改訂版ドルフィン・ジャンプの6 悩める理沙

改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です

ドルフィン表紙

 
 

  6 悩める理沙

 

 夕方最後のイルカショーが一時間前に終わり、今はイルカとトレーナーの訓練の時間だった。
 タイラーが立ち泳ぎのハンドサインを送った。イルカのボビーがすっくと水面の上に頭を持ち上げるとタイラーは輪投げの輪を放り投げる。ボビーは器用に尾びれを動かして少しバックすると口先で輪を受けた。
 タイラーの隣で見ていた新米トレーナーの理沙は観客の気分で思わず拍手した。
 ボビーが戻ってくると、タイラーが理沙に輪投げの輪を渡して言う。
「さあ今度はリサがやってみな」
 理沙は頷いて深呼吸していつものように頭の中でイルカのイメージを描いてみた。しかし、なぜか今日はイメージが湧いて来ない。
 どうしたんだろう? いつもすぐにイルカたちのイメージが浮かぶのに。今日は何も思い浮かばない。
 理沙は不思議に思いながら、心の中で呼びかける。
 ボビー、さあ私に立ち泳ぎをして見せて!
 普通はそこでイルカが堅いくちばしで軽くツンと突いてくるような感覚とともに水中のイルカがどんな状態か第六感のイメージとしてわかるのだ。
 なのに今日は何も感じ取れない。まるでプールが砂漠になったみたいで生き物の気配すらしないのだ。
「おい、リサ、さっさとやれよ。これから教えるメニューがいっぱいあるんだ」
 タイラーに急き立てられて理沙は立ち泳ぎのハンドサインを送った。
 ボビー、おいで!
 理沙は努めて明るく呼びかけた。
 しかし、ボビーは水面で揺られているだけで理沙の言うことを聞かない。
 理沙はもう一度ハンドサインを送った。
 それでもボビーは理沙のサインを無視して動こうとしない。
 理沙のブラウンの目に涙が溢れてくる。
 タイラーがうーんと唸った。
「リサ、最初の四日間はびっくりするぐらい順調だったのに急にどうしたんだ? まるで君は誰かと入れ替わったみたいだ」
 理沙は自信なさそうに頭を左右に揺らした。
「なんだか調子が悪くて、私には理由がわからない」
「今日のボビーは君を受け入れていないみたいだ。しかし、新人トレーナーの場合、それまで順調にいってたイルカとの関係が急に一時的に止まってしまうケースがたまにあるらしい。新しい環境に入ったばかりだし、イルカの方も君を受け入れるのに波が出てしまうんだろう。あまり深刻に考えちゃいけないよ」
「ありがとう、タイラー。あなたはここへ来て何日ぐらいでイルカたちに受け入れられたの?」
「そうだなあ、やっぱり三週間ぐらいはかかったよ」
「私も受け入れられるかしら」
 理沙は溜め息を吐いた。
「何を言ってるんだ。君は採用試験の時にすでにイルカたちの心を掴んでたよ。俺も館長もリサは驚異のスタートレーナーだと確信したんだから」
 タイラーは笑顔で持ち上げたが、理沙の溜め息は止まらない。
「あの時がピークだったのかも。私って才能ないってことかな」
「その時のイルカたちの感情や状況や気候もいろいろ作用するんだ。リサ個人のせいだと決め付けちゃいけないぜ。自分が悪いと考え込むのが一番いけない。がんばれ」
「ありがとう」
 タイラーはそこで咳払いをひとつした。
「それでちょっと話題が変わるんだけど、いいか?」
 理沙は不安そうにタイラーを見た。
「ええ」
 タイラーはプールの水中を指差した。
「あのあたりの水中の壁を見てくれる。あそこだけ色が違うだろ。もう苔が付き始めているんだ」
 理沙は自分の口の前で手を合掌するようにして答えた。
「あの辺は私が掃除した区画だわ」
 タイラーが困りながら言う。
「どうやらリサの力の入れ方が足りなかったみたいだ。前の施設ではプールの掃除はやらなかったのかい?」
「ごめんなさい、タイラー。前に働いていたハワイのドルフィンケアクラスでは海中にステンレスの生け簀を沈めてあるだけだから、プールの掃除はなかったのよ」
「ああ、なるほど。てっきりブラシのかけ方は知ってると思ったもんだから。君によく教えなかった僕にも責任があるな」
 タイラーの言い方には、理沙をこれ以上落ち込ませないよう気を使っているのがありありと表れていた。それがますます理沙の気持ちを滅入らせた。
「今度壁にブラシをかける時は縦方向に往復と横方向にも往復で力を入れてかけるようにしてくれ」
「ほんとにごめんなさい。後でブラシをかけ直しておく」
「うん、あまり無理しないでもいいからな。じゃあまた明日」
 タイラーが手を上げて立ち去ると、理沙は一人膝を抱え込んで泣いた。
 
  ◇

 三週間ほどして、理沙は再びスタイン研究所を訪れた。しかし今度はワンピースを着る心のゆとりもなく通勤に着ているありふれたシャツとジーンズだ。
「キャロル。また来たわ」
 理沙が挨拶するとキャロルが顔を上げて微笑んだ。
「リサ、久しぶり。待ってたわ」
 理沙からFBIの通知書を受け取り、キャロルは立ち上がって歩き出した。
「元気にしてた?」
 そう聞かれて理沙は顎を小さく振った。
「もちろんと言いたいんだけど、仕事がうまくいってないの」
 キャロルは理沙の手を握った。
「リサの仕事って何なの?」
「イルカのトレーナーよ」
「ワオ、素敵な仕事じゃない」
「でもね、最初はうまくいきそうだったんだけど、すぐイルカたちの態度が非友好的になっちゃって。昔、苛めで無視されてたのを思い出しちゃって憂鬱なの」
「それは困ったわね。アドバイスしてあげたいけど私はイルカには詳しくないし、何も言えないわ」
「その気持ちだけでも嬉しいよ」
 キャロルはそこで笑みを浮かべて言った。
「その代わり今日はジャクリーヌ・デュ・プレのとっておきの演奏をかけてあげるから、それで元気を出して」
「ありがとう。ここでキャロルと知り合えてよかった」
「さあさあ、お客様、こちらの特等席にどうぞ。ダサダサの椅子だけどね」
 キャロルは理沙をリクライニングチェアにかけさせ、ゆっくりと倒した。
「それではデュ・プレの演奏でドボルザークのチェロ協奏曲ロ短調です」
 キャロルはアナウンスして曲を流した。
 
 デュ・プレのチェロはまるで窓を開けたとたんに吹き込んできた南風のように理沙の耳に押し寄せた。若々しさに溢れたダイナミックな音だ。小気味良いリズムをきざんでまわりの空気を温めてゆく。なんだか麦畑で麦の穂がマスゲームのように波を打っていろんな絵をくるくると描いてゆくようだ。
 途中突然にドクター・ケルヴィンが登場して理沙は演奏に聞き惚れるのを中断して簡単な近況報告をしなければならなかったが、その問診が終わり脳波測定のヘッドギアを付ける時にキャロルが囁いた。
「変なおじいちゃんが邪魔してごめんね。また冒頭からかけ直すから楽しんで」
「うふふっ、ありがとうキャロル」
 脳波測定に移り、理沙はデュ・プレの繊細さと大胆さを兼ね備えた演奏に聞き入りながら、ちょっと不快なフラッシュの連発を味わい、やがてうとうとと眠ってしまった。

「リサ、検査は済んだわ。起きていいわよ」
 理沙はキャロルの声で自分がまた脳波検査の途中で眠ってしまったと気づきながら瞼を開いた。
「キャロル、なんだか頭が痛い感じよ」
「ごめんね、皮膚が切れることは絶対にないけど脳波測定器の端末は少し尖ってるから人によって傷みが残るみたい。吐き気やめまいはある?」
「いいえ、そこまではないわ」
「なら大丈夫よ」
 キャロルの笑顔に理沙は頷いて話し出した。
「そうそう、こないだの検査の後、体育館みたいな教会に『神があなたに答える』って看板があってね、聖書の疑問について聞いてみたの」
「へえー、それで?」
「その時はボランティアみたいなおばさんしかいなくて、手紙を牧師様に届けてくれるって言われて。今日はその返事をもらいに寄るつもり」
 理沙は楽しみにしてる気分で言ったのに、キャロルは予想外に唇を歪めた。
「それ、あんまりお薦めしないわ」
「どうして?」
「リサの行ったのはたぶんテレビ伝道師の教会よ。日曜になると集会を開いてそれをケーブルテレビで全米に中継してお布施を募るの」
「ふうん。どうしてお薦めしないの?」
「簡単にすごい金額のお布施が集まるの、とんでもない金額がね。人気の伝道師だと一日でミリオンダラーを集める人もいる。毎週そんな金額を手にしたらそれまで清貧の暮らしをしていた聖職者だって正しい心が折れてしまうんじゃない?」
 理沙はハッとして言った。
「オッオー、わかった。駱駝と針の穴の教えにある『裕福なものが神の国に入ることはなんと難しいことか』ね。その牧師は自らの教えと逆の道に行ってしまうかも」
 キャロルが頷いた。
「ええ、しかもテレビ伝道師になる人間はまともな聖職者とは限らない。むしろお金に目の眩んだろくでもない詐欺師も多いのよ。そういう奴らは信者の前では清貧を諭し堕落した人間を糾弾しながら、帰る自宅はものすごい豪邸で、美女を何十人も囲ってたりするのよ。隠し金庫になってる秘密の部屋があって札束がぎっしり詰まってる。ちゃんとした想像力と判断力のある人はそんなところに寄付したり近寄ったりしないわ」
「ありがとう、キャロル。一応返事はもらってみるけどそれでやめとく」
「それがいい。ねえ、リサ、今度、お休みの日に食事でもしない?」
「私の休みは今月は火曜日なの、それでもいい?」
「ええ、じゃ決まりね」
 理沙はキャロルと電話番号を交換して別れた。 

 理沙が『使徒の福音教会』を訪れると、この前と同じように白人、黒人、メキシコ系のご婦人たちが迎えてくれた。
「こんにちは。私のことを覚えている?」
「もちろん。牧師様からの返事をちゃんと預ってるよ」
 そう言うとメキシコ系のご婦人が立ち上がって背後にあるロッカーを開けて封筒を取り出してきた。
「ありがとう」
 理沙が礼を言って手紙を開くとご婦人たちは興味深そうに聞いた。
「それで牧師様はなんて答えたのかしら」
「もちろん強制はしないけど」
「いやでなければ返事を教えてほしいわ、ねえ?」
 理沙は手紙を読んで聞かせた。
『親愛なる子羊リサよ、汝の真実を求める態度こそ信仰の礎である。
 まことにイエス様は天上にまします御父上のお導きによって民衆にいったん忘れ去られる術を行われたのである。
 さらに詳しい教えについては下に記す私の家にくれば教えてあげよう。
 日曜に参加できない子羊リサにイエス様の完璧なる強き勇気を授けん』
 理沙が読み終えるとご婦人たちは羨ましそうに言い合った。
「なんてありがたいことでしょう!」
「牧師様から直々に教えをいただけるなんて!」
「リサは本当に果報者よ!」
 しかし、理沙はキャロルの助言に従って舞い上がることはなかった。のこのここの牧師の家に、たぶんすごい豪邸に出かけたら愛人の群れに列聖されてしまうのだろう。
 理沙はご婦人たちに「皆さんに神のご加護を」と言って立ち去った。

  ◇

 それから一週間たっても、それで理沙の調子が上がる訳ではなかった。相変わらずイルカたちは理沙の送るサインに反応しない。
 どうして私の言うことを聞いてくれないんだろう。ここのイルカは皆意地悪なんだ。
 そんな子供じみたことを考えてから理沙は思い直す。
 でも最初の数日はとてもいい感じでコミュニケートできたんだから、イルカが意地悪というわけじゃない。私という存在を知るに連れてがっかりされたのかもしれない。
 イルカは猫みたいに自由気ままな性格だものね。
 私が仲間として認められないうちは相手にされないのは当たり前なんだよね。
 
 理沙はデッキブラシを持ち、夕焼けの映えるイルカのショープールの観客スタンドに入った。
 理沙は自分のふがいなさを剥ぎ落とす気持ちでブラシで階段の汚れをこすり落とす作業に熱中した。
 いつしか闇に包まれ、観客席でのブラシかけもひと通り終わった頃、理沙は後ろから声をかけられた。
「そこにいるのはリサか、そんなところで何をしてるんだ?」
 声の主は館長のモーリスだった。
「ああ、観客席をちょっと磨いてきれいにしてたんです。もう終わりです」
 理沙が顔を上げると、館長は言った。
「頼まれてない残業をしても残業代は出せないよ」
 理沙は頷いた。
「もちろんわかってます。タイムカードはもう退出にしてありますから」
 館長は安心したらしく急に笑みを浮かべた。
「えらく律儀だな」
「ボスがどう思うか考えてるし、お客が喜んでくれるようにやってるんです」
「うん、いい心がけだ。それで君に話があるんだ」
 理沙は最悪クビになる話かもしれないと感じて緊張しながら訴えた。
「あの、私がんばりますから、もう少しここに置いてください」
 館長は上機嫌で言った。
「いやいや、そうじゃない。うちにも君にもいい話なんだ。
 私の知り合いのニシン漁の船がたまたまサンフランシスコ湾で一頭のゴンドウイルカを見つけた。そのイルカはまるで捕まえてくれといわんばかりに船の横にべったりつけて併走して離れないそうだ。それで捕まえたらしい」
 館長はOKサインをして見せた。
「知り合いは私にすぐ連絡をよこしたよ、格安のイルカがいるんだがどうだってね。完全な野生だとかなり手がかかるが、船にべったりつけるということは人間や文明に対して警戒心がないってことかもしれない。私はいけるぞと思いすぐに取引したんだ。
 君にはそのイルカの担当になってもらいたい」
 理沙の顔がほころんだ。
「ありがとうございます。館長」
「どうやら古株のイルカたちとうまくいってないようだが、きっと新人同士ならうまくゆくに違いないと思ったんだ。期待してるよ」
理沙は館長と握手した。  

  ◇

 新入りのイルカは翌日午後にやってきた。
 荷台が水槽になっているトレーラーから担架状の布に包まれたままイルカは高さ25メートルの大型クレーンで吊り上げられた。
 それでも怖くないらしくイルカはじっと理沙の方を見たまま、プールの中に下ろされた。
 布を外してやった理沙にイルカはいきなり人懐っこく接近して横になった。
「はじめまして、私があなたの担当の理沙よ。よろしくね」
 するとそのイルカは理沙の言葉が解ったかのように頭を上下してキューウと鳴いた。
 理沙はその可愛さにイルカをハグした。
 瞬間にすべてが通じたような気がした。この子となら絶対うまくやってゆける確信が沸き起こった。理沙はプールサイドで見ていた館長に向けて大きな声で言った。
「マックスでいきまーす。この子の名前!」
 館長も他のトレーナーたちもサムズアップを送ってきた。

  つづく