白馬の王妃

古代の城

11世紀、イングランドはコヴェントリー城の広場に人々が集まった。
当時の人々は城を囲む城壁の内側に軒を並べて住んでいたのだ。
 城主から大事な知らせがあると聞かされていた人々が見守る中、衛兵二人に先導されて現れた執政官が手にした文書を読み上げるのを待った。
この時代、多くの者は文字を読めなかったから、執政官は大声で読み聞かせた。

「よいか、謹んで聞くがよい。
今週の金曜の昼、鐘を合図に、次の鐘が鳴らされるまでの間、戒厳令を敷く。
城内の何人も家の外に出てはならない。また窓や戸を固く閉ざして決して通りを見てはならない。
万が一この禁を破った者は速やかにひっ捕らえてその者の首をはねること申し置く。
これは政策について新王と取り引きをされた王妃ゴディバ様が犠牲になられるための戒厳令である。
その方ら、くれぐれも違背なきこと。以上だ」

 執政官は文書を丸めるとふんぞり返って衛兵たちと引き返して行った。
 広場の皆はざわめいた。わからん。なぜ戒厳令なんじゃ。戒厳令を破ったら首をはねられるとは野蛮ではないか。
王妃の犠牲とはどういうことだ。わからん。政策について取り引きとはなんだ。わからん。
 そこで知恵者として尊敬を集める年長の爺が解説してみせた。

「皆の者。これは姫様のわしらへのありがたいお慈悲に違いないぞ。
最近は町へお出まし出来ぬ姫様じゃが、出入りの者からわしらが重くなった税に難儀しておると聞いて心を痛め、なんとかしようと言って下さったそうじゃ。
父王や兄たちは敗戦で惨い末路となったが、さすが姫様じゃ、ノルマンから押しかけた夫新王に堂々と意見して、わしらの酷くなった税を正そうというのじゃろう。そのために姫様がどんな犠牲を払うかはわしにもわからんが、ここはありがたく承り、間違っても外に出たり、通りを見たりしてはならぬぞ」

「おお、そういうことか」
 町の衆は口々に言った。
「姫様は小さい頃から城民思いの優しいお方だったものねえ」
「二日酔いで道端に倒れてた俺に小さい手で水を飲ませてくれたもんさ」
「あれは余計な人助けだったな」
「なんだと」
「とにかくありがたいことだ」
「ああ、姫様がわしらの税金を下げてくれるんだ」
 皆はようやく戒厳令の意味を納得し、口々に戒厳令を守ろうと誓い合い、一人者は知り合い同士集まって二度目の鐘まで過ごそうと約束し合うのだった。

 しかし、雑貨商の二代目で生来のひねくれ者のトーマスだけはたいした中身のなさそうな戒厳令を守る気などなかった。
 それより昔一目惚れした王妃ゴディバが払う犠牲とは一体何かが気になって仕方なかった。

 トーマスはその夜、城の近衛兵が出入りする酒場に行った。近衛兵はいつも王の傍に控えているので、王と王妃がした約束について知っている可能性が高い。
 近衛兵が一人になったところに囁きかけ金貨を握らせてトーマスは王妃の約束を聞き出すことに成功した。
 王妃が税を半分にしてほしいと言うと、王は王妃にそなたが白昼に全裸で馬に乗り城内の通りを一周するなら税を半分にしてやろうと無理難題を吹っかけたという。そこで頭の良い王妃は王に承知してみせるや、城民に戒厳令を出すように指示したのだ。

 トーマスは目を輝かせにやけてしまう自分をどうしようもなかった。
 小さい頃からなんにでも興味を持ったゴディバ姫は館を抜け出しては、いろんな店を覗いて歩き、お供の執事は人形や花束はもちろんチーズややっとこやふいごや車輪をねだられてそれを引きずって帰る姿がよく見られたものだ。

 ゴディバ姫は雑貨商トーマスの店にも来たことがあった。黄色っぽいドレスに長い髪の姫は額に飾りのように渡した細い三つ編みの下からつぶらな青い瞳でトーマスを見つめそれから父に向かって言った。
「東の国に蜂蜜より甘い砂糖というもがあるそうです。こちらの伝手で手に入りませんか?」
 すると父はぶっきらぼうに答え、付け足した。
「それは無理ですな、お姫様にはお気の毒ながら」
「そう。では他所で探してみます、ごきげんよう」
 その時、三つ年下の姫の愛らしい表情にトーマスはひと目惚れした。

 姫が帰った後、トーマスは父に砂糖を仕入れてあげてよと懇願したが、値段が高くて手が出せないと却下されたのだった。それからトーマスは毎日店を掃除してまた姫が来ないかと待ち受けたが結局、ゴディバ姫の足はなかなかトーマスの店には向かなかった。
 十年後、父が死んでトーマスは海を渡ったフランスで砂糖を買い付けることに成功した。早速、城に言づけてやるとゴディバ姫が店にやって来た。
「砂糖が入ったのね?」
「ええ、お姫様から尋ねられて十年かかりましたが、どうぞ舐めてみてください」
 小皿に盛った砂糖を差し出すとゴディバ姫はそれをつまんで口に入れた。
「なんてこと、本当に蜂蜜より甘いわ」

 そしてコヴェントリー城はノルマンとの戦争に敗れて、姫は命を助けられた代わりに大王の息子である新王のお妃にされたのだ。

 その王妃ゴディバが昼日中に一糸まとわぬ全裸になって馬にまたがり城内の通りを一周するというのだ。もう絶対に手の届かない身分となった姫の裸を我が目に焼き付けるのはトーマスにとってせめてもの冥土の土産になる筈だ。彼にその欲求を抑えるのは無理だった。
 もちろん見てはいけない理屈もわかるが、誰にも知られずこっそり見れば咎められる筈もないと考えてしまったのだ。

 トーマスは妙案を思いついて丁稚に備蓄してある焚き木の束を通りに面した壁の前に積み上げさせた。1ダース積み上げさせ人の背を越えた束を3列並べたところで丁稚に支払いの催促を言いつけて残りはトーマスが積み上げた。外側からは焚き木の束が3列2段に並んでいるように見えるが、壁際の真ん中の列の場所には自分が潜むための空間をつくってあった。

 城の塔で鐘が鳴り響いた。
 城中の町並みは王妃の戒厳令を守って固く門戸も窓も閉ざしていた。
そこへ館の門が開いて、まず戒厳令監視役の兵が乗る茶の馬二頭が現れて撥ね上げ橋を渡って町のメインストリートを歩き進んだ。
 茶の馬が通りの彼方にさしかかると、今度は白馬が一頭メインストリートを歩き出した。その白馬には長い髪の王妃ゴディバが全裸でまたがっている。

 全ての城民は家や店の奥で、犠牲になるという民思いの王妃に感謝を捧げて終了の鐘が鳴るのを待っていた。その犠牲が全裸で馬に乗り通りを一周する辱めだということすら知らないでだ。もっともトーマスは例外だ。
トーマスは隣の町に仕入れに行くと嘘を吐いて、家の前に積み上げた焚き木の奥に潜んで鐘の合図を待っていたのだ。

 静まり返った通りに馬の蹄の音だけが鳴り響き近づいてくる。
 夫となった王でさえこの昼の日差しの中で王妃の裸身をはっきり見るなんて不道徳はできないのだ。
 トーマスの喉はカラカラに渇いていたが、目は焚き木と焚き木の隙き間から白馬にまたがり歩む王妃ゴディバを見詰めていた。

 

レディゴディバ

 なんて美しいんだ!

 トーマスは心の中で感嘆した。
 今、この瞬間、ゴディバの姿は私だけが見ているのだと感慨に耽った。
 王妃の顔は極限の羞恥のために赤く染まり、全裸になって形も露な乳房を長い髪だけが風にそよぎながらも隠している。
 その裸身は屈辱を厭わぬ王妃の気高い犠牲心に満ちて、神々しく輝いており少しもいやらしい印象を与えなかった。
 それはまさに地上に降臨した美神の如き姿だ。

 それに引き換え、俺の心はなんと卑しいことだ。こんなことをしたところで自分の心に荒んだ風がいきどころもなく空回りするだけではないか。
 トーマスの醜い欲望は一瞬で色褪せた。

 ゴディバ、許してくれ。私はあなたを好いていたんだ。どうせ身分違いの叶わぬ恋だったが、あなたは私の初恋のひとだった。

 トーマスは後悔の涙に歪んだ初恋の人の背中を見送った。

 戒厳令は思いのほか早く解かれて、日が暮れるやトーマスも家に戻った。
 妻が仕入れはどうだったと訊ねるとトーマスは後悔の念の中で思いついた商売替えを打ち明けた。
「チョコレートを作る」
「えっ、何を作るって言ったの?」
「だからチョコレートだよ。知らないのか?」
「あたしはそんなの食べたことないですよ、商売になるんですか?」
「ああ。甘くて美味しいんだぞ」
 買い付けたチョコレートを妻と娘に食べさせると二人も賛成してくれた。

 こうしてトーマスは独学でチョコレート作りを始めた。
 味の方はそこそこよくて評判がよかったのだが、表に描いたヘンテコな城の紋章が不評だった。
 ただトーマスだけは城にチョコレートを献上して王妃ゴディバからもお褒めの言葉を貰えた事にひどくご満悦だったという。

 城の紋章といえばどこでもライオンなので人々はそうに違いないと思って見ていたのだが、トーマスはチョコの表に馬にまたがった全裸の王妃を描いたつもりでいたのだ。
 絵心がだいぶ足りなかったために真意が伝わらなかったらしい。

 あれから何世紀の時が過ぎ、ある男が何かに惹かれたかのように自分の店のチョコレートの表に馬に乗った全裸の貴婦人のマークを刻印したということである。
 ひょっとすると彼はトーマスの生まれ変わりなのかもしれない。    了

 


チョコ、ゴディバのロゴである馬に乗る裸婦についての有名な逸話ですが、簡素かつ最古とされる出典はロジャー・オブ・ウェンドーヴァーの年代記『歴史の花(英語版)』にあるそうです。
もっとも歴史家は史実ではなかったことにしたいようです。
もちろんゴディバチョコも当ブログも歴史考証の外に立って話を進めております。夫の圧政に抗議したとするとノルマンに侵略された後の事とした方が納得しやすいだろうと考えてみました。
そういえば大ヒット中の映画QUEENのDont stop me nowの歌詞にもレディゴディバが登場してきますね。
この美しい絵画はジョン・コリアによるものです。