改訂版ドルフィン・ジャンプ5 脱出

改訂版ドルフィン・ジャンプ 全29章目次です

ドルフィン表紙

 

 

  5 脱出

 ロサンゼルス郊外の海洋研究施設。
 警備室の壁に並んだモニターに屋内のプールで戯れるイルカたちが映っていた。
 その手前では警備員たち三人がカードゲームに興じている。
 その隙を見透かしたように、一頭のイルカが屋外メインプールへ繋がる待機水路に近づいた。イルカは立ち泳ぎしながら水上70センチほどにある取っ手をくわえて引く。
 するとメインプールへ通じる待機水路の金網の扉が開いた。
 イルカはメインプールに入ると勢いをつけて泳ぎ始め、空の青さを映し出した水面にさざ波が立った。

  ◇

 薄暗い部屋の中、一人の男が病院用ベッドに仰向けにされていた。
 肩、肘、手首、腹、腰、膝、足首と幅の広いベルトで縛り付けられ、天然パーマの頭は左右から巨大な万力で挟むように固定されて、脳波計のコードがつけられている。脇のテーブルには広いステンレスのトレイがあり、何本かの手術用メスがあったが大工道具の錆かけたペンチや電動ドリルまでが一緒に並んでいる。

 靴の音を響かせ、ポマードで固めたオールバックの金髪に淡いブラウンのサングラスをかけた、黒いスーツ姿の男が近寄ってくる。サングラスで目を隠し、ピラミダル髭をたくわえ顎の真ん中がふたつに割れているのが印象的な顔つきだ。
「フィリップ、私は西部地区統轄官のカークスだ。昔、セキュリティーの本部会議で会ってる、覚えてるだろう」
 カークスはフィリップの手をまず撫でると、次の瞬間、きつくつねった。
「Ouch!」
「残念だよ、管理職として高給をもらってる君が裏切るとはな」
 フィリップは反論する。
「裏切りじゃない、お前らがおかしいんだ。イカれてる」
「どっちがだ? 組織を裏切って何が得られる?」
「こんな人権を無視した計画は馬鹿げている」
「馬鹿なのは大衆だ。フットボール、野球、テレビ、ゲームにうつつを抜かしていながら、マスコミが騒ぐと急に政治が悪いと言い出す。もっともマスコミも結局、スポンサーには逆らえない。我々の味方にもなるところが可愛いがな。
 とにかく大衆には正しい判断などできないのだ。考える力のない愚かな大衆をくだらない思想にかぶれないようにコントロールし、国家の利益を優先する正しい国民に変革するのだ。これは来るべき終末の混乱を制御する理想的なシステムだ」
「なにが理想的だ、お前らこそテロリストを煽り、世間を混乱に陥れている元凶だろ」
「ひどい言いがかりだな。まあいい、話を進めよう。お前がどんな情報をどこに漏らしたか話してもらうぞ」
 カークスはフィリップを睨みつけると続けた。
「どこの誰に話した?」
「さあな」
「君は自分の置かれた状況を全く理解してないな。最近、私は組織に潜入したエージェントを三人も立て続けに捕まえた。彼らが今どうしてると思う?」
「……」
「君は今、最悪の事態を想像した。そうだな?」
 
 そう言われてフィリップは唾を飲み込んだ。
「……」
「その通りだ。やつらはサメの蛋白源となって食物連鎖に貢献したよ」
「……」
「君はエージェントと違い全くの素人だ。そうだろう。君が今考えなければならないのはなぜ諜報機関出身の私がこのDDPデイドリームプロジェクトを推進する組織の西部地区統轄官つまりは軍事司令官に抜擢されたのかってことだ」
 ベッド脇のトレイでペンチと注射器がぶつかり金属音が響いた。 
「……」
 カークスはアンプルに注射器の針を差し込み薬剤を吸い上げながら言う。
「フ、君は拷問されるのは初体験だろうから、ゆっくり味わわせてやるよ」
 カークスは注射針を手荒にフィリップの腕に突き立てると、中の透明の液体を一気に押し込んだ。
「何を打った?」
「それぐらいテレビのスパイものを見てれば、見当つくだろう?」
「自白剤?」
「そのうちでも一番軽いやつだ、相手が凄腕のエージェントなら強い自白剤でも難しいが、お前は素人だからな」
 
 その言葉も終わらぬうちに鼓動が激しくなり眩暈がフィリップをぐらぐら追い込む。
「今朝午前七時四分、お前はスマホから新聞社にメールし、我々の研究開発のダークサイドについて報道してほしいと告げた」
 フィリップは声を上げた。
「汚いぞ、個人のスマホをハッキングするなんて」
「何を言う、プロジェクトの秘密を外部に漏らすのは契約違反だ。我々はいつでもお前を消せるんだぞ」
 カークスはフィリップの顎を手荒く掴んだが、フィリップは睨み返して言う。
「そんなこと、マスコミが黙ってるもんか」
 カークスは呆れたように指を立てて左右に振った。
「おめでたいやつだな、マスコミが真実を暴くなんてドジな話はウォーターゲートだけでおしまいだ」
「……」
「第一、マスコミがお前のことなど知りようもない」
「……そうかな」
 フィリップは強がって言ったが、カークスはお見通しだった。
「確かにお前はひとつの新聞社にメールを送った。それはわかってる」
「くそっ」
「他に情報を送ったところはあるか?」
「ない」
「シラを切っても無駄だ。自分のスマホで連絡するのは捕まった時にすぐばれるから、他にも会社の外の電話なりで連絡しただろ? どこにリークした?」
 カークスはペンチでフィリップの右手の小指の爪をつまんだ。そして、ペンチで挟んだ爪をゆっくりと半分ほどめくりあげる。
「Ahhh!」
「どこにリークした? もっと爪を剥こうか?」
「ヒッ、あの新聞社だけだ」
「嘘じゃないだろうな」
 カークスはペンチで爪を一気にめくり取り小指の肉が完全に剥き出しになった。
「Ahhhhhh! Ahhhhhh!」
「指はあと19本あるんだ、まだまだそんなに大げさに喚くな」

 そこへドアが開いて、シルバーの髪を七三に分け、狡猾そうな細い目をした男がボディガードらしきサングラスの男二人を従えて入ってきた。
「どうだ、カークス」
 カークスは振り向いて「これはこれはクロブラッド閣下」と敬礼した。
 クロブラッドと呼ばれた男が尋ねる。
「そいつは、全部吐いたか?」
「まだですが、時間の問題ですな」
「何しようとしてたんだ?」
「こいつ、新聞社にメールを送ろうとしました。もちろんメールは我々がインターセプトして相手には届いてないが」
「……うそだ」
 カークスは悔しがるフィリップに向き直った。
「アルパカの画像には暗号鍵付で告発ビデオファイルを埋め込んであったな」
「うっ。だったら聞かなくていいだろ?」
「問題はそこから先だ、誰に頼まれたのか? 他に仲間がいるのか?」
「誰にも頼まれてない、仲間もいない。もっともこの計画に吐き気を覚えている人間はこの研究所にもたくさんいるはずだ、良心がある者はみんなだ」
 カークスはチッと舌打ちした。
「いけないねえ、それが拷問される態度かい? 礼儀知らずの君にはもう少しヘビーな拷問がよさそうだな」
 カークスはトレイから電動ドリルを持ち上げると、フィリップの目の前でスイッチを入れてみせた。ビィーンとモーターが唸り、ドリルの先が鋭く回転する。
「いいかい、坊や。きちんと質問に答えないと、坊やの頭にタオルハンガーをつけてあげことになる。坊やはタオルハンガーは好きかな?」
「……」
「坊やは誰かに頼まれたのかな?」
 カークスはドリルの先端をフィリップのこめかみに押し当てた。
「坊やは誰かに頼まれたのかな?」
 金属の冷たさがフィリップの神経を引き攣らせる。
「……い、いや、違う」
 カークスはフィリップが答えたにも拘らずドリルのスイッチを入れた。
 皮膚に激しい痛みが走り、血が迸り、頭蓋骨に小さな穴がこじ開けられた。
「Ahhhhh!」
「あ、いけないなあ、先生の質問に答えるのが遅いから少し穴を開けちゃったじゃないか。でもこれぐらいなら、死なないよ」
 カークスは笑いながら滲み出た血をガーゼでひと拭きすると、またドリルをフィリップのこめかみに開いた穴に当てた。
「坊や、仲間はいるのかな?」
「……いない」
「そうそう、それぐらい早く答えてくれれば間に合うよ。さて、次の質問だよ、坊やは別の方法でビデオファイルを持ち出していないだろうね?」
「……ない」
 カークスは脳波形のモニターを見つめて言う。
「嘘があるなあ、坊やは正直だから先生のお気に入りだ。真実の時と嘘の時の答える時の脳波と声の間隔、高さが違うんだよ。先生にはすっかりお見通しだ」
 カークスはドリルのスイッチを入れた。モーターの回転音が唸り、かすかに何かが焼ける匂いがする。おそらく脅しだけでドリルを奥には進めないはずだ。
 そう思いつつも、フィリップの心は恐怖で満たされてしまう。
「坊やは、他にもビデオファイルを持ち出そうとしていたんだな?」
 カークスはさらにドリルを奥に進めた。
「Ahhhhhh!」
 すると、突然、フィリップは大きな声で叫んだ。
「Ahhhhhh! ハンク、ゴーだ」
「ハンクとは誰だ?」
 クロブラッドが疑問を挟むとカークスが答えた。
「こいつが昼休みに暇潰しに遊んでる実験イルカが確かそんな名前かと。ケッ、いかれてきたか。実験イルカのことなど聞いてない。ビデオファイルのことを答えるんだ」

 カークスは今度はペンチでフィリップの爪をめくる。しかし、フィリップは一瞬悲鳴を上げたものの、イルカの様子を間近に見ているように叫ぶ。
「ハンク、ゴー、ゴー、ゴー!」
 イルカはメインプールの中で大きく円を描いていた。
 イルカは突然、スピードをあげると凄い勢いで待機水路へ進んだ。しかし、待機水路はメインプールよりも長いがこのままでは閉じている入り口の扉にぶつかりそうだ。しかしイルカはスピードを緩めるどころか更に加速する。これでは壁にぶつかってしまう。

「びびるな、ハンク、ジャンプだ!」
 次の瞬間、イルカは空に向かって大きくジャンプする。
 待機水路のフェンスをあっさりと越えたイルカは空を10メートル跳んだ。
 落下する放物線の先には研究施設に海水を給排水するための水路があり、イルカは大きな水しぶきを上げてその水路へと着水した。イルカは海へ向けて矢のように進んだ。

「ハンク、ゴー、ゴー、ゴー! 絶対捕まるな、ゴー、ゴー、ゴー!」
 クロブラッドはハッとしてデスクの電話に駆け寄り、受話器に叫んだ。
「研究室のイルカが逃げ出していないか至急チェックしろ」
 カークスは「まさか」とつぶやく。
「ありえるぞ。こいつ、イルカにビデオファイルを隠して逃がしたかもしれん」
 電話の向こうからまわりに聞こえるほどの大声が響いた。
「一頭、いません!」
「馬鹿め、何を監視してた。すぐ捜索するんだ」
「通常の自動無線追尾モニターでは見当たりません」
「そんなもの切ってあるんだろう。西部地区の衛星監視システムは?」
「それが、今、麻薬摘発作戦でキューバおよびメキシコ地域に向いてまして、あと一時間は使用できません」
「なんだと? 至急、ボートを出してそのイルカを探し出して捕獲するんだ。逃げられそうな場合は殺してもかまわん」
 カークスはフィリップに尋ねる。
「お前、イルカの内臓チップに告発ビデオファイルを仕込んだのか?」
「ビデオをメモリー基盤に書き込んで、チップに隠したんだ。ざまあみろ」
「余計なことを」
 カークスは怒りで顔を真っ赤に染めフィリップを殴り親指の爪をめくり取った。
「Ahhhhhh!」
「小癪なセーフティバルブを用意しやがって」
「これでお前らの陰謀も終わりだぞ」
 フィリップはそう言い放ったが、クロブラッドが平静に言い返す。
「お前の浅知恵がそううまくゆくとは思えんな。誰が海を泳いでるイルカをつかまえる? 誰がそのイルカを切り開いてチップを見つける? 誰がチップの中にお前のビデオファイルがあると気付く? それは巨大タンカーが針の穴を通るような確率だ」
「……」

 余裕を見せるクロブラッドにフィリップは言葉を返せなかった。
「そもそもお前は私たちの組織を知ってるのか?」
「ああ。民間軍事会社を隠れ蓑にして国家の乗っ取りを狙うテロリスト組織ATOだろ?」
 そう言われてクロブラッドが笑った。
「ATOがそんなケチな組織と思われては心外だよ。我々の組織は古代から人類を支配したレプテリアンとグレイのドラコ連合の核心だ。我々は時代毎にいくつもの宗教や秘密結社を作らせてきた。つまり我々は常に最大の権力であり、政府の継続性の頂点に立つべきなのだ」
「政府の継続性、なんだそりゃ?」
「カーター大統領の時にこのシステムが決定された。合衆国が危機的な状況に陥った時に連邦政府を完璧に継続するシステム、それが政府の継続性だ」
 クロブラッドはフィリップのまわりを歩きながら説明した。
「私は政府の連邦緊急事態管理庁FEMAの長官だ。我々はすでに全米の各都市に極秘の地下基地を配置し、郊外には不穏分子の収容所を建て、非常時には軍・州兵をはじめとして全連邦を統治できる。そのために必要な最も重要な権限を与えられている」
「嘘だ。テロリストのお前たちが既に連邦組織を支配できるなんて悪夢だ」
「残念だったな。非常時には私の部下である各地区司令官は大統領命令を待たずに全ての大統領権限を持ち連邦軍・州兵を指揮し国民を管理できるのだ」
 クロブラッドは誇示するように顔の前で拳を握り締めた。
「そんなのおかしいぞ。大統領に万が一があった場合の権限は副大統領、下院議長、上院議長、国務長官の順で継承される決まりだ」
「理想はな。しかし国家の緊急時に悠長な継承手続きができない事も想定して政府の継続性は決められたのだ。つまり何らかの重大気象や大量無差別テロが起きて、非常事態さえ宣言されればこの国は私のものになる。それは近い将来に起きることは確定的だ。素晴らしいだろ?」
 フィリップはハッとして気付いた。
「まさか自作自演で非常事態を起こす気なんだな?」
 クロブラッドは口元に微笑を浮かべた。
「フフフ、君はセンスがいいな。もっともこんな重大な秘密を打ち明けられたら、君は国の心配をするよりもまず自分の身の将来を心配すべきじゃないかね?」
 フィリップは気付いて唾を飲み込んだ。
「お、俺を殺すのか?」
「それはちともったいない。君も知っているようにこの計画も人体実験の段階に入っている。我々は君のテレパシー能力をテストした上で不合格の場合は名誉あるモルモットに抜擢しよう。知っての通り、まだ予期せぬ副作用が多々あり廃人になる危険性は高いが、君による実験データはきっと我々の計画に役立つだろう」
 クロブラッドは「司令」と言って振り返り、カークスは笑った。
「よかったな、これからは家に帰って妻の小言を聞かされたり娘のデートの心配をするような面倒はもう一切なしだ」
 カークスは廊下から部下を呼ぶと命令した。
「こいつを豚小屋に連れて行け」
 部下は「はっ」と言ってベッドを押し出した。
「や、やめろー、やめろー」
 フィリップの声が空しく響いた。 

 つづく