ラジオ

ラジオ

 

 高速道路でバイクにまたがり四輪車の脇をすり抜けながら、アクセルをふかす。
 自分の胸から肩へ風圧がかかり、浮くように感じる。
 そんな時、自分が鳥のように自由に飛べる予感が湧き起こる。
 地面を蹴って、翼をはばたき、空気の揚力につかまって、ふわりと浮く。後は風を切って好きな方向に飛んでゆくんだ。家々の屋根が道路で仕切られたカラフルな田畑のように小さくなり、大きなビルがサイコロにみえる。車より速いスピードで走っている電車もゆっくりと這っているようだ。
 やがて雲を突き抜けると、太陽がまたたき、三千世界は踊る光の波間に横たわる。
 空に上がればきっとそんな印象だろう。
 鳥になりたいって気持ちは誰でも少しはあるだろう。
 どうして、そういうことに憧れるんだろう。
 自由? うん、それは自由なのかな。
 しかし、俺は自由になって何をしたいのか?
 そう問いかけると、答えはまだ空の彼方だ。

 

 

  1 第1日曜日

 準一は心の中で(また、この夢か)と呟いていた。
 自分が登場させられる悪夢がまた始まったのだ。

 よりによって……。
 準一は自分の部屋で、短刀を突き出し腰を低く構えて、大学時代からの友人小林伸吾を刺そうとしているのだ。
 準一より背も幅も劣る伸吾が怯えながら尋ねる。
(ど、どうしたんだよ?)
(わかってるだろう?)
 登場人物の準一はそういうが準一の意識の筈の自分には理由がわからない。夢なんだからここまでのストーリーなんて説明がある筈もなく、いきなり親友を刺そうとするところから始まるのだ。
(落ち着け、ジュン、話せばわかる)
 しかし、登場人物の準一は伸吾の台詞を吹き飛ばすかのように、短刀を突き出す。
 伸吾は体を翻して短刀を避けた。準一は短刀を少し引いて向きを変えて踏み込んで伸吾に突き出す。
 今度はトレーナー越しに伸吾の腹の右横を傷つけるが、伸吾の手に準一の腕がすぐに押し返される。
(な、なぜだよ?)
 準一はまた短刀を突き出す。
(ウッ)
 今度は伸吾の腹の中央やや左をえぐった。
(ジュン?)
 伸吾はそう言って準一を一瞬、見つめ、ゆっくりと前のめりに倒れてしまう。
 自分の意識はなんてことをするんだと登場人物の自分に問いかけると、登場人物はそれに答えて(だって仕方ないだろう?)と言い返す。
 サイレンの音が現実ではあり得ない速さで近づき、回転灯の放つ赤い強烈な光が窓から入り込む。たちまちドアがこじ開けられ登場人物の準一は警官たちに倒され、短刀を奪われる。
 
 瞼の明るみが意識されて、ふっと息を継いで瞼を開く。
 悪夢から脱出できたが背中がじっとりと濡れている。

 これで五日連続で、この恐ろしい夢を見ている。
 一日目は、この夢は何か抑圧されたものが殺人という象徴として出てきているだけだ、とフロイトの孫弟子のような気楽さで自己診断してやりすごした。
 しかし、翌日も、翌日もと、この夢が続いて繰り返されると、次第に不安が増殖してゆくばかりだ。
 小林伸吾とは、今も特に悪い仲などではない。
 いや、互いに全く別業種の会社勤めとなった今でも月に一度ぐらいは飲みに行く間柄だから、むしろ親友と言えた。
 ならば、この連日の悪夢は一体どういうことだ。

  ◇
 
 準一は悪夢を振り払おうと、日曜の午後の通りに歩き出た。そこには子供連れのファミリーのにこやかな表情があちこちにありのどかな雰囲気が溢れている。
 おかげで準一の心の隅に居座る悪夢の余韻は薄らいでゆく。
 最寄駅に隣接するショピングビルの3階に上がり、ゲーセンでバイクのレースのゲームをし、書店で、バイク新車情報とバイクツーリングの雑誌を立ち読みした。
 しばらくしてスマホが鳴った、奈緒美からの着信音だ。日曜は大体奈緒美と食事してその痕、部屋で一緒に過ごすことが多い。
 通路に出ながら、スマホを開く。
『よう』
『今、着いたとこ。何階にいるの?』
『書店で立ち読みしてた』

 準一と奈緒美はショッピングビルのレストランフロアにある中華料理店に入り、準一はあわびのオイスターソースを、奈緒美は海老おこげを注文した。
「ジュンさ、そうやって眺めおろして下の道をバイクで走ること考えてるでしょ?」
「よくわかるな」
「食べてる時は、もっと普通のこと想像したら、どう?」
「たとえば?」
「リスがひまわりの種をおいしそうに食べているところとか」
 奈緒美が言うと、準一は「それ普通か」と笑った。

 準一の部屋に向かうため、二人は、駅の連絡ホールを横切って駅前通りを歩いた。
 ショーウィンドウに映る準一も奈緒美も背が高くて釣り合って見える。
 向こうから歩いてくる中学生ぐらいのカップルの話が聞こえてくる。
「俺のどこが好きなわけ?」
 あごのニキビが目立つ男の子が聞くと、女の子は首を傾げながら、
「あんねえ、私の気持ちを知ってて守ってくれるとこ」
「バーカ」
 男の子は照れて、女の子の手を引っ張りながらすれ違った。
 奈緒美が微笑んで言う。
「あれぐらいの歳だと、言うことも可愛いよね」
「まあね。ところで、奈緒美は、俺のどこが好きなわけ?」
 準一がふざけて尋ねると、奈緒美はちょっと考えて、
「そうね。自分が野球好きでも、私に野球の話をしないところ」
 準一はわざと大きな溜め息を吐いた。
「それって、嬉しくないな。
 まるで、ハムスターが一日中、忙しく回転車まわしてダイエットしてるのに、このハムスターは食後にげっぷするところがいいのって言われてる感じ」
 奈緒美は小さく噴き出したが、準一はなにげなく前の店のウィンドウに目をやり、ハッとして、声を洩らした。
「あっ」
「どうしたの?」
「液晶テレビ置いてる台が昔のテレビのだから奥行き邪魔だろ?
 ああいうのいいなって思ってさ」
 準一は質屋直営のディスカウントショップのウインドウにあるテレビ台を指差した。
「ああ、なるほどね」
「ちょっと見ようよ」

 準一は店の中に入ると、液晶のテレビ台に近寄って手を触れてみた。
 まあ、悪くはないな……、そう思ったところで、不意に、隣のラックに飾ってある古風なラジオに目が移った。
 たぶん昭和初期ぐらいのものだろう。一見して目立つのは前面上部に半円がみっつ並んでいて、真ん中の半円が左右より高くなっている。サザエさんの頭に似ている。ラジオの幅は三十センチもあり、今の技術からしたら無用にでかいラジオだ。
「これ、面白いと思わない?」
 準一は奈緒美に振ってみる。
「エー、そうかな、ジュンの部屋に合わないよ」
「映画の小道具みたいで面白いよ」
 準一はそのままラジオを持ち上げ、レジに運んだ。

 部屋に着いても奈緒美はラジオに興味を見せなかったので、準一はラジオは紙袋に入れたままにして、奈緒美を抱き寄せた。
 ひとしきりキスを交わすと、まず奈緒美が風呂に入り、次に準一が風呂に入り、ベッドで二人の日曜日のお決まりの愛の行事を始めた。

 

 

  2 第1木曜日

 その晩、準一は伸吾を誘って飲んだ。居酒屋、おでん屋と渡り歩き、準一のアパートに辿り着いた。
 準一が冷蔵庫から缶ビールと枝豆を取り出してくると、伸吾はチェストタンスの上にある、かなり時代めいたラジオを触って言った。
「なんだ、これ、古臭いなあ」
「おう、すごいだろ、ラジオじゃなくて、昭和初期のラヂオだぜ」
「何?」
「ラジオは普通シに点々だろ、でもこいつは裏面の横書きの表示見たらチに点々で、しかもオヂラって書き方も逆で右から左なんだ」
「へえー」
 準一は伸吾にラヂオの裏面を見せた。
 中央下に黒いプレートがあり、横書きでオヂラ式球空真 堂鳴響国帝と刻印してある。
「右から読むと帝国響鳴堂 真空球式ラヂオか。
 どっから拾ってきたの?」
「駅の南にディスカウントの店、あんだろ」
「あ、質屋の直営だけど、ちょっとした新製品のアウトレットも並んでる店」
 伸吾はそう言いながら、直径4センチほどのダイヤルをいじっていた。
 もうひとつつまみがあるがそれは明らかに空回りしており、電源スイッチは見当たらない。
「その店で液晶テレビのラックが目について入ったら、隣にそのラヂオがあってさ、古い映画の小道具みたいで面白いなあと思ってつい衝動買い」
「でも、ミスマッチだよ、色も、形も、大きさも完全に浮いてしまってる感じだ」
「いいんだよ、ミスマッチでも。なにしろこのラヂオ、すごいんだぜ」
 準一は、子供が秘密を自慢そうに打ち明けてやる時の気分を思い出していた。
「それな、ちゃんと放送が聴けるんだ」
「へえー、こんなに古いのに?」
「ああ、ちょっと待ってろ」
 準一は茶色いコードから伸びた丸いプラグをコンセントに差し込んだ。
 すると、サザエさんの頭部分のスリットの布張りからガガーガーと雑音が流れた。
 準一がダイヤルを微調整すると、音質はこもっているが、聞き覚えのあるクラシックの曲が流れた。
「へえー」
「どうよ?感動した?」
「うん、でも考えてみれば、電波の原理は昔から変わってないし電波の割り当ても同じ、あ、テレビはデジタルに周波数も変わったけど、ラジオはそのままの筈だから聞こえても当然なんだろうけど」
「けど、感動的だろ?」
「うん」
「じゃあ、感動のしるしに」
 準一は伸吾と缶ビールで乾杯した。
「どう、最近、バイクで遠出してる?」
 伸吾は壁に貼ってあった、準一が撮影した釧路湿原の写真を眺めて聞いた。
「いいや、近場ばかりだな。遠出する暇がないよ」
「ふふ、社会人してるね」
 そこでラヂオの曲が切り替わり、時代遅れの仰々しいテーマ音楽が流れた。
「すげえ曲だな、国営放送以外ではありえない」
「まったく」
 もちろん今は形としては国営ではないがテレビでもラジオでもすぐに民放と区別できる役所臭さは不変だ。
 そこでアナウンサーが大上段に構えてタイトルを宣言した。
『わが人生』
 準一と伸吾は顔を見合わせて噴き出した。
「わがジンセイだって」
「よくも恥ずかしげもなく、そんなタイトルつけるねえ」
 準一たちにさんざんけなされているとも知らず、アナウンサーは型通りの挨拶をよこす。

『今晩は。聞いてる方が驚くような体験をされた方をお招きして、その方が送ってこられた興味深い人生について述べていただく、木曜夜のわが人生のお時間です。
 今月は太平洋戦争中、艦上爆撃機に操縦士として乗り込んでおられた鈴木久仁彦さんのお話を四週連続でうかがいます。
 鈴木さん、どうぞ、よろしくお願いいたします』
 アナウンサーが振ると、ややしわがれた老人の声が答えた。
『はい、よろしくお願いします』
 声の印象から白髪の薄くなった老人がお辞儀するシーンが思い浮かんだ。
『早速ですが、鈴木久仁彦さんがお生まれになられたのは何年ですか?』
『はい、自分は大正八年に、広島の阿渡町という、当時はまだ阿渡村と言ってましたが、そこで農家の次男として生まれました』
『鈴木さんの実家は地主でもあり小作の方もたくさんおられたそうですね』
『いや子供の頃は気にしてませんでしたね』
『どんなお子さんでしたか?』
『自分は成績が良いわけでもなく、また悪くもない、元気だけが取り柄のありふれた子供でした』
『その頃はどんな遊びをされてましたか?』
『やはり、日清、日露と戦争に勝った後ですから、男の子は兵隊ごっこが一番の遊びでして。広島は呉、江田島に海軍がありましたから、海軍ごっこをしてもよさそうなものですが、しかし、どういうわけか、ガキ大将ってやつは陸軍大将になりたがるものでして、当然のように、陸軍ごっこをしたわけです』
『兵隊ごっこというのは階級なんかもつけるわけですよね』
『ええ、それが肝心なところです。お前は伍長、お前は大尉と、働きに応じてガキ大将に階級を上げられたり、下げられたりするわけです』
『働きといいますと?』
『いや、たいしたことじゃありません。畑から西瓜や梨をかっぱらってくるとか、駄菓子屋の婆さんをおびき出すとか、気に入らないやつを落とし穴でひとあわ吹かすとか』
『ハハハ、昔の子供は結構、わんぱくだったんですよね』
『はあ、そうです。昔は遊び道具なんてあまりありませんでしたが、その代わり今の子供らより遊んでたような気がして、今の子供らは可哀相です』
『その後、学校はどうされました?』
『昭和十一年、村から広島市に出て下宿し、広島高校、今で言う大学の文科に進みました』
『次第に雲行きのおかしくなりだした頃ですね』
『ええ、しかし、アメリカとの戦争が始まるまでは、のんびりと言いますか、冷静に成行きを見守っていたように思います』
『では学校生活は普通で?』
『はあ、普通です。しかし、今と違い男女共学はないですから、むさくるしい学生時代だったかもしれません』
『それでも、華やかな青春の思い出はおありでしょう?』
『いやあ』
『恋の思い出もお話しいただく約束ですが』
『はあ、全部、話すつもりがどうも恥ずかしくていけません。
 当時、私は広島市内の民家に下宿していまして、同級生に水谷章という気の合う友人がおりまして、彼も広島の別な民家に下宿していたのです。その下宿先のお嬢さんというのが、私の恋の相手でした』
『ほお、同級生の下宿先のお嬢さんですか』
『名前は芙美子と言いまして、女学校に通っており、歳は私たちよりひとつ下でしたが、これがなかなかの別嬪でして。
 最初、下宿を訪ねた時は、そんな美人がいるとは聞いてませんでしたから、水谷相手に大声で教授の陰口を叩いておったのです』
『はい』
『そこへ突然、お邪魔しますと涼やかな声がかかりまして、別嬪さんが笑みを浮かべながらお茶を持って入ってきたので、まあ、驚きました。
 肌は博多人形のように白く、鼻は高くないが整って、唇も釣り合って小さく紅が似合うのが、浅葱色の裾をさばいて、藤色の地に菫模様、帯は若草色、胸元に袱紗の萌黄色を覗かせ……、いや、あたかも畳に突然、一輪の紫陽花が咲いたようでした。
 自分は決まりが悪いやら、お嬢さんの顔を盗み見てぼーっとするやら。
 そのあげく、手にしたばかりのお茶をこぼして、はい、お嬢さんは咄嗟に懐の袱紗を取り出して、拭いてくれました。
 水谷は「お嬢さんは芙美子さん言うて、近くの女学校に通っとるそうじゃ」と紹介してくれ、お嬢さんはひとしきり私に水谷と同じ教室なのか、出身はどちらか、などと問いかけて、「それではごゆっくり」と下がったのでした。
 それから水谷と他愛もない話をしましたが、胸の中ではなにやらときめくような心地でして』
『ははあ、一目惚れですね』
『その通りです。
 それからというもの、朝、起きては思い出し、昼下がりに面影が不意と浮かび、飯を食べては溜め息を吐き、夜も思い出しては眠りにつけず、みっともなくて傍から見られるもんじゃなかったと思います。
 なんとか心を通じたいものだと考え、これは二人きりになったら気持ちを打ち明けようと考えもしました。
 当然のように、自分はお嬢さんに逢いたさで、しょっちゅう水谷の下宿に遊びにゆくようになりました』
『打ち明けるチャンスはありましたか?』
『ええ、たまたま水谷が不在の時がありまして、水谷の部屋に通された私は、今日こそ想いを打ち明けようと決心して、お茶はまだかと待ちました。
 その間の緊張といったら、まるで胸の内に心臓が三十ぐらいあって一斉に脈打つために、息もろくに吐けないよう。
 そこに、いざ、お嬢さんがお茶を持って入ってくると、頭の中ではこれを口に出すのだと決めてる言葉が、少しも喉まで降りて来てくれないのです。
 ただ学校がどうの、天気がああだ、こんな映画を観たとか、せっかく二人きりなのに、三人の時とまるで進歩のない話しかできません。情けない話です』
 伸吾は眠そうにもたれながら、それでも目は閉じずにラヂオに向いていた。準一も缶ビールを持ったまま老人の過ぎ去りし恋の話の行方に耳を傾けていた。
『いえいえ、恋というのはそういうものでしょう。それでどうなりました?』
『そんなこんなで半年も過ぎたでしょうか。
 水谷はすこぶる気のいいやつで、誰かが授業を欠席すると頼まれる前からノートを貸したり、金の工面に困ってるやつがいればみんなに少しずつ出してやろうと持ちかけ助けてやったり、かと思うと女学生を口説いて振られたなどと臆面もなく公表したり、言いにくいですが猥談も得意でした。
 しかし、ことお嬢さんのこととなると、私がさりげなく聞いてもあまり詳しくは話したがらないのでした。
 私より接する機会の多い水谷に対する私の嫉妬からくる印象かもしれませんが、嫉妬には妄想の部分と、極めて鋭い直感の部分があるのです。その直感の部分で、私は水谷もお嬢さんに惚れているのだと信じました』
『なるほど』
『それで、水谷の不在をこそこそ待つのではなく、思い切って水谷に自分の気持ちも打ち明けて正々堂々としようと考えたのです。それは水谷がほんとにいい親友だと確信していたからでもあります』
『はい』
『そこで水谷に「自分は最近、夏目漱石の『こころ』を思い浮かべるんじゃ」と言いました。あれは下宿の娘に男子学生二人が同時に恋をして、一人の学生(後の先生)はもう一方の学生Kに娘への恋を打ち明けられるや鋭く罵倒します。そうしておきながらこの学生は娘の親に娘との結婚を願い出てそれが叶ってしまうという話です。それはKに対する完全な裏切りでした。それで悲しい結末が訪れるというものですから、水谷もすぐに私の言いたいことを悟ってくれました。
「うむ、実は俺もそれを考えとった。あれはよくない話じゃ」と言います。
「俺もあんなのはお断りじゃ。水谷のようにいいやつを裏切るなどはまっぴらじゃ」
「じゃあ、二人、同時に芙美子さんの気持ちを確かめてみんか?」
「それは名案じゃ」
「それで振られた方は潔くあきらめ、なおかつ男同士の俺たちの友情は絶対に変えずに保とうじゃないか」
「うむ。そうしょうで。それこそ友情というもんじゃ」
 こうして私は水谷としっかりと握手したのでした』
『それでお嬢さんに聞いたんですね?』
『はい、ある日、少し離れた神社にお嬢さんを散歩に連れ出しました。
 行きの道は水谷が付き添い、帰りの道は自分が付き添い、それぞれに気持ちを告白しました』
『ははあ、珍しい告白の仕方ですね。それでお嬢さんの返事はどうなりました』
『肝心のお嬢さんの返事は、二人とも同じで、そういう対象と思ってなかったので、時間をかけて考えさせてほしいとのことでした。
 それはもっともな答えだと思いました。
 ただ、お嬢さんに打ち明けたことで、自分と水谷は気持ちがすっきりして、互いに以前よりさらに深い友情を感じました。
 そしてお嬢さんも前よりうちとけて、三人寄ると賑やかに楽しい時をすごせました。
 自分らの三角関係に対立はなく、鼎立して安定して平和だったのです』
『なるほど。時間の方がきてしまいましたので、今週のわが人生はここまでとさせていただきます。鈴木さん、お話、どうもありがとうございました』
『お粗末さまでした』

 わが人生が終わると、ラヂオはまたクラシックの曲を流し始め、準一は電源プラグを抜いた。
「古い話だな」
「ああ。古い話だ」
 準一は、伸吾の返事を聞きながら、たまに感じる、実は伸吾も奈緒美のことを好きなのではないかという直感を思い浮かべた。
 しかし、伸吾が奈緒美を好きだとしても、奈緒美と準一の深い関係をどうすることもできないだろう。そういう意味では、今の鈴木老人の話のような三角関係とはかけはなれたものではあるが。
 そもそも準一と伸吾は大学のゼミで知り合った奈緒美と絵美と四人で付き合い始めたのだ。そのうち、準一は奈緒美と、伸吾は絵美とペアで付き合うようになって、ふた組ともうまくいきそうな感じがした。
 ところが、絵美は半年ほどして個人的な理由とのひと言を残して突然、大学を退学して田舎に帰ってしまい伸吾との関係は消滅したようだった。伸吾に聞いても「俺にも個人的な理由としか言わなかったから詳しいことは全然わからない」との返事だった。
 後から振り返るとその時、絵美は伸吾の心の中に奈緒美がいるのに気付いて、田舎に引きこもってしまったのではないかという想像も成り立たないでもない。
 二人の関係はどこまで進んでたのかと伸吾に聞くと「いや、キスしたぐらいで本格的に惚れたわけじゃない」との答えだった。
 
 不意に、準一は連日の悪夢のことを思い出した。
「ところで、伸吾さ、最近、嫌な夢とか見ない?」
「いや。見ないけど。急に、どうしたんだよ?」
「うん、俺がちょっとやな夢見たもんだから、伸吾が大丈夫ならいいんだ」
「そうか、じゃあ、俺、帰るよ」
 伸吾はそう言うと、ビールの空き缶をキッチンに置いて、帰り支度を始めた。
「悪かったな、引き止めて」
「いやいいんだ。ラヂオも地味に面白かったし、また飲もう」
 微笑んでうなづく伸吾を送り出すと、準一は伸吾との友情が揺ぎないことに、いつにもまして安堵したのだった。

 

 

 

  3 第2月曜日

 明け方、奈緒美は自分のベッドで悪夢の中にいた。

 準一が突然、ドアを開けて、奈緒美の前にふらふらと歩いてきたかと思うと、膝まづき、腕をだらんとおろしたまま泣き出したのだ。
 奈緒美はびっくりして声をかける。
(どうしたのよ?)
 準一の声は嗚咽のためにかすれている。
(俺…、俺、とんでもない、やっちゃっ)
(何をやったの?)
(伸吾を、刺した。殺した)
 そう言って準一は自分の手のひらを上げて見つめる。
 その手に血糊がついているのに気付いて奈緒美は凍りついた。
(ど、どうして?)
(わかんないよ、気がついたらカーッとなって刺してたんだ)
(やだ……)
(わかんないんだ)
 準一は顔を手で覆った。
(わかんないんだ)
 奈緒美はしばらく迷った末に覚悟を決めて屈みこんで準一の体を包むように強く抱きしめた。
 準一の声は、その体は、その呼吸は、いつ止むとも思えないほどの深い震えに取り憑かれており、それは奈緒美の体にも伝染して広がった。

 奈緒美は全身に走る震えで、目を覚ました。
 なんてひどい夢だろう。
 深呼吸しながら、昨夜、準一に抱かれた体をこすって、奈緒美は震えを押さえ込む。
 それから、目に溢れていた涙を拭って、ティッシュで鼻をかんだ。
 夢の中とはいえ、準一が伸吾を刺すなんて、絶対あってはならないことだ。
 そう思うと、奈緒美の目に再び涙が溢れてきた。

 

 

 

  4 第2木曜日

 どういう風の吹き回しだろう。準一から誘わなければ来ることのなかった伸吾が夜十時頃にやってきた。
「どうしたんだよ?」
「いや、たまたま近くで、演劇見せられてさ、その帰り」
「お前、演劇なんて興味あった?」
「だから見せられてって言ってるじゃん、職場の同僚が頼み込まれてチケット買わされたんだ。それに付き合わされた」
「そうか。それはお疲れ様」
「とりあえず差し入れ」
 準一は、伸吾から受け取った缶ビールとつまみのスナックをテーブルに広げて、しばらく一緒にスポーツニュースを観た。

 テレビがCMに入ったところで、不意に伸吾が聞いた
「最近、奈緒美は来た?」
 さりげなく聞こうという雰囲気があからさまで、少しもさりげなくないなと感じながら、準一は答える。
「ああ、日曜の夕方に来たよ」
 準一は、伸吾が奈緒美に惚れているなら、あまり詳しいことは言わない方がいいと思い、それだけ答えた。
「そう」
 伸吾はうなづくと、会社の後輩のやらかした失敗談をひとしきり披露した。
 スポーツニュースが終わったところで、準一はラヂオを思い出した。
「そういえば、先週のこの時間にラヂオで老人の話聞いたの覚えてる?」
「ああ、鈴木老人ね」
「今日は二週目だよ」
「おお、そうだね。何、それを聞きに来たの」
「いや、今、そのラジオ見て思い出した」
 準一はラヂオの電源プラグを入れると、スピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。

 クラシックの曲が終わると、仰々しい音楽が流れて、アナウンサーが『わが人生』とぶちあげる。
『今週は先週に引き続き、太平洋戦争で艦上爆撃機に搭乗されていた鈴木久仁彦さんのお話を伺います。鈴木さん、今週もよろしくお願いいたします』
『はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします』
『前回は、ご友人の下宿先のお嬢さんに、友人の水谷さんと鈴木さんとが示し合わせて恋を告白して、お嬢さんから二人に考えさせてくれと答えがあったところまででした』
『はい、そうして一年、二年と過ぎても、私にも水谷にも進展はなかったのでした。
 そうするうちに、国の行く末には暗雲が立ち込めました。国家総動員法が成立し、東京オリンピックも中止、アメリカも日米通商航海条約廃棄を宣言し、もはや日本は戦争の坂を転がり始めたのです』
『昭和十三年、十四年頃ですね』
『そうなります。私は学校を出たら役人にでもなるつもりでいましたが、水谷は風変わりなやつでして私に演説しました。
 俺は万民に空の散歩を楽しませる遊覧飛行の会社を興したいんじゃ。ついてはお前も一緒に手伝わんか、役人よりずっといい給料になるでぇ、と誘うのです』
『面白い方ですね。それで手伝おうと答えたのですか?』
『いいえ。そりゃあ、遊覧飛行じたいは面白かろうとは思いましたが、あなた、広島市民みんなつかまえて、遊覧飛行しないかと誘ったとして、乗りたいと答えるのは数人の物好きでしょう。私はそんな商売が成り立つのか疑問だったのです。
 しかし、水谷は私が断っても、その後もずっと誘い続けてきました』
『そうですか。それでお嬢さんはその後どうされてましたか?』
『お嬢さんは、色めいたということはありませんが、物言いや態度に大人びた落ち着きが出て、いよいよ美しく見えました。
 自分は抜け駆けしたい気持ちになりました。
 と言いますか、水谷は毎朝、毎晩、お嬢さんとひとつの食卓で食事できるのです。
 そのように私より有利な立場を利用して、お嬢さんと親密に交際しているのではないかと疑う心が起こって、嫉妬が起こったのです。
 そこで自分はお嬢さんと二人きりで話す機会を持とうと計画しました。
 お嬢さんは既に女学校を卒業して、家事手伝いに入っていました。お嬢さんの母親は週一度生け花の師範のところへ出かけるのが常でした。
 自分はその時を狙って、訪問しました。
 そしてお嬢さんに向かって切ない胸の内を伝え、そろそろ答えがほしいんじゃがと告げました』
『ほお、お嬢さんはどう答えましたか?』
『赤くなって「もう少し待ってください」と。
 それから「母の留守に来ないでください」と言われました。
 自分は「水谷と比べてお嬢さんと顔を合わす機会が少なくて不利じゃから、つい訪問したけぇ悪く思わんでほしい」と弁解しました。
 数週間経った夕方、水谷の部屋でお嬢さんを交え三人で談笑していた時のこと、ふと水谷が手洗いに立ちました。その間にお嬢さんから「明日の午後四時、あの神社でお返事します」と言われたのです』
『いよいよですね』
『翌日、自分は良い返事に弾む動悸と断りの返事に震える動悸に交互に突かれて神社に行きました。
 秋の長雨が止まった霞んだ空と、濡れて染まった焦げ茶の大地の境に欅の樹があり、そのたもとに萌黄色の着物姿がありました。お針子の帰りなのでしょうか、道具箱を抱いて佇むお嬢さんに、私は手を振って近づきました。
 自分の足音に気付くと、お嬢さんは黙って会釈をよこします。
「やあ、遅うなりました。ちいと学校で友人が喋りかけてくるもんだけぇ、なかなか抜けられんで……」
 まだこちらが言い終わらぬのに、お嬢さんが声を重ねてきて、
「鈴木さん、ごめんなさい。私は鈴木さんのお気持ちに添えません。お許し下さい」
 さっと頭を深くおろされました。
「……」
 一瞬、息が詰まりましたが、すぐ溜め息を言葉にしました。
「ああ、嫌われましたか、そうですか」
 その台詞に間隙置かず、お嬢さん、
「そんな、嫌いだなんて、ただ深いご縁が感じられなかっただけです。鈴木さんご自身はとても立派な方だということはようく知ってますもの。立派過ぎて私なんかには向かないだけなのです。堪忍してください」
 お嬢さんは、みるみる涙を溢れさせ、こぼれ落ちるままに任せて自分を見つめるので、こちらは、もし断られたら言葉尻をとらえて食い下がろうと企んでいた気持ちも萎え、
「では、水谷のことは気に入ってくれたんでしょうね? もし奴も嫌だと言うんなら、許しませんよ」
 大根役者の棒読みのように言うのが精一杯でした。
 すると、お嬢さんは小さな声で「はい」と答えて、急に染まった顔を隠すように押さえたのです。
 自分は悔しさに塗りつぶれた胸でなんとか息をつきながら、その場から走り去ったのでした』
『そうでしたか。それはお辛いことでしたね』
『はい。自分はもちろん約束通り、水谷を祝福する一方で、もうそれ以上、高校に残り下宿するのも辛かったので、高校をやめて海軍兵学校に入ることにこっそり決めて、電撃的に実行したのです。
 そして海軍兵学校で航空兵に志願しました』
『なるほど、いよいよパイロットになるわけですね』
『しかし、どうして航空兵を志願したのかと聞かれるとうまく説明できません。
 単に空を飛んでみたかったような気もしますし、心の中で遊覧飛行の会社を作ると言っていた水谷に先んじて空を飛びたいという対抗意識があったかもしれません』
『そうでしたか、それで開戦となり戦争に行かれたわけですね?』
『ええ、私はインド洋に展開する九七式艦上攻撃機の要員として派遣されたのです。
 ところが、数ヶ月した頃、その航空母艦でとんでもないやつに出会いました』
『とんでもないやつと言いますと?』
『水谷です。
 あいつときたら、いつのまにか航空隊に入り、零式戦闘機、俗に言うゼロ戦のパイロットになってやがるんです。それが偶然にも補充要員として私と同じ航空母艦に派遣されてきたのですから、いやあびっくりしました。
 敬礼をしながら嬉しそうに赴任の挨拶をした水谷に、私は殴りかからんばかりの勢いで、やつの胸ぐらを掴んで問い詰めました。
「貴様、いったい何、考えとるんじゃ。
 お嬢さんと祝言を挙げといて、こがぁな危ないところに来おって」と。
 すると水谷は落ち着きはらって、
「うむ、遊覧飛行の会社のためじゃけぇ。
 わが社専属操縦士のお前が休みを取ることもあるじゃろう。そがいな時のために俺も飛行機の操縦を覚えてとこう思うての。民間の学校じゃ月謝もかかるが、海軍はタダで教えてくれるというけぇ喜んで入ったんじゃ」
「ふざけるな、貴様、今すぐ戻れ!」
「アホこけ、今、戻ったら敵前逃亡で軍法会議じゃ。
 それより芙美子がお前のことを案じておる。もし会ったらご武運を祈ってますと伝えてくれと言うてな」
 そして水谷はお嬢さんからの手紙を取り出して見せてお守りをくれたのです。
 そこには確かに、もし、鈴木さんに会ったら、私が、毎日、朝夕、ご武運をお祈りしておりますと伝えてくれと、流れるような筆使いで書いてありました。
 私はそれだけで殺伐と乾ききった心が失せて、身に余るお嬢さんの優しさに涙が溢れそうになりました』
『劇的な再会でしたねえ』
『ええ、やつは頭の回転も運動神経も抜群でしたから零式戦闘機の要員に採用されたんでしょうが、それにしても遊覧飛行のためなどという理由で航空士官になどなってほしくなかった。徴兵を逃げまわってでも、お嬢さんと一緒にいてほしかったです』
『しかし、既に戦争の真っ只中ですよね』
『はい。インド洋ではポートダーウィン、コロンボと我が部隊は戦果を挙げて、意気揚々でした。
 特に零式戦闘機の性能は敵イギリス軍の戦闘機を明らかに上回っており、危なげない勝利だったのです。
 我々の次の目標は、今のスリランカにあるツリンコマリという軍港でした。
 私は九七式艦上攻撃機に、水谷は零式戦闘機に乗って出撃しました。
 敵の戦闘機も待ち構えていたのですが、零式にかかると一方的に落とされていきます。 私は地上にある海軍の施設に狙いを定めて、爆弾を投下します。
 少し説明しますと、九七式艦上攻撃機は二人乗りでして、前方で私が操縦し、後方で広瀬という爆撃手が爆弾投下かまたは魚雷発射をするのです。
 その日、私らは予定通り敵施設に爆弾を投下命中し、帰途についたのでした。
 しかし、私らの機は一時的に燃料パイプに詰まりでもあったらしく、いつの間にか僚機と離れていました。
 そこを群れからはぐれた赤子を狙う、狡猾なハイエナのような敵戦闘機に見つかってしまったのです。
「後方七時、敵機!」
 広瀬爆撃手が大声で叫んでまもなく、トンネルの中のライトのように空にオレンジの色がポツポツと次々に現れます、これが敵の機関砲の銃弾でして、恐ろしく鮮やかに左主翼から機首をかすめました。
 目をまばたきして見ると、風防ガラスにヒビが入っております。さらに左腕がカーッと熱くて、飛行服が裂けて血がどくんどくんと流れているじゃありませんか。
「鈴木少尉、大丈夫ですか?」
「おっ、かすり傷だ、心配すんな」
 私はマフラーで腕を縛りつつ、ペダルを踏み、操縦桿を倒して、今さっき自分たちを追い越していった敵戦闘機から遠ざかろうとします。
「まだ、追ってきます、後方四時」
 今度は操縦桿を引いて、スロットル全開。
 なんとか上昇して今回はオレンジのポツポツは左後方によけることができました。
 しかし、こっちは爆弾や魚雷を積むための設計で、運動性能は明らかに劣ってます。小さな機関銃はあったものの、それを使うためには敵を正面に捉えなければなりません。スピードも旋回性能も劣っているこっちには難しいです。
 このままでは撃墜されるのも時間の問題だという、いやな考えが浮かびます。
 自分はペダルを踏み、操縦桿をくねらせ、スロットルを操り、必死に逃げました。
 しかし、敵のポツポツが今度来たらよけられるか自信がありません。
「少尉、真後ろ!」
 叫んだ広瀬が続けて「おふくろ」と言うのが聞こえ、自分も「おふくろ」と呼びました。
 一瞬、目を閉じると、瞼の裏に現れたおふくろはにこやかな笑顔で……、続いて父と兄と弟、妹の笑顔が浮かび、最後になんとお嬢さんの微笑む様子。
 ハッと目を開くとオレンジのポツポツがサアーッと来ましたが向きが上空前から後ろに向かう銃弾で、あれっと上方を見ると、零式戦闘機が猛スピードで敵を退治に向かう様子です。
 今度は攻守替わって逃げようと必死の敵を、零式戦闘機があっという間に追い詰めて機関銃からポツポツを撃ち込み敵機を撃墜しました。
 そして零式戦闘機は鮮やかに旋回して自分の機に並びかけ、風防に飛行帽の水谷が白い歯を見せて微笑むのが見えました。
 ああっ、と自分は手を合わせたい心地、水谷が菩薩に見えました。
 自分は無線で「ありがとう」と叫んで、主翼を振りました。
 水谷も主翼を振ると、「また、あとでな」と言い、翼をひるがえしてまだ戦闘が続く空へ引き返してゆきました』
『大変なところでしたね、水谷さんのおかげで助かりましたね?』
『はい。文字通り命拾いしました。
 自分らは先に航空母艦に戻って、水谷のやつを思い切り誉めちぎって、礼を百万回も言おうと待ち構えていました。
 ところが、いつまでたっても水谷の機が帰ってこないのです。
 私は指揮所から出てきた隊長を見つけて駆け寄り、敬礼もそこそに、
「中佐、水谷のやつは?」
 すると隊長はうつむいて、
「うむ、水谷は今日も貴様の申告したのも入れて四機撃墜。
 大戦果を挙げおった。
 しかし、貴様と別れた後、運悪く、混戦となり失速墜落中の敵機と激突して空中分解したらしい。惜しい男を失くした」
「そ、そんな」
 自分はそれでなくても失血でふらふらしていたので、その場に卒倒するように膝をつきました』
『そうでしたか。水谷さんは戦死された』
『ええ、ほんとに悔しくて、悔しくて。
 自分は真剣に替わってやりたいと思いました。
 お嬢さんをめぐっては嫉妬したこともありましたが、失ってみると、自分は水谷をかけがえのない親友として愛していたのだと気付きました。そして水谷に対して、あやまちのことを謝りたい気持ちでいっぱいでした』
『もっとお話を聞きたいところですが、本日の時間がきてしいました。鈴木さん、続きはまた来週にお願いいたします』
『はい、お粗末さまでした』
『それでは本日の「わが人生」はこの辺で、さようなら』

 準一はもう一本缶ビールを飲み干しながら言った。
「俺、前からゼロ戦てカッコイイと思ってたんだ。バイクとゼロ戦て似てるよな?」
「そうか、地上と空で似てるかな?」
「いや、その動きの自由自在なところが似てるんだよ。太平洋戦争の初期、ゼロ戦の旋回性能は群を抜いていたんだ。追いかけると返り討ちにあうものだから、アメリカ軍はゼロ戦を追いかけるなという指示まで出したらしい」
「ふうん。詳しいな」
「子供の頃から好きだったんだ」
「でも、それで死んだらいやだろ」
「そりゃそうだけど」
「あの、ジュンさ」
 急に伸吾は改まった口調で気を引いた。
「うん?」
「今の老人の話じゃないが、打ち明けておくと、俺は奈緒美さんが好きなんだ」
「え?」
 そう驚きながらも、想定できる範囲だから準一は冷静につけ加えた。
「そうだったのか」
「ああ、すごく恋してる、愛してるんだ」
 準一は、『そう言われても奈緒美は俺の女だ』と頭の中で宣言してみて、それを具体的に説明しようとした。
「でもな、実はな、俺さ」
 が、伸吾はそれを遮って言う。
「知っているよ、ジュンは奈緒美を愛してるんだろう。それは知ってる。何度も何度も寝てるんだろう、だけど」
 準一は伸吾が泣き出すのではないかと感じた。
 だが違った。伸吾は一気に吐き出した。
「だけど、俺も奈緒美と寝ているんだ。何度も、何度も……」
 今度は準一の呼吸が止まりそうだった。
 頭の中で、伸吾の言葉がリフレインされて、響いている。あの奈緒美がこっそり伸吾と寝ていたなんて……。
 伸吾は少し口調のテンションを上げて、
「困っちゃうよな、こういうのって。
 でもさ、恋愛てのは、誰にも権利はあって、誰にも悪意はないんだ。奈緒美だって裏切ろうとして俺とそうなったんじゃないんだ。俺はジュンのこと、親友だと思っている、それは完璧にそうなんだ。
 だから、俺のことも、彼女のことも許してくれ、ごめん」
「……アア」
 準一がつぶやいたアアは肯定でも否定でもなく、なんと言ったらいいのか、という言葉の最初の母音と最後の母音のアアだ。
「いつから?」
 準一は、自分が間抜けな寝取られ亭主みたいだと思いながら聞いた。
「大学三年のクリスマスの翌日。
 ジュンは、イブの翌日に帰省しただろう、その翌日。
 ほら絵美が12月の初めに田舎に帰っちゃっただろう。だから俺が沈んでるんじゃないかって、奈緒美がさ、俺の部屋に来て料理作ってくれたり、いろいろ励ましてくれたんだけど、俺はそれが辛くて辛くて。でもあんまり奈緒美がしつこく優しいから、つい、俺、叫んでしまった。
(違うんだっ、俺が本当に好きなのは、奈緒美だったんだ!)って。
 そしたら、奈緒美、一瞬ぽかんとしたけど、しばらくして何を思ったのか、男みたいな口調で誘うんだ。
(おう、じゃあ俺を押し倒して抱けばいいじゃん、親友の伸吾なら俺は全然傷つかないぜ、構わないぞ)って、目つぶって唇を突き出すんだ。
 こんなの変だ、変だって自分で思いながらも、止められなくて奈緒美を押し倒してた。
 それ以来、少しずつ……、ジュン、ごめんな」
 伸吾の話は聞けば聞くほどショッキングな話だった。

 翌朝、二日酔いの準一は、いつ伸吾が帰ったのか記憶になかった。  

 

 

 

  5 第3火曜日

 伸吾は悪夢にうなされていた。

 準一の目つきがギラギラしているようだ。
(許さないからな)
 そう叫んで、準一は短刀を構えた格好で、伸吾に歩み迫ってくるのだ。
(ど、どうしたんだよ?)
(自分の胸に聞いてみろよ)
(とにかく落ち着け、ジュン)
(落ち着けだと? 奈緒美を奪いやがって!)
(話せばわかるって)
 しかし、準一は伸吾の台詞を串刺しにして短刀を突き出す。
 伸吾は危いところで短刀をかわしたが、準一は素早く引っ込めて再び短刀を突き出してきた。
(あっ!)
 トレーナー越しに右腹に痛みが走るが、伸吾は準一を体ごと押し返す。
(どうしたんだよ)
 準一はまったく伸吾の言葉を聞こうともせず、また短刀を突き出す。
(ウッ)
 今度は伸吾の腹の中央をえぐった。
 伸吾は自分のトレーナーがどんどん赤く染まるのを見て、準一を見上げる。
(ジュン?)
 伸吾はそう言ったきり、前のめりに倒れてしまう。
 遠のいてゆく、意識が思う。
 そりゃあ、奈緒美とのことは悪かった。だけど、どうしようもなかったんだ。
 人生、こんな終わり方もあるんだな、納得いかないけど、仕方ないのか……。
 意識がどんどん黒い霧の中に吸い込まれ、薄まってゆく。

「ワーッ」
 伸吾は叫んで上半身を起こすと、肩を上下に揺らし息をついて心の中でつぶやいた。
 恐ろしい夢を見ちゃったな。夢だからいいが。これはもしかして、奈緒美とのことを準一に話さない方がよかったってことの知らせなのか?
 だが知らせてくれるなら、準一に話す前に教えてくれないと意味がない。
 まさか、準一のやつ、本気で怒ってないだろうな。
 やっぱり、言わないでおけばよかった……。
 伸吾は後悔し始めていた。

 

 

 

  6 第3木曜日

 バイクはイグニッションを切っても、しばらくエンジンの冷却ファンのまわる小さな音がシュンシュンシュンと虫の音のように響いている。
 奈緒美はタンデムシートからぴょこんと跳び下りて、ヘルメットを脱いだ。
 グレーのパンツに、腰まわりのふんわりした淡いピンクのシャツ、その上に小さめの黒っぽいジャケットをはおっている。
 ヘルメットを取った準一は夜気を吸い込むと、使い古されていると感じながら言う。
「ここからの眺めはいいなぁ」
 船の灯りと向こうのビルの明かりが連なる、その上を飛行機がストロボライトをまたたいてゆっくりと降りてゆく。
 しかし、文明のイルミネーションは星空をスモッグで覆ってしまった分を、人工光で埋め合わせているだけなのではないかと気付いてしまう。
 先週、伸吾から告白されて以来、スマホで奈緒美と話しても、以前と同じではない自分に気付く。伸吾と寝ていながら全く気配も感じさせずに付き合ってきて、一体、自分に対してどういう気持ちでいるのか。それを聞き出したいのだが、どんな風に切り出したらいいのか、いや、そもそも、問いかける勇気すら湧いてこないのだ。

 奈緒美は長い睫毛の下に笑みを浮かべてたずねる。
「どうしたのよ?」
「え、何が?」
「なんか、この数日、声に元気ないみたいだよ」
「そんなことないさ。ただ……」
「ただ?」
「火曜の夜にさ、ちょっと中央高速を走ってて白バイに捕まっちゃったんだ。交差点の陸橋の陰から突然、ウウーて現れて(お前、わかってるだろ、速度違反だ)ってサインさせられて」
「なあんだ、それでか」
「なあんだじゃないよ、少ない給料から罰金取られたら、財布も心も薄く暗くなっちゃうぜ、まったく」
 準一が作り笑いを見せると、奈緒美はうなづいた。
「了解、じゃ、これからは私がまめに食事に誘ってあげる。とりあえず、明日の朝食は、ジュンのお部屋で作ってあげるわ」
「おお、嬉しいこと言ってくれるねえ」
 奈緒美が顔を寄せてきたので、準一はいつものようにキスをした。
 しかし、この唇を伸吾にも吸わせていたのかと思うと、今までとは違うしらじらとした感覚が準一の胸の片隅に灯った。

 準一の部屋に着いた奈緒美は冷蔵庫からミネラルウォーターを出すと、ふたつのコップにあけて準一にも手渡した。
「ねえ、高校のクラスメイトがまた一人結婚するんだよ」
「うん、適齢期だもんな」
「これでクラスの半分はお嫁に行っちゃったことになるかな。あんまり結婚なんて意識してなかったけど、さすがに少し焦ってきちゃったな」
 そう言って奈緒美は挑発するように準一の顔を覗き込む。
 しかし、今の準一は、奈緒美が、伸吾や、もしかしたら他の男にもそんなふうに迫っているのではないかと考えてしまう。それでいて、そう思うと、なにやら嫉妬心も湧いてきて独占欲をかきたてられる気もする。
「ボーとしちゃって、そんなに罰金がショックだったの?」
「まあね」
「スピード出して、ふらふら走ってるからよ」
 奈緒美は笑うと、結婚する同級生の相手について批評を述べる。
「背はジュンより少し低いかもしれないな。私が紹介された時はカジュアルなファッションだったけど、会計事務所に勤めてるんだって。堅そうで結婚相手にはいいのかもね」
 準一は曖昧にうなづいていたが、急にそういえばと思い出して時計を確認し、急いでラヂオの電源プラグを入れた。

 ちょうど『わが人生』のアナウンサーが挨拶をしているところだ。
『前回はインド洋の戦闘で、偶然にも親友の水谷さんと再会、共に戦闘に出撃したというお話でした。
 そして、鈴木さんは危ういところを水谷さんの操るゼロ戦に助けられたのですが、水谷さんは帰還せず、戦死されたのでしたね』
『はい、まったく悔しい限りです。
 あんないい奴が死ぬより、自分が死んだ方がよかったと思いました』
 奈緒美が準一の耳に割り込んできた。
「何、このお爺さん?」
「うん、インタビュー番組なんだ。今月は毎週木曜日、この時間みたいで、今週で三回目なんだよ」
「そう」
 奈緒美も鈴木老人の話に聞き入った。
『それは言いすぎでしょう』
『いいえ、前回も言いましたが、自分は水谷にあやまちを犯したことを謝りたいと思いました』
『あやまちですか?』
『ここまで話したからには、正直に全部お話しします。
 あやまちとは、水谷の細君、いえ、その時の私にはお嬢さんという方がしっくりきます、自分はいよいよ日本を離れる前に、お嬢さんに無理やりな願いをしたのです。
 自分は既に生きて帰らぬ決意でいましたが、ただひとつ心残りは、自分が唯一本気で恋をしたお嬢さんと一度だけでいいから、接吻だけでもいいから、想いを遂げておきたいということでした。
 振られたお嬢さんと、しかも親友の細君となった人と想いを叶えるなどということが、いかにふざけたことだとはわかっていたのです。
しかし、そうせずにいたら、死んだ後も自分は極楽浄土に落ち着くことなく、ずっと満たされない亡霊となって彷徨ってしまうのではないかと恐れたのです。
 また、水谷も、お嬢さんに振られた私が、一度もお嬢さんと接吻も出来なかったと告白すると、「芙美子だってまったく嫌いというわけじゃないのだから、お前は一度ぐらい強引に唇を奪って、あわよくば抱いておけばよかったのだ」などと余計なことを吹き込んでくれたのです。
 そんなこともあり、万が一、ばれても水谷なら許してくれるだろうと、手前勝手なことまで考えておりました。

 自分は、水谷の新居である広島市の借家を訪れました。
「まあ、鈴木さん、お久しぶりです。ずいぶんと立派ないでたちですこと」
 柚子色の無地のブラウスに紺色のもんぺをつけたお嬢さんは、純白の第二種軍装という海軍士官の正装をした私をまぶしそうに、懐かしそうに迎えてくれました。
「明日にも日本を発ち、戦地に赴くものですから、その前に挨拶だけでもと寄らせてもらいました」
「そうでしたか、どうぞ、おあがり下さい」
 自分は制帽と重く荒んだ胸のうちを抱えて居間にあがりました。
「水谷はどこに勤めたんです?
 この前、葉書の返事が来たのに、それについて何も書いとらんのです」
「まあ、失礼しました。遊覧飛行の会社の準備をしてますよ。
 口止めされてるので、それ以上は聞かないで下さいな」
 お嬢さんは嬉しそうに言いました。今にして思えば、お嬢さんは夫が私と同じ軍服の仲間であることを喜んでいたのかもしれません。
しかし、私は重い胸のうちを告白しました。
「今日はお嬢さんの顔を一生の見納めに来たのです」
 お嬢さんは私の言葉を笑い飛ばします。
「何を言うんです。水谷と遊覧飛行の会社を起こすんじゃありませんか。どうぞ変なことは言わないでください」
「いえ、自分はこの度、出撃したらおそらく生きて帰れないと思います」
 私はそこで音を立てる勢いで、畳に額をすりつけました。
「お嬢さん、自分は生きて帰るつもりはないのです。
 ただ死にゆく者を不憫と思ってくれるなら、一度だけ男の哀れな願いを叶えさせてください。お願いです」
「鈴木さん、そんなこと言わないでください」
「お嬢さんは私が恋したと呼べる唯一の女性です。
 一度だけ男の願いを叶えさせてください」
 畳に額をすりつけるている私はふと、腰につけている恩賜の短剣が目に入りました。ああ、これで死ぬこともできるのだとも考えました。

 どれだけの時間が過ぎたかしれません。
 お嬢さんはすすり泣くのをこらえて、途切れた声でひとこと。
「鈴木、さん」
 自分を呼んで、奥の部屋に立ちました。
 自分は雲の上を歩くように感じてついていきました。
 お嬢さんは愚かな自分に観音菩薩のような慈悲をかけてくれたのでした。
 お嬢さんの唇を吸った私は天にも昇る気持ちで、さらに大胆にお嬢さんの襟元にまで手を入れましたが、お嬢さんは少しも抵抗をしなかったのです。
 しかしお嬢さんの名誉のためにこれは申し上げますが、お嬢さんは決して貞節を破るような軽薄な女性ではないのです。戦争という異常な事態だからこそ、その異常事態に免じて私の蛮行を赦してくれたのだと思います。
 もう数週間先にはこの身がないかもしれないと思えばこそ、男と女に分かれてこの世に巡り合った生命の悲しみや歓びが、唇を通し、体の熱を通し、溶け合って自分の胸の底に刻まれました。
 お嬢さんは涙を流しながら、それでも自分に何度も、何度も「死なないで下さい」と声をかけてくれました。
 私もうなづきながら、涙をこぼしました。
 好いたお嬢さんと交わることが、こんなに切ないことだとは、そうなる前には浅薄な私には想像もつかなかったのです……。
 自分は本当に、卑劣で、愚かでした』
 準一は、奈緒美が鈴木老人に侮蔑の言葉でも投げかけるのかと思い振り向いたが、奈緒美はただ黙っていた。
『それはそれは、大変なことでした。
 それではお話を戻します。
 出撃されて、水谷さんが戦死された後、鈴木さんはどうされたのですか?』
『はい、自分の左腕は骨も少し砕けていましたが、なんとか一本につながったので、水谷の遺品を届けに内地に一時帰還することとしました。
 岡山の水谷の実家に行き、さらにお嬢さんの実家に参りました。お嬢さんはすでに実家に戻っていたのです。
 岡山の実家では、水谷の親御さんと学生時代の思い出話や、水谷に助けられた最期の空中戦の模様など、詳しくしみじみと語りましたが、広島のお嬢さんの家では大変なことが待っておりました。
 お嬢さんのご両親とお嬢さんにひと通りの報告をすると、腕組みをした父上がむつかしい顔で言いました。
「娘の亡き夫の形見を届けていただいた傍から言うのも、気がひけますが、実は鈴木さんにお願いがあるのです。
 身勝手な希望ですから良い返事がいただけるとは思いませんが、まずは聞いてください」
「は、どういうことでしょう?」
 自分が問うと、いきなり、父上は頭を下げて、
「鈴木さん、もはや出戻りの古物ですが、うちの娘をもらってはくれませんか?」
 いやはや、例の秘め事をお嬢さんが白状したのかと、心臓がザーッと熱くなりましたが、お嬢さんを見やると顔を伏せて貝のだんまり。
「恥知らずな厚かましいお願いとは思いますが、この娘が一度聞くだけ聞いてみてはもらえないかと申すものですから。
 いえ、貴方がこちらへ見えるという電報をいただいてからのこと、この娘が申しますには、水谷様に、はぐれたうえは、もはや一生を独り身ですごす覚悟でいるが、ただ、鈴木様は水谷の大の親友である上に、もったいなくも私に想いを寄せてくださった器量の大きな奇特な方であられるので、こんな出戻りの私でもお役に立てるならば、鈴木様に添うてみたい。
 もし鈴木様が要らぬと申されれば独り身と決めているが、一度だけ、恥をしのんで聞いてみてくれないかと申すのです」
 父上の口調にこちらを責める様子は微塵もないので、自分はいっそう恐縮して言いました。
「し、しかし、自分は飛行機乗りです。
 当分は内地で教官をするように言われておりますが、いつまた戦地へ出て命を落とすやもしれません」
「それは、もうこの時局ですから、誰に嫁いでも同じことです。
 それよりも、やっかいなことがもうひとつありまして。
 実は、娘の腹の中に水谷中尉の忘れ形見があるのです。
 ならば水谷の実家で産めばよかろうと申しましたが、娘は、水谷はともかく、あの家の方達は自分と合わないのだと嫌がるのです」

 そこで自分はハッと息を詰めました。もしやと考え付いたのです。
「私は娘に、鈴木様がいかに奇特な方でも腹の大きなお前との縁談なぞ叶わぬぞと言い聞かせたのですが、娘は恥を忍んで聞いてくれの一点張りで聞く耳持たぬのです」
 俯いたお嬢さんの耳が赤く染まるのが見えました。
 自分もピンときました。
 もしそれが水谷の子なら、お嬢さんが私に聞いてみてくれと言い出す筈はないので、私の子だという確信があれぱこそ、恥を忍んで縁づきたいと言い出したに違いありません。
 一夜の契りで子を授かったのは安穏な平安朝の藤原高藤とばかり思っていたのが、暗雲皇国を覆うこの世のわが身にも起きたのです。
 お嬢さんは俯いたまま、手を腹の前でこっそり拝むよう……、
 水谷には悪いですが、因果をなした自分はお嬢さんとの縁談を受けました』
『そうですか。しかし、縁というのは不思議なものですね』
『はい。それから一週間後にお嬢さんと祝言をあげ、夫婦暮らしを三日ほどして、自分は宇佐の基地に赴任いたしました。
 離れ離れと言っても同じ内地にいるのは幸運でした。子供が生まれた翌週には広島に帰り、自分の血を分けた小さい娘の顔を眺めて、抱きあげた時はもう嬉しくて嬉しくて、未来に光明が射すように感じました。
 名前は真実子といたしました』
『よかったですね。そのまま終戦になったんでしょうか?』
『いえいえ、昭和十九年、戦局は悪化の一途をたどり、臨時教官だった自分も養成したパイロットたちと共に、第二航空艦隊に編入されて、空母瑞鳳に乗り込み、サイパン沖に進出しました。
 六月十九日早朝、わが偵察機より「空母を含む敵主力部隊見ゆ」と入電、自分は零式戦闘機に爆弾を積んだ爆装戦闘機に搭乗して瑞鳳より発進、総勢六十四機で敵機動部隊を目指しました。
 海は太陽の光を受けて銀鱗のように輝き、空は青く、これが戦争でなければ、釣りでもしたいのどかさ。
 と、前方に蝿の群れのようなのが見えたかと思うと、これは敵空母から迎撃に飛び上がってきたヘルキャット戦闘機です。
 敵機は射程に達しないうちから機関砲を撃ちはじめ、その橙色の光が線香花火のように美しく見えました。
 自分らは隊長機の突撃命令を待って、』
 そこで不意に奈緒美がラヂオに近寄って電源プラグを抜いてしまった。

「もう古い戦争の話なんていいわよ」
 奈緒美は準一の手をつかんで微笑んだ。
「うん、連続で聴いていたもんだから、つい熱中しちゃったよ」
 準一も奈緒美の手を握り返すと、抱き寄せた。
 キスを交わしながら、胸の底からトットットッと信号を送ってくる。
 準一は、奈緒美を抱き上げてベッドに運んで全裸にした。
 滑るように、柔らかで、熱く火照る肌、撫で、掴み、接吻する。
 艶めいて、震え、焦らして、つかまえる。
 抗い、反らし、受け入れ、蠢いて、迸る。
 愛してる、愛してる、愛してる、準一は何度も繰り返しながら、奈緒美を、伸吾にも誰にも触れさせず、永遠に独占したいと激しく思った。
 まどろむ間もなく、今まで口にしなかった言葉を奈緒美に放つ。
「結婚しようか?」
「え?」
「俺は奈緒美と結婚したい」
「本気なの?」
 奈緒美はそう聞いて目を輝かせた。
「冗談だと思うか?」
 他のシチュエーションなら「うん、冗談の塊」と笑って返す奈緒美が、この時は無言ではにかんだ。
「本気で奈緒美と結婚したいんだよ」
 追い討ちをかけると、奈緒美は言った。
「ジュンの言葉は受け取りました。
 でも、答えはよく考えさせて」
 準一はうなづいて、ふたたび奈緒美の体の愛撫しはじめた。  

 

 

  7 第4水曜日

 準一は、またもや悪夢の中にあった。

 準一は、自分の部屋で、短刀を突き出し腰を低く構えて、伸吾を刺そうとしている。
 伸吾はびっくりして聞く。
(ど、どうしたんだよ?)
(どうして奈緒美は返事しないんだ?)
(何の話だよ?)
(わかってる、奈緒美はお前に乗り換えたんだろ?)
(知らないよ)
(奈緒美を寝取っておいて、よく言うな)
(そんなつもりじゃないんだ)
(みんな、お前が悪いんだ、殺してやる)
(話せばわかるって)
 しかし、準一は台詞ごと伸吾を短刀で突く。
 伸吾は体を翻して短刀を避けた。準一は一歩引いて向きを変えて踏み込んで伸吾に突き出す。
 それはトレーナー越しに腹の右横をかすめるが、伸吾は素早く身を翻して避けた。
(ジュンはどうかしてる)
 準一は駆け寄って伸吾を部屋の隅に追い詰めた。
 短刀を思い切り突き出す。
(ウッ)
 今度は伸吾の腹の中央をえぐり、血が噴き出した。
 準一の胸にも腕にも返り血がかかる。
(こんな、わかんないよ)
 伸吾は自分を一瞬、見つめ、ゆっくりと前のめりに倒れてしまい、その下でじわじわと血溜まりが広がってゆく。
 さらに向こうのベッドには腹に血糊のついた女性の仰向けの死体が横たわっている。
 その顔はまぎれもない、奈緒美だ。
 準一は歩み寄るが、真上を向いて見開いた奈緒美の目はまばたきしない。
 時間が凍りついて止まっている。
 
 嘘だ。
 これは夢だ。
 そう言い聞かせる準一に、どこからともなく地響きのように低い声がする。
(それは近い未来を知らせる夢だとは考えないのか?)

「絶対にそんなことあり得ない」と、準一は言い返す。
(本当にあり得ないか?)
「絶対にない」
(ほお、そう言い切れるのかな?)
「言い切れる」
(フフフ、短刀を砥いでおけよ)
「引っ込め、悪魔め!」

 怒鳴って、強く強く目をつぶった瞬間、夢から覚めた。
 脈拍は異常に高まっていて、呼吸が苦しくて、準一は激しく息を何度も吸い込んだ。

「ふざけるな、俺は誰も殺しなどしない」
 準一は、もはや消えた悪魔の声に向かって語気を強めて宣言した。
 そう言いながらも、実際のところ奈緒美に関しては自信を失いつつあった。
 奈緒美はまだプロポーズの返事をよこさず、先週の日曜は体調がすぐれないから今日は部屋に行かないと電話してきたのだ。
 どんな風によくないんだ?と聞いても、すごく気分が悪くて、とにかくだめ、と答えるだけだ。
 いやな予感がする。
 キッチンに立ってコップに水を汲み、飲み干した準一は、ふと流しの下を開けて、扉の裏面ホルダーにある包丁に目を向けた。
「そんなこと絶対にない」
 荒々しくその扉を閉めた準一の首筋に少し粘質な汗が伝った。

 

 

  8 第4木曜日

 その夜は残業のため、準一が部屋の最寄り駅に着いた時は十時をまわっていた。コンビニで週刊誌を立ち読みしていると、伸吾からメッセージが入った。
(お疲れす。これから、ジュンち、寄ってもいい?)
 準一はあまり気分が乗らなかったが、断るほどの理由もない。
(おお、歓迎! 但し、ビール持参のこと。)
(了解しますた)
 スマホをしまって、ビールのつまみを選んで、レジに持ってくと、後ろから缶ビールを半ダース持った伸吾が肩を叩いた。
「二人とも店内でしたね」
「糸電話圏かよ」
 顔を見合わせて笑った。

 肩を並べて歩きながら、伸吾は、奈緒美から俺のプロポーズのことは聞いてないのだろうかと想像を巡らせた。
 準一は思い切って質問をぶつけてみる。
「なんでさ、この前、急に奈緒美とのことを告白してくれたわけ?」
「うーん、俺もずっと前から言った方がいいとは思ってたんすよ。
 奈緒美もこそこそするのが嫌なら、男同士で言うべきよ、私は、受け身なんだからねって言うし」
「そう言われたらそうか。でも、俺、全然気付かなかったなあ」
「すんません」
「確かに聞いた時はショックだったけどな」
 準一はそう言いながら、自分がプロポーズのことを隠してる後ろめたさを感じた。
 それは夏目漱石の「こころ」にも似てなくもない。」
 しかし、まさかと思うが、奈緒美が準一のプロポーズを打ち明けてる可能性に気がついた。そう聞いた伸吾も奈緒美にプロポーズして、奈緒美が伸吾に傾きかけているということも絶対にないとは言えない。
 そう考えつくと準一は苛立ちを覚えたが、伸吾は続きを語る。
「で、質問の答えに戻ると、ほら、ラジオで老人の三角関係の話を聞いたせいかな。あれで話そうってモティベーションが高まったんだと」
「うん」
 そう考えると、あの鈴木老人の話をきっかけに、伸吾は俺に奈緒美との深い関係を告白し、俺は奈緒美を独占したくなってプロポーズしたわけだ。
 だが、ここに至って伸吾の逆転勝ちの目もありそうな気がしてくる。
 そんなことになったら、自分は平常心で耐えられるのだろうか?
 自分を裏切った奈緒美と、奈緒美を寝取った伸吾を許せるのか?
 悪魔の言葉が蘇り、準一は頬が引き攣るのを感じた。

 部屋の中で缶ビールを飲みながら、とりとめのない雑談を交わすうちに、ラヂオの時間を先に思い出したのは伸吾の方だ。
「あ、あの爺さんの話の時間じゃないのか?」
「そうだったな、出だしが三分くらい欠けたな」
 準一はそう言いながら、ラヂオの電源プラグを入れた。

『その朝は早くに空襲警報がありましたが、空振りのようで、みんなほっとして防空壕から出て、普段通りに朝食を済ませました。
 芙美子は母と台所で後片付けをしておりました。
 三歳の娘は芙美子に近づいて言います。
「真実子、朝顔にお水あげるう」
「そう、頼んだわ、偉いわね」
 芙美子は娘を誉めて、じょうろに水を、幼な子ですから、いくぶん少なめに汲んで渡してやります。
「こぼさないように気をつけてね」
「はあい」
 娘はじょうろを大事そうに両手で抱えて、縁側から庭に降りました。
 地面から家の庇に渡した針金に沿ってすくすくと蔓を伸ばした朝顔の根元に水を注いでやります。蔓は五本ぐらいでしょうか、紫の花はすでに熱暑にそなえてしぼんだものもあり、ピンクの花は今がさかりといっぱいに開いていたりとさまざまです。
 娘は花を数えはじめましたが、そこへ丸をふたつよっつ並べた白い花がひらひら、ひらひら、どうやらそう見えたのはモンシロ蝶で。
「おかあさん、来て、来て、蝶ちょだよ」
 なあに、蝶自体は珍しくもありませんが、娘がはしゃぐ様子が愛らしくて、芙美子はにっこり、足早に縁側から降りようとします。
 その時、私は冷たいいやな風が吹き抜けるのを感じて「中にお入り」と声をかけます。
 しかし、芙美子と娘はモンシロ蝶に気をとられています。
 私はもう一度大きな声で「いい子だから、中にお入り!」と叫びました。
 娘は私の方を振り返りました。
「おかあさん、お父さんが呼んでるう」
 娘の言葉に芙美子が何か言おうと口を開きかけました。
 
その瞬間、強烈な光、まるでパアァッと太陽が何個も現れたような……。
 芙美子はびっくりしながらも、咄嗟に娘をかばおうと覆います。
 そのまま、数歩あるこうとして、今度は凄まじい突風が隣の屋根を、塀を、そして芙美子と真実子を吹き飛ばしました。
 次の刹那、家中のガラスが割れ、タンスが倒れ、壁が抜け、まるで一瞬のうちに竜巻が通り過ぎたようでした。
 台所の母はなんとか無事でしたが、妻は顔から胸と手足にかけて、娘は頭から背中、手足にそれはひどい火傷で……』

 その時、部屋のチャイムが鳴らされた。
 準一がドアの鍵を解除すると、奈緒美がドアを開けてさっと入って来た。
「伸吾が来てるんだ」
 準一は困った顔をしたが、奈緒美は気にならないようだった。
「あ、そうなの。お邪魔しまーす」
 奈緒美は準一の肩をぽんと叩いて、部屋の中に入ると、伸吾に挨拶した。
「ここで会うのはもう何年ぶりね」
「うん、ちょっとジュンと飲んでたんだ」
 奈緒美はすぐラヂオの放送に気付いて「ああ、この前の続きね」と言った。
 悪夢の加害者と被害者、三人が揃ってしまった。
 いよいよ準一の心は落ち着かなくなった。

『結局、娘の真実子は十日後に、芙美子は二ヶ月後に亡くなりました』
『それは、なんとも痛ましいことですね。ご愁傷様でした』
 伸吾が奈緒美に「奥さんと娘さんが原爆で亡くなったんだよ」と補足してやる。
「そう。可哀相だね」と奈緒美。

『酷すぎますっ。
 何の罪もない、妻と子供が、あんな姿にされ、痛みの限りを味わされて、救う術もなく、命を奪われるなどあってはならんことです。
 早期終結の手段などという理由で正当化されてはならない、これは人間性に対する、生命の尊厳に対する重大な罪SINであります』
 鈴木老人が今までにない激しい口調で怒りをあらわにした。
『原爆投下の罪はSINでありますから、刑罰によって裁いても足りません。
 原爆に加担した全ての人間が魂の眼でその罪の重さをはっきりと認めて悔い改めねば、被害者の無念が晴れることはないのです』
『まったく仰る通りです』

 そこで鈴木老人は口調を変えた。
『ちょっとよろしいですか?』
『はい』
『先週、聞き逃した方のために、肝心のところを繰り返させて下さい』
『どうぞ』
『昭和十九年、六月十九日の朝、自分は空母瑞鳳から二百キロ爆弾を積んだ爆装戦闘機に乗り込んで出撃しました。

 やがて目標に近づくと、敵のヘルキャットの編隊が舞い上がってきました。
 隊長機から「敵機を振り切り、目標を攻撃せよ」と突撃命令が出ます。
 敵の機銃は、線香花火のように煌めき、それを見た自分は、縁日の境内を歩いていた記憶を蘇らせました。
 メンコ、ビー玉、ハッカ飴、綿飴、飴細工、お面、輪投げ、金魚掬い、いやあ、これから戦闘だというのにおかしな映像ばかり頭に浮かんでくるのです。
 そんなことではさぞかし操縦はいい加減なのだろうと言われると、これが信じられないくらい巧みで、右に、左に、横すべり、急降下、反転上昇と、敵機の包囲をみるみるくぐり抜けて、敵空母を視界に捉えました。
 前方にいた僚機が無線で告げます。
「敵空母レキシントン級、補足す、安田少尉、突撃する!」
 自分も遅れてはならじとばかり、
「目標レキシントン級空母、鈴木少尉、突撃する!」
 そう無線で叫んだ時にはもう体当たりも覚悟です。

 操縦桿をガッと握って、俯角四十度。スロットルは全開のまま、機体が空気の抵抗で激しく振動して、風切り音がギーンギンギンと響きます。
 敵空母と駆逐艦の対空砲と機銃から、物量にものをいわせた銃弾の帯が舞い上がってきます。 
 高度四百を切ったところで、前方をゆく安田少尉機のさらに手前で、敵の弾が炸裂し、安田少尉機があっという間に火に包まれるのが見えました。
「こいつら、新型信管だ!」
 自分は部隊に通報するつもりで叫び、落ちてゆく安田少尉に目礼を送りました。
 しかし、ここまできたら、運を天に任せて降下を続けるのみです。
 敵の銃弾がバッバッと至近距離で炸裂し、機体に傷がつき、風防の前面に穴が開き、私の頬が切れたようです。
 もちろん痛いはずなのですが、痛みより熱い感覚ばかりするのです。
 高度二百でついに主翼の前で炸裂した弾に、燃料タンクが引火してしまいました。
 あっという間に紅蓮の炎が操縦席のまわりを包み、足元から火がまわります。
 熱い感覚がじくじくと上がってきます。
 どうせ墜落するなら、敵空母の甲板に体当たりしたいと思ったのですが、機首が勝手に下がってしまい、同時に、操縦桿も効かなくなってきます。
 自分は敵空母の甲板を横目で睨み、どんどん近づく海面を見つめました。
 火傷はどんどん広がり、自分は口の中で「熱ちい、熱ちぃ、熱ちぃ」と繰り返しています』
 話を聞いてるうちに準一も、本当に火傷を負って熱いような気がしてくる。
『しかし、頭の内側には、妻芙美子や娘真実子、父、母、義父母、兄、妹、弟、水谷との思い出の場面が次々と浮かびます。
 よく記憶が走馬灯のように駆け巡ると聞いてましたが、まさにその通りでした。
 ふと見ると高度計の表示が目に入りゼロメートル寸前、目を瞑った瞬間、意識は肉体からサッと離れました。そして再び目を開き見下ろすと、海面に自分の飛行機の破片と飛行服が散っているのが見えました。
 これで終わったんだから、仕方ないと思い、自分の体への苦しさや未練は少しも感じませんでした。

 それから目をまたたいて再び開くと、瞬間に自分は広島の家に戻っていました。
 芙美子は母と縫い物をして、ようやく言葉を覚えはじめた真実子は小さな黒板にいたずら書きのようなことをしております。
 自分は「芙美子、真実子、お母さん」と声をかけてみましたが、妻も母も気付きません。ただ真実子は私の気配を感じたらしく、ふと天井のあたりを見上げました。
 なんとか自分の肉体の死んだことを知らせようと、私は仏壇の位牌に集中し、何度も倒れろと念を送るとやがて倒すことに成功しました。
 すると三人は仏壇を振り返りました。
 真実子が「父さん、帰ってきた」と無邪気に言い、芙美子は青ざめた顔で胸を押さえました』

 準一は伸吾と奈緒美と顔を見合わせて、ゾッとする。奈緒美は「これ、ドラマだったんだね」と言ってみるが、作り笑顔が少しも作れない。それほど鈴木老人の話はずっとリアルに感じられてきたのだ。
 準一も伸吾も、訳が分からないまま黙って鈴木老人の次の言葉を待った。
『三週間後には自分の戦死公報が家に届きました。
 自分はできるだけ家にとどまって何かあれば、家族を守ってやろうとしたのですが、結局、あの原爆から妻子を守ることはできなかったのです』

 ここでアナウンサーがまとめに入る。
『鈴木さん、今日が最終回ですが、ご自分の人生を振り返って、何が一番心に残っていますか?』
『それはたった今、申しました、芙美子と娘を原爆で惨い殺され方をしたこと、それを守ってやれなかったことです』
『やはりそうですか。想像を絶する出来事でしたね。
 しかし、逆に、嬉しかったことはありますか?どうでしょう?』
『娘が生まれた時も嬉しかったのですが、忘れてならないのは水谷に危ういところを救われた時です。
 あの時は、敵がまさに私の機を落としにかかり、最期を確信しておりました。
 それを水谷が颯爽と救ってくれた。
 いや、眩しかったです、水谷が神仏に見えましたね』
『喜怒哀楽の、怒りと喜びが片付きました。さて哀は何でしょう?』
『それは水谷の細君であった芙美子に軍人の覚悟を笠にきて卑劣な形で関係を強要したことです。
 芙美子は私を赦し、結果的に娘も生まれ、芙美子と家庭の幸せを手に入れることができましたが、それはたまたまの結果です。
 原爆とは違いますが、あれは私の重大な罪SINであります』
『なるほど。それで最後に楽しみが残りました。これはなんでしょう?』
『振り返るといろんなことを学びました。
 水谷には万事を楽観する心と、命を顧みず友を救う偉大な心を教えられました。
 芙美子には私への赦しを通して、生命に対する無私の愛の深さを知り、次の生命を守り育てる女性の偉大さを教わりました。
 また親からも同じように、愛の深さを教わりました。
 そのおかげで、一見、実りのないように見えた私の人生も、掛け替えのない価値ある人生だったと言い切れます。
 すべてが大いなる生命の真理の学びのためであったとわかった今、全ての思い出をしっかりと噛みしめることができるのです。
 これが人生というものの最大の楽しみではないでしょうか?』
『なるほど。素晴らしい言葉をいただきました。
 鈴木さん、どうもありがとうございました』
『お粗末さまでした』
『これで聴いている方も経緯がおわかりになったことと思います。
 さて「わが人生」鈴木久仁彦さん編も、いよいよまとめの時がきたようです』

 鈴木老人は感慨深そうに述べた。
『私と水谷の共通の友人に白鳥悟という者がおります。
 白鳥さんは理学部で物理と数学の天才でして、会うたびに、宇宙は実数と虚数の波動から成り立っているのだと熱弁してくれました。
 虚数の波動はあらゆる場所にあり、ひとが迷ったあげく選択肢からひとつを選ぶという些細なことは、虚数から実数へと移行するということなのだ。
 聞いた頃はさっぱり白鳥さんの言うところが合点できませんでしたが、自分が虚数の側にある今は彼の述べていた意味がわかります』
『はい』
『人間、何が幸いするかわかりません。白鳥さんは元々体が弱かったおかげで徴兵に取られず戦争を生き延び、虚数振動を実数振動にに移調する装置を試作しました。
 残念ながら白鳥さんは装置を完成するとまもなく結核が悪化して、その装置を世に発表することなく、亡くなってしまわれた』
 ラヂオのアナウンサーが続ける。
『はい、確かに私はまったく惜しいところで死んでしまいました。
 残念ながら私の遺族にはそれがどういう装置か理解できなかったし、私の論文を読む者も現れなかった。結局、私の弟の子供が小学生になって興味本位でプラグを入れてくれるまで私は待つしかなかったのです』
 その言葉からすると、このアナウンサーが白鳥さんということなのか。
 準一、伸吾、奈緒美はいよいよ呆気に取られてゆく。
『その装置が、今、皆さんの前にあるこのラヂオなんです。
 この放送は、霊界通信機より、必要とされる方に向けてお送りしてきたものなのです』

 
「れ、霊界」
「霊界通信機?」
「うそ!」
 準一、伸吾、奈緒美は一度に声をあげた。

『嘘と思うなら、この霊界通信機の裏パネルを開けてみれば簡単にわかると思います』
 その言葉に準一はドライバーを持って来てラヂオを裏返し、そして裏パネルを止めているネジをドライバーで外してゆく。その間も白鳥さんの解説が続く。
『かの発明王エジソンが霊界通信機に取り組んでいたのは有名ですから、ご存知かもしれませんが白鳥さんはそのエジソンが果たせなかった霊界通信機を完成したのです。
 外見こそ、悪意の攻撃から守るためもありラヂオに見せかけていますが、この内部に通常のラヂオの回路は一切ありません』

 ネジを全部外しておそるおそるパネルを引き抜くと、大元の電源コードは内側に入ったとたん途切れていて、まるっきり電源の意味をなしてない。
 そこには銅線が楕円形に巻かれたコイルがいくつか角度をずらして重なっており、その中央の空間には高さ8センチほどの正立方体の水槽があり透明の液体が入っていて、その内側に金属の爪で固定された水晶球があった。
 水晶球の中には小さくかすかな白金色の光が渦をまいて、半分浸っている液体の中に時々、気泡が現れては浮いてゆくのが見える。
 そして金属の爪から伸びた糸は、スピーカーにあたる部分は丸く切り取られた和紙につながっていた。

 白鳥さんが続ける。
『聴いてこられた方には、霊界通信機ということが納得できると思います。
 大事なことは、地上の人間は実数の肉体と虚数の霊魂の双方から成り立ち、人間の肉体は虚数の魂が羽織った服のようなもので、虚数の魂こそが生命の本来の姿であり、永遠に生き続ける存在であるということです。
 ただ、今の時代は、前世を戦争という形で唐突に断ち切られて転生された方が多いため、明るい未来を思い描くのが非常に不得手な方が多いのです。
 しかし、恐れることはありません。
 お聴きの皆さんは自分の明るい未来を信じて生きて下さい。
 この霊界通信機は購入した店の棚にまたそっと戻しておいてください。誰にも不審に思われることなく、放送を必要とする方がまた買われるでしょう』

「ちょっと待って、放送が必要な方と言ったけど、僕が放送を必要としていたと?」
 準一は思わず聞き返していた。もちろんこちらから送信出来る確信はなかったが、霊界通信機はすぐに返答してきた。
『その答えは無意識では既にご存知だと思いますが、あえて明確化するために鈴木さんの口からお答えいただきましょうか』
『はい、わかりました。
 準一さん。あなたは錯乱して、もう少しで、とんでもない凶行に走ってしまうところだったのです。
 伸吾さんも、奈緒美さんもおわかりですよね。ここにおられる三人とも、最近になって、その虚数波動領域での悪夢を何度も何度も見てきたはずです』
 準一は唇を震わせてラヂオを見つめ、伸吾と奈緒美は準一の横顔をこわごわと見やった。
『三人は人生崩壊の危機をはらんでいました。そこで白鳥さんは三人を救うためこのラヂオに準一さんが興味を持つように誘って私を呼んだのです。あなた方はこの放送を聞いたので、もはや心配はありません』
「どうして、放送を聞いただけで心配ないと言い切れるんです?」
『わかっている筈です』
『そう言われてもわかりません』
『大野準一さん、あなたは私の生まれ変わりです』
「そんな!」
 準一は思わず声を上げた。
『あなたの心がどう反応するかは、私は誰よりもよくわかっているから、大丈夫だと言い切れるのです』
「じゃあ、あなたが僕の前世ということ?」
『ええ。さらに転生はそれだけではありません。
 奈緒美さん、あなたは芙美子さんの生まれ変わりです』
「えっ!」
 奈緒美がびっくりした。
『そして伸吾さん、あなたは水谷さんの生まれ変わりです』
「まさか!」
 伸吾が叫んだ。
 普通ならとうてい信じられないことだ。
 準一が聞き返す。
「では、あなたが経験した三角関係が、そのまま現代に転生してきたのが僕らだというんですか?」
『ええ、皆さんは前生で三角関係にあり、またこの世でも三角関係を深めました。
 これは「三角関係を、真の友情と本当に深い愛で、克服する」という、前世で中断されてしまった魂の課題への挑戦を再開したからなのです。
 これは辛いことですが、する価値のある試練だと三人の魂は互いに了解して、この世にほぼ同時に転生したのです』
 転生したという証明など現代科学では出来る筈もない。仮に白鳥さんに証明されても、三人は誰も納得できないだろう。
 しかし、理解とか納得とは違うところに何かがある。
 三人は胸の中心が急に熱くなってきたのを感じた。
 その熱こそが、鈴木老人の言葉が真実である証しなのかもしれない。
 だから、三人は揃って、歓喜のようなものに目が潤んでゆくのに任せた。
『あなたたちは自分の前世を知り、今生の目的を知ったわけですが、だからといって、まだ答えの形は決まっているわけではありません。
 理性でそれに限定されたり、逆に貸し借りを考える義務もありません。
 皆さん、互いを思いやる愛を持って、自分の自由な意思で、未来を選択してください。
 あなたがたは、これから個々がどんな選択をしようと、私の時代でもそうあったように、いつまでも、いつまでも仲の良い三人のままです。
 それでは、人生を楽しんでください。さようなら』
『さようなら』
 ラヂオ、いや、霊界通信機は、そこでピタリと放送を止めた。
 三人は互いに顔を見合わせたが、口から出せる言葉はどうにも見当たらなかった。

   ◇

 俺はバイクのギヤを一段下げスピードを落とすと、夜明けの街並を眺めた。
 信じてもらえないだろうが、俺は、偶然、手に入れたラヂオで自分の前世を知ったんだ。
 空を飛んでた、パイロットだよ。すごいだろ。道理で鳥のように自由に空を飛びたいわけだよ。
 
 さっき、奈緒美から『やっぱり今回は伸吾と一緒に歩いてみたい』って返事が来た。
 だけど、俺は振られた悔しさなんて全然ない。むしろ幸福感に包まれている。
 奈緒美も、伸吾も、前世ひっくるめて、いかした奴らなんだから仕方ないよな。
 そうそう、あれから例の悪夢もぴたりと見なくなった。

 不意に見知らぬライダーが並びかけてきた。
 黒いつなぎの胸が膨らんでるそいつは、俺の顔をちょっと覗きこんで不敵な笑み。
 赤い唇の残像残して、スピード上げて飛んでいきやがる。
 俺も笑いながらスロットル全開、後を追いかけた。