大江戸怪異空飛ぶ吸い口

徳川家康の天下統一から二百年、幕府の幕府の財政は次第に逼迫
し、十代家治時の田沼意次による改革に続いて、十一代家斉は松平
定信に寛政の改革を実行させた。
しかし改革は家斉にとっても窮屈すぎて家斉は松平定信を罷免、
子の家慶を世継ぎに指名したものの、家斉は実質的な権力をなかな
か手放さなかった。

お世継ぎ家慶は苛立った高い声で水野忠邦を呼び出した。
「和泉、和泉の守はおるか」
茶坊主が襖を開くと水野は急いで家慶の前に出座する。
「上様、お呼びでございますか」
「近う」
水野は衣擦れの音を立てて近寄り平伏する。幕閣には父家斉の息
がかかった天保の三侫人がおり、家慶が心許せるのは以前より西の
丸老中として仕えている水野忠邦だけであった。

「他言無用の事じゃぞ」
水野はまたかと思いながらも「ははっ」と畏まる。
「昨晩のう、面白き夢を見たぞ。
例の煙管(キセル)の吸い口の化け物がまた出たのじゃ、あれが
のう空を飛んで来て西の丸の窓のすぐ横に止まって浮いておった。
黄金色に輝いて見事であったぞ。
どうじゃ、和泉も見たいであろう?」

聞かれた水野はついうっかり家慶の顔を見返してしまった。
家慶は小柄なうえに頭が大きく、さらに顎が尖っていたので、じ
っと見詰めていると何やら異界よりの訪問者の如く思えるのだ。
家斉が子の家慶を軽んじて今も実権を手放さないのはこの容姿も
理由かもしれない、と水野は考えている。

「どうじゃ、見たいか?」
「是非見とうございまする」
「これほど幾度も見るという事はどこぞにきっとおるのじゃ。そう
思わんか?」
「はっ、天下のお世継ぎの夢枕に立つからには何ぞあるに違いあり
ません」
「和泉もそう思うか。では探索させるがよい」
「探索?でございますか?」
「幕府は全国津々浦々に諸藩監視の隠密を放っておるのであろう。
その者たちに仕事のついでに空飛ぶ吸い口について調べさせれば済
む話じゃ」
水野は眩暈がしそうになった。隠密たちにどう説明しろと言うの
だ? もちろんお世継ぎの御命といえば逆らいはすまいが、無意味
な探索で家慶への忠節が揺らいでは却ってまずい。

「言葉だけでは説明も難しかろうと思い絵をしたためてやったぞ」

家慶は半紙に茶色、黄色の岩絵の具で、空飛ぶ煙管の吸い口を描
いたものを寄越した。円筒形の下は影を描き加え立体感を出してあ
って、小さい頃より絵が何よりの遊びであったのだと知れる。

「なかなかお見事なお筆使い、敬服いたしましてございます」
「うむ。和泉、是非ともこの空飛ぶ吸い口の居場所を突き止めてく
れよ。そして余を連れて行き、それに乗せてくれれば、この世の最
も大事なる事を体得できる筈じゃ。和泉ならわかるであろう?」

そう言われても少しもわからない水野だが、ここは平伏するしか
ない。
「ははー、必ずや見つけさせまする」

翌日、水野忠邦は品川にある北本宿に駕籠で出かけた。
料理屋の主人に挨拶してそそくさと二階に上がると待っていた人
物が畳に手をついて深く頭を下げた。
「よいよい、頭を上げよ」
「はっ」
「かような遠方に呼び出して済まぬな」
「いえ、和泉守様の御命とあらば何処でも参ります」
顔を上げた男は三十代半ばの安藤重右衛門、父の死後、火消同心
の職を継いだが絵心を絶ちがたくついに歌川豊広に師事している。
「うむ。重右衛門は絵描きになっても徳川への忠節を忘れぬ武士じ
ゃな。まことに心強い限り。
さらに絵の腕も相当な逸材と聞く。そろそろ絵でも世に知られる
頃かと思うがいかが?」
「はっ、師匠から一字頂き歌川広重と名乗り、号は一遊斎と定め、
世を唸らせる絵を描きためておるところにございます」
「それはよい。世に知られた時はわしも祝儀に何部か求めよう」
「はっ、ありがたきお言葉」

「その前にちと頼まれてほしいのだが」
「はっ、なんなりと」
「絵を描いてほしいのだ」
「何の絵でございましょう…」
「家慶様にあっては幾度と夢の中で、黄金色の煙管の吸い口を大き
くした物をご覧になられて、ご探求の思い甚だ大におなりなされて
のう。隠密を使ってでもその居所を探して参れとのことなのだ」
「はあ」
「しかし隠密にかような探索をさせるわけにもいかぬ。そこで、ど
うであろう、重右衛門に旅をしながら探索してくれぬか?」
重右衛門は困惑した。
「そう言われましても、そのように雲を掴むような漠たる話では」
そこで水野は懐から半紙を取り出して広げた。
「これが家慶様直々に描いた空飛ぶ吸い口の絵じゃ。もちろん路銀
はこちらで贖う。お主も絵を描きためておると申したが、江戸にい
ては江戸しか描けまい。江戸の民は江戸より外の様子を知りたいに
違いない。これは重右衛門にもよき機じゃぞ」
重右衛門は家慶の空飛ぶ吸い口の絵をじっと見詰めた。
「重右衛門、どうじゃ?」
「和泉様、この絵には家慶様の並々ならぬ想いが浸み込められてお
りますな」
「ほう、門外漢のわしにはようわからんが、重右衛門が言うなら間
違いなかろうな」
「はい、結果が出せるかはわかりませぬが、重右衛門、謹んでこの
お役目を引き受けさせていただきます」
「おう、受けてくれるか、わしも家慶様より探索を命じられた手前
何もせぬわけにはいかぬから重右衛門に頼んだが、結果まで求める
は酷な話だとは承知しておる。しっかり絵の滋養といたせ」
「ありがたきお言葉」
「それからの、あまり上手に描いては怪しまれる。当代一流の歌川
広重とはわからぬようにな。あくまで間に合わせに描いた風でのう
てはお上も絵師に頼んだと気付いてしまわれる」

かくして安藤重右衛門こと歌川広重は東海道五十三次をめぐる旅
へと出立したのであった。

半年ほど経たある昼下がり。水野はいそいそと家慶の居室に上が
った。

「和泉の守、どういたした?」
水野は式台を家慶に差し出した。
「ようやく空飛ぶ吸い口が見つかってございます」
「やっ、まことか。早う見せよ」
式台から絵を持ち上げて家慶に渡すと低く歓声が漏れた。
「これはこれは得難い景色に浮かびあるかな」
山奥の道が橋のようになっているあたり、空に黄金に輝く煙管の
吸い口が浮かんでいる。

山奥の空飛ぶ吸い口

「これはどこじゃ、早速、旅の手配をいたせ」
「隠密が申しますには、信州から甲州への境あたりだそうですが、
実際に目にしましたのは絹問屋の主にて、空に一時も浮かんでおっ
たのが、俄かに動き出して江戸に向かって飛び去ったと申すのでご
ざいます。しからば江戸にて見つかりましょう」
「そうか。でかした」
家慶は大喜びして食い入るが如く空飛ぶ吸い口の浮かぶ絵に没頭
し始めた。

水野は家慶の言いつけ通り江戸城から空飛ぶ吸い口を見張る役を
手配するとこれで一件落着と安堵していた。

ところが再び家慶が難題を吹っかけてきた。
「和泉の守、空飛ぶ吸い口が江戸のどこへ来るかわかったぞ」
そう言われて水野は目が点になった。
「ど、どういうことでございますか?」
「この絵は絵解きになっておるのじゃ」
水野はぐっと息を飲み込んだ。それは歌川広重に描かせた適当な
もので、絵解きなどあるはずもない。
「この橋はな、江戸湾手前にある三股の水路なのじゃ。奥に虚無僧
が二人見えるのは橋じゃ。右が永代橋、左が萬年橋。その中間に男
がおってここだと言わんばかりに杖で地面を指しておる。この空に
吸い口はやって来るぞ、間違いない」
「そうでございますか。私には今ひとつ得心できませぬが」
「余が読みに読んで解いたのだ。そちが片手間に眺めて解ける筈も
ない。それは許す。ここに来ると決まったからにはここに櫓を立て
て空飛ぶ吸い口を迎えるのじゃ」
「櫓をでございますか?」
「そうじゃ場所は萬年橋寄り。あの辺りには火の見櫓があったな、
その隣に、火の見櫓の三倍の高き櫓を立てるのじゃ」
こうなったら止められそうにない。そう決めると水野は素早く考
えをまとめた。
「わかりました。しかし、大殿はお許しになりましょうや?」
「うーむ、そこは難しいのう。和泉の守、よい知恵はないか?」
「されば大殿が鷹狩か墓参りで遠出なさる折で吸い口が来そうな日
に一夜で立てて翌昼までに取り壊してしまえば知られますまい」
「うむ、それは名案じゃな」
「されば空飛ぶ吸い口の来る日はいつでございますか? これは一
番お詳しい殿なら解ける筈かと思います」
水野は家慶に難題を返してもし見えなくてもあきらめるよう仕向
けたのだった。

大殿家斉は川越に鷹狩と寺参りを兼ねて出かけた。江戸城に帰る
のは三日後である。

火消し櫓の隣では短く作っておいた部品を大急ぎでつなぎ合わせ
て、空高く組み上げた。完成したのは日が沈んだ頃だ。

「よいな、お主は次の梯子、次の梯子に命綱をくくりつけてからお
世継ぎ様に合図するのだぞ」
「はっ、命にかえても」
「よいな、万が一でもお世継ぎ様が足を踏み外さぬよう、手で押さ
え申し上げて梯子を登らせ給うのだぞ」
「はっ、命にかえても」
「よいな、お世継ぎ様の手元を常に明るくするよう照らすのじゃ」
「はっ、命にかえても」

皆が必至の形相で答える中、当の家慶は空飛ぶ吸い口を迎えるの
がよほど嬉しいらしく上機嫌だ。
「まあそのように気色ばむな、櫓に登るだけじゃ」

袴では梯子に絡まって危ないとの配慮で家慶は忍者装束に身を包
み、上下に四、五人の近習と鳶に守らせ、目も眩む高さの櫓に登ら
せてゆく。
水野は年齢もあり登れないが、もちろん万が一が起きれば、切腹
を覚悟して小さくなってゆく家慶一行を眺める。

やがて手提げ行灯が丸く振られた。どうやら最上段に到達したよ
うだ。家慶はそこで一刻留まると言っていた。この日がよいと言っ
たのは家慶である以上、これで何も訪れなくてもあきらめてくれる
だろう。

ともかくもあとは無事に降りるだけだ。
そう水野が考えた時、なにやら黄金色に光るものが南の方から櫓
に近づいて来た。
「あれは何じゃ!」
「奇怪でございます」
「誰か、鉄砲はあるか?」
「そのような心積りはございません」
「至急、城に行き、鉄砲隊を連れて来い」
櫓のすぐそばにまで来た光り物はそこでじっと宙に浮いた。形は
まぎれもなく煙管の吸い口を大きくしたものだ。
櫓の上で(殿、危のうございます)(殿、おやめ下され)という
声が響いている。
(ああ、命綱が勝手に)(殿、手をしかとこちらへ)
「ああ、殿が吸い口に吸い込まれましたぞお」

そう聞こえたが櫓の下ではどうにもならない。仮に今から鉄砲隊
を上げたところで、足場の悪い急造櫓の上でまともに撃てるかさえ
わからない。それに撃って家慶に当たったらもっとまずい。

水野は切腹を覚悟して屋敷に使いを出した。

ところがまもなく声が叫んだ。
「おお、殿が戻られましたぞ」
同時に空飛ぶ吸い口は南に飛び去った。

やがて降りてきた家慶は、行きとは打って変わったように沈み込
んでいた。

「上様、何ぞ恐ろしき事がありましたか?」
「いや吸い口の中は怖くないがの、怖いのは幕府の明日じゃ」
「明日、何かがありますか?」
「そうではない。五十年先の明日じゃ。
和泉の守よ、人は己の事ばかり気にかけ正しき事をいたさず、戦を
行おうとするのう。残念至極」
駕籠に乗り込むと家慶は何も語らなくなった。

東海道五十三次が大評判となり多忙の歌川広重に代わって歌川国
芳がこの時の「東都三股の図」を描いている。
但し、櫓の隣に空飛ぶ黄金の吸い口が描き込まれたのはごく少数
であった。

東都三股の図

三股拡大

 

浮世絵に描かれた空飛ぶ謎の物体から着想したお話です。

 

家慶は歴代将軍の中でも推定身長は154センチメートルと小柄で
頭が大変大きく、六頭身で顎が長かったそうです。
まさか宇宙人グレイの血が入ってたのかとも想像しました。
家斉もですが家慶は大奥作業?は得意でしたが、14男13女を儲け
たものの殆どが早世し、20歳を超えて生きたのは家定だけ。

最初の絵は広重にそっくりなのがあります。

六十余州名所図会63

『六十余州名所図会』、竪大判で70枚揃物歌川広重作
63番肥後五ヶの庄の図に同じ構図があるのだが、そちらにもさ
っと見ると木の折れた幹に見えるが、よくよく目を凝らすと明ら
かに腕がある影二人が描かれている。
写実力のある広重が何故、この影人物を入れたのか全く不明。

どうしても入れたい特殊な理由があったわけだろう。
逆に言うと先行した吸い口の絵があったのでそれを真似た?