クレオパトラと蛇使いの少年

紀元前45年6月。
カイロの北西にあり海に面しているアレクサンドリアは、地中海の真
珠と呼ばれた古代エジプトの首都である。
その街の広場で赤銅の肌に白い麻布を腰に巻いただけの少年ユースフ
が父ムスタファーの隣で太鼓を鳴らす手伝いをしていた。
父の仕事は蛇使いだ。

ユースフはコブラの様子に気を配りながらコブラが興奮するように仕
向ける役だ。もっともコブラの方では耳がないから父の吹く瓢箪笛もユ
ースフの鳴らす太鼓も聞こえるわけではない。コブラが反応するのは太
鼓のバチから地面へと伝わる振動であり、父が揺らす瓢箪笛の威嚇のよ
うに見える動きなのだ。

コブラはユースフの太鼓の振動に苛立ちを見せ、口から赤い舌をチロ
チロと覗かせて父の揺らす瓢箪笛に敵意を向ける。
少し距離を置いて観客たちが眺めている。観客は心の中でもしかした
ら蛇使いが咬まれるのではないかと期待しているのかもしれない。
時々、コブラが威嚇のために首を素早く突き動かすと、観客からどよ
めきが起きる。

もちろん蛇使いは少しも慄いたりはしない。
蛇使いの種を明かせば、毎朝、二股の枝に張ったワニの腹の皮にコブ
ラを咬み付かせて毒を吐き出させてあるのだ。その一番神経を使う作業
の毒抜きも今では十五歳のユースフに任されており、父は傍らで見守る
だけになっていた。

やがて曲が終わり、父が笑みを浮かべてコブラを籠の中へ仕舞い込む
と観客が一斉に喝采を送った。
アレクサンドリアはもともマケドニアの王アレクサンダー大王がオリ
エント各地に開いた町の名前だが、一番繁栄しているのはこのエジプト
のアレクサンドリアだろう。だから各地から人々が集まり客もそこそこ
集まるのだ。おかげでユースフの差し出すザルにはいくつもの小銭が投
げ込まれる。いつもと変わらぬ風景だ。

だがその日はそこから後が違っていた。観客の後ろから槍を持ち革の
腰巻きをつけた憲兵三人と役人が現れて父をいきなり捕えたのだ。
父は抗議する。
「一体、俺がどんな悪いことをしたというのだ。俺は監督官からちゃん
と許可を貰ってるんだぞ」
父は監督官にささやかな賄賂を贈っているから問題はない筈だった。
「父さんから手を離せ」
ユースフも言うが役人は面倒そうに命令する。
「いいから、お前は蛇を持ってついて来い」
武器を持った屈強な憲兵に逆らえるわけもない。

父とユースフは引き立てられるまま大きな門をくぐった。
「ここは?」
ユースフが聞くと役人が脅かすように言った。
「女王陛下の宮殿だ。無礼をしたら、すぐに頭と胴が離れて二度とくっ
つかないぞ」

扉が開き別の役人が現れた。父を連行して来た役人はかしこまった。
「蛇使いを連れて参りました」
「ご苦労、衛兵、代われ」
父は憲兵から衛兵へと引き継がれて新たな役人に先導されて一行は宮
殿の奥に進んだ。
通路には絨毯が敷かれてあり、薔薇の香りが立ち込めていた。
さらに進むとファロス島の大灯台の全体が一望できた。高さは134
メートルもあって、伝説のバベルの塔より高いというのがアレクサンド
リアっ子の自慢だ。これを凌ぐ建物など千年経ってもできないだろう。
ユースフがファロス島の大灯台に見とれながら歩いていると不意に衛
兵に肩を押され地べたに突き落とされるように崩れた。

「控えよ。クレオパトラ様だ」
壁だばかりと思ってた上を振り向くとそこに高さ三メートルほどのバ
ルコニーがあり、そこに黄金の寝椅子にもたれている女性がいた。頭に
は金と宝石を散りばめた冠をつけ、眉の下に緑とピンクのシャドーを入
れて大きな瞳がこちらを眺めおろしている。
ユースフは息を呑んだ。

テラスのクレオパトラ

 

なんてきれいなひとなんだ。

ユースフの知る女性と言えば母と姉以外では市場で出会う女たちだ。
中でも布売りの露店を手伝っているハディージャはユースフに声をか
けてくるつぶらな目をした可愛い少女だが、それでもこの女王陛下には
はるかに及ばない。
女王陛下の顔立ちは色の濃いエジプト人ではなくギリシャの血を引い
て色白で美しかった。アレクサンダー大王の臣下だったプトレマイオス
が征服地エジプトの監督を命じられて古代ファラオの王朝をそのまま引
き継いだため色白なのだ。
クレオパトラはラピスの青い縁取りのついた金の板を並べた首飾りの
下、胸に当たる部分は薄い布だけだ。傍らに侍女がいて大きな団扇で風
を送っている。そのせいで薄絹がゆらゆらと揺れて胸のふくらみや乳首
が透けそうで、ユースフは思わず唾を飲み込んだ。この時代、女の子や
動きやすさを優先される奴隷たちは乳を露出しているが、このように胸
の透けそうな服を着ている女性はあまり見たことがない。おそらく北の
種族のクレオパトラにとってエジプトは暑すぎるためだろうが、ユース
フは最近、目覚めだした男心を擽られるように感じた。

父は恐る恐る訴えた。
「お、畏れながら、女王陛下、私は捕まるような覚えはありません」

クレオパトラは父を無視し寝椅子に半分凭れかかったまま聞く。
「蛇は何年扱っておる?」
高い平板な口調でクレオパトラの目は遠くを見つめている。

「へ、へい、ガキの頃からです、十年をみっつ重ねたより多い筈でさ」
「では、これよりお前は毒物研究所に移り住み仕事をするように」

アレクサンドリアの施設といえば世界中から石版や書物を集めた図書
館が有名だが、王立毒物研究所という施設もあった。つい4年前までは
共同統治者たる弟のプトレマイオス13世が管轄していたのだ。
その後、弟は姉クレオパトラと対立し内戦状態に陥り、アレクサンド
リアを訪れたローマのカエサルが調停役を申し出てくれた。
だが形勢不利だったクレオパトラはアレクサンドリアに近づくことす
らできずにいた。そこでクレオパトラは一計を案じた。
カエサルが女王からの貢ぎ物の絨毯を開いて検分しようとするとその
中からなんと美しい女王本人が現れた。こうしてクリオパトラは美貌と
機知でたちまちにしてカエサルの心を鷲掴みにしてしまったのだ。
大勢は逆転して、やがて弟プトレマイオス13世は戦死する。弟は戦闘
する前にクレオパトラに利用されるのを恐れ、王立毒物研究所を破壊し
職員は殺され施設は放棄されていた。

クレオパトラはそのいわくつきの毒物研究所を再建しようとしている。
もっともその仔細を蛇使いの父子に教える者がいる筈もなかった。
「そんな急に言われましても妻もおり……」
父が言うのを役人が遮った。
「口答えすると叩き殺すぞ。お前ら家族全員で移り住め、いいな」
「へ、へい、わかりました」
役人の言葉に威圧されて父は承諾した。
そこへクレオパトラが再び声だけかけた。
「その息子は研究所から宮殿まで日参させるのだ」
「へ、へい」

その日のうちにムスタファー一家は王立毒物研究所の敷地内に引越し
た。
翌日、父は書記官に叩き起こされて、各地から集められて来る蛇を籠
に移して分類するという作業にあたった。ユースフも手伝ったのだが、
昼頃に役人から宮殿に毒を抜いていない毒蛇を一種類持って行けと命令
された。たまたま近くにあった籠を手にしてユースフはクレオパトラの
宮殿へと向かった。

衛兵たちはユースフをはやし立てた。
「女王陛下に呼ばれるなんてお前は果報者だぞ」
そう言われてユースフは素直に頷いた。大道芸人の息子が女王陛下か
ら声をかけられるなんてことはまずあり得ないことだ。それもこれから
毎日なのだ。昨日は恐怖もあって落ち着かなかったが今日は夢見心地で
ユースフは宮殿の奥に進んだ。

クレオパトラは昨日と同じバルコニーの黄金の寝椅子に寝そべりなが
らユースフに言った。
「今日はなんという毒蛇を持参いたした?」
昨日より時刻が早く太陽が高いので、冠や首飾り、腰飾りにあしらっ
た金がきらきらと輝きまばゆいばかりだ。そしてクレオパトラの薄絹か
ら形の良い乳房が透けて見えてしまうのがユースフをドキドキとさせる。
クレオパトラの大きめの瞳と目が合うとユースフはどもった。
「は、はい、絨毯蛇です」
「ほお、面白い名じゃ」
「その、父は模様が大きくて絨毯のようだろ、だから絨毯蛇と呼ぶんだ
と言ってました」
クレオパトラは黄金の寝椅子から身を乗り出した。
「その模様を見せておくれ」
ユースフは籠の蓋をそっと取ると慎重に蛇の姿勢を見極めて素早く蛇
の頭の後ろを捕まえた。そして高台から見下ろせるように蛇の頭と腹を
引っ張って伸ばして見せた。コブラのような大きなえらのないクサリヘ
ビの仲間だが猛毒を持った蛇だ。
「おお、たしかに。色付きはともかく模様は見事じゃ」
「はい」
「さて、ここからがお前の仕事じゃ。これから衛兵が連れてくる男をそ
の蛇に咬ませるのじゃ」
ユースフは耳を疑った。美しいクレオパトラの口からそのように恐ろ
しい命令が発せられるとは。蛇を持つユースフの腕に鳥肌が立った。
「そんなことしたらその人は死んでしまいます」
「それを確かめたいのじゃ」
「いけません。女王陛下のように美しい方がそんな残酷な」
ユースフはまるで自分の助命を哀願するかのように訴えた。ユースフ
にとってクレオパトラはひと目で憧れの女性となっていたのだ。その憧
れの女性に残酷なことをしてほしくなかった。
ホホホッとクレオパトラは笑った。
「お前はまだ子供ね。蛇を籠に仕舞って、脇の階段からこちらへ登って
おいで」
傍に仕える侍女が「女王陛下、あのような下世話な者をお近づけにな
りますな」と精一杯の苦言を呈した。が、クレオパトラは「構わぬ」と
却下する。

ユースフが高台に上がると、クレオパトラが「もっと近う寄れ」と手
招きする。
ユースフはクレオパトラに「もっと、もっと近う」と招かれるまま黄
金の寝椅子の一歩手前まで近づいた。するとクレオパトラのヴェールを
揺らして吹き来る風はえもいわれぬ薔薇とジャスミンの香りをまとい、
ユースフは顔が火照るのを感じた。
クレオパトラは言った。
「なぜ私が蛇の毒を確かめたいか教えてやろう」
「は、はい、女王陛下」
「この宮殿は昼も夜も衛兵どもに守られておる。しかし、私は腕力のな
い女で、悪漢が衛兵たちの隙を突いて私の寝所に忍び込むやもしれぬ。
もし悪漢が私の寝所に忍び込み私の口を塞ぎ私を辱めようとしたら、ど
うやってこの身を守ったらよいのじゃ?」
ユースフは息を飲み込んだ。
「それに備えてお前の毒蛇を私の衛兵にしたいのだ」

クレオパトラは悪戯っぽく笑みを浮かべてユースフの手を取り自分の
胸にあてがった。ユースフの手のひらは薄絹を通してクレオパトラの乳
房の柔らかさに触れた。
「お前は、お前の蛇は、この私を守ってくれるであろうな」
ユースフは顔から火が噴き出る思いで、からからに乾いた喉から声を
絞り出した。
「も、もちろんです。僕が蛇で女王陛下をお守りします」
「そのために一番早く効く毒蛇が何かを調べたいのじゃ」
「わかりました。ただ」
「ただ?」
「ただ毒を確かめるとその人は死んでしまいます」
「ふ、その心配はいらぬ。毒を確かめる男は死刑と決まった悪人なのだ。
お前の蛇に咬まれずとも、処刑され死ぬると決まった者たちだ、気に病
むことはない。衛兵の蛇を操るお前も私の最後の衛兵だぞ」
クレオパトラは微笑みながらまだユースフの手を胸に当てていた。ユ
ースフは今この女王陛下の微笑みを自分が独占してるのだと思うとこの
上なく胸がときめいた。
「ありがとうございます、女王陛下」

毒を試させるクレオパトラ

 

ユースフがバルコニーから降りると、元来た通路から衛兵二人が両脇
を掴んで男を連れてきた。男は猿轡をされているがそれほど凶悪な顔に
は見えない。そしてバルコニーの下で衛兵は男の腕を引っ張って言った。
「ユースフ、こいつの腕に咬ませろ」
ユースフは籠を開けて絨毯蛇の頭を取り出した。しかし、やはりいざ
絨毯蛇の頭を男の腕に近づけようとすると手が震えた。
男は猿轡の下で何事か叫んでいるが聞き取れない。
「さあユースフ、早いとこやってくれ」
衛兵が急かすが、人を殺すと思うとユースフの手は止まってしまう。
そこへ焦れたようにクレオパトラの声が降り注いだ。
「ユースフ、私を守るためだぞ」
その一言でユースフは決意を固めた。僕が女王陛下を守るんだ。ユー
スフは自分に言い聞かせて男の腕に蛇の頭を近づけた。
男は猿轡の奥で悲鳴を上げた。
衛兵は経過の様子をクレオパトラに見せるため男を動かないように抱
えて立たせているが、男は激しい痛みに苦悶の表情を浮かべ身を捩って
いる。腕はみるみる腫れて倍の太さになった。
ユースフは絨毯蛇を籠に仕舞ってクレオパトラを仰ぎ見た。クレオパ
トラは固い表情で男の様子をじっと観察している。
男の腫れの色は鮮やかな赤色から次第にくすんだ黒赤色へと変わる。
父からはクサリヘビに咬まれると命が助かっても青銅のような色にな
って腐るんだと教えられていたが、実際にその経過を目のあたりにする
と恐怖が深まった。
男はなかなか死ななかったが、日差しが傾いて宮殿の影がファロス島
の大灯台の島に届いた頃に急に静かになって死んだようだった。

その日以降、ユースフはクレオパトラの前で様々な蛇の毒を実験した。
クロクビコブラ、ブラックマンバ、キングコブラ、パフアダー、アス
プクサリヘビなど地中海、アラビア、アフリカ各地から集められた沢山
の毒蛇の即効性が試された。

そして今日、実験されたのはアスプコブラという蛇だった。毒は神経
に作用するものらしく咬まれた場所はそれほど腫れず本人の苦悶の表情
も殆どなかった。にも拘わらず今までの中で最も短い時間で死んだのだ
った。アスプコブラは褐色の胴体だが左右に開いたえらの内側、腹の部
分は白っぽく目はぽつんとしてさほど凶悪な感じがしない。
死んだ死刑囚が運び出されるとクレオパトラが命令した。
「ユースフ、決めたぞ。その蛇を私のそばに置くことにする。もしもの
時はどうやって扱うかそばに来て教えるのだ」
ユースフはクレオパトラの寝椅子のそばまで登り、籠を開いてアスプ
コブラの頭を捕まえ方を教えて聞かせた。
「殆どの蛇は振り返ることが出来ないんです。ですから、こうやって背
中から手を伸ばしてゆくと咬みつかれずに頭のそばまで指を近付けられ
ます。ここで一気に両脇から挟んで持つと咬まれることなく蛇の頭を持
てます」
「なるほど。それなら私にも出来そうじゃ。やってみよう」
クレオパトラは椅子の端にすり寄ると、年長の侍女が「女王陛下、そ
のような恐ろしいことおやめ下さい」と止める。がクレオパトラは「身
を守るために必要なことじゃ」と聞こうとしない。
クレオパトラは籠を覗き込むとユースフに命じた。
「ユースフ、私の手を掴んで教えるのだ」
ユースフは恐る恐るクレオパトラのそばに寄り添い女王の手首を掴ん
でアスプコブラの背中に伸ばす。ユースフの頬はクレオパトラの肩に殆
ど接した。すると薔薇やジャスミンの香り、バニラの匂いに何かの動物
のフェロモンが綯い交ぜになった濃厚な匂いに襲われ頭がふらふらとし
た。そしてクレオパトラを無理矢理に抱きたいという感情が沸き起きて
ユースフは戸惑った。
「ユースフ、どうかしたか?」
「いえ、ゆっくり手を蛇の頭の後ろへ」
クレオパトラが指をアスプコブラの頭に近付けるとユヘスフは「今で
す」と小さく囁いた。
クレオパトラは素早くアスプコブラの頭を捕まえることに成功した。
「おお出来た。これで私にも悪漢を倒せるであろう」
クレオパトラがそう言うと、ユースフは今自分を満たしてる悪漢のよ
うな欲情を見透かされないかと心配で言葉が返せなかった。
「ユースフ、どうした?」
「な、なんでもありません」
「ふふッ、お前は毎日蛇の様子を見に来るのじゃ」
「わかりました。掃除や餌やりをして弱っている蛇は取り替えます」
こうしてユースフはクレオパトラの最後の衛兵になった。

紀元前44年にカエサルは暗殺されてしまった。
紀元前42年、フィリッピの戦いで敗れたブルータスをエジプトが支
援していたためにクレオパトラはアントニーの詰問を受けた。しかし、
クレオパトラは知性と美貌と媚薬で瞬く間にアントニーを籠絡してカエ
サルに代わる新たなエジプトの庇護者とした。言うまでもなく奴隷に等
しい身分のユースフは女王の結婚に反対できる筈もなく、ただ憧れのク
レオパトラとアントニーの仲睦まじい様子を時折垣間見るだけの辛い日
々が続いた。その後、クレオパトラはアントニーとの間に双子の男女と
息子を儲けるが、アントニーの飛ぶ鳥も落とす勢いも永遠に続く筈もな
く十年ほどで失墜した。

ある日、ユースフはクレオパトラに告げられた。
「明日よりしばらく蛇は研究所で飼育しなさい」
「噂に聞きました。女王陛下が艦隊を率いてローマとの戦争に参加され
るとか」
「ならば話はわかったであろう」
ユースフはクレオパトラを思うと意見せずにはいられなかった。
「そのような危険なこと、おやめ下さい。悪漢よりずっと危険です」
「大丈夫だ。危うくなればアントニーが私を真っ先に逃がしてくれる」
「女王陛下、おやめ下さい」
「心配は無用。用件は済んだ。さがるがよい」
クレオパトラに叱られユースフは「お許し下さい」と引き下がった。

しかし案じた通りアクティウムの海戦でアントニー・クレオパトラの
連合軍はローマ軍に惨敗して終わった。

その日の朝、クレオパトラはアレクサンドリアに逃げ帰って来た。
ユースフはクレオパトラの無事な姿を見て心から安堵した。自分の知
らない海の彼方でクレオパトラが死ぬなんて耐えられなかったからだ。
「ご無事で何よりです」
ユースフはコブラの籠を侍女に捧げて言った。
「戦争に負けたのだ。そのように嬉しそうな顔をするな」
ユースフは「どうかお許しを」と詫びた。
「明日も蛇を持って来るように」
「はい、仰せの通りに」
ユースフはそう答えて宮殿を後にした。

ところがその日の夕方、クレオパトラの侍女の一人が急いで毒物研究
所にやって来た。
「やあ、そんなに息を切らしてどうしたんだ?」
父が尋ねると使者は早口に述べた。
「大変なのです。女王陛下の元に、瀕死のアントニー様が盾を御輿にお
いでになり、クレオパトラの腕の中で息を引き取られてしまったのです。
それを追ってきた敵の先陣が宮殿に迫っています」
「なんと」
「ユースフ、女王陛下より伝言です。『私のお守りを無花果の籠に忍ば
せてすぐに届けるように』と」
侍女はユースフを食い入るように見詰めた。
「女王陛下はそう言えばお前はわかると言われた」
ユースフは震えながら「は、はい」と答えた。
「たぶん敵の先陣が宮殿を落としている頃でしょう。急がないと女王陛
下がオクタウィアヌスに辱めを受けるかもしれません」
ユースフは大急ぎでありったけのアスプコブラを籠に入れると飛び出
し市場で無花果を買い込み籠に盛った。
そして全速力で宮殿へと走った。早くしないと女王陛下がオクタウィ
アヌスに乱暴されてしまう。その思いがユースフを心臓が破裂するかと
思うほどの勢いで走らせた。

宮殿に着くと衛兵は既に敵の革の冑を着た兵に入れ替っていた。
ユースフは自分でも驚くほど平静を装って言えた。
「女王陛下にいつも果物を納めている者です。女王陛下にお取次を」
敵方の衛兵はユースフの身体検査をして扉を開けた。
「ありがとうございます。オクタウィアヌス様はお着きですか?」
「いやまだだ」
ユースフは間に合ったと知り安堵した。

クレオパトラの正式な部屋である女王の間に辿り着いたユースフは衛
兵に「果物を届けに来た」と告げた。
扉が開けられて、馴染みの若い侍女が顔を見せた。心なしかその目は
恐ろしさに涙ぐんでいるように見えた。
「女王陛下に無花果をお届けにあがりました」
「いつもありがとう」
若い侍女は籠を受け取り、クレオパトラを振り向いた。

奥の玉座にいたクレオパトラがユースフに微笑みかけ黙って頷いた。
(ああ、私の女王陛下はご無事だ)
いつもと変わらぬ黄金の冠、首飾り、透けるような薄絹が垣間見えた。
ユースフは深々とお辞儀してゆっくりと廊下を戻った。

これで大丈夫だ。
オクタウィアヌスが女王陛下に乱暴しようとしたら僕の蛇がオクタウ
ィアヌスの息を止めるだろう。もしかしたらそれでエジプトはローマに
逆転勝利を納めるかもしれないぞ。
ユースフは満面の笑みで宮殿の出口に向かっていた。
だがその時、背後から悲鳴が届いた。

ユースフは訳がわからぬまま急いで廊下を引き返した。
女王の間の扉は開かれたままで、もう悲鳴は聞こえない。ユースフは
中に飛び込んだ。

敵の衛兵たちが玉座を取り巻くようにして茫然と立ちつくしていた。
玉座の足元には侍女が二名倒れており、玉座では肘掛けに背を乗せの
けぞったクレオパトラがふくよかな乳房を露出したまま虚ろな目で天井
を仰いだまま息絶えていた。乳房にはアスプコブラの牙の跡がはっきり
と残っている。
玉座の足元に倒れている年長の侍女が苦しい息の下から聞かせた。
「ユースフ、でかしたぞ。おかげでクレオパトラ様はエジプト女王の威
厳を自らお守りになられたのだ」
なんてことだ、女王陛下は僕の衛兵を自害に使ったのか!
ユースフはこめかみを両手で押し潰すように挟みこんで悲鳴と叫び声
を上げた。
「ああ、僕の女王様が、こんな、こんな」

ユースフは部屋を見回しテーブルの脚元で何事もなかったかのように
とぐろを巻いている数匹のアスプコブラを見つけた。ユースフはまっす
ぐ歩いてアスプコブラを捕まえるとその頭とじっと向き合った。
わざと手を緩めてやるとアスプコブラはその口を大きく開き、毒牙を
剥いて飛びかかってきた。毒が残ってる奴だといいんだが。アスプコブ
ラの牙が喉に喰い込んだ。
ユースフは微笑んだ。             了