信長天魔王 7章と8章

2025年1月26日

信長天魔王 上巻

 

信長誕生

 土田御前が信秀に身ごもったことを打ち明けたのは天文二年の蹴鞠会が清州城に移動して終わった八月頃であった。
「殿、授かりました」
 土田御前が羞じらいながら薄黄色の帯を手で押えると、信秀は目を輝かせた。
「おう、でかしたぞ、正室になった甲斐があったのう」
「殿の立派な跡継ぎとなりますよう、これから毎日さすって聞かせまする」
「ま、姫ということもあるが、俺もさすっておけば姫も今から男になるやもしれんな」
「ふふっ、そうなれば嬉しうございまする」
 信秀は早速、土田御前の腹に大きな手を当てて笑みを浮かべた。

 天文三年
 この年は睦月が閏月で二回あった。五月になって吉法師の誕生を迎えた。
 城中のお産は信定の頃より弾正忠家に仕える古参の侍女鹿乃野かのやが取り仕切る。
 その鹿乃野が信秀に土田御前のお産を始めると報せてくると、信秀は急に落ち着かなくなって、手持ち無沙汰の手に軍配を持ち、揺らしたり房を弄って長い時を過ごした。
 はて、名了丸の時はどうしていたろうと思い返すと、あの時は正室が気に入らなかったのでお産も気にならなかったのだ。
 結局、男がどうしていようとお産は出来る。お産の大将は女で、男は足軽以下の邪魔者なのだなと思いついたところで、遠くに泣き声がした。
 やや遅れてはたたと足音が駆けて来た。
 信秀は立ち上がって軍配の房を引っ張った。
「殿、おめでとうございまする、男子であらせられまする」
「よし、かかれ」
 自分でも意味がわからぬと思いながら早足でお産のあった間に入る。
「御前、でかしたな」
「殿、ありがとうございまする。殿がさすったおかげで男が生まれました」
「どれ、顔を見せてみい」
 信秀がお包みの顔を覗き込むと名了丸とよく似た顔があった。それはやはり愛くるしいと思えた。試しに右手の指を一本差し出すと、名了丸と同じくかはづの手の如く小さな手でこちらを必死に掴んで来る。
 信秀はにやにやとした。
 鹿乃野が褒める。
「目の辺りが二重で殿によく似ておられますな、きっと賢しい子となりましょう」
「わしにはまだわからんが、そうかのう。やはりそなたは赤子の目利きらしい」
「おそれいります」
 土田御前が尋ねた。
「殿、この子の名はなんとされますか?」
 信秀はさっき考え付いた吉丸にしようかと思ったが、改めて考えると漢字でも読みでも短いように感じた。
「そうよな、めでたいから吉の字に丸で吉丸にしようと思ったが、短いようだ。よし吉法師でよかろう。吉法師じゃ」
「ありがとうございまする、幸多そうな名にございます」
 土田御前が礼を言うと、一同が赤子に言葉をかけた。
「吉法師さま、おめでとうございまする」
「皆の者もご苦労であった、ようやった。これで弾正忠家もますます栄えようぞ」
 信秀はそう一同を労って左手を上げて、「あっ」と己が軍配を持って来てしまったのに気付いて笑った。

   ○

 しかし、それからすぐに困ったことが出来しゆつたいした。
 土田御前が吉法師に乳を飲ませようとしたところ、ことのほか強く噛まれてびっくりしたというのだ。
「まだ歯もないというのに痛いほどに噛まれました。今朝、乳をやった乳母も同じように申しております。今からこれではやがて歯が生えたならば乳をあげるのが難儀になりましょう」
 思いがけない訴えに信秀も困って、
「あの目利きの侍女はなんと申しておった?」
「さように噛むのが強い赤子は初めて聞くと」
「そうか。噛むのが強いとて病ではないし、医師に聞いても無駄であろうな。そうよな、今度、津島社にて聞いてみよう。何か知恵があるやもしれん」
「はい、お願い致しまする」

 津島牛頭天王社を訪れた信秀は社務所で禰宜の大橋重長に会った。
「これは殿、お参りありがとうございます」
「どうじゃ、お主の息子は息災かや?」
「はあ、お蔭様を持ちましてすこぶる元気でございます」
「実はな、わしの土田御前も赤子を産みおったのよ、吉法師と名付けたわ」
「ああ、そうでありましたか。これは社家あげてお祝いに行かねばなりませんな」
「それはよいのだが、ちと相談したいことがあるのだ」
「それがしにでございますか」
「というより、天王さまにお伺いをしたい」
「わかりました。まずはおあがりください。宮司に話をされてください」

 宮司と重長が信秀の話に耳を傾ける。
「どうもな、生まれた子がな、まだ歯も生えておらぬのに乳を飲む時に噛みつくのだ。それが痛いと土田御前も乳母も申しておる。歯がないうちからこれでは歯が生えたら難儀なことだと今から心配しだしてのう。古参の侍女もこれほどのことは初めて聞くと申しておるのだ」
 宮司は頷いた。
「それは心配なさるのも無理なきこと」
「といっても病ではないゆえ、とんとなす術が見当たらぬでの」
「それで天王さまにお伺いを立てたいということですか」
「うむ、吉法師についてどうすべきか聞きたいのじゃ」
 信秀が頼むと、宮司は頷いた。
「さすれば、早速に巫女舞にてご神意をお伺いいたしましょう」
 巫女舞というのはこの頃の神社ではよく行われた儀式で、巫女が舞いながら神懸かりしてご神託を降ろすものであった。

 拝殿の内に、端には太鼓や笛、銅拍子の楽部が座り、中央手前に水干と緋袴に千早を羽織った巫女が伏している。信秀は縁に近い部分で座っている。
 まず宮司が浄めの祝詞を挙げて下がると、巫女が進み出る。巫女の手には鈴のついた笹枝が握られていて、これは依り代とするものらしい。巫女はいかにも神職に仕えるらしい真面目でおとなしい顔立ちである。
 楽部が曲を奏で始める。短く息を吐く激しい曲に合わせて、巫女は右回りに回り出す。
 しばらくして、突然に巫女は左回りに回り出す。かと思うとまた右回りになり、これまたすぐ左回りである。
 さらに曲は速くなり、巫女の回る動きも速くなる。
(これでは見てるだけでこっちの目が回りそうじゃ)
 信秀がそう思った時、巫女は回りながら宙に飛び跳ねた。
 どんと床を踏んで顔を伏せ、さらに足踏みして信秀の方に近付いて来て、顔を上げた巫女は憤怒の恐ろしい表情だ。
 思わず信秀はのけぞりそうになった。
 そして少女の声とは思えぬ低く太い老婆の声で言い放つ。
「赤子は天魔王を呼ぶ子なり、遠くに置いて養うべし。何があろうと粗末にすな」
 巫女は引き返してこちらに背を向けたかと思うとその場に倒れた。
 重長が駆け寄って介抱にかかった。

   ○

 信秀は津島牛頭天王社でご神託を得たものの、意味を計りかねていた。
 宮司は「ようございましたな」と言ったが、何がいいのかわからぬではないか。天魔王を呼ぶ子を育てて弾正忠家に良い事が起きるとも思えない。

 勝幡城に戻った信秀は家老の政秀を呼んで事の次第を話した。
「ご神託は降りたもののまるで判じ物じゃ。政秀ならこの判じ物をいかに解く?」
 さすがの政秀も首を傾げた。
「天魔王を呼ぶゆえ、近くではなく遠くに置くというのは理が通ります。が、次の文言にて、それでも養わねばならぬ。何があろうと粗末にすなと云われます。天魔王を呼んでお家が危のうなったら困ります」
「うーむ、尾張一の知恵者の政秀でもこの判じ物は解けぬか」
「しからば今度は熱田社に行って、今一度、巫女舞にて神意を伺ってはいかがでございますか?
 さすれば明らかになるやもしれませぬ」
 政秀が勧めると信秀はようやく寄ってた眉を平らかにした。
「うむ、そうしてみよう。まだご神託の話は誰にも言うなよ」
「心得ております」
 政秀は平伏した。

   ○

 信秀は馬を駆って熱田社の大宮司季光を訪ねた。
「これは殿、法螺貝を鳴らして頂けばこちらから駆けつけますが」
 季光は臣下らしい軽口を寄こした。
「ははっ、さすがにここまでは届かぬであろうて」
 季光はすぐに信秀を奥の広間に通した。
「今日はまた新しき城のための下見旅でございますか?」
「うむ、それも気にかけておる。あれよ、今川那古野の城の立派なこと。当主はまだ十三で毎月、勝幡の蹴鞠会に嬉しそうに来ておるがの。この熱田を守るためと、あの城を落とすためと、丁度よい所に城を建てたい」
「私も殿から聞いて土地を探しておりましたが、どうやら古渡の辺りにさほど広くはありませぬが、よい土地を見つけました」
「古渡というと那古野城からどの方角じゃ」
「真南にございます。そして那古野城と熱田社の丁度真ん中になりましょう」
「遠いのか?」
「どちらへも一里ございません」
「それは良い、実に良い。大宮司殿、費えは後から払うゆえ、とりあえず買っておいてくれまいか」
「殿ならそう言われるかもしれぬと思い、もう手に入れましてございます」
 信秀はあっと口を開いて驚いた。
「さすがじゃ、参ったわ。わしの思いを読むとは、次は城の主になるか?」
「いやいや、それは困ります。一応は熱田社宮司が本業でございますれば」
「ふふん、海賊は退治した大将が、一応とな」
「おからかいは勘弁ください。殿の家臣になったと明かしますと、社の者たちからさんざん文句を言われましたので、のう?」
 丁度、そこへ茶を持って来た妻のまつに季光は話の柄を向けた。
「はい、もう海賊退治も山賊退治もやめてくだされ」
「はははっ、云われたものじゃ」
 信秀はまつが膨らんだ腹をだるそうにさするのを見て訊いた。
「もしや産み月がそろそろかや?」
「はい。二人目でございますが、あと三月ぐらいでしょう」
「そうか、実はうちも土田御前がな、昨日、我が子息を産んでくれたばかりなのじゃ」
 まつの顔がほころんだ。
「まあ、それはおめでとうございます」
「そのように目出度い話は一番初めにしていただかねば困りますぞ」
 季光に叱られて「まあな」と照れる信秀である。
「御幼名はどう付けられましたか?」
 まつに訊かれて、信秀はさらに照れて、
「うむ、吉法師としたわ」
「それは縁起の良い御名ですこと」
「良い御名ですな。熱田湊から皆で誘い合って津島に祝いに参りますぞ」
「うむ、それはありがたいことじゃ」

 しばらく笑い合っていたがまつが立ち去ると、信秀は笑いを収めて、
「そうであった、大宮司殿の本業の用事で今日は参ったのじゃ」
「そうでありましたか」
「実はな、その生まれたばかりの吉法師が嚙み癖が悪うてな、早速、土田御前と乳母が痛がってのう、これで歯が生えたらとんでもないことと心配してるのじゃ。古参の侍女もこんなに強く噛むのは初めてと言うての」
「それは心配になるのも詮無いこと」
「それで医師も役に立つまいと思うて、困った時の神頼みとばかり津島社の巫女舞で吉法師について神意を問うたのじゃ」
「ほー、巫女舞でご神託を」
「だが言の葉が少のうて判じかねての、中務卿がここは熱田でも巫女舞をお願いされるがよろしいと申しての」
 季光は目を見開いて頷いた。
「御賢明でございます。ひと社だけではご神託が読み解けぬことがままございますので、ふたつみっつと集めて判じる方はいらっしゃいます」
「大宮司殿、頼めるか」
「もちろんでございます。殿の御子なら弾正忠家とわが熱田社、津島社の行く末にも関わることゆえ真剣に執り行います」
「それにしても巫女舞を初めて見たが、あのおとなしそうな巫女が鬼のような顔になり、老婆の如き声になり魂消たまげたわ」
「それでこそ神懸かりですので、その点はお気になさらないでくださいまし」

 巫女舞の楽部と巫女は津島と同じように座っている。巫女は水干と緋袴に千早を羽織っていたが、ただひとつ違うのが、依り代が津島では鈴のついた笹枝であったのが、熱田では小刀に替わっていることだ。
 大宮司季光の祝詞が終わると、巫女が進み出て。楽部が曲を奏で始める。
 激しい拍子に合わせて、巫女は右回りに回り出し、かと思うと左回りに回り出す。この回転も津島の巫女舞と同じようであった。
 やがてこれ以上ないほど、速く回り出した巫女は、突然どんと足踏みしたかと思うと飛び跳ねた。
 そして信秀に振り向いた時は既に恐ろしい鬼のような顔になっている。
 鬼は信秀にどん、どんと二歩近付いた。
 困るのがこの鬼は小刀を持っていることだ。いかにご神託であろうと斬られては敵わぬなと信秀は身構えた。
 だが鬼はそこで止まり、やはり老婆の如き低い声で告げる。
「それは天魔王を呼ぶぞ。遠くに置けよ。やがてお家を天下一になす天魔王ぞ」
 巫女は振り向いてまた回り始めたが、それはもう速さが足りず、足がもつれて床に倒れた。

 季光が近付いて来た。いつもの柔和な顔が凍り付いたようになっている。
「殿、聞き届けましたか?」
「うむ。津島と似たところもあったが、我が弾正忠家を天下一になす天魔王とはな。これを喜んでいいのか、怖れて遠ざけたままにした方がよいのか。大宮司殿はなんと聞いたかや?」
「私は神に仕える立場ゆえ、神の言葉を良いとも、悪いとも判じぬことになってございます。これは殿に決めていただくしかないことでございます」
「であろうな」
 信秀は頷いて熱田社を後にした。

   ○

 信秀は熱田社のご神託をそらんじて家老の政秀と判じ物の続きを再開した。
 政秀は津島と熱田のご神託を半紙に並べて書いて較べてみた。

 津島牛頭天王社
 赤子は天魔王を呼ぶ子なり、遠くに置いて養うべし。何があろうと粗末にすな

 熱田社
 それは天魔王を呼ぶぞ。遠くに置けよ。やがてお家を天下一になす天魔王ぞ

「こうして並べますと、よくぞここまでというほど似ておりまする」
「まことにそっくりだのう。処し方まで同じことを云うには巫女二人がどこぞで会うか文で談合せずには難しかろうて。だが津島、熱田の巫女が昨日の吉法師の誕生を知っていたとは思えんのだがや」
「はい。似た神託がふたつ出たということは、神託はどちらも人の浅薄な謀事ではない、神界から見えた真事まことが降りてきたものということでございましょう」
「そうだの。すると吉法師は天魔王を呼ぶのじやな。それゆえ近くに置かずに遠くで育てねばならん」
「そうなりまする」
「して何が起きようと吉法師を粗末にしてはならん。やがては弾正忠家を天下一になす天魔王である。これは嬉しいと思いきや、やはり怖ろしきことぞ」
「物事は吉凶あざなえる縄と申します。戦なき世という殿の大願が成るならば、目をつぶれということやもしれませぬ」
 信秀は唇を噛みしめた。
「それを言われると大和守の正室を斬れなんだ己の温い心が思い出される。あの時、父上はわしが心優しきいぬゐの子ゆえ斬れずともよいのだと慰めてくれた。それが吉法師には出来るということじゃな」
「そういうことも含まれるやもしれませぬ」
「だが天魔王とはいかなる者であろうかの?」
 信秀が問いかけると、しばし政秀は顎髭をつまみ瞑目して答えた。
「拙者もその方面に詳しいわけではございませんが、南北朝の戦乱を書いた太平記に天魔王の登場するくだりがありました。
 仏教が広まると第六天の魔の眷属が減るため、第六天魔王は修行して悟りを開こうという者を妨害する。そこで天照大神あまてるおおかみは第六天魔王に妨害を緩めてもらわんと、余は仏教の三宝には近付かないと誓約された。すると第六天魔王は『未来の終わりまで、天照大神の子孫をこの国の王としよう。逆らう輩があれば我が眷属がその命を奪って罰する』と契約を書いて天照大神に返した、とのことで、
 この第六天魔王こそ神託の云う天魔王やもしれぬと思い出しました」
 信秀は大きく目を見開いていた。
「天照大神様に知行を安堵するとは、つまり日ノ本の真の主は第六天魔王であるということになるのか?」
「はい、そうなります」
「それにしても日ノ本の主が天魔王とは」
「はい、ただ魔と呼ぶのは仏教から見たからで、第六天魔王は人間道の欲望を浄化して生き物への慈悲や民への施しの心も大きく強い天部最上天の王でございます。
 しかもこの天照大神が第六天魔王にする誓約はただの読み物と片付けられる話ではありませぬ。宮中祭祀を司る中臣家にも伝わっており、そのためか伊勢神宮では民でも参拝できる正殿前に、僧侶や尼は入ることが許されず、ずっと離れた遥拝所に行って拝むしかないのです」

 信秀はうーんと唸り出して、だいぶ経ってから政秀に告げた。
「わしにも何とのう御神意が見えて来たわ。
 親の温もりから遠ざけられて育った吉法師は天魔王の如き気高くも非情な心根に育つのであろう。それゆえ温い心に育ったわしには出来なんだ、親戚縁者でも斬ることの出来るのじゃ。戦なき世の大願成就のために神が与えたもうた天魔王なのじゃな」
 政秀は大きく頷いた。
「まさにご賢察でございます」
「だが、温い兵法のわしとて大願成就のためには吉法師には鬼の如く酷くあたらねばならぬ。それは刀こそ用いぬが、我が子を斬るのと同じほど残酷ではないか?」
「たしかにそれは親には辛すぎよう決断になります」

 信秀はまたうーんと唸り出したが、今度はすぐ止んだ。
「政秀。ふたつ並んだ神託は本物の神託ということじゃったな。さらにその神託の遠くに置けということを助けるようなことがすでに起きておる。
 熱田社の大宮司殿がな、那古野城と熱田の真ん中にある古渡に土地を買うてくれたのじゃ。それでもうひとつ城を持てよう。これは神の用意された時の運が向こうから近付いて来ておるということだ。わしはこの神意に従うと決めたぞ。
 古渡に城を築いてそこに移り、勝幡城は吉法師に譲る」
 信秀の目にもはや迷いは浮かんでいなかった。

 

 

古渡城

 天文四年六月
 梅雨空の下、古渡に築城していた城がようやく完成した。南北は一町弱の五十五間ほど、東西は一町半弱の七十八間ほど。平城で防御に弱いのを補うため堀を二重に巡らせてある。
 真北に那古野城があり、南に熱田社があり、どちらも古渡城から一里に満たない三十町ほどの近さであった。

「どうじゃ、大宮司殿」
 門の上の矢倉で熱田社の大宮司千秋季光が外を眺めていると信秀が上がって来た。
「これは殿、立派に出来ましたなあ」
「二重の堀が珍しかろうて」
「そうですなあ」
「ここなら熱田までひとまたぎで行けるでの」
「那古野城もひとまたぎですな」
「はて、そんな城があったかの」
 信秀はとぼけて「さあて大宮司殿にわしの書院を披露しよう」と誘った。

 明り取りの障子があるので明るすぎる日中の書見には丁度良い。天井は格縁が縦横に走る格天井で、違い棚には見る者が見れば逸品とわかる硯と文鎮と香炉とが並んでいる。
「見事な造りの書院に、結構な道具を揃えられましたな」
 季光が褒めると信秀は笑った。
「わしはようわからんが、政秀に任せておけば、公家衆が来ても驚くような物を揃えてくれるでの」
「政秀殿ならこういう数奇物をようくご存知ですからな。誰に相談するより安心出来るというものでございます」
 信秀は思いついて訊いた。
「ところで大宮司殿は連歌はされるか?」
「連歌ならば湊の会衆に何人か数寄者がおりまして時々参加させられます」
「わしもの、時々しておるのだ」
 信秀がにやにやすると季光は驚いた。
「それはいささか意外でございました、では一度会衆の連歌会にお誘っ……はっ、ああ、さてはお相手がこれということですか?」
 季光が小指を立てて見せると信秀はいよいよにやけた。
「惜しいな、当ててみよ」
 季光は思案顔に皺を増やした。
「そう言われましても、ちと難しうございます」
「先刻もわしはその方のことを秘めたものよ」
「はて、うーん、わかりませぬ。降参いたします」
 信秀は得意顔になる。
「那古野城の若、竹千代殿よ」
 季光は目をはちやはちと瞬いた。
「あっ、なんと……」
 よりによって、攻め取ろうというあの城の若君と連歌とは思い付く筈もない。
「ほれ、先年の蹴鞠会で仲良うなっての、たまに勝幡城の蹴鞠会や歌会に来ておったが、そう足繁くは来られぬようで春からは文箱ならぬ扇箱に歌を入れて連歌をやりとりしてるのだわ。さすがに勝幡では遠くて運ぶ下人が難儀ゆえ、清州と那古野の間でな」
「それでは城の秘密もうっかり漏らしましょうな」
「ふふ、それが目当てよ」
 季光はやはり弾正忠の殿はただ者ではないと感心するのであった。

 そこへ三人の侍女が台を捧げて茶碗ふたつと土瓶が運ばれて来た。
 季光の前に茶碗が置かれて土瓶で茶が注がれる。
「こんなところを政秀に見つかると無骨すぎますると叱られそうじゃがな。気の短い武家に足利将軍のような雅びな点て方の茶は向かんでの」
 季光は茶碗を手に取り茶を飲んだ。
「結構なお茶ですな」
 そこで信秀は大事なことを思い出した。
「さて、茶も飲んだし、例の熱田湊の会衆のことじゃ。
 城が出来たゆえ何かあればすぐに駆けつけられるようになった。ついては会衆を口説いて織田弾正忠家に取締りを任せてくれるかの」
「わかりました。我らも殿が睨みを聞かせてくだされば安心できます」
「うむ。それでこそ、ここに城を構えた甲斐があったというものじゃ」
 信秀が笑みを見せると、季光は頷いた。

 思い出して季光は口調を変えて伺いを立てた。
「差し出がましいことなれど、殿がこちらに入られたとなると吉法師殿は勝幡城に残されたということでございますか?」
「うむ。わしも悩んだがな、そなたが土地を買うてくれたのも御神意の導きじゃと気付いたところで決心したわい」
「そうでありましたか」
「気になることもあるからのう、傅役としては次席家老平手政秀を勝幡に在城させ任せることとした。じゃが政秀をこちらに呼ぶこともあるゆえ、首席家老林佐渡守と青山与三右衛門、内藤勝介を補佐にあてた。さていかがなるかのう。大宮司殿も何か気付いたことあらば教えてくれよ」
「そうでございますか。頼もしい傅役を揃えられましたのでまずは安心でございますなあ」
 そこで信秀は先年、祝いに行き顔を見た赤子のことを思い出した。
「おうそうじゃ。大宮司殿の方の倅は息災かの?」
「ありがとうございます。お蔭様で大いに這い廻っておりますゆえ、いずれは殿の馬廻り衆に仕官する気やもしれませぬなあ」
「はははっ、親子で海賊退治もよいかもしれんのう」
「ははは、嫁には内密に頼みまする」
 二人は声を上げて笑った。

   ○

 吉法師への心配はいよいよ由々しき次第になってきた。早くも歯が生えてきたからである。
 勝幡城の書院に政秀が詰めて文を書いていると、鹿乃野の声がかかった。
「中務卿殿、よろしいでしょうか」
「はい。お入り下され」
 襖が開く音がして、文机から政秀が向き直ると、鹿乃野は伏してた顔を上げた。
「中務卿殿、また乳母が辞めたいと申しています」
 政秀は思わず溜め息を吐いた。
「またでございますか? 前より早いではないですか」
「早いと申されますが、手前は乳母の乳首から血が垂れておるのを確かめました。もう続けさせるわけには参りません」
 乳母には家臣や津島の社家から赤子のいる者に頼んでいる。当然、選ばれて来たものは殿様の御子なのだから我慢してでも続けて差し上げなければという気持ちなのだが、その乳母が乳首を噛まれる痛さに十日ももたずにどうか辞めさせてくれと涙ながらに訴えるのだから深刻である。
 これには鹿乃野も知恵者の政秀もお手上げであった。
 なんせ乳を飲まなければ体が大きくならないのだから、将来の大将には何を置いても乳を与える乳母が必要なのだ。
 箸を添えて乳首を守ったらどうかと試すと、乳をよく吸えなくなりいよいよ吉法師の泣き声が大きくなる。ではと乳房に穴を開けた布を被せてみたものの、それもうまくはゆかなかった。

「午すぎには家臣どもが新しい乳母を見つけてくるやもしれません。それまでなんとか絞った乳でしのいでくだされ」
 今や家臣、社家から探すだけでは足らず、それらの親戚筋にまで手を広げて、なんとか乳母の成り手を探し出そうと政秀の家臣達が走り回っているのだ。
「しのいでくれと云われますが、無理に絞って一度冷めた乳は鍋で温め直してもまずうございます。中務卿殿も赤子の頃には人肌の乳を直に飲んで旨かったことを覚えておいででしょう?」
 政秀は鹿乃野の苛立ち紛れの問いに苦笑するしかない。
「とにかく今しばらくしのいでくだされ」
 鹿乃野を返して、仕事の合間にも乳母が見つかるようにと祈っていた。

 すると、ありがたや、夕方になって政秀の長男長政が女を一人連れて来た。
 後はそのおどおどしたおなごを鹿乃野が茶菓でもてなしながら、痛いと思うがどうか我慢して続けてくれと、聖でも拝むように手を合わせながら吉法師を抱かせるのであった。

「五郎右衛門、ようやってくれた。助かったぞ」
 政秀が褒めてやっても長政はさほど喜びは見せず、
「今度もそう長くは持ちますまいから、また探して参ります」
 と、返す刀で次の乳母を探しに雨の中を出て行くのだ。
 政秀は心の中で(奉公ありがたいぞ、だがこの務めには終わりがある。吉法師殿も乳離れの時が来るからな。今しばらくの辛抱じゃ)と礼を云うのだった。

   ○

 一方、古渡城に移った信秀と土田御前は吉法師への心配に背を向けたことでしっかりと眠れるようになった。土田御前には巫女舞の御神託については天魔王を省いて、遠くで育てるがよいと言われたので離れて暮らすのだと告げてある。
 夕餉を共にしながら信秀は土田御前に訊いた。
「御前、身体の具合は良いかや?」
「おかげさまでこちらに参って良うなりました。吉法師にはすまぬなれど、ああ癇が強うては乳をやらずとも耳にこたえて辛うございましたゆえ」
「ふふふ、今宵は子作りに励もうぞ」
 信秀が云うと、土田御前はみるみる頬を真っ赤に染めた。
「あれ、夕餉からかように言い出されては恥ずかしうございますに」
「楽しみじゃわい」

 湯殿で湯を浴びてさっぱりとなった信秀が湯帷子姿で土田御前の部屋に行って侍女を呼ぶと、「御前様はただいま湯殿をお使いでございますれば今しばらくご猶予を」と言われて書院に戻った。
 文机の扇箱を開いて、連歌の紙を取り出した。信秀と竹王丸の句は既に百韻と呼ばれる百句を越えて二百句が近付いた頃だ。次に目指すのは、百韻を十編集めた千句というのが当世の流行りらしい。
 
竹王丸の句をしばらく眺める。

 梅雨晴れの 鎧紐解け 蝸牛かたつぶり

 竹王丸殿、まだ童っぽい句よのう。かと言ってこちらもこれにうまく付けるほどの才もないのだでのん。
 独り言ちながら考え込むんだ信秀だが、良い句が全く思い浮かばない。そこで信秀は困った時の知恵袋に聞いてみようと、
「誰かある、政秀をっ……」
 そう呼んでしまってから、政秀が傍にいないことを思い出した。
 顔を出した小姓に「なんでもない、下がってよいぞ」と云ってやる。
 いよいよ良い句は浮かばず、竹王丸の句の隣に新たに句を書きつけてやる。

 更けての霧も 湯気と思ほゆ

 並べてみると竹王丸の句が素直さが溢れて断然佳い句に思える。
「えいままよ、下手はへたが鳴る瓜なりとな」
 信秀はそのまま扇箱に放り込んで蓋をした。
 信秀が竹王丸に扇箱を送ると、翌々日には清州城に下人がやって来て竹王丸からの扇箱を手渡すのが常だった。

   ○

 清州城での信秀は先年の謀反のため恐れられたようで、もはや他の者から離され片隅の狭い部屋に追いやられて、従者数名とひっそりと過ごしている。
 署名が必要になると、大和守の家臣が書面だけ持って来て、署名が済み次第すぐ帰るという具合である。
 その日は大和守の家臣がやって来て下人の来訪を告げた。
 信秀はそういえば竹王丸の扇箱がいつもより遅れておるからそれだなと気付いて市左衛門を玄関に受け取りに行かせた。
 すると下人の手に扇箱はなく、代わりに書状を取り出して奉じたという。
 信秀は市左衛門から書状を受け取って何かあったのかと訝しみながら開いた。

 
 弾正忠殿
 先日は付け句を頂きまして真に有り難く思います。
 弾正忠殿より頂いた句にまた句を付けてお返ししようとしておったのですが、使者が小田井の川辺を歩いてゆく時に足を滑らせて、いつもより深い川の流れに大事な扇箱を落とし流してしまったのです。
 あと十数句で二つめの百韻でしたのに、あまりに申し訳なく思います。
 私は弾正忠殿との連歌の付け合いが待ちきれなかったのに、このような事があるとは思いもよらず、深く愁嘆に暮れております。
 つきましては、弾正忠殿にあらせられては、十日ぐらい我が那古野城にご滞在頂いて、安心して連歌を楽しみませぬか。
 重ね重ねお願い申し上げます。 恐惶謹言
 六月廿一日 佐馬助竹王丸

 信秀はにんまりとした。
「どうやら扇箱を川に落としたようじゃ。わしに十日ぐらい那古野城に滞在して連歌をやろうと誘って来たわい。可愛いやつよ」
 従者たちが揃って笑い、市左衛門が云った。
「これで城の内の様子が労せずにわかりますな」
「神がわしらに味方しておるのだで、ありがたいことよ。宗兵衛、使いを頼む」
「はっ」
「勝幡まで行って政秀に近いうちに古渡まで来いと伝えてくれ。やはりわしも茶の湯をやりとうなったゆえ師匠を探せとな」
「では早速に、御免」
 蹴鞠といい、連歌といい、竹王丸はすっかり数奇者に憧れてると見抜いて、実際に会うならば茶湯に通じておいた方がよいと信秀は考えたのだった。

 

つづく


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