改訂版ドルフィン・ジャンプの9 テレパシー?

改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です

ドルフィン表紙


 
  9 テレパシー?

 カノンは救急車で近くの病院のERに運ばれた。「水中落下の大きなダメージはないが、心房中隔欠損症への影響を経過観察する必要あり」という診断で、付き添ったシーパーク館長とルーク、理沙は大事を取って個室に入院させた。

「リサ、彼女の親御さんはまだかね?」
 館長のモーリスは三分おきに腕時計を眺めて聞いた。
「ええ、お母さんには連絡しました。まもなく見えると思います」
「フリードマンさん、あなたにもとんだご迷惑をおかけしました」
 タイラーから借りたスウェットとジャンパーを着たルークは理沙とは目を合わせなかったが、館長には極めて温厚に接した。
「構いませんよ。彼女の怪我が思ったよりたいしたことなくてよかったですね。あのイルカは人を傷つけないよう訓練されてるんですね」
 ルークが見た瞬間の印象では、きっとイルカの歯が食い込んで大変な怪我だと確信したのだが、カノンの手首にはごく浅いかすり傷があるだけだった。イルカはカノンを傷つけないように甘噛みにしたに違いなかった。そしてカノンも歯が食い込まないようマックスの落下に逆らわずについていったのだろう。
「そう言ってもらえるとほっとします。親御さんもそうだと期待したいんだがな」
 そこで形だけベッドに横たわっていたカノンが弁明した。
「あのイルカと握手したいって言い出したのは私なの。イルカは全然、悪くないです」
「いやいや、お嬢ちゃんこそ少しも悪くないんだよ」
 館長は矛先を理沙に向けた。
「リサ、どうしてこんなことになってしまったんだ? 心当たりはあるのか?」
「すみません、あのマックスは頭がよくて優しいコなんです」
「うむ、海上で捕獲されたイルカだが元々人間を怖がらなかったようだし、特に君にはすぐによく懐いた」 
 館長も腕組みして不思議がる。
「ええ。自信喪失してた私はマックスのおかげで立ち直れたし、私と仲が冷めてしまった他のイルカにマックスが何か言ってくれたので仲直りできた気がします」
「うむ」
「ただマックスは、この数日、食事の量が減ってきて、プールに出してもすぐ引っ込んでしまって様子がおかしいところがありました。きっとあのコ、どこか気に入らないことがあるんじゃないかって、タイラー主任とも話していたんですが」
「違うわ、マックスは頼みたいことが……」
 カノンはそう言いかけて、ちらっと館長の顔を見ると口を閉じた。
「どうしたんだい、カノンちゃん?」
 ルークがそう問いかけたところ、廊下の方でヒールの靴音が響いてきてカノンはそちらに振り向いた。

 ドアが勢いよく開いて三十代半ば長い髪のサマンサが慌ただしく入って来た。振り返った館長モーリスと理沙が緊張した顔になる。ベージュのスーツに、黒っぽいコートを羽織って大きな鞄を持ったサマンサはカノンを見つけると眉間にしわを寄せて言った。
「カノン、大丈夫なの?」
 カノンは上半身を起こして作り笑いを返した。
「ママ、大丈夫よ。全然大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ、水泳を禁止されているあなたがプールに落ちるなんて」
 サマンサは部屋を見回して、問い詰めた。
「娘が授業とは関係なく水族館でプールに落ちるだなんて。一体、どうしてこんなことになったんです?」
 ルークは頬を押さえながら「それはですね」と言いかけたが、カノンがさえぎる。
「そうじゃないの、ママ」
「そうじゃないって?」
「私が学校さぼったの。ごめんなさい」
 サマンサは大きく目をむいた。
「カノンが学校をさぼった? 信じられないわ。あなたはママの大事な子だもの、学校をさぼるなんて不良の真似をする子に育てた覚えはないわよ!」
「だけど、そうなの。どうしてもイルカショーに行きたくて学校をさぼったの」
 サマンサは目にも止まらぬ速さで娘の肩を揺さぶった。
「あんたって子は。ママがどんなにカノンを大事に育ててきたか、どうしてわかってくれないの?」
 館長が「お母さん」と声を挟むが、カノンが返答する。
「授業より大事なことがあったの。私はあのイルカに会わないといけなかったの」
「何を寝ぼけたこと言ってるの! 親に口答えする気なの?」
 館長が慌ててサマンサの怒りをさえぎった。
「お母さん、私も親として子供を心配なさる気持ちはわかりますよ」
 するとサマンサは館長に向き直った。
「失礼しました、シーパーク館長のモーリスです。このたびは、娘さんを危険な目に遭わせてしまい、大変、申し訳ありません」
「私にはさっぱりわかりません。なんで学校にいる筈の娘がお宅のプールに落ちるんですか? 娘は心臓が弱くて、夏のプールだって禁止されてるんですよ!」
「は、はい、本当に申し訳ありません」
 理沙が代わって経緯を説明する。
「カノンちゃんはイルカショーに来てくれたんです。私はイルカのトレーナーのリサと言います。そこでイルカと握手した時に、娘さんはプールに落ちてしまったんです」
「あなたが傍についていながらですか? 娘を守って代わりにあなたが落ちればいいでしょう」
 サマンサの剣幕に理沙もうなだれる。
「すみません」
 そこへノックの音がして病院の事務職員らしき女性が顔を見せる。
「手続きがありますので、ご家族の方は来ていただけますか?」
「お母さん、ここの支払いは、もちろん私どもがいたしますので」
 館長はサマンサの歩みに先まわりして何度も申し訳ないを連発し、二人揃って病室の外に出て行った。

  ◇

「フューッ」
 カノンが大げさに溜め息を吐くと、ルークと理沙は思わず苦笑した。
「うるさい人がいなくなったから言うけど、私、マックスから話を聞いたの!」
 カノンはすごいでしょと言わんばかりにキラキラと目を輝かせた。
 理沙は戸惑いを隠せないという顔をし、ルークは軽く調子を合わす。
「イルカの声か、よかったね」
「違うったらホントの話よ、あのマックスから私の頭に直接響いて聞こえてきたの」
「ホントに?」
 理沙がびっくりして言うと、ルークは苦笑まじりに返す。
「それじゃ、テレパシーだねえ」
 カノンはルークが真剣に受け止めてないのを察してムキになった。
「本当のテレパシーだってば。プールの中でマックスは話しかけてきた。こんな感じ。
 悪い奴、ハンクの頭、穴開けて何か入れた。
 それから目曇る、心悪くなる。
 ハンクジャンプ好き。ジャンプして逃げた。
 頭痛い、悪い奴、追いかけてる。
 ハンクはシーパーク、マックスなった、リサ好き。
 また悪い奴、また追いかけてる。マックス逃げたい」
 ルークは落ちた一瞬に口で話してもこれだけの内容を伝えきれないと思った。そして頭の中に何かを入れて追いかけるなんて、俺が好きなスパイ映画の世界だと思った。
 ルークがまだニヤニヤしてるのを見ると、カノンは睨み返した。
「私の話を信じてくれると思ったのに。言葉で説明するのには時間がかかるけど、テレパシーなら一瞬で伝わるのよ」
 ルークは自分の疑問を見透かされた気がして口を引き締めた。
「私はウソなんかつかないわ。マックスの声はゆうべのうちから聞いていたの。夢の中にあのイルカの声がして、声がした瞬間に、これはイルカの心の声だってわかったわ。
 どうしても会いに来て。助けてほしいって。
 びっくりして友だちに詳しくメールしたんだけど、そういう嘘つくのはいけないんだよって返事が来て、すごいショックだったの」
 そこで理沙が口をはさんだ。
「その気持ちわかるわ、私はカノンちゃんぐらいの時はいつも苛められてたから」
 カノンが心配そうに聞いてきた。
「そうなの? いつも苛められてたら、今でも心が苦しい?」
「今はもう大人だから大丈夫よ。それとテレパシーみたいなことも何度か経験があるわ。それで苛めっ子の心が伝わってきたからとっても嫌だったけどね」
 理沙が言うと、カノンはルークに向き直った。
「ほうらリサお姉ちゃんはわかってくれるって。どうしてルークはテレパシーが本当だって信じてくれないの? 私だって本当かどうか自信なかったけど、夢の中のイルカがあんなに一生懸命頼んでくるんだもの、私はなんとか助けてあげたかったの」
 カノンは目を大きく開いて主張する。
「だからママにひどく叱られるってわかってても、一大決心して、学校から出て歩いてたらシーパークのポスターがあって、そしたらおじさんがポスターを見つけて、おじさんに頼んで水族館に来たのよ。私にとって、それがどんなに勇気がいったかわかる?
 私は喘息だし心臓も弱いから迷惑かけてて、いつもずっと努力して勉強して、父親がいないから弟のカイルの面倒も見て、遊ぶのも我慢して学校と病院と家を往復するだけのカゴの鳥みたいな生活なの。だから学校をさぼるなんて絶対に考えられなかった」
 ルークはカノンの告白に黙り込んだ。
「ルークはいいひとだと思ったのに。一生で一番真剣な話なのに信じてくれないの」
 カノンは目に涙を浮かべて泣き出しそうになった。
 それはこの世に遣わされた最後の天使が人間に絶望する場面に立ち会っているような感じに思えた。
 ルークはテレパシーについては信じられないし、またそんな能力をひとが持つのは絶対に嫌だと考えていた。他人が自分の心を透視して秘密にしてる自分の過去を暴かれると考えただけで眩暈が起きそうだ。ただ、そんなことは絶対あり得ないし、カノンの無垢な気持ちは守ってやりたいと思った。
 理沙も心の痛みに耐えかねたかのようにカノンに声をかけた。
「私はカノンちゃんの味方よ」
 そこでルークも言った。
「僕もカノンちゃんを信じるよ。ただ、とても珍しい話だからさ、受け止めるのに、普通の話よりちょっと時間がかかってるだけなんだ。
 例えば、そうだ、僕が本当は博物館に展示されていたアウストラロピテクスで、昨夜、運び込まれた熊の剥製にビンタされて、ショーケースの外に吹き飛ばされたのがきっかけで、現代人になっちゃったんだよと言い出したらどうだい? カノンちゃんだって僕の話を信じるのにちょっと時間がかかるだろう?」
 カノンは泣きそうだった頬に笑みを浮かべた。
「ふっ、全然、意味わかんないよお」
「だろ? ありふれていない話は飲み込むのにちょっと時間がかかるんだよ」
 理沙も釣られて笑いかけたが、ルークの視線を警戒してすぐ表情を強張らせた。
「ありがとう。リサお姉ちゃんもルークもいいひとで、私、すごく嬉しいよ」
 カノンはそこで仕切りにかかる。
「私たち、いいチームだよね。このチームの初仕事は、マックスをシーパークから逃がすってことでいいよね?」
 突然、中学生にそう言われてもすぐ賛成と言える筈がない。
「ねえリサ、いいでしょ?」
 理沙は言葉を選んで言った。
「あのね、人間の勝手な言い分だけどマックスは一応シーパークの営業のための所有財産になるんじゃないかな。だとすると簡単には逃がせないと思うわ」
「ルークもそう思う?」
「うん、ちょっと難しいかな。カノンの話を信じてあげるけど、マックスをシーパークからいきなり逃がしたら、泥棒と同じに思われて僕ら三人は警察に捕まってしまう。
 良いことをしたのに一方的に悪いと決めつけられるのは、カノンもいやだろ?」
「それはまあそうだけど」
「それなら、まず、マックスが悪い奴らに追われている証拠を見つけるのが先決だ。そうすれば、万が一、警察に捕まっても証拠を公表することで全てはマックスを守るための正義の行動だと証明出来る。証拠を掴んでから堂々とマックスを逃がそう」
 ルークが言うとカノンは渋々頷いた。
「まあ、仕方ないか。じゃあおじさん、早く証拠を探してきてよ」
「カノン、俺がおじさんと呼ばれて動くように見えるかい?」
 カノンは溜め息を吐くと、十字を切って手を組んだ。
「じゃあ仕方ない。お兄さん、お願いします」
「お得意様、これが僕の連絡先だ」
 ルークが名刺をカノンに渡すとカノンもメモにアドレスを書いて渡した。
「ルーク、チームメイトなんだからリサにも名刺を渡しなよ」
 ルークが溜め息を吐いて理沙に名刺を渡すと、カノンは睨んだ。
「どうでもいいけど、お兄さん、そのリサお姉さんが悪いことしたわけじゃないんだから差別するのは許さないんだから。男らしく謝ったらどうなの?」
 ルークは逆ギレしそうなのを堪えて平静を装った。
「俺だって悪いことしてるわけじゃない。ただ心がジャップを嫌いなだけだ」
「ジャップって言葉はベースボールでも審判に退場にされる言葉だって聞いたよ」
 カノンに指摘されてルークは頷いた。
「わかったよ。もう口にしない」
「お兄さん、自分で言い出したチームの仕事はちゃんとしてね」
「うん、ちゃんと証拠探しをするよ」
「じゃあ毎日、私とリサお姉さんにも報告すること」
「毎日ったって、俺も仕事あるんだよ」
「だめえ、マックスは必死に頼んできたんだから、仕事より優先してもらわなきゃ。マックスはきっと悪い奴らに狙われてるわ。報告は毎日ね」
「はいはい、わかったよ」
 そこで理沙がアドレスを書いたメモを渡してカノンに言った。
「カノンちゃん、また連絡してね。館長がお母さんの相手してくれるだろうから私はこれで水族館に戻るわ。カノンちゃんにたいした怪我もなくてよかった」
「うん、ありがとう、リサ。お守りは返さなくていいの?」
「ええ、お守りはカノンちゃんを守るためにずっと身に着けて」
「うん、わかった」
 理沙はカノンをハグするとルークには視線も合わせずに病室から出て行った。
「じゃあ俺もそろそろ帰るよ」
「うん。リサお姉ちゃんを追いかけて謝るといいよ」
「それはまあ承っておく」

  ◇

 病室を出たルークは早足になって玄関を出たところで理沙に追いついた。
「ちょっと待てよ」
「私が嫌いなら話しかけないで」
「君に聞きたいことがあるんだ」
 理沙は無視して早足になった。
「待てよ。カノンのために証拠を探さなくちゃならないだろ。君の方がイルカは専門家なんだから教えてくれよ」
 理沙は立ち止まってルークを振り向いた。
「マックスが悪い奴らに追われてる証拠? あんな話を真に受けてるの?」
「そのままは受け取れないけど君だってカノンの話を信じると言ったじゃないか」
 理沙は溜め息を吐いた。
「私が信じたのはカノンちゃんがイルカの話を聞いたという部分。ただ話の中身はマックスが見た夢かもしれないじゃない。大体、イルカなんて平和な生き物をわざわざ狙う悪人なんて現実にいる筈ないわ。探したけど証拠はなかったと報告すれば済むでしょ」
「そこなんだけど、僕はテレパシーなんて信じてないし、誰かが僕の心を覗くなんて絶対に許せないよ。ただカノンは子供だから僕らが適当に済まそうと考えたらすごく敏感に察すると思う。きっとあのコにはいい加減な嘘は通じない。それが嘘だとばれたら僕も君もカノンから信頼を失うよ」
 ルークが言うと理沙は指で彼を指した。
「信頼を失うのはあんただけでいいんじゃない。私はハワイのドルフィンケアクラスに五年いたけどジャップなんて軽蔑的な呼び方をされたことは一度もなかった。
 歴史的には日本がハワイを奇襲したのによ。一方でアメリカは広島長崎の一般市民に原爆二個を落とし30万人が死んだのよ。アメリカは勝ったから裁かれなかったけれど、戦争のことなんて言い出したら水掛け論だわ」
 ルークは理沙の怒った表情を眺めながら自分も感情をうまくコントロールできないのがわかった。幼少期、祖母から祖父の最期を聞かされる度に醸成されたルークの日本人への憎しみは殆ど条件反射になっていてその意識を変えるのは難しい。だからといって理沙と決定的に対立するのも同じぐらい嫌なのだ。
 ルークは両手を肩の高さに上げた格好で頷いた。
「わかった、君の言い分はわかった。確かにその問題は今のところ平行線だ。それは置いといてくれ。とにかく俺はマックスが狙われてる証拠をひと通り当たってみる。リサに心当たりがあったら教えてほしい、頼むよ」
 すると理沙は仕方なく腕組みして記憶を辿るようだった。
「うーん、ハワイでもロサンゼルスでもイルカを悪意のこもった視線で見ている人なんか一人も見たことないもん。ただ、こんなことに意味があるかわからないけど」
 理沙がルークの顔を窺うと彼は「構わないから言ってみて」と促した。
「マックスは飛行機が嫌いみたいで彼が急にプールの奥に引っ込んだかと思うと、決まってジェット機の音が響いたわ」
「そう、それはひとつの証拠になるかもね。相当弱い証拠だけど」
 ルークは顎を撫でながらさらに尋ねる。
「この先の水族館の予定で、何かあのイルカに関係したことはない?」
「そういえばDDP、ドルフィン・デベロップ・プロジェクトとかいう研究所が、来月の初旬に全てのイルカの検診をするわ。血液検査やレントゲン検査とか、いろいろ。イルカについて世界各地で研究したいらしくて、今回は初回だから費用は自分たちで持つし、病気が見つかったら教えてくれるって話だった」
 ルークは人差し指をぴんと立てた。
「それって怪しいよ。費用は自分持ちなんて」
「別にマックスだけじゃないわ、イルカたち全部よ」
「うん。君には区別がつくかもしれないけど、普通の人間にはイルカの区別はできないだろう? マックスを狙ってる奴らもきっとそうで検診を装って遺伝子検査かなんかでマックスを探し出そうとしているのかもしれない」
「まあ無理してそう考えれば怪しい行事だけどね」
「じゃあ、手始めにそのDDP研究所を調べてみるよ。明日一番に、その研究所の詳しい住所と電話番号を教えてくれるかい?」
「わかった」
 理沙は挨拶もせずに背を向けるととっとと歩き出した。
「じゃあ」
 ルークは理沙の後ろ姿に小さく言った。    

つづく