自首の理由

警視庁

 

 1

 

 夜の八時を過ぎた警察署の正面玄関は営業時間外の店舗のようにひっそりと静まりかえっている。しかし鷹木がドアを開け、さらに内扉の中に踏み入ると、節電のためか全開ではないものの蛍光灯の照明がついていた。カウンターで仕切られた内側を見渡すとこんな時間でも数人の無帽の制服警官が机に向かっている。
 そのうちのニ十代半ばの若い一人がこちらの気配に気付いてゆっくりと立ち上がって聞いた。
「どうしました?」
「その、自首をしたくて」
「えっ」
 鷹木の発した自首という言葉がその場に見えない波紋を広げたようだ。それまで黙然と机の書類に向かっていた警官たちが一斉に腰を浮かせた。ここで自分の気が変わりでもしたら追いかけようということなのかもしれない。
 そんな心配は無用だよ。
 鷹木は漏れそうな笑みを噛み殺しながら言う。
「一課に牛場刑事さんがいたら指名できますか?」
 そう言ってしまってから、指名じゃキャバクラみたいかとまた鷹木の頬に笑みが浮かびそうになる。牛場刑事は以前逮捕された時にいろいろ話を聞いてくれた刑事で、その後も刑務所に葉書をくれて困ってないか聞いてくれたり、出所時にも世話を焼いてくれた。
「とにかく、そっちに座って待っててくれますか」
 警官は階段へ向かう廊下のソファを指さし、やはり鷹木の気が変わらないか警戒してるような目つきで言った。鷹木はアタッシュケースを膝に乗せてソファーに座った。

 まもなく階段を速足で降りて来る靴音がして三十歳そこそこの刑事が姿を見せると、鷹木は立って頭を下げた。
「どうもお世話になります」
「じゃあ私に着いて来て、詳しい話を聞かせてくれる?」
 鷹木は刑事と連れ立って取調べ室に案内され椅子に座らせられた。

「お名前はなんていうの?」
「前に牛場さんにお世話になった鷹木です」
「タカは高い低いの高?」
「いえ、鷲や鷹の方で」
「ああ辞書のいる方だ」
 刑事は気さくな様子で言った。手の内に飛び込んで来た手間のかからない犯人にはそうなるのだろう。
「お手数かけます。失礼ですが、刑事さんのお名前は?」
「湯木沢だ。一課でいいんだね?」
 所轄署によっては刑事課が細分化されているところもあるが、この署では刑事1課が凶悪犯、粗暴犯、窃盗犯、過失犯をまとめて担当している。
「はい、あの盗犯で」
「よし、今シバさんを呼んで来るから。それまで鍵をかけさせてもらうよ」

 やがてドアが開いて、湯木沢に続いて鷹木より六つ年上の四十四歳の牛場刑事が入ってきた。しかし、髪に白髪が混じり見た目は五十すぎに見える。中肉中背の鷹木よりも腹が出ているが、肥満というほどではない。
「おいおい、なんだよ、呼ばれて来たら、鷹木、お前か。
 もうこういうところでは会わない約束じゃなかったのか?」
 牛場刑事が言うと鷹木は頭を下げた。
「すみません」
 牛場がスチール机の向かいに座ると同時に、湯木沢刑事も脇の長机に向かって調書用紙を広げて着席した。
「まったくな。でもまあ、やっちまったものは仕方ない、自分から出頭した分進歩したととるか」
「すみません」

 牛場刑事は、そこからゆっくりとした調子になって聞く。
「その後、どうだ、容子さんの手かがりは掴めたか?」
「ああ、ないですね」
「そうか。俺もお前の母親のこと、気にはかけてるんだがな」
 牛場刑事は残念そうに呟いた。
「ありがとうございます。
 実は、シバさん」
 そこで、鷹木は牛場刑事を通称で呼んだ。
「俺にも、血を分けた家族みたいなものがいるんですよ」
 牛場刑事は目を斜めに動かした。
「うん? 弟が死んで他はいないんじゃなかったのか?」
「いえ、そうじゃないんですが。こんな俺が家族みたいなものじゃ、あっちも迷惑するだろうから、ここでびしっと足を洗う決心をしたんです」
「ほおー、これか」
小指を立てた牛場刑事は頬に笑みを浮かべたが、鷹木はそれに相手せずに目を閉じてその「血を分けた家族みたいなもの」との出会いを告白し出したのだった。

 2

 ごく平凡な一軒家に侵入して十数分、獲物は主寝室の黒いタンスの中から唐突に現れた。
 引き出しを下から順に開けてゆくと、上から二段目の中に、小さなジュエリーボックスがいくつも入ってる。
 試しにひとつを取り出し、小さな引き出しをスライドさせると、比較的大きいルビーやエメラルドのヘッドをつけたネックレスがぞろぞろと出てきた。最初の頃は平凡な家で多額の宝石を見つけると不思議に思ったものだが、貯め込んでいるのは意外と平凡な家というのが業界の常識になっている。
 アタッシュケースの容量を考えたら、全部は無理だな。
 鷹木は黒いベルベットの大きな布を広げると、上物だけをチョイスして並べる。
 次のジュエリーケースは指輪だ。ネックレスを並べた部分の上に布を折り、その上に今度は上物の指輪を少し間をあけて置いてゆく。
 次のジュエリーケースは腕時計だ。
 欲張ってはいけないぞ。
 自分に言い聞かせながらも、高級時計を並べる顔はほころんでいる。
 
 と、その時だ。
 何かのスイッチの音がした。いや、これは少し離れたところで車のドアをそっと開ける音だ。
 この稼業をしてる者は音には特に敏感だ。
 警察か? 侵入するところを見られて気付かないでいる可能性はあるし、未知の防犯システムを発動させた可能性だってあるかもしれない。
 もちろん違うかもしれないが、躊躇なく撤収にかかる。
 鷹木は素早く布をたたむと、アタッシュの底板の裏にしまった。
 それから足音を立てぬように階段をおりると、死角の多い側のサッシに腰をつけ、覆面を内ポケットにしまい、予定通り、塀に飛びつき隣家の敷地にいったん降り、さらに奥の家へつながるフェンスに登り、向こう側に降りる。
 そこは安っぽいアパートの通路だ。
 鷹木は手袋をここで取り、スーツの左右のポケットにしまいながら、弱い近視のメガネを押さえて、道への出口で両脇に注意を配った。
 いかん、道の右側20メートル先に刑事らしき背広姿だ。
 これ以上間隔を詰められたらまずい。ここで潜むのは危険だ。

 鷹木は覚悟を決めて、道に出て左へ折れる。
 刑事が急に道に現れた自分をどの時点で見つけるか。
 1秒、2秒、3、4、
「あ、君、ちょっと」
 かなり後ろで声がする。
 こっちはダッシュして、一旦、右折。
 や、ヤバッ。
 前方50メートルにも刑事らしき背広姿。
 俺に関係ない捕り物で出張ってる可能性も高いが、トバッチリは御免だ。
 鷹木はすぐに左側のマンションに入り、そこは塀を飛び越え隣の敷地へ。
 こうなると塀を使ってハードル競走をしているようなものだ。
 いくつかハードルをまたいだ鷹木はワンルームマンションの庭に入ると、素早く手袋をつけて一番奥の部屋の手すりを越えた。
 中は暗く、全く気配がない。誰もいないようだ。
 ようし、夕方までここで時間をつぶそう。
 鷹木はガラスを切る特殊カッターを取り出そうとして苦笑した。
 無用心だな、おかげでこっちは楽だが。
 サッシがロックされてないのだ。
 鷹木はそっとサッシを開き、靴の砂を落として室内に入りカーテンを閉じた。

 3

 鷹木は小さなテーブルに肘をついて、壁に貼られた男性アイドル写真や、角に吊るされた千羽鶴や、ベッドに並ぶぬいぐるみを眺め、住人は女子高生か女子大生だなと考えた。
 次の瞬間、ベッドの熊のぬいぐるみがぴょこんと動いて、鷹木は焦った。
 続く瞬間、若い娘の声が響く。
「おじさん、私の足長おじさんでしょ?」
 ベッドからパジャマ姿の女が降りてきた。
 鷹木は唖然とした。
 明らかな侵入者である自分に対して、おじさんと親しげに笑顔で語りかけてくる女。
 鷹木は暴力は使わない主義だし、脅すための凶器も持ってない。だからこそ、そういう場面に出くわさないように細心の注意を払い、侵入時には覆面をしている。しかし、今は絶対無人だと決めつけて覆面をしてなかった。
 うかつだった。
 だが、もしかしたら、頭の相当、弱い女かもしれない。
 鷹木は手で鼻と口を覆い、二十歳すぎに見える女の出方を観察した。
「ちょうど、足長おじさんの夢を見てたの。だから、すぐにそうだってわかったわ」
 鷹木としては答えようもない。
「おじさんのおかげで私、こんなに元気になれたんですよ。
 ありがとうございました」
 女はペコリと頭を下げた。
 顔を上げると、鷹木を見る目が潤んでいる。
 鷹木は、こいつは本物のバカかもしれないと思いつつ、ここはヘタに否定しない方が騒がれないと踏んだ。
「いや、たいしたことはしてない」
「ううん、おじさんは私の命の恩人だから、本当にありがとうございました」
 女はもう一度お辞儀して、思い出したように、
「お名前は、高田さんですか?」
「いや、鷹木……、」
 鷹木はうっかり言いかけた。タカという音だけでも合っていたのはすごいと思ってしまったのだ。
「夢の中ではそんな感じだったので、そうか、タカギさんかあ。
 私は鞍川詩織です」
 鷹木は千羽鶴にもういちどちらりと視線を投げかけた。どうやらこの娘は闘病していて、自分をその恩人と勘違いしてるらしい。そうならば好都合だ。鷹木は話を合わせた。
「詩織さんか、病気は大変だったみたいだね?」
 詩織は「ええ、ほんとに」と微笑んで言った。
「何度もくじけそうでした。死んだ方が楽かと何度も思いました。だけど、タカギさんの骨髄のおかげで命を拾いました。
 こうして、一人で下宿もして、少しずつ普通の生活になれて、毎日たいした痛みもなく呼吸できるだけでも嬉しくて嬉しくて。ぽかぽかのお陽さまを浴びて、そよ風を感じて、お散歩するだけでも幸せで幸せで。
 みんな、タカギさんのおかげですよ」
 詩織の言葉は一方的な誤解だが、その中に鷹木にひとつ気になる言葉があった。
「そんなことないよ、君が頑張ったんだよ。それで骨髄の手術はいつ頃?」
「一年半前の五月です」
 その答えに鷹木は驚いた。
「ほんとに?」 
「ええ、あ、今、何か淹れますね、コーヒー、お茶、紅茶、ココア、何がいいですか?」
「じゃあ、コーヒーを」
「お砂糖とクリームは?」
「うん、両方抜きで」
 詩織は立ち上がって、小さなキッチンでお湯を沸かし始めた。

 鷹木はそっと靴を脱いでアタッシュの上に置き、立ち上がって壁に貼られている応援の手紙らしいものをざっと眺めた。
「この壁の手紙は?」
 詩織はドアの向こうから首だけ出して、
「うん、高校の時のクラスメートから貰った手紙、私の宝物ですね」
 すぐ、またキッチンに引っ込んだ。
 鷹木は悪いと思ったが机の引き出しをそっと引いて、中から手帳を見つけて、プロフィールページを覗いた。
 名前鞍川詩織 年齢19歳 誕生日10月15日 天秤座 血液型O型 身長159cm 体重 kg
 鷹木はホッとした。

 実は鷹木は理由あって骨髄ドナーに登録していたのだ。
 鷹木は幼い頃に父親と弟を交通事故で亡くし、それから2年後、母親に捨てられ、施設に預けられて育った。だから鷹木は自分の中に流れている血だけが母親につながる唯一の手ががりのように感じて、それでドナー登録を成人した頃に行っていたのだ。もちろん、それで本当の母親に会える確率など、大海から自分の吐いた唾を探すようなものだということは、十分わかってはいたのだが。
 そして1年半前の四月末、突然に適合者がいるのでご協力頂きたいとの連絡を受けた時は、ほぼあり得ないと思いつつも、一瞬、心がときめいた。
 担当した医師からは、基本的に移植希望者の情報は教えられないが、年齢からしてあなたの母親ではない事だけは確かだと告げられて五月に骨髄採取を受けたのだった。

 その後、移植を受けた者からの手紙が骨髄バンク経由で二度、届いた。しかし、規則で相手方も自分の名前や病院名等の個人情報に関わる内容は書かないと決められているので、それはただ感謝の言葉が何度も繰り返されているだけの文面であった。ただ手紙の字はどうみても少女の手によるものだった。

 鷹木には、そういう過去があったので、もしかしたら、その時、骨髄を提供した相手の部屋に、偶然、忍び込んでしまったのかと思いついたのだが、詩織の血液型はO型であり、鷹木のB型と違っていた。
 そうわかると、鷹木は少しだけ落胆している自分に気付いて苦笑した。

 それにしても、突然、上がりこんでる自分に対して、詩織は少しもおかしいと思わないのだろうか。おかしいと思わないとしたら、おそらく夢の中でやりとりがあって現実と連続しているのかもしれない。
 いや、夢と現実が連続していると思うこと自体がおかしいな。それはどういうことが惹き起こしているのだろう?
 例えば、高熱などで意識が朦朧とし混濁してるとか……、
 

 4

 その時、キッチンでドサッと音がした。
 鷹木がドアを覗くと、コーヒーのドリッパーを手にしたまま詩織が倒れているのを見つけた。床にはコーヒーの粉が散乱している。
 やっかいなことになったぞ。
 鷹木はそのまま詩織をひきずるように室内に入れて、額に手をやり、かなりの熱があるのを確かめると、ベッドの枕を頭にあてがい毛布をかけてやった。
「おい、大丈夫か?」
 声をかけても返事はない。今度は名前を呼んでみる。
「詩織ちゃん、大丈夫か?」
 しかし、返事はない。
 できれば放り出したいところだが、どうやら重い持病のある娘となれば、盗人にも五分の魂だ。
 鷹木は詩織のかかりつけの病院を知ろうと、薬の袋か診察券を探した。
 すると冷蔵庫の上のかごに薬袋がまとまってるのを見つけた。
 それから、バッグの中から学生証を見つけ出した。
 どうやら、今は21歳らしい。住所もはっきりした。
 鷹木はベッドの脇にある電話で、薬袋の病院薬局に電話をかけた。

《もしもし、今ですね、お宅の患者の鞍川詩織が急に倒れまして、担当医の方にアドバイスをいただきたいんだが》

《お名前をもう一度いただけますか?》

《名前が、鞍川、詩織です》

 しばらくして担当医だという男性の声が電話に出た。
《恐れ入ります、そこは学校ですか?》
 
《自分の部屋です、コーヒーを淹れてて、急に倒れたんです。》

《意識はありますか?》

《呼んでも答えないんです》

《熱はどうです?》

《かなりあるみたいですが体温計が見当たらなくて》

《呼吸は苦しそうですか?》

《ええと》
 鷹木は詩織の胸がゆっくりと上下しているのを見た。
《呼吸はわりと普通みたいですね》

《顔色はどうです?》

《うーん、少し赤いです》

《わかりました、彼女には特殊な持病がありますので、他の病院に行くよりも、当病院にすぐ来ていただいた方がいいと思います、お手数で申し訳ないですが、お願いします》

《わかりました、あのタクシーでもいいですか?》
 鷹木がそう聞いたのは、救急車だと記録が残りそうで嫌だったからだ。

《ええ、タクシーでもかまいません、よろしくお願いします》

《わかりました》
 待てよ、結局、タクシーも呼んだら記録が残るか。
 鷹木は呟いて苦笑しながら、携帯で近くのタクシー会社の電話番号を調べた。

 まもなくタクシーが到着したらしく、クラクションが鳴った。
 鷹木はサスペンダーでアタッシュを背中にぶらさげ、パジャマの上にジャンパーを羽織らせた詩織を抱き上げると、廊下に出た。
 すると、あろうことか、廊下で制服警官二人が部屋の住人と話をしてる。
 ちっ、ついてない。
 まあ、制服ならまず俺の顔は知らないだろう。
 鷹木は覚悟を決めて詩織を抱いたまま、歩き出した。
 警官はちらりとこちらを見た。
 胸の鼓動が急激に高まる。
 警官を通り越して、鷹木は出入り口のガラス扉に向かって早足で進んだ。

 すると、警官らしい足音が鷹木を追いかけて来る。
 気付かれたのか?
 胸の鼓動は異常に高まった。
 だが次の瞬間、警官は鷹木を追い越すと、出入り口の扉を開けて鷹木にうなづいて見せた。
 そうか、自動ドアでなかったので、気を利かしてドアを開けてくれたのだ。
 おかげで寿命が十五分ぐらい縮まったぞ。
 鷹木は「どうも」と警官に言って、外で待っているタクシーに乗り込んだ。

 5

 鷹木は牛場刑事にそこまで話すと、喉が渇いてしまった。
「すみません、水をもらえますか」
 湯木沢刑事が部屋の外に出て大声で頼むと、まもなく制服の警官がトレーに三つの湯飲みを持ってきた。
「俺も少し喉が乾いた。いや俺が警官の登場にドキドキする必要ないけどな」
 湯木沢刑事が冗談を言いながら鷹木に湯呑みを差し出す。
「ありがとうございます」

 鷹木は番茶をすすると話を再開した。
「私はタクシーの中で眠るように自分に寄りかかっている詩織を眺めながら、愛しい感情が湧いて来ることに驚きました。
 赤の他人である、何の関わりもない、ニ十近くも歳が違う娘です。
 しかし、普通に生きるという、一般人からしたらなんでもない低い目標のために、精一杯戦ってきたであろう勇敢な娘なんです。
 そして、苦しみの果てに勝ち取った、息をする幸せ、散歩する幸せをかみしめてる娘なんですよ。
 私は、今まで自分など死んでもいいと思ったことは幾度もありました」
 鷹木は牛場刑事を見つめた。
「しかし、生きたいという気持ちに正面から取り組んだことなど一度もありませんでした。
 だから、素直に感動したんですよ。
 偉い娘だなという尊敬と、この娘のために何かしてやりたい、という気持ちが湧いてきました。
 もちろん、よこしまな下心などありませんよ。
 最初はこの娘を病院の入口まで運んだらそのまま帰ろうと考えてたんですが、彼女によりかかられて次第に病院に近付くうちに、私は医者に会って自分にできることを聞いてみようと考え直しました」
 牛場刑事はこめかみを指で掻いて平坦な口調で言った。
「そこで、お前は、偶然に出会ったその娘を自分の家族と思い込もうとしたわけだ」

 牛場刑事が勝手に納得すると、鷹木は「いや」と言い返した。
「シバさん、それが偶然じゃないんですよ」
「では、どういうことだ?」
「きっと私と詩織は磁石のように引き合ったんです」
「しかし、お前と血液型は違ったんだろう?」
 牛場刑事は腕組みをした。

 そこで鷹木は大きく頷づいて続けた。
「ええ、病院で詩織はいろいろ検査されたようで、そこで意識を回復して私のことをおじさんはどこ?と探したようです。そのためか私は何も取り繕う手間もなく病院側に叔父と思われて血液内科の診察室に通されたのです。

 机でパソコンの画面を眺めていた銀縁眼鏡をかけた40代の男性医師は私に向き直ると頭を下げて礼を言いました。
『この度はお忙しいところお嬢さんを搬送して頂きありがとうございました』
『いえ、たまたま出張で部屋の近くまで行ったものですからお役に立ってよかったです』
 私はありきたりの返事をしました。
『症状は危惧するようなGVHD由来の炎症ではありませんでした』
『はあ、GVHD?』
『造血幹細胞移植でドナー由来のリンパ球が患者さんの正常細胞を異物として攻撃してしまう合併症があるんですが、それではありませんでした』
『ええと、それじゃあ大丈夫ですね?』
『今は落ち着いています。念のため、このまましばらくここで経過を観察して見ますがまず大丈夫でしょう』
 そこで私は何気なく叔父を装い続けて聞きました。
『姪の、詩織の骨髄提供者はどこの誰なんです?』
 すると医師は苦笑いをした。
『いやあ、ドナーの個人情報は骨髄バンクが管理していて、私どもも年齢性別程度と医学的なデータ以外は知らないんです』
『そうなんですか、たしか一年半前の五月で、相手はO型ですよね?』
 私は詩織の話と手帳を思い出しながら言いました。
『ええと、相手はたしか、ABO型だと』
 医師はカルテをひっくり返して言いました。
『B型の36歳の男性ですね』
『エッ!』
 私は心底びっくりしました。
 B型の36歳なら、私とぴったり一致です。
 すると私の反応に医師は笑って言いました。
『ああ、一般の方は誤解されてるんですよ、骨髄移植の場合は赤血球のABO型は考えずに、白血球のHLA型のみで適合を判定するんです』
『あの子はO型ですよね、B型じゃまずいんじゃないですか?』
『もちろん、B型血をO型の人に輸血してはまずいです。しかし骨髄移植の場合、本人の血液は病気でだめだから全部放射線で消してしまうんです。そうやってドナーの血液に全部入れ替えるのだと思ってください。正確に言うと頭の髄液だけは自分の血液型がずっと残りますが、それ以外の骨髄で作られ体内を循環する血液はすっかりドナーの血液型に入れ替わります。詩織さんの場合なら、この36歳の男性のB型にすっかり変化します』
 医師の言葉に、私は不思議な感動に震えました。

 そしてふと考えついた可能性を私は聞いてみました。
『では、一年半前の五月に、ドナーになったB型の36歳男性は日本に何人ぐらいいますかね?』
 医師は電卓を片手に面白いクイズでも解くように計算を始めました。

『検索可能なドナー登録者は39万人ですが、毎月百人程度が適合します。
 B型の確率は22%ぐらいかな、提供者の提供年齢は18歳~55歳に限られてます。計算する場合は56歳未満から18歳を引いて38歳級数ですね。B型でかつ36歳である可能性は22%の38分の1になりゼロコンマ58%、さらに男性だから単純に半分でゼロコンマ29%、つまり毎月の適合者約百人当たりで0.3人未満です。
 ということは、面倒な計算をするまでもなく適合者がいたとしたら一人だけですよ』
『つまり一年半前の五月にドナーになったB型の36歳男性は一人だけですか?』
『ええ、そうなります』

 私はいよいよ感動に胸を熱くしてしまいました。
『ああ、なんてすごい偶然なんだ』
 私が思わず声を上げると医師は不思議そうに聞き返しました。
『どうかしましたか?』
『ええ、実は私、16年前にドナー登録をしてて1年半前の5月に骨髄を提供したんです。もちろん相手が誰かは知らなかったんですが、それは私が詩織の命を助けたってことなんですね?』
 今度は医師が眼鏡の奥の目を輝かせた。
『本当ですか? それはすごいな。兄弟なら確率は四分の一あるんですが、親子になると他人並みの天文学的な確率に落ちてしまうんです。ですから、叔父さんでも確率は天文学的に低いので適合したとすれば奇蹟です』
 医師も奇蹟に感じ入ったようで興奮した口調になった。
『そうなんですか?』
『ええ、詩織ちゃんはあなたの骨髄のおかげで助かったんですよ。その後もとても順調にきてます。私からも是非、あなたにありがとうと言わせて下さい、ありがとうございました』
 医師は嬉しそうに言って鷹木の手を握った。
『私でも、私の血でも、役に立ったんですね』
 そこで涙がぼろぼろとこぼれ出し……」
 鷹木はその時の感激が蘇って言葉に詰まり、頬を伝った涙を手の甲で拭った。

 

 湯木沢刑事が振りむいて声をかけた。
「鷹木さん、いい話を聞かせてもらったよ」
 牛場刑事も目頭を押さえた。
「おめえは……いい事をしたなあ」
 鷹木は喉に蘇った嗚咽をなんとか抑えると言った。
「母親に捨てられ、それ以外にこの世との繋がりなどないと思っていた俺の血が、見知らぬ娘を救い、その娘の体の中を満たし元気にしているんですよ。
 それがどんなに嬉しいことか、世間の他人様には決して想像もできないでしょう。
 そのうえ、私と同じ血液型になると言うんですよ。
 詩織は、私と同じ血が流れている、これはもう家族といってもよいですよね?」
「うん、そうだな、実際にお前の血を分けたんだ、もう家族だな」
「そうとわかったら、詩織のためにも盗人稼業なんかもうしてられません。だから自首しに来たんです」

 牛場刑事は大きく何度か頷づくと、笑って言った。
「じゃあ、鷹木よ、お前の人生最後の取調べを始めようじゃねえか」    了