改訂版ドルフィン・ジャンプ2 ロサンゼルス

改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章の目次です

 
ドルフィン表紙


 

  2 ロサンゼルス

 ロサンゼルスのダウンタウンにあるセント・ジョセフ記念病院。淡いグリーンで清潔感のある小児科病棟は時折子供の泣き声が洩れてくるのを除くとひっそりしていた。
 スーツ姿の母親サマンサ・ウィルソンと私立中学の制服を着た娘カノンの座るソフアの横に八歳ぐらいの男の子が走って来た。カノンは青いつぶらな瞳が印象的だったが喘息発作薬の影響で顔が少しむくんでいた。男の子は黙っておもちゃの拳銃をカノンの顔に向けて撃つ真似をした。
 カノンは男の子の顔を睨みつけ、ブロンドの細い髪を揺らして隣のサマンサの顔を見上げた。しかし、サマンサは金融レポートを読むのに夢中で振り返らない。投資顧問会社重役の秘書である彼女は毎日昼までに何十件何百ページものレポートを読んで重要度を判定し要約を伝えなければならない、それが彼女の最も重要な仕事なのだ。
 カノンは聞こえないぐらい小さく溜め息を吐いて床を見詰めた。

 ナースがカノンの名前を呼んだ。
 サマンサが大きなバッグに厚み2センチほどのレポートの束を押し込みカノンの手を引いて歩き出すと、ナースは微笑みながらカノンの前にしゃがみこんだ。
「ハーイ、カノン。私はリンジーよ」
「ハーイ、リンジー」
「カノンはここで少しだけ私とお話しをしてくれるかな」
「いいわよ」

 ナースと好きなキャラクターの話を始めたカノンをその場に残してサマンサは診察室に入った。白髪の医師はパソコンを操作して幅1メートルもある大きな液晶モニターに六つの画像、どうやらどれも心臓の部分らしいそれを映し出すと振り向いた。
「検査の結果が出ました。カノンちゃんの問題は喘息だけではなかったようです」
 サマンサの声がうわずった。
「他にどんな病気があるんですか?」
「心房中隔欠損症といって心臓を仕切っている縦壁に穴があるんです」
 サマンサは震える口調で「オーマイガッ」と声を漏らした。
「心臓の働きは血液のポンプだというのはご存知ですね」
 サマンサは頷いた。
「そのポンプは右と左に分かれていて、右の部屋は肺へ血液を送り出し、左の部屋は肺以外の全身へと血液を送り出します。カノンちゃんの場合、この左右の部屋を分けている壁に穴があるんです。画像だとこの部分です」
 医師はマウスをゆっくり動かしモニターに映し出された心臓の影を回転させた。すると中心の壁に小さな丸い形が浮かび上がった。
「先生、カノンを治してもらえますか?」
「ええ。幸いこの穴は比較的小さなものなのです。ですから今まで見逃されてきたし、緊急に手術が必要な重症というわけではないのです。とりあえず投薬で経過を見守りましょう。うまくいけば成長とともに穴が塞がる可能性もまだ少しあります」
 サマンサは医師が不安の高い話をまだ残しているのを感じた。
「私の仕事の大半はリスク管理がらみなんです。都合のいい話だけでなく、リスクの高い方の話はどうなんです?」
 医師は大きく頷いた。
「ええ。穴が閉じないままだと肺に流れる血液の勢いが強くなりすぎて肺高血圧症を併発することがあります。勢いが強い状態が長年継続すると心不全にも罹りやすくなります。どちらも直接生命の危険に結びつく病気です。しかし繰り返しますが直ちにそういう危険な状態に陥る恐れはありません」
「それは手術すれば予防でき、また完治しますか?」
「ええ。手術の方法はいくつか考えられますが、心臓手術としてはいずれも簡単ですから百パーセントに1ポイント以内足りない高い確率で治ると思いますよ」
 医師の口調には少しの動揺も誇張も感じられなかったのでサマンサは安堵した。
「それはよかったです。安心しました」
「ただ小さな問題は残ります」
「問題というと?」
「穴が閉じない場合はいずれ心室縦壁の穴を縫い合わせる手術をやることになると思いますが、細い筒を入れてメスを操作する最新のロボット手術でも胸にいくつか手術痕が残ってしまうんですよ。若い女性にとって胸に傷痕があるのは辛いですからね」
 サマンサは「なるほど」と頷いた。
「当面は投薬で経過を監視して、年頃になったら病気に理解のある男性と結婚し、その後に手術するという方も沢山います」
「わかりました。でも最悪じゃない。娘も当面は大丈夫なんですから」
「ええ。ただ肺高血圧症や血管の状態を注意深く観察しなければなりません。投薬はもちろん、運動を制限したり食事やコルステロールの管理などいろいろ生活でしなければならないことはあります。これからお嬢さんに話しましょう」
「お願いします」

  ◇

 カノンは眉間に皺を寄せて白髪の医師に反論した。
「どうして海で泳いじゃいけないの? 子供の時、喘息だったのにオリンピック選手になって金メダルを取った人が沢山いるんだよ」
「うん、先生も知ってるよ。けれどカノンちゃんは喘息だけでなくて心臓も弱いんだ。だから心臓が疲れる運動はやめといた方がいいんだ」
 医師に続けてサマンサも説得にかかる。
「カノン、我慢できるのも勇気がある子の証しよ」
 カノンは大人たちの圧迫をなんとか突破しようと試みる。
「じゃあプールはいいよね?」
「残念だけどプールも危ないな」
「どうしてだめなの?」
「今、先生がお話ししたでしょ。カノンは喘息で心臓も弱いの」
「じゃあ水族館はいい? イルカショーならいいよね」
 カノンは声を大きくして食い下がった。
「そうね。イルカショーなら座って見てるだけだからいいわ」
 サマンサが許可するとそれに医師が「但し」と付け加えた。
「イルカに水をかけられるのは楽しいけど風邪を引くと危ないから水のかからないところから見るんだよ、約束だ」
 サマンサと医師は捕虜を前にした同盟軍みたいに顔を見合わせて頷き合った。
 カノンは思い切り唇を尖らせた。
「そんなのつまんないよ。私におもちゃの銃を向ける最低の男の子が走り回れるのに、私は走るのも泳ぐのも、イルカに水をかけられるのもだめなんて」

  ◇

 理沙はホノルルから五時間ほどかけてロサンゼルス国際空港に着いた。
 FBIのエージェントが迎えに来てくれる筈だが人相も待ち合わせ場所も教えてくれないままだったので、理沙は呼び出しを頼もうと考えて歩いていた。ロビーを進んでゆくと前から来た紺色のジャケットにアイボリーのチノパンツでサングラスをかけた男がすれ違う手前で突然立ち止まり、理沙もつられるように立ち止まった。
 赤毛でもみあげが長め、中肉中背で身長が百八十センチほどの男は一旦後ろを振り返ってから理沙に視線を戻しサングラスを外した。
「ミス・リサ・ヤマモトか?」
 理沙が驚いて眺めると男はジャケットの内側からバッジを取り出して見せた。
「君を担当するFBIロサンゼルス支局のクレイグ・ウォーレンだ。よろしく」
「ああ、はじめまして、ウォーレン。お待たせしましたか?」
 理沙が握手するために手を伸ばすとクレイグは一瞬の握手で手を離した。
「俺も着いたばかりだ」
「私がわからないんじゃないかと心配してたの」
「大丈夫だ。顔写真を記憶して群集の中から見つけるのは我々の初歩だからな」
「そうですね。出迎えてくれてありがとう」
「仕事だ。これからまっすぐ部屋へ連れて行く、いいな?」
 答える間もなくクレイグは歩き出し、理沙はスーツケースを引っ張って追いかけた。

 フォードSUVエクスプローラーの黒い鏡面仕上げのボンネットにカリフォルニアの青空が映っている。その空はつながっている筈なのに理沙のよく知るハワイの青空とも日本の青空ともどこか違っていた。クレイグはハンドルを握りながら聞いてきた。
「リサは日本で育ったのか?」
「ええ、十七歳まで。でも十歳過ぎた頃から学校で苛められてた」
「ふん、それは大変だ」
 クレイグの言い回しは他人事に響いた。理沙にしてみればそんなのはいつもの事だし、言及してくれるだけましだとも思えたから感謝した。
「少しね。ありがと」
「だが合衆国でも苛めはどの街でもある」
「そうだと思った」
 車はロングビーチを目指して州間ハイウェー405号線に乗った。理沙はどうしてもイルカにふれる仕事がしたかったので無理を言って水族館に近いロングビーチに部屋を頼んだのだ。水族館の方はロングビーチに近い『シーパーク』という小さな水族館に電話をかけて面接と採用テストを受ける予定になっている。もし採用テストに落ちたらバイトしながらチャンスを待つつもりだ。

「ロサンゼルスは初めてか?」
「ええ」
「この街はひと頃よりずいぶん犯罪が減った」
「そうなの?」
「本当だ。それでも東京の州警察に比べたら殺人事件の件数は3倍はあるからリサの感覚からしたら物騒な街かもしれない。もし日本人が恋しくなってリトルトーキョーに行く場合もブロックを行き過ぎないように注意しろ。スキッドロウの街に踏み込むと昼間でもラリったやつらがナイフを振り回す」
「気をつける」
「それがいい。あとロサンゼルスは英語を話せる人口と同じぐらいスペイン語しか話せない連中がいる。だから英語が通じない場合でも慌てないように」
「わかった」
「州内では車の中は助手席でもアルコールは禁物。持ち込みもだめだ。マリファナには絶対手を出すなよ。そういうのを揉み消してやれるほど君は重要人物じゃない」
「わかった。クレイグの話はなんか実務的で役立つ」
 クレイグは特に反応せず左手でジャケットのポケットを探り、ハンドルを握ってる右手の下から交差して名刺を差し出した。左利きなのだ。
「何か危険を感じた時はそこに電話してくれ。直通の携帯番号だ。支局の代表電話だと俺につながるまで恐ろしく時間がかかる。クリスマス前にかけたのにつながったのは復活祭なんてこともあった」
「嘘でしょ」
 理沙の言葉にクレイグは顔を顰めて返事をしなかった。

 クレイグが「着いた」と言って車を止めた。
 理沙は車から降りて鉄筋五階建てのアパートを見上げた。壁はやや煤けていて中央に入り口があり、両脇をはさむように壁が屋上まで吹き抜けになっている。その共有部分の廊下をはさんで各戸のドアが向き合うシンメトリーな構造だ。
「ありがとう、クレイグ」
「じゃあな。来週はラボに行くのを忘れないでくれ」
 クレイグは指で突っつくようにして言った。理沙は彼がいやいやこの地味な仕事をしてるのを感じながら「わかってる」と答えた。

  ◇

 ロサンゼルスの南サンディエゴには『シーワルド』という世界的に有名なマリンパークがある。イルカやアシカはもちろん、シャチのシャムーのショーは大人気だ。ただここで働くのは競争率が高く採用は相当難しいと言われてる。
 もっとも理沙には競争してまで固執する心理が理解できなかった。どこで縁づいてもそのイルカが最高のパートナーになるのは間違いないからだ。
 面接を受けるシーパークはサンディエゴの手前ロングビーチの近くにあり、シーワールドまで待てない子供のヒステリーと、シーワールドと勘違いする客、あるいは近くて安い方がいいと割り切る客で成り立っている。当然のようにシーワールドに比べたら規模もずっと小さいし、当然ショーもこぢんまりしてる。建物も理沙が見ても客に見えるところはたぶん定期的に塗り直されているようだが、バックヤードはボロボロだ。

「ウチは大体毎日9時間働いて給料も残業代もあまり出ない。いいんだな?」
 シーパークの文字がかすれかかったポロシャツを着たメタボ腹の館長モーリスは採用したい気持ちがないのか、まるで労働条件の酷さで脅すようだった。
「はい、イルカと仕事するのが楽しいので構いません」
 理沙がとびきりの笑顔で答えてもモーリスの堅い表情は変わらなかった。モーリスは額を掻きながら言った。
「最近やめたコも最初はそう言ってたんだ。そいつはシーワールドのステップにするつもりでウチに勤めたらしいが、うちで続かない奴ならシーワールドだって採用しないぞ。うちとシーワールドの違いは給料ぐらいだ。むしろシーワールドの方がトレーナー同士の激しい競争がある分大変なんだぞ」
「私は大丈夫です。イルカと一緒に仕事できるなら一生こちらで働いても構わない」
 理沙がそこまで言うと、モーリスはようやく頷いた。
「いいだろう。ウェットスーツに着替えてテストだ」

 着替えた理沙が観客の帰ったプールに歩き出すと、モーリスに呼び止められた。
「そっちじゃない。まずはこっちで泳ぎのテストだ」
 理沙はモーリスの指し示したプールと海をつないでいる幅2メートルほどの水路に入った。
「そのポンプの取り入れ口から海の水門まで70メートルある。水門にタッチして戻って来い。タイムトライアルだ」
「わかった」

 モーリスがパンと手を打つと理沙はクロールで懸命に泳いだ。ハワイのドルフィンケアクラスでの仕事は海を泳ぐこともあったから、それに比べたら息継ぎはしやすかった。
 後は速く泳ぐことだけに集中すればよい。
 理沙が手で水をかき、足で水を蹴ることに集中していると、イルカがすぐ横に寄り添ってきたイメージがあった。イルカが波を描くように全身をくねらせ、それに連れてイルカの頭が理沙のそばで頷くように上下するイメージだ。
 理沙は少しも息苦しさを感じなかったが、もちろん定期的に息継ぎをした。

 理沙が元のポンプの位置まで戻って壁にタッチするとようやくモーリスの顔から笑みがこぼれた。
「やるじゃないか。イルカを扱ったことはあると言ってたな」
 理沙は「ええ」と言って水路から上がった。
「ハワイのケアクラスで。曲芸を仕込むほどじゃありませんが、こっちへ来いとかそこで止まってとか、クライアントのために基本的な動作をさせてました」
「よろしい、リサ。こっちはタイラーだ。うちのイルカトレーナー主任だ」
 モーリスの横にいた、がっちりした体型で濃茶の髪の男はプエルトリコ系に見えた。
「ハイ、リサ」
「ハイ、タイラー。はじめまして」
 タイラーは理沙としっかり握手して歩き出した。
「イルカに会ってもらおうか。もちろん最初からサインは通じる筈ないだろうが雰囲気はわかるかもしれない」
「通じるわ」
「へー、自信家なんだ」
 タイラーは首を傾げながら笑みを浮かべた。
「たぶんね」

 イルカたちがプールの中を泳いでいる。タイラーはプールサイドの階段の手前で理沙にハンドサインを教えた。
「ウチでは単独のジャンプにこうやって手の甲を横に伸ばす」
「こうね」
「但し、初めての人間がやってもまず従わない。ショータイムだとわかっててトレーナーがそばにいれば素人のサインでも従うが、この時間に君一人では難しい」
 理沙はジョークを言った。
「もしイルカたちが私に従ったら私の今年の入館料は全額免除よ」
 タイラーは笑いながら小声で「無理だ」と呟いた。
 理沙はプールサイドに駆け上がると水面に顔の影を落として言った。
「ハーイ、はじめまして。私は理沙よ。あんたたちいい子なんでしょう。今日、私は採用テストで来てるの。お願いだから言うこと聞いてね」
 そして理沙はまっすぐ立って大きく息を吸い込んだ。頭の中にプールの中をぐるぐる回っているイルカたちの様子が浮かんだ。息を吐いてもう一度吸い込む。今度は逆周りに泳いでいるイルカが順周りのイルカと交差するのが浮かぶ。その時、逆周りのイルカが体をひねって理沙に視線を向けるのがわかった。理沙は素早くハンドサインを繰り出した。
 するとぐるりとプールを半周したイルカが水面から飛び出てジャンプを決めた。
 拍手とともにタイラーとモーリスがプールサイドの階段を上がって来た。
「リサ、すごいな」
 タイラーが褒めると理沙はモーリスに聞いた。
「採用テストは合格?」
「もちろんだ」
 モーリスは理沙と握手した。

 つづく