴り響いた。
 すると背後中央の扉が開いて巫女たちが五人ほど入って来たが、見た目とは反対に気が張り詰めるのを感じる。
 巫女の一人が声を張り上げる。
「秘巫女様が参内いたします」
 再び太鼓がドンと鳴り響いて巫女衣装というよりお妃の装束に近いような衣を着た旭子が現れた。頭には金細工の冠を被り、さらにその上に金銀の七夕飾り状のものが乗っている。胸には翡翠色の勾玉を連ねた首飾りがさがり、手には鮮やかな緋色の扇を持った旭子は見た目でいえば三十歳ぐらいだろうか、肉感的というよりやや痩せた知性の優るタイプの美女である。

 四人の男は写真でしか見たことのなかった当代秘巫女旭子様の美しく凛々しい生姿に魅了されて自然と平伏した。

 徐福の血は結社氏族に八咫烏となるきっかけとなったが、結社の氏族の起源はそれよりもずっと古く、1万年前の縄文ウガヤ王朝時代のムラにさかのぼる。その頃のウガヤのクニは文字こそ持たなかったが精神性はむしろ現代より高く、宇宙や生命の成り立ち、仕組みなども洞察していたし、争うことの無益さも熟知して避けていたのだ。
 ムラではクニの王と姫巫女を模して、ムラ長は獲物や実や米などの収穫計画や現物分配、土地の境界制定などの政事を担当し、巫女は気候の安定のための雨乞い、雨止め、そして神の御心を伝え民に喜び事と禁じ事を伝える祭事を担当した。
 こうしてマツリゴトは長と巫女の両輪によって紡がれて来た。

 現代の結社の対外的なトップは結社内で棒頭と呼ばれる男だが、男というものは権力欲から中立でいることが難しく、たとえその身が清廉潔白を貫いたとしても後代の血統が争いの火種を残してしまうのはあらゆる国の黒歴史が証明している。
 それゆえ実際の指図は秘巫女と呼ばれる巫女頭にお伺いを立てて承認をもらう掟がかなり古くに作られていた。
 秘巫女の選抜については男たちの意見は聞かれもせず、次世代の最も能力の優れた巫女が秘巫女の地位を引き継ぐと決められていて、つまり実質的な権力が巫女の能力で引き継がれてゆくことで無用な血の争いと縁を切り、結果としてこの結社は1万年という信じられぬほどの長きに渡り存続しているのだった。
 マツリゴトは古代の初期大和朝廷においても模倣されたのだが、とりわけ民から大王を凌ぐ人気を集めたのが倭迹迹日百襲姫わととひももそひめであり中国史書に卑弥呼と蔑称された第一の人物である。時代が下り魏に朝貢し金印を授かった卑弥呼は宇佐の姫巫女であり第一の卑弥呼とは別人なのだが、現代では混同されているようだ。

 座所の手前の椅子に旭子が微笑みを浮かべて座ると、髪飾りにかかった薄絹のヴェールがひと呼吸遅れてふわりと肩のまわりに収まった。
「今日は忙しいところを急に呼び立ててすまなかったの、旭子じゃ」
 旭子が艶のある、しかし巫女達と話す時のフランクな様子とはガラリと違って威厳ある年寄りじみた口調で言うと、男たちはハハアと再び頭を垂れた。そして男たちは旭子の年寄り口調から(旭子様は見た目は三十歳でも年齢は案外いってるかもしれんな)と考えるのだった。男たちの意識を読み取った旭子は、整形などもなく実年齢より二十歳近く若い自分の外見と肌で男の心を手玉に取っている事が可笑しくて悪戯っぽい目で笑った。

「今回呼び立てた用件はそなたたちが思ってた通りに暗殺などではない。が、正解を当てた者もおらんし、ニアピン賞も誰にもやれぬようじゃ」
 旭子は男たちの意識を読み頷くと一人の男に扇を向けて言った。
「望月、ヒントなど手間のかかる話は抜きじゃ」
 望月はばかな質問を思い浮かべてしまったと後悔した。
「はっ、恐れ入ります」
 旭子は嬉しそうに告げた。
「実はな、米国の国防総省施設内に秘匿されているタイムマシンの設計図、マニュアルが全て手に入ったのじゃ」
 男たちから「おお」とどよめきが上がった。
「ではタイムマシンがいよいよ動かせますな」
「それはおめでとうございます」
「我らもタイムマシンで時間を超えて活動出来るぞ」
 そこで四人の中で最年長の四十代の白岩が伺いを立てた。
「なるほど。となれば作戦の方向としては過去の不都合案件への派遣となりますかな」
 旭子が頷く。
「うむ、そうなるの」
「となれば相当な下調べが必要ですし、派遣先でも情報収集と細部の修正などが必要ですので単独作戦ではなくチームで当たる方がよい、そこで我ら四人をお召しですか?」
「うむ、白岩の言う通りだの。今日、そなたたち五人を呼んだのは、タイムマシンで過去へ出向いて大仕事をしてほしいのじゃ」
 旭子が言うと松丸が声を上げた。
「あれっ、五人? ですか?」
「そなたたちに加えて巫女から古相寺という者が参加する。古相寺、列に加わりなさい」

 巫女の古相寺が男たちの前に進み出てお辞儀した。
「皆さま、よろしくお願いいたします」
 白衣の下に朱の掛襟を重ね閉じて、束ねて水引で縛った長い黒髪を緋袴へ落としたお約束の巫女衣装に、現代風のくりっとした目が愛らしい。
 会釈をされた男たちの顔がニヤけたように見えた。
「このような若い女子と旅できるとは何やらデートのようですな」
 30代半ばの望月が鼻の下を伸ばして言うと旭子が叱った。
「そのようにふざけてる暇はないと思え。今回の任務は格別危険な任務になる。古相寺は連絡役を務めると同時に死んだ者の骨を拾い埋葬する役だ」
 そう言われたら普通ならびびるところだが、男たちにはピンと来なかった。
 なぜなら結社に生まれて以来、「お前は天子様の御為に生きて死ぬ定めだぞ」と完璧に洗脳されているため、男たちには死を恐れる気持ち自体が希薄なのだ。

「お言葉ですが旭子様、わしたちを見くびらないで頂きたいです。わしたちは死など少しも恐れずに奉公して参りましたで……。わしも敵に斬りつけられ出血多量で心臓が止まった事がございますし、他の者も同様です。なあ、皆、心臓が止まった事がある者は手を挙げて秘巫女様に口上申し上げよ」
 白岩の呼びかけに全員が手を挙げた。

 トレーナーの上からも見事に鍛えられた筋肉質ボディだとわかる望月が立ち上がって言った。
「望月です。私は半島の北側に潜入して日本政府に把握されていない日本人人質を救出しました。
 詳細は秘巫女様は御存知でしょうが、とある血筋にあたる重要人物なのでどうしてもと大物から依頼があったそうで、中国政府の親善使節一行が訪れたタイミングで一行の一人と入れ替えて安全に助け出したのです。
 入れ替えられた方も亡命希望だったのでセットされたのですが、そちらを連れて国境を抜けるためには私1人で27名の敵警備部隊を倒さねばなりませんでした。
 もちろん他の者が入手した建物の図面と配置を元に手順を練りあげ、まず気付かれずに一人ずつ倒して死体を隠し、爆弾で控室を吹き飛ばし、まあ古典的な作戦です。
 無事に国境を超えられるとわかった頃合いで、ガラスで足に怪我を負ってた対象を新たな追っ手から逃がすために、わざと目立つ形で敵を引き付けて、包囲されたところで氷点下の急流の川に飛び込みました。
 あの氷点下の水はどんなに力があっても瞬く間に手足も心臓も動けなくなります。意識がホワイトアウトしましたが、幸い南側の水力発電所の取り入れ口につっかえて撤収部隊に発見されました」

 続いて矢吹が立ち上がった。
「矢吹です。私が参加したのはヤの形容がつく組織が結社の企業を脅して従業員2名に全治一か月から二か月の怪我をさせたため、同様の被害を防止するため実効的な警告をしたのです。
 平たく言うとヤクザにオトシマエをつけさせたわけです。
 デリバリー業者から商品を受け取るために開けられた玄関にすっと飛び込み、その場にいた組員3人を蹴りと締め技で床に転がして奥に進みました。
 奥の控室に入った私は態勢を常に変化させて狙いをつけさせずにハジキを構えようとした組員全員の利き手を拳銃で撃ち抜きました。日本刀を抜いて来た組員は面倒なので両手を撃ち抜きました。
 続いて2階の事務所に入ったんですが内容は同様なので省略します。
 会長室に組長が不在のためさらに上の階に入ると組長はベッドで女二人とお楽しみのようでした。ええとどっちが妻なのか内縁なのか愛人なのかはわかりません。
 私は組長の口に拳銃の銃口を咥えさせて言いました。
『うちの企業の社員をえらい目に遭わせてくれたな。俺はお前たちとは異業種だが、そこの軍隊みたいなもんだ。お前のそのパールを埋め込んだチン●か、まだ十本揃ってる指のうち二本か、どっちを詰めるか、返事をしろ。右目をつむったらチン●、左目をつむったら指二本だ』
 予想通り組長は左目をつむりました。
 私はナイフで組長のふたつの小指を始末しました。
 引き上げる時にちょっと増上慢になって油断しました。部屋をゆうゆうと出て行くとふたつ先の部屋の扉が開いて、奴の娘だと思いますが、「お兄さん、やるじゃん」て声をかけてきました。
 銃身を切り詰めた散弾銃を構えてるのが目に入り、次の瞬間、閃光が見えました。
 お恥ずかしい話です。私は娘を突き飛ばし、慌ててアドレナリンのアンプルを注射してなんとか建物から出ました。
 ワンブロック先の撤収用の車が見えたところで心臓が止まって倒れました。結社の外科医は散弾は全部取ったというんですが、どういうわけか今でも肺や心臓の中に鉛の粒があるって感覚が残ってます」

 最後に松丸が立ち上がった。
「望月さん、矢吹さんに比べると地味で申し訳ないです、松丸です。
 自分は京都御所の地下におわします本天皇さまが小学校でつきまといにあってるようだとの情報を確認しろとの命令で出動しました。本天皇様は(世間では裏天皇とも呼ばれているようですが)、皆さんご存知のようにまだ小学五年生です。偏りのない教養と判断力を養うために結社の貴族塾ではなく普通の小学校へ入学し、地下道を御所から町家まで車で移動し、町屋から通学されているように装っています。
 本天皇さまにつきまとっているのは同級生女児とその母親で正体に関するなんらかの情報を得ている可能性があるため、その情報の出所、所属組織などを調査しました。 調査はその同級生女児の家庭教師である親戚の男子大学生を感染症陽性の疑いで隔離して始まりました。まずスマホをすり替えて隣室で通信を管理できるよようにして、私は当人そっくりに3Dプリンターで作られたゴムマスクを着用して当人のスマホを携帯して、対象家庭に潜入しました。
 まずリビングとトイレに盗聴器を仕掛けました。それから当人の口調と頻度の多い話し方を混ぜて母親と世間話をしましたが、クラスにライバルはいるのか等を聞いてもはぐらかされた印象でした。続いて女児が帰宅し、イヤホンの指示を聞きながら授業を行いました。同級生に嫌いな男子はいるかとか、お父さんより好きな男子はいるかとか聞いてみますがぼんやりした答えしか得られませんでした。
 それでも授業のたびに質問してると、女児は急に私を真顔で見て『うちを口説こうとしてもあかんよ、私は○○君と結婚すんやもん』と本天皇さまの名前を挙げたのです。私は興奮を隠して『へえー、もう婚約したの?』て聞くと『両方ん親が決めるから従わなあきまへんもん』と答えたのです。そこで『相手の親は偉い人なの』と聞くと『秘密。東京でなっとあれば○○君が有名になるかもしれへんやけど』と答えました。
 女児への授業は前半45分と後半45分で間の休憩時にはいつも紅茶とケーキが提供される習慣でした。ケーキは毎回手作りです。
 女児が情報を漏らした翌回の授業日のことでした。私は再び探りを入れましたが女児は前回以上のことは言わず、休憩になりました。
母親は『今日はブルーベリーを入れてケーキ作ったん』とチーズケーキを出してきました。 私はわざと『ブルーベリーですか、目の疲れにも効く言いますね』と返事しながらケーキを少しずつ食べました。母親は私の食べぶりに安堵したようで部屋を出て誰かとスマホで話しているようでした。女児は先に部屋に行ってしまってたので私はゴムマスクの唇をずらして残りのケーキ半分をマスクの顎の内側に押し込みました。
 こうして後半の授業に臨んだんですが、半分過ぎたところで痙攣が起こり、舌を引っ込める事が出来ずに噛みながら血の混ざった泡を吹きました。
 女児は驚いて母親を連れて来たので私は救急車を呼んでくれと何度も叫びましたが、痙攣のため聞き取れないようでした。そこへ盗聴で私の異変を聞き付けた監視チームが警察の服装で乗り込んできて私は救い出されました。救急外来で私は麻痺状態になり心停止しましたが、胃洗浄と蘇生措置でなんとか生還出来ました。ゴムマスクに半分捨てたおかげです」

 男たちが死に瀕した体験談を語り終えると、旭子は大きく頷いた。

「そのほうらが命を捨てて奉公してくれてる事はちゃんと知っておる。その気持ちをありがたく思っておるのは吾も誰にも負けぬつもりだ。
 ただな、それでもそなたたちを送り出すのを躊躇う程、今回の任務は今までの任務とは桁違いに難しく危険なのじゃ」
 旭子の言葉は奥殿の乾いた空気に響き渡った。

 

第4章 秘巫女ひみこのぞ

 

 旭子は古相寺に視線を向けると言った。
「古相寺、今回使うタイムマシンのしくみについてこの者たちに説明してやってくれるか?」
「はい、秘巫女様」
 答える古相寺の横顔に壬生野が拳を握って声を出さずにエールを送った。
 古相寺は立ち上がると秘巫女の椅子の隣に立ち四人の男たちを見渡し、手に持って来た定規を掲げて見せる。
「私達は学校へ通う前から、『こんな事は学校で教えるまでもない常識なんだから絶対忘れるなよ』という耳には聞こえない前置きをされて『時間とはこの定規のように一直線で、等間隔に日付や時刻が並んでいるものなんだぞ』と叩き込まれてきました。
 さらに『時間はいつでも過去から未来への一方通行であり、お前の後悔の生みの親は時間なんだ』と信じ込まされて来ました。
 今、冷静になって振り返ると、それは時間というものに根拠も示さずに神聖不可侵の特権を与えていたの同じ事でした。
 ところが最近の量子理論の研究者は、時間という不動の次元軸があるのではなく、時間は空間と同じに扱えるブロックのようなものだと考えているのです。
 映画の『インターステラ』では主人公が四次元立方体の中で移動すると行きたい時間に移動する事で説明してましたが、時間は空間と同じように動かせるものなのです」
 壬生野はブラッシュアップした説明を古相寺がうまくやりこなした事にホッとした。
 男たちの目が丸い点になったと見ると古相寺は予定通り口調を切り替える。
「簡単に言えば、時間なんて定規のようなもんだと思ってたら、定規なんかない。時間はお店で手に取った品物についている値札みたいなもんだと分かったのです。
 値札の波動を変えてやると、その品物はポンと時間や空間を飛び越えて別の店に現れるのです」
 
 すると望月が「ちょっと聞いていいかいな」と手を挙げた。
 質問など想定していなかった古相寺は動揺して視線を泳がせ壬生野をちら見してから言った。
「ど、どうぞ」
「その波動を変えるってのはどうやるんや?」
「それは、たしかブラックホールを利用するんです、ね?」
 古相寺は壬生野に縋るような眼を向けた。
 壬生野は強く頷いて心の中で古相寺を応援する。(ブラックホールの説明は昨日たっぷり予習したんだから思い出して答えて、美穂、頑張りや)
 望月の質問が続く。
「ブラックホールがワームホールに繋がっていてそれを使ってタイムトラベル出来ると聞いたことはあるで。そやけどそない簡単にブラックホールがコントロールできるもんと思えんのや。自分の行きたい時代の決めた時刻に行けるもんかいな?」
「あ、ああ、よくご存知ですね」
「結社の中に、まだ動いてないがタイムマシンが出来たそうやと聞かされた時に、そりゃあ少しは本読んだり勉強しますがな」
 古相寺は「なるほどー」と返して壬生野へ目配せしてくるが、望月の疑問は続く。
「『インターステラ』みたいにな、特異点に飛び込んで落ちて行くのは無謀や、無責任やと思うで」
 古相寺はダジャレを思い出す。
「あれです、私たちの場合は八咫烏だけに、カー・ニューマン・ブラックホールなんです。八咫烏だけにカー。なので大丈夫です」
 古相寺は耳を澄ませたが一人が小さく笑っただけだった。ただその一人が旭子だったから救われた。勢いづいて壬生野が「うまい」と声をかけたのだがそれは空回り感が漂った。

「なるほど。で、そのカーなんちゃらブラックホールなら大丈夫いう根拠はどの辺にあるんかいな?」
 望月がさらに質問すると、古相寺の声が震えた。
「それは、その、あの……」
「コショージさんやったかな? 秘巫女様から指名を受けた以上、あんたも責任持って説明してもらわねばあきまへんで」
 望月が意地悪く言うと古相寺はいよいよ困って俯いた。そこで放っておけずに「待って下さい」と声を上げ立ちあがった者がいた。

 古相寺の窮地に声を上げたのはもちろん壬生野だ。だが、彼女に加えてもう一人の男も立ち上がっていた。一番若い松丸だ。壬生野は驚いて松丸を見返した。
「先にいいですか?」
 松丸が言うと壬生野は「ええ」と譲って腰をおろした。

「望月さん。それは遠心力みたいなもんのおかげですよ。いや、私もタイムマシンの話を聞いてにわかに本を何冊も読み出した素人ですから物理学者の本当の説明はできませんから私の直感という事で聞いて下さい。
 普通の静止してるブラックホールは特異点が小さいですが強力で、いわば巨大な蟻ジゴクみたいなものです。
 カー・ニューマン・ブラックホールは全体が高速回転してるので、特異点もドーナツ状に広がって事象の地平面も外側に押し出してきてます。その点で危ない感じがしますが、しかし、同時に回転してるエルゴ領域と事象の地平面が私たちを外周に挟み込んでずれないように留めているのではと思います」

 古相寺がそこで「エルゴ領域てなんでしたっけ?」と立場を忘れたまさかの質問を投げかけてくるが、松丸は微笑んで答えた。

「『天空の城ラピュタ』で人が近づかないよう天空の城を取り巻いている「竜の巣」というのがありました。あの雰囲気で考えてもらうと当たるといえずとも遠からずと思います。このエルゴ領域の中にあると特異点に入らない代わりに外に逃げ出すのも困難な感じです。
 こうして高速回転がさらに速くなるとエネルギーと質量が釣り合った極限ブラックホールの状態になります」
 古相寺は頷いた。

ドーナツ状の特異点

「こうなると、事象の地平面もエルゴ領域もぺしゃんこに消えてしまい、極限まで広がったドーナツ状の特異点が露出します。この時、物理法則が破綻して制限が取れるようです。
 ホーキング博士は物理法則は破綻しない筈だと主張し『インターステラ』の監修をしたソーン博士と賭けましたが、シミュレーションの結果、負けを認めました。極限ブラックホールに発達するともはや物理法則は成り立たないんです。
 この時、特異点のドーナツのすぐ外側に物理法則の制限を解かれたCТCと呼ばれる『閉じた時間の輪』が出来ます。すると特異点に落ちることなくドーナツの少し上を進んでた私たちは時間を順方向にも進め、逆方向にも遡れるようになってて、タイムトラベルが可能になるのだと考えられてるようです」
 壬生野が拍手を始めるとその場が拍手を送り松丸の説明を褒めた。
 
 旭子がにこにこして古相寺に聞く。
「古相寺、これぐらい説明してくれると後が助かるのう」
「あっ、はい、助かりました」
「それでは古相寺、後を続けなさい」
 古相寺は咳払いをして続けた。
「後を続けるのもおこがましいですが、秘巫女様のご指名なので続けます。
 このような原理だからこそ比較的小さな機械装置、今、結社に完成しているのは小屋サイズですが、タイムトラベルが可能になったわけです。だからといって安心できるとまでは言えません。時間旅行の足場はとても弱くて、揺れたりズレたりしてしまうものなのです」
 古相寺はゆっくりと男たちを見回した。すると年長の白岩が言い放った。
「わしらは時間が一日ずれようがひと月ずれようがびびったりしまへんで」
 おそらく白岩は特務員のまとめ役は自分だいうと考えがあり、良いところを見せたいのだろう。しかし、古相寺は聞き返さずにはいられなかった。
「そんな大雑把な感覚で本当に大丈夫だとお思いですか?」
 白岩は唾を飛ばしそうな勢いで切り返す。
「時間がずれたって死ぬわけやない、びびるかいな」
「時間が2分ずれたらこの時代に戻れなくなります。今までの作戦ではどんな事態であろうとこの結社に戻ってこられました。たとえ瀕死であろうと仮死状態だろうと結社の撤収部隊が回収して高度医療回復装置で健康体に戻れました。
 しかし今回のタイムトラベルでは機械装置の本体が設定された帰りの時間と場所を厳守してその場に来てもらわなければ二度とこの世界に戻れないのです。行った先では少しの怪我をしても撤収部隊はないので例えばそこが南方ならつまらぬ伝染病で呆気なく死ぬかもしれません」
 そこで白岩は顔に焦りが浮かんだ。
「南方てえと太平洋戦争時代に行くってことですか?」
 古相寺は振り向いて、旭子の口が開くのを待った。
「そうじゃ。行く先は太平洋戦争時代じゃ。古相寺、続けなさい」
 古相寺はお辞儀して続けた。
「戦争のまっただ中に飛び込むことになりますので、行く時は五人でも帰りに五人揃うことは難しい。正直な予想ではおそらく一人も指定場所に辿り着けない可能性が97%と考えられています」
 古相寺がそう言って口を噤むと、沈黙が広がった。

 過酷な作戦を生き抜いてきた特務員たちだったが、言われてみれば現代においては常に作戦行動中は撤収部隊が遠巻きに待機してくれていた。たとえ手足が千切れたり内臓が破裂したり土中に埋められても撤収部隊が助け出し最高度の救命措置をしてくれ結社に戻れば高度医療回復装置で失われた手足や臓器さえ再生することが可能なのだ。そのように助けられると知っていればこそ思い切り無茶が出来た面があることは否めない。
 さらに結社に戻れないとなれば、金一封を頂き、地上のネオン街に這い出して、うまい飯をたらふく食い、酒を浴びるほど飲んで、いい女と汗だくで生きてる喜びにひたる事も出来ないではないか。

 重い沈黙を破って松丸が言った。
「自、自分は古相寺さんにはきちんと現代に帰っていただきたいと思います。なんといっても秘巫女様直属の巫女様なのですから」
 旭子は松丸が古相寺に一目惚れしたのを読み取って心の中で笑った。もっともその紅潮した顔と古相寺を見詰めて震えるような睫毛を見れば誰にもばれてしまっていたが。
 残る四人の男たちはバラバラと揃わぬ拍手をしてはやした。
「よおよお、色気づいたか、優男」
「こんなとこでええカッコ見せて」
「抜け駆けしようたあ百年早いんだよ」
 古相寺もこのような冷やかしに慣れていないらしく俯いて頬を染めている。
「いえ、自分は純粋に古相寺さんまで危険な目に遭わずともよいと思ったからで。自分たちに付き合わずに途中で帰還して頂いてもよいのではと思った次第で」

「いや、古相寺は古相寺で大詰めに関わる大事な役目があるのだ」
 旭子がそう言うと、白岩が首をすっと前に突き出して聞いた。
「さて、そろそろこの辺で、秘巫女様が絵を描いた、全米が震えて泣き出すような作戦の詳細をお聞きしたいと思いますが」
 そう言われた旭子はちょっと不愉快に思う。
「誰ぞ、そのような噂を申しておったかや?」
「いえ、聞かずとも言わずもがなでございます。秘巫女様がじきじきにご立案なされば、常人の思いも及ばぬ作戦に違いありませんから」
 旭子は扇をパチンと音を立てて頷いた。

「これは極めて困難な作戦じゃ。歴史に残る勇猛な武将と並べても見劣りしない武者魂を持ったお主達が涙を流してこんなことならもう帰りたいと喚き散らすであろうが、それでもそなたらの命を捨てたつもりで成し遂げてもらいたいのじゃ」
 白岩が芝居がかった大声で応じた。
「おう、お聞かせくだされ」
「行くのは現地での準備や訓練期間もあろうから昭和19年の秋とする。前年にミッドウェー海戦の大敗、この年に入りガダルカナル島撤退と、日本の勢力は狭まり、いよいよ明らかな劣勢に転じている時期じゃ。
 古相寺は当時の三本特務員の中で海軍省に潜入している外山と小柴という者に連絡を取り、我らに必要な情報の提供を求め、なりすましのための身分証、そして命令書の偽造を依頼して潜入させるのじゃ」
「かしこまりました」
「松丸、そなたは海軍省の通信部門に潜入し、毎日、伊号潜水艦の動きを細かに収集してくれるか」
「はい、お任せ下さい」
 そこでまた男たちが冷やかす。
「秘巫女様のお情けの差配じゃな」
「通信事務なら憧れの古相寺様と何度も会えようて」
「しかし当時はデートも出来ん時代らしいぞ。顔だけ見て何も手出し出来ぬでは狗神憑きのごとき苦しみだろう」
 そこで旭子が「お黙り」と一喝して一同は静まり返る。

「矢吹、そなたはバイクの操縦が得意と聞く、作戦では1ケ月ほど訓練してから水上偵察機のパイロットになってもらうといたす」
 矢吹はゲッと声を出して驚いた。
「そ、そんな水上偵察機など、模型飛行機もドローンも動かしたことはないですが、1ケ月で覚えられるものですか?」
「まあ、バイクも偵察機も手足四本使って動かすそうですから似たものでしょう。もし出来なければ作戦はそこで終わりですから矢吹ならなんとしても覚えるでしょう。吾も巫女たちとうまくゆくように祈祷するゆえ大船に乗るつもりで励みなさい」
 矢吹は旭子の機械に詳しくなさそうな話しぶりから反論をあきらめた。

 白岩が自分の序列上位をアピールしたくて聞いてくる。
「それで偵察機はどのように投入されるおつもりですか?」
「昭和20年1月15日、伊号第12潜水艦は敵に発見されたと打電し、その後、米軍による撃沈記録があります。そこで白岩は矢吹と前日にわかってる座標海上付近を飛び回り浮上した伊号第12潜水艦を発見するのです」
 白岩は慌てた。
「あ、いや、ちょっとお待ちくだされ。座標がわかっていても広い海で偵察機から潜水艦を発見するというのは砂漠で落としたコインを翌日に気付いて探し出すような至難の技ですぞ。仮に潜水艦を発見できたとしても米軍に見つかり偵察機潜水艦双方とも攻撃を受けて御陀仏の可能性があります」
「そうかもしれませんが、そこは要領よく立ち回りなさい。米軍より先に伊号の潜望鏡を見つけて、その前方に着水し、まずは白岩を極秘任務の命令書を持った参謀として乗り込ませるのです。伊号はすぐに潜航させて米軍による索敵から回避させ、落ち着いたところで今度は望月をピストン輸送で乗り込ませ、矢吹自身も偵察機ごと乗り込むのです。カタログでは伊号第12潜水艦は零式小型水上偵察機一機を格納可能となってます」
 白岩の脳は真っ白になった。
 まもなく撃沈される予定の伊号潜水艦を見つけて、それに参謀と偽って乗り込み、己を撃沈する予定の米軍駆逐艦、掃海艇から逃げ切る。発想からして無謀な作戦だ。

 すると旭子が白岩の意識を読んで叱った。
「無謀とは言わせません。既に日本軍は制海権も制空権も日本列島の周辺だけに縮小しています。吾が使用したい海域に動ける潜水艦は調べてもなさそうでした」
 そこで旭子は古相寺を見て頷いた。
「吾があきらめかけた、ところに古相寺が伊号第12潜水艦が近くの海域で沈没した記録を見つけてくれたのです。
 撃沈された筈の潜水艦をこっそり助けてしまえば司令部は呼びかけません。だから沈没予定の伊号第12潜水艦に白羽の矢を立てたのです。」
 だからそれを無謀と言う……、と言葉を並べかけて白岩は慌てて首を振った。考えることは秘巫女様に筒抜けなのだから、もう否定などしない方が賢明だ。

「では、その伊号第12潜水艦で何を攻撃するおつもりですか? マッカーサーが乗る戦艦とか、立ち寄る空母とか」
「マッカーサーではありません。彼一人倒しても、米軍の大勢に変化はないでしょう。
目標は重巡洋艦インディアナポリスの撃沈です」

 白岩はあれっと疑問を抱いた。おぼろげな記憶だがたしか映画で重巡洋艦インディアナポリスが日本軍の伊号潜水艦により撃沈されるストーリーがあったような気がするのだ。
 すると旭子がそれを受けて続けた。
「白岩のあまり自信のない記憶にあるように、確かに放っておいてもインディアナポリスは伊号第58潜水艦に沈めらる。これは歴史的事実であり米国で映画にもなりました。しかし悔しいことに、それはテニアン島で原爆の部品を下ろした後だった」
 そこで旭子の声が大きくなった。
「よいか白岩、なんとしてもテニアン島に着く前に、原爆の部品を積んだインディアナポリスを沈めて、広島長崎の無辜なる民に対する殺戮を回避するのじゃ」
 激しい語気に白岩始め男たちは秘巫女様が広島長崎の犠牲者への深い思いからこの作戦を考え出したのだと気付いた。
「戦争だから戦っている兵士が傷つき亡くなるのは止むを得ぬ点もあろう。しかしな、広島長崎の原爆の被害者は大半が平穏に暮らしておった民ではないか、
 中でも朝早くから空襲に備えて防火地帯をつくる作業をしていた中学や女学校の生徒が約八千数百人もおったのじゃ。うち六千人が原爆の直撃を受けて一瞬のうちに溶けるように亡くなった。
 生き残った子供もひどい火傷に苦しみ激痛に苛まれて線香花火のような余命で早ければその日のうちに、残ったものでも新年を迎える者はほぼなかったのじゃ。
 敵軍にとっては何の罪咎もない民ではないか。この無辜なる民たちの命を一瞬で根こそぎに奪い去った事、勝者がいかなる理由で正当化しようとも人道に照らして許されるものではないわっ」
 旭子が叱り飛ばしパチンと鞭打つような音を立てて扇を閉じ、その場をぐるりと見渡した。美しかった瞳が恐ろしい般若の如きいかつい目つきに変わっており、一座は恐れおののいて平服した。
 
 ひと呼吸おくと旭子の夜叉の表情は柔和に戻った。
「しかし、今更どう怒ろうと虚しい後の祭りじゃ、と、事の次第を知りてよりはずっと堪えておった。それがタイムマシンなるものが実用化され実際に米国の国務省施設に隠されてあると聞き及んだのじゃ。早速、情報収集に長けた三本を二名潜入させたのが三年前。最初の一年は何の成果も得られなんだが、二年目の後半になって念願の設計図を入手した。最初はこれであの昭和時代へも行けるのかと嬉しく思っていたが、機械を組み上げてみると単独で動かせるのではなかった。機械はジョン・タイターの使用した物より改良されて親機だけでなく、子機にあたる搭乗コード端末が必要だったのじゃ。それをようやく今回三本が取得してくれた。
 おかげで我らが無辜なる民を救う道具が揃ったわけだ。しかし、これから先はそなたたちの力なしには成し遂げられぬ大事業ぞ。先ほど白岩が申した通り砂漠の中からコインを探し出すほど難事であることは承知の上じゃが……、」
 そこで旭子は椅子からするりと降りて上半身を倒し両手と額を床につけた。薄絹のヴェールがひと呼吸遅れてふわりと床に広がる。
「この通りじゃ、そなたたちの命、無辜なる民たちを救うため吾にくれ」

 これには四人の男、そして古相寺も度肝を抜かれた。
 この結社にあっては雲の上の存在であり、天主様こと本天皇に助言という名目で指図することさえある秘巫女職なのである。普通なら傲慢になっても止むを得ない頂点にある旭子が、会社でいえば平社員扱い、人聞きの悪い言葉を使えば使い捨てである特務員たちに土下座したのだ。
「あ、いや、もったいない」と白岩が止めようとするがあまりの驚きで腰が抜けて動けない。一番傍にいた巫女である古相寺も慌てて近寄り手を取り「旭子様、お顔をお上げ下さいませ、このような事をなされては、示しがつきませぬ」と諫める。
 他の三人の男たちや残りの巫女たちは旭子より頭を低くしようと床に伏せた。

 しかし旭子は土下座したままもう一度希った。
「皆の者、吾が願い、聞き届けてくれるか?」

 白岩が床に額を擦りつけるようにして答える。
「承ってござる。元より天子様の御為に捨つる命でございますが、秘巫女様の広島長崎の民へ手向ける深い情けは京の裏御所におわします天子様も全く同じお気持ちに相違ありますまい。
 どうぞ頭をお上げくだされ」
 すると旭子は頭を上げてその場で座り直して思い出したように聞かせた。
「裏御所の天子様はほんに優しいお子ですよ、何年か前、暦の講義に参内した時のこと、たまたま天子様が畳の上の小さな蚊の骸をお見つけになり『朕は殺生しとうない。あの煙をやめてたもれ』と侍従に仰せになったのです。
 御前を下がってから侍従に仔細を聞いたところ、新しい部屋が大きくなって以前使ってた蚊帳が届かぬため張らずに蚊取り線香を焚いておったそうで、蚊の命さえ憐れむお方なのです
 きっと広島長崎の無辜なる民を救うこと御同意下されよう」
旭子の言葉に白岩は頭を垂れた。
「承ってそうろう。我ら、天子様、秘巫女様の御心のままに、この大役、命を捨てても、きっと成し遂げまする」
 男たちも古相寺も「命を捨ててもきっと成し遂げまする」と続けざまに答えた。

 

第5章 タイムダイバー隊出発

 

 桜受家最奥殿でのタイムマシン派遣隊の顔合わせから一か月が過ぎていた。
 タイムマシンC205型重力歪曲時間転移装置と搭乗コード端末機が完成し桜受家の技術部による本格稼働試験が始まった。

 今日は手始めに14時44分にアラームがセットされた目覚まし時計とポットと万年筆の3点セットを14時43分の過去に送り、4分間滞在させた後に再び現在に呼び戻すという実験が行われるところだ。当然、目覚まし時計は過去で誰かに止められなければ鳴り響いた状態で帰還する筈である。

 タイムマシン装置本体は神社と隣接する学校との境界にある長さ8メートル、奥行き5メートルの物置小屋の中にある。
 タイムマシンの稼働にはまず装置の中心に小さなサイズのカー・ニューマン・ブラックホールを作り出すのに30分、さらに回転と電圧を上げて同じサイズの極限ブラックホールに成長させるのに15分かかる。

 一般にタイムマシンと聞くと乗り物の中に乗り込むイメージを持たれるだろうが、このように小さいが危険なブラックホールを扱うので、重力歪曲時間転移装置では人は装置の外側に出来る特異点のドーナツのさらに外側に立ってワープするのである。
 具体的には装置の中心半径6メートルの円上、小屋外側にある搭乗コード端末機の近くの物体がタイムワープされるという仕掛けになる。
 ということで小屋から半径6メートルの円周には赤いビニールテープが釘付けにされてその内側にある東屋の池のほとりに3点セットが搭乗コード端末機の半径1メートル以内にひとまとめにされて置かれた。

 地下三十階にある最奥殿横の事務室には秘巫女の旭子や古相寺をはじめとした十名の巫女たち、そしてタイムマシン派遣隊の男性4人、技術部の島崎部長と部下二人が60インチのモニターを食い入るように見詰めている。

 事務室の壁時計が14時58分を告げていた。
 背の高い島崎部長が腕時計Gショックを確かめて旭子にリモコンを渡した。
「それではカウントダウンに移ります。秘巫女様はゼロでスイッチをお願いします」

 技術部の部下がカウントダウンする。
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
 旭子はリモコンのボタンを押した。

「押したわ」
「ありがとうございます。システムスタートしました」
 地下の高圧線を通しておそらく京都府全体が2時間で消費する電力がほんの一瞬で地下にあるフリーエネルギー充電池を使って供給された。
 物置小屋を映し出してるモニターのスピーカーからモーターの唸るような音が聞こえ、扉や閉じられた雨戸と壁とのわずかな隙間から光が漏れ出た。

 かと思うと黒い霧が小屋の中央から湧いてきて次第に濃くなってゆき、両端以外の小屋の中央部をすっかり覆い隠して池のほとりにある3点セットの1メートル手前まで迫っている。しかし3点セットは動く気配も消える気配も見えない。そんな状態が30分も続いた。

 すると古相寺が大きな声で元気づける。
「皆さん、大丈夫ですよ、これがカー・ニューマン・ブラックホールですから」
 だが、かえって巫女たちから不安のささやきが漏れ出した。

「島崎、これでよいのか?」
 おもむろに旭子が技術部部長に尋ねると、部長は笑顔で答えた。
「ええ、ご安心ください、これは正常のプロセスです」

 壁時計は15時40分になった。
 黒い霧は次第に濃くなってゆき水平方向に自転してるように見える、長さ50センチほどの小さな稲妻が外に向けて光を放つ。巫女たちのささやきがざわめく。
「島崎、これでよいのだな?」
「はい、カー・ニューマン・ブラックホールのエネルギーが上がり極限ブラックホールが完成しつつあるのです。もうひと息です」
 
 するとどこからか枯れ葉が数枚風に乗ってやって来た次の瞬間、搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆がふわっと宙に50センチも浮き上がった。
「あーっ」
 皆が一斉に声を上げると、搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆はびょーんと小屋の長辺方向に30センチほど伸びたように見えた。
 菊高があり得ないと叫びそうになった瞬間、それらは音もなく空中に消えてしまった。
 壁時計は15時43分。搭乗コード端末機と3点セットはちょうど1時間の過去に飛んだ筈である。
 物置小屋の中央は依然として黒い霧に包まれている。

「島崎、うまくいったのか?」
「はい、おそらく。現在端末からの信号がありますので消滅した訳ではないです。今から3分後に戻るようにセットしてあります」

 壁時計が15時44分を示してるのを確かめてみんながモニターに映し出された東屋の池のほとりを注視した。
 
 時計が15時47分を過ぎた。
 不意に地上50センチの空中に搭乗コード端末機と目覚まし時計とポットと万年筆が現れた。目覚ましがけたたましく鳴り響いている。それらの形は伸びた状態だったがすぐに縮んで正常に戻り、地上に落ちた。
 拍手と歓声が沸き起こった。
 地上にいた技術スタッフが駆け寄り目覚ましのベルを止めた。

「秘巫女様、実験成功です」
「でかしたな」
「秘巫女様、我らも安心して仕事が出来ます」
 タイムマシン派遣隊の男4人はガッツポーズをした。その輪からすっと抜け出した松丸は古相寺のそばに歩み寄って手を差し出し、白い歯を見せて言った。
「これで行けますね。よろしくお願いします」
 古相寺は壬生野に「ほら」と手首をつかまれ押し出されて、松丸と握手した。
「あっ、はい、宜しくお願いいたします」
「じゃあ、また」
 松丸はさわやかな笑顔を残して去った。

「美穂、どないや? 恋人と手を繋いだ感じは?」
 壬生野がからかったが、古相寺はしらばくれる。
「し、知らんよ、なんとも思ってへんもん」
 そう言いながら、すぐに手でさかんに顔を扇ぐ古相寺だった。

 稼働実験は順調に進み、次第に目標時を遠い過去へと広げてゆき、5年前に送り出した3点セットを呼び戻す実験も成功した。

 

   ○

 
 いよいよ明日の出発を前に、その夜は同僚巫女たちが本部内にある食堂に集まり古相寺を送り出す送別会が開かれていた。

 瑣事になるが、地上世間ではマスコミや政府主導によるインフルエンザ感染症を特別視した集団ヒステリー症が全国的に蔓延しており、不活毒式免疫抑制剤の接種キャンペーンが繰り広げられているやに聞く。しかし、結社の地下要塞内ではそのような事態を演出する毒散布もないためか集団ヒステリーもなく、もちろん危険な不活毒式免疫抑制剤の接種などする筈もない。当然、全員朝から晩までノーマスクである。
 おそらく少し先の未来で歴史が当惑した珍事件、歴史当惑珍事件として記録されるに違いない。

 脱線したので話を元に戻そう
 本部内の食堂は夜8時で終了なのだが、今夜は特別に頼み込んで貸し切りにしてもらった。居酒屋も本部内に数軒あるのだが、そちらは他部門の目と耳があるため思い切り騒げないから食堂になったのである。秘巫女の旭子は最初に挨拶してお神酒で乾杯すると、金一封を最年長の奥山紅葉に渡して帰ってしまった。
 
 奥山女史が酔っぱらった声で演説する。
「二日酔いなんて許しませんよ。皆さん、明日もちゃんとお勤めしてもらいますからね」
 皆は適当に「イエー」と声を上げて拍手する。
「あなたたちはもう最初にお神酒を飲んだんだから、ウイスキーはダメよ、ちゃんぽんは悪酔いするからね、ビールにしてトイレでサッと出せば悪酔いしないから」
 すると早くも酔いのまわった古相寺がろれつの定まらない舌で言う。
「えへー、そうなんれすか、締めにちゃんぽんわ、だめれすかあ? うち、ちゃんぽん好きやのに」

 すると菊高麗子が腕組みして言い放った。
「古相寺、あんた、また変な事言ってはるし。この前、あんたがタイムマシンの変な説明した噂が漏れて、天神結社の知子様にお小言を頂戴したそうやないの。あんたのせいで桜受家の評価が下がったりしたら、うちにとってえらい益体やくたいやわ、気ぃ付けてよ」

「ろめんなはい、きったかさん」
 古相寺が謝ると、さらに菊高はさらに1センチ顎を上げた。
「そもそもなんであんたみたいな巫女としての出来が今ひとつ、いえ今ふたつ、いえ今みっつな方が、大事なタイムマシン派遣隊に選抜されたのかが意味不明やということやわ。
 旭子様は素晴らしい秘巫女様やけど、今回の選抜については疑問が残るわ」
 菊高はフーッと溜め息を吐いて古相寺を見詰めた。

 古相寺はてっきり菊高自身がタイムマシン派遣隊に入りたいのだなと感じて提案した。
「あの、もひよろひければ私から一生懸命旭子様にお願い申ひ上げて、菊高さんに替えてもらいまひょうか?」

 すると菊高はぎゅっと腕を掴んでた手に力を入れて「私はそんな事を言ってるんじゃあらへん」と叫んだ。

「あんたがそないな事を言うたとしても、すでに次期秘巫女と皆さんに噂されてる優秀な私に、そんなん帰って来れへんかもしれん危険な役目なんか旭子様が任せる筈がないでしょが。そうではなくてな、惜しみない者を選ぶにしても、あんたよりもう少し良い人がいるんやないかと感じただけやわ」
 この言葉にはさすがにちょっと鈍いとこのある古相寺もしなだれて涙目になった。

 壬生野が古相寺の肩を抱いて撫で、菊高に振り向いた。
「ちょっと菊高さん、あんまりやで。
 美穂はあんたに比べたら足りてないとこはあるかもしれへんやけど、性格はあんたよりずっといいしな……。相手ん立場にたって思いやるとこは巫女ん中でも一番やて、うちはよう知っとる。これ以上美穂ん悪口しゃべるならな、馬と鹿の頭で蠱物まじものしてあんたん脳みそをおバカの脳みそに入れ替えてやるわっ」
 菊高も言い返す。
「ふんっ、そんな外道の術にうちがやられると思うてんの」

 と突然、奥山が大声を出した。
「そこおっ、喧嘩してると、旭子様に報告してタライを抱えさせるわよ!」
 賑やかにしゃべってた室内が一瞬で凍り付いたように静かになった。
 タライとは巫女たちにとってへたすれば大火傷を負う危険のある恐ろしいお仕置きだった。
 菊高は素早く「喧嘩じゃありません、ご心配なく」と声を上げた。そしてそつのない優等生らしく古相寺と壬生野に向かって「少し言葉が過ぎたところがあったら謝りますわ」と軽く顎を引いて見せた。
「きったかさん、これからもずっと仲良うひてくらさい」
 古相寺は嬉しそうに言った。壬生野は相手を疑う事を知らない古相寺に少し呆れたものの、そんな古相寺のまっすぐな性格に強く憧れ、ずっと応援してゆくんだという自分の決心を確かめると何やら誇らしい気持ちが沸き上がるのだった。

「美穂、いよいよ明日、出発やけど困った時や、ううん、何もなくても毎日遠慮せいで言っておいで。私もいざちゅう時は、美穂んところ、飛んでゆくつもりでおるしな」
 壬生野が言うと古相寺が突然、鼻の下をこすって笑う。
「美穂、どうかしたん?」
「だってえ、言っておいでとか情弱なことをいわれても困っちゃうでな。うち、技術ん人に聞いたんやけどタイムトラベルしたらスマホは使えへんだって。わかる? つまりね、メールもLINEもツイッターもインスタもつながらんのんよ、茜は知らんかったのね」
 古相寺は生まれて初めて自分が親友の壬生野の往生する顔を見る番だなと身構えたが、壬生野は別の意味で「えーっ?」と声を上げた。
「もしかして、美穂はあのコード端末機で短いメッセージを送れるんを知らへんの?」

 壬生野に言われて古相寺は白目が全周に見えるほど目を開いた。
「えっ、なん? あの小さい機械で、そないなことが出来はるん?」

「知らんかったんかい? そやから毎日メッセ頂戴ゆうてんよ」
 壬生野が突っ込むと古相寺は飛び上がった。
「ほうか、やったあ、これでちびっとは寂しさも紛れるんね。すごいわ!」
「美穂はほんに天真爛漫のかたまりやな、可愛らしゆうてええわ」
「よし、そうと決まればもっとビール飲もうな」

 古相寺がテーブルに並んでるビール瓶の前まで行って持ち去ろうとすると、奥山がその手を捕まえた。
「古相寺はもう飲んだらダメや。あんたは明日は大事なお勤めなんやからな、アルコールはもう打ち止めや」
 古相寺の眉間に二条城の屋根のように眉が寄った。
「そんなあ」
「古相寺は間違っても二日酔いになれへんのやで。もし古相寺が二日酔いなったら監督のうちまでタライのお仕置きに決まりや、そんなん勘弁しといてくれな」
 古相寺はムッとしたがそれを堪えて訊いた。
「ほな、たこ焼きとたい焼きとおはぎとチョコをありったけもらってええですか」
「うん、そっちゃは好きなだけ持っておゆき」
 古相寺は壬生野も呼んでお菓子をたっぷり抱えた。

   ○

 いよいよタイムマシン派遣隊出発の日が来た。
 秋の空は風が時々、強く吹くものの高く晴れ渡った。
 旭子が壬生野ら十人もの巫女を従えて神社の小さな宝庫となってる桜受家の地上口から出ると、たまたま境内を歩いていた巫女が思わず声を上げた。
 あそこは使ってないと教えられていた宝庫から知らない巫女達が出て来ただけでも驚きだが、一番偉そうな巫女は尋常でないオーラを放っている上に、十二単衣のうちの何枚かと思える艶やかな衣に絹の薄衣を天女のように羽織っているのである。その旭子がそっと頷くと、神社の巫女は深々と礼をしたまま動けなくなった。
 奥山、菊高が目も合わせずに通り過ぎる。
 神社の巫女は地下に別系列の一般参拝できない秘密の神社があるのだとは教えられていた。滅多に地上には姿を見せないが、もし宮司や巫女をお見かけしても話しかけたりせず無礼のないように距離を置きなさいと注意されていたのだが、実際会ってみたらどうしてよいかわからない。
 
 そこで壬生野が声をかけお辞儀した。
「ご苦労様でございます」
 神社の巫女はホッとして会釈を返し本殿の方に足早に立ち去った。

 旭子たちは広い庭の中に池に面した東屋にたどり着いた。すでに腰かけて待っていた五人の男と古相寺が一斉に立ち上がった。いよいよこれから太平洋戦争の真っただ中にタイムトラベルするのだ。
「皆の者、ご苦労じゃな」
 旭子が声をかけると、一同から「はっ」と切れの良い返事がくる。

 男たちは国民服といわれた陸軍カーキ色の布地の服にズボンの裾はふくらはぎ全体をゲートルと呼ばれた包帯のような帯でグルグルと巻き絞っていた。しかし、古相寺はクリーム色にピンクが入ったスポーツウェアの上下である。
「男たちの服はよいとして、古相寺は目立ちすぎではないか」
 旭子が言うと古相寺は睨み返す勢いで言う。
「だって死ぬかもしれないのに、おしゃれもできないなんてあんまりです。せめてこれぐらいはお許しください」

 するとタイムマシン派遣隊の服装の時代考証役を務めた巫女の塔柿杏子が明かす。
「憲兵に睨まれたら損だから地味なモンペにしろと言ったのですが、言うことを聞かないのです。そのうえ、昨夜、部屋を覗いたら『明日から木の根っことすいとんしか食べられないんだから』とたこ焼きとたい焼きとおはぎとチョコを鼻血を出しながら自棄食いしてました」
 告げ口に古相寺は頬を真っ赤に染めながら言い訳する。
「だって死ぬかもしれないのに、木の根っことすいとんじゃあんまりです。だから可能な限り食いだめしようとしたんです」
 旭子は呆れ顔になったが、今日ばかりは責めることはしなかった。菊高はひとこと言ってやりたい顔をしてたが空気を読んで黙り込んだ。

 そこへ技術部長の島崎が近寄ってくる。背が高く胴も長いためなのか作業着の上着が短すぎる。
「島崎、タイムマシンは問題ないな?」
「はい、既にアイドリングに入り、最終チェックも済ませました」
 旭子は神社と隣接する学校との境界にある長さ8メートル、奥行き5メートルの物置小屋に目をやった。すでにシステムが運転を始めているため小屋の中央部にはすっかり黒い霧がまとわりついて覆っている。

 東屋で円陣を囲んだ一行が手に盃を持つと奥山と壬生野が徳利で注いでいった。注いでいるのは酒ではなく水である。全員に水盃が行き渡ったのを見極めて旭子が述べた。
「皆、準備は抜かりなく出来たようじゃな」
 旭子が問うと、一斉に「はっ」と声が返った。

 五人には昨日の昼に旭子から一人ひとりを呼び出して作戦参加意思の最終確認をしてあった。もちろん辞退したとて勤務評価は今のまま下がることもないし、もし心残りがあるならむしろ辞退してくれた方がチーム全体が互いに安心できるから遠慮はいらないぞ。そう趣旨を伝えてからの確認だったが……。

「一人も欠ける事無くこの原爆阻止作戦に参加してくれて大変嬉しく思うぞ。
 後世に語り継ぐためにそなたらを桜受のタイムダイバー隊と名付ける」
「タ、タイムドライバーですか」
 白岩が本当にぼけたのか場を和ますための冗談かわからぬように言うと、壬生野がすかさず訂正する。
「ドライバーではなくダイバーです。スキューバダイビングが海に飛び込むものなら、皆さんは時間に飛び込むタイムダイバーです」
 すると古相寺が元気に言う。
「なんだか戦隊ものみたいで、すっごく気に入りました」
 そのひと言で男たちのど緊張がぐっと和らいだ。古相寺の神経はなかなか太いようだなと旭子は微笑んだ。

 旭子が言葉に力を込めた。
「そなたらは間違いなく大役を果たして20万の無辜の民を救うてくれるであろう事、吾にはもう見えておる。
 あらかじめ礼を申しておく、ありがとう」
 旭子が頭を垂れるとタイムダイバー隊員が揃ってお辞儀した。
「現場は物資の不足した時代状況ゆえ、当初の計画を修正せねばならない事も多々あるだろうが、臨機応変に対処してくれよ。
 ただ手回りの小さき機材なら持ち込めると聞いて安心した。工夫して当たってくれよ。
 体調を崩さぬように気をつけよ。
 またこのような事を軽々しく口にしたくないが、そなたらが作戦遂行のために敵前に屍となって弁慶のように立ちはだからねばならぬ時もあるやもしれん、それでも頼むぞ」
 旭子は感極まって涙声になった。
「しかし任務を終えれば、たとえこの時代に戻れずとも、いつかは皆死ぬるぞ。その時はあの世で吾とともに今度は水盃ではなく最上の酒を飲み交わし昔話に花を咲かそうぞ。
 吾も死ぬる時は自慢のそなたらの手柄話を楽しみに死ぬるでな」
 これには命知らずの男たちも感極まって「もったいない」と涙を流した。

   ○

 島崎部長が「皆様、搭乗コード端末機の時計を確認ください」と言った。
 五人は腰に巻いたカーキ色のウェストポーチの覆いを開いた。そこには緑色の液晶数字があり、SET TIME TO MOTHER とか SHOW PROGRAMED PLACE & TIME などと表示されたボタンが7個並んでいる。
 液晶には行く先の時刻である 1944Y 10M 15D  15:00 が表示されている。地理的にも好きな地点に移動可能だが、今回は同じ神社の境内の座標が表示されているようだ。
「ではSYNCHRONIZE と書かれた黄色いボタンを押します」
 すると六個の端末の液晶数字が一斉に親機のタイミングでぐるぐるとめまぐるしく動き点滅し始める。
「数字が一桁になったら読み上げてください」
 と次の瞬間、ピコーンと音がして秒表示がゼロゼロになり、五人は声をそろえて秒を数え始める。
「ひと、ふた、みい、よー、いつ、むゆ、なな、やー、ここの、たり」
 島崎部長がすかさず言う。
「あと9分50秒でワープします」

 そこで白岩が旭子に挨拶する。
「秘巫女様、それでは桜受のタイムダイバー隊、出動します」
「うむ、頼むでな」
 旭子が頷くと、五人の隊員たちは地面に釘で打ち付けられたテープが描く円弧に沿って互いの距離を取って並んだ。安全のため一人の占める空間は半径1.3メートルまでとマニュアルにあり、隊員たちは隣の者と2メートル近く離れた。
 映画「ターミネーター」のタイムマシンでは全裸の格好で送り込まれていたが、幸い桜受家のタイムダイバー隊は服を着たまま替えの服と下着の入ったナップザックを背負い、搭乗コード端末の入ったウェストポーチを腰に巻いたままである。変わった携行品としては矢吹や松丸、望月はドローンやスマホ、太陽光発電板などを携行してゆく。古相寺はこっそり口紅と基礎化粧品、日焼け止めを持った。

 東屋でタイムダイバー隊を眺めていた旭子は島崎部長に尋ねる。
「この前の実験では地下にいたが、近くにおってもよいのか?」
「大丈夫です。米国のビデオを見ましたが搭乗端末を持った者だけがワープし、持たない白衣の研究者は親機に近くてもそのままなのです」
 島崎はそう言うとデジタル腕時計に視線を落とし、部下が「あと30秒です、28、27、26、25、24」とカウントダウンを始めた。
 小屋の中央を包む黒い霧は次第に濃くなってゆき自転を始め、小さな稲妻が霧から外に向けて光を放つ。
 島崎が叫んだ。
「カー・ニューマン・ブラックホールが極限に達します」
 
 さすがに男たちは緊張に満ちた引き締まったいい顔で秘巫女を見つめていた。ただ古相寺は何を思ったのかVサインを裏返して頬にあて首を傾げている。

 旭子が意識を読むと(永遠の別れかもしれないのに真面目にしてるのはきつすぎだからこうしてやる。悪気はないのはわかるけどどうして私が派遣されなければならないのか納得いかないもの。特務員の方だけでよいような気もするもの)という思考が読めた。
 旭子は先方には読み取れないのを承知で念を古相寺に送った。
(仕方ないのだ。この仕事は熱意があり、物怖じを知らないお前でなければうまくゆかない。こらえてやり遂げておくれ)

「9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
 島崎の部下のカウントダウンがゼロに達すると、つむじ風が通り抜けたと思った瞬間、5人の隊員たちの体が宙に50センチも浮き上がった。
 だが今までの実験を見てきた隊員たちは声をあげるでもなく、冷静に旭子の方を向いていた。
 次は伸張が起きる筈だと旭子が考えていると、隊員たちの体はびょーんと小屋に並んだ方向に50センチほど伸びた。
 さすがに東屋の巫女たちから小さな悲鳴が起きた。ただ菊高だけは(こんな危険な派遣は馬鹿げてるわ)と冷ややかに眺めている。
 
 次の瞬間、隊員たちの姿は音も声も立てず跡形もなく消えてしまった。

 後には風が運んだ枯れ葉が次から次へと飛ばされて来ては、またどこかへと去ってゆくのみだった。

 

第6章 昭和の秘巫女公子

 

 古相寺の目に、旭子の立っていた東屋が虹色の球に包まれるのが見えた。
 さらに七色の雨が横殴りに自分に叩き付けて来て驚くが、それは見た目は雨でも感触はない光だけのもので、その中を自分の体が勝手に突き進んでゆくのを感じる。
 まるで自分が飛んでいるみたいや。
 しかし、本当の自分はただ立っているだけの筈だ。まるで鮮やかな絵の具が勝手に自分の周囲にポタポタと色を塗りたくってゆきながら景色がどんどんと後退してゆくために、自分の方がすごい速度で前進していると感じるのだ。前方の虹色の球はというとずっと同じ距離のままで近くなる気配はない。

 この状態はいつまで続くんだという疑問が繰り返し浮かんで来ると、鮮やかだった絵の具は色褪せ、ただ灰色に光る雨へと変わってくる。

 やがて虹色の球も透き通っていき、再び東屋が見えてきた。
 だが、そこには誰の姿もない。
 えーと、うちは何してたんだっけと周囲を見渡した古相寺は、横に国民服姿の特務員たちが立っているのを見つけて自分たちがタイムトラベルしたのを思い出した。
 急いでウェストポーチを開きコード端末機の表示を確かめると、NOW 1944Y 10M 15D  15:01 という時刻になっている。成功したんだわ。
 古相寺はすぐにメッセージモードに切り替えて、壬生野充てに報告しようとする。しかし日本語変換がないのでローマ字で送るしかない。

to Mibuno Akane < ima tsuitayo!!! yoteidoori!!! zenzen heikiyatta!!!

 送信してしばらく液晶を見ていたが、返事はすぐには来なかった。届く過程に時間がかかるのか、届いてから技術さんが文書にして壬生野に渡してくれるまで時間がかかるのだろう。

 古相寺はコード端末機をしまうと、まるで居眠りしてるかのように俯いて立ってる白岩に歩み寄って声をかける。
「白岩さん、タイムトラベル、成功しはったみたいですねえ?」
 白岩はハッと顔をあげて驚きの声を出した。
「おっ、ああ、古相寺か。そうか、そうか思い出したぞ、たしかわしたちはえーと」
 白岩は頷いてみたものの自分たちの隊の名前が出て来ない。
 古相寺が失笑する。
「ややわ、思い出してないやありまへんか、私たちは桜受のタイムダイバー隊です」
「おう、それそれ、それや。あんまり視界がぐるぐるどしたもんで目をつぶっててな、ちょいと度忘れしただけや」

 白岩は照れ隠しに周りをキョロキョロして言う。
「皆、揃ってるようやな? 点呼を取るぞ、望月、無事か?」
「おう、手足もあれもついとるで」 
「矢吹は?」
「ここにいてます」
「松丸」
「はい、無事です」
「で、古相寺もおるし全員揃っとるな。では早速、結社の奥殿に乗り込もうぞ」

 意気込む白岩の腕を古相寺が引き留めた。
「待ってください。私たちは80年も時代を遡って来たんですよ。
 当代の桜受家にはうちらの顔を見知った者は一人もおりません。皆様のようにむさ苦しい方々が徒党を組んで行けば、どこぞのヤクザが難癖を付けに来やはったと疑われるのが関の山です」
 白岩が眉間に皺を立てた。
「な、なんだと、てめえ、たいがいにしとけよ」
「まあ落ち着いて下さい。もちろん私は皆様が桜受家の誇る選りすぐりの特務員と知ってますけど、こん時代の事務員や警備実動員にはそうは見えないですよね?」
「うん、まあな……」

「すると当代の秘巫女様が防御戦闘の式術を発動しはり、特務員も非番の者まで招集して総構えで繰り出して闘うなどという、身内同士が愚かで無益な殺生沙汰を起こす事になってしまいますよ。
 ここは最初に私が一人で参内して当代秘巫女様に事情を細かく打ち明けて、特務員皆様の特別待遇を得たのちに紹介いたしますので、しぱらく東屋でおくつろぎ下さい」
 古相寺が言葉巧みに落ち着かせると白岩がにやりと笑った。
「古相寺、おめえにしてはえらい賢くなったな?」
 白岩に言われて古相寺はペロリと舌を出した。
「最初はこうしろと旭子様に教えられてきたので」
 一同が笑い望月が言った。
「ほななきゃ古相寺にあんな口上が出来る筈ないわな」

   ○

 桜受家の入り口は現代と同じ宝物庫にあった。
 外側の木製扉は特に施錠はされておらず、内側に入れたが奥の部屋に進むと厳重な鉄扉になっている。
 そこで古相寺は困ってしまった。現代は鉄扉のすぐ横の壁に暗証番号と指紋の認証装置があるのに、この太平洋戦争時代にはそのようなセキュリティー装置がないのだ。そればかりかインターホンすらない。

 あるのは鉄扉に開いている鍵穴だけだ。

 古相寺はとりあえず鉄扉を叩いてみた。
 最初は単調に叩いてから大き目の鍵穴の暗い奥を覗いてみたり、耳を扉に押し付けて誰かが来る気配がしないか聞いてみたが、何の反応もない。
 古相寺はさらにしばらく鉄扉を叩き続けてみたが、反応はなかった。

 しまいには扉を叩きながら大声で叫んだ。
「緊急の用で来ました、私は桜受家の巫女の古相寺と申します。ここを開けて下さい」

「緊急の用で来ました、ここを開けて下さい。私は桜受家の巫女の古相寺と申します。緊急の用で参りました、開けて下さい」

「聞こえないのでおじゃりますか?」
 言い方がおかしな京ことばになってくる。
「そんな筈あらしまへんわなあ? 建物の造りは知ってますよって。
 わらわは桜受家の巫女、古相寺と申します。緊急の用で参りましたゆえ開けてたもれ」
 とうとう古相寺もきれてしまう。
「聞こえぬのか、とっとと開けろっつうの、このおたんこなす」

 古相寺がそこまで言うと扉の向こうから女性の声で咳払いがした。
「鍵は貴方が扉を五回叩いた時にお開けしましたよ」
 古相寺は慌てて謝りながらドアについてる把手を引いた。しかし、びくとも動かない。
「申し訳ありません、て、ドアの把手がびくともしませんが」
 すると声の主は冷たく言い返す。
「それぐらいの仕掛けを見破れひんとは、ほんに当家の者ですか?」

 古相寺は愕然とした。
 現代では暗証番号と指紋認証で簡単に入れるのが当たり前だったので、まさか入口にそれ以外の仕掛けがあるなどと思いもよらない。
「私の知ってる扉にはこういう仕掛けはなかったんです、教えてください」
「よう言わんわ」
「お願いします、本当に緊急の用なんです、開けて下さい」
「どのような用です?」
「大変な機密を含みますので秘巫女様に直接お話ししたいのです」

 相手は冷たく言い放つ。
「開いてる扉も開けられないような身内が秘巫女様に直接談判しはりたいと?」
「仕掛けを見破れない点はお詫びいたします、どうかここを開けて下さい」
「そう言われても鍵は開いておると言うとるに」
「降参です、お姉様、開けて下さい」

 すると鉄扉は動かないままなのに、なんと扉の左隣の壁がまるごと奥に引っ込んで隙間が広がった。
 まさに意表を突く仕掛け、これでは鍵穴をどうにかすればと考えてるコソ泥は永久に中に入れない。
 顔を覗かせた四十代の女性は紺色事務服に名札の布が縫い付けられてあって「酸漿ほおずき」とある。ほおずきの鬼灯という当て字を思い出し古相寺はぞっとした。
「身内ならご存知かと思いますが、あんさんの懇願で秘密の鍵を開けてくれたのやから、潔白の申し開きと絶対に口外しない誓いをして頂きますよって」

「まさか……?」
 古相寺はここであのタライの尋問を自分が受けるのかと青くなった。
「あのタライ責めですか?」

 酸漿さんは表情を変えずに冷たく返した。
「それぐらいは知ってはりましたか、説明が省けました」
 扉の内側の階段を降りると通路と事務室になっていて、奥の部屋からは早速頭にハチマキをした強面を先頭に三人の警備実働員が現れた。

「さあ、こちらへ」
 酸漿さんに手を引かれて古相寺は警備実働員に引き渡される。
「なんでも当家の巫女と言いはりましてな、大変な機密を含む用で直々に秘巫女様に談判したいそうどすが、扉の仕掛けも知らへんのどすえ」

 古相寺はもう逃げ出したかった。
 そこで勝手ながら白岩に身代わりを頼もうと考えた。白岩はああ見えて漢気も備えている、きっと私の身代わりを引き受けてくれるだろう。
 そんな計算を素早くして提案する。
「あの実は白岩という連れが外まで来ておりましてその者が尋問を受けるのが得意なのです。その者に代わってもらってよいでしょうか?」
「ふん、それが本当なら大方、特務員やな。特務員にそないな尻拭いをさせるのは卑怯やないかね?」
「そ、それは、人には得手不得手があるではないですか。お願いです、許してください、タライ責めは研修の時にぬるま湯でやっただけなんです。熱い油のタライなんて絶対に無理です、ひっくり返して引火して火傷で死んでしまいます」
「身内なら大丈夫やで。死ぬ手前で手加減したるさかい、さ、奥の部屋や」

 三人の実働員に囲まれたまま入った十畳ほどの部屋は床がコンクリート打ちっ放しで中央にポツンと薄い座布団が置いてある。
 古相寺はいかにも囚人が着そうなグレーの着物を渡されて隅っこを指で示される。そこには筵が吊るされただけの扉の小部屋がある。現代の研修の時はもっと立派なシャワー室になってた記憶があるのだが。
「あそこで着替えて来い。その変な服では火傷後に剥がすのが大変やでの」
「もう許してください。秘巫女様に会わなくても構いまへんから帰して下さい」
 古相寺は泣きそうになりながら頼んだが冷たく却下される。
「そうはいくかいな。扉の秘密を知られたからには誓わせずに帰すわけにはいかへんで」
 
 大事な端末機の入ったウェストポーチを外し灰色の着物に着替えた古相寺が戻ると、実働員二人が一斗缶からタライに油を注いでいるところだ。
「お前はそこ」
 古相寺は部屋の中央に歩み寄り「正座だ」と命令される。
 極度の不安に包まれながら座布団に正座した。
 古相寺の両膝の外側に左右ひとつずつ、そして膝の前にひとつ、火の点いた蝋燭が立て置かれると、二人の実働員がタライを古相寺の頭に乗せる。

「さあしっかりタライを持てよ、こぼすと火傷するぞ」
 古相寺は仕方なくタライを持ちながら文句を言う。
「ひどいです、身内なのに」
「本当に身内か調べるためのタライ責めやないか。お前の所属はどこや?」
「秘巫女様直属の巫女衆です」
「お前の顔は今日初めて見たぞ」
 古相寺はでまかせを口にする。
「それは、わ、先代様に採用されてすぐに地方に派遣されまして、、その辺の特殊な事情も含めて当代の秘巫女様にお話ししたいのです、そもそもウソならわざわざ秘密結社の桜受家に尋ねて来る筈もないでしょう」
「それはどこぞのマタハリか川島芳子が賭けに出て来たのかもしれんしな。本当はお前は鬼畜米英のスパイで当家を篭絡し、わが国を分断しようという策略ではないのか?」
 早くもタライを支える腕が疲れ始めて来たので早口で言う。
「そのような手間のかかる事を合理精神の米英がするとお思いですか? まさか大本営発表の大盛り改竄戦局報道を真実と思ってないでしょうね?」
 実働員古相寺の刺激的発言には答えずに訊いてくる。
「さて。何かお前の身分を明かしだてるものはないのか?」

 結社の有力者にはやんごとなき家から国宝級の宝物や叙位叙勲の標や証書を頂いてる者も多いが、古相寺個人には何もなかった。代わりにスマホの旭子様の凛々しい正装姿の動画を見せたらという考えが浮かんだ。
 そこに映っている祭壇やご神鏡は明治時代の終わりに作り直されたというから今の時代と同じに違いない。だが、それを見せてスマホを取り上げられたら今後の活動に支障をきたすだろう。昭和時代ではもちろん基地局電波がないから通話やメールはできないが、テザリング機能で近くの仲間とテキストや画像を送るという使い方は可能な筈とレクチャーされている。そう考えると大事なスマホを見せるわけにはいかなかった。

 古相寺は方向を変えて提案してみた。
「ならば桜受家で使う祝詞をそらで全て言えます」
「ふん、そんなもん、本が出てるでな、必死で覚えれば取り繕える」
「いえ、当家の祝詞は独特の発声を使ってますから巷の本とは違います」
「ほう、ではそうやな、五形の祓ごぎょうのはらひを聞かせてもらおうか?」
「謹請三元三行三妙加持 ひとにかかりなすおほかみとまをしまつるは 天八下魂命あめのやくだりむすびのみこと天三降魂命あめのみくだりむすびのみこと天合魂命あめのあひむすびのみこと天八百日魂命あめのやおひむすびのみこと天八十万魂命あめのやそろづむすびのみこと、是の五柱神いつはしらのかみのつつしみて……」
 そう宣っているうちにタライを押さえてる腕がぷるぷると震え始めた。
 ううっ、もう腕が支えられない。そうなればタライは落下して中の油は蝋燭の火に引火して自分は炎に包まれて大火傷する。
「ああ、腕がもう、助けて」
 古相寺が叫ぶといつの間にかタライの両脇に待機していた実働員がさっと手を伸ばして支えてくれた。
「正直に言わないとタライを離すぞ、お前はスパイだな?」
「違います、なんで私が」
 古相寺が答える間にタライを支えてた実働員が手を離してしまう。
 古相寺は必死でタライのバランスを取ろうとするが、タライは前に傾きかける。前には火の点いた蝋燭があるのに。
「あぁぁー」
 古相寺が叫んだところで両脇の実働員が手を伸ばして支えてくれた。
「さ、正直に言えば許してやる、お前はスパイだな?」
 古相寺は泣き出したいのをこらえながら否定する。
「違います、本当に私は秘巫女様の部下です」
「まだとぼけるか、それ離すぞ」
 また実働員がタライから手を離してしまい、タライはゆっくりと前に傾いてゆく。古相寺は必死で立て直そうとするが、手に思うほどの力が入らない。
 大火傷を覚悟しなければと考えが走った……。

「止めよ」

 瞬間、背後から声が響くと、実働員が鷹が獲物を獲る神速でタライを支えた。タライから卵大の油が宙に飛び出し、それは前方の蝋燭をかすめて引火したまま床に着地した。
 ただ油は古相寺の着物につながってないから火傷の心配はない。

 振り向くとひと目で秘巫女とわかる女性が扉を開けたところに立っていた。古相寺も写真で見知っている昭和前半の桜受家秘巫女、公子である。年齢はまだ20代半ば。古相寺と5歳も違わない筈だが、落ち着き払った威厳をすでに身に纏っている。
 タライは古相寺の頭から床に下ろされた。

「これはこれは秘巫女様」
 実働員たちが頭を垂れる。
「このようなむさくるしいところへ、どうされたのです?」
「吾に会いたいという者、いかなる化け物かと確かめに来たのじゃ」
 実働員の一人がかしこまった。
「お手を煩わせて申し訳ございません。これより口を割らせますので、ご見物下さい」

「もうよい、吾が親しく話すゆえ元の身なりにさせて最奥殿に参らせよ」
「えっ、これは通用扉の開け方も知らぬ、見え透いた嘘を吐く輩でございますぞ。秘巫女様に害をなすやもしれません」
「吾が心の底まで見通したゆえ心配無用じゃ。その者は害はなさん」
「しかし、誰も顔を知らぬ輩ですが……」
「吾がよいと言ったらよいのじゃ」
 実働員は慌てて深く頭を垂れた。
「はっ、秘巫女様がそう仰せなら間違いありますまい」

   ○

 古相寺はグレーとピンクのツートンカラーのスポーツウェアに戻って奥殿内の秘巫女の執務室に参内した。そこは現代より工事が進んでないためか地下6階が最下階になっていた。調度品は古相寺の時代とほぼ変わってないが、ただ電話は大正時代設定のドラマに出てくる木箱にベルふたつと小さなラッパがついたやつだ。
 公子の衣装は旭子と同じように妃を思わせる鮮やかな装束の上にふわりとした羽衣をまとっている。
 巫女が客用の蓋付きの湯飲みでお茶を出してくれて、古相寺は恐縮してしまう。
「よう、おいでやしたな」
「秘巫女様、助けて頂きありがとうございました、古相寺と申します」
 公子は微笑を浮かべて頷いた。
「そなたの心にはここと同じ祭壇もご神鏡も映ってはりました。そしてアキコ様という秘巫女のお姿も見えはりました」
 旭子様は読心能力に秀でているが、どうやらこの公子様は透視能力に秀でているようだ。いずれにせよ秘巫女になるぐらいの者は先天か修行かはおいて尋常ならざる能力をお持ちのようだ。

「はい、是非、公子様に旭子様の原爆投下阻止作戦にご理解賜り、ご援助頂いて成功させたく参りました」

「詳しく話してみなさい」
 公子は扇を宙にもたげて促した。
 古相寺は「はい」と答え、日本が太平洋戦争に敗れるという衝撃と古相寺たちがタイムトラベルして来たという衝撃を公子が受け止めてくれるよう願いながら打ち明けた。

「残念ながら米国はこの太平洋戦争で日本に勝ちそうな勢いにあります。そしてこれからどう賢明な手を打っても、もはや逆転することは難しいかと思われます」
「うむ。だいぶ押されてるという真相は各地の連絡員、特務員から聞いています」
「私のお仕えする旭子様は憂いております、このままこの国が悪い形で、敗けてしまう、ひどい負け方を憂えておいででして」
「ずいぶんとまわりくどい言い方をしはりますね」
 古相寺は慌てて頭を下げた。
「秘巫女様を驚ろかすつもりはないのですが、歴史というもの、専門家は世界線という言い方をしますが、やがて科学の力でさかのぼることができます。実は私は四人の特務員と共に80年先の未来の桜受家から来たのです」

 さすがの公子もしばし目を開き口も開いたまま息を止めた。
「残念ながら私の使っていた歴史の教科書には日本が昭和20年8月に太平洋戦争に敗けたと書いてあるのです」

 公子はようやく言葉を発した。
「ふむ……、つまりこういうことか、そなたの主の旭子さんは80年先の未来のここの秘巫女なのだな?」
「その通りです。
 日本に勝ったアメリカ合衆国はイギリスに代わり世界一の強大国になります。
 そして極秘に先進技術タイムマシンという時間旅行の機械を開発したのです。旭子様はせめて悲惨すぎる戦争の負け方だけでも変更すべく、特務員にその設計図を盗み出すよう命令して見事成功し、私たちを『桜受のタイムダイバー隊』と名付けて、時間旅行の機械を使ってこの昭和時代に派遣したのです」
 すると公子は古相寺をじっと見詰めて言った。
「今、そなたの頭の中に大きなキノコのような雲が見えるが……」
 古相寺は公子様の透視能力に改めて驚いた。
「はい、それは歴史の教科書で私が一番衝撃的だった写真なんです。雲は新型爆弾の爆風が起こした巨大なものです。原子爆弾と言って、たった一発で広島の街が全て吹き飛び焼け野原となりました」
「なんじゃと………」
 公子が扇を持つ手に震わせた。
「はい、それほどすさまじい威力なのです。米国は日本に早く降伏させるためあえて広島の街を一発の爆弾で吹き飛ばしたのです。さらに念を入れ、その三日後には長崎の街も全て吹き飛び焼け野原とされたのです」
「それで、その街の被害は? 民たちは避難出来たのであろうな?」
「そこなのでございます。広島も長崎も民は何の警告もされず避難できないまま両市併せて最終的には20万人を超える一般市民が亡くなりました、いえこれから亡くなってしまうのですが」
「なんという、鬼畜米英め、武士の風上にもおけぬ、外道の極みじゃ」
「はい、旭子様の怒りもはなはだ激しく、なんとしてもタイムマシンで歴史に先回りして無辜なる民を救ってこいとのご命令で私どもが派遣された次第です」
 公子は大きく何度も頷いた。
「さすがは吾が後継者じゃな、吾は今知ったばかりが、吾もタイムマシンとやらを手に入れる算段をし、まったく同じ思いで同じことを立案実行するであろう。
 大儀じゃろうが、そなたたち、是非に頼むぞ」
「はいっ、そのお言葉、旭子様も恐悦至極きょうえつしごくに存じることでしょう」
 古相寺は何度も手のひらに書いて暗記した四字熟語がうまく言えると安堵しながら深々と頭を垂れた。

「となれば、『桜受のタイムダイバー隊』だったな、吾はいかにそなたたちに手助けすればよいのじゃ?」
「はい、四人の特務員を海軍に入れてください。まず白岩という者は書類上で海軍参謀本部の大佐にしてください。矢吹と望月の二人は水上偵察機の乗員。そしてもう一人松丸は海軍省の艦隊司令通信部に入れてほしいのです」
「平時はさすがに難しいが、今は戦時ゆえ異動や補充は頻繁で現地なら怪しまれる事も少ないだろう。海軍じゃな」
「はい、それで一応私の時代にあるもので基礎訓練をしましたが、実物で慣れておきたいので白岩、矢吹、望月の三名は伊号潜水艦や水上偵察機の訓練に参加させてください」
「承知した。わが桜受家では陸海軍に特務員と連絡員が何名も潜入しておる。命令書類の偽造や訓練艦艇への名簿を用意するよう手配しよう」
「はい、あてにしておりました、ありがとうございます」
「それで伊号潜水艦を使ってその新型爆弾を阻止するのだな?」
「はい、新型爆弾は米国の本土から巡洋艦で飛行場のある島に運ばれます。日本軍の制空権、制海権はもはや希薄ですので、単独で巡洋艦を撃沈できるのは潜水艦しかないだろうという作戦です」
「うむ、難儀そうじゃな」

 公子は古相寺の服をじろじろと見た。
「それで古相寺と申したな、そなたはどうするつもりか?」
「はい、とりあえずは海軍省の近くの喫茶店などで働きながら連絡や調整をするつもりでおります」
「そうか……いや、たしか、海軍省は今年の初めに帝都都心から神奈川日吉とかいう田舎にある慶應義塾校舎に疎開を始めたと聞いたぞ。そのような場所に洒落た茶店があるかどうかはわからぬが」
「そうなんですか? でも慶應の前なら何かお店があるでしょう、そこを拠点にします」
「では決まれば近くの桜受の連絡員にも知らせるように手配しよう」
 古相寺は頭を下げた。
「ありがとうございます。それと公子様は表の天子様への伝手はお持ちでしょうか?」
 公子は顎の前で小さく扇を振った。
「もちろんいくつか伝手はあるが、何をするつもりじゃ?」
「失礼ながら今の軍部主導の政権がこの後もなかなか降伏しない気配があります。今後の歴史では我が国はいったん降伏したのちに米国の指導を受けて世界が驚くほどの素晴らしい復興を遂げます。
 ですからなるべく早く、出来れば新型爆弾を落とされる前に降伏をした方が国のためになります。それを表の天子様に申し上げて軍人や政治家の言い分にとらわれず一刻も早く降伏を決断されるよう注進いたしたいのです」
 古相寺が言うと公子は扇を傾けゆっくり開いた。
「なるほどな」

 扇が開くと描かれた模様の紅葉がさーと広がり黒蒔絵塗りの牛車が現れ、それはまた折りたたまれて紅葉に消えてゆく。
「しかし、裏の天子様を支え申し上げておる吾の立場ではその手引きをする事はいささか思案せねばならぬな。
 表はなんといっても御維新の折、我らが天子様が恐れ多くもお隠れ遊ばされた折に、どこぞの田舎武者にすり替えて居座ったと今や一部の民からも非難されておるほどじゃ。それがゆえ表側は裏の我らに対してハリネズミの如き心持ちと聞く。
 そこへ裏の者が早う降伏せよなどと申せば、あらぬ警戒をいたして却って意固地になり針を立てて事態が膠着するやもしれぬ。
 そう考えてみると吾が関わったと知られない方がよいかもしれぬ。
 うむ、古相寺、ここはそなたの知恵でなんとかつないでもらい、わが桜受の名は耳に入れずに説得申し上げるのがよかろう」
 扇はたたまれて公子の手の内に収まった。桜受家の実質的な主である秘巫女にそう言われては古相寺は承服するしかない。
「かしこまりました。そのようにいたします」
「うむ。兎にも角にも旭子さんの作戦がうまくゆくよう吾も力を尽くそう。早速、そなたの連れて来た特務員も中に呼びなさい。もろもろ手筈を整えるまで、しばらくゆるりと客間に滞在するがよい。このご時世、外世間にあってはろくな物も食べられぬでな」
「はい、ありがとうございます、お言葉に甘えさせて頂きます」
 どうやら木の根とすいとんはまだ食せずにすみそうな古相寺であった。

 

第7章 飛鶴の間にて

 

 昭和19年の桜受本家は地下が6階までしかなかったが、地下トンネルがいくつか張り巡らされていて近隣に配置された連絡員から日常消耗品や食材などが運ばれてくる。
 そのおかげで官製の配給に頼らず平時と同じ食材が手に入るし平時と変わらぬ日常活動が可能だった。
 旭子に派遣された特務員4人は地下2階にある12畳の大きな客間である飛鶴の間を、古相寺はすぐ隣の8畳孔雀の間をあてがわれ「海軍はんの手筈が整うまでのんびりとお過ごしやす」と言われていた。
 もっとも古相寺は酸漿さんの用意してくれた事務員の制服を着て、日中は特務員たちの飛鶴の間でまだ空白だらけのアドレス帳とスケジュール帳を少しずつ埋めている。

 一方、現代時にいる壬生野は秘巫女旭子に定期通信を命じられて午前に30分、午後に30分、技術部の部屋に行き、パソコンで古相寺のコード端末機と交信をしている。技術部のスタッフがローマ字変換を組み込んでくれたので今はローマ字ではなく日本語文でやりとり出来る。
 内容はというと連絡というより普通の仲良しのラインのやりとりだ。

『茜、おはよ! 昨日の夕飯は焼き松茸と明石の鯛飯と吸い物やったわ』

『ずるい!どないなってるん、いい御膳ばっかりやへん』

 壬生野が眼鏡を曇らせて嬉しそうに口を尖らせている顔が目に浮かんだ。

「ふふっ」

 古相寺は声を出してしまい部屋にいる特務員たちの視線を集めて慌てて俯いた。

『えへへ、役得やわあ』

『木の根とすいとんの筈でなかったの?』

 古相寺は笑みを浮かべて返す。

『笑うしかないわ。まあ、死刑囚の最後の晩餐みたいなもんやね』

『特務員さん達はともかく、美穂はすいとんでもええのに』

『きっとタライされたからな、悪い思うて御馳走ぜめしてくれはるんや』

『納得いかんわ』

『ふふふっ。菊高はんに御馳走の話、しゃべってくれはった?』

『うん。つまらなそうな顔しいはってたけどきっと悔しがってはるよ』

 古相寺には菊高の悔しがる顔が想像つかなかった。

『あの人は言い方がきっついから苦手やわ』

 すると壬生野が突然に

『うちも旭子さんにお願いして、そっちへ行こかいな』

 予想せぬ言葉に古相寺は疑問符が浮かぶのみだ。

『えっ、茜がこっち来て何をしはるん?』

『美穂、知っとった? ケネディは太平洋戦争に参加しはっててな』
『魚雷艇の艇長しはってたんよ』

 JFケネディはハーバード大学を卒業した直後、太平洋戦争開戦となったため海軍に志願。1943年8月、海軍中尉となって魚雷艇で南太平洋ソロモン諸島近海を航行していたのだが……。

『そないなんね?』

『その魚雷艇が日本の駆逐艦に体当たりされて沈没どしたんや』

 ケネディの魚雷艇は突然に駆逐艦「天霧」と出くわしてしまう。距離が近すぎ砲撃できないため駆逐艦艦長は体当たりを決行。魚雷艇はまっぷたつに折れて沈没した。

『えー! ほして死にはったん?』

『おあほやな。その後大統領になりはったやないか』
『でな、戦後、その駆逐艦の艦長はんとも仲直りしてな友好を温めたんやて』

『そうなんやね、日本と妙な縁がおありやったんやな』

『えらいピンチやからうちが助けに行ってあげたいんや』

 海に投げ出されたケネディは生き残った部下達を率いてサンゴ礁に辿り着いたらしい。そこで見かけた原住民を呼び寄せ、ヤシの実に救援依頼のメッセージを彫ったものを渡してニュージーランドの沿岸監視隊に届けるよう依頼、九死に一生を得たのだった。

『茜もおあほやな。助かってはるもんを助けに行きはるん?』

『そしたらうちが命の恩人やない』

『はあ、なるほど、そういう狙いか』

『どないしよ、きっとうちにプロポーズしはるわ』

 事情通からやんごとなき裏一族と呼ばれている結社の巫女は絶大なる霊能力を持っているのだが、その霊能力に支障を来たさぬよう結婚や妊娠は禁じられている。
 だが、古相寺、壬生野のような平凡な巫女なら結婚する者もいるようだ。
 だからといって歴史上の人物に恋したり結婚願望を持つのはそれはそれで尋常ならざる女といえるかもしれない。

『妄想キタなあ、ほんまに茜ちゃんはケネディはんのことお好きやなあ』

『私がケネディはんと結婚したら美穂もホワイトハウスに呼んであげるな』

『そんなんなったら歴史がおかしくなって往生するんと違うの』

 古相寺が突っ込むと壬生野は冷静に返す。

『歴史が往生するんやないかて心配はタイムパラドックスいうんや』

『その単語聞いたことあるけど、どういうこと?』

『例えば自分が生まれる前に両親が結婚せんようにすれば自分が生まれなくなる』

『道理やね』

『そない考えられるから、映画で自分が途中で消え始めるて場面があったんやな』

『あれや、バックトゥザフューチャーのマイケル』

『うん、でもなタイターはんは別の世界線になるから問題ないで言うてはる』

『えっ、嘘や、ほんまに問題ないがか?』

『よく聞くパラレルワールドちゅうが無限に開かれるらしいわ』
『だからうちがケネディはんと結婚しても問題ないんて』

 古相寺にはどう考えても問題があるようにしか思えなかった。
『いやいや、問題あるて、そもそも』
『ケネディはんはうちらの生まれた時にはもう死んではったおひとや』

『ジョン・タイターはんの事を嘘やと否定する輩はあちこちにおるが』
『美穂がその時代におることがタイターはんの時間旅行を証明しはってるんやで』

『そ、そうなんかな』

『まだ信じられんと思うけど、晩餐会に呼ばれた美穂は信じてくれはる』
『旭子様、やなかった公子様も、きっとうちに伝言を頼みはるに違いないで』
『「旦那はんに日本の事は手加減して、お守りおくれやす言うてくれえ」とな』

 古相寺は壬生野の思い込みの熱に逆に寒イボが立ちそうに思った。

『ああ、うち茜がちょっと怖うなったわ』

『のろけ話はこれぐらいにしといてやるわ』
『実はひとつ気になる事があんねん』

『何ね?』

『たぶんやで緯度経度だけじゃ偵察機で潜水艦を発見するんは無理やと思うの』

『なんで?』

『緯度1度は111キロ、経度1度は赤道で111キロ、緯度35度で80キロ』

『そないに広いの?』

『当然もっと細かい指示はするだろうけど、測定器の誤差もあるから』
『仮に10分の1に絞れるとしても縦11キロ横8キロの広い四角形や』
『飛行機はスピードも出てるし潜望鏡を見つけるなんて無理っぽいよ』

『せやかてそれが出来んと白岩さんたちが乗り込めんで作戦が成り立たん』

『だから気になっとるんよ。美穂もどうやったら飛行機から』
『潜水艦が見つけられるか、もいっぺんよう考えはってみてよ』

『そう言われてもな、ここはスマホでググる、アヒる(注1)が出来ひんの』
『うちの脳はスマホに8割方貸しとるきに』

『ふふ、口癖出たな。ほなうちが美穂の分も頑張ってみるわ』

『うん、頼むわ。うちも特務員の皆に相談しとくし』

   ○

 白岩は松丸と互いの手が届くように大きな座卓の角に厚さ2センチほどの将棋盤を置いて将棋を指していた。
「おっと戴き、飛車成りの龍で王手と来たで」
 白岩の指が挟んだ駒が盤面にピシリと音をたてて置かれると、松丸の右手が覆うように飛び出して来た。
「あ、待った」
「なんや、おめえは待ったで弾が止まってくれるような仕事をしてるんか」
「だってそこにいるの忘れてたんです」
「注意力散漫だ、そないなことでは特務員失格だな」

 そう批判された松丸はすぐさま切り返した。
「じゃあ白岩さん、また卓球をやりましょう。白岩さんの運動神経がまだ特務員合格レベルか判定してあげますから」
 どうやら卓球での二人の力の上下関係はすでに確定しているらしい。白岩は舌打ちして開き直る。
「チッ、特務員たるものな、普段は体を休めて有事に備えるんだよ。カール・ルイスを見ろよ、練習なんか他の選手よりしないのに金メダル取ったんだぞ」
「へえー、白岩さんはそのカールて人を見たんですか?」
「いや、俺は知らないが館のとと達が陸上の試合見るたびによく話しはっとった」

 そこへ古相寺が割り込んで来た。
「ちょっと白岩さん、よろしいですか?」
 白岩の目尻がにやと笑った。
「なんや、詰め将棋でも教えてほしいんか?」
 しかし古相寺の顔は真剣だ。
「作戦の事です。皆さんにも聞いてもらっていいですか?」
 古相寺の真剣な振りに白岩が音頭を取った。
「よおし、皆、ぐだぐだに丸まった背筋をピッと伸ばして古相寺はんの話を聞こうか」

 特務員たちが座卓を囲んだところで古相寺が述べる。
「話は潜水艦を最初に見つける方法についてです。
 今のところ時刻と座標を指示してそこで落ち合うという方法になっていますが、同僚の巫女からそんなにうまくゆくのかと疑問の声が上がってます。そこで皆さんの知恵を出し合い、より確実な方法について考えて頂きたいと思いました。どうでしょう?」
 白岩が頷いた。
「わしの印象は顔合わせの時、秘巫女様に申し上げた通りや。
『砂漠に落としたコインを翌日になって気付いて探すようなもんや』
 だが秘巫女様から一旦命令が下った以上、死に物狂いで潜水艦に辿り着く。いつもそれでなんとかやって来たんやから、今回も心配ないと思うで」

 古相寺は頷いたが完全同意ではない。
「皆さん、何かもっと確実に、またはより高い可能性で潜水艦を探し見つける案はありませんか?」
 古相寺の問いかけに望月がつぶやく。
「問題はな、潜水艦ちゅうやつは敵の駆逐艦や飛行機に見つかったら深海に潜って逃げ回り辛抱するしかええ手がないんや」
 そこで古相寺は思い付きを言ってみる。
「飛行機は無理ですが駆逐艦なら潜水艦の魚雷で戦えますよね?」
「まあな。ただ敵さんも潜水艦にやられるのはイヤやから2、3隻でチームを組んで行動してるのが普通らしい。するとな駆逐艦一隻を沈めようとする間に自分も他の敵の攻撃を受けることになり勝ち目はほぼないということや。
 だから潜水艦ちゅうやつはなるべく海上に姿を晒したくないんやな。こっちは空からそれを見つけたいんやから大変なのは当然や」

 古相寺が何か思いついたらしく急ににこやかな表情になった。
「あのう、例えば時刻を決めておいて花火を上げたらどうです?」
 一座からクスッと笑いが漏れたが……、
「それはいいですね」
 松丸が全力で褒めにかかる。
「ま、軍事的には花火ではなく信号弾でしょうけど。それを上げてもらえばわかりやすいですよね?」
 松丸の言葉に望月が頷いた。
「まあな、あまり明るすぎては目立たないだろうが晴れてる夜明け、夕方ならわかりやすいかもしれんな」
 白岩が釘を刺した。
「問題は敵にも信号弾を見つける可能性があるという点やな。
 わしたち偵察機は伊号12潜水艦の脇に着水し、伊号12潜水艦は大急ぎで偵察機をクレーンで持ち上げ、主翼を分解して格納筒に入れる必要がある」

 古相寺が驚いて声を上げる。
「分解までするんですか?」
「そうなんや」
「写真で見ましたけど、甲板に艦から発進するためのレールがあるんですよね。その上に乗せたまま落ちないようにチェーンか何かでしっかり固定しておいてサッと潜ればいいじゃないですか? その方が分解より早いと違いますか?」
 男たちがドッと吹いた。
「古相寺、あのな、そんなことしたらな、水圧で翼が折れたり、エンジンに海水が入って錆びてしまい使い物にならなくなるわ」

 古相寺は「そうですか」としょげ返る。
 白岩がさらに説明する。
「格納筒は狭いから主翼は分解して折り畳まんといかんのだが、そのためクレーンで吊り上げてから主翼を分解して格納するまでトータル30分ぐらいかかるだろう。
 その時に敵が飛行機なんか繰り出してきたら格好の標的にされるわけや」
「そうなると信号弾も危うい方法ですか……」
 松丸が言うと古相寺始め一同静まり返った。
 古相寺は沈黙の空気に耐えられずにつぶやいた。
「何か方法が見つかりますよ」
 松丸が同調する。
「そうですね、期待していきましょう」
「わしもあきらめてなんぞおらんよ。いつも石に齧りついてやってればなんとかうまくいくんや、秘巫女様のお力もあるからな必ず良い方向に動くで」
 古相寺はホッと安堵して笑顔を弾けさせた。
「そうですよね、きっとうまくいきますよね。ありがとうございます」

   ○

 伊号12潜水艦の発見方法を巡っていったんは落ち込みかけた古相寺の気分もなんとか上向き、お昼には鴨と九条ねぎのうどんを平らげる頃にはすっかり元気を取り戻した。
 ただ今すぐやらなければという作業があるわけでもなかった。
「それにしても退屈ですね」
 古相寺が一人向かっていた囲碁の盤から顔を上げ窓を見ながらまわりに聞こえるようにつぶやいた。

 客間は地下二階にあるが、一面はいわゆるドライエリアに面して窓が開け、地上からの天然光が差し込み竹が伸びており殺風景を緩和している。

「ちょっと観光してきませんか、渡月橋とか嵐山とか」

 すると座卓に風呂敷を広げて拳銃を分解掃除していた望月が反論した。
「ここに来た時『私達は人目についてはいけません』とか言ってたのは古相寺だぞ」
「ま、確かに言いましたが、私もこの地味な事務服になりましたし、皆さんも国民服が板について怪しまれないでしょう。それに外に出てもこの時代はスマホで写真撮る人もいないし、変な証拠が残るとも思えません。こう言ってはあれですが作戦が始まれば皆さん、死ぬかもしれませんし、二度とこんな観光のチャンスはありませんよ」

 すると白岩が混ぜ返す。
「観光言うけどな、このご時世、外へ行ったってうまいもんなんぞ食えないんやで。まともな団子すらないという話やないか」
 古相寺は苦笑した。
「あ~観光より食い気ですか」
「当たり前や、ここにおればだ、トンネルでつながってる一流旅館の板前が世間には出せない贅沢なうまい料理を作ってくれるんやで。ここは今日で何日や?」
「5日目ですね」
「我が生涯でこんなに毎日ご馳走を食らったのは初めてだでぞ」
 白岩が感慨深げに述べると古相寺も頷く。
「そう言われてみると戦時下とは思えない宮様並みのいい待遇ですから。公子様のおもてなしのお陰ですね。
 ただ白岩さんたちは潜水艦に乗ってしまったら一週間後からは寝ても覚めても缶詰ばかりだと言ってましたっけ」

「うわあ、言わんといて。考えただけでぞっとするわ」
 白岩が寒気でもするように両腕をさすって言うと古相寺が笑った。
「その言葉づかい、ちょっと気ぃつけて下さいよ。仮にも参謀本部の将校として乗り込むんですから。あの人のしゃべりからして、大阪にいてる縁台将棋のおっちゃんじゃないんかと疑われては帝国海軍の錨が腐って海の底に沈みます」
「ふん、こう見えてもな、わしは東京弁得意なんやで。本番に強いタイプやから安心しいや」

 矢吹が立ち上がった。
「松丸君、焼きのまわった中佐爺は放って、卓球しに行こうや」
「あ、はい」
 二人が立ち上がると白岩が声をかけた。
「ちょっと待てや」
「おっ、また負ける気になりましたか?」
「わしは大佐や。艦長が中佐やからわしが大佐の方が命令下達に問題が起きずに丸く収まるからの、そこだけ厳しく注意しとく」
「なんだ、腰は立たないんですか。了解しました、大佐殿、艦長より偉い大佐殿はそこで休んでてください」

 矢吹と松丸が連れ立って戸を開けようとした時にちょうど事務員の酸漿さんが入って来た。そこで矢吹が問いかける。
「やあ、どうしはりました?」
 古相寺も思わず立ち上がった。
「ちょうどよかったわ。四時にね、海軍から特務員が来られると電話が来ましてん。その時には部屋におって下さいな」
「それはどうも連絡ありがとうございます」
 古相寺が礼を言うと、酸漿さんが笑った。
「あんた、事務員の服がえらいぴったりやわ、何やら一緒に働きたいわ」
「ありがとうございます。今回は私も特務員さんの連絡係を仰せつかってますので、その機会には是非ご一緒させてください」
「そうか、じゃあそん時はうちを手伝うてな」
 矢吹と松丸は「酸漿さん、まだ2時間あるからうちらは卓球してきます」と言い酸漿さんを追い越して出て行った。

  (注1)アヒるとは検索をgoogleやyahooでなくDuckDuckGoを使ってすること。検索結果に偏向がないので真実を調べる際に重宝する。

 

第8章 桜受家の海軍士官

 

 16時4分前に廊下で酸漿の「こちらです」という声がして、すぐ紺色の海軍一種軍装を着用した二人の士官が飛鶴の間に入って来た。
 制服を着た士官のする白い手袋の敬礼は凛々しくて、古相寺は白岩たちと同じ特務員とは思えないなと感心した。しかし、すぐに白岩たちも制服に身を包んで慣れてゆけば同じように凛々しく感じるのだろうと思い直した。
 先に襟章に金線一本、桜ふたつの若い方の士官が挨拶する。
「はじめまして、小柴中尉です。こちらは外山少佐であります」
 紹介された外山少佐が再び敬礼挙手のまま一同へゆっくりと視線をまわした。襟章は幅広の金線二本に桜ひとつである。
「外山です」
「わざわざ、ご苦労様です、白岩です、どうぞ」
 白岩達は大きな座卓の下座に立って、お辞儀をして迎えた。小柴中尉は20代半ばぐらい、外山少佐は白岩と同じ40歳ぐらいだろう。

「少佐様、座布団をおあてになってください」
 古相寺が勧めると、外山少佐は笑いながら腰を下ろす。
「いやいや、格式ばった挨拶はこれぐらいで、私らは同じ八咫烏結社の特務員ではないですか、しかも私は秘巫女様の後ろ盾でズル出世した少佐ですからな、内輪では全然威張れないんですわ」

 公子によればタイムトラベルの件は万が一おかしな噂が立つのを恐れて伏せてあるそうだ。そこで表向きは白岩たちは親しい明院寺家の特務員で桜受家が便宜を図ってやるという話に作り変えられていた。

「まことにありがたいことで。桜受家の三本といえば八咫烏随一の実力ですからなあ、我らも是非薫陶を受けたいものです」
 白岩が囃すと外山少佐もまんざらでもなさそうだ。
「いやはや薫陶などおこがましい。右も左もわからぬ状態でいきなり少尉だと言われて海軍軍令部で英文の注文書やら任されて青くなりました」
 
 そこへ酸漿さんがお茶を淹れてくれたが、茶菓は干し芋だった。
 これには外山少佐が思わず声を上げた。
「酸漿さん、なんだこれは? 菓子はまた八つ橋だろうと楽しみに来たのに、いつから干し芋に化けてしまったんや?」
 外山少佐はがっかりして抗議したが、酸漿さんは澄まして言う。
「海軍さんが踏ん張ってくれんと次は笹の葉をしゃぶることになると思いますよ」
 外山少佐が大声で笑ったのので白岩たちも気兼ねなく笑った。
「まったく酸漿さんにはかなわんな」

 笑い声が引き潮になったところで、望月が尋ねた。
「外山少佐はいつ海軍へ入られたんです?」
「特務員の実践を数年積んで昭和3年に海軍本省に派遣されました。
 そして翌年はロンドン軍縮条約会議が行われるというので列強の戦力分析やら交渉の予想などの文書をまとめたりてんやわんやでした。ま、私は上司に言われた通りに辞書片手に翻訳するだけでしたが、俺は翻訳するために特務員になったんじゃないぞと思いながらもう少し派手な命令が来ないかと思ってました。
 その時、交渉の海軍側次官随員として渡欧されたのが後の連合艦隊司令長官、今は亡き山本五十六やまもといそろく元帥閣下げんすいかっかでした。会議の結果、日本の艦船保有比率は英米の6.975割に制限されてしまい、そこで山本元帥閣下は航空を海軍の主力に据える航空主兵主義を上層部に訴えていよいよ強力に押し進めたのです」

 望月は頷いた。
「それが真珠湾につながったというわけですか」
「ええ、とにかく日本は戦艦の数を制限されたのですから、大きな大砲を積んだ戦艦が有利という大艦巨砲主義に捉われていたら太平洋戦争の緒戦で真珠湾やマレー沖の大戦果を上げることは出来なかったでしょうな。特にマレー沖で英国の誇る最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を航空機だけで撃沈したことは画期的で、世界の列強が一番衝撃を受けたのはそこなんです」

 古相寺が感心して言う。
「山本はんはえらい頭がよろしかったんですね」
 すると外山少佐はにやにやして言った。
「というか、元帥閣下はとびきりのギャンブラーなんです」
 思いがけない返事に古相寺はすぐ聞き返した。
「そうなんですか?」
「ええ、暇があれば部下たち相手にポーカーなどしてはりましたね。
 昭和11年末に元帥閣下は海軍省次官になり私も親しくさせていただきましたが、ほんまポーカーフェースなんです。
 元帥閣下は相手を観察して計測すれば必ず勝つ機会がわかるというのが持論でして。
 2年ほど遊べば戦艦1、2隻の金は作れると豪語されてました」

「話を面白くしようとしての大風呂敷ですよね?」
 松丸が笑いながら言うと、外山少佐は真顔で返した。
「いやいや、実際、元帥閣下はあまりにも勝ちすぎてしまうのでモナコのカジノ協会から出入り禁止になってるんですよ」
 松丸は感心した。
「ほおー、そうなんですか」
「ええ、大事なのは相手を観察してという点でして、元帥閣下は若い頃から米国についてよく調べており駐在武官もなさったから観察は十分でした。それで英米を刺激するだけで利の少ない日独伊三国同盟に反対でした。
 そこで海軍次官の立場で戦争を回避したいとお考えだったのですが、米内大臣が三国同盟に狂信的な右翼による山本閣下暗殺を危惧されて海軍省次官から連合艦隊司令長官に配置換えしたのが本当のところです。
 開戦前に近衛首相に聞かれた時、元帥閣下は半年、1年は暴れて見せるがその後は全く確信がないから日米戦争を回避するよう答えたそうですが、どうも近衛さんは海軍は最初の1年はやれる自信があると、そこだけ大きく受け取ったようです」

 白岩が頷いた。
「なるほど」
「大きな声では言えませんが、ミッドウェーでの大敗で元帥閣下の責任を追及する声が海軍内からも上がりました。
 しかし戦の勝敗というものは様々の要素の積み重ねで決まりますからな。作戦の前提としての山本元帥閣下ならではの航空重視の用兵がなければ、そもそも緒戦からあれほどの連戦連勝はなかった事に気付かなければならんのです。
 おそらく従来の大艦巨砲主義で戦っていれば最初の1年ほどで米国の艦隊がどんどん充実して今のような位置まで攻め込まれていたであろうと思いますね。
 なんだかんだ言われても山本元帥閣下は稀有な戦略家である事に間違いはないのですよ、惜しい方を亡くしてしまった」
 古相寺には外山少佐が小さく溜め息を吐いたように見えた。
 
「大本営発表如きに惑わされない皆さんは既にご承知と思いますが、戦局はいよいよ大変な坂に差し掛かりました。毎日のように制海圏、制空圏が狭まっております。
 海軍というところは司令長官が連合艦隊旗艦に将旗とともに座乗するのを伝統として来ました。しかし、もはや残る大型艦艇は弩級戦艦武蔵と大和ぐらいです。しかし我らが戦いで航空兵力が戦艦に勝ることを世界に示してしまった以上、制空権がなければ弩級戦艦など張りぼての虎のようなもので、実戦に投入しても沈没させられる確率の方が高いありさまです。
 まあ、いずれは古い体質の大艦巨砲主義者の実戦で使えととの大声に押されてのこのこと繰り出すことになるでしょうが、彼らはその結果は考えてないのです。
 いずれ長官旗は日吉の艦隊司令部に掲げられて海軍軍人として良い恥さらしをすることになりましょう」
 白岩もそれには返す言葉もなかったが、古相寺はつい質問してしまう。

「日吉と言われると、海軍が慶應義塾の校舎に入られたとある方に聞いたのですが?」
「ええ、最初に第一校舎に入ったのは海軍軍令部でして、艦隊司令部は寄宿舎の方に引っ越しました。大きな防空壕も今、工事してるところです」
「その、近くに喫茶店とかお店はあるんでしょうか?」
「ああ、それなら校舎の前にロッジ風の赤屋根のしゃれた食堂があります。私も何度か飯を食べましたよ。洋風料理のうまい店です。この食料事情では外世間の店はたいしたものは出来ませんが、学徒出陣で生徒が減ってたところに海軍が越して来て感謝されてます。それで海軍からも食材を都合してやってるようですな」
「私が行ったらそこで働けますかね?」
「いやあそれは私にはなんとも言えませんな。ああ、するとあなたは連絡係を希望されておるんですね?」
「そうなんです」
「なるほど。しかしながら海軍の客の数は大学生の数より少ないでしょうから女給の就職は厳しいやもしれませんな。一応、聞いてみましょう。海軍の人間から聞かれれば店の者も考えるかもしれません」
「ありがとうございます、私、古相寺と言います」
 すると小柴中尉が字を尋ねて返した。
「こんな可愛い女給さんがいたら客の数が増えますね」
「ほんな言わはったら困ります」
 古相寺は頬を染めながら手を振り、松丸は苦虫を噛んだような顔になった。

 外山少佐はようやく本題に入った。
「白岩さん達は奇特にも、その海軍でひと仕事したいということですな」
「ええ、お願いできますか?」
「日付が先のものについては、現時点での確約はできませんが、一通り揃うと思います、小柴君、説明してくれ」
 小柴中尉はカバンから書類を取り出して読み上げた。
「まずは望月さん、矢吹さん、零式小型水上偵察機に搭乗希望ということでしたが、基礎の飛行訓練はもう出来てるのですね?」
「はい、以前にセスナでシミュレ、いえ瀬砂町の菫の咲く飛行場で練習してました」
「どちらが操縦でどちらが偵察になりますか?」
「私は偵察で、矢吹君が操縦を担当します」
「わかりました」
 小柴中尉が書き込むと矢吹が言った。
「ただ実機を使った習熟訓練をしておきたいのです」
「当然です。ただ訓練機は型が古い九六式小型水上機になる可能性もあります。それと遅くとも12月1日までに零式小型水上偵察機を手配してほしいという事ですが機体自体は何か所かにある筈ですが、必要な時期に指定場所に運んで行けるパイロットが足りてないんです」
「では受け取りに行きますよ」
「わかりました。では11月中旬ぐらいから動けるように待機してください。機体はどこで出るかわからないので」
「了解しました」

「次に松丸さん」
「あ、はい」
「司令部電信室に入りたいとのことでしたが、知識はもう詰め込んであるんですね?」
「ええ、もちろんです。ハムのレジェンドからも手ほどき受けたので大丈夫です」
「ハムノレジェンド?」
 そこで白岩が松丸を小声で叱る。(ハムなんてまだないやろ)
「あの、最新式の無線機のことです、なんでもド、ドイツ製だそうで」
「そうでしたか、研究熱心ですね。なるべく夜間当直になるように勤務を組ませましょう」
 そこで古相寺が質問する。
「なぜ夜間がいいのですか? バレにくい?」
「あ、いや、皆さんは結局潜水艦で仕事されたいのでしょう。潜水艦が通信を行えるのは浮上した時にほぼ限られます。潜水艦は敵に発見されない事が一番の防御ですから、浮上するのは夜間が多いんですよ」
 古相寺は納得した。
「それで電信室は慶應義塾の寄宿舎にあるんですね?」
「あ、電信室は万が一にも爆撃されてはまずいので、えーと少し離れた場所の地下壕になります」
 
「それで白岩さんですが、参謀本部の大佐という役職で、制服一式、それに極秘の印が押された作戦指令書を用意しますが、作戦の内容はどうしますか?」
 白岩は唇を噛んで頷いた。
「それはぎりぎりまで情報を収集してから細部を決めますので出来れば白紙で」
 そうはぐらかすと外山少佐が食いついた。
「わかります。ただ我々としてもおおよそどんな作戦なのか知りたいところですな。明院寺家に手を貸すが中身は全く知らないでは、うちの秘巫女様に報告申し上げる際に納得頂けなくなってはいかんと思いますでな」
 いやその秘巫女様が納得されて話を外山少佐に持って行ってるのだが、それを言うわけにはいかないのが辛いところだ。
「………」
「では目標は戦艦ですか? 空母ですか?」
 白岩は少しは情報を与えてやろうと打ち明けた。
「それは戦艦でも空母でもない。新型兵器を積んだ巡洋艦です」
「巡洋艦ですか、大型艦を一隻で沈めるのは至難の技ですぞ、当然、巡洋艦には駆逐艦が通常2隻以上随伴してますからな。へたすりゃあ魚雷を撃つ前に爆雷で深海に追いやられてしまう」
「そうでしょうな。しかし、わしらの駒はそれ以上望めないでしょう?」
「たしかに。結社が自由に手配して使えるとなると船一隻、飛行機数機というのが限界でしょうな」
「なんとかその手駒でうまい戦術を編み出さねばなりません」
 白岩がそういうと小柴中尉が声を上げた。
「回天は? 回天を一気に繰り出せばあるいはうまくゆくかもしれません」
 回天というのは魚雷に操縦する人間を乗せるという特攻兵器だ。
「回天ですか……」
 白岩はそれはあまり考えてなかった。すると外山少佐が述べた。
「回天は港の中なら、うまく港内に忍び込めれば可能性があるだろう。しかし小さい回天では外洋に出たら波に翻弄される可能性が高いし、さらに潜望鏡すらまともに覗けない。戦果は望み薄だ」
「そういえばずっと前、回天の潜望鏡は短すぎると参謀の誰かが言われてましたね」
 白岩が頷くと外山少佐が述べた。
「そういうことだ。まあ、白岩さんとこの秘巫女様は不甲斐ないわしら海軍に花を持たせようと白岩さんに乾坤一擲の御命令を下してくださったんだな。八咫烏がひとたび動くとなれば、それはその辺の民が動くのと訳が違うからの。天界神界の護法善神集まり来りて必ずや勝利をあげること明らかなり。ありがたいことじゃ」
 外山少佐が拝み出しそうな勢いなので、白岩が切り返す。
「買い被られては困りますな。わが秘巫女様は何もしないのも心苦しいから惜しみないわしらに特攻でもして散って来いということだと受け取りましたがの、ハハハッ」
「いやいや冗談でもなくなりそうです。戦艦も空母もない海軍に残された戦法は特攻ばかりになりそうな気がしますな。そういう事情で、間髪を入れずわしらも明院寺家の皆さんの後を追いますで」
 すると白岩も返す。
「わしらで米英の鼻をあかしてやりましょう」
 外山少佐と白岩はがっちりと握手した。
 それを見ていた古相寺は胸が痛んだ。特攻などという非人間的な作戦をすでに自分の予定に決めている特務員たちに心の中で(そんなのおかしいよ)と叫んでいた。

   ○

 外山少佐が帰って6時になると古相寺は飛鶴の間で壬生野との通信を始めた。

『茜、今日はこの昭和時代の特務員さんが二人来てくれはったよ』

『白岩さん達の身分をごまかしてくれるひとやな?』

 古相寺は座卓の向こうで詰将棋の本を見てる白岩の顔を盗み見て苦笑いしながらコード端末機に文章を打ち込む。

『聞こえが悪いけどそないゆーことや』

『でどないな感じの人やった?』

『一人は外山少佐いいはって白岩さんと同じぐらいの歳やけど、カッコイイの』
『海軍の制服を着てはるせいかもしれんけど敬礼がええんよ』

『ほうか? あん歳をカッコイイ言う美穂は痛いなあ』

『自分かて中年のケネディとかカッコイイ言うやないの?』

『ケネディさんは別格やもん比べたらあかんよ、人類ん中で一番ええんよ』

『ふふふ、茜の好みじゃ話にならんわ』

『もう一人は?』

『そっちは小柴中尉いうて、二十代半ばすぎかな』

『そっちはカッコよくないんの?』

『そうやね、普通や』

『ふーん、普通か。ほな松丸さんと比べてどうやの?』

『なんで比べなきゃあきまへん?』

『やっ、何やら松丸さんを守りたい雰囲気に聞こえるよ?』

『そんなことないって。男しに興味ないもん』

『ふうん、そういうことにしといてあげるわ。で、いつから日吉に行くん?』

『明日の昼に出発や。タイムダイバー隊員の準備が揃うから』

『ほうか。松丸さんは同じ方向やから同じ汽車やな』

『そうやけど。それより白岩さんや望月さんや矢吹さんとはお別れや』

『うん、そうやな』

『もしかしたら戦死なさって、もう会えへんかもしれへん。怖いわ』

『会える可能性もあるやろ』

『たいがい言わんといて。会えへん可能性の方が大きいんやで』

『うん……』

『うち、どないしたらええんや? うちに出来ることはあるん?』

『そないやな、無事に帰ると信じてあげることやろな』

『うん、それはわかる。でももっと形んあること出来んかいなと思っとるんや』

『うん、ほなら無事で帰るよう願いを込めてお守りをこしらえるちゅうは?』

『巫女としてはありきたりやけど、それがええかな』

『うん。それが一番や』

『さすが茜や』

『うちも旭子様と一緒に無事を祈ってるからな』

『うん。おおきに』
『話は変わるけどこん前の潜水艦を見つけるいい方法はあったん?』

『うーん、そっちはまだ。もうちょっと探してみるわ』

『ほうか、期待しとるし。茜、また明日な、ごきげんよう』

『うん、ごきげんよう』

 
   ○

 晩の御膳が食堂の女給さんと酸漿さんによって座卓に並べられた。
「板長さんが今晩は松茸が手に入りましたで味わってください言うてはりました」
「おお、土瓶蒸しかいな、贅沢なご馳走やなあ」
「はあ、松茸がそないに贅沢ですか?」
 昭和時代にはそれほど贅沢品でもなかったかと思い直して白岩は聞いてみる。
「酸漿さんの分もあるんかい?」
「ええ、松茸はぎょうさん採れはりましたで後でいただきます」
「それはよかった」

「お魚は子持ち鮎、ご飯は栗ご飯になってますので」
「このご時勢にありがたいこっちゃ」
 男四人はうまいうまいと言いながら食べていたが、昨日まで食事時によく使われていた単語を今日は誰も口にしない事に古相寺は気付いた。そう、昨日までは『最後の晩餐やから』と笑いながら言ってたのが、今日は本当に最後なので皆揃って避けているのだ。命知らずの特務員が縁起を担いで避けるなんて、そう思うともう喉を通らなくなった。

「皆さん、今日は上がりますので。おやすみなさい」
 古相寺が座を立つと白岩が声をかける。
「おやすみ、てか、まだ栗ご飯残ってるやないかもったいない、よし一番若い松丸食え」
「えっ、いいんすか?」
 そういう今まで松丸にきつく当たってた風当りの変化も胸に染み入るようで、古相寺は急いで部屋を出た。

 お守りを作るための材料をと思ったが、コンビニが夜も開いてる時代でもないし内部で調達するしかない。ところが、公子さん以外の巫女達は本当の事情を知らないので古相寺を他家の者として分け隔てて扱うところがあるのだ。
 古相寺はまず酸漿さんに聞くために事務室を訪れた。

「酸漿さん、まだいはりますか?」
「ああ、古相寺さん、食事は済みはったん?」
「はい、ごちそうさまでした。今までありがとうございました」
「気にせんといて。秘巫女様が『あれは八咫烏の決死隊ゆえ余分に金をつこうてでも充分もてなしてやれよ』と仰せでな」
「はい、隊の皆が感激してたと酸漿さんからも公子様にお礼を申し上げて下さい」
「承りましたで、いよいよ明日は出発やな」
「はい。それでうちの隊員にお守りを作りたいのですが余った布などありませんか?」
「ああ、ハギレやな、ならそこそこあるかもしれへん。おいで」

 酸漿は事務室の壁際の戸棚から行李を持ち出して、机の上で開けた。
「うわー、ぎょうさんありますねえ」
「持つのが男しなら赤い柄より渋めのこの濃緑やら、この群青やらがええかもな」
「そのふたつがええです」
 古相寺は濃緑と群青の布地を受け取ると机に向かった。
「サイズはどれぐらいがええですか?」
「古相寺さん、サイズなんて敵性語をうっかりお使いおすな」
「なんですか?」
「ほら、鬼畜米英の言葉は軽佻浮薄けいちょうふはくだから日本語を使えちゅうことです」
 古相寺は(戦争中にそんなアホくさい細かいことしてはったんや)と驚きながら慌てて知ったかぶりをする。
「そ、それは知ってます、サイズのサイは年齢の才と同じかと思うてたので」
「ああ、なるほどな、どれ、一枚はうちがしよるきに」

 酸漿と手分けして古相寺は布地にとりかかる。
「縦の寸法は袋縫いにするからお守りの寸法の倍にしいや、横は両端に縫い代を足してやから、縦は五寸、横は一寸五分ぐらいでどないやろ?」
「わかりました」
 寸法通りに布地を裁断すると今度は袋縫いに移るが、古相寺は針に糸を通すところでだいぶ時間がかかり、ようやく縫い始めてふと見遣ると酸漿はもう最初のひとつを完成させている。そしてふたつめも驚くような速さで縫い進めてゆく。
「酸漿さん、速いですねえ」
「速いか遅いかは単純な繰り返しが好きか苦手かの差や。
 どれ貸してみなさい、中身はあんたに任せるきな」
「ありがとうございます。あの弾除けのお守りってありますか?」
「弾除けはさすがに聞かんけど、千人針にサムハラを書くのは流行ってはるわ」
「サムハラですか?」
 今でこそサムハラ神社は有名だが、最初のサムハラ神社は昭和10年に岡山に創建したが無許可のため特高に睨まれ翌年に撤去していた。
「ほら、加藤清正が刀に彫ってて無事だったとか、日露戦争の激戦地の二〇三高地でサムハラの字をつけてた人が生き残ったとかで、弾除けと意味は同じよね」
「それええです! どない字を書くんですか?」
「たしかどこかに書いておいたわ」
 酸漿は立ち上がって机の上を探して書類入れから紙を持って来た。
 古相寺はそれをお守りの表に書こうと決めた。

 酸漿は古相寺の手がけてた布地を瞬く間に縫い上げた。
 合計五枚のお守り袋を受け取ると古相寺は涙目になって感謝した。
「酸漿様、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません」
「たかがお守り袋で一生思い出されてはこそばゆいので忘れてええわ」
「だって私が一人で作ってたら真夜中までかかったかも」
「それより中身はどうしはるつもり?」
「丑の刻が良いとされてるので明日の二時半から三時すぎに書きます。ついては礼拝所にその時刻に入ることは出来ますか?」
「それでは警備に頼んでおきますから、そこで鍵を受け取って入りなさい」
「はい、ありがとうございます」

   ○

 午前二時にスマホのアラームが鳴ると古相寺は飛び起きた。なにしろタイムダイバー隊の仲間たちに気合を込めてお守りを作るのだから、いつものようにしばらく寝ぼけているなんて暇はないのだ。古相寺は素早く口をゆすぎ顔を洗って警備室に向かった。

 ドアをノックしようとすると内側から開いて警備の特務員が顔を見せ笑った。
「やっぱり、この前のタライの娘だな」
「その節はどうもお手間をかけまして。礼拝室の鍵をお借りします」
「秘巫女様は毎朝4時には来られるから、その前に終えて戸締りしてすぐ鍵を返してくれよ」
 そう言われて鍵を受け取り古相寺は地下6階の礼拝室に入った。
 巫女の控室に入ると予備のものらしい巫女服を見つけ袖を通して水引で髪をしぼると心持ちも一気に引き締まる。

 巫女の作業机の引き出しからお守りの表紙、中板、中紙も見つかった。
 続いてお守りの中紙に書く霊符の手本も各種6枚ずつ出て来た。
 あとは先細の筆ペンだ。お守りの中紙は普通の霊符の用紙よりふた回りも小さい。力が入りすぎてボテッと筆先を広げてしまう癖のある古相寺には普通の太さの筆先で細かい字を書くなんて無理なのだ。
 古相寺は全ての引き出しや筆ペンを探してみたがどこにも見つからない。
 そしてやっと古相寺は気付いた、この昭和時代に細い筆ペンなんて実用発明品はまだ出来ていないのだ。
 絶対絶命のピンチ。しばらく自分の頭を叩いていた古相寺だが、ふとひらめいてその方法を実行することにした。
 
 古相寺は礼拝の所作をして祈祷の座所に入った。
 二回拝して焼香し、手を胸に当てて勧請文を唱え、加持を行い、柏手を打っていくつかの神咒を誦し、瞑目して、一気に用意していた符の手本をなぞり相手の名を記す、さらに表紙にサムハラの神字を記す。
 こうして自分も含めた隊員五名分の中紙と表紙が出来ると祓い詞を唱えて願文を奏上し入魂した。
 そして古相寺は送神文を三度唱えて二礼して退座した。時刻はまだ三時半だ。

 お盆に中紙表紙を載せて巫女の控室に入るとなんとそこには秘巫女の公子が座ってお守り袋を触っていた。
「あっ、公子様、お早いんですね」
「そなたも早起きして隊員にお守りを作ってたらしいのう」
「はい、良いものが出来たと思います」
「どれどれ、見せなさい」 
 まず公子はサムハラの表書きに目を止めた。
「当節はこれを千人針に書くのが流行りらしいのう。そなたも目ざといわ」
「酸漿さんが教えてくれはって」

 次に公子の目は中紙の符に釘付けになった。
「おや、この霊符、古いやないか? どうや?」
 古相寺の心臓が罪の寒さに震え出した。
「そ、それはその……」
「この字は古いし紙も色褪せとるん? はっきり答えい!」
「あの、うち不器用で紙が小さいと符を書けないので、仕方なくお手本を使いました」
 古相寺の言い訳に温厚な公子がキレた。
「何事かあ! それでも桜受の巫女かー」
 公子の怒声に古相寺は床に突っ伏した。
「申し訳ございません」
「米粒に経文を書く者もおるに小さくて書けん?
 手本をそのまま使うなど、ごまかすにもほどがある」
 古相寺は額を床に擦りつけて謝る。
「申し訳ございません、申し訳ございません」
「ちゃんと心を込めて手書きせんかー」
「申し訳ございません」
 古相寺は額を床に付けたまま息を止めた。

 公子は持っていた扇をピシッと閉じると深呼吸して言う。
「本来ならばタライの罰を与えて、後日、佳き日の丑の刻に作り直させるべきだが、残念ながらそなたは本日出立せねばならぬ。
 次善の策として今すぐ作り直しなさい。日の出前ならよしとする流派もあるでな」
「あの、私の手では細かい符は無理かもしれませんが……」
「そなたはきれいに書こうとしておるが、符は清き心が書くもので多少線が太くなる程度は構わぬのじゃ」
 
 再び、古相寺は礼拝の所作をして祈祷の座所に入った。
 二回拝して焼香し、手を胸に当てて勧請文を唱え、加持を行い、柏手を打って……と同じ手順を繰り返し、今度は赤口の朱墨と青墨のふたつの硯を用意して、瞑目すると金光が舞い降りるのを観じて符を描いてゆく。
 よい、それでよいぞ。
 誰かの声が響いたように思うが気をそらすこともなく符の線を伸ばしてゆく。
 五人の符が出来上がり、祓い詞を唱えて願文を奏上し入魂まで終えると古相寺は感激で涙を流した。
 神がすぐそばにいて自分を導いてくれたようにと感じたからだ。

 控室にさがると、公子が微笑んで頷いた。
「出来たか?」
「はい、おかげ様で出来ました。少し線が太くなったところはありますが私にしたら上出来だと思います」
「うむ、袋に入れて完成させなさい」
 古相寺は中板、中紙をお守り袋に詰めて守り結びで閉じる。そして表にサムハラ神字の紙を貼ってお守りを完成させたのだった。

 

第9章 別れの時

 お守りを完成させた古相寺が自分の孔雀の間に戻ると午前5時すぎだった。
いつもなら5時にはすっきり目覚めているのだが、今日は2時起きしたためのだるさが辛くてつい二度寝してしまい、小一時間ほどたった6時半にまたスマホのアラームで飛び起きた。
どうやら隣の飛鶴の間も起き出してぼんやりと話し声が響く。
布団をきれいに畳んで事務服に着替えた古相寺は朝食もそこそこに、地下6階の秘巫女公子の執務室を訪れた。

「公子様、先ほどはご指導ありがとうございました」
古相寺が少しおどおどしながら挨拶すると、公子は微笑んだ。
「うむ。良いものが出来てよかったのう」
「はい。これでちゃんとしたお守りを渡せます」
「出立は午後か?」
「はい」
「そなたは海軍省に近いところに移り連絡係をするということであったな」
「はい」
古相寺の予定としては古相寺は海軍司令部通信課の松丸と連絡を取りつつ、表の天皇裕仁様に会い一刻も早い降伏の決断を促すという考えただけでも眩暈がして尻込みしてしまう大役がある。
そのための工作資金と生活資金にあてるようにと秘巫女旭子から純金の500グラムのインゴットを3枚預かっていた。古相寺はその1枚を差し出して言った。
「それで資金にあてるよう旭子様から預かって来た純金がこれなのです。これを換金していただけないでしょうか?」
公子は扇で純金のインゴットを触るようにして頷いた。

「そうか、そうだな。未来の金は使えん。活動資金もいるし、特務員たちも当節のこづかい銭を持っておらんだろうから羽目も外せまい。よし待っておれ」
公子がわざと大きな音を立て柏手を打つと控室から巫女が飛んできた。
「公子様、ご用ですか?」
「現金十円札で五百円の束をな、六つ七つ、いや十。持って参れ」
巫女はまた飛ぶように引き返してゆく。

「助かります。外世間ではどこで換金したらよいか見当が付きませんから。というか、いくらになるとか、そもそもこの時代の物価もわかりませんし」
「そなたでは鴨葱にされて使えもしない軍票の束を渡されて泣き寝入りかもしれんな」
公子がからかうと古相寺は声を上げた。
「そんなあ」
「特に純金となると目の色が明らかに変わる輩がいるからのう。だからこそ相手によっては工作に使えるのじゃ。さらにこの戦時下ゆえ紙幣より純金の方が人気が高いから、使いようがあるぞ」

 そこへ巫女がお盆に札束を載せて戻って来た。ひと束五百円は十円札が50枚だから、今の百万円束の半分ぐらいの厚みだ。しかし古相寺の興味は別のところだ。
「この肖像は誰ですか?」
「和気清麻呂じゃ」
「どんな事をされた方ですか?」
「道鏡の野望による神託工作を退け、平安京の造営工事を進めた方じゃ。それから千年以上経って正一位護王大明神の神階神号を授けられ、護王神社に祀られた」
「なるほど」
「そなたの時代は違うのだな?」
「ええ、福沢諭吉が一番高額の一万円札です」
「ほおー。あの諭吉がか、ずいぶん出世したな。それにしても一万円とはインフレが進んでおるのか?」
「インフレという声は聞かないです」
「まあよい。これを一人にひと束ずつ配ってやりなさい。そなたもだぞ。余りは引っ越しやら活動資金にあてるがよい」
「ありがとうございます。ではこの純金どうぞお納めください」
古相寺は純金のインゴットをさらに押し出した。
しかし、公子は受け取らずに扇で押し返す。

「今、申した事を忘れたか? 紙幣より純金の方が使いようがある。それは表の天子様に会う工作のために持っておるがよい」
古相寺はびっくりした。いくらなんでもそれは虫がよすぎるのではないか。
「それでは困ります。旭子様にも叱られます。お納めください」
すると公子は扇を少し開いてピシッと音を立てた。毎度のことながら古相寺はビクリとしてしまう。
「吾は桜受家の当主じゃぞ。吾が命を捨てて働いてくれはる桜受家の部下に給金を出すのは当たり前の話ではないか。札は隊員に配り余りは活動資金にせよ。純金は表の天子様への伝手を買う対価とするのじゃ。わかったな、古相寺」
古相寺は感激で涙を浮かべた。
「公子様、私たちのことをそれほどまで……」
「さあわかったら、全部持ってさがれ」
古相寺は「ありがとうございます」と感謝してさがった。

   ○

「ちょっと、白岩さん」
古相寺は飛鶴の間に首だけ入れて白岩を廊下に呼び出した。
「なんや古相寺、こっそり呼び出すとはわしに惚れたか?」
白岩がふざけて言うのをぴしゃりと返す。
「それは絶対ないっです、それより公子様が私たちにお給金を下さいましたので、皆さんにお配りください」
「ずっと御馳走になった上にそこまでしてもらってええんか?」
「私も遠慮申し上げたんですが押し返されて。公子様は時代は違っても桜受家の秘巫女様ですから、公子様のお申し出は私たちには絶対です、それとも突き返しますか?」
「あほこけ、突き返すのはあかんやろ」
「ということです。ここはインチキ大佐殿から隊員にお給金をお配りください」
「インチキは余計や。で、なんぼや」
「一人五百円です」
「なんか喜んでええんか、子供やないぞと怒った方がええんか、わからん金額だな」
「巫女に聞いたところ巡査の初任給が41円だそうです」

 白岩が思わず「なんだと」と声を上げた。
「つまり、新米巡査の一年分やないか、えらいごつい給金やぞ」
「ええ、よかったですね。一度きりと思いますが」
「充分や。たらふく酒が飲めるぞ、ええとこで酌してもらって後はしっぽりや」
「任務に差し障りがない範囲でお願いしますよ」
「生き返った。俺は生き返ったで」
「今まで死んではったんですか?」
古相寺のツッコミに「正解や、半分死んでた」と答えて札束をふんだくると白岩は部屋の中に入って演説をぶった。
「諸君、諸君の滞在中の絶え間ざる研鑽の姿勢に感激して当代の秘巫女様が給金をくださるそうだ」

「俺たち、研鑽したかな」
矢吹がつぶやくと望月が言う。
「俺は毎日拳銃を磨いてたから研鑽のうちだな」
すると松丸が言う。
「僕は卓球で白岩さんを完封するために王子サーブを研鑽してましたが、まさか給金を頂けるとは」
白岩が「お前だけなしや」と笑う。
望月が訊ねる。
「で、なんぼ貰えるんや?」
「聞いて驚くな、なんと五百円や!」
白岩の嬉しそうな声に松丸が一気にしょげる。
「まさかのワンコインすか」
「松丸、あほやな。物価の価値が全然違うんやぞ。当代五百円いうたら新米巡査の1年分の給料やで」
松丸の声が裏返った。
「えっ、そんなに!」

 白岩は一人ひとりの手に帯封の五百円を手渡した。
「皆、好きに使うてくれ」
望月が封を破って紙幣をしげしげと見ながら言う。
「80年前でも新札とはこれいかに。問題はこの戦時下、この金を使える店がほとんどないだろうちゅうことだ」
すると白岩が言う。
「心配すな。軍隊のおる町には必ずええ酒とええ女のいてる店はあるもんや」
「そっち方面しか必要ない奴はそれでええけどな」

 どさくさに紛れて古相寺も愚痴を言ってみる。
「そうですよ、マッケンドーサーできないなんてひどい時代ですよ」
「マッケンドーサー? なんやそれ」
「私は外出許可が貰えるとマクドにケンタにミスドにサーティワンをはしごするんです」
「美食とは真逆の食い気やな」
男たちが笑う中、松丸が「女の子らしくていいじゃないですか」とかばった。

 古相寺は男たちの雑談から抜けると部屋の隅でコード端末機を起動させた。もう壬生野と定時交信する時間なのだ。

『茜、おはよー』

『美穂、おはよ。いよいよ今日は出発やね』

『うん、茜が言うとったお守りを作りよったんやけど、お守りの符の紙が小さすぎや』
『うち細かい字は細字の筆ペンが頼りやん、それこの時代ないし卒倒した』

『で、どないしたん?』

『で、ずるして手本をそのまま使うたら、公子様に見つかってえらい叱られた』

『そりゃ叱られるわ。で作り直したん?』

『うん。そしたらなんとか手書きで出来て、神さんに助けてもろうた気がしたわ』

『えらいで、苦手を克服しはったな』

『それからな旭子様から預かった純金を君子様に換金してもらおうとしたんよ』

『うん』

『そしたらな公子様が純金は表の天子様に会う工作にとっとけて言いはって』
『五百円の束で十個、現金をうちらに下さったんよ』

『公子さん、太っ腹やな。そやけど物価がピンと来ーひんわ』

『皆、そない言うとる』

『待って、今、あひっとるでな、よし、昭和19年やと500倍から700倍やわ』

『てことは?』

『そっちの五百円は現代の25万円から35万円ぐらい』

『そないなんね、こっちの巫女さんが警官の初任給41円言うとって』
『白岩さんが巡査の給料1年分やなとか言うとった』

『ありがたいことやね。うちらが桜受家ちゅう証拠はないのにな』

『うん。旭子様は手紙や印刷物じゃインチキ臭いいうて何も持たさずに来たから』
『でも公子さんはうちの頭の映像を透視されて全てわかってくれはった』

『さすがは桜受家の秘巫女様やな』

『うん。ところで茜、例の潜水艦を見つけるうまい方法は見つかったん?』

『それな、まだというか、ちょっと面白い記事は見つけたけども』
『もうちょっと実際に可能か検討させてくれるかな?』

『おっ、なんかありそうなんやね?』

『まだ出来るいうて出来んとげんなりさせるし、もう少し検討させて』

『わかった、楽しみにしとるきに』

   ○

 午前11時に外山少佐と小柴中尉が、大きな包みを抱えた若者を従えてやって来た。

「白岩さん、お待たせしました。制服と書類をお持ちしました」

 軍服は海軍の場合、第一種軍装と呼ばれる紺色の冬用ジャケット、第2種軍装と呼ばれる白色の夏用ジャケット、そして第3種軍装と呼ばれる開襟平襟背広型の略衣に分かれていたが、冬に向かう今、用意されたのは紺色の第1種軍装だ。これは大佐になりすます白岩だけでなく、偵察機要員の望月と矢吹、通信要員の松丸も同じ紺色の制服で、いわば着任などの挨拶用だ。実際の仕事ではそれぞれあった制服に着替えることになる。
白岩はじめ、男たちはズボンを脱ぎ出し、古相寺は慌てて廊下に避難した。

 2日目に採寸があってから結社の仕立て屋が大急ぎであつらえてくれたに違いない。ズボンの胴回りも股下も、背広の胴回りも腕回りも袖の長さもぴったりでなおかつ動きやすさもあり文句のつけどころがない仕上がりだ。
「いやはや、こんなにぴったりだと気持ちええですな」
「ええ、見た目も清々しいですな」
「物資窮乏の折、公子様にはご負担をかけましたな、ありがとうございます」
「同じ八咫烏結社ですから当然のことと仰せでした」

「南方に行かれる場合は暑いですから、南方向きの第3種軍装も用意しておきました」
「これはありがたい。何から何までお世話になりっ放しで恐れ入ります」
「皆さん、合ったようですな。帽子を被ってください」
外山少佐が言って全員が帽子を着用するとそれもぴったりだった。
「小柴、お嬢ちゃんを呼んで来てくれ」

 小柴中尉に連れてこられた古相寺が飛鶴の間に入るとは男たちは衣ずれの音まで揃って一斉に敬礼した。

 古相寺はそれを見て声を上げた。
「おおー、見違えました!」

 すると白岩が返す。
「わしは本番に強い言うたろ、大佐にしか見えんやろ?」
「まあまあですね。お爺ちゃんお婆ちゃんが喜ぶ『孫にも衣装』ですか?」
「古相寺、お前、馬子って漢字も知らねえのか?」
白岩が呆れると、古相寺は余裕で返した。
「残念でした、知ってます。こう見えても漢字検定2級ですからね。
でも本当に皆さん素敵に似合ってはりますよ」
紺の制服を着て見違えるように凛々しくなった男たちにしばし古相寺は見とれた。

 外山少佐が白岩に言う。
「それでは白岩大佐殿におかれては呉の先、大竹にある潜水学校に出頭して下さい。急に潜水艦艦長に配置替えになるのだが潜水艦の実戦経験が少ないので実習に参加するという名目です。それで大丈夫ですかね?」
「昔、見学させてもろうたから、潜水艦操艦のイロハぐらいはわかります」
白岩はそう答えたが、昔というのはタイムダイバー隊に決まってからで、白岩が体験入隊したのは現代の海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦である。もちろん潜水原理や構造的には大きな違いはないが、機器の性能が劣っていたり、操作や、かかる作業手間、所要時間が大いに違うだろう。どんな緊急場面でも迅速に指示出来るようにその点を頭に叩き込んでおかなくてはならない。
外山少佐はさらに書類と書類入れを手渡す。
「それからこれが白岩さんへの命令書。こちらが伊号潜水艦で見せる参謀本部による極秘作戦命令書です。内容詳細は空欄にしてありますから書き入れてください」
「ありがとうございます」

 外山少佐は次の書類を小柴中尉から受け取って望月と矢吹に差し出す。
「望月大尉と矢吹少尉への訓練の命令書です。水上偵察機の訓練を特別に行う手筈を整えましたので岩国航空隊に出頭してください。現地では予科練生用の燃料確保が難しいため予科練生の訓練はもうやめておるのですが、今回は別の機体からの再訓練ということで無理やりにやらせます」
「ありがとうございます」
「前に言ってたように飛行機は少し旧式の九六式小型水上機になりますが」
「全くかまいません。これで技術を磨いて実戦に臨めます」
「それは頼もしい限りですな」

「そして松丸一等兵曹、艦隊司令部電信課への辞令です」
外山少佐が書面を差し出すと松丸はお辞儀の敬礼をして受け取った。
「謹んで頂きます」
「地下壕がまだ工事中で通信課の場所についてはまた移動するかもしれません。艦隊司令部でよく聞いてください」
「はっ、了解しまました」

「これで皆さん、立派なというと語弊がありますが、事情を知らぬ者から見たら立派な海軍士官です。どうぞ八咫烏の名を大事にしつつ、海軍の名もそこそこ汚さぬよう行動してください」
外山少佐が訓示らしきものをすると、白岩大佐が号令をかける。
「外山少佐殿、小柴中尉殿に礼」
タイムダイバー隊四人の男の敬礼を受けて、外山少佐、小柴中尉は答礼して部屋を出て行った。

   ○

 秘巫女公子に宝物庫の出入り口で見送られて桜受家の地下要塞を出発したタイムダイバー隊一行は京都駅に着いた。
明治10年にこじんまりしたレンガ造りで完成した京都駅は、大正3年に大きな塔を取り込んだルネサンス風の木造駅舎に改築されて、現代の雰囲気とはまるで違う。もちろん北側にどんくさいロウソクみたいなタワーなどない。
ホームはそこそこの客がおり、買い出しのためか大きなリュックや風呂敷を持った者が目立つ。
ここで白岩、望月、矢吹たちは広島の大竹と岩国方面に向かい、松丸と古相寺は横浜日吉方面に向かうのでお別れである。

 望月がからかう。
「古相寺はなんで事務服なんや。また桜受に帰るんか?」
「違いますよ。やはりこの時代に来てみるとスポーツウエアではさすがに浮くので酸漿さんに相談したら下さったんです。こういう地味な服の方が就活に向きそうですし」
白岩が笑いながら言う。
「今やから教えるがな、古相寺が最初、一人で桜受家に乗り込んだ後な、皆であれはきっとタライやられへんでと笑っとったわ」
男たちが笑う中、松丸一人が「僕だけは笑ってませんよ」と言い訳する。
「ひどい、わかってて助けに来いひんかったんですか?」
「細かいこと言うな。行かなくても助かったやないか」
「ほんまもう、えげつないんやから」

 古相寺は自棄みたいになってウェストポーチからお守りを取り出した。
「そない鬼のような皆さんにも神様の加護があるようにお守りを作りました。一人ずつ手を出して下さい」
白岩が最初に手を出すと古相寺はパンと叩いてからその上にお守りを乗せる。
「おおきに、最初に出してくれとったら悪口は控えたったのに」
古相寺はあっかんべーしてやる。
次に望月が「ありがとうよ」と続く。
そして矢吹が「どうもな」と続き、最後に松丸が手を握りそうな勢いで「自分のためにわざわざありがとう」と言いながら貰った。

 いよいよ列車の時刻が近づいて来た。
矢吹が溜め息とともに言う。
「今日からあの夢のような御馳走ともお別れか」
白岩が唸る。
「ううむ、毎日ごっつい御馳走やったのう」
古相寺も相槌を打つ。
「私もです。毎日すいとんだと覚悟してきたのに、こんなに美味しいものがこの世にあるのかという御馳走が日替わりで食べられて」
望月が笑って言った。
「これで思い残すことなく死ねるな」

 すると古相寺が突然、猛然と怒鳴った。
「そういう言い方はやめて下さい。死ぬのは仕方ないみたいな言い方」

 何事かとホームの他の客が視線を集める中、望月が冷ややかに言う。
「そういう古相寺も最初の顔合わせの時、生きて帰る確率はないみたいに言うたぞ」

 古相寺の口調は負けてない。
「あれはただの機械の予想です。途中でダメになりそうになってもあきらめて特攻とかせんといて下さい。絶対にあきらめんと命令をやり遂げて、生きて皆で帰るんです。
皆は桜受の特務……じゃない」
古相寺は外世間で禁句の特務員と呼びそうになって慌てて言い換える。
「ほれ王家に仕える身なんですから、やり遂げて生きて帰るんです」

 言いながら古相寺の目から堰を切ったように涙が溢れる。
さほど長くない期間でも、いろいろと話もし、口喧嘩もした仲ではあったが、秘巫女の命令一下、安全かどうかも確証のないタイムマシンでこの暗雲渦巻く時代に飛び込んで来た仲間なのだ。だが、この時を最後に二度と会えぬかもしれん。いや、そんな筈はない、うちの今まで聞いた中では特務員ちゅう人らは不死身や。戦争なんかで死ぬ筈ない……。

「そんなん跳ね除けて『皆で生きて帰るんや』て、皆で言うて下さい」

 涙が古相寺の頬を流れ、顎から、大粒が落ちる。

「皆で言うて下さい。お願いします、『皆で生きて帰るんや』って言うてください」

「ちっ」
白岩が鼻水をひとつ啜って言う。
「泣き虫のおなごがうっさいからの、ここは声揃えて言うたるでえ、ひぃー、ふぅー、みぃっ」

『皆で生きて帰るんや』

 戦時下のホームで、海軍士官達がそう声を揃えた事は、実に奇妙な光景であった。

 

第10章 司令部通信室と赤屋根食堂

 横浜で列車を降りた古相寺と松丸は東急の電車で日吉に向かった。
 京都から横浜までは乗客が多くて落ち着いて話もできなかったが、ようやく二人でゆったりシートに並んで座れた。
「古相寺さん、疲れましたね」
「私は名古屋で座れましたからそれほどでもないです。松丸さんはずっと立ってたから大変でしたね」
「まあ仕方ないですよ。それよりお守りありがとうございました」
「実は公子さんに叱られながら作ったので完璧に出来たと思います」
 松丸は軍服の胸ポケットからお守りを取り出して眺めた。

サムハラ

「この漢字はなんと読むんですか?」
「それ、漢字じゃなくて神の字、神字いうらしいんです」
「そうですか」
「サムハラと読むんです。酸漿さんに教えてもらったんですけど」
「サムハラですか、一番目と三番目は同じ字をサとハに読み分けるてことですね」
「そうなりますね。古くは加藤清正が刀に彫って無傷だったとか、日露戦争の二〇三高地でそれを身に着けてた方が無事だったとか。
 だからこの時代、兵隊さんの千人針に書くのが大流行りだそうです」
「なるほど。じゃあ僕もこれを持ってれば空襲でも平気ですね」

 古相寺は壬生野から日吉での空襲の件について聞いて知っていた。日吉も空襲に遭っており西口側の小学校は焼かれたのだが、慶応の立派な鉄筋コンクリート校舎は占領後に使おうと決められていために爆撃しなかったのだ。だが、そんな話を不特定の耳があるこの車内で話すわけにはいかない。
 古相寺は「そういうことにしときましょう」と済ませた。

 やがて電車は日吉に到着した。
「わあ、かわいい町並みやわ」
 古相寺が思わず声を上げた。
 ホームから見ると西口側は田園調布のミニ版みたいに放射線状に住宅が建っている。ただ密集ではなく売れ残りの区画もあるようで空地もある。
 そして慶應義塾の校舎がある東口側へと目をやるとそこはなだらかな丘に向けて無駄に広い土地があり、コンクリートの校舎が見える。
「こっちは校舎以外何もないですよ。商店街ぐらいあるのかと思ってたのに」
「あっ、赤い屋根見えた」
 校舎の手前にある建物の裏側の赤い屋根の一部分が見えている。
「ああ、外山少佐がちらと言ってましたね」
「どうか就職できますように」
 古相寺は立ち止まって拝んだ。

 東口から出ると正門があり、そこには海軍の衛兵が立っている。すぐ後ろに詰所があってそ机に向かっている者も立ち上がった。
 松丸が海軍士官の第1種軍装を着ているから最大限の敬意でもって敬礼で迎えられたようだ。
「身分証を拝見させて下さい」
 松丸が辞令書を見せると警備兵はいよいよ慇懃な敬礼を寄越した。
「失礼いたしました。お連れの方はお知り合いですか?」
「こちらの女性はあそこの食堂の関係者だからご存知でしょう。今日は身分証が要るんですか?」
 松丸はさすが特務員だけあってしゃあしゃあとはったりを効かす。そう言われたらあれと疑問に思いつつも今日もフリーで通さなくてはいけない気がしてくるだろう。
「いえ、結構であります、お通りください」

 植えてまだ年数が経ってない若い銀杏並木の広い道を二人は歩いた。
 松丸はここぞと古相寺の顔を覗きながら話しかける。
「真ん前のコンクリートが海軍軍令部、艦隊司令部は右奥の寄宿舎のようです」
 だが古相寺は赤い屋根の食堂のことで頭がいっぱいで聞いてなかった。
 松丸はわずかに唇を尖らせたが、古相寺は視線をあげてない。

「古相寺さん」
 呼ばれて古相寺はようやく立ち止まって松丸を振り向いた。
「はい?」
 風が何事もないかのように吹き抜けてゆく。それを松丸は急いでつかもうと心の中で手を伸ばす。
 そこで松丸は吸い貯めた息を急に一気にぶつけるように言い放つ。
「古相寺さん、現代に帰ったら僕と付き合うてください」
「えっ?」
 古相寺はもう一度言葉を確かめたくて松丸の目を初めてしっかり凝視した。
「僕は古相寺さんを好いています。是非、僕と付き合ってほしいのです」
 松丸の告白だとわかると古相寺は頬を赤く染めて動揺し口走る。
「私は巫女ですよ。結社の巫女は結婚出来ない掟なんです、だからそれを期待させる恋愛も出来ないんです」
 しかし同じ結社の松丸には掟の実態はばれている。
「それはあるとしても表向きだけでしょう。さすがに秘巫女様になれば巫女頭でいるうちは結婚出来ないでしょうけど。その他の巫女さんには結婚してる方も何人かいるのは知ってます」
「そ、それは……」
「今すぐにどうこうでなく、現代に帰ったら少しずつ考えて貰えばいいです。それから返事をください」
 古相寺は困りながらも、現代に戻ってから断ってもいいんだと考えると気楽になって答えた。
「わかりました、戻ってから考えます」
 松丸は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、古相寺さんがどういう結論でも受け入れます」
 なだらかな道はそこで突き当りだ。
「では古相寺さん、ここでいったんお別れです。もちろん僕は赤い屋根の食堂に通うようになるのでそこで会いましょう」
「ええ、定時連絡もありますから」
 校舎の前で別れて、松丸は艦隊司令部の入る寄宿舎に向かい、古相寺は校舎の向かいにある赤い屋根の食堂を目指した。

   ○

 寄宿舎は校舎に比べると小ぶりな三階建ての建物が北棟、中棟、南棟と並び建ってる。
 松丸が衛兵に敬礼して、「通信課はどこですか?」と尋ねた。
 普通なら下士官は「どこか?」と頭ごなしに聞くものだが、松丸は人間は天子様以外は横一線で平等だと思ってるから普通になるのだ。
 すると丸眼鏡をかけた衛兵は松丸に敬礼してから教えてくれる。
「通信司令は隣の中棟の1階におられます」
 松丸は「ありがとう」と礼を言った。

 指示された中舎1階にある通信司令のドアをノックして大声で申告する。
「艦隊司令部通信課に配属されました松丸達弥一等兵曹であります」
 中から「入れ」と声がかかり入ってみるとそれほど広くない部屋の中に第1種軍装の二人の男がいた。
 大きな机で腕を組んでいる一人は階級章から中佐とわかり、何かの書類を見せていたもう一人はその副官らしい、振り返った階級章から中尉である。
 松丸は敬礼して辞令書面を中尉に差し出す。

「ほお、松丸君は関東海軍航空隊から来てくれたか」
 もちろん松丸は情報でしか知らないが、関東海軍航空隊は乙航空隊と呼ばれる隊のひとつで、実戦機を持たない裏方部隊であり基地防衛と実戦部隊の転戦輸送支援などが仕事である。
 中佐が書面に目を通して松丸を見詰めた。
「よかろう。うちもまだ移転して間もないが君に期待してる。部隊は対爆撃防御の観点から地下にある、島埜中尉が案内する」
 島埜中尉は立ち上がると制帽を被り、松丸といったん野外に出た。

「貴様、出身はどこだ?」
 松丸は映画で聞いた言葉遣いが本物だと知って驚いた。
「は、自分は京都府であります」
「うむ、有名な寺社の近くか?」
「いえ、少し離れてます」
「そうか、俺は隣の奈良だよ」
 松丸は「よろしくお願いします」と返した。そう言いながら、松丸はすっかり80年前の軍人になりきってる自分がおかしかった。俳優という人種の楽しみはおそらくこういうことなのだろうと思う。

 大きな木の下に半地下のコンクリート構造物があった。手前の階段を五段ほど降りて内開きの鉄扉の中に入る。
「地下の通信室だが現在180名の通信員がいる。もちろん通信は24時間体制だから三交代で45名ずつが勤務にあたる。
 ここを右に行くと便所だが、不衛生にならんよう水洗式だ」
 まっすぐの内扉を開けると中は四角くくり抜いたトンネル状の部屋だ。意外に明るい照明がついており、通信機の乗った机がずらりと並び、耳にレシーバーをかけた通信員たちが忙しく打鍵器に手を乗せ仕事している。もちろん通信は殆どがモールス信号なので声を出しているものはなく静かだ。人数が多いためか地下でも温度はさほど下がらす通信員はカーキ色の第3種軍装だ。

「明るいですね」
 松丸はうっかり感想を述べてしまった。
 戦時中はそういう発言すら個人の勝手な意思として咎める者もいたのだが、島埜中尉は咎めるそぶりもなく松丸は好感を持った。
「この明るさを保つのも外の電灯線だけには頼れん。停電などあったら場合によっては大型艦船の命運にも関わるからな。電源こそ我らの命綱だ。ここと奥と四か所に非常電源が分かれて設置してある」
「安心できまますね」 
「ああ。それから寝泊りはこの先に大部屋がある。風呂はさっきの棟の裏にある。円形の大風呂でローマ風呂というのだそうだ。海軍一の贅沢な風呂だぞ。ま、作ったのは海軍ではなく慶應義塾だがな」
 そう言って島埜中尉は苦笑いした。
 松丸は念のため確認してみた。
「自分は配置替えの時に知り合いの外山少佐殿に潜水艦担当を希望したのですが」
「ああ、聞いている。貴様は軍令部に知り合いがおるんだな、そのように配置しておくから心配するな」
「はっ、ありがとうございます」
「現場の指揮官はこっちだ」
 島埜中尉は少し先にある仕切り板をノックする。中の机にいた少尉が立ち上がって敬礼した。
「こちらが現場指揮官の牧村少尉だ。松丸一等兵曹が着任した。潜水艦班に入れてくれ」
「松丸一等兵曹であります」
「牧村だ、よろしく頼む。あと他に谷川、遠藤、西岡という士官が交代でここにおる」
 松丸はすかさず売り込んでおく。
「自分は夜も強いので夜間専門でも構いません。よろしくお願いします」
「頼もしいな。そう言ってくれると非常に助かる。中にはいくら叱っても夜が苦手で居眠りする者がいるからな」
 牧村少尉が言うと島埜中尉が笑った。
「この前の西岡に鉄拳制裁されたやつか?」
「何度殴っても眠るし、やつの顔より西岡の拳の方が重症でした」
 松丸は想像して苦笑した。

   ○

 古相寺は赤い屋根を見上げた。
 大きな赤い屋根の真ん中には直角に小さめの屋根が突き出していて、さらにその横部分に通りを見下ろすテラスがある、イメージでいうとスイスのロッジ風の建物だ。突き出しとテラスの下は柱が床を支えるちょっとした店前空間になってて、おそらく多人数が雨宿りできるようにという設計なのだろう。

 古相寺はテラスの下の柱に軽く背を預けて、コード端末機で壬生野にメッセージを送る。

『茜、赤い屋根の食堂に着いたよ』

『美穂、待ってたわ。松丸はんはそばにおるの?』

『おらんよ。それがな、松丸はん、うちに付き合ってくれ言いよった』

『美穂、よかったね!』

『何がええんんの。邪魔くさい』

『ほいやて内心ちょっとは嬉しいんやないの?』

『茜は野次馬根性出さんでくれはりますか』

『ほんに美穂はツンデレやね』

『どこがデレなん?』

『それはこれからや』

『仕事しいや、予備知識がほしいで、この時代の喫茶店はどうなっとるん?』

『ちょっと待っとって、この前調べたの貼ったるき』

『うん』

『日本の喫茶店は明治7年神戸元町の「放香堂」に始まる』
『明治9年浅草寺境内の「油絵茶屋」、明治19年に東京日本橋「洗愁亭」が開店』

古相寺が『明治か』と返すと壬生野はさらに連投した。
 
『うん、明治44年は個性的な喫茶店が三つも開店した』
『一つ目は高級志向で料理も出す会員制の「カフェー・プランタン」で、芸術家や文化人が集う社交場となった』
『二つ目は大衆向けのブラジルコーヒーを提供する「カフェーパウリスタ」で、ドーナツ付きのコーヒー1杯が5銭で人気を集めた』
『三つ目は銀座カフェー・ライオンで、和服にエプロンを纏った若い女給を採用しメイドカフェの走りとも言える』
『桜受家の地元京都では昭和5年に京大北門前の進々堂、紅茶になるがサー・トーマス・リプトン直轄喫茶部極東支店三条本店が開店している』
『昭和10年で東京市の人口は637万人だが、珈琲店は1万店を超えていたというからすごいブームだったのだ』

『ちょっ、ドーナツ付き一杯5銭て、500倍したら2500銭、てことは25円だ』

『美穂、落着きぃ。500倍は昭和19年の話や』
『明治44年やはと……。出た3300倍や、えーと今の165円』
『しかし戦争に突入すると輸入が禁止されたために次々と閉店。ただ大豆や百合根を原料とした代用コーヒーを提供する店もあったようだ』

『なんや、げんなりやな。それじゃあこの赤い屋根もコーヒー出してないんやな』

『そうなるな』

『誰かが喫茶店が流行りやって言いはってた気がしたけど』

『美穂な、それ言ったのあんたやで、たぶん。慶応だから喫茶店あるって想像したんやな』

『え、違うで、あ、茜が前に言うたんよ、モバモボが流行ったからコーヒー店が流行ったんやて』

『モバモボ違うで、モボモガや。あれっ、今のはうちが美穂に言うた覚えがあるな』

『ほうら。ショートにするんを毛を断つでモゥダン、苦しいダジャレやなて笑った』

『うん。』
『てか結局その食堂には今は珈琲は関係あらへんみたいやな』

『そないやね。ほいでも茜とトークしてなんや落ち着いたわ。ありがとう茜』

『うちも美穂が元気そうで安心したわ』

『じゃあ、これから就活してくるき』

『うん、がんばりや』

「よし」
 古相寺時は自分に気合を入れて食堂の中に入った。
 店内は洒落た外観よりはむしろ学生食堂に近い雰囲気で、長いテーブルが並んでおり、お昼と夕飯の間の時間なのに海軍の人たちが十数人食事をしている。

「こんにちは」
 古相寺は食事の受け取り口から厨房にいる初老の男に声をかけた。
 腰にエプロンを巻き、頭にはちまきを巻いた男は近寄りながら言う。
「まず食券を買ってくれ」
「あの、私、古相寺と言います。ここで働きたいんです。お願いします」
 古相寺が頭を下げると男は驚いたようだった。
「それにしても、まずは食ってからだろ? 俺だったらそこがまずい店だったら働こうとは思わないな」
 古相寺は「それもそうですね」と納得して受け取り口の横にある食券売りのテーブルに向かい、手拭いを頭に被ってる五十代ぐらいのおばさんに尋ねた。

「こんにちは、おすすめは何ですか?」
「そうね、一番人気があるのはカレーらいすんだね」
「あ、あの、らいすんて何ですか?」
 古相寺が尋ねるとおばさんは恥ずかしそうに教えてくれた。
「米が手に入らないからね。『ら』は付け合わせのらっきょう、『いすん』はすいとんから名付けたんだよ」
 古相寺はあっ、ついにきたと思った。菊高さんがいつもの上から目線で『それはそれはこの世の食べ物とは思えない気持ち悪いものらしいですよ、普通、お腹が減ってれば少しまずくても食べられますが、あのすいとんは食べられたもんじゃないと家の古い使用人から聞きました』と教えてくれたのだ。
 だから覚悟してこの時代に来たのに、1週間たってもまだ食べられなかったすいとんを、とうとう食べられるのだ。

「ずっとすいとんを食べたかったんです、ひとつください」
 古相寺がそう言うとおばさんは憐れむような目になった。
「すいとんなんかがそんなに? 可哀想にねえ。たんとお食べ」
 古相寺は誤解されてると思ったが、もしかしたら同情された方が就職に有利かもしれないと考えて誤解路線でゆくことにした。
 受け取り口からすぐのテーブルに腰をおろして待つとまもなくカレーらいすんは出来上がった。

 おばさんがお盆にカレー皿を乗せて渡して耳打ちした。
「お嬢ちゃん。親方にこっそり頼んですいとん多めにしてもらったからね。よく味わって食べるんだよ」
「あ、ありがとうございます」
 古相寺はテーブルに着くとカレーらいすんを眺めて思った。これはカレーうどんの親戚ではないだろうか。すいとんまずい問題はその生地が戦時中の小麦不足で大豆やトウモロコシの粉や糠が混ぜられ非常に不味かったことにあるらしい。
 古相寺は覚悟を決めてカレーすいとんを乗せたスプーンを口に運んだ。

 お、大丈夫だ!
 予想した通りカレーの強い味ですいとんの味をごまかせてる。

 ふた口、み口とスプーンを運ぶ。
 これは思いのほかどんどんスプーンが進む。というかカレーうどんのうどんが塊りになっただけのように感じる。
 最後にはルーが減ってすいとんだけが2個残った。

 古相寺は思い切って、すいとんだけを食べてみたが、現代で菊高さんに脅されてきたほど不味くはなかった。というか結論として全然不味くない。普通のうどんか餃子の皮みたいな感じがする。

 古相寺は全てを平らげて器を返した。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「あらそう、よかったわ」
 おばさんが笑った。

 厨房の親方もにこにこして近づいて来た。
「そうかい。そりゃあよかった」
「是非、ここで働かせてください」
「名前、なんてたっけ?」
「古相寺です」
 そう言って古相寺は履歴書を差し出した。
「ああ、古相寺さんか。覚えやすいな、コショーみたいで」
「昔からそう言われます、よろしくお願いします」
「うん、ここは学徒出陣で生徒が減って、寄宿舎も閉鎖になって閑古鳥が鳴いてな。やめてった者もいたし、徴兵に取られた者もいたんだ。それが今年海軍が引っ越して来てくれたのでまた少し忙しくなってきたところさ」
 古相寺はここぞと売り込んだ。
「そうですか、私、がんばりますから」
「そうしてくれると助かるな。俺とおばはん二人では昼時にはテーブルを拭くまでいかねえし、お客の海軍さんに失礼してしまっててな、正直、困ってたところなんだ」
「ありがとうございます」
 古相寺はもう採用だと思ったのだが、続きがあった。

「畑山さん、あまり安請け合いしてはまずいでしょ」
 おばさんが言うと畑山と呼ばれた親方は「今これから、説明するところさ」と返す。
「ただな、古相寺さん、うちは個人経営ではなくて消費組合の経営でな。組合から了解を貰わないと正式に雇うと答えられないんだ」
 古相寺はたじろいだが、松丸と連絡を取り白岩たちの情報を得るにはこの食堂が一番都合が良い。古相寺は譲歩を提案してみる。
「そうですか。ならば正式に採用されるまで無給の勤労奉仕でも構いません」

 畑山親方の声が上ずった。
「えっ、無給じゃ生活が出来んだろう?」
「貯金してきたのがあるので数か月なら待てます」
「いやそこまではかからないよ、たぶん一週間以内でいい返事が来ると思う。こっちも食べる方は休みの日でも賄いを三食出すよ」
「お願いします。あと近くにアパートがあると助かるんですけどありますかね?」
「アパートてなんだ?」

 そうか、この時代はアパートはまだ一般的じゃないのか。古相寺は慌てて言い換えた。
「あの、ほら賃貸の部屋です」
「ああ、間借りな、それならおばはんの実家が学生相手の大家やってるから、たぶん部屋は空いてるんじゃないか、な、滝沢さん」
 おばさんも笑顔で頷いた。
「ええ、学生さんが皆、出てったから離れの三部屋が全部空いてますよ。手伝ってもらえるんだから家賃は安くするよう、正式に雇われるまでは取らないように親に掛け合ってやりますで」
「そうですか、よろしくお願いします!」
 古相寺は職探しと部屋探しが両方片付きそうで安堵した。

「それにしてもすいとんは不味いと聞いてたんですが、ここのは美味しかったです」
 畑山親方は腕組みして言う。
「そうだろう、海軍さんから物資を分けてもらえるんでうまくなったんだ。けどよ滝沢さんなんか昔の不味い記憶があるから、食べてみろと言っても食べないんだよな」
 畑山親方が笑うと滝沢さんも「だってえ、あの味を思い出すとね」と大笑いした。

第11章 潜水学校と水上偵察機

 白岩は伊号潜水艦の模型を手にして、いかにして重巡洋艦インディアナポリスを迎え撃つかをずっと考えていた。
 伊号第12潜水艦の型式である巡潜甲型は航続距離を伸ばした巡洋型潜水艦に水上偵察機を格納できるようにしたタイプだ。但し、伊号第12潜水艦は急造タイプでエンジンを低出力型で間に合わせてある。そのためにスピードは出せないが航続距離は22000マイルつまり35400キロもある。赤道上の一周は4万キロだから緯度30度ぐらいに東西一直線の運河があれば楽に地球を一周できる計算になる。

 たしかに航続距離は評価できるのだが、問題は伊号第12潜水艦が沈没する時は昭和20年1月15日に敵に発見されたとの報告後まもなくと推定できるので、その前に回避会合地点に無線で誘導できたとしても、実際のインディアナポリス迎撃まではその会合時点から半年もの時間があるという事なのだ。
 伊号第12潜水艦は潜水艦としては大型で排水量は2,390トンもあり、乗員定員は104名、沈没時は114名が乗艦している。つまりそれは同時に食料供給が大量に必要だという事を意味している。
 出港時には艦内いたる所いっぱいに食料を積み込むのだが、それは2~3ケ月ほどで消費されてしまう。さらに同時進行で日本軍の制海圏はどんどん縮小しているので補給地点は限られてしまい、新たな食糧確保の地点を密かに確保しなければならない。 

 ふと廊下に気配を感じて白岩は模型を机に戻した。白岩が訓練を受ける潜水艦はまだ帰港していない。それまで大佐という身分の白岩を一般学生と一緒にするわけにもいかないてので、白岩は教員用の個室を専用にあてがわれているのだ。

 外からノックがあり声がかかる。
「大坪少尉入ります」
 身の回りの雑用係に付けられている少尉だ。
 白岩が「入れ」と答えると部屋に入って敬礼して言う。
「昼食ですが醍醐中将が共にしたいとお呼びであります」
 潜水学校の校長は侯爵醍醐忠重中将だ。父は家督問題で甥に射殺されて忠重自身は一条家に養育され、海軍兵学校に進学卒業し戦艦・駆逐艦・潜水艇といった現場を直に体験し潜水学校の教官も務めた叩き上げだ。
 それよりなにより醍醐中将は豊臣秀吉の聚楽第に行幸した後陽成天皇の血を引くお方なのだ。八咫烏の白岩にとっては醍醐中将の相手をするのは人生最大の緊張事といって過言ではなかった。
「すぐにお伺いいたします」
 すっかり普通の丁寧語で白岩は答えて、鏡で身なりを確かめて帽子をかぶり大坪少尉の後について応接間に入る。

「白岩大佐、閣下のお召しと伺い、参上いたしました」
 白岩がガチガチの敬礼をして申告すると醍醐中将は笑う。
「だからそんなに特別扱いしないでくれよ。僕はただの海軍軍人なんだから」
「いえ、世が世なら、すめらぎのみことであらせられる方でおわしますから」
「まったく白岩君の忠皇精神にはかなわんな。とにかく飯を食おう」
「はっ、失礼します」

 潜水学校には六千人もの生徒がいたが、食事は食堂で給食が提供される。醍醐中将はその給食を執務室の隣の応接室で食べるのを日課にしている。
 この日の昼食はカレーだ。
「うむ、今日はカレーか。生徒にも刺激が人気のようだね?」
 醍醐中将が言うと、白岩は即座に答える。
「はっ、自分も好みであります」
「明治の初頭に軍医が脚気予防に洋食を取り入れたそうだな」
「それは実に合理的です」

「時に白岩大佐は軍令部が長いのかね?」
 醍醐中将に訊かれた白岩は嘘を答えねばならない罪の意識に捕らわれ、心の中で説明する。『この作戦は広島長崎の無辜なる犠牲者を救うための隠密作戦なのです。もし閣下に全部をお聞きいただけば必ずご賛成いただける作戦です。今は作戦遂行中につき心ならずも我が正体を秘め偽りさせていただく無礼をお許し下さい』
 そして白岩はこう答える。
「はっ、満州にいた頃に日米が開戦となりまして、昨年暮れにようやく軍令部に戻りました。ちょうど閣下がボルネオに赴任されるのと入れ違いでした」

「ふうむ、そうか。それで白岩大佐は潜水艦の作戦立案のために操艦訓練をしておきたいと理由を書いてたな? 具体的にはどのような作戦かね?」
 醍醐中将に問われて白岩はぼかしは入れつつも正直に答えた。
「はっ、まだはっきりとした証拠はお見せできないのですが、米軍はどうやら被害の甚大なる新型爆弾を開発しているとの情報が入りました。完成にはまだ数か月以上かかると思われますが、その後は先日玉砕したグアム・テニヤンあたりを前線基地にして本土空襲を試みると思われ、この新型爆弾の船舶輸送を絶対的に阻止する作戦であります」
 醍醐中将は不安そうな顔になった。
「そうか、そのような新型爆弾が開発中か」
「はっ、我が一命に替えても阻止いたします」
「それはありがたいが、ここだけの話、戦況は思わしくないな」

 醍醐中将の弱気に白岩は声を張った。
「日本国は世界的歴史的にみて優秀な国家でありますから、米国はもちろん世界中から畏怖されて国体も必ずや護持されます。たとえ将来、一時的に不本意な歴史が訪れようともきっと再建できます。どうぞ閣下もご心配召されませんようお願い申し上げます」

 白岩の力を込めた言葉に醍醐中将は笑った。
「白岩大佐はまるで未来をすっかり見て来たかのように自信たっぷりに断言するのう。それを聞いてわしも少しく気が楽になった。頼もしい限りだ」
 そう言われた白岩はまるでタイムダイバー隊の秘密がばれたような気分になって焦った。もちろんそんな筈はないとすぐ思い直して笑みを浮かべる。
「恐れ入ります。なんとなく夢で見たのです。もしかすると人間、切羽詰まると少しぐらいなら夢で未来を教えてくれるのやもしれません」
 醍醐中将は頷いた。
「作戦遂行の上で何かわしに手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれよ」
「はっ、ありがたきお言葉、閣下のお助けがあれば何よりです。何かの時はお願いいたします」
 白岩が頭を下げると醍醐中将は咎めるようだった。
「いや、そうではない。わしは社交辞令の挨拶で言ったのではない」
「はっ? と言われますと?」
 白岩は醍醐中将の意図を測りかねた。
「軍令部に外山少佐というのがおる」
 白岩は息を呑んだ。
「山本長官が次官の折、三国同盟への態度を巡って暗殺の危険が囁かれたことがあった。その時、外山少佐は部下の中尉とともに本来の任務ではない山本長官の警護を密かにしておるとわしの忍びから聞いたのだ。わしの忍びも警護のために行かせたのだが、すでに警護がおりましたと嬉しそうに話しておったな」
 
「それで白岩大佐の受講依願書を見た時に問い合わせ先が軍令部外山少佐になっておったから思い出したんだ。この者はもしや八咫烏ではあるまいかとな、いやわしの個人的な思い込みかもしれんが」
 命をやりとりするどんな修羅場にあっても涼しい顔で戦ってきた白岩だが、今、醍醐中将の言葉に額の奥から冷汗が溢れた。
「な、なんと申し上げればよいやら……」
「難しいことではない。おぬしが八咫烏なら何よりも信頼できるから、わしも建前を取り払っておぬしを手伝う骨を折ってやるということだ」
 白岩は醍醐中将に告発のつもりなどないと知ると安堵した。
「はっ、ありがたきお言葉!」
「もちろんわしに手に入れられんものもあるだろうが、何か必要なものがあるなら遠慮せずに言ってみたまえ」
「恐れながら、お言葉に甘えて申し上げます。私の作戦は長期にわたりますがその間、制海権の維持は望み薄と思われます。となりますと燃料食料の確保に困難を来たすのは必定。出来れば敵潜水艦出没の少ない地域に臨時の給油施設があると助かります」
「ふうむ。潜水艦は伊号だろう?」
「はい」
「となると小さな港だと座礁の心配が出てくる。静岡あたりに回天震洋の基地がいくつかあったな。うむ、伊豆ならすぐ深くなるから水深は問題なさそうだ。
 どうだ、白岩大佐、伊豆の沼津の回天震洋格納庫で」
「あ、ありがたき幸せにございます」
「但し、少しずつ余剰分を貯めるからすぐには使えんぞ、使うのは三か月ぐらい待ってくれ」
「大丈夫です」
 こうして沼津の回天震洋格納基地に伊号用の緊急燃料と缶詰類を確保することが決まり、白岩の悩みはだいぶ減った。

  ○

 自室に戻った白岩は大坪少尉にしばらく誰も取り次ぐなと命じてコード端末機を起動した。

『白より。烏は会合の後、伊豆に帰り補給を望む』
『大量の食糧調達可能な店を調べてもらいたし』

 そう打ち込むとすぐに返事があった。

『白岩さん、お久しぶりです。壬生野です。お元気ですか?』

『おう、元気だ。壬生野さんも旭子様も元気か?』

『はい、どちらも元気です』

『それは何よりだ』

『ただ配給制になってるその時代で食糧調達可能な店は難しいと思います』
『あとは直接生産者と取引する手ですが、その時代の結社がしてるかも』

『なるほどな。じゃあ古相寺から公子様に問い合わせてもらおう』

『ええ、それがいいと思います』

『古相寺はこれ動かしたらわからんのかいな?』

『通知機能はないので本人が起動しないと。私たち、今は午後2時に起動してます』

『そうか、というか、今ちょうど2時まわったとこやないか?』

『古相寺さん、赤屋根食堂に採用なりましたよ、知ってましたか?』

『そうか、あの外山少佐が言ってたとこやな』

『だから2時きっかりとは限らず少し遅れたりします』

『そうか、じゃあ連絡したい事があればこれぐらいの時間にこれ動かせばええんやな?』

『そういうことになります』

 そうやり取りしてると古相寺がログインしてきた。

『茜、ちょっと遅れて堪忍な』

『美穂、今な、白岩さんもログインしてはるで』

『白岩さん、こんにちは!』

『おう、古相寺、あの食堂に就職できたそうやな、おめでとうさん』

『ありがとうございます。今日はどうしたんですか?』

『それや、作戦は長丁場やからな、行ったきりでは燃料食料がもたん』
『途中でいったん日本に帰ってまた出撃するようになると思う』

『なるほど』

『そうすると補給せなならんがわしらの伊号12潜水艦は正式な補給は受けられん』
『せやけど燃料の方は潜水学校の校長にお願いできることになったんや』
『だが食料は缶詰しかない。そこで野菜やら生ものを当代の公子様に頼めんかなとな』
『厚かましいのは承知で古相寺から電話か何かで聞いてみてくれんか』

『わかりました。お願いしてみます』

『そういや、古相寺、松丸はどんなもんや?』

 白岩は何気なく聞いただけなのだが、古相寺は告白のことで冷やかされたような気分でイライラしてくる。

『知りませんよ』

『知らないというても眼と鼻の先や、毎日飯を食いに来るやろ』

 ほんのわずかなしつこさが神経に障って古相寺は壬生野に聞く。

『茜、白岩はんになんか言うたん?』

『なんも言うておらんよ』

 白岩も妙な気配を感じ取った。

『古相寺、どうかしたんか?』

『いえ、なんでもないんです。気にせんといてください』

『そうか。じゃあとにかく食料のこと頼んだで』

『はい、お願いしておきます』

『壬生野もいろいろ頼むで』

『まかせといて下さい。白岩さんもはめ外して遅刻せんといてください』

『壬生野、お前、痛いとこ突くな』

『あっ、図星でしたか? 気ぃつけてくださいよ』

『努力します、ほな達者でな』

 白岩がそう言い残してログアウトすると、時をはるか隔てた古相寺と壬生野は同時に笑い合った。
『なんやの、白岩のおっちゃん』
『努力しますぅて可愛らしうて笑ったわ』
『あれで大佐やて』
『信じられんなあ』

   ○

 矢吹は飛行服に身を包み九六式小型水上機の操縦席で操縦桿を握っていた。
 瀬戸内の海は波らしき波もなく、陽光を受ける角度だと眩しい鏡のようだ。トンビが円弧を描いているのを見下ろしながら、陸の緑と空の青の交わる先を見つめていると時の経つのも忘れてしまう……わけにはいかなかった。
 前席と後席との会話は伝声管という管により行う、いわば糸電話が管になったもので会話すると思ってもらえばよい。
 突然、その管を通して後部席の教官から怒声が飛ぶ。
「こらー、上向けすぎるなー、失速するぞ」
「はい」
 矢吹は慌てて操縦桿を前に進める、がしばらくすると……、
「今度は下向きすぎだ」
「はい」
 矢吹は慌てて操縦桿を手前に引く。
「よおし、旋回して目標桟橋の左に着水する」
「はい」

「下駄を履いてるということは重心が低い、わかったかー」
「わかりました」
 下駄というのはご想像の通り車輪の代わりに浮きになっているフロート部分だ。
「海と鉄板はどっちが硬いか?」
 教官の質問に急になんだよと思いながらマスクの伝声管を通して答える。
「鉄板であります」
「バカモン。いいか、海も鉄板のように硬いと覚えておけ」
「はいっ」
「降下角度や速度を取りすぎるとこっちの下駄が折れてとんでもない事故になるぞ」
 矢吹はそういう意味かと納得する。

 矢吹の操縦する九六式小型水上機は降下してゆく。
「着水時は機首を下げすぎないよう気を配りつつも、常に目標の手前を目指すように。行き過ぎると引き返すのが面倒だぞ」
「はい」

「高度?」
「二二〇」
「ちょい絞れ」
 矢吹はスロットルを絞り速度を緩める。

「高度?」
「一九〇」
「このままでは目標をすぎるか、慌てて降りて下駄を折る。いいかもっと手前で距離を掴み、高度との理想の進入経路に入るように。旋回して引き返せ」

 近づいて来ていた九六式小型水上機が途中で引き返すと、それを眺めていた望月はニヤニヤと笑って呟いた。
「矢吹のやつ、絞られてるな」
 九六式小型水上機はさらにもう一度進入をやり直した後は、穏やかな水面に着水し、滑るように桟橋に帰ってきた。
 整備員が機体を引き寄せ早速整備に入る。後部座席の教官は風防を開けるとバインダーを小脇に挟み機体を離れた。
 望月は教官に敬礼して機体に近づき、操縦席から出ようとしてる矢吹に声をかけた。
「どうした、泣いてるのか?」
「泣いてねえよ。楽勝だ」
「その割に着水を3回もやり直してたな」
「着水進入角度の確認だよ、うるせーな」
 言葉では喧嘩してるように見えるが望月は手を差し出し、矢吹もそれを掴んで桟橋に飛び移った。
「それにしても偵察機が手に入る時期も作戦の時期も未定では落ち着かねえな」
 矢吹が言うと望月が宥める。
「まあな。焦っても何もできないんだから待つしかないさ」
 
 二人は岩国航空隊へ歩いて向かった。途中ですれ違う小学生、当時の国民学校の生徒が憧れの目で飛行服の二人を見つめて敬礼をしてくるので、面倒ながら敬礼して返す。
 矢吹が嘆く。
「しかしなあ、竹槍で武装した米軍に立ち向かうって想像力の欠如だよな」
 望月も頷く。
「まあな。本当は『いくらなんでも竹槍ではだめでしょう』て国民が声を揃えて言うべきかもしれん」
「うん」
「すると振り上げた手の下ろしどころがわからない政治家も投了のタイミングだとわかるだろう」
「だな。俺たちは結果」
 言いかけて矢吹は周囲を見回し誰もいないのを確かめて続ける。
「降伏した方がいいって知ってるからな」
「ああ、早い方がいい。シベリア抑留の悲惨さを考えたらソ連参戦の前がいい」 
「だな」
 矢吹はまた周囲を確かめて言う。
「だけど白岩の爺さんは俺たちに特攻させる気じゃないのか?」
 望月は驚いて矢吹を見返した。
「特攻? そうは思えんな。インディアナポリスは無防備でのこのこ来るからあっさり伊号第58潜水艦に手玉に取られたんだからな。伊号12潜水艦だって魚雷をありったけ撃てば沈められると思うぞ。わざわざ特攻する必要もなさそうだ」
「たしかに。水上偵察機じゃ爆弾なんてたいして積めそうにないしな」
「ああ、どうしてそんな風に考えたんだ?」
「それはこの作戦に俺たちが必要ないような気がしたから……かな」
 望月はゆっくりと頷いた。
「俺たちを招集したのは秘巫女の旭子様だからな。人間離れしたものすごい直観とか、御本人でも気づかないような霊界の導きとかがそうさせたんだろう。だから疑う必要はないんだよ」
「俺たちが理由を考えたところでへたな鉄砲休むに似たりってやつか」
「そういうことだ」

 80年の過去から少し先の未来に何が待ち受けているのかまだ誰も知らなかった。

 

第12章 パミール号と旭子の謎解き

 

 壬生野は現代の桜受家本家、地下三十階の最奥殿にある秘巫女旭子の執務室を訪れた。
「旭子様、時間を取って頂いてありがとうございます」
 いつものように巫女というよりお妃のような鮮やかな衣装を着た旭子が壬生野の抱えた丸めた紙を見て尋ねた。
「壬生野、その大きな紙は?」
「地図です、旭子様。現在、タイムダイバー隊の現場での日付は19年10月25日です。もう伊号12潜水艦と会合する日時場所を決めないといけない時期なのですが、私一人の頭では決断できません。どうぞ知恵をお貸しください」
 壬生野は持参した大きな世界地図を旭子のデスクに広げて人差し指を広島県の呉軍港に置いた。

「説明いたします。伊号第12潜水艦は昭和19年10月4日に呉を出港しました。日本海経由で同月7日に函館着、1泊してから北米大陸西岸海域からハワイ、マーシャル諸島方面にかけての通商破壊作戦に向かったとなってます」

 壬生野は函館に置いた指で地図をなぞってハワイの北に進めた。

「ちなみに普通、出発点と目的地を結んだ直線は等角航路になり、常に北極からの角度を一定にして進めるという利点がありますが、最短距離ではありません。
 最短を目的として進めるには常に方向を調整して大圏航路と呼ばれる北半球では北側に膨らんだ円弧を描く必要があります」
「面倒なものね」
「ええ、面倒ですよね。もっともそれで節約できる距離は1割もないようですし、潜水艦は冷たい水の塊に遭遇すると悪影響を受ける事もありますので、円弧より南側を進んだ可能性もあります」

 ハワイと米国西海岸の間にあたる東太平洋に三つの付箋が貼ってある。壬生野はそれを指で差し示した。

東太平洋地図

「東太平洋に三つ付箋を貼りましたが時間の順序に沿って説明します。
 最初の付箋はアメリカ西海岸とハワイホノルルを結んだ線上のおよそ真ん中に上下ふたつ並んでる下側の付箋です。
 10月29日21時30分、現地時間で夜明け前の4時30分に伊号12潜水艦が商船ジョン&ジョンソンに魚雷1本を命中させました」
「我らは戦争をしに行くわけではないが、辛いな」
 旭子に言われて壬生野も「はい」と頷いた。
「30分後に伊号12潜水艦は浮上して、真っ二つに分断されながらもまだ海上に浮いてた商船の前部、後部を砲撃しました。
 そして時計が深夜0時をまわってから沈没したと思われます、旧日本海軍の公式記録では撃沈は30日となってるからです。
 つまりこの時、間違いなく伊号第12潜水艦は商船沈没を確認し司令部に通信した事になります。
 いつ連絡出来るかわからないのが潜水艦ですが、この時こそ伊号第12潜水艦に連絡を取る絶対確実な、もしかしたら唯一の私たちが使える時刻となります。なんとしても松丸さんからタイムダイバー隊との会合位置と日時指示を伝えなければなりません」
 
「通信する時刻はそれで決定でよいでしょう」
 旭子に言われて壬生野は頷いた。
「はい、通信を開始する時刻はこの29日21時30分で決定します。問題はタイムダイバー隊との会合場所なのですが、とりあえず次の付箋に進みます」

 壬生野は左側の付箋を指さした。 
「二つ目の付箋は最初の付箋とハワイ島を結んだ真ん中の位置です。
 ここで11月12日午後12時すぎ、パミール号という商船がニュージーランドに物資を輸送する途中、潜水艦の潜望鏡を見つけ攻撃されてしまうのではないかとパニックになりました。しかし、この潜水艦はパミール号を攻撃せずに去ったのです。
 これが伊号第12潜水艦だという説があります。そして敵国日本の潜水艦が見逃した理由はこの商船が4本マストの美しい大型帆船だったからだという美談が細部の脚色を変えながら広まっていきます。例えば……」

  ◇◇◇

 パミール号は大きなマストに張った白い帆に豊かな風を受けて次の寄港地ホノルルに向けて海を滑るように走っていた。
 帆を張れる船員を確保するのが難しくなり帆船は珍しいものになっていたが、この船は第二次世界大戦でニュージーランドが没収して輸送に使用していたのだ。帆船の場合、風や天候の行方を早く知るのが大切だから、マストの高い位置に監視所があり見張り員が詰めていた。
 その時、見張り員は前方の海上から小さな白波が向かって来るのを見つけてごくりと唾を飲み込んだ。
 潜水艦の潜望鏡だ!
 見張り員はあらん限りの声で叫び旗を振り回した。
「逃げろー、潜水艦だー、潜水艦が近づいてくるぞー」
 下のブリッジにいた甲板員もマストを途中まで登り確かめ、飛び降りて艦長に報告した。
「右舷35度に潜望鏡です、逃げましょう」
「この帆船じゃ転舵も遅いし、足も遅く餌食になる時間が長くなるだけだ」
「それはそうですが……」
「神に運命を任せてこのまま突き進もう」
 他にやれることはないのだ。船員たちは口々にわめき散らしていたが、いよいよ潜望鏡が近づくと皆が膝まづいて十字を切った。
 じりじりと時間がすぎてゆく中、魚雷が放たれた航跡は起きなかった。
 その代わりに潜水艦は浮上して艦橋を露わにするとこちらに向けて発光信号を送ってきた。
『本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず、安全なる航海を祈る』
 船員たちは奇跡をもたらした帆船に感謝し、改めて神に感謝した。

  ◇◇◇

「艦長ゆかりの地では潜水艦がパミール号に送信した文面の碑も建てられたそうです。
 こんなことが実際にあり得るでしょうか?」
 壬生野から問いを投げかけられた旭子は聞き返した。
「壬生野、貴方はどう思うの?」
「私は、実は可能性は少しあるのかなと、期待というか、感じています。ただ通信まではしてないと思います」
 壬生野の答えに旭子は同意した。
「そうね、その文を英語で送る機転は日本人には即席には難しそうね。でも潜望鏡で帆船の姿を見た艦長達は突然視界に現れた戦争と全く無縁そうな船本来の美しさに感動したのでしょう。さらに前回撃沈の罪の意識も手伝って見逃そうと決めたのかもしれないわ」
「はい、それならわかる気がします」
 
 壬生野は最初の付箋のあたりに指を戻した。
「それが伊号第12潜水艦だという気はするのですが、もうひとつ不思議な話がありまして……、それが三つ目の付箋で、第一の付箋のすぐ上にあります。
 11月13日アメリカの護衛駆逐艦ロックフォードは掃海艇アーデントと共同作戦で日本の潜水艦を撃沈したと報告してる位置です。
 攻撃は主にアーデントのヘッジホッグと呼ばれる対潜迫撃砲によるものです。
 当時のこの海域にいた可能性があるのは伊号12潜水艦だけだという説です。
 しかし、矛盾した記録があります。伊号第12潜水艦は翌年1月15日に敵に発見されたと報告した後に行方不明にになっています。また1月31日、北緯14度0分、西経171度0分の西太平洋で、米空母アンチオの艦載機によって沈没という米軍記録もあります。
 旧日本海軍の沈没認定は月末毎ですが、伊号第12潜水艦の沈没認定は1月末になってます。
 これはいったいどういうことなのでしょうか?」

「アーデントに撃沈されたのが伊号第12潜水艦だという証拠はあるのですか?」
「潜水艦の番号まではわからないのですが、アーデントが海上でデッキ板、ディーゼル油で覆われたコルク、日本語の文字と広告が書かれた木枠の木製のスラットなどの木片を回収したと書いてありました」
「重油の目撃記録や遺体の回収はありましたか?」
「いえ。それは書いてありません」
「そう……」
 旭子は机の引き出しから古風な四柱推命か占星術の道具らしき円盤を取り出して縁のタブをずらして操作するとしばらく見詰めた。そしておもむろに壬生野に尋ねる。

「さっきのパミール号からロックフォードによる撃沈位置までは何キロかしら?」
「ちょっとお待ちください」
 壬生野はタブレットを手早く操作して答えを探す。
「えーと、ぐるぐるマップで1096キロ程です」
「伊号12潜水艦のスピードは水上でどれぐらい?」
「最大17.7ノットでして、時速だと32キロです」
「では1096キロを時速32キロで走ると何時間?」
「34時間です。つまり1日半かかります」
「パミール号に会った位置からでは絶対に間に合いませんね」
「ええ、そのうえ潜水艦が水上走行できるのは安全な制海圏か夜間ぐらいなので実際にはもっとかかりそうです」

 旭子が壬生野の目を見て「私の推理では可能性は三つあるようです」と言った。

「ひとつ目は伊号12潜水艦はパミール号に出会わずに、ロックフォードとアーデントに攻撃されたが木片を発射し沈没を偽装して逃げ切った。占命盤でもこの時の命運は尽きてませんからおそらく生き残っています。

 二つ目は伊号12潜水艦はパミール号に出会わずに、ロックフォードとアーデントにも遭っていない。
 この場合、パミール号に目撃されたのは米国の潜水艦です。味方ですから攻撃しないのは当然となります。

 三つ目は伊号12潜水艦はパミール号に出会い、ロックフォードとアーデントには遭ってない。これが一番ありがたい展開ですね」

 旭子が述べると壬生野は正直に言った。
「私の頭では旭子様の仰った『伊号12潜水艦が沈没を偽装して逃げ切った』というのが理解できません。解説してくださいますか」

「ひとつ目のケースでは伊号第12潜水艦は再び以前の撃沈位置近くで通りかかる商船を攻撃する機会を窺っていたのでしょう。そこをロックフォードとアーデントに探知されて攻撃されてしまいます。
 私も最近は太平洋戦争時代の潜水艦についてずいぶん勉強しましたよ。海上の艦艇から潜水艦に対する攻撃がどんなものかはかなり詳しくなりました」

「太平洋戦争の当初は爆雷と呼ばれるドラム缶状の爆弾に爆発深度を設定して大量に海中に投下するのが主流でした。
 これだと潜水艦もイチかバチかで深度をずらす賭けに出れば、運次第では爆発に巻き込まれずに逃げることが可能のようです。
 しかし今、壬生野がしてくれた報告によると今回のアーデントはヘッジホッグと呼ばれる新型の対潜迫撃砲で攻撃したようです。
 これは一度に24発の手榴弾を海面に円周状に投げ入れるような感じです。ただ深さや時間で爆発するのではなくどこまでも沈みながら接触によって爆発します。1個あたりの火薬量は少ないのですが、隣の攻撃弾も誘われて次々爆発するので威力は24倍です。
 本来のようにこれが伊号第12潜水艦に接触して爆発してたのならひとたまりもなかったと思います。
 ところが何かのおかげで伊号第12潜水艦に届くずっと前に爆発したのです」
 壬生野は思わず「何か……」と呟いていた。

「普通に潜水艦にぶつかって爆発すれば艦の壁が裂け、大量の重油が浮いたり、遺体も浮いてきます。ところがそれらの報告がありませんでしたね。
 つまり今回は運よくたまたま通りかかったサメとかエイとかに攻撃弾がぶつかって起爆したか、そこで跳ねたものが近くの攻撃弾にぶつかって爆発したのだと思います。
 そこで離れた頭上に爆発音を聞いた伊号第12潜水艦の艦長は千載一遇のチャンスとばかりあらかじめ準備してあった木片や備品の残骸を放出したのです。そこで浮いてきた木片を発見した敵艦は伊号潜水艦を撃沈したぞと騙されてしまうのです。この手の偽装は「仮装沈没」と呼ばれて開戦当初から実行されてきてます。おそらく潜水艦Uボートの経験豊富な同盟国ドイツから学んだのでしょう」

「驚きました。旭子様がミリタリーオタクに思えてきました、あ、すみません」
 壬生野が言うと旭子は笑みを浮かべた。
「自らを守るためにはそういう知識も蓄積されてきます。
 私は霊力とバスケでは天神結社の知子様の足元にも及びませんが、ミリタリーおたくのトリビアを知子様に披露してあげたいです。
 例えば米軍の近接航空支援機サンダーボルトIIは対被弾性能が高く、湾岸戦争で384発の弾丸を浴び蜂の巣のようにされても墜落せずに帰還しました。それで私は一番無防備になる自室の寝室と浴室はサンダーボルトIIのコックピットと同じチタン装甲に特注してますよ」
「えっ、チタン装甲?」
「リラックスタイムをテロリストごときに邪魔されては癪ですからね」
 壬生野が旭子の意外な一面に驚いていると旭子はさらにびっくりすることを言い出した。

「二つ目、三つ目の事例ではロックフォードとアーデントのどちらか、たぶん積極的に攻撃してるアーデントが始めから撃沈を偽装していたというサイドストーリーが進行しているかもしれないです」
「どういうことですか?」
「おそらくアーデントの艦長あたりが、伊号第12潜水艦が撃沈したジョン&ジョンソンの関係者、たぶん遺族と親しかったのです。
 そこでなんとか日本の潜水艦を撃沈して遺族を慰めてやろうと決意していたところ、ハワイのラジオ放送で『昨日、パミール号が日本の潜水艦の潜望鏡を発見して大パニックになったもよう』という話が流れたのです。
 自分の知る遺族ばかりか多くの人々を恐怖に陥れる日本の潜水艦を必ず自分が撃沈してやるんだと強い執念をますます燃やした彼は、偶然にも今いる海域がジョン&ジョンソンの沈没位置に近いことに気付くと、もはやじっとしておれず今すぐにも撃沈の結果を出したいという強迫心理になったのです。
 しかし敵潜水艦にそれほど簡単に遭遇できないですね。すると彼は撃沈が先延ばしになり人々の不安が続くよりは、いっそのこと、自分が今、撃沈を捏造すれば人々にとりあえず心の平安を与えられるぞと思い込んだのです。
 そこで部下には鎮魂のための礼砲代わりにヘッジホッグを撃ちたいとかなんとか説明します。部下も無駄弾になるけど鎮魂のためならと命令に従い、彼は上席艦のロックフォードに潜水艦を探知したと嘘の報告をして輸送船団から離脱します。
 ロックフォードはもちろん潜水艦を探知できる筈ないですが、単独で行かせるのも危険なので後ろをついてゆきます。
 そこでアーデントはヘッジホッグを発射して、日本の潜水艦を撃沈したと偽の報告をする……そのようなサイドストーリーです」
「……すごすぎます。でも旭子様のおかげで見通しがよくなりました」
「貴方が時系列で話してくれたので11/12のパミール号の話が偽装の引き金になってる可能性に気付いたのです。もっとも私もサイドストーリーの実際の確率はかなり低いとは思ってます」

 旭子は壬生野の答えを見通していたが、あえて聞いた。
「壬生野の一番困ってる問題は何です?」
「私の抱えている問題はタイムダイバー隊と伊号第12潜水艦をいつどこで会合させたら良いのかです。
 私は10/29に伊号第12潜水艦が商船ジョン&ジョンソンを攻撃し浮上したところか、11/12にパミール号が潜望鏡を見つけたところのどちらかだと考えました。
 ジョン&ジョンソン攻撃のところは夜明け前ですが、火の手と黒煙が上がって空から見つけやすいと思います。
 またパミール号もマストが4本もある大きな帆船ですから伊号の潜望鏡よりも20倍ぐらい見つけやすいかと思います。
 日本の近くまで引き返して会うのも考えてみましたが、司令部から無線で問いかけられてそちらに従ってしまう可能性があるので候補から却下しました。あくまで白岩さんが乗り込んで全てを隠密作戦としてコントロールしないといけませんよね?」
 旭子は大きく頷いた。
「その考えでいいですね、日本近海はなしにしましょう。
 ジョン&ジョンソン攻撃位置で会うデメリットはきっと商船が救難信号を出しているだろうし、炎と黒煙で米軍側にも発見されやすい点ね。
 パミール号の方のデメリットは最初の潜望鏡が米国の潜水艦だった場合はこれと闘う必要が出てくるかもしれないという点ね。
 どちらがよいかちょっと考えてごらんなさい」
 壬生野は数分考え込んで口を開いた。
「今、ひらめいたのですが、パミール号の位置より西南西に、つまり進路の先にヤマを張り、時間を少し遅らせたら、敵の潜水艦に遭わずに済むかもしれません」
「それはいいアイデアね、敵潜水艦が出会い頭的にパミール号に会ってるなら、それを回避できるかもしれない。逆にその海域で敵潜水艦を発見できない場合は、元々パミール号に会ったのは伊号第12潜水艦だった可能性もあるかもしれません」
 こうして壬生野は旭子からパミール号を会合の目印にするお墨付きを貰った。

   ○

 古相寺は受け取り口の上にある時計をちらりと見た。
 午後1時55分。古相寺の休憩時間は2時から3時の1時間だ。

 片付けのつもりで台を拭いていると客席から声がかかる。
「お姉さん、お冷や」
 古相寺は仕方なくやかんを持って出向いてコップを受け取り水を注ぐ。
 目尻の下がった海軍下士官は松丸よりひとつ下の二等兵曹だ。
「ありがとうな、お姉さんの一杯で生き返るわ」
 白岩になら(今まで死んではったんですか)と返したところだが、お客ではそうもいかない。
「お冷やのお代わりは1杯だけですよ」
 そう言って冷たくするのが関の山だ。
「お姉さん、こっちも」
 古相寺はやかんを持ってお客のそばに行くと思い出す。
「お客さんはさっきお代わりしはったやないですか」
「いいなあ、その京言葉。お姉さん、俺と結婚してくれ」
 出ました、いきなりバカ。
「いきなり失礼です。上官に報告しますから上官の名前を教えて下さい」
「それは困る」
「私も困りますので」
 古相寺がプイと引き返すと、一番奥のテーブルで松丸が一瞬、首を伸ばしてニヤリと笑うのが見えた。
 古相寺は複雑な気持ちになる。そんなつもりはひとかけらもないのに、松丸が嬉しそうにしてるとなんか自分が松丸のためにお客からの誘いを断ってるような錯覚がしてくるのだ。今のうちだけだからね、現代に帰ったらあっさり断ってやるんだから、と古相寺は心に呟いた。

「滝沢さん、休憩いいですか?」
 古相寺が来てからは食券売りと洗い場だけになった滝沢さんが笑みを返す。
「ああ、ゆっくりね」
 受け取り口の台の端っこを跳ね上げて、調理場の奥に向かう。
「親方、休憩していいですか?」
「あいよ。でも古相寺さんが来てから客が増えたな、この時間も客足が絶えなくなったもんな」
「そうですか?」
「ああ、客の半分は古相寺さん目当てだろう」
「お冷やくれとか多くて困ります」
「店的には大助かりだ。じゃあ2時半になったら今日もけつねうどんでいいのかな」
 それが古相寺の定番昼食になっていた。
「お願いします」

 古相寺は奥の三畳ほどの控室で足を延ばしてコード端末機のスイッチを入れる。
『茜、おはよう!』

『美穂、待っとったで。今日は大事な話があんねん』

『何?』

『いよいよ、作戦開始ということになったで』

『うん、とうとう始まるんや』

『さっき旭子様と話してな、そやから間違えんよう、メモしてくれる?』

 古相寺は入口脇の空き缶にたくさん入ってた短くなった鉛筆のひとつをつかむと注文取りの時のメモ用紙も取り出し構えた。

『ええで』

『松丸はんが受信する時刻は10月29日の21時30分から翌日の未明まで』

『21時30分からと、次、ええで』

『たぶん日付が変わる頃やと思うけど、伊号12潜水艦から商船を撃沈せりと受信する予定や』

『日付変わり頃、伊号第12潜水艦より撃沈せりと受信する予定、次、ええで』

『そしたらこっちから発信や。第6潜水艦隊司令部より伊号12へ。第6潜水艦隊司令部より伊号12へ』

『第6潜水艦隊司令部より伊号12へ。を2回やな』

『特別任務を発す、現地時刻11月12日午後12時30分、繰り返す……』

『復唱するわ、特別任務を発す、現地時刻11月12日午後12時30分……』

『北緯24度30分、西経146度44分、繰り返す、……』

『復唱するわ、北緯24度30分、西経146度44分、繰り返す、……』

 古相寺は出来上がったメモを見返て内容を清書した。

受信待機は10月29日の21時30分から翌日未明
受信後の送信文面 
第6潜水艦隊司令部より伊号12へ
特別任務を発す、現地時刻11月12日午後12時40分、
北緯24度30分、西経146度44分にて待機せよ。
4本マスト帆船を発見次第、後方南側を潜望鏡深度全速で並走せよ
零式と会合し、作戦司令を乗艦せしめ、格納せよ
本件他言禁ず、敵潜を厳重警戒のこと

『茜、ありがとうな。すぐ松丸さんに渡すわ』

『これでもし12時20分に伊号第12潜水艦が帆船を見つければ敵はいないし』
『12時40分に帆船を見つければ敵が通り過ぎた後が確定するんやけど』
『その説明は面倒やから省いてあるんよ』

『なんかようわからんけど、とにかく渡すわ』

 古相寺が急いで調理場から出ると、まさに松丸が帰ろうとするところだった。

「松丸さん」

 古相寺の声に松丸が振り向き、たくさんのお客の耳がダンボ耳になった。

「あの、これ」

 古相寺が小走りに駆け寄り、メモの紙を手渡すと松丸はとても困った顔をしたが、すぐにはち切れそうな笑顔になって大声で言った。

「そうか、俺の嫁になってくれるか。ありがとうな」
 そして小声で「話を合わせろ」と囁く。
 古相寺も小声で返す。
「急に何なん?」
「こんな大事なものを人に見られながら渡すスパイがいるか? 誰も見てない時にこっそり渡すんが鉄則や」
 小声で言われて、古相寺はようやく自分の大きなミスに気付いた。
「ご、ごめんなさい、よろしくお願いします」
「大きな声でお願いしますだけ言え」
 古相寺は大きな声で言った。

「お願いしますだけ」

 松丸は頭を抱えそうになった手を、照れ隠しに短い髪を撫でるようにごまかし笑った。
「じゃあまた後でな」
 古相寺は深く頭を下げて松丸を見送った。
 店内のあちこちから溜め息が漏れ聞こえた。

 とにもかくにもこれで古相寺を口説こうという客が減るのは確かなようであった。

 

第13章 伊号第12潜水艦応答す

「すまん、お茶をくれ」
 呼ばれて古相寺がお茶の入ったやかんを持ってゆくと、その席で向かい合ってたのは階級章から大尉と中尉の中年の士官だ。
「うまかったよ、少しく元気になった」
 大尉の声に古相寺も嬉しくなる。
「それはようございました」
「ああ、すっかり生きた心地を失くしてたからな」
「それはお辛いことで」
「刀折れ矢尽きとはこのことさ」
 壬生野から松丸への指示があった日の未明に、日本の残存主力艦隊はレイテ沖海戦で戦艦武蔵、空母瑞鶴などを失いいよいよ壊滅状態となっていた。

「私の知り合いも海軍ですから心苦しいです」
「なんとか大和は残ったが……」
 大尉が漏らすと慌てて中尉が釘を刺した。
「相澤大尉、こちらは民間人ですよ」
「おお、そうだな。今のは失言だ、忘れてくれ」
 大尉は鷹揚にそう言い、古相寺も頷いた。
「はい。真珠湾の時は調子良かったのに残念です」
「天地の差だな」
 古相寺はふと白岩たちはハワイの東まで行くんだったなと思い出して聞いた。
「ハワイなら水上偵察機だと何日で着きますか?」
「真珠湾攻撃の時は択捉島を11月26日に艦隊で出発してから12日だな」
「そうじゃなくて最初から飛行機だけで飛べば早いのではないですか?」
「それはちと難しいのお、東京とホノルル間は6100キロはあるから最新型の彩雲でも届かない」
「届かない? 届かないんですか?」
 古相寺が聞くと中尉が引き取る。
「ああ、増槽といって燃料を翼の下に追加しても彩雲が飛べる距離は5300キロだ」

 古相寺はつい現代の海外旅行の感覚で発言してしまう。
「えっ、嘘ッ。羽田からロサンゼルスまで10時間で着くのに?」
「ハハッ、君は大きく勘違いしとるぞ」
 古相寺は自分を落ち着かせるために何度も頷いた。
「えーと、じゃあ途中で給油すればいいんですね?」
「硫黄島で燃料補給しても届かんだろうなあ。それよりハワイに近い島は今や米国が占領しているので無理だな」
「無理じゃ困るんです。あ、そうだ。潜水艦で行けばいいんだ。潜水艦に乗る偵察機なんです、行けますよね?」
「ああ、零式小型水上機なら格納庫付きの潜水艦に乗せて行けるよ」
「それです、それで何日ですか?」
「普通の水上艦よりスピードが落ちるから2週間ぐらいかな」
「そうですか」
 今日が26日だから2週間ならなんとか間に合うかなと一瞬は思ったが、それは全てが都合よく進んだ場合だと気付いた。すぐ偵察機が手に入り、丁度たまたまアメリカの西海岸に向かってる格納庫付きの潜水艦があり、それに同乗できればという夢のような理想が重なればの話なのだ。

 実際には偵察機もまだ手に入れておらず、白岩も望月も矢吹もまだ訓練をしている最中ではないか。
 これでは計画最初の会合場所に間に合わなくなってしまう。

 古相寺は「大変だぁ」と言葉を発して、士官達に挨拶もせずに、滝沢さんと親方にろくに目も合わさず「休憩します」と言い放ち調理場の奥に駆け込んだ。
 急いでコード端末機を起動するが、定時の連絡時刻には2時間半も早く壬生野が返答する気配はなかった。

「茜、急いでよ、緊急なんだよ」

 古相寺はひらめいて滝沢さんに尋ね、墨と筆と半紙を手に入れた。
 待ち人を呼ぶ霊符を書こうというのである。本来なら一週間身を清めて草木も眠る時刻に起き出して書くべきだけれども今すぐ呼びたいのだ。古相寺はどの霊符を書こうかと考えて、桜受家の住人が猫が行方不明になった時に書いて効果があって大変喜ばれた迷子猫の足止めの霊符にしようと決めた。
 反応が出やすいように迷子猫の名前を茜にしとこう。
 そう思ったものの、いやそれより霊力の鋭い旭子様にした方が確実だと考え直した。
 
 そしてサムハラのお守りを作る時と同じ手順で二回拝して焼香し、手を胸に当てて勧請文を唱え、加持を行い、柏手を打っていくつかの神咒を誦し、瞑目して、霊符を書き上げた。
 ただ正式な法具がないのが不安で、念を入れて愛染明王鉤召法こうちょうほうを使う。愛染明王は恐ろしい顔と赤い体で、六本三対の腕を持ち第一の左手に五鈷鈴ごこれい、第一の右手に五鈷杵ごこしょ、第二の左手に弓と第二の右手に矢、第三の右手に蓮花で第三の左手は何もないか、または法勝寺の仏画像のように三本足の烏の宿る日輪を持っている。
 古相寺は「オン・マカラギャ・バゾロシュニシャ・バザラサトバ」と召喚した愛染明王を讃えると、流れるように手を組み、指を立て「ジャク」、指を合わせ「ウン」、指を組み「バン」、肘を密着させて「コク」と唱えて組んだ手を激しく上下に振った。その時、目に見えぬ霊界ではリン、リ~ン、リリリ~ンと美しい黄金の鈴の音が響く中、宙に舞い上がった鉤爪と投げ縄と鎖の網が虹色の帯を引いて呼びかける対象に向かって飛び渡ってゆくのだ。

   ○

 現代、桜受家の最下層地下三十階の巫女控室では昼食時間を迎えていた。
 桜受家では月水金の週三回は巫女の中から二人がランダムに選ばれて料理当番となり旭子と巫女12名の昼食を作ることになっている。これは旭子の考え出した教育の一環だ。二人組にすることによって上手な子は教え方がうまくなり、下手な子も徐々に腕をあげて自信を持つ。そして食べ物を仲立ちにして仲良くなれるのだ。
 ホワイトソースの帆立とニョッキと野菜サラダが並べられたテーブルに巫女が全員着席すると旭子が言う。
「今日は塔柿さんと入駒さんの作ったニョッキね。じゃあ入駒さん説明して」
「えーと、今日は料理名人の塔柿さんの監修なので、この前と違い、ちゃんと美味しく食べられると思います」
 巫女たちが爆笑する。
「うまくいった点はニョッキは実は小さい餃子で中がトマトソース仕立てなのでお口の中で二つの味が楽しめるかと思います」
「じゃあ塔柿さんからもひとこと」
「桜ちゃんの思い付きですが、ソースふたつなので超面倒くさかったわ」
 巫女たちが笑う中、旭子が「それでは、感謝していただきましょう」と音頭を取り全員が合掌し、食事を始めた。
 例によって菊高は棘のある言葉を吐く。
「ニョッキを餃子にする必要性が感じられませんわ」
 そうすると左右に座った千代川と立科も「本当に」「残念です」と同調する。
 
 旭子もスプーンで入駒発想のニョッキを口に運んだ。
 すると入駒が「どうですか?」と聞いて来る。
「そうね、ちょっと冒険的かなと思ったけど楽しいわね」
「あ、ありがとうございます。点数は何点ですか?」
「そうね、78点ね」
 旭子の判定に入駒は肩を落とす。
「そうですか、もっと上かと思ったのに」

 そこで旭子はフォローする発言をしようとしたのだがそれを止め、ふっと斜め上に視線を運んだ。
 そして「壬生野さん」と呼び寄せる。
 壬生野が唇を拭って慌てて返事をしてそばに駆け寄った。
「誰かが迷子猫に私の名前をつけて、さらに愛染明王でも私を呼んでいます」
「はい? 誰が一体どんなつもりで?」
「こんなことをするのは古相寺さんしかいないでしょ」
「あっ、そうか。コード端末機は呼び出し出来ないから私に連絡したいのかも」
「そうね、今すぐ通信してみなさい」
 壬生野はコード端末機のある技術部に駆け出した。

   ○

 壬生野は小走りしながら、古相寺が行方不明の子供を見つけた時の事を思い出した。

 あれは桜受家の上にある神社の氏子の子供が小さな沼のそばにランドセルを置いたまま行方不明になった時だった。すぐに警察と消防団が出て沼を徹底的に捜索したが何も出て来ない。もちろん近所もくまなく捜索したが手がかりもない。
 そこで普段はそれほど交流がない宮司が旭子様に泣きついて来たのだ。
 旭子がそれなら早急に修法しましょうと実行したのが不空羂索観音菩薩足止め法だ。この観音菩薩様は八本の腕があり、正面にある手は合掌し、四本にはそれぞれ羂索・払子・蓮華・錫杖を持ち、さらに二本の手は掌を空に向けている。観音菩薩の持ち物の羂索を網に使って失せ物を捕まえて引き寄せるという秘法である。

「オン・アボキャ・ハンドマ・ハンシャ・コロダ・カラシャヤ・ハラベイシャヤ・マカハジャハテイ・エンマ・バロダ・クベイラ・ボラカンマ・ベイシャダラ・ハンドマコラ・サンマヤ・ウン・ウン」
 なぜか古相寺は見よう見真似でたちまちこの長い秘法真言を会得した。そして旭子と巫女たちは昼前からぶっ通しで真言を唱え続けた。食事はおろか水も口にせず唱え続ける事がいかに苦しいか想像つくであろう。深夜を超えるあたりで他の巫女たちの声は小さく消え入りそうになったが、旭子と古相寺の声はひと際高いまま奥殿に響き続けた。

 夜明けの鳥のさえずりがかすかに届く頃、古相寺が「何か重いものが網にかかりました」と叫んで前のめりに倒れた。壬生野が慌てて古相寺を抱き起こしたが古相寺は気力を使い果たしていた。
 それを待っていたかのように捜索隊からの電話が鳴り響き、男児がなぜか沼とつながってない20キロも上流の嵐山から偶然、発見されたのだ。若干、水を飲んだ形跡はあるものの命に別状はないという。
 きっとこの時から、旭子は古相寺の人を助けたいという情熱を高く評価するようになったのだろう。

 壬生野は技術部の部屋に駆け込んだ。
「島崎さん、すみません、今すぐコード端末機を使わせて下さい」
「おっ、ああ、壬生野君か、かまわないよ」 
 といっても準備してもらわないと使えない。
 なぜなら技術部の端末は古相寺が持っているポータブルタイプではなく、縦横が壬生野の背と同じぐらいあるアルミ製の四角い箱からつながったキーボードと15インチの液晶画面なのだ。四角い箱の内部は電気抵抗を極限に減らすために超低温絶対零度に保たれた量子コンピューターということらしい。時々、技術部のエンジニアが自慢しながら教えてくれるのだが、女子としては科学オタクの壬生野にもまだ理解できない。
 島崎がユーザーダイアログ画面を呼び出してくれて壬生野は席に着いた。

『美穂、なんか旭子様を呼びはったん?』

『ああ、茜、やっと通じた』

『何やのん?』

『大変なんやて。あんな、予定しとる偵察機ではあまり遠くまで飛べんとわかったんや』
『ハワイまで島を飛び飛び燃料補給して行こうかてな、そん島が今は殆どアメリカに取られてあらへんの』
『せやから格納庫付きの潜水艦しかあらへん。けどそれかて都合よくハワイに向かうんがあるかわからんし』
『来月の12日にハワイの東で伊号第12潜水艦と落ち合うゆうんはもう無理かもしれん、どへんしよ』

『美穂、落ち着きぃ。ジョン・タイターん話は覚えとる?』

『覚えてるけどそれがなんやん、ジョンさんが助けに来てくれはるんか?違うやろ?』

『せやから落ち着きぃって。ジョンさんは最初何年に来たんやったかな?』

『えーと最初はまず2036年から1975年に来たんよね、誰かに会うために』

『そないやったな。次は?』

『そっから自分の生まれた1998年に飛んで2000年までおって掲示板デビューしはった』

『素晴らしい、よう覚えててくれはったな』

『それがなんやの?』

『えっ? だからなタイムトラベルは1回きりでおへん、2回でもええちゅうことや』

『うん……?』

『それにタイムトラベルは過去にも行けるし未来にも行ける』

『えーと、もしかして』

『だから偵察機を手に入れてからちょっと時間を戻れば遅刻はなしに出来るし』
『そのうえ前回は指示が簡単やから同じ場所に移動したけど』
『違う場所を指定してタイムトラベルすることも可能やねん、例えば……』

『例えば?』

『来月12日に伊号12潜水艦がタミール号を見つけるあたりの海上に飛ぶとか』

 古相寺は視界がパッと明るくなるのを感じた。

『なんや、面倒せんとえらい簡単に行けるんやない!』

『そないなんやで』

『待って、ちょっと待ってよ。人間はタイムトラベルできるとして、飛行機はどないすんの、あれは大きいから無理か?』

『そっちも寸法が半径6メートルに収まると確かめておいたから大丈夫や』

『大丈夫って?』

『あの結社の上の神社の東屋のところまで引っ張って来れば一緒に乗ってタイムトラベル出来はるんや』

 古相寺は深々と溜め息を吐いた。

『そうなんや。大丈夫なんや。安心したわ』

『めでたしめでたしやな』

『待って、ちょっと待って』

『なんや美穂、疑り深くなりはったなあ?』

『どうやって飛行機を境内まで引っ張ってくつもりなん?近くに飛行場なんてないで』

『あの飛行機は車輪の代わりにフロートゆうて浮きがついてるねん』
『桜受家のすぐ近くに鴨川の支流があるやろ、あそこに着陸、やなかった』
『着水してもろうて、そっから結社の男衆に引っ張ってもらって境内に移すねん』

『そら素晴らしいわ。茜は賢いなあ』

『美穂の願いもちゃんと旭子様に届いとったで、てか美穂は迷子猫に旭子様の名前付けて呼び寄せたんか?』

『ああ、ちょっと失礼かと思うたんやけど、緊急やから通じるのが大事思うてな』

『確かに、通じたからまあ、ええか』
 
 こうして古相寺の心配は壬生野により無事に霧消したのであった。

   ○

 10月29日午後3時頃、慶應義塾日吉寄宿舎にある艦隊司令部通信司令の部屋をノックする者があった。島埜中尉がドアを開けると、海軍軍令部の外山少佐と小柴中尉だった。

 机に向かって書類を読んでいた等々力中佐は驚いた。組織としては軍令部は陸軍の参謀本部と同列であり艦隊司令部の上に位置するから、階級では上の等々力も思わず丁寧語になる。
「これはこれは軍令部の外山少佐じゃないですか、急にどうしましたかな?」
「いや他でもない、貴下の通信員にうちの課員の間違いを正して貰ったようでして、間違った通信をせずに助かりました。そのお礼に寄ったのです」
「それはわざわざ」
「いや戦果も大事だが、間違いを防ぐのも戦果に等しい場合もあるゆえ」
 島埜中尉にソファーに案内された外山少佐と小柴中尉が座ると、等々力中佐は笑みを浮かべて対面に腰かけた。
「そんなことがありましたか」
「ちょうど夜間で不慣れな課員だったようで、お宅の通信室に送ってくれないかと頼んで発見されたのです。緯度経度の間違いだったようです。
 お宅の通信員は基地や港の緯度経度は全部頭に入っているとかで、そばに港がないこの位置はおかしいのではと見破ったそうです」
「ほおー、それは優秀ですな」
「本人にも礼を言ってやりたいが……」
「名前がわかれば呼びましょう」
「いや課員は気が動転して残念ながら名前までは聞かなかったようだ……」

「いつのことですか?」
 島埜中尉が割り込んで聞くと小柴中尉が「本日の午前1時すぎです、潜水艦班の一等兵曹だったということです」と答える。
 島埜中尉はすぐ通信室に内線電話をかけて答えを得た。
「夜間専門の松丸一兵曹のようです。まだ勤務前なので代わりに士官がすぐ参ります」

 等々力中佐と外山少佐は人事の噂話をやりとりし始めたが、地下の通信室から遠藤少尉が駆け付けるまで3分もかからなかった。
「遠藤中尉、松丸一兵曹がお手柄だよ。こちら軍令部の外山少佐だ」
 等々力中佐に紹介された外山少佐が褒める。
「君の部下は基地や港の緯度経度は全部頭に入っているそうだな。実に頼もしい」
「はっ、お褒め頂き光栄であります」
「久しぶりに珈琲が手に入ったので松丸一兵曹に渡してくれ」
 小柴中尉が遠藤少尉に紙袋を手渡す。
「このように珍しい物を有り難うございます、頂戴します」
 遠藤少尉は紙袋を押し頂き下がった。
「こちら、等々力中佐にも用意しましたのでご賞味ください」
 島埜中尉にももうひとつの紙袋を手渡して外山少佐達は退出した。

   ○

 松丸は内心緊張しながらも、それを表情に出すことなく勤務の机についた。聞き取りの用紙を束ねる紙バサミを出し、鉛筆を削り始めた。
 そこへ牧村少尉がやって来た。
「松丸一兵曹、こっちへ」
「はっ」
 上官部屋の仕切りに入ると勤務の明けた筈の遠藤少尉が残っていて笑顔で言った。
「昨夜、貴様は軍令部の課員を助けたそうだな。貴様は基地と港の緯度経度は全部頭に入ってると豪語したというのは本当か?」
「はっ、毎日聞き書きしてれば大体覚えるかと思います」
「俺も大きいところならすぐわかるが、正直、細かいところはあやふやだ。これから三つ港をあげるから緯度経度を答えてみろ」
「はっ、お願いします」

 遠藤少尉がにやにやして聞く。
「手始めにペナンだ」
「ペナンは北緯5度41分、東経100度34分であります」
 遠藤少尉は一覧表を見て驚いた。
「ふむ、当たりだ。次は奪還したい泊地ということでエニウェトク環礁は?」
「エニウェトク環礁は北緯11度30分、東経162度20分であります」
「ほおー、すごいな」

 今度は牧村少尉が聞く。
「じゃあ今度は俺から難問だ。向島はどうだ? 広島のな」
「港はないような」
「渡しがあるぞ」
「一覧にないのでおおよそになります。広島県の向島はおよそ北緯34度20分、東経133度10分です」
「うん、まあ、よかろう、ついでに小笠原の方の向島は?」
「そっちも港はありませんが、母島の位置からみておよそ北緯26度30分 東経142度00分程度かと思います」
 遠藤少尉が笑顔で言う。
「あっぱれだ、答えられなかったら巻き上げようとしたのだが失敗だ。外山少佐殿から貴様に珈琲を頂戴したぞ」
「はっ、ありがとうございます。後で皆で飲みたいと思います、許可いただけますか?」
 牧村少尉は嬉しそうに「許可する」と言った。

   ○

 21時10分をまわったところで松丸は洗い場で湯を沸かして珈琲を淹れた。
「牧村少尉、珈琲が入りました」
「おう、すまないな。うーん、この香り久しぶりだぞ」
「ええ、輸入禁制品などにされてこんな庶民の楽しみを奪うなんて」
 松丸が言う中、牧村少尉は勢いよく半分ぐらいを飲んだ。
「うーん、実にうまい。あとでもう一杯くれるか」
「はい、ではまた後で」
 
 こうして松丸は自分らの班と隣の班全員に珈琲を配った。もちろん皆が久しぶりの珈琲に大感激である。
 最後に牧村少尉にお代わりを給仕した。念を入れて珈琲のお代わりを勧めようと考えていたのに、牧村少尉の方から求めてくるのだから楽なものだ。松丸は笑みを漏らした。もちろん珈琲は松丸から外山少佐に頼んで手配したもので睡眠誘導成分がたっぷり入っている。

 松丸は自分の席に着くとレシーバーを耳にかけて打腱器を磨いて、伊号第12潜水艦からのモールス信号を待ち受けた。
 通信は内容の機密度によって暗号書のレベルを切り替えて暗号アルファベットに翻訳したものをモールス信号で送ることになっている。
 もちろんこちらから通信を送る場合は本来は牧村少尉から原稿が来て松丸が暗号書で翻訳して戻し再び牧村少尉が最終チェックをするのだが、今回は松丸がすでに原稿を書いて暗号翻訳した作戦通信文を使うことになる。
 
 9時45分頃に潜水艦班内は田舎の田んぼの蛙の合唱のような、いびきの合唱になっていた。そっと士官室を覗くと牧村少尉も机に突っ伏してピクリとも動かない。
 
 予想時刻の10時をすぎてまもなく、ついに松丸の耳と頭脳がモールスの単調な音からイノ12という単語を聞き出した。しかし続くアルファベットはそのままでは解読できないので、しっかり書き取ってゆく。
 イノ12からの通信が終わると、暗号書乙を開いて逐一逆翻訳して日本語に戻す。

『こちら、イノ12、商船1万トンニ魚雷命中セシム、損傷シ沈ミツツアリ。位置東太平洋北緯31度55分 西経139度45分』
 完成した通信文を眺めて松丸は頷く。現代に残る戦史通りの緯度経度である。

 松丸は内心の興奮を抑えながら、今度は用意してた暗号文をモールス打腱器から伝えるのだが、当初もらった命令案では時刻が現地時刻のままだったので、軍慣例の日本時刻に直しておく必要があった。もっとも昼と夜が逆転してしまう事態を想定していたとは思えず現場では現地時刻も参照に値するから残しておいた。古相寺には事後報告にする。
『6SSB(第六潜水艦隊司令部)ヨリ、イノ12、特別任務ヲ発ス、』
『11月13日0540現地時刻12日1240、北緯24度30分、西経146度44分ニテ待機セヨ』
『4本マスト帆船ヲ発見次第、後方南側ヲ潜望鏡深度全速ニテ並走セヨ』
『ソコニテ零式水偵ト会合シ、作戦司令ヲ乗艦セシメ、零式ヲ格納セヨ』
『本件他言禁ズ。敵潜厳重警戒ノコト』
『以後、司令部トノ定時連絡ヲ免除ス』

 打電を終えた松丸は大きく息をした。
 今頃、潜水艦の通信班員はこちらの信号を必死で書き写し、班全員で暗号書を開いて逐一逆翻訳して日本語に戻す作業を行っている筈だ。
 翻訳が完成すると艦長に裁可を仰ぎ、その後、こちらに返答がくることになる。
 その所要時間は通信員の能力で左右される。

 30分近くして再び伊号第12潜水艦からモールスが入電した。
『イノ12ヨリ6SSB、我、了解ス」

 自分の仕事をきっちりとやり遂げた松丸は不自然に見えない程度に小さくガッツポーズした。

第14章 潜水艦訓練と偵察機調達

 

 白岩は他の学生が乗り込む前に訓練艦の呂号第59潜水艦に乗り込んだ。
 呂号第59潜水艦は全長72m強、幅は約7m、伊号第12潜水艦に比べると排水量は889トンと半分以下、乗員も46名と半分以下と一回り小さい。安全潜航深度も伊号第12潜水艦の100メートルに対し60メートルしかない。しかも進水が1922年と建造から20年以上経っており耐久性にも疑問が付き始めた老朽艦だ。

 桟橋から甲板に歩いて渡ると艦橋で水雷長である先任将校の石黒大尉が出迎えた。
「ご苦労様です」
「お世話になります。白岩見習い大佐です。どうぞ学生として厳しくご指導下さい」
「早速、発令所へ参りますか。ご存知と思いますがハッチの垂直梯子は途中で切れてますから気をつけて下さい」
 まず石黒大尉が手すりを持って降りてゆき、続いて白岩が降りてゆく。
 艦長は発令所のデスクで訓練海域の図面を見ていた。
「艦長、白岩大佐です」
 白岩は素早く敬礼した。
「お世話になります、白岩見習い大佐です。こちらは醍醐中将から命令書であります」 
 艦長は38歳の此村少佐であり、白岩のなりすまし大佐より階級が下であるためやりにくかろうと、潜水学校長の醍醐中将が白岩と協議して、『艦内で艦長からの敬礼は不要、見習い大佐と呼ぶこと。呼ぶ場合は白岩を苗字で呼び捨てにせよ』という命令書を書いたのだ。
「配慮ありがとうございます。では白岩と呼び捨てにさせていただきます」
 しかし訓練のポジションとしては作戦司令であり、本来なら年数を重ねて現場経験で積むべき操艦指揮などが訓練項目となる。

「此村艦長、安全潜航深度が60メートルとのことですが、実際は倍ぐらいだと聞いたこともあります。実用の限界はいくらでありますか?」
 白岩がメモを開いて聞くと此村艦長は声を上げ、石黒大尉が苦笑した。
「いやあ倍などとんでもない。それは新型艦の場合で、使い古しのこの艦などは50メートルぐらいからリベットの隙間から水が漏れ始めます。この艦に限っては80メートルより下は覗きに行かない方が無難です。敵の爆雷ではなくて自分の浸水に撃沈されてしまいます」
 白岩は此村艦長の表現に(うまい!)と笑いそうになったが慌てて飲み込んだ。
 そこで伊号第12潜水艦について聞いてみる。
「なるほど。巡潜甲型だったらどれぐらいでしょうか?」
「あれは安全潜航深度が百メートルぐらいかな。特に傷んでなければ160から180まで大丈夫でしょう。あ、もちろん回天を積んでれば限界はそちらに左右されます」
 白岩は気になる点を聞いてゆく。
「アップ角は何度まで可能ですか?」
「私が経験したのは50度の手前48、49度です。ですが、それぐらいであっても感覚的には艦が垂直に立ってる錯覚がします。実際乗組員は壁や配管にしがみついてますし、電池室は液漏れで有毒ガスが発生するので大変です」

「実戦で魚雷を撃てるのは何度までです?」
「いや、ゼロツリム以外では撃ちません、魚雷は水平に進む仕様なので常識です」
 此村艦長の口調に軽蔑する気配が乗った。
「大砲では着弾距離の複雑な計算が必要ですが、水面を水平に狙うことで発射角度の計算が簡略化されるのが魚雷の最大の利点です」
「わかります。実戦で海底に沈座状態の時に敵が迫ってくる状況で撃ちたい場面もあるかと考えてあえて聞きました」
「仮に魚雷の横舵を適合出来るとしても計算が桁違いに大変になります」
「目標が大型艦で方位ゼロゼロならば、進行方向に長い艦底が的になり計算はかなり簡単になるかと思いますが」
「その状態だとかなり接近してますから命中した後、こちらも強烈な爆発圧を浴びて大きく損傷することが予想されます。
 まさか軍令部は我らを皆、回天にしようとお考えなのですか?」
「いえいえ、私は回天の片道攻撃は間違ってると思います。ただ可能性を全て考えてみることで新たな戦法が生まれたらよいと考えるのみです」
 此村艦長は白岩の言葉に安心したようで、逆に聞いてきた。
「敵機の透視可能深度は知ってますか?」
「いや」
 その用語は自衛隊で体験乗艦した時にも聞いたことがなかったが、そうりゅう型潜水艦は通常でも600メートルという深い航行をしてたため話題にもならなかったのだろう。
「これは敵哨戒機から目視で発見される深度で、日本海で25メートル、日本列島の太平洋側で35メートル、インド洋で40メートルとなってます。そこで以前は40メートルを使うことが多かったのですが、アメリカの対潜哨戒機がMADという磁気探査装置を装備してからは撃沈される艦が出ましたので、今は通常も70メートル以下を運行する艦が増えました。
 伊号潜水艦に乗られる場合は承知しておいてください」
「ありがとうございます」

 まもなく潜水学校の生徒たちが乗り込んで訓練が開始された。
 潜水艦勤務は艦長の下は水雷長、航海長、機関長が分隊長扱いの別格で哨戒長を交代で兼ねる。日本海軍の潜水艦に副長という職名はないが、先任将校がこれに該当し艦長に次ぐ階級の者で、水雷長が兼任するよう人事が組まれている。
 その下の士官は砲術長、掌水雷長、潜航長、機械長、電気長、機関科分隊士、軍医長、飛行長。各部門は掌水雷、内火、電気、操舵、応急、運用、信号、暗号、操縦、掌砲、通信、水測、電測、庶務、衣糧、看護、航空機整備と専門知識必須の部門ばかりで乗員の9割近くが下士官になる。運用は三直といってひとつの部署が3チームに分かれてチーム毎に2時間当番し4時間非番休憩を交互に繰り返すのが基本だ。
 さらに哨戒見張り、対空戦闘、爆雷防御、繋留作業、荒天準備、防火、防水などの部署も兼任しなければならず潜水艦は極めて特殊な勤務体系と言える。

 まずは各部署点検の訓練で基本的な間違いがないかがチェックされる。
 そののちに訓練のメインといえる急速潜航訓練に入る。なぜならば潜水艦は敵に発見された場合は潜ることが最大の防御になるからその時間短縮が最重要課題になるのだ。

 まず艦橋にいる哨戒長が敵機発見の想定で号令する。
「両舷停止、潜航急げ」
 鳴り響くベルの音の中、全部署が動き出す。
 哨戒長と見張り員七名は耐圧12センチ双眼鏡の蓋を急いで閉めて次々とハッチから艦内に突入する。
 最後に信号長が艦橋ハッチを閉めて「ハッチよし」を宣する。
 潜航の号令から「ハッチよし」まで45秒かかった。初めての本物の潜水艦訓練でこの突入タイムを出せれば優秀な方だろう。
 発令所では潜航長とツリム手が第一ベントを開き、哨戒長は艦外に通じる全ての弁の閉鎖をランプで確認し「ベント開け」で第二ベントを開いて潜航する。
 機関部門ではエンジンを停止し、排気弁と冷却水の弁を閉じる。
 緊急に対処していた乗組員は駆け付けた正式な部署員に引き継ぎをする。

 一回目の急速潜航訓練が終わると、再び艦は浮上した。
 発令所で時間を測っていた石黒水雷長が艦長にストップウォッチを見せた。
「艦長、初回にしてはまずまずでしたね」
「うむ。これぐらいで動ければ文句ないな」
 そこで白岩が艦長に願い出た。
「今度は私が哨戒班に加わり突入してみようかと思います」
「まあ構いませんが、怪我されぬように」
 此村艦長は困った顔で言った。大佐に怪我させたら結局自分が叱責を受けかねないと考えているのだ。
「大丈夫です、体はまだまだなまってません」

 突入訓練は三直チーム対抗のタイム戦になっているので、最年長に見える白岩に参加すると言われたチームは全員がいやな顔をした。
 白岩は笑いながら「そうイヤな顔をするな。足を引っ張らなければ問題なかろう」と言うとサッと梯子に取りついて見せた、かと思った次の瞬間には天井のハッチをまわしている。途中の梯子を登るところがなく一瞬に飛ぶように移動するのである。
 司令塔ハッチもすぐに開け、次の梯子も一瞬で登り艦橋ハッチをまわしている。
 皆がポカンと見上げると白岩は艦橋の上から「早く上がって来い」と叫んでる。
「なんだ、今の」
「速すぎる」
「忍者か?」
「ああ忍者だ」
 チームは喜び勇んで梯子を駆け上がり、此村艦長と石黒水雷長は顔を見合わせて不思議がった。

 若い特務員の矢吹に比べたらさすがに若干遅くなった部分はあるが、白岩にとって子供の時から力と速さを鍛え抜かれそれを維持する事が人生の全てだったのだから、一般人と比べたら体力速力が段違いなのは当然なのである。
 白岩からコツを手ほどきされた結果、突入タイムは最初のチームが45秒だったのを10秒以上縮めて33秒になった。慣れればもっと縮まるだろう。

「お見それしました」
「なぜそんなに速いのですか?」
 此村艦長と石黒水雷長が尊敬の眼差しで聞いてくる。ここで某所で忍者のような訓練をして来たと言ってはありがたみに欠けるので白岩は説明する。
「実は祖父の代まで居合抜刀術のキョウカ流の師範だったので、幼い頃から祖父に厳しくしつけられましてな」
 そう聞かされると人間というものは自分勝手に想像をたくまくしてなるほどと納得してくれるのである。
「そうでしたか」
「居合抜刀術の動きなんですね」
 そこで白岩は謙遜する。
「廃藩置県で看板をおろしてしまい今や無用の長物なんですが」
「いやあまだまだ実戦でいけそうですよ」
「もし戦争が終わって生きて帰れたら白岩大佐に入門したいぐらいです」
 石黒水雷長はそこまで言った。
 こんなわけで白岩はあっという間に生徒たちと教官たちの心を鷲づかみにしたのであった。

   ○

 何日か起動できずにいたが、海上航走になって甲板へ出る許可も出て白岩は甲板の艦橋裏でコード端末機を起動してみた。

『おう、わしや。ここんとこ訓練やっとったで潜ってることが多くてな。2時に連絡でけんかったわ』

『古相寺です。「わしや」じゃ誰だかわからないのでちゃんと名乗って下さい』

『わし言うたら白岩しかおらんやろう』

『壬生野です。念のためですがそのコード端末機は電波じゃなくて、量子もつれのエンタングルを使った端末なので海中でも地底でも送受信可能です』
『アインシュタインが「神はサイコロ遊びを好まない」と言って論争に負けた理論による通信なので』

 白岩はどこでも通信できると初めて知ったがとぼける。

『そ、そうか。ま、そうやないかと思ってたけどな』

『こちらから大事な連絡があります』
『松丸さんが伊号12潜水艦と通信しはりました』

『ほうか』

『送信した内容は、特別任務を発す、11月13日0540現地時刻12日1240』
『北緯24度30分、西経146度44分にて待機せよ。』
『4本マスト帆船を発見次第、後方南側を潜望鏡深度全速で並走せよ』
『零式と会合し作戦司令を乗艦せしめ格納せよ。本件他言禁ず、敵潜を警戒』
『以後、司令部との定時連絡を免除す』

『待て待て、11月12日いうたらもう10日しかないで。西経146度いうたらハワイの東やで。わしらは10日でそこへ行かなならん』

 白岩が慌て出すと古相寺が面白がって書き込む。

『白岩さんなら行けるでしょう』

『どうして行けるんや。まだ偵察機を手に入れてないのは知ってるやろが』

 古相寺がさらに書き込む。

『訓練終了後に偵察機を手に入れて下さい、ゆっくりでもいいですよ』

『何を呑気なこと言うてるんや、訓練終わってすぐ偵察機があってもな』
『あの零式小型水上偵察機の航続距離はカナブンの屁ぐらいしかないんやぞ』
『ハワイの東いうたら、あちこち補給地点に燃料準備しとかな辿り着けん心配があるで』

 慌てふためく白岩に古相寺が返信する。

『またまた白岩さん、慌てたふりして、ねえ茜』

 壬生野が合わせる。

『流石です、そういう演技させたら天下一品どすな』

 二人からからかわれた白岩はもはやキレる一歩手前である。

『お前ら、アホか、どないすんねん、もう間に合わん、作戦が最初でこけるぅッ』

 そこで古相寺が『ふふ、実は私も最初そう思いました』と明かす。

『このアマ、おちゃくるなよ』

『白岩さん、私たちこの時代に何で来たんでしたっけ?』

『タイムマシンや』

 まだ白岩が理解してないとみるや壬生野が颯爽と打ち込んだ。

『タイムマシンの辞書に遅刻という文字はないんです』

 白岩はしばらく目をしばたいてようやく大きく息を吸って気付いた。

『アッ、そうか、遅れてもタイムマシンで時間さかのぼって間に合うんやな』

『そうどす、偵察機はゆっくり探しても大丈夫ですよ』

『少し落ち着いてきたわ、一瞬、もう死んだ、切腹やと思ったぞ』

『えー? 白岩さんがこれしきのことで?』

『間に合わん感覚が正常なんや。念のため偵察機が一刻も早く手に入るよう』
『再度、外山少佐と醍醐閣下に頼んでおく。いやー、命拾いしたわ』
『これから燃料の手配もせんならんな、てか確か今ハワイ方面に向けて使える島は』
『硫黄島ぐらいか? 航続距離がカナブンの屁やからやっぱり無理や』

『茜、白岩さんはまだわかってないようや。あの話したって』

『白岩はん、お言葉を返しますがそないな補給は考えんでええんです』

『どういうこっちゃ?』

『そちらの時代に行った時は桜受家の同じ東屋の前に移動したんですけど』
『違う場所を指定してタイムトラベルすることも可能な設計になってて』
『来月12日に伊号12潜水艦がタミール号を見つけるあたりの海上に飛ぶなんてのも簡単に出来てしまうんですよ』
 
『な、なんやて、えらい簡単に解決したな』

 ここで古相寺が白岩を可哀想に思って助け舟を出す。

『ちなみに飛行機ごと行けます』

『ほうか、なんやこれから悩もうとしてたんが悩みなしや』

『でもって飛行機は東屋の前まで引っ張って来て下さい』

『そうか。となると近くに鴨川の支流があったな、あそこに着水して滑り台を作って』
『引っ張ればええ。道が狭ければ翼は折りたためるしな、うん、いけそうやな』
『いけるで、壬生野、古相寺』

『さすが白岩さん、呑み込みが早いわ』

『古相寺、早速、今の秘巫女様にわしが言うたことを話してお願いしてくれるか』
『水上偵察機を鴨川の支流から持ち上げて運ぶため、川の中に盆踊りで使うやぐらを立てて』
『櫓から川面に頑丈な板を渡しておきたいので木材と男衆の確保をお願いしたい』
『水上偵察機は幅11メートルだが主翼をたたむと幅7.5メートルになる。
長さ8.5メートル、重さ1.5トンで車輪はなくフロート足』
『あとは台の板と境内まで楽に引っ張るためのコロが40本ぐらい』

『あと技術部にもハワイ東への偵察機ごとのタイムトラベルに必要な準備期間を聞いてくれるか、何時間前に言い出せば出来るかだ』

『わかりました。公子様と技術部に話してみます』

 そこで壬生野が尋ねる。

『松丸さんや、望月さん、矢吹さんに何か指示することはありますか?』

『いや、特務員は特務員を信頼してる。彼らのやり方に任せておけばいいんだ』

   ○

 望月と矢吹は佐世保海軍航空隊に赴いた。
 外山少佐から零式小型水上偵察機が手に入ると連絡があったのだ。
 二人は隊舎で挨拶を済ませて格納庫の酒巻という整備士長に案内されて顔をほころばせながら外へ偵察機を見に行く。

「零式水上機はあそこの外れにある。何、大村航空隊が空襲で焼けちまってな。避難してきた運のよか機体だ」
 佐世保の飛行場は海を埋め立てて造成してあるので来たのだろうが専用の桟橋などの正式な係留構造ではなく、急場しのぎに作ったた小さい桟橋に繋ぎ止めてある。
「もし気に入らんかったら、機体は福岡で作っちょっからの、またこっちへ回ってくっかもしれん。ここで待ってもよかぞ」

 望月と矢吹は偵察機を間近かで見ると気分が滅入ってきた。
 零式小型水上偵察機はフロートこそ金属製だが、骨組に羽布張りの機体だ。それはいいとしてもこの目の前にある機体は胴体前方部分に皺が寄っているのだ。
「酒巻さん、この皺はなんですか?」
「なんでも操縦士は急降下したら寄ってしもたとか言っちょったな。だが特段、性能には悪影響ばなかと言っちょった」
 矢吹と望月はささやき相談する。
「大丈夫ですかね?」
「あれだ、スマホで少し前のカバーフィルムを貼る時にヘタだと気泡が出来たろう。それと同じことが製造過程で起きて、急降下で大きくたるんだ」
「白岩さんは少しなら待てると言ってたからここは待ちますか?」
「いやまず試しに飛んでみよう、それで大きな問題がないか確かめたい」
 望月は酒巻に聞いた。
「酒巻さん、少し試験操縦してもいいかな?」
「ああ。少しならかまわんぞ。そっから乗る時に落ちんごつな。」

 早速、小さな桟橋に降りてから望月は後方の偵察員席に、矢吹は前方の操縦席にもぐり込んだ。
 望月は通信機に水晶発振子をセットし、伝声管をつけた。エンジンをかけ回転数を上下しながら矢吹が言ってくる。
「見た目は新しそうだ」
「うん。後方よし、左右よし。見張りよし。離水準備よし」
 
「離水する」
 回転数がいよいよ上がり機は滑るように海上を走り出した。スっと浮いて機体が上昇してゆく。飛び上がってしまうと自分が鳥の体内にいるような気がしてくる。

零式小型水上偵察機

 高度二千五百を超えたあたりで矢吹が望月に言ってきた。
「宙返りしてみる、いいか?」
「見張りよし、やってみろ」
 偵察機は斜め上から真上の空を向き、背面飛行に移り、真下の海を目がけて元の水平飛行に戻った。
「旋回する」
 望月は前後左右に目を配り言う。
「見張りよし」
 偵察機は機体を左に傾けて左に旋回した。

「次は緩横転」
「見張りよし」
 偵察機は進行方向は変えずに横に回転し背面状態になりさらに回転して元の通常進行状態になる。いわば水泳のクロールをしている途中で回転して仰向けになり、またクロールに戻る感覚である。

「次は合わせ技、インメルマンターン」
「見張りよし」
 今度は宙返りの頂点で背面飛行になったところで宙返りを止め、緩横転を半分の180度だけ回転して正常進行状態になる。

 それからもいくつか旋回性能や上昇下降性能を確かめると望月が言った。
「ふむ。帰投するか。見張りよし。方位270度ヨーソロー」
「了解」
 偵察機は機体を右に傾けて右に旋回した。

「この機体はあまりよくないと思うが」
 矢吹が言ってくると望月が聞いた。
「うん、飛んでると少し左にずれるようだな。我慢できない程か?」
「我慢しろと言われれば我慢するが、少し待てばもっといい機体が来るかもしれない」
 望月が考えを述べる。
「それは不確実な期待だな。
 それより問題は昨日飲み屋で聞いた、宇佐航空隊でガソリンが使用停止になり、代替アルコール燃料になるって噂だろう。もし次の機体がそんな中途半端な燃料を積んでたら飛ぶのは危険だぞ。
 ちゃんとした燃料のこの女で我慢するか、代替アルコールのちょっといい女を待つか、お前はどうするんだって話だ」
「わかったよ。縁あったこの女を大事にしよう。その代り気が付くと方向がずれてるかもしれんから進路の修正は任せたぞ」
「任せとけ」

 こうして少し欠点のある零式小型水上偵察機が桜受のタイムダイバー隊のものになった。
 

第15章 偵察機 鴨川支流に着水す

 

 11月9日。帆船パミール号を目印とした伊号第12潜水艦との会合まであと2日と迫った昼下がり。白岩は紺色の海軍軍服に身を包んで桜受家の秘密出入り口である神社宝庫に入った。
 必要はないのだが二礼二拍手してから鉄扉の向こうに挨拶する。
「お世話になります、白岩です」
 しばらくすると鉄扉の脇の壁が後退した。中から酸漿さんが顔を見せる。
「まあ、白岩さん、ご苦労様どすなあ、ささ、お入りやす」
 白岩は地下要塞の中に入りながら挨拶する。
「酸漿さんもお元気そうですな」
 酸漿さんが屈託ない笑顔で応えた。
「ははは、それだけが取り柄ですねん」
「その節はお世話になりまして、今回もまた無理言うてすみませんな」
「いえいえ、公子さんもお役に立てて嬉しいことじゃと仰ってはります」
「それはこっちの方が感激です。甘えついでに我儘聞いてもらえますか」
「なんですの?」
「公子様にお会いする前に身を清めたいんですわ。ずっと一週間潜水艦に乗ってましたんで汗臭くてかないませんのや」
「それはご苦労様でしたな。今回も飛鶴の間をご用意しましたで、お荷物を置いて、風呂を使っておくれやす」

 水を浴び風呂に浸かってさっぱりした白岩は軍服をきっちりと着直した。但し軍服の正装には欠かせない短剣は自ら警備室に預けてから、地下6階の奥殿に向かった。
 白岩は巫女たちに中央の遥拝座所の前に案内された。今日は座布団付きである。正座して待つとまもなく、右手にある秘巫女の執務室から公子が姿を現した。衣装はいつもの妃のような鮮やかな装束に翡翠色の勾玉の首飾りだが、正式行事だと着ける黄金の冠はない。

 公子は遥拝座所の手前に置かれた椅子に座ると言った。
「白岩、訓練は終わったようじゃな」
「はっ、無事に終わりました」
「大儀であったな」
 巫女が白岩に茶を出した。
「ところで先日、乗組員の食料を手配してくれと古相寺から聞いたが」
「はっ、今回の作戦は潜水艦を入手してから攻撃までの期間が半年も開きます。そこでいったん日本に帰りいろいろ補給せねばと考えておりました。
 そうしたところ潜水学校の校長醍醐中将閣下が後陽成天皇のご子孫でして、わし、いえ私が八咫烏結社の特務員だと見破られたのです」
「ほおー、見破られたはまずいが、それは奇縁じゃな」
「はい。そして醍醐閣下は私に伊豆の特攻基地で伊号第12潜水艦用に燃料備蓄を申し出てくださったのです。さればと公子様に食料の方をお願いしようと考えました。人数が百人を超え多いため大変かと思いますが、古相寺には旭子様より資金も持たせてありますゆえどうかそれで……」
 すると公子は鮮やかな緋色の扇で宙を打った。
「ならぬぞ、それは」
 白岩は驚いて「はっ?」と声を漏らした。
「桜受家が同じ桜受家に金を払うなどあってはならぬ。おぬし等は我が特務員と考えておるし、作戦が支障なく進むよう心を配るのは吾の務めじゃ。そのためなら家の中で我らはすいとんを食してもそなたらと乗組員に滋養のつくものを提供させる」
 白岩は感激で震えた。
「そ、それほどまで我らを……」
「おぬし等は広島長崎の20万の民を救う英雄であるのだぞ。我ら桜受家全体の誉れであると心得よ」
「ははあ、真にありがたきお言葉にて、武者震いいたします」
 白岩は胸に熱くたぎるものに奮い立った。
「古相寺にも金のインゴットは表の天子様の伝手を得る資金といたせと申し渡してある。あちらも成らねばそなた等の偉業もかすんでしまうぞ。見てやれよ」
「心得ました」

やぐらの材料は手配していただけたようで、ありがとうございます」
「境内の空き地に積んであるを見つけたか?」
「はい。明日、日没までに川の中に櫓を組み立て、そこから水面への滑り板を渡しておきたいと思います。夜が明ける頃に偵察機が到着することになってます。そこから一気に道路まで引き上げ、境内まで引っ張りたいと思います。
 ついては、こちらの特務員や世話役の方と打ち合わせしておきたいのですが」
「すぐ呼ぶゆえ事務室で待っておれ」 

   ○

 午前2時の闇の中、望月と矢吹は隊舎を出て愛機の待つ仮桟橋に向かった。
 すると格納庫からずんぐりした影が近寄って来て声をかけた。
「望月大尉、矢吹少尉、出発だそうでお見送りします」
 望月が返事する。
「ああ、酒巻整備士長、ありがとう、お世話になりました」
「例の左に振れる件は調べてみたんですが簡単に直せん構造の基礎部分の問題のようで。お役に立てんこって申し訳ありません」
「まあそれほどひどいブレではないので大丈夫です」
「聞いたとこじゃ福岡で勤労奉仕の生徒が一生懸命作ってくれちょっとです。しかし品質管理まで手がまわっとらんようで申し訳ありません」
「そうでしたか」
 酒巻は溜め息を吐いてつぶやいた。
「窮鼠、猫ば咬むと聞いちょりますが、歯のなか鼠はどうなりますかの?」
 この頃、国民の多くは下り坂を転がりだした戦争の行く末に怯えているのだ。
 酒巻の心配を矢吹が肩に手を乗せて掃って言った。
「大丈夫ですよ。もしかしたらこの先、残念な結果があるとしてもそれは通過点ですから、安心して生きてください。俺たちも酒巻さんや勤労奉仕の生徒たちをがっかりさせないような戦いをしますから」
「はい……」

 酒巻が帽子を勢いよく振り見送る中、望月と矢吹が乗った零式小型水上偵察機は港の漆黒の水面から飛び上がった。

 佐世保海軍航空隊から京都市南部の桜受家を直線で結ぶと、距離は594キロほどで、殆どの行程が瀬戸内海上空になる。ここで北半球の最短航路を飛ぶならば結んだ直線より北側に膨らみ陸地に入るのだが、そうなると通過点の街にいる対空の警戒陣地に余計な労を与えてしまうし、こちらも交信する手間が増えてしまう。それを回避するため直線そのままの等角航法で高度100メートルの低空を飛んで、北九州を横断して国東半島の北縁をかすめ、瀬戸内海に入り今治の北を通り、高松の北を通り明石海峡に向かっている。

 偵察席の望月が前の操縦席の矢吹に伝声管で言う。
「もうすぐ東経135度だ、方位078ヨーソロー」
 前方の東空は色が漆黒から濃紺にと夜明の気配を帯びてきた。
「078了解。そういえばこの時代、明石海峡大橋なんて影も形もないんだな」
「あったら気をつけないと、吊り塔の最高部分は300メートル近かった筈だ」

 眼下右前方の暗い海面にうっすら淡路島の影が見える。淡路島は記紀では伊弉諾神イザナギ伊弉冉神イザナミが最初に作った国とされる。遥か高空から眺めればいびつな勾玉と見えなくもない。
 桜受家内部では太平洋戦争の5年後、巫女が神懸かりして淡路島について予言を下ろした事がよく知られていた。

『この鳴門は天の鳴門に通ず。この地こそ宇宙の御代に開ける星常立の大星都なり。
 巻角裂舌太尾の邪鬼堕魔が鳴門の井戸を盗まんと地震起こすぞ、渡してはならんぞ』

 だから桜受家では密かに邪鬼堕魔の力を封じる結界を張る活動を広げたのだが、それでも阪神淡路大震災は起きてしまった。桜受家の者は「ああ、あの予言が当たったか」と悔やんだが、調べてみると結界がそれなりに被害を減らし霊的な構造はなんとか守られたのであった。そして桜受家は淡路を中心とした復興と未来の星都建設を目指し人材を派遣したり融資をしたりと出来ることは何でもしてきたのだった。
 今、見える淡路島は眠っているかのように静かだ。

「本当に明かりがないから昭和どころか江戸時代みたいな感覚がするな」
「灯火管制が時代を戻したな、そのおかげか時間帯のおかげか敵機に遭わずに済みそうだ」

「桜受家まであとどれぐらいです?」
「距離で76キロ、時間にしたら18分ちょいだな」

「そろそろ白岩大佐殿に報告した方がよくないか」
「うん。ちょうど今、コード端末機を起動したところだ」

 望月はコード端末機に文章を打ち込んだ。

『こちら望月。白岩大佐、起きてますか?』

『おヒサ~。交信出来て嬉しいですぅ』

『誰だ、お前は?』

『私しかいないでしょ、古相寺どすぅ』

『お前は神奈川海軍本部近くで勤めてるんじゃなかったのか?』

『タイムダイバー隊の大行事ですから休み貰いました、私が機械に疎い大佐に代わって交信してますの』

『どっちも疎そうだが、あまり無駄話もしてられない。今、神戸西宮を通過』

 そこで操縦席の矢吹が呼ぶ。
「前方に発光信号。大阪の対空陣地かもしれない」
「矢吹、翼振れ」
 矢吹は機体をひねって翼の端を上下に振った。望月もライトを点滅して味方であることをモールス送信した。
 相手から了解の発光信号が返る。

『大佐の準備は出来てるんだな?』

『大丈夫やと書いてくれ言うてます』

『櫓を建てたと聞いたが』

『橋の手前に櫓を立て、その前に滑り台の傾斜を作った、だそうです』
『うまいとこ櫓に乗ったところでピタリと止めてくれよ、だそうです』

『無理言うな、フロートにブレーキはないんだぞ。そっちこそ押さえて止めてくれ』

『プロペラは止めといてくれよ、さすがに回ってたら怪我するわ、だそうです』

『了解』

『今どこですか?』

『淀川上空を遡ってる、枚方あたりだな。前方で淀川が三つに分かれてる』

 そこで望月は伝声管で矢吹に伝える。
「左から桂川、宇治川、木津川だ。矢吹、真ん中の宇治川に沿って行くぞ」
 鴨川の本流は桂川に流れ込んでいるのだが、桜受家の傍を流れる鴨川支流は宇治川に流れ込んでいるのだ。
「了解」
 さっきまで紺色だった空が薄くなり橙色が混ざり出す。

『ところで着水距離は700メートル取ってあるんだろうな』

『うーん、少し足らんかな、だそうです』

『それじゃあ困るんだよ、さっき言ったがブレーキは翼のフラップしかないんだ』

『スピードを滑り台で抑えてくれ、だそうです』

「望月さん、宇治川に入ったぞ」
「了解」

『滑り台は何メートルあんだ?』

『45メートルだ、だそうです』

『俺の直感でギリギリだ』

『気が合うのう、俺もギリギリと思う、だそうです』

『まあ俺たちの「ギリギリ」てのは「いつも通り」てことだがな』

『結果、うまくいくのがわしらだ、だそうです』

『そろそろだぞ、準備してくれ』

『おう、さあ来い、だそうです』

 望月はスコープを覗いて角度を計測する。
「方位003ヨーソロー」
「003、了解」
 零式小型水上偵察機は左に88度旋回した。わかりやすくいうと東向きから北向きになったのだ。

 現代と比べるとまだまだ開発が進んでいない京都市郊外の街が見えて来た。その間に鴨川の細い支流がある。
 上流へと目をやるとふたつ向こうの橋の前に櫓があり、人がざっと30人ほど乗っている。さらにその手前の滑り台の脇にも並んでいるようだ。特務員、実働員から運輸部、技術部、工作部、警備部など桜受家の男衆が総出なのだろう。

「よし、矢吹、最初は高度を下げすぎずにゆっくり滑り台から櫓の構造を観察して通り過ぎよう」
「了解です、翼振ります」
 矢吹は機体をひねり翼の端を上下に振った。
 川はゆるやかに蛇行しているが問題なく適応できる範囲だ。

 いよいよ滑り台が眼下に見えてきた。
「なるほど、あれは着艦フックの代わりなんだな」

 滑り台の終わるあたりには漁に使う網が渡してあり、それをフロートに引っ掛けて減速させようというアイデアらしい。勢いのある滑り台の始まりに網を張るとG加速度に耐えられずこの偵察機の華奢な脚部は折れてしまう可能性がある。しかし、スピードの落ちた終盤なら効果的かもしれない。

「矢吹、大佐殿は見えたか?」
「ああ、櫓の真ん中にいました。古相寺は橋の上にいました」
「じゃあ宙返りしていよいよ本番と行くか」
「了解、インメルマンターン行きます」

 零式小型水上偵察機は宙返りの頂点で背面飛行になったところで宙返りを止め、緩横転を半分の180度だけ回転して、今来た川下に引き返す。
 その宙返りを見て地上の男衆からヤンヤの歓声が上がった。
 祭りのような声にあちこちの住宅の雨戸が開き人々が外を覗く。

 零式小型水上偵察機は1キロ半ほど戻って再びインメルマンターンの宙返りで櫓へと向かった。今度は高度を下げつつスピードも絞ってゆく。
「方位003ヨーソロー」
「003、了解」
 高度が70メートル、50メートル、30メートルと下がり、川面が近づいてくる。
 同時に滑り台との距離も400、320、240メートルと迫ってくる。
 川幅は16メートルほどで、機体の幅は約11メートルなのだから矢吹はかなり神経を使わされる。
 水面に触れたかすかな感触、着水したのだ。エンジン回転数はゼロだがプロペラが惰性で回転してる。
「矢吹、少し左へずれるぞ、方向舵を逆にあてろ」
「了解」
 水面から見る滑り台と櫓は上よりも大きく見える。距離が160、80メートルと迫る。
 フロートは抵抗がタイヤより少ないため時速はまだ60キロ出てる。
「矢吹、滑り台からずれないよう方向舵だけ注意だ」
「了解、望月さん、しっかり席を掴んでて下さい」

 望月は座席の枠組みを両手で握り衝撃に備えた。
 ボンと音がして浮いた感覚がした。フロートが滑り台に乗ったのだ。しかし時速は55キロを超えている。零式小型水上偵察機が過ぎた側から男衆が飛び出した。万が一の滑り落ちに備えて斜面を駆け上がるのだ。
 望月は焦った。スピードが予想より落ちない。
 45メートルの滑り台は残り30メートルもない。なのに時速はまだ45キロだ。

 残り15メートル、時速は32キロ。
「矢吹、網にかかる、少し衝撃があるぞ」
 櫓の手前8メートルあたりに張られている網にかかりフロートが網に捉えられる。
 左右から特務員が網に飛びついて錘になる。
 あと2メートルで滑り台は終わりというところで時速は18キロに落ちた。

 だが櫓は狭い。突っ切れば機体が間違いなく損傷する。
 前方で構えてた特務員が翼を目がけて飛びつき懸命に抑える。
 中央では白岩が待っていた。スピードは10キロまで落ちているが機体の重さは1.5トンだから慣性に乗った圧がかかる。
「おうりゃー」
 白岩は欄干に足を踏ん張りプロペラを両手で押した。その姿はまるで単に宙に浮いた突っかえ棒だ。
 だが、それ以上白岩の体が縮むことはなかった。

 零式小型水上偵察機はぴたりと止まったのである。
 望月は矢吹の肩越しに握手した。
「よくやった」
「けど白岩さん、一番おいしいところを取りましたね」

 古相寺が白岩の前で飛び跳ねて喜んでる。
「やったー、白岩さんすごいよー、見直したー」
「これぐらい朝飯前や」
 すると風防を開いて望月が大声で言う。
「古相寺、別に白岩殿だけが頑張ったんではないぞ、櫓上の10人、網に捕まった20数人、合わせて60キロの30数倍だから、総重量1.5トンを超えたおかげで止められたんだ」
「はあ、計算はよくわかりませんが、確かに皆さん全員の力ですね。皆さん、ありがとうございます」
 そこで白岩が音頭を取る。
「それでは皆さま、お手を拝借、ヨオー」
 皆が一斉に拍手した。
 シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン。
 シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン。
 
 工作部と技術部が早速主翼のボルトを外して折りたたみにかかる。
 10分ほどで翼の両端は風防側に折れた。
 すかさず、男衆が機体を90度回転して押し出す。川岸側には板が置いてあり、それにフロートが乗った。こうなればしめたものだ。板の下にはコロが敷いてあるので板に乗った零式小型水上偵察機は楽に道路を進みだした。
 板から後ろに、はみ出ていったん用済みとなったコロは男衆が素早く持ち抱え前方に運ばれて板がこれから進む方向に並べる。
 道路には町の人々が何事かと次々と出てくる。
 ついには巡査まで駆け付けた。
「何事かあ?」
 白岩が先頭に出て説明する。
「ご苦労様。これは帝国海軍の飛行機が神社のお祓いに行くところだ、通してくだされ」
 そう言われれば巡査はあっさり同意するしかない。
「それはごくろうさまだ。ほら、危ないから町のもんは下がって下がって」
 頼みもしないのに交通整理を買って出てくれた。

 
   ○

 
 こうして零式小型水上偵察機は無事に境内の東屋前に運ばれた。
 拝殿前にはお祓いを見届けようという者が残ってるので宮司から「本日は日が宜しくないのでお祓いは明日におこなう」と発表してもらい人払いした。
 偵察機のそばにずっといようとする子供たちも登校時間が近づくと消えた。

 白岩と望月、矢吹、そして古相寺は再び飛鶴の間に集い、お握りと京野菜の味噌汁で朝食を摂った。
 男たちは訓練についていろいろ語り合った。
「白岩さん、訓練艦でうまいことアピールしたんだな。次に乗る艦でも頼むぞ」
 望月が言うと白岩は胸を叩いてみせる。
「任せとき、わしは本番に強いからな。そっちはどないなんや?」
「まあ、こっちも問題なしだ。あの偵察機は勝手に左にブレる癖があるが注意して乗れば問題ない」
「ほうか」
「ただ問題は今回の作戦が成功した後の事だ。国内ではついに燃料が足りなくてアルコール燃料なんて訳の分からんものが使われ出したぞ。これでは性能低下やトラブルも出て来る。今回の形はギリギリ最後の攻撃やと思う。成功した後に、もう一度言われても後は考えにくいわ」
「ふうん、それはもう裕仁さんに早いとこ匙投げてもらわんとならんな」
 男たちが一斉に古相寺を見詰めた。
「な、何ですか?」
 古相寺はプレッシャーで眉間に眉を寄せた。
 白岩が聞いてくる。
「古相寺の表の天子様説得作戦はどうなってるんや?」
「どう……と言われてもまだ何も」
「おいおい、早いところ着手せんと、最初の広島長崎を止めてもアメリカはまた半年もせんうちに原爆を作りよるで」
「あ、はい」
「もしまだとっかかりがないんなら、大竹の潜水学校の醍醐校長に頼んでみるとよいかもしれん。この方は秀吉の聚楽第に招かれた後陽成天皇の子孫で一条家の流れの侯爵や」
 古相寺はサッと笑顔になる。
「そうですか、じゃあ潜水学校への連絡方法を外山少佐はんに聞けばええですね?」
「まあ、それでもええかな」
 古相寺は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。私、ほんまはどないしようか悩んで。ありがとうございます。
調べようにもこの時代はインターネットもないし、誰に聞けはええかわからんし」
「きっと神さんが助けてくれはったんや、大丈夫やで」
 公子様に言われたのもあって白岩は古相寺を優しく励ました。

   ○

 工作部が零式小型水上偵察機のたたんだ翼を元に戻していよいよ準備が完了した。
 神社の境内から偵察機が消えるところを見通せないように横断幕も張られた。
 昭和のこの境内にも現代と同じ位置に同じ大きさの物置小屋がある。タイムマシンが稼働態勢に入っているため小屋を包むように黒い霧が発生し出している。
 その小屋にほぼ接するように偵察機が置かれていた。

 紺色の軍服の白岩は、飛行服の望月、矢吹と共に偵察機に歩いて向かいながらあることに気付いて「あっ」と声を上げた。
「わしはどこに座るんや? 座席は二人乗りやないか?」
「気付くの遅いな。でも重さ的には大丈夫だ。60キロ爆弾を2個積む余裕がある。矢吹のところは操縦の邪魔だから、俺のとこに立ってろ」
 そう言われた白岩はしばし考え込んだ。
「うーむ。それでは望月も仕事しにくかろう。そうだ、わしが望月を抱っこしたる」
「キモいこと言うなよ」
「正直に言うてみい。わしが目の前に立ってたら仕事の邪魔やし、万が一、わしが屁をこいたら望月逃げられんぞ」
「うぬぬっ……」
「大丈夫や、誰も見んがな。わしもその気はないし」
 望月は白岩に抱っこされることになった。

 東屋ではいつもの妃のような装束を着た公子を真ん中にして古相寺、それから昭和の技術部長や工作部長、そして特務員が並んで座って偵察機を見守っていた。
 古相寺はコード端末機を操作して、現代の技術部長からのタイミング指示を交信していた。
「公子様、いよいよ1分前になりますよ」
「うむ、頼むぞ」
 特務員が合図を送ると偵察機の前10メートルにいる別の特務員が手を大きく回した。
 それを見て矢吹がエンジンをかける。これは波が高いと離水が難しくなるので偵察機は海ではなく、ハワイ東の海域の高度千メートルに送られるためだ。

 いよいよ小屋を包む黒い霧が濃くなってゆく中、古相寺が秒数を読み上げる。
「あと20秒です……あと15秒……10、9、8、7、6」
 偵察機のエンジン音は順調に上がっているようだ。
「5、4、3、2、1、0」
 カウントダウンがゼロに達した瞬間、1.5トンの偵察機が50センチも浮き上がった。
 続いて偵察機の機体自体がゴムで出来てるかのように50センチ伸びてゆく。
 それを見て公子は心配になった。
「おっ、大丈夫か?」
「はい、いつもこうなるのです。当人には特に感覚はありません」 
 
 次の瞬間、偵察機は三人の特務員を乗せたまま跡形もなく消えていた。

 

第16章 奇跡の遭遇

 風に乗ったカモメがハワイの方角を目指して飛んで行く。
 ここはハワイ州の東、東太平洋だ。
 太陽は朝からじりじりと照り付けてくるので喉はもちろん、皮膚からも水分が奪われていく。
 風が甲板の上を吹き抜けていて噴き出た汗を乾かし少しだけ体感温度が下がるのがせめてもの救いだ。

 甲板員のコールウェルが船縁にもたれて息を吐いている新米のボブを見つけて叱った。
「どうした? もう少しやれば終わるんだからさぼるな」
「こんな甲板掃除なんて必要ですか? どうせ海水が洗うよ」
「乾いて塩が浮いたら甲板が腐るだろ」
「何も毎日やらなくても、三日に1回とかでよくねえすか?」
「そうやって間をあけるとな、いつやったかわかんなくなるんだよ」
 ボブは溜め息を吐く。
「俺はエンジンの機関員になりたかったんだ。そしたらもっと楽で給料もいいのに」
「機関員は学校で勉強しないとな」
「そこですよ、あんなん難しすぎて」
「だったら米軍に志願すればいい、働き次第で出世できるぞ。新兵は月50ドルだが、軍曹になれば月100ドルだぞ」
 コールウェルが言うとボブは憮然として言った。
「戦争で人殺しなんてごめんですよ」
 コールウェルはボブの人柄に安堵して言った。
「だよな。それでエンジンのない世界最後の帆船になるかもしれない女神が俺たちみたいなあぶれ者を拾って働かせてくれるんだ。給料は安いがありがたく思えよ」

 突然、鐘が鳴らされて航海士の大声の命令が響き渡った。
「野郎ども、急いで残りの横帆を全部張れ」
 現在、横帆は上から5枚までが張ってあるが、一番下のヤードの横帆はたたまれていた。
 コールウェルが「ほら、来い」とボブの手を引っ張った。
 だがボブはマストの横帆を仰ぎ眺めて言う。
「なんでこの船はこんなに横帆がたくさんあるんすか? 大きい横帆ひとつにしてくれれば手間が省けるのに」
 コールウェルは苦笑した。
「大きい帆ひとつだと強風に耐え切れずにマストが折れるんだとさ」

 彼らの乗っているパミール号は4本マストで前3本のマストにはヤードと呼ばれる横棒があり横に広い帆が張ってあった。ただ一番後ろのマストには横帆がなく、縦帆である。こういうタイプの帆船はバークと呼ばれる。だからコールウェルが言った。
「シップじゃないことを感謝するんだな」
 シップと呼ばれるのはマストが3本以上ありしかも全てが横帆の船のことだ。
 登檣とうしょうの網梯子を登りながらボブが言う。
「そんなの気休めにもなりませんよ」
「じゃあこれはどうだ。昨年、この船は日本の潜水艦に見つかったんだ」
 ボブの顔が歪んだ。
「そいつはヤバすぎだ」
「だがな、全部の帆を張ってたからこの女神は全速で逃げ切れたんだぞ」
「ほ、本当ですか?!」
「ああ、だから帆はきっちり張るんだ」
「イェッサー」

 帆 帆を張り終えたコールウェルは「いいものを見せてやる」とボブを連れて先頭部分に向かった。
 コールウェルは甲板の最も先に着くとさらに海に突き出たバウスプリットと呼ばれる棒を包む網に足をのせて進んだ。
「ボブ、振り返ってみろ」
 コールウェルに言われてボブはその場で後ろを向いた。
「どうだ、ここから見ると彼女が一番美しく見えるだろう」
 ボブには今ひとつ実感が沸かなかった。
「そう言われるとそうなのかもしれませんが。でもどうして船が彼女なんですか?」
「それは乗ってる奴らが男ばかりだから、せめて船は女でいてほしいんだろう」
「はあ」
「とにかくこの女神は世界で一番素晴らしい、一番大きな乗り物なんだ。
 いいか、蒸気で動く乗り物やガソリンで動く乗り物はたくさん発明された。
 だがな、どんなに早く飛んだり走ったり出来たとしてもあいつらは黒い煙を吐いて空気を汚し自然を汚しているクソどもだ。
 帆船というこの女神は風という自然の力だけを使って自然に抗うことなく、何も汚さずに海の上を走ることが出来るんだぞ。素晴らしいと思わんか」
「なるほど、そりゃあそうだ。そういう見方で眺めるとたしかに一番いい乗り物かもしれませんね。そりゃあイカした考え方だ」

 空は高く青く、海は広く青く、
 放っておけば溶け合いそうなほどなのに、
 白い横帆が白い小森のように連なって、
 空の青と海の青を割って進めるのだ。
 それが出来るのは
 神の許し状を風の精が運んで横帆に吹き付けてくれるから。

   ○

 夜明け前の紺色の海上に、伊号第12潜水艦が甲板と艦橋を露わにして12ノットで白波を引いて航行していた。
 潜水艦は海中では乗員に過酷な閉塞環境を強いるため浮上した際には甲板での休憩が許されるわけだが、現在、全員休憩を終えて艦内に戻り、甲板や艦橋は当直の哨戒員以外、誰もいない状態であった。
 艦橋の真下に位置する発令所には第三種の半袖制服を着た士官たちがいた。潜水艦内は高温多湿で蒸すため紺や白の長袖軍服はよほどの儀礼的な行事以外では着用しない。
 艦長は明治40年生まれで昭和3年に海軍兵学校を卒業した37歳の工藤兼男中佐だ。

「艦長、本日の予定位置に達しました」
 先任将校である鈴木水雷長が報告すると工藤艦長が命じた。
「よし、両舷停止。潜航せよ。深度70」
 ディーゼルエンジンの騒音が止まり、哨戒員達が司令塔に戻り、メインタンク下側についている注排水弁が開かれる。
「ベント開け」
 鈴木水雷長が命ずると上側のベント弁も開かれ勢いよく海水が流れ込み、伊号第12潜水艦は夜明けの東太平洋の海に潜航した。

 先月、初めての商船撃沈という戦果を無線報告した時に伊号第12潜水艦は艦隊司令部より特別任務を受けた。但し任務の詳細は偵察機で合流した作戦司令を乗せてからということらしい。
 とにかくその偵察機と会合するために、指定場所で4本マストの帆船を追走しろという命令が届いたのだ。
 受信位置から指定位置までは千キロ強あったが、日程は13日間と余裕があるので艦長自ら尺取り虫と名付けた航行方法を取った。

 それは昼間は哨戒機のMADという磁気探査装置から逃れるために深度70メートルの海中で停止し、夜間は海上に浮上して二軸ある片軸をディーゼルエンジンでまわし推力とし、同時に片軸は発電機を回して海中用推進モーターと照明に使う蓄電池に充電し、気蓄器に高圧空気を充填しながら原速12ノットで5時間航行するのだ。こうして夜明け前にまたエンジンを停止し、深度70メートルに潜るというものだ。

 単純計算だと12ノットは時速22.2キロだから1日5時間だと111キロ程進むことになるが、実際には遠くに飛行機の爆音を聞いただけで急速潜航したりなどもあったので計算よりは進まない。
 ちにみに電池だけで進む海中最大速力は6.2ノットと海上でのエンジン最大速力17.7ノットり.の三分の一になってしまう。
 こうして尺取虫を毎日繰り返して予定位置に辿り着くわけだ。

「それにしても特別任務はどんなものだと思う?」
 乗組員の間では最近同じ問いが繰り返されていた。それは発令所に詰める士官たちの間でも同様で、いろんな憶測が飛び出す。

 例えば山村航海長が言うには
「おそらくドイツから画期的な兵器が提供されるので取りに行くのではないか。既にアフリカ経由でいったのが失敗したと聞くぞ。だから今回は南米経由で本艦が選ばれたのだ」
 また河内砲術長が言うには
「アメリカの重要な政治家、司令官を倒すために忍者部隊を運ぶのではないか。忍者こそ日本の伝統的かつ強力な部隊であり、特攻するよりもまず経験ある伊賀甲賀等の出身者で忍者部隊を編成し暗殺するのが当然ではないか」
 また諸里潜航長が言うには
「米国には西海岸と東海岸を結ぶ秘密の地下運河があるに違いない。我々はこれを使って一気に米国の首都まで行き攻撃するのだ」
 そんなふうに妄想のようなものばかりが並んでしまい、目から鱗が落ちるような答えは一向に見つからない。それでなくても潜航時の空気は電池由来の硫酸蒸気と人間の発汗や呼気による炭酸ガスで思考力低下をもたらすからやむを得ないのかもしれない。

 そろそろ夜が明けるという頃に、海中の音を聞き分けている聴音係が叫んだ。
「ディーゼル音、左40度、感二から三」
 発令所は色めき立った。こっちはエンジンを止めていて気付かれていない可能性が高く、不意打ちが最大の攻撃である潜水艦にとって最大の好機といえる。
 
 工藤艦長が訊く。
「艦型はわかるか?」
「二軸で回転数はさほどなく敵ガトー級潜水艦かと思われます。次第に右方向に遷移中」
 聴音係の報告に鈴木水雷長が進言する。
「艦長、敵は呑気に浮上航行してます。我々はそれを横から見る位置。絶好の撃沈チャンスです。潜望鏡深度に浮上して魚雷で仕留めましょう!」
 山村航海長も、諸里潜航長も、河内砲術長も賛同する。
「艦長、これは天恵です」
「逃す手はありません」
「直ちに攻撃しましょう!」
 
 工藤艦長はしばし考え込み、士官達は息を飲んで命令を待った。

 まもなく工藤艦長は士官達を見渡し口を開いた。
「俺も貴様らの考えと同じ思いがある」
 鈴木水雷長が「それでは魚雷戦用意を!」と言うと工藤艦長は遮った。

「待て! 貴様らの考えはもっともだ。これは容易たやすく敵を撃沈出来るめったにない好機に違いない。それを思うと俺も心が踊る。
 だがな、本艦の現在の任務は明日の昼に会合位置にて偵察機と司令を迎える事にある。
 もしこの敵ガトー級潜水艦を容易に沈め得たとしても、その後がどうなるかまでも考えてもらいたい。
 敵潜水艦が海上にある時の沈没は海中の圧潰よりも時間がかかるだろう。その間に敵艦に無線発信されたら、受信した敵司令部は我々に復讐せんと躍起になりこの海域は重要哨戒海域にされる。そうなれば、明日の会合が難しくなってしまうに違いないだろう」
 工藤艦長は士官達の表情が強張るのを眺めてから続けた。

「俺はあの命令を受け取った後、自室で艦隊司令部の決心の浅からん事に気付いて武者震いが抑えられなかった。
 諸君もよく承知してるように、ここはもはや敵が完全に制海圏、制空圏を握ってる海域だ。この海域に放り込まれた我々はおそらく帰還をさほど期待されてない捨て駒だ。
 だが艦隊司令部は突然に態度を変えて決断したのだ。
 この危険な海域までわざわざ決死の思いで偵察機を飛ばし、司令官を派遣し、そうまでして捨て駒であった我が艦に特別任務を授けるという事の重大さを、我々はよくよくおもんばかるべきである。
 この会合こそが我らの最優先事項である。
 よって攻撃は見送る。
 以上、諸君は自分の決定に従ってもらいたい」
 艦長の話の間中、士官達は黙り込んでいた。自分たちの考えの至らなさを恥じた。そしてまるで申し合わせたかのように士官達は声を揃えた。
「艦長、申し訳ありませんでした」

   ○

「艦長、2030になりますが」
 夜8時30分になるので諸里航海長が告げた。疑問形になったのは命令を受けた指定海域まで残す距離は45キロほどだったからだ。
 つまり、今まで通りの原速で進んでも2時間程で着いてしまう計算だ。早く着きすぎると蓄電池の充電が不十分となってしまう惧れがある。
 尚、この海域で日本時間を用いると昼夜が逆転してしまうため、独自判断で作業では現地時刻を用い、報告時には日本時刻に直すことにしていた。

「充電の問題があるな、電気長はいないか? 先任、聞いてくれ、電池の具合はどうか」
 電気長は電池室にいることが多い。日本の潜水艦はパワーを得るため蓄電池を直列でつないでいるが、充電中は水素ガスと硫酸蒸気を発生するため電池管理が非常に難しくなってしまうのだ。
 先任将校の鈴木水雷長が伝声管で電池室に問い合わせると返事が返って来る。
「現在、電池の2割近くが使えないため復旧作業中」

 工藤艦長は決断して海図の上に指で線を描いた。
「こうしよう。ここから指定位置までコの字型に遠回りし原速12ノットで6時間をかけてゆくが、電池の復旧作業をしやすくするため最初の2時間は充電なしとする」

 伊号第12潜水艦は浮上して指定海域に向かって左に90度取舵を切った。
 そして充電しないで2時間進むと、次は右に90面舵を切って今度は充電しながら2時間進む。
 最後に右に90度面舵切って充電しながら2時間が過ぎた。

 航海長が報告する。
「艦長、指定海域に到達しました」
「よし、潜航しよう。深度70」
 艦橋で見張りについていた哨戒員が一斉に双眼鏡を閉じて、ハッチから司令塔に突入し「ハッチよし」の声が響く。注排水弁が開いて「ベント開け」の声がかかりベント弁が開き、メインタンクに勢いよく海水が流入する。
 急速潜航の場合はここで手空き員が前部に殺到して早く沈降するように艦首を下げるのだが、今回は通常の潜航なのでそれはない。

 伊号第12潜水艦は再び水中70メートルに達すると停止した。

 発令所で鈴木水雷長が工藤艦長に話しかける。
「いよいよ明日ですね。4本マストの帆船というとかなり大きいんでしょうな」
 目印の4本マストの帆船がどんなものか皆が気にしていた。
「うむ。近頃じゃあ珍しいだろうな」
「しかし、帆船というのは潜水艦泣かせですよ。エンジンがないんだから聴音が効かないじゃないですか?」
「確かにな。この辺じゃどの島を目印にしても敵の艦船が哨戒してそうだから、それを避けて偵察機から見つけやすいように考えたんだろう」
「零式小型水上偵察機の収容なんて訓練以外してないから大丈夫ですかね」
「まあ飛行機射出係は覚えてるさ」
「そうですよね」
 工藤艦長は苦笑した。
「先任将校は何やら嬉しそうだな」
「そりゃあそうですよ。帆船を見るなんて遠足みたいなもんですし、司令部に頼りにされてるってのもよい気分じゃないですか」
「まあな。俺は少し寝るから後を頼むぞ」
 工藤艦長は艦長室に向かった。

   ○

 乗員たちの間にこれから起こることへの期待が昂まっていた。4本マストの帆船を見つけること。そして零式小型水上偵察機を迎えること。
 それは電池室から漏れてくる硫酸ガス、便所の隙間から漏れてくる悪臭、長期間入浴できない強い体臭、それらの混ざり合い充満した高温多湿の閉塞環境で渇ききった自分達に何か清新な風を呼び込むのではと無意識のうちに持った期待だ。たとえ司令がもたらす特別任務が今以上の地獄の戦闘への引導だとしても、それさえ祭りの熱狂にしかねないほどの渇きがあった。

 時刻は12時を5分過ぎただけだ。予定時刻は1240である。
 深度70メートルの海中にあって皆が時が訪れるのをじりじりと待っているのだ。
 そんな空気にたまりかねたかのように鈴木水雷長が聴音係に訊く。
「聴音、どうだ?」
「はっ、はい、感度ありません」
「よし」
 鈴木水雷長はそう言っておいて(何がよしだ)と心の中でつぶやいた。

「先任、少し早いが潜望鏡深度まで浮上しよう」
 工藤艦長に言われて鈴木水雷長は笑顔で答えた。
「はい。浮上します、深さ18。メインタンク、ブロー」
 メインタンクに空気が送り込まれてビュロビュローと独特の音がし艦はブルッと揺れてからゆっくりと浮上し始める。
 沈むのはわかるが浮き上がるのはどういう仕組みなのかと潜水艦乗りは身内に聞かれることがあるが、タネ明かしは簡単で気蓄器という大きなボンベの中に200倍に圧縮した空気が入ってるのだ。これを海水を満たしたタンクに少し注入すると一気に元の200倍の体積に膨らんで海水を押し出し浮きが完成するというわけだ。

「深さ18」
「浮上停止」
「潜望鏡上げ」
 床を突っ切って収納されていた潜望鏡がモーターでいっぱいまで上がると工藤艦長は水平に360度回転しながら上空に敵機、または友軍機がいないかをくまなく目視した。
 それでどちらもいないとわかると、今度はプリズムを水平線に向けた。
 そこにはただ青い海が横たわるのみだ。風は弱いようで波は小さい。
 指令には南側を追走とあったから、おそらく帆船は北側に現れるのだろう。
 工藤艦長は北の左百度右百度をおよそ5分間ゆっくりと眺めた。

「先任、交替だ」
 鈴木水雷長がまず空を360度見まわし、続いて水平線をゆっくりと眺めた。
 だが、帆船の姿は見えなかった。

 続いて山村航海長、河内砲術長が順繰りに交替して潜望鏡を眺めたが帆船はまだ見えなかった。

 二巡目の鈴木水雷長が潜望鏡を覗いた時だった。北80度の水平線に白い点が映った。
 鈴木水雷長はその白い点が次第に大きくなるのを凝視した。
 やがて輪郭がはっきりしてくると鈴木水雷長は叫んだ。

「艦長、見えます、北76度、大きな帆船です!」

 工藤艦長が潜望鏡に目をあてると、青い空を背景にマストに真っ白い横帆が4、5段ほどだろうか重なって見えた。
 それは戦争中であることを一瞬で忘れさせる優雅な姿だ。

「ほーっ」
 感嘆と溜め息が混ざり合ったものが漏れた。

 自分たちがその潜望鏡で今まで獲物しか探して来なかった野蛮な船乗りだから、余計に
そう感じられたのかもしれない。
 それはある種、神々しい威厳漂う帆船との奇跡の遭遇だった。

   ○

 パミール号は横帆に風をはらませて颯爽と海上を滑走していた。

 コールウェルとボブは作業に暇が出来たので船の先端であるバウスプリットに進んで我らが女神を振り返って眺めた。
「船の上ではここが一番美しく見えるよな」
「まったくその通り、自然に逆らわず自然を汚さない世界一美しい船だ」
 今ではすっかりコールウェルの決まり文句を言えるようになったボブだった。
「ん?」
 ボブは視力だけは自慢だった。視力検査の部屋に奥行きがあればおそらく3.0を超えてただろう。その視力が右の海に白く小さい波が立つのを見つけた。
 サメ? いや違うぞ……、

「コールウェル、潜望鏡てやつはサメよりでかい波を立てますか?」
 ボブがコールウェルの腕を引っ張って言った。

 と、コールウェルはびっくりして左側面の船縁に駆け寄った。
 そして遥か彼方の小さな波を睨みつけると後ろにいる航海長や船長に向かって声を限りに叫んだ。
「左舷、潜望鏡だあー」
 ボブも一緒に叫んだ。
「左舷、潜望鏡だぞー」

 聞きつけた甲板員達がハッとなって左舷に駆け寄った。そして一気に蜂の巣を突いたような大騒ぎになる。
「うわあああー、潜水艦だ」
「狙われてるぞー」
「逃げろー」
「ボートを下ろさせてくれー」

 航海長は方位盤を確かめ艦長に報告した。
「左舷295度、距離およそ600、潜望鏡です、面舵で逃げましょう」
「この帆船じゃ転舵すればかえって餌食にされる時間が増える。
 よりによってこの風の弱い日に当たったが、奇跡を信じてこのまま逃げよう」
「そうですか……」
「どっちみち運命に任せるしかないんだ」
 他にやれることはない。船員たちは口々にわめき散らしていたが、潜水艦は距離を保ったまま追いかけてくる。

 と、その時、飛行機のエンジン音が響いて来た。
 パミール号の向かう先を振り向いたコールウェルとボブに小さなフロート付き偵察機が目に入った。
「やったぞ、助けが来た」
 嬉しそうに叫ぶコールウェルを目のいいボブが咎めた。
「違う、影になってる翼に日本軍の赤い丸が見えるよ」
「オー、マイガッ!」

 前からは日本の偵察機、左後ろから潜水艦に挟まれたのだ。
「神よ、助け給へ」
 みんなが甲板に膝まづいて十字を切った。生きた心地がしなかったが、なぜか攻撃は一向に始まらない。
 理由はわからないが、日本軍はこちらを攻撃対象と考えていないのかもしれない。
 この機会を逃してはならない。
 パミール号の乗組員は一刻も早く船がこの場から遠去かることを願った。

 

第17章 秘密作戦

 

 桜受家の境内からタイムワープした零式小型水上偵察機の三名は前方に虹色の球が現れるのを見た。
 虹色の雨が横殴りに叩き付けて来る中、偵察機はまるで縁側の風鈴みたいに少し揺れながら宙に止まっている。
「ヤバい、エンジンが止まってる」
 矢吹が伝声管に叫ぶが望月も白岩も気にならない。いや矢吹自身も理由はわかっていた。止まっているのはエンジンではなく時間なのだ。
 景色がどんどん後退してゆくのでそちらに焦点を合わすと機体が進んでいるように感じる。
 
 だが、東太平洋はどこにあるんだという意識が芽生える頃、虹色の雨はどんどん灰色の雨へと変わってゆく。気が付くとモノトーンの東太平洋の空に偵察機は包まれている。

「色が白黒だが、これで着いたということなのか?」
 望月がつぶやいた次の瞬間、色は正常に戻り、偵察機はちゃんと前を向いていながら、そのままゴーと風切り音を立てながら落下してゆく。
「ストール、ストール、しっかり掴まれ」
 矢吹が怒鳴り、望月が新発見に感動する。
「そうか、揚力は連れてこれないから、揚力が途切れて落ちてるんだ」
 エンジンの唸る音がして、すぐに揚力が発生し偵察機はちゃんと飛びだした。
「ふ、焦らせやがって」
 矢吹が罵った。

「目の前が望月の肩でなんも見えんかったが、気持ち悪かったわ」
 白岩が言うと矢吹があやまる。
「お騒がせしました、俺のせいではないですが」
 望月は緯度経度を確認した。
「さすがコード端末機の座標はピッタリだな」
「望月さん、指示をお願いします」
「高度を二千に上げよう、方位085、ヨーソロー」
 すると白岩が言う。
「望月、お前の背中が邪魔で俺は半分しか偵察でけん」
「じゃあ俺が右側を主に見ますから、白岩大佐殿は左側を探してください」

 ということで三人はそれぞれに海面を偵察し出したが、見えるのは海ばかり。ずっと波が繰り返す海面模様を見てると、はたして本当に海を見てるのか、残像を眺めてるのか区別できないような気分になってくる。なかなか海面の偵察というのは集中力と根気のいる作業だ。
 それでも海域を絞り込めていたのは大きい。
 偵察機は案外に早く成果にたどり着いた、白岩が左手を伸ばして叫んだのだ。
「あれ、あそこに白いのが見えるで」

 望月が双眼鏡で確認すると、確かに帆船のようだ。
「いましたね、立派な帆船だ、大佐殿、老眼なのにお手柄です」
「老眼やないわい」
 望月は左右の空に敵機がいないのを確認し、体をひねって白岩の後ろの空も確認する。
「見張りよし。方位019に、高度七百に下げよう」

 偵察機は高度を下げて小さな白い帆船に寄ってゆく。
「帆船、目視しました。帆船の右後ろ800メートルに小さな航跡目視」
「いたいた、あれが伊号第12潜水艦の潜望鏡だな。
 どうやら波も小さくて着水に支障なさそうだ、外洋でこれは神凪級だぞ」
 大型飛行艇と比較すると零式小型水上偵察機はフロートも小さいので波が立つと着水が難しくなる。ある程度での波なら艦艇の方で大きく海上旋回してもらい艦艇自身の起こす波で旋回内の波を打消し鎮静化するという技を使ったりするのだが、今回はそれも不要なほど波が小さいようだ。
 
 望月は前後左右の空を確認して言う。
「見張りよし。矢吹、帆船と潜望鏡の間に入って翼振れ」
「了解」
 偵察機は風を切って滑りながらどんどん高度を下げてゆく。
 そして帆船のマストのそばに出たところで翼端を上下に振って、潜望鏡を通り過ぎる。

「気づいたかな?」
「引き返してみよう」
「白岩殿、宙返りするから目を回すなよ」
 宙返り180度からの横ひねり180度、インメルマンターンが決まった。
 白岩が強がりを言う。
「なんや、もう終わりか。あと百回やっても大丈夫やで」
「ま、時間ももったいないので」
 偵察機が潜望鏡の上を通り過ぎて見ると、それは白波を引くのを止め、気泡を放出し浮上を始めた。
 望月が矢吹に指示を出す。
「よおし、伝わったようだ。二キロ先でまた旋回して、潜望鏡の手前700メートルから着水する。デリックは艦首を見て格納筒の右側だからこっちから見ると潜望鏡の左5メートル開けて10メートル手前が停止位置だ」
 デリックとは甲板の格納筒右側の溝に格納されているクレーンのことだ。これで偵察機を吊り上げて甲板のカタパルトのレールに下ろし、翼などをたたむ作業をして格納筒にしまうわけだ。
 

   ○

 飛行服の望月が偵察席から降り、その後から紺の軍服の白岩が降りるとやはり紺の軍服に着替えた鈴木水雷長が寄ってきて出迎えた。
 信号員の吹くラッパが響く中、案内されて艦橋に着くと、工藤艦長、山村航海長、河内砲術長らも紺の軍服で待っていた。白岩が敬礼して辞令書を渡す。
「貴艦への座乗司令職を仰せつかった白岩大佐であります」
「謹んでお迎えいたします、艦長の工藤中佐です。今、案内したのが鈴木少佐、水雷長、私の右隣から山村大尉、航海長、河内大尉、砲術長。あと発令所に坂本少佐、機関長が控えてます。本来なら兵数を揃えてお迎えすべきところ、敵制海圏内につき省略させていただきました」
 白岩大佐が頷く。
「この挨拶も省略でもよいぐらいだ。偵察機の格納にはどれぐらいかかるか?」
 振り返ると機体に何人も群がって作業をしてる。それを望月と矢吹が見守っている。
「あと25分でしょう。急がせますが何せこの艦で偵察機格納は初めてなので」
「そうだったな」
「それでは早速発令所へ」
 工藤艦長が先頭に立って白岩大佐をハッチに案内した。
 
 偵察機の格納が終わるや艦は再び潜航した。
 白岩は乗員全員の前で、といっても狭い艦内だから発令所のまわりに十数名が並び、残りはスピーカーを通してだが訓示をした。
「私は当艦座乗司令官となった白岩大佐である。
 ミッドウェー、レイテと敗戦が続き、戦況が極めて厳しいことは諸君もよく承知のことと思う。
 ここに至って軍令部よりこの艦に最も重大で苛烈な秘密作戦を下命された。
 その詳細はいずれ明らかにするが、現時点ではまだ教えられない。
 諸君は自分の持ち場の技を磨くことでこの艦の能力を極限まで引き出し高め、最も凶悪屈強なる敵を絶対的に撃沈しなければならない。
 われらの決戦時期は今少し先であるので、この艦はいったん日本の極秘地点に帰る。
 しかし、すでに秘密作戦が発動中であるため帰郷の許可は出せない。既に同期の者が英霊となった者も多かろう。その英霊に思いいたしこらえてほしい。以上だ」

 敬礼の号令がかかる中、白岩は工藤艦長に言った。
「さて、艦長には秘密とはいかんから君の部屋で二人きりで話そうか」
「はっ、こちらです」

 日本の潜水艦で個室が与えられているのは艦長だけだ。といっても外国の潜水艦に比べたら窮屈極まりない狭さだが。
 小さなテーブルで向き合うと工藤艦長は言った。
「こんな海域の艦に来て頂き光栄です。道中は大変でしたか?」
「ああ、隠密に伊号を出してもらいハワイの西から飛んで来たのだ、君も知ってるようにあの偵察機の航続距離はカナブンの屁ぐらいしかもたん」
 白岩は工藤艦長の目を見て聞いた。
「ところで、目印の帆船はどうだった?」
「はい、戦場であの帆船を見て奇跡のように思いました。神々しい威厳があります。この戦時下にあのような帆船が運行してること自体が信じられないです」
 白岩は頷いた。
「それで、もし自分との会合がなかったとして、偶然にあの帆船と出会っていたら工藤艦長はどう対処していたかね?」
「それは……商船破壊作戦中でありますから、撃沈します」
 白岩はにやりとした。本音ではないような気がしたからだ。
「ちょっと暑いな。軍服を脱ごう。君も脱ぎたまえ。ふだんは三種軍装だろ?」

 工藤艦長は少しためらいながら紺の軍服を脱いだ。ためらった理由はシャツが洗濯出来ないため黄ばんでいたからだ。白岩が制服を脱ぐとこっちの下はなんとランニングシャツだ。
「さあ互いに軍のお仕着せから解放されたところで本音で答えてくれ。俺が軍令部の上官だというのは忘れていい。もちろん後で人事に君をチクッたりしない。
 君はあの帆船に偶然出会ったら見逃したかね?」
 わざわざ軍服で脱いで聞くという白岩大佐の質問の意図は計りかねたが、工藤艦長は率直に答えようと言葉を選んだ。
「まず、何の予告もなくあの帆船に出会ったら驚きます。風の力だけで動いている船本来の真っ当な船です。それに比してこの艦は帆船と正反対、いつも相手を撃沈してやろうと考えてこそこそと海の中に潜っている卑劣な船です」

 工藤艦長は潜望鏡の目盛り付きの視界で青い空と海の間に白く輝いていた帆船を思い出して言った。
「だからあの帆船を見た瞬間、私は潜望鏡を通して自分がしたことを恥じました。とにかくあの帆船は堂々としてるのです。私はあの帆船の声を聞いたように感じました。
『自分はお天道様に従い、風に従い正直に生きてるぞ。お前はどうなのだ?』と詰問されていると思ったのです。たぶん私にあの帆船は、撃てません」
 白岩は工藤艦長の正直な目を見詰めた。
「もっとも部下を説得する自信もありませんが、とにかくあの帆船は撃ちたくないのです」
 白岩は茜から聞かされてた話の通りになったかもしれないなと思い、嬉しくなってきた。
「それでええんや」
 思わず関西弁が出てしまい、工藤艦長が戸惑った。
「はっ?」

「うん。それは真っ当な判断だ。日本は正直に生きてる民の国だ。その民を守ろうとするのが日本の武人の務めであろう。もちろん畏くも」
 そこで白岩大佐は言葉を止め、頭をサッと垂れた。
「天皇陛下におかれても正直な民を守りたいお考えに違いない。それはこちらからお伺いせずとも間違いなくそうだろう?」
「はっ、間違いなく」

「つまり貴官が正直な帆船を攻撃せず守りたいと感じたのは、日本の武人の心の顕われであるということだ」
「はあ」
 工藤艦長は幾分眉を寄せ困った顔になったが、白岩は笑みを浮かべた。
「これは我々の秘密作戦につながってくる。軍令部が入手した情報によると、米国は現在、今までの何万倍、何億倍の破壊力を持つ新型爆弾を開発中である」
 工藤艦長の目が衝撃に揺れた。
「何万倍、何億倍ですか?」

「ああ、真に恐ろしい威力なのだ。これが完成したら米国はこれを大きな都市で使用する考えのようだ。するとその一発で都市は焼かれて吹き飛んでしまう」
「一発で! 爆弾一発で都市が……」
 工藤艦長は想像が追い付かない様子だった。白岩とて学校で習ったからそうだと知識で知っているわけで、まだそれが現実にない状態で説明されても工藤艦長の想像が追い付けないのは当然と言えた。
「どうやら物理学の権威が集まって設計してるようなのだ。だから自分も単語としてはいくつか並べて言えるのだが、説明せよと言われてもうまく説明できん」

 工藤艦長は強張った顔でつぶやくように聞いた。
「新型の爆弾開発なら徹底した緘口令が敷かれる筈。よく情報を入手しましたね?」

 白岩大佐はその質問も想定内で答えを用意してあった。
「ああ。今は大使館領事館も閉鎖されたし、日本人のスパイでは潜入は困難だ。
 だがそれ程の爆弾だからたとえ基地だけを狙っても周囲の住人も全て巻き込まれて非人道的な結果になるのが明らかだ。そこで良心の咎めた物理学者が本土より統制のゆるやかなハワイの日系人に情報を伝えてくれたのだ」
「なるほどハワイには真珠湾の前に協力した日系人がいたと聞きます」
 白岩大佐は頷いた。

「おそらく今後、半年前後で爆弾は開発が終了して、グアムあたりの南方基地から大型爆撃機に積まれ日本に落とされる。
 落とされたら最後、その都市に住む5万から10万以上の正直な民が一瞬のうちに焼死してしまう」
「米国は避難勧告をするのでは?」
「そこはわからん。だが被害を拡大させた方が降伏させやすいという考えも米国には当然あるだろう」
「許せん」
 工藤艦長は激しく拳を握りしめた。

 白岩は書類挟みを開いて命令書を工藤艦長に渡して見せる。そこには『グアム近辺に新型爆弾を輸送せる巡洋鑑または駆逐艦をその手前にて必ず撃沈すべし』とある。

「開発工場は米国西部にあるのだが、南方基地までは爆弾単体だけでなく保管構造物や管理機器などかなりかさばるだろうから輸送はおそらく爆撃機ではなく船が担当すると考えられる。
 我々の秘密作戦は、その南方基地の手前で待ち伏せ、おそらくは高速巡洋艦の確率が高いが、その輸送艦を待ち伏せて断固として絶対的に撃沈することにある」
 白岩大佐が言うと工藤艦長は顔を紅潮させてぶるぶると震えた。
「確かに命令を拝受しました。新型爆弾輸送の巡洋艦、必ずや我が命に替えても撃沈します」
「うむ、頼むぞ」

「それから今後は艦隊司令部から通常問いかけが来ても答える必要はない。本艦の任務は敵輸送艦の撃沈のみである。つまらぬ作戦に駆り出されては迷惑だからな。
 それと知ってると思うが、艦隊司令部では潜水艦の場合、基本的に食料の尽きる筈の3か月後の末日までに確認が取れなくなると沈没が認定される。するとこの艦は10月出港だから3か月後の1月末で沈没認定だ。構わないか?」
 工藤艦長は即答した。
「任務が遂行できれば構いません。我ら、文字通り死兵となって必ず撃沈しましょう」
「もちろん任務を成功させ帰還すれば訂正されるだろう。ま、せっかく特進した階級が戻されるのは困るがな、わしは少将、工藤艦長は大佐だ」
 白岩大佐がおどけると工藤艦長も応えて笑みを見せた。
「戻されるとしても死んでた間の棒給は大佐分が貰えるんでしょうな」

   ○

 現代の桜受家、壬生野は技術部の部屋でコンピューターの端末画面に向かい古相寺との定時連絡を始めた。

『美穂、おはよう』

『茜、おはよう、偵察機と伊号潜水艦の待ち合わせな、うまくいったよ』

『わーよかった! それが一番の心配やったの』

『うん、茜はえらい心配しはってたもんな』

『美穂は視力がええし、わからんのよ。うちが眼鏡をしてない時の何か捜す大変さ』

『わからんけどな』

 そこで壬生野の後ろで技術部長の島崎が恐縮している声がした。
「これはこれは、どうされたんです?」
「朗報が届いたようなので来てみたのじゃ」
 旭子の声に壬生野はびっくりして立ち上がった。
「旭子様、びっくりしました!」
「良いことがあったようですね」
「はい、偵察機と伊号第12潜水艦は無事に会合して、白岩さん達は伊号に乗り込みました。最初の難所は越えました」
「それはそれは。安心しました。今、向こうに出てるのは古相寺か?」
 旭子は端末画面を覗き込んだ。
「はい。旭子様がそばに来て安心しはったと伝えます」

『美穂、今な、急に旭子様が隣にお見えでな、安心しはったって言っておいでや』

『そうか。今、急にうちが正座したのわかる?』

 旭子は苦笑した。
『わかるわけないやん』

『私の気持ちをお伝えしたんや。この前は迷子猫にお名前をつけて失礼いたしました』

 旭子は笑って
「そうだったな、おかしな機転の利く子や。許すと書いてあげなさい」

『旭子様が「許す」言ってはるで。美穂は旭子様に何か言っておくことある?』

『一人で寂しいので壬生野もこっちに送ってください』

 旭子が見て苦笑する。
「それは無理や。壬生野は吾の秘書だから手放せない」

『私は秘書だからダメやって』
 
『えー』

「菊高ならどうや?」
 旭子が言うのを壬生野が書き込む。

『菊高さんはどうやって?』

『えー。そんなん、かなんわ』

「そうか。なら仕方ないな。
 それはそうと白岩たちは参加してないんか?」
 旭子に聞かれて壬生野が答える。
「本来は白岩さんたちもログインしていい時間ですが忙しいですかね」
「そうか。では吾は帰るわ」

『じゃあ、美穂、旭子様がお帰りやで』

『旭子様、お疲れ様でした』

『古相寺も体に気ぃつけてや、と仰ってるで』

『ありがとうございます』
 

   ○

 天神結社の主知子が乗る車はいまだにセルシオである。理由は秘公開だが実はセルシオの名にイタリアマフィア風の響きを感じて好きなのだ。
 知子はセルシオの名が廃止されてレクサスに移行する前に予備に4台購入してあり、シートが劣化したり、どこか具合が悪くなれば予備車から部品調達できるので見た目はさほど古くないのが自慢である。これが愛着という乗り方だと知子は考えている。

 今日は客のアポイントが奇跡的に続けてキャンセルになり午後が3時間半も空いたので、急遽買い物に出かけたところだ。
 結社の長老達から外出時は必ず護衛の奉公衆をつけるように厳命されてるので運転席には汽車という名のボディーガードが、そして後部座席の右には斎藤というボディーガードが同乗してる。服装はマフィアばりの黒背広にサングラスだ。
 後部座席左の知子は胸の部分が芥子イエローの切り返しになってるクリーム色の膝下7センチほどのワンピースだ。知子の前の助手席は秘書の葵日奈子で、こちらは黒いパンツスーツである。

 都杏本店の前で車が止まると葵が素早く店に飛び込み杏仁豆腐を買って戻る。
「じゃあ輝子さんの地祇結社にお願いします」
 葵が運転手の汽車に言うと、突然に知子が「ちょっと待ち、今急にボールが来たわ。今日は桜受の旭子さんとこにしよ」と予定変更を言い出す。知子のボールというのはテレパシーのようなものらしい。
「輝子さんのところはどうします?」
「先月も会うてるし今回は宅配便で堪忍してもらお」
「わかりました」
 秘書の葵はタブレットで今出たばかりの都杏本店のウェブサイトを開き、地祇結社が秘密の地上出入口用に経営してる酒屋の店留めで送る手筈を整えた。

 交差点を左折しながら胸板の厚い汽車が知子をチラ見して低い声で言う。
「お嬢、お願いですから離れの縁側にはお嬢の下着の隣に俺のパンツを干しといて下さい」
 離れというのは地下要塞からつながってる知子専用の家だ。他の結社では防衛の観点から地下要塞の中にマンションのような居住区を設けて住まいとすることが多いが、知子はそういうマンションタイプの他に地上にも家を持っていた。
「またその話? もう耳タコや」
 知子があしらっても、例によって汽車の低い声が響く。
「セキュリティー強化のためです。普通の盗犯も気弱な下着泥棒も俺のボクサーパンツの睨み龍を目にしたらビビって近寄りません。それがないとなめてトライするアホが出てきます」
 秘書の葵が冷たい口調ではねつける。
「離れは警報装置が何重にも張り巡らせてありますからね」
 すると汽車がポケットから睨み龍のパンツを取り出して「葵さんも部屋にこいつを干した方がいいぞ」と葵の手に乗せ、葵がキャーと払いのける……、とここまでが定番のコントになっている。
 いや……、「葵ももうちょっと勇気出して開いて眺めるとかしてあげといて。新品なのに本当に汚いみたいに投げると汽車が可哀想やし」と知子がフォローするところまでが定番かもしれない。

 実際、汽車は幼い頃から人質にされて暴力団で育ったのだ。いつも組の姉御姉妹から「華奢だねー」とからかわれたのを小学生の彼はずっと自分が汽車みたいと言われてると勘違いしてきた。
 そして知子の結社が暴力団をつぶす時に救い出されたのだが、両親は既に暴力団に始末されており彼は天涯孤独となった。そこで彼は結社に引き取られ奉公衆見習いとして育てられ、成人して汽車を名乗るようになったというわけだ。
 もっとも今では体は鍛え抜かれて華奢と正反対の汽車が似合うムキムキ筋肉質なのだが。

 すると汽車ばかりが弄られてる事に嫉妬したのか斎藤が小さく音を立てて腕に隠していた居合刀を一瞬で抜いて素振りする。ヒュッ、ヒュッと知子の頬に風が来る。
「ありがとう。少し涼しくなったよ」
 知子は慣れた口調で礼を言った。
「時々、素振りしないと特に室内は感覚が微妙ですので。失礼しました」

「それはそうと、アポなしで桜受家は入れてくれますかね?」
 葵が心配する。必要な場合は地下要塞から結社同志の専用回線で連絡するので、出先で電話番号を使う準備がないのだ。
 だが知子は断言する。
「旭子さんは霊感が常人と違うよって、すぐ入れてくれる筈や」

   ○

 桜受家上の境内の駐車場にセルシオを止めて、四人はぞろぞろと宝物庫に入ってゆく。
 鉄扉には把手がひとつと、肩の高さにスマホをの倍の大きさのボックスがついていて、そのカバーを下に開くと、カメラと数字キーと指紋読み取りが並んでいる。
 葵がカメラに正対して述べる。
「ごめんください、天神結社の知子が参ったと巫女頭の旭子様にお取次ぎ下さい」
 だが3分経ち、5分経っても何の返答もない。
 葵が不安になって知子を振り返る。
「もう一度呼びかけてみましょうか?」
「短気やな。もう少しお待ち」
 するとものの10秒ぐらいで扉が開いて、いきなり妃の装束姿の秘巫女旭子が出迎えた。
「なんやあびっくりさせて、知子はん、どないしましたの?」
「ちょっと時間が出来たさかい、ご挨拶に寄りましたのや」
「嬉しいわ」
 旭子は知子の手を取りハグする。

 旭子と知子が並んで歩く後を秘書の葵とボディーガードの汽車と斎藤がついてゆくが、警備室の前で桜受家の護衛特務員に汽車と斎藤は呼び止められ、汽車は大型の自動拳銃デザートイーグル.50AEを、斎藤は腕と足に忍ばせている居合刀を差し出した。

 地下三十階にある応接間で知子と秘書の葵は長いソファーに腰を下ろし、汽車と斎藤は後ろに立った。
 テーブルを挟んだ短いソファーに旭子が巫女最年長の奥山紅葉を従えて座り、壬生野と菊高が床の絨毯に正座して控え、相手のボディーガードとバランスを取るために桜受の特務員が二人後ろに立った。
「ほんによう来てくれはりましたなあ」
 旭子が喜ぶと知子も応じた。
「なかなか結社トップ同志では交流しまへんもんな。これを契機に旭子さんもうちにお来しやす。でこっちはケーキやのうて杏仁豆腐です、召し上がって下さい」
 秘書の葵が紙袋を渡すと、それは旭子から奥山を経て壬生野に渡り、壬生野は早速台所に走った。
「杏仁豆腐は地祇結社の輝子さんの大好物で、今日も途中まで地祇結社行くつもりでいたんです。それが旭子さんの気持ちがこう、」
 知子はまるでバスケットボールを受けた手の構えになって……
「うちは感情のボールがテレパシーみたいにパスされて来る時がありますのや。何週間か前からたまに(旭子さんからのパスや)てのがあって、さっきもパスが来て、今日こそ行かなと思い予定変更しましてんねん」
 旭子が頷いた。
「そうですか、確かに最近、巫女らと話すうちに知子さんの事を思いにかけてましたわ、さすがやわー、知子さん」

 大きなトレーを持った壬生野が戻って来て杏仁豆腐を乗せたフルーツ皿4客をテーブルに並べた。
「ご馳走になります、知子さんもご一緒に」
 旭子はスプーンで杏仁豆腐を口に入れると顔をほころばせた。
「これ、美味しいおますなあ、流行りのスイーツと違ってしつこくない優しい味ですな」
 知子も口に運んで頷く。
「ほんま、のど越しが優しいのがええですね、て、輝子さんの受け売りやけど」
「輝子さんはお好きなんですね」
「杏仁豆腐があれば他のもんは要らん言うてますわ。そやからうちは土産を悩む必要がないんで助かります」
 杏仁豆腐を食べ終わると、旭子は思い出したように言った。
「そうそう、知子さんにうちの寝室とバスルームの壁を見てもらいたいわ」
「壁ですか?」
 知子が不思議そうに目を開いた。
「うちは壁をサンダーボルトIIのコックピットと同じチタン装甲に特注しとって是非、知子さんにお見せしたいと思っとったんです」
「サンダーボルト?」
 知子の疑問に、これは旭子が答えるには基本的すぎるなと察した壬生野が代わりに解説した。
「アメリカ空軍のA-10 いうジェット機としては低速の支援攻撃機です。うちの旭子様はミリタリー方面に大変詳しいんです」
「そうですか、おもろそうですねえ」
 知子が言うと、旭子と二人連れだって自室へ向かった。

「チタンいうたらゴルフクラブなんかに使われますねえ」
「ゴルフされますか?」
「ごくたま~に」
 知子が照れると旭子が微笑んだ。
「そうですか。軽くて頑丈なので、クラブや変わったとこでは北野天満宮の宝物殿や金閣寺の茶室なんかもチタンを使うてはるようです」
 旭子自室の寝室、バスルームは窓はないが祭壇の大きな吹き抜けに位置している。
「ですが、なんといってもサンダーボルトIIのコックピットの被弾耐久性能が半端ないんですわ。知子さんの護衛の方のは13.9mmで最大の拳銃ですが、この壁は57 mm口径の駆逐艦に使われる機関砲でも平気です。384発の弾丸を浴び蜂の巣のようにされても帰還した例や、地対空ミサイルに撃たれても無事だった例もあります」
 知子が感嘆する。
「すんごいですね」

 旭子が知子に語り掛ける。
「ほら先日の真夜中、近所で何かの部隊が号令かけてて知子はんが襲撃かと思って警備の奉公衆を増やしはったことがありましたやろ」
「旭子さん、そないなことまで知ってますの?」
「気にかけてる方の心配は自動的に読めますから。是非、こういう壁にしはったらどうです?」
「そうですね、考えてみましょ」
「ただ値段がテロ並みに恐ろしゅうしはりますが、知子はんぐらいの地位の方ならそれぐらいの支出も許されるでしょ」
 旭子が笑みを送ると知子は頷いた。
「ええ情報もらいましたわ。
 実はうちからも旭子さんにちょっと情報ありますんや。旭子さんがタイムマシン、開発されて使うてるのはうちも知ってます」
 知子に言われて旭子は微笑んだ。
「そうですか、バレてましたか」
「もちろん言いふらしたりしまへんから安心したってええですよ。
 ですが、国防総省に潜入しとる奉公衆によると桜受の端末機で交信するとアメリカの方でも傍受できるらしいで、お気をつけ下さい」
 旭子の声がうわずった。
「えっ。すると米国も対抗してタイムダイバーを派遣してくるいうことですか?」
 相手の油断しているところを叩いて原爆輸送を阻止するのが桜受家の作戦だったが、もし米国もタイムダイバー隊を派遣してきたら、こちらも武器を追加するなり作戦を強化するなりして正面から対決しなければならなくなる。平たく言えばそれは作戦の難易度が一挙に十倍になるようなものだ。
 旭子が妙な汗を額にかいて黙り込むと、知子が緊張を和らげた。
「桜受が勝ち負けを変えるつもりはないのも知ってるやろうし、わざわざそこまではせんと思いますよ。米国にしたらもう終わってる戦いですから。まあ簡単に出来る意地悪ぐらいはして来るんと違いますか」
「なるほど、知子はん、教えてくれておおきに」
 頷き合う結社のトップ二人であった。

 

第18章 ドイツ原爆とリトルボーイ

 

 海軍軍令部が移転した慶應義塾日吉校舎前の赤屋根食堂。夜勤務担当の松丸は昼1時すぎという、いつもより少し早い時刻に食堂に入った。
 食券売り場の滝沢に品名を告げる。
「煮込みを下さい」
「あら、松丸さん、今日は早いんだね」
「ええ、まあ」
 滝沢は振り向いて呼びかける。
「美穂ちゃん、ほら、松丸さんが来たよ」
 洗い物をしてた古相寺は滝沢に呼ばれて作り笑顔を寄越す。
「どうも」
 すると松丸も「やあ」とぎこちなく頷く。
 古相寺にしたら先日、自らのミスで松丸の婚約者ということにされたが、さすがにそれは納得していない。しかしここで否定するとそれが元でまたさらに大きな噂と興味の的になるのも困るのだ。そういう作り笑いである。

 松丸は半券を受け取ると空いてる客席を探しに歩き出した。
 すると偶然テーブルにこの前、伊号第12潜水艦と交信する前日に通信文を打ってほしいとやってきた軍令部の事務官がシナそばを食べているのを見つけた。
 近づいてゆくと、あちらも松丸に気付いて会釈する。
「この前はどうも助かりました」
「いえ、こちらこそ。おかげで褒められまして」
 松丸が向かいに座ると同じ1等兵曹の階級章をつけた事務官は棚橋という名を明かして経緯を話してくれた。
「あの時は通信室の前に中尉が立ってて『今、通信機が故障してるから地下の艦隊司令部の通信室で頼んで来い。潜水班ならすぐわかる筈だ』と言われて」
 どうやら棚橋は何も知らずに外山少佐と小柴中尉に使われたらしい。
「そうだったんですか。あの後、上官から珈琲をもらいましたよ」
「それはよかったです。いや、本来は自分がお礼すべきでした、ありがとうございました」

 それから二人は仕事は何年目とか、慶應の風呂はすごいなとかいった他愛ない雑談を交わしていた。
 そこへ古相寺が煮込みを運んで来る。
「煮込みです、ごゆっくり」
 海軍調理教本で公式に伝わる煮込みというのはジャガイモとすじ肉を煮込んだ今の肉じゃがのルーツと言われているメニューである。赤屋根食堂は本来、慶應義塾の生協による運営なのだが、今は殆どの客が海軍なのでそのメニューを取り入れたらしい。
「いいですね、自分も勤務が夕刻上がりの時はたまに帰りもここに寄って頼みます」
「よかったらひとつ突いてくださいよ」
 棚橋がいかにも食べたそうな目をしてたので松丸はシェアした。

「ああ、そういえば松丸さん、TO機関のあの電文は聞きましたか?」
 棚橋が何気なく話を切り出した。
「え、トー機関? どんな字を書くんですか?」
「アルファベットのТとOです」
「どういう話ですか?」

 すると棚橋は声を潜めて言った。
「あれ外務省の管轄で軍機密でないから話せますけど。なんでも『巨大な絶滅兵器をアメリカ軍が日本に落とそうとしている』とかいう話です」

「えっ」
 松丸は思わず声を上げた。
 まさか、原爆についてこの昭和十九年の時点で日本が情報を得ていたとは思いもよらなかったのだ。
「なぜ……?」
 思わず(なぜ知ってて対処できなかったんだ)と口にしそうになりなんとか噤んだ。
「……で、電文は他に何か言ってますか?」
 棚橋は隠す様子もなかった。
「細かい点はまだないんです、開発中なので。ただ最初の攻撃目標がドイツでなく日本にされてたので、ドイツから連れて来られたユダヤ人科学者が激怒してたそうです。俺たちはドイツを叩き潰すためにやってんだぞ、ということなんでしょうね」
 これはありそうな話である。
「他には情報はありますか?」
「絶滅兵器についてはそれだけですね。
 ただこれは先輩から聞いたんですが、ほらミッドウェーや、ガダルカナルもTO機関から情報提供があって外務省から当然海軍には流してるのに、軍令部は特に現地司令官には通達してないらしいですよね」
 棚橋の話に松丸は眩暈しそうな気がした。
「そんな愚かな……」
「結局、海軍は現地で偵察したものしか信じないんでしょう。
 しかし、その偵察だってレーダーも全部に配備できてないし、逆探にいたっては抜けてる周波数があるという……あ、すみません、つい言い過ぎました。今の記憶から消しといて下さい」
「あ、ああ、大丈夫、消しました」
 松丸は相手を安心させようとそれこそ作り笑いに力を込めた。
「じゃあ、今日はこれで」
 棚橋は喋りすぎたのを悔やむように急いで立ち去った。

 それにしてもなんたることだ。
 縦割り行政の弊害が軍も蝕んでいて国民の命にかかわる情報に関しても、なんの手立てを打つことなくこの後、その日を迎えてしまうのだろう。
 軍令部の外山少佐たちに訴えてみようか。
 いや、末端の事務職が知っているのだから自分が訴えるまでもなく、外山少佐達も知っているだろう。
 自分のできることは……。
 そうだ、現代にもっと詳しい情報が残っているか確かめて、利用できるものがないか調べてもらうことだ。

 松丸はメモを書いてそれを小さく折りたたむと食器を持って立ち上がった。
 そして受け取り口に立ち「ごちそうさま」と声をかける。
 洗い場では滝沢と古相寺が仲良く洗い物をしていたが、滝沢に「古相寺ちゃん」と急かされて古相寺が視線をずらしながらやってくる。
「これから仕事なんだよ」
「知ってますよ、そんなん」
 松丸は食器と古相寺の手元の中間に小さく折ったメモを置いた。
「君も壬生義士の映画見たいやろ」
「はい……?」
 古相寺は中身を見ないままメモを手で押さえてそっと事務服のポケットに入れた。
「この辺では壬生義士やってる映画館もないか、つまらんなあ」
 松丸はそう言って普通に立ち去った。古相寺は食器を持って洗い場に行く。うまい具合にひとつふたつ洗い物を片づけると2時の休憩時間になった。
「じゃあ休憩させていただきます」
 滝沢さんと親方に挨拶すると、古相寺は自分にさりげなくと言い聞かせて、そのためにかえって緊張したぎこちない足取りで休憩室に向かった。
 急いでポケットからメモを取り出すと古相寺はそれをじっと見つめた。
 

壬生義士に検査以来 わーどは TOきかん

 あれだけ壬生を連呼してたのだから、これは壬生野に調べてもらえということだなとすぐわかった。ただ検索ワードがぼかしてあるのが気に入らない。
 TOきかんとは何なんだ?

 そしてコード端末機を起動して壬生野に挨拶を打ち込む。

『茜、おはよう!』

『美穂、おはよう!』

『茜、今日はどうでもいい話はなしや。松丸はんからメモが来よった』

『松丸はんから、というとまたプロポーズやな』

『どうでもいい話はなしとお断りしたやないの』

『わるい、わるい。で何ね?』

『それがな茜に調べてほしいらしくてな。ワードは TOきかん』

『TOきかん その次は?』

『その次はないねん、今のTOきかんだけ』

『これだけか』

 壬生野は試しに『TOきかん』だけで手元のスマホで検索してみたが、昭和とか太平洋戦争に関係しそうなヒットはなさそうだ。

『わかった。何に関係するとか、これをどうせいとかは聞いとらんの?』

『メモだけや、君も壬生義士の映画みたいやろとか言ってたけど』
『要は壬生野に調べてほしいいう意味やと思う』

『じゃあこれからいろいろ単語を付け足したりして調べてみるわ』

『うん、頼むわ』

『それで美穂のツンデレはどうなん? まだツンばかりか?』

『茜、いけずせんといて』

『ごめんごめん。ただな、恋いうもんは突然に熱が出るもんらしいし』
『そん時は遠慮せえへんで相談してな。うちはどんな時も美穂の味方でいたいし』

『うん、まあゆるしとくわ、おおきに』

 古相寺はコード端末機を切ると、自分の顔から小さな強張りが消えるのを感じた。

   ○

 古相寺との通信を終えた壬生野は急いで巫女控室兼事務室に戻り、大型タブレットで『TOきかん』を詳しく検索し始める。
 しかし何ページめくっても太平洋戦争に関係するものはひとつも見つからない。
 ぐるぐる検索エンジンはTOをまるで前置詞toのようにみなしてるようだ。
 そもそもTOは何かの略なのかもしれない。

 すぐに思い浮かぶのはT=東京だろう、そしてOは大阪? いやむしろ対立項目として欧米ではないか。
 ぐるぐる検索で『太平洋戦争 東京欧米きかん』を検索しても8ページで適切なヒットはなく終わる。

 続いて検索エンジンをダッキーダックのあひる検索に変えたところ国際機関という項目が出てくる。適切ヒットではないがきかんを機関としたらよいかもしれない。
 『太平洋戦争 東京欧米機関』であひる検索すると二巡目で陸軍秋丸機関という経済国力研究機関がヒットする。少し匂ってきた。

 では、いっそのこと『太平洋戦争 東京機関』ならと試してみた。
 しかし、ぐるぐるでもあひるでもかんばしい結果は出なかった。

 待って、TOは一文字と考えて東京の東だけならどうだろう?
 『太平洋戦争 東機関』で検索する。
 と、ぐるぐるのトップ候補に東機関(TO機関、とうきかん)と出て来た。
「やったあ」
 壬生野は思わず声を上げた。

 その記事によれば、外務省がスペインにて創設した情報収集組織と説明がされていて、いかにも自分たちの作戦に絡んできそうな雰囲気がある。
 真珠湾攻撃の後、日本から情報収集組織への援助を求められたドイツはスペイン外相セラーノに伝達、諜報員ベラスコを中心に1941年12月末、アメリカを舞台にしたスパイ組織を起ち上げた。

 勢いに乗って壬生野はこの諜報員ベラスコを検索した。
 
 諜報員ベラスコはスペイン生まれだが、ドイツでスパイとしての教育を受けたのでドイツの諜報員でもありヒトラー最後の頃までベルリンにいた、というか、付き合わされたようだ。しかし辛くも陥落直前にベルリンを脱出したらしい。
 日本にもアメリカ軍の動きを伝えていて、1942年からアメリカが攻勢に出ること、火炎放射器を装備した1万2千人の落下傘部隊の増派、キスカ、アッツ島の奪還の動きなどがもたらされた。しかし東京では事態を深刻に受け取らず陸軍海軍の重要部局には届かなかったという。
 原爆についてはアメリカが開発を始めた1942年の年末には、広範囲で摂氏千度の高熱を放射する爆弾を開発してるという情報を送ったようだ。

 壬生野の場合は原爆開発について既に調べていたので、松丸のように驚きはしなかった。
 だが諜報員ベラスコについての記事を読むうちに壬生野は雷に打たれたようになった。
 さらに原爆についての情報を集めるとベラスコの説を裏付けるものも見つかる。

 気が付くと壬生野は旭子に向かって部屋から飛び出していた。
「旭子様ー、大変ですー」
 壬生野は旭子が何をしてるかよく見ずに叫んでしまった。
 運の悪いことに旭子は大事な術式の最中だったのだ。
 旭子は無視して術式を続け、脇で仕えている菊高が睨んで来た。

 壬生野は仕方なくその場に正座して式術が終わるのはまだかと待ち受けた。
 だがそういう時に限っていつもはあっという間に過ぎてゆく時間がなかなか過ぎないように感じる。
 ようやく術式が終わると、まず菊高が近寄って来て叱りつけた。
「神聖な術式の最中に巫女が大声を出すなんて聞いたことあらへんわ。たいがいにおしやす。それで巫女がつとまるん?」
「申し訳ありません」
 ゆっくりと旭子も近寄って来た。
「いかなる理由があろうとも術式は止めてはならぬ事、わかっておるな」
「はい、わかってます。わかってましたが、この事を一刻も早くお知らせしたくて」
「では後でタライを持たせるとして、その話を聞こうか」

 壬生野は悔し涙を流しながら報告した。
「はい。実はタイムダイバー隊の松丸さんから古相寺さんにメモが来まして、アルファベットでTOと書くトー機関を検索してほしいという内容でした。
 それでTO機関を調べてみるとそれは日本の駐スペイン公使が組織した諜報機関でして、中心メンバーのベラスコがアメリカ軍の動きを伝えてくれていたのです。
 そのベラスコは元々ドイツで諜報員の教育を受けていて、ドイツに雇われて詳しいんですよ。原爆についてはドイツが世界で一番初めに開発に着手しており、敗戦前にはイギリスに対して使える状態だったのです。ところがベルリンの地下壕での避難生活の影響かヒトラーは弱気になってまして、死体をもう見たくないとロンドン原爆投下作戦を許可しなかったのです」

 壬生野が息が続かなくなりひと呼吸入れると、旭子が呟いた。
「ヒトラーはんも最後は精神状態が参っておったという噂じゃったが、そういう秘話があったのやのう」
「はい、それでその完成してた原爆が問題でして、原爆にはウラン型とプルトニウム型がありまして、ドイツ製のはウラン原爆なんです」

 そこで菊高がここぞと口を挟んだ。
「それは広島に落とされた通称リトルボーイと一緒ね。広島のウラン型のリトルボーイと、長崎に落とされたプルトニウム型のファットマンは構造も全く違っとって、広島の方がウラン濃縮が技術的にもコスト的にも難しいのよ。うちも旭子様から調べてみろと言われて調べたからよう知ってるわ」
 壬生野は頷くしかなかった。
「はい。その原爆の管理を任されていたのがドイツ機甲師団の伝説的英雄であるロンメル将軍です。ロンメルは公にはヒトラー暗殺計画に関与したために『反逆者として処刑か名誉を保った自殺か選べ』と言われ自殺を選んだんですが、本当の理由はそのウラン原爆を横流しした罪なんです」

 旭子が驚いて言った。
「だいそれたことを、しでかしたな」

「おそらくロンメルはこんなただの大型爆弾は総統が許可しなかったんだから売ってばれても大して文句は言われないだろと軽く考えたんでしょうね。でもその後の世界にとっては実に大きな政治的な意味があったわけです。それが1944年11月の出来事です」

原爆開発年表

「1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験に成功しますが、この原爆はプルトニウム型です。
 そいで、同じ日にサンフランシスコから原爆を積んだ重巡洋艦インディアナポリスはテニアン島へ向け出港するんです。
 同じ日に出港いうのはちょっと急ぎすぎと思いませんか? 普通なら実験の結果で不具合が判明する可能性もあるからまだ積み込まずに一通り実験結果をよく検証してから積み込むものではないですか?」
 旭子が頷いた。
「うむ。そうだな。普通はそうするだろう」

 そこで菊高が結論を横取りして言った。
「つまり壬生野さんが言いたいんは、インディアナポリスに積まれたのは実験してたプルトニウム型原爆ではなく、ドイツから横流しされたウラン型原爆だということね」
 壬生野は仕方なく頷いた。
「ええ、諜報員ベラスコも広島に落とされたのはドイツ製の原爆に少し手を加えたものだという推理をしてはるんです」
 菊高が疑問を投げかける。
「だけど、どうせ爆撃機に積んで投下するなら西海岸から爆撃機でハワイに運び、それからテニアンに運んだ方が早いんじゃないかしら」
「そういう意見もあった筈ですが、実はウラン型原爆は緊急停止回路がないため安全性が低く、万が一爆撃機が墜落すると爆発の可能性があったり、また海中に没すると臨界状態になって放射能を撒き散らす可能性があるのです。
 だから飛行機の輸送は最小限にしたと思われます。
 ただ同時にプルトニウム型原爆も積まれたのかがわかりません。重巡洋艦インディアナポリスに積まれたのが広島に落とされるウラン型原爆リトルボーイ一発だけの可能性も大いにあります。
 もしそうだとしたら、インディアナポリスを撃沈しても8月6日の広島投下を阻止できるだけで、違う日にプルトニウム型の原爆を広島か小倉か長崎かどこかに落とされる可能性が出て来ました。
 旭子様、どうしましょう?」

 旭子はもしインディアナポリス撃沈で撃ち洩らしが生じるならテニアン米軍基地に特務員を侵入させて爆撃機が途中で墜落するように工作するしかないと直観した。
 しかし、その任務は特務員にとってかなり危険であるばかりか、天神結社の知子が言っていたようにコード端末機の通信が米国に筒抜けだとするとそもそも工作の指示自体がバレてしまうわけで実質不可能だろう。
 旭子はうむと頷いて言った。
「先日、天神結社の知子はんがな、ここでコード端末機で通信したことは米国の国防総省でも傍受できると言いはったわ」
 初めて聞いて壬生野と菊高はびっくりした。
「そうでしたか……」
「だからこれ以上派手な作戦を追加するのは不可能や。ここは今までの作戦通りに進めておこう」
「ですがそれでは新たな原爆を落とされてしまいますね」
 菊高が断定すると、旭子は述べた。
「最初に広島と長崎の二つを始末できても、すぐ米国は何週間か何ケ月後には次の原爆を完成させてくるし、警戒も厳しくなるから、伊号第12潜水艦での同じ手は難しい」
 今度は壬生野が「ではどうします?」
 すると旭子は言い放った。
「どうするもこうするもない、原爆阻止は最初の一手のみじゃ。
 それが広島の1個か、広島と長崎の2個かはわからんが、とにかく我らが必死の思いで原爆を止めたことはひとつの説得材料として重みを持つのじゃ。
 後はこの説得材料を携えて表の天子様たる裕仁はんを古相寺と松丸で説得して、次の原爆を落とされる前までに降伏させるしかない」

「うわー」
 菊高が声を上げて頭を抱え込んだ。
「よりによってあの優秀の対極にいる古相寺さんにそんな大役が務まる筈がありません」
 壬生野はムッとした表情になった。

 そこで旭子が微笑を浮かべて言った。
「では菊高、優秀なお前に昭和まで飛んで裕仁はんを説得してもらおうかの?」

 そう言われると菊高の顔が青ざめ引き攣るようだった。
「いえ、私はそういう危険なお役目は性格的に、というか医学的にパニック症候群の潜在可能性ありと家の専属医に忠告されてまして、不本意ながら辞退させていたたぎます」
「勘違いしておるのう。戦争になれば吾に『爆薬を抱いて敵の戦車に体当たりせよ』と命令されたら、お前は結社の一員として迷いなく体当たりをやり遂げねばならぬことわかっておるのか?」
「そ、それは戦争の場合で……」
「今、派遣される先はその戦争ではないか」
「うっ、それはその……」
 菊高は言葉を失った。
「前から気付いておったが、菊高はすぐ自己保身が先に立つところがある。それは巫女として大きな欠点だぞ。
 そのような態度で巫女頭を継ごうなど百年早いわっ」
 菊高は視線を垂れてしょげ返った。
「そこへ行くと古相寺は困ってる者があれば我も忘れて祈りに熱と命を込める、そういう真の愛のある巫女じゃ。もし裕仁はんを説得できるとすれば古相寺しかないと吾は直感したゆえ、タイムダイバー隊に加えたのだ。
 古相寺はただの連絡係ではないぞ、一番大事な交渉役なのじゃ。菊高、今後、古相寺を悪く言うたら許さんぞ、わかったか?」
 菊高は内面から噴き上がる恥と怒りに顔を真っ赤に染めながら、唇を噛んだ。そしてやっとのことで言葉を発した。
「……わ、わかりました」
 こうなると壬生野はここで手を振り上げてガッツポーズをしたいところだったが、親指を立てて小さく「ヨシッ」と呟いたのみだった。

 
 

第19章 ヘッジホッグの脅威

 

 発令所で地図を見ながら白岩が工藤艦長の説明を受けていた。
「本艦は細心の注意を払いハワイ州カウアイ島の西北西500キロで深度70メートル。ミッドウェー島の手前に位置しています」
「うん。目的地伊豆の西まで、ここからどういう航路を取るかね?」
 
「はい。大きく分けて三つの航路が考えられます。
 第一は南方のフィリピンぐらいの緯度に下がって行く航路です。この航路だと万が一敵と遭遇した場合にエンジンを止めても黒潮につながる海流を利用してゆっくりですが移動出来るという利点があります。しかし、目下の状況を鑑みるに南方基地が殆ど米軍の手に落ちて相互の島を結ぶ連絡補給線を活発に行き来しており、敵に遭遇発見される危険が大きすぎるかと思います」
 白岩は頷いた。
「危険すぎるな。二番目は?」
「はい。二番目は北側のアラスカ湾まで北上してアリューシャン列島から日本へと向かうマイナーな海流を利用するルートです。こちらは南方に比べれば米軍の警戒は手薄でしょうがやはり敵艦、敵機に発見される危険は小さくありません」
「うむ。加えてこの時期の北方だと氷塊まで警戒せにゃならんだろう。音を発しないから聴音も利かんし衝突の危険があり厄介だぞ」
「はい。仰る通りです。となると残るのは中間を行く方法です。
 ここから目的地の伊豆まで5千キロあまり、尺取り虫法で毎日夜間のみ原速12ノットで6時間の航法を続けていけば約40日で辿り着けると思われます」
「それで食料は持つんだな?」
「はい。なんとか持ちそうです」

 工藤艦長の答えに白岩は笑顔で頷いたが、そこで思い出したように問うた。
「ところで勤務体制は潜水学校で2時間の三直と教えられてたが、この艦では6時間三直だな。これはどうして変えたのか?」
「はい、それは2時間勤務だと非番休憩が4時間となり、実際には他の掛け持ちの食卓番やら酒保係やら厠番やらの仕事もありますから実質は3時間少々となり全く熟睡できぬまま次の勤務となり体調不良、変調を来たしやすいのがひとつ。
 また2時間、あるいは4時間で回すと1日がきれいに三直で割り切れてしまい、常に同じ時間帯、たとえば深夜の0時マルマルから2時マルフタに当たる人間はいつもその時間帯が当たるようになり不公平になるのがふたつめです。
 そこへいくと6時間にすると18時間で三直が一巡しますから、公平に時間帯が巡るという利点が生まれます。
 ですから実際運用について現場で試行錯誤した結果、実用に利する6時間三直を採用してる艦が多いかと思います」
「なるほど。やっと疑問が解けたぞ」
「すみません、気が付かず説明してませんでした」
工藤艦長が頭を下げると白岩がかまわんと手で払った、その時だった。

 聴音係が大声で報告した。
「二軸敵駆逐艦の音源、感二、近づきつつあり」

 工藤艦長の顔が曇った。
「こんな海域に突然、敵駆逐艦とは」
「これは敵哨戒機のMADで見つかって呼ばれた可能性があるのう」
「では潜航用意させます、戦闘用意、無音潜航、深度110」
 
主電動機モーターも始動準備だ。ヘッジホッグを撃ってくるかもしれん」
 白岩はヘッジホッグと言ってしまってから聞いた。
「艦長、ヘッジホッグは知ってるか?」
「はい。聞いてます、アメリカの新タイプの爆雷ですね。
 ヘッジホッグは同時に20発ぐらいの小型爆雷を円状に投下してくる。これは深度設定はなく、どこまでも沈み接触のみによって爆発。仮に一個が爆発すると同じ深さで隣にいる爆雷が誘爆するので、結果的20倍の火力の爆発になる仕掛けと聞きます」
 工藤艦長が説明すると白岩が述べた。
「うむ、こいつは従来の爆雷と違って深さを変えるだけでは逃げ切れない。投下音とともに主電動機で前進で逃げるんだ」
「わかりました」
 白岩の話を聞いた発令所の全員が聴音係の報告に神経を集中した。
「方位330……近づきつつあり感三」

「感四、さらに近づく……」

「深さ110になります」
 潜航長の声に工藤艦長が声を返す。
「よし、潜航停止」

 頭上からスクリューの音がじかに響いてくる。
「直上。感五いっぱいです」
「………あ、突発音、爆雷投下」
 間髪を入れず工藤艦長が命ずる。
「爆雷防御、前進電動機最大速度」
 伊号第12潜水艦はゆっくりと進み出した。
 のろのろとした歩く速さで動き出した艦だが、次第にランニング程度の速さにスピードを上げる。
 もし爆雷が普通の特定深度に起爆を設定されたものなら想定深さが違えば爆発音は不快な音ではあるが直接の被害はないだろう。しかし爆雷がヘッジホッグであれば、爆発音がしたら乗組員にとってそれはこの世の最期のラッパと思ってよい。
 常人の想像をはるかに超えた絶体絶命の危機を重傷を負いながら何度も潜り抜けてきた白岩だったが、潜水艦の中にあっては彼とて逃げ切るわけにはいかない。
 スピードが乗ったところで白岩が言う。
「艦長、面舵060だ、敵は自分の来た330のラインが一番近いと思って引き返してくるかもしれん」
 白岩は敵のラインから直角に艦の向きを変えて進み少しでも被弾の確率を下げようというわけだ。
「なるほど。面舵060」
「面舵060、ヨーソロー」

「舵が切れて惰性がついたらモーター停止だ」
 モーター音を察知されないように切ると、皆が惰性で進め、進めと胸中に念じた。

 しばらくして再び聴音係が報告する。
「方位140感四……近づきつつあり」

「感五いっぱい」
「………来ます、爆雷投下」
 再び間髪を入れず工藤艦長が命ずる。
「爆雷防御、前進電動機最大速度」
 伊号第12潜水艦は進み出した。

「艦長、今度は取り舵050だ」

 こうして敵駆逐艦の爆雷攻撃と伊号第12潜水艦の回避操艦が繰り返されてゆく。
 敵駆逐艦の爆雷が尽きるか、伊号第12潜水艦の電池が尽きるか、という比較からすると電池が32時間は持つと言われる伊号第12潜水艦の方が有利にも見える。
 だが、もし敵が新たな艦艇の応援を呼んだらその有利は吹っ飛んでしまうだろう。増援がないことを祈りながら伊号第12潜水艦はひたすら回避行動を繰り返す。
 喉が干上がるような緊張の応酬が既に1時間半続いていた。

 おもむろに白岩が工藤艦長に尋ねた。
「艦長、この艦は『仮装沈没』の準備はあるのか?」
「はいっ、用意してあります」
「そろそろ敵も結果が欲しくなってうずうずしてる頃だ。その『仮装沈没』の小道具で誘爆して重油を少々放出してやれば敵は我が方を撃沈したと勘違いするだろう」
 そう言われたが工藤艦長には懸念があった。
「なるほど。但し誘爆でこちらが損傷する危険もかなりあります」
 『仮装沈没』の小道具に敵が騙されて立ち去ればしめたものだが、そのためこちらが大きな損傷を受けては話にならない。
「うん、感五になる時に小道具を放出するんだ。
 それならば小道具が上に浮き上がりながらヘッジホッグに接触誘爆するだろう。
 こちらは放出と同時に潜航を始めて上下の間隔をさらに稼ぎ、同時に今まで通り主電動機の最大速力で前進して横の間隔も取ればなんとかならないか」
「それならばいけるかもしれませんね、やってみましょう! 驚きました、大佐は作戦の知恵の宝庫ですね」
 工藤艦長に言われて白岩はにやりとした。
「なあに、じっとしてるのが合わん性分でな」

 再び聴音係が報告してくる。
「方位290、感四……近づきます」

「感五いっぱい」
「仮装放出!」
 艦長の号令で甲板に偽装木片などを束ねていたワイヤーを緩めて放出する。
「急速潜航、前進電動機最大速度、下げ舵いっぱい。深さ150」
 伊号第12潜水艦は進み出した。
「重油700リットル放出。手空きは艦首へ」
 重油はもったいないが、艦の安全と引き換えなら惜しくはない。
 急げ。急げ。
 皆が口には出さずとも心に祈った。真下では上下の距離があっても爆圧が大きすぎる。少しでも横方向に逃げないといけない。その思いだ。
 
「………来ます、爆雷投下」
 聴音係の声に重ねて工藤艦長が命ずる。
「爆雷防御。隔壁閉鎖」

「深度は?」
「138、潜航中」

 突然に艦尾の向こうで

 ボッボボボッボボボッボン

 大きな爆発が仕掛け花火のように連続した。
 浮上してきた偽装木片にヘッジホッグが触発爆発し次々に誘爆したのだ。

 一瞬間があって衝撃が届き、艦が揺れ照明が落ちた。
「両舷停止。各部署、被害を報告せよ」
「補助電源室、軽微浸水」
「後部兵員室、軽微浸水」 

「電源まだか?」
「ただいま」
 まもなく電源は復旧した。
 白岩がにやにやして言う。
「艦長、うまくいったようだな」
「ええ、全て大佐の作戦通りに行きました。こちらの被害は軽微。今頃、敵は小躍りして不死身の我らの撃沈を報告してますよ」
 伊号第12潜水艦はさらに1時間死んだふりをしてから動き出した。

   ○

 司令官室で白岩と望月と矢吹が顔を揃えていた。白岩の司令官室は本来、艦長予備室として設計されたもので多用途室だ。テーブルには白岩が艦内文庫から持ってきた「のらくろ」の漫画本が置いてある。
「一番危険な海域も抜けたし、そろそろ鍛えていこかと思うとるんやが、自分らから見て乗組員の士気はどうや?」
 白岩に聞かれて矢吹が頷く。
「まあ皆、ようやってると思いますよ。この環境にしては士気は高いと思います」
 望月が言う。
「我々は逆境に放り出されるのが当たり前の特務員やから逆に、毎食白米かよといいところが目に付くぐらいで格別苦にもならんけど、一般国民から来たらこの潜水艦勤務はキッツいに違いないわ」
 白岩も頷く。
「そうなんやろな、この閉じられた艦内で太陽は拝めないし、空気はどんどん悪くなってゆく。そのうえ重油やら硫酸やら大小便やら汗やらカビやらが混ざり合って饐えたような臭いがいつも漂っておる。こんな中で食べて、きっちり仕事するいうんはそれだけでも闘いのようなもんや」
「白岩大佐殿にしては優しいやないか」
 望月が笑うと、白岩が答えた。
「だからな、この辺で訓練をしてやってピンとした目標と張り合いを持たせてやろうか思っての、毎朝、急速潜航訓練で鍛えてやろうか思うとったとこや」
 望月が苦笑する。
「あかん、鬼や。皆疲れとるのに寝かせたれや」

 そこでドアがノックされ白岩が「入ってよし」と入室許可をかけると、主計大尉と小瓶を抱えた衣糧の下士官が廊下の渡り板から降りて入室し敬礼してきた。潜水艦の通路は食糧を置き並べてその上に渡り板を敷き詰めるのだが、出港時の通路板は士官室のテーブルの高さまで達する。今は半分近く消費されて椅子の座面ほどになってる。
「白岩大佐、サイダーをどうぞ」
「これはサービスがええな。ウォッカだともっとええが」
 主計大尉が苦笑する。
「ウォッカは切らしてまして。昼時ですのでカルピスならありますが」
「あんなん甘ったるいもん飲めるかいな」
「失礼しました。実はゴミを出すのに重しが要りまして」
 浮上時に生ゴミを海上投棄するのだが、ゴミが浮いていると潜水艦の存在が露見する恐れがあるため生ゴミなどは破砕した瓶を重しにして沈むようにしている。
 下士官が白岩、望月、矢吹にサイダーの栓を抜いて瓶を手渡した。
「ああ、瓶でゴミの重し手配か、そんなことまでご苦労だな」
「重さのかさばるものはよく見ておかないとツリムのバランスが崩れますから半分本業であります」
 一般に主計というと経理と片付けられてしまうが、潜水艦の主計は特殊だった。単に積載する物資の金額計算だけでなく、配置までが主計の仕事なのだ。例えば食糧は重い米や肉の缶詰を一番下に置くのが簡単なのだが、単純にそうすると取り出す時の手間がかかりすぎる。それらを潜航長と連携し水や燃料の配置と総合して消費の量と順序まで計算して各所にバランスよく収納するのが潜水艦主計大尉の腕の見せどころなのだ。
「それはまた細かい仕事だな」
 望月が感心すると主計大尉と下士官は照れ笑いし敬礼して去った。

   ○

 朝4時の勤務交代が終わった頃、工藤艦長が艦内放送で呼びかけた。
「総員聞け。これより白岩司令より今後の訓練について訓示がある」
 それを受けて白岩が訓示する。
「本職が座乗して諸君の仕事ぶりは想像以上に頼もしい。
 しかし、我らが日本に帰った後、情報が届いて確定される敵は商船ではない。我らの撃沈すべき敵は高速かつ武器を備えた戦闘艦である」
 聞いている乗員にどよめきが起きた。
「それを考えると、ここで気を緩めることなく引き締め、まだ見えぬ強敵を目の一寸先にいると見据えてより一層練度を上げ本艦の戦闘能力を数字以上のものにせねばならない。そのためには定期的に訓練を重ね、体を鍛え感覚を養うことが肝要である。
 そこで本日より朝04時からの潜航時には緊急潜航訓練を、夜20時からの浮上時には緊急浮上訓練を行うこととする。
 緊急潜航は時間が速ければ速いほどよいが、今までの緊急浮上は皆知っておるように頭が海面に突き出てしまうのが殆どだ。今回の目標は潜望鏡深度まで速さだけでなく直前に水平ツリムになり浮上すること、即ちいち速く魚雷発射出来る態勢に持ってゆく実戦訓練である。どうすれば早く水平になれるか各自気がついた事があれば上官に申告し、より速い攻撃浮上を我が艦独自の武器となさんことを願う。以上である」
 白岩はマイクを工藤艦長に戻した。
「我らは手強い敵を倒さねばならない。白岩司令の期待に応えて練度を上げてゆこう。
 本日から潜航深度は米軍の磁気探査機能力向上に備えて90メートルとする。
 緊急潜航の時計、緊急浮上のツリムと時計は各直ごとの表にして張り出すから他の直に負けぬよう励むように」
 工藤艦長の言葉で、乗員が久々の本格的な直対抗訓練にざわついているのが伝わって来る。
「さあて工藤艦長、皆の本気を見せてもらおうかの」
「はい、楽しみです」

 白岩が頷いて指を振ると、工藤艦長が艦橋に通じてる伝声管に号令する。
「潜航訓練始め」 

 艦橋にいる哨戒長が敵機発見の想定で発令する。
「両舷停止、潜航急げ」
 けたたましい潜航ベルが鳴らされて、全員の目つきが変わった。
 手すきの乗組員は艦首へと通路を駆け抜ける。
 哨戒長と見張り員七名は急いで耐圧双眼鏡の蓋を閉じ次々とハッチから艦内に突入する。ここで前の者の手を踏んでしまったり、踏み外して発令所の床まで落ちたりすることが頻発するのだが、誰も文句を言ったりわめいたりしない。
 最後に信号長が艦橋ハッチを閉めて「ハッチよし」を宣する。
 白岩のストップウォッチが止まる。
 潜航の号令から「ハッチよし」まで44秒である。潜水学校で白岩が乗った呂号第59潜水艦が最初にマークしたのが45秒。伊号第12潜水艦の方が乗員の数が多いというハンデはあるものの、やや不満の残る数値だろう。
 発令所では潜航長とツリム手がメインタンクの下部弁を開き、哨戒長は艦外に通じる全ての弁の閉鎖をランプで確認し「ベント開け」で上部弁を開くことでメインタンクに海水が流れ込み浮力が失われて潜航する。
 そして潜航長が「深度90」を読み上げた時にもうひとつのストップウォッチを止めてさっきの数値と今の数値が直対抗の表に書き込まれるのだ。

 このようにして直対抗の潜航浮上訓練日本に帰るまで続けられた。

   ○

 古相寺が滝沢に頼まれてビーフシチューとカレーライスを持って行くと、テーブルにいたのは軍令部の、というより昭和の桜受家の外山少佐と小柴中尉だった。
「やあ、あの時の……」
 外山少佐が指さして言いかけると小柴中尉が頷いた。
「たしか古相寺さんと言いましたよね」
「はい、古相寺です」
「元気にやっとるようだね」
 古相寺は外山少佐に礼を述べた。
「その節は大変にお世話になりました、こちらがビーフシチュー、こちらがカレーライスになります」
「どうやら仕事も慣れてるようだな」
「なんとか」
 そう答えて古相寺は周囲を見渡した。周囲のテーブルに客はおらず、話を聞かれる心配はなさそうだ。
「実はお願いしたいことがあったんです。潜水学校の校長さんで醍醐中将いう方に連絡取りたいんですが、後で電話番号を教えてもらえませんか」
「じゃあ自分らが帰る時についてきなさい」

 帰りがけ、外山少佐は上手に滝沢さんに断って古相寺を軍令部に連れ出した。
 外山少佐は自分の机から帳面を取り出すとメモを書いて古相寺に渡す。
「じゃあ、これが番号だ。最初に交換台に特別至急通話でと断りなさい。小柴中尉に連れててもらって向こうの小部屋で電話しなさい。中尉は人が近づけんようドアの前に立っててくれ」
「電話まで貸して貰えるんですか、ありがとうございます」

 小部屋に入ると古相寺は机についた。ただ電話器には数字ボタンはもちろん、ダイヤルもない。どうしたものかと受話器を上げると女性交換手の声が話しかけてくる。

『申し上げます、申し上げます……』

『あ、あの広島に電話したいのです』

『はい広島でございますね、貴方様のお名前は何と申し上げますか』

『古相寺です、あっ、特別至急通話で』

『横浜の古相寺様。特別至急通話でかしこまりました。広島の何番でございますか?』

『広島の七六三番です』

『そのままで、しばらくお待ち下さい』

 古相寺は驚いた。電話が通じる前にこれだけ交換手と話さなければならないなんて。
 まもなく交換手が話しかけてきた。

『先方につながりました、お話しください』
『潜水学校ですが』

『私、そちらでお世話になった白岩大佐の身内で古相寺と申します。お忙しいところ恐縮ですが醍醐中将さまにお話しできませんでしょうか』

『……ちょっとお待ち下さい』

 それからまた少し時間がかかりようやくそれらしい落ち着いた男性の声がした。
『醍醐中将です。あなたは白岩大佐の身内ということはヤタガ、ヤタ家の方ですな?』
 傍に人がいて八咫烏というのを控えたようだ。

『はい、八咫烏の古相寺と申します。今回は大変お世話になります』

『どうだね、順調かね?』

『はい、おかげさまで日本に向かってると通信がありました。それで伊豆の停泊地について、こちらも食糧を運ばねばなりませんので細かい場所を教えていただけますか』

『それは重畳。大佐には当初沼津と言ってあったが、湾内だと万が一敵襲があると逃げずらいから、湾の入口にある大瀬崎神社の外側に停泊しなさい。細い岬の中だ。上から見えないようにタンクを設置しておくから浮き桟橋でも渡して積み込むとよい。そこなら50メートル沖は水深100超えだ』

『醍醐中将様、ありがとうございます。これで手配できます。それでもうひとつお願いがあるのですが、醍醐中将様は天皇陛下様に会えるお知り合いはありませんでしょうか?』

『どういうことかな?』

『はい、作戦がひとつ成功しても米国の物量は膨大ですのでいずれ手詰まりになります。
その場合に先んじて陛下には被害が拡大する前に講和していただきたく交渉したいのです』

『それはなんとも難儀な交渉だのう』

『より早い復興のためには早い講和が一番です』

『うむ。わかった。電話で口先でどうこう言っても相手には通じまい。役立つかどうかわからんが、古相寺さん、あなたの連絡先に封書を送ろう』

『ありがとうございます。醍醐中将様、よろしくお願いします』

 古相寺は醍醐中将に赤屋根食堂の住所を教えた。

 

 

第20章 艦内徒競走と富士山

 

 伊号第12潜水艦の潜航訓練、浮上訓練は順調に進んでそれぞれタイムを縮めることに成功し、白岩は現在の乗組員の実力を知ることが出来た。
 白岩は工藤艦長と話し込んだ。
「艦長、これで三直チームの練度は十分だろうな」
「はい。実戦が楽しみです」
「次の手として艦内徒競走をしようかと思う。後部兵員室の後ろにタッチしたところから走り出して、司令塔上のハッチにタッチして降りて、前に進み魚雷室の防水扉にタッチするまでのタイム競争だ」
「はい、それは面白いかもしれません」
「成績優秀者にはわしから、1等には恩賜の懐中時計、2等には恩賜の煙草入れ、3等には恩賜の銀杯を提供する」
 白岩が提案すると、工藤艦長が考え込むようだった。
「……それは嬉しい景品ではありますが、恩賜の品を賞品にしたと他所に知られたら、陛下から自分に賜ったものを他人に譲るのは不敬と非難されるかもしれません。やめておいた方がよいかと思います」
 その頃、恩賜の煙草があったが、当初フィルター部分に菊の紋章があり捨てられた残骸に御紋が残るためこれはいかんと燃える部分に印刷が移されるという事例もあった。
「なあに、潜水艦乗りは死ぬ時は全員一緒、ひとつなぎの命ではないか。死んだ後にわしの物と他の乗組員の物とを区別したところでそこに意味があるか」
 そこまで言われると工藤艦長も苦笑いするしかなかった。
「大佐の考え方はいつも桁外れですなあ。そこまで言われるなら問題ないでしょう」
「これは一部例外を除きなるべく全員参加だ。わしも走るし、艦長も走れ」
「えっ、私もですか?」
「苦手であってもそれを知られた方が親近感が増すという効果もあるからのう」
「気が進みませんが、大佐よりは速いでしょうから参加しましょう」
 白岩がにやりとしてさらに言った。
「途中でこけて怪我したものの治療があるから軍医長殿は除外だ。あと飛行兵の二人は駆け足が弱ってて可哀想だから最初から外してやってくれ」
「調理方も除外でいいですか?」
「うむ。その他の除外者は艦長の裁量に任す」
「では。中にはやりかけの仕事から手を放したくない者もいますからそれを無理やりに参加させるのはよろしくないと思います。そういう理由がある者は棄権可能にさせて頂きます」
「まあ、よかろう」

 こうして個人対抗徒競走大会が艦内放送で告知された。するとすぐさま除外された望月、矢吹が白岩の司令官室に乗り込んで来た。
「汚いぞ……」
 望月が言うと、白岩はすぐさま伝声管で世話係の下士官に命じた。
「来客だからコーヒーを三つ淹れてくれ」
 下士官はすぐにコーヒーを持ってきてテーブルに置いたが、白岩はさらに命じる。
「飲み終わるまでそこで待っててくれ」
「はっ」
 望月と矢吹のすぐ後ろで下士官が立って待つ形になり追及を弱めようという作戦だ。
 
「大佐殿、自分が負けるからって俺たちを外すなんて」
「そうではない、これは乗員の士気と脚力を高めるのが目的なのだ。貴官らはもともとこの伊号の乗員ではないだろう」
「大佐だってそうではないですか。なのに参加しやが…参加するなんて。俺たちに負けるのが悔しいためとしか思えません」
 白岩は即座に否定する。
「違う違う。お前らの脚力はわしがよう知ってる。だから、もしお前らが出たら乗員にゆく筈の景品が行き渡らなくなるではないか。こらえろ」
「だったら大佐殿も出ないでほしいです」
 矢吹が言うと白岩は一蹴する。
「ほれ、そこはわしは景品提供者として自分がどこまでやれるか楽しむ権利がある」
「いい歳して大人げない」
 下士官は苦笑をこらえているようだ。望月と矢吹はあえなく退散した。

   ○

 徒競走大会のコースは後部兵員室から補助発電気室、制御盤の前を通り、主機関の間を抜けて、発令所から梯子を昇って司令塔の上、艦橋に通じるハッチを手で叩いてから下がり、発令所を抜けて、士官室を抜け、前部兵員室を通り、魚雷発射室の扉にタッチするもので、全長113.7mのうち操舵室以降と魚雷発射室以前の部分を除外した72m強を使う。

 そう聞くと短いと思われるかもしれないが、普通の客船と違ってこの距離を立ったまま走ってはゆけない。途中で五か所の円形をした隔壁防水扉があり、それを頭をぶつけぬよう屈んで、尚かつ同時に床より一段高い位置にある扉の下辺をまたいでゆかねばならないのだ。もちろん食糧が積まれた部分は高くなってるからその高低差もあり、平面ではなく三次元の競争になるのだ。

 徒競走はまず士官以上のグループ13名で下の階級の者から出走した。
 最初は分隊士の小諸中尉が唾を吐きつけた手を叩き鳴らして待つ。
 そこへ「始め!」の声がかかりスタートした。
 見物する兵たちは兵員室の中や、厠前、洗面所などにたむろして眺めている。
 分隊士は最初の防水扉で後ろ足が引っ掛かりあやうく転びそうになったがなんとか持ち直してタイムは18秒台を叩き出した。
 電気長、機械長、潜航長が棄権して、次に走ったのは掌水雷長でタイムは20秒台。次が砲術長でタイムは21秒台とふるわない。

 坂本機関長、山村航海長、先任将校である鈴木水雷長は仕事優先で棄権が放送され、見物する兵たちを三度続けてがっかりさせたところで、予想に反して工藤艦長が防暑服に白手袋をしてスタート地点に現れた。
 こうなるとやんやの喝采が沸く。
「艦長、分隊士に負けると示しが付きませんよ」
「艦長、怪我されると困りますで歩いても結構ですよ」
「その代わり全員に一杯おごって下さい」
 そこで工藤艦長が言った。
「俺が1等の懐中時計を貰ったら、おごってやろう。みんなは手を抜けよ」

「始め!」
 いよいよやんやの拍手が沸き起こった。
 工藤艦長は主機械を通り抜けるところまではそこそこの速さを見せた。
 しかしその後の発令所から司令塔への梯子の昇りが遅くなってしまった。
 最後はまた意外と速い足が復活してタイムは19秒台をマークした。
 見物の兵からは「分隊士は今から棄権しろ」の声が上がる。

 続いて登場したのは一番階級が上の白岩大佐である。40代半ばと年齢も一番上でありさらに髪には白いものも混じっていては誰も期待はしなかった。
「大佐、適当にタイム書いておきますからもう休んで下さい」
「景品はもらいますから走らなくていいですよ」
 労りの声が上がる始末だ。

「お前ら、よう見とけよ」
 白岩が言ったが、負ける予定の犬の遠吠えにしか聞こえない。
「始め!」
 だが、白岩が走り出すと、兵たちの瞳孔はすぐさま驚きに開きまくった。
 スピードが桁違いなのだ。まるで獣のような前傾姿勢であっという間に最初の防水扉の狭い穴にさしかかった。
 と、全くスピードを緩めるところもなく、片足は体操選手のように前に突き出し、片足は尻尾のように後ろに一直線となり水平に近くなった姿勢で穴に激突するかのように吸い込まれて消えた。
「なんだ、今の」
「チーターか」
 驚いた後部兵員室の兵たちは慌てて白岩の後ろ姿を見届けようと追いかける。
 が、もう、白岩の後ろ姿は次の防水扉の向こうに消えてしまっている。

 洗面所にいた兵たちは白岩が突然に現れたように感じ「えっ」と言った。
 次の瞬間、白岩は発令所の垂直梯子を一か所だけ掴んで上階の司令塔の垂直梯子に飛び移る。そしてやはり梯子を一か所だけ掴むと、その次の瞬間には天井のハッチをバンと叩いて、すぐさま落下に移る。その落下で発令所部分に落ちると途中で手すりを叩いて体を梯子から遠去けて足を前後にしてふわりと着地して、前に駆け出す。
「は、速すぎる」
 呆気にとられてる兵に望月が解説してやる。
「今の動きは憎たらしいな。真下の安全マットに着地すると次の足を踏み出す速度にロスが出るから、空中で手すりを叩いて態勢を変えてマットを避け、すぐ走れる状態に足を前後した形で膝や腿のクッションを最大限に使って音も立てずに着地したんだ。爺のくせに憎たらしい」

 走り終えて前部兵員室で眺めていた工藤艦長も驚きで口が腑抜けのように開いたままになった。
 防水扉に足がピンと現れたと思ったら凄まじい前傾姿勢の白岩が弾丸のように通り抜けて、魚雷発射室へ通じる防水扉を叩いてそれを足で踏んで勢いを吸収し、その場でバク転して止まったのだ。
「あっ」
「えっ」
「何だ」
 あまりに凄すぎて兵たちからは疑問符のような感想しか出てこない。
 
「記録は9秒57……。9秒57……」
 伝声管から報告が発令所にゆき放送で復唱された。
「ただいまの記録は9秒57です。9秒57です」
 なんと分隊士の記録を10秒も縮めてしまったのだ。

 矢吹の隣にいた上等兵曹が首をひねる。
「タイムが半分なんて奇術じゃあるまいし」
「単なるアルタードステートだよ」
 矢吹は答えて隣の望月に肘を突かれた。そういえば昭和時代にはまだない言葉だった。矢吹は口を噤んだ。
「何ですか、それ?」
「いや、昔、そんな言葉を聞いた気がしたが勘違いかな」

 白岩が幼い頃から瞑想して意識を制御することを教えられ、命がけで体を鍛えられて来た結社の実働員だからこそマークできたのである。
 それには己の精神と肉体を同時にコントロールして、いわゆるゾーン心理の極致、変性意識状態アルタードステートに到達しなければならない。その状態になることで、物理的時間を超えた速さで、なおかつ物理的法則の制限を超えたところまで肉体を動かし、あるいは究極的には肉体を変形出来るまでになるから、科学常識を超えた成果を達成できるのである。現代の物理的筋力アップに偏ったトレーニングでは絶対に到達できない領域だ。
 
 工藤艦長が驚きながら白岩に歩み寄る。
「まったく大佐には驚かされてばかりです。それにしてもこの超人的な速さは一体どうやって身に着けたものですか?」
 もちろん白岩は変性意識状態アルタードステートを利用したなんて答え方はしない。
 呂号第59潜水艦で訓練中にした説明を繰り返すだけだ。
「いや何、祖父の代まで居合抜刀術のキョウカ流の師範だったことから、幼い頃から祖父に厳しくしつけられてな」
「はあ、なるほど、居合抜刀術の速さですか。納得しました」
 分隊士の小諸中尉も素直に感嘆するしかない。
「司令の下で働けて幸せです。どうぞ今度秘術を教えてください」
「秘術なんてないぞ。自分の習慣で決めた動きを押し通すのではなく、場所場所の形に合わせて逐一足の運び、手の運び、体幹の使い方を変えるだけだ」
 
 とにかくここでも白岩は圧倒的な身体能力で乗員たちの心を鷲掴みにした。

   ○

 1944年12月25日0237時、伊号第12潜水艦はいよいよ日本に近づいて八丈島の北、御蔵島のすぐ南を通過した。
 敵艦船、特に潜水艦の動きに警戒を怠るわけにはいかないが、さすがに敵哨戒機が日本の潜水艦をMAD磁気探査機で探るという運用は想定しづらくなる。
 そこで時々深度30メートルから20メートルに浮上して長波の艦隊司令部が提供する情報やニュースを受信することが行われた。これによって関東近海でも敵潜水艦が何隻も行動しているのが知れた。
 ただ第二次大戦中の魚雷は追尾装置を持っておらず浅い水中を進む設計だったので、素早い潜航が出来るならば致命的な被害は受けないと考えてよい。もちろん伊号第12潜水艦は訓練の甲斐もあり、全没まで30秒かからなかったから、敵が潜水艦だけならば恐るに足らないと言えたのである。

「いよいよ日本に帰ってきたな」
 白岩が言うと工藤艦長も顔を崩した。
「はい。ハワイの東から延々と尺取虫のごとき歩みで来て、さすがに疲れました」
「それも本日でおしまいだ」
 そこで山村航海長が気象情報を披露する。
「天気は良いようですから、富士山が我々を迎えてくれる筈です」
「それはありがたいことだの。
 泊地に着いたら我らが目標について乗員にも公開して士気が弛まないようにするから心得ておいてくれ」
 すると山村航海長が尋ねる。
「目標の艦名は何ですか?」
「まだ何か月も先の事ゆえ艦名まではわからんのだ。しかしそれが何を積んでいるかを明かす。既に艦長には話したが、これは真に許すべからず新兵器なのだ」
 工藤艦長が怒りを思い出して唇を噛んだ。
「このまま海上を行きますか?」
「いや。敵機も朝の挨拶で驚かしに飛んでくるかもしれんからな。絡まれて機銃で大事な艦体に穴でも開けられてはかなわん。11時まで寝てよう」
「わかりました」
 工藤艦長が命じる。
「両舷停止、無音潜航、深度90」
 こうして伊号第12潜水艦は伊豆の石廊﨑の南南西92キロで最後の潜航を行った。

   ○

「あ、そこを左に曲がって下さい。もうすぐです」
 古相寺は巫女服を着てトラックの助手席に座り道案内をしていた。もちろんコード端末機を使い現代の壬生野が教えてくれる道順をそのまま指示してるだけなのだが。
 巫女服は潜水艦の停泊する横が大瀬神社でありご挨拶とご守護を願うために公子に頂いたものに久しぶりに袖を通したのである。
「あいよ。巫女さんの道案内なら鬼が出ても安心だなあ」
 ねじり鉢巻きの運転手は笑いながら言う。
「荷台の海軍さんは落っこちてないだろな?」
「あ、大丈夫です」
 古相寺はちらと後ろを振り向いて答えた。松丸も休暇を取り紺色の軍服を着て荷台に乗っていた。
「こんな田舎で大量に食い物を運んで何をおっ始めるんだろ?」
「海軍さんが陸に上がってなさるのですから訓練じゃないですか」
「しかし、巫女さんがお祓いに行くんだから、船も沈まなくて助かるだろうね」
「さようです。神様のご加護です」
「何人ぐらいなんだろね?」
「60人ぐらいと聞いてます」
 潜水艦勤務は過酷だとさんざん聞いてきたので、とりあえず乗員に揺れない畳の上でゆっくり寝てもらうことが何よりだ。そのため公子と相談し伊豆沼津の航護寺という寺の宿坊に宿泊する手筈を整えていた。次に重要なのは117名の胃袋を満たしてやることだ。そこで今、公子が手配してくれた米や野菜、果物を満載して向かっている。
 もちろん一度に全員が上陸したら潜水艦をその場に維持したり万が一の敵襲時に潜航したりが出来なくなるので、半分ずつ交代で上陸して次の出撃までの半年近くを過ごす予定なのだ。そこから60人という数字が出たわけだ。
 ただ運転手には潜水艦について秘密にしておきたかったので、寺から潜水艦への生ものの補充は古相寺と松丸でなんとかしなければならない。

 まもなくトラックは航護寺に着いた。
 松丸が荷台から飛び降りて「ご住職に挨拶してくる」と早足で行くのを古相寺も追いかける。運転手は早速荷台から重そうな米袋を下ろし始めた。

「ごめんください」
 松丸が声をかけると住職と三十代の女性が奥から出て来た。
「ご住職、お世話になります。海軍第6艦隊の松丸一等兵曹といいます」
「これはこれは、いかいご苦労じゃった」
「お世話になります、古相寺と申します」
 古相寺が言うとモンペ姿の女性が驚いた。
「巫女さんまでいらしゃって」
「はい、大瀬神社の方にもご挨拶がありますし」
「そりゃあまたご苦労様です」

 そこで松丸が尋ねた。
「それで大瀬神社の側に泊まってる艦艇に生ものを運びたいのですが、リヤカーなどありますか」
「お父さん、リヤカーてあったかね?」
「あるだろうがな。なんせ息子たちが皆海軍に志願して行ってしまったけん」
「海軍ですか?」
「ああ、うちの先祖は熊野から来た水軍で大瀬神社と一緒でな。ご先祖も海軍だから皆当たり前のように海軍を志願して行ったわ」
「そうですか、水軍でしたか」
 松丸が頷くと古相寺も言葉を挟んだ。
「私はお寺の名前に航空の航の字があったのですっかり飛行機に関係するのかと勘違いしてました。そうじゃなくて航路の航の字だったんですね。そういうご縁があったんですね」
「そういうことじゃで、ついてこれば」

 住職は雪駄を履くと松丸と古相寺を連れてお堂の裏手にまわった。
 そして物置の扉を開けると、中の材木や薪の積み荷やらをかき分けて壁に立てかけてあったリヤカーを指さした。
「これを使ってくれ」
 松丸と古相寺はとりあえずリヤカーを物置の外に出した。

 ひと安心して松丸と古相寺がトラックのところに戻るとねじり鉢巻きの運転手は既に七割方の荷物を荷台から台所前に運んでいた。
「ああ、すみません。殆どおろして頂いて」
「なあに運転と力仕事が俺の取り柄やから、あやまる必要はないやね」
 あっという間に積み下ろしは完了した。

「どうぞ蜜柑とお茶を召し上がってください」
 住職の娘さんからお茶をもらうとねじり鉢巻きの運転手は嬉しそうに言った。
「ああ、やはり本場静岡だ。蜜柑はうまいし、お茶も味がいいなあ」
「是非持って帰って召し上がって下さい。うちは檀家から余計集まってきますで」
 住職の娘さんが速攻で蜜柑とお茶の大きな袋を運転手に持たせた。
「あれ、これはありがたい、申し訳ありませんな」

 ねじり鉢巻きの運転手がトラックで去るのを見送ると、松丸と古相寺は生野菜や果物などをリヤカーに詰め込んで4キロほど離れた大瀬神社を目指した。
 少し進んだところで松丸が聞く。
「ちょっと冷えますね、古相寺さん、そんな巫女の衣装で寒くないですか?」
「下に七分袖を着てますから、そんなに寒くはないです」
「いやあ、それだけじゃあ冷えますよ。そのまま歩いてたら、なんでしたっけ、あ、ノリトだ、ノリトを唱える時に頭が凍ってど忘れしてしまいますよ」
 そう言うと松丸は紺色の軍服を脱いで古相寺に羽織らせる。
「コート代わりに着て下さい」
「こんなん困ります、松丸はんが風邪引いたら困ります」
「自分は特務員ですからこれしきの寒さは裸でも平気ですから、さあ」
 松丸は古相寺の手を強引につかんで軍服の袖に押し入れてしまう。
「そっちも」
 松丸に強引に軍服を着せられて、古相寺が文句を言わなかったのは実際に寒さを感じていたためだ。
「あったかいわ、松丸はん、ありがとう」
「いいえ、女子おなごに優しうするは当然のことですし、そのうえ……」
 松丸が言葉を引っ込めたので古相寺は反射的に聞き返した。
「そのうえ?」
「いや、これ以上言うといつも叱られるから言いません」
 古相寺はすぐ悟って思わずポッと頬を染めて軍服の襟を押さえた。

   ○

 伊号第12潜水艦が浮上して艦橋に登った哨戒員は思わず大きな声で報告した。
「陸が見えます、富士山も小さく見えます」
 工藤艦長は双眼鏡で空をぐるりと見まわして伝声管で聞く。
「電探、感度は?」
「艦橋、電探感度なし」
 発令所でやりとりを聞いていた白岩が工藤艦長に伝声管で言う。
「艦長、伊豆半島の内側に入ったら皆に富士山を見せてやろう」
「はい、そうします」
 
 艦橋のハッチが開いており送風機が作動しているので、今まで汚れて澱んでいた空気が発令所のあたりから入れ替わってゆく。
 乗員達の顔も心なしか明るくなったように感じる。
 白岩は士官室でトランプをしていた望月と矢吹を司令官室に呼んだ。

「どうや?」
「かったるいな、これから半年もぶらぶらしてなきゃ出撃できんのは」
 望月が言うと矢吹が奇抜なアイデアを出す。
「あのタイムマシンで、待ち時間をハショったら楽なのにな」
 白岩が笑う。
「この艦はあの境内の何メートルに収まらんぞ。それよりこの半年は半舷上陸で乗員の半分は寺の宿坊に泊まり、畑でも耕すことになるだろう。しかしそれだけでは士気が持たんから、君らに教官として乗員を鍛えてほしい」 
「まあ士官室でゲームしてるよりはましだな」
「同意」
「頼んだぞ。それからインディアナポリス撃沈作戦でも君らに飛行機で活躍してもらおうと思うとるから頼んだぞ」
「そう聞くと聞こえはいいが、あんな小さい偵察機でどう活躍するつもりや?」
「爆弾搭載量150キロとか言ってたぞ。零戦より少ないわ」
「まあ、そこらは任しとき」
 白岩は自分の頭を指さして言った。

 その時、艦橋の工藤艦長が伝声管で命令した。
「合戦準備用具収め」
 それを受けて伝令が宣言する。
「ハッチ開け」
 これで艦内にあるハッチが一斉に開放された。手空きの乗員達は待ちかねていたようでぞろぞろと梯子を登って甲板に出て太陽を浴びてまくり、外の空気を吸いまくる。

「帰って来たぞー」
「うおー富士山だあ」
 進行方向に冠雪を抱いた富士山がしっかりと見えていた。
「万歳ー、万歳ー、万歳ー!」
 誰が言うともなしにあちらこちらで万歳の声が響き渡った。
 

 

  つづく