改訂版ドルフィン・ジャンプの11 ディナークルーズ
改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です
11 ディナークルーズ
メールの着信音が鳴った。ベッドに俯伏せになっていたルークはごろりと仰向けになりながらスマホを手にした。見るとカノンからだった。
『おはよう、お兄さん。どうだった? 悪い人がマックスを狙ってる証拠は掴んだ?』
ルークは研究所で会った美女の顔を思い出した。返事を打ち込みメールを返す。
『いや、あそこはちゃんとした研究所だったよ』
『ウソでしょ。お兄さんはあそこですごいショックを受けたんじゃないの! 私はお兄さんのひどいっていう感情を感じたもん』
『得意のテレパシーかい? でも、そんな驚くことは何もなかった。フランス人の女性研究員が応対してくれてイルカの迷泳行動の対照実験に水族館で飼われているイルカの診察をしたいのだと丁寧に教えてくれたよ。すごい美人でさ、いや、別にその点に興味はないんだけど。とにかく、あそこの研究所はまともにイルカの研究をしてるよ』
すると今度はメールではなく、音声着信の呼び出しが鳴った。
ルークは面倒だなと思いながら受話に切り替える。カノンの声は詰問口調だ。
『おかしいよ、ちゃんと調べたの? マックスは恐怖に震えてるんだよ』
『俺はちゃんと調べたよ。カノンの心配は思い過ごしだった』
『どうかしちゃったの? お兄さん、まさか悪い人に捕まったんじゃないの? そうだ、捕まって記憶を消されたのよ。じゃなきゃニセの記憶を覚え込まされた』
ルークはやれやれと溜め息を吐いた。
『とにかくカノンの心配は思い過ごしだ。もうおしまい』
カノンはこれ以上問い詰めても無駄と悟ったのかルークを追及するのはあきらめて次の話題に移った。
『ところで急なんだけど今夜ディナークルーズに付き合ってほしいの』
『なんだい、ずいぶん豪勢だな』
『お兄さんにお礼をしたいんだって』
『ああ、カノンのお母さんか。いいところあるね』
『ちょっと違うけど、とにかく今夜七時、ロングビーチの桟橋に来てほしいの。金曜日だけどきっとデートの約束もなくて暇なんでしょ?』
ルークは苦笑して返事した。
『ひどいな、失恋の痛手に苦しんでる男に向かって』
『気持ちを切り替えなさいていうありがたい誘いだよ』
カノンは事もなげに言った。
◇
ルークが指定された桟橋に行くと、そこには長さ80メートルもある白いスマートなクルーザーが停泊していて、数十人の客が行列を作っていた。
受付のスーツを着た女性はルークが名前を言うと、とびきりの笑顔で「承っております。係がVIPルームへご案内します」と言った。
ルークはボーイに先導されてクルーザーの最上階にあるVIPルームに通された。
「やあ、来たようだ」
室内の壁はクリーム色に塗られロココ調のソファに腰掛けた白髪で赤ら顔の紳士が手のひらだけ上げてよこすと、ルークは思い切り焦った。その人物は先日さぼったランチミーティングで会う筈だったスタータワーホテルのポールリッジ会長だ。
彼の隣にいるのはカノンだ。蝶をイメージした大きな白い襟がついている赤いドレスを着て笑っている。
「お兄さん、いらっしゃい」
ルークはまずポールリッジ会長に先日の無礼を詫びた。
「会長、先日はミーティングに出席できず大変ご無礼しました」
「ああ、このカノンちゃんから経緯は聞いたよ。カノンちゃんが私の会社に電話をかけてきてね、全部話してくれたんだ」
「あ、まさか熊の剥製のせいだとか言ったんですか?」
会長がぽかんと口を開いてるのを見て、ルークは慌てて口を閉じた。
「なんのことだね? カノンちゃんは自分が仮病で君を騙してイルカショーに連れて行かせたことを正直に告白したんだ。そして君には落ち度がないから君の評価を下げないでくれと頼んできた。こんな小さな子供が君のために正直に自分のあやまちを認めてきたなんて美しい話じゃないか」
カノンはルークにウィンクし、ルークは小さくサムズアップを送った。
「はい」
「私は君は仕事しかできない仕事中毒かと思ってたが、病弱の子供にコロリと騙される熱血タイプだったわけだ。その点も愉快だ」
「ありがとうございます。それにしてもカノンは子供のくせに堂々としてるな」
「うちのママは重役の秘書だから時々私もセレブなパーティーにお供してるの」
「なるほど。俺より堂々としてるわけだ」
ルークと会長は笑った。
「それで会長、例のCMの件はもう決まりましたか?」
「もちろんだ。結果は君の会社にする。これはカノンちゃんから電話をもらう前に決めていたことだ。君の企画書がよかったからだよ」
ルークの顔がパッとほころんだ。カノンが両手でピースサインを見せる。
「ありがとうございます」
「それでカノンちゃんたち四人を私のグループのディナークルーズに招待したんだ」
「四人?」
「ああ、あと一人はカノンちゃんの母親サマンサ、残るひとりはカノンが迷惑かけて親しくなったイルカのトレーナーの……なんといったかな」
そこでカノンが名前を教えた。
「リサです」
「そうだ、リサ・ヤマモトだ」
ルークは舌打ちしたいのを我慢して頷いた。
「そうですか」
そこへワイン色のドレスにケープを羽織った理沙が入って来た。
「すみません。あらフリードマンさん、こんばんは」
「やあ、ヤマモトさん、こんばんは」
ルークと理沙が他人行儀な挨拶を交わし反対側に座ると会長が言った。
「ルーク、君は人種差別的な気持ちがあるようだが、戦争は互いに傷つけ合う行為だ。過去にいつまでもこだわるのは感心せんな」
「会長、申し訳ないです。頭で理屈はわかってるんですが、僕が子供の頃、祖母の家に行くと彼女はいつも泣きながら僕に訴えたんです。夫は日本人に殺されたと繰り返し。だから僕の心に染み付いてしまっていて、うまくゆかないんです」
「そうか。ま、時がもう少し経てばルークも変わると思うが、君のキャリアのためにも早く改めた方がいいな。さあ、それより皆揃ったところで自慢の料理を運ばせよう」
会長が秘書らしき男性に指で合図するとボーイが料理を運び始めた。牡蠣、ロブスター、ターキー、キャビア、入れ替わりに豪華な皿が登場する。
ルークは食事の合間に思いついてカノンに訊ねた。
「それでカノンのお母さんはどこにいるんだい?」
「お母さんも一緒に桟橋まで来たんだけど、やっぱり船は揺れるから乗れないって言い出して一人で帰ったの」
「そうだったのか」
「ママは怖がりなの。私もそうだったけど、マックスのおかげで勇気を出せた」
「うん、よかったな」
そこでカノンが今朝の電話で投げかけた疑問を再びぶつけてきた。
「ねえ、お兄さん、本当にマックスを狙ってる奴はいないって言い切れる?」
「ああ、一番怪しい研究所に潜入したんだからあそこが怪しくないなら大丈夫だよ」
「お兄さん、本当に何かされてない? 私はお兄さんがひどいっていう気持ちを確かに感じたんだもん。私はマックスに導かれてテレパシーが目覚めたんだから」
「カノンは本当にテレパシーを信じてるんだな」
「あれ、この前はお兄さんも信じてるって言ったでしょ?」
「俺はカノンが嘘をつかないコだって信じるって意味で言ったんだ。カノンが信じるテレパシーが科学的に真実かはまた別の問題だ」
ルークが言うとカノンは鼻から息を吐いた。
「そうなのね。じゃあ私はお兄さんが悪い人に洗脳されたんだって信じるわ」
「そんなことされそうになったらその場はうまくごまかして脱出してそいつらを告発してるよ。俺は秘密情報部のスパイだぞ」
「どうかな」
カノンは首を傾げた。
◇
大型クルーザーは穏やかな夜の海を、滑るように航行していた。
夜の海は海面だけを見ていると怖いような黒さだが、遠い岸辺を眺めやれば、巨大なネックレスが横たわるよう……街のイルミネーションや、途切れない車のライトで華やいだ夜景が連なって美しく煌いている。
スイートルームではいかつい男が三人、深すぎるソファにかけていた。
テーブルにはGPSのモニター画面が映っていた。
「よしディナーも終わって邪魔な客も少なくなって来たな。ラリー少尉、あの男に接近して聞き耳を立てて報告しろ。我々の計画に有害な点があれば消す」
「わかりました」
ラリー少尉は拳銃に消音器を付けるとそれを雑誌で覆って外に出て行った。
◇
食事を終えた三人は会長の勧めでクルーザーの中をいろいろ見てまわることにした。会長から各現場のクルーに申し送りがされてクルーの指示に従う限りどこでも入っていいということだった。
一般客のディナーもすでに終わり、客たちは、思い思いに室内で話し込んだり、ゲームに興じたり、甲板で夜風に吹かれたり、ホールでダンスミュージックに合わせて踊ったりして楽しんでいる。
ルークとカノンと理沙は中央甲板の手すりにもたれて、星空を眺めていた。ルークたちのすぐそばでも数組の客が立ち話をしている。
カノンが夜空を指差した。
「あ、あの、赤と白の点滅は?」
「あれは飛行機、ジェットだな。高度を下げて空港に降りるんだろ」
「ジョンウェイン空港?」
「いや、あれはもっと南だ、ロサンゼルスかロングビーチのどっちかだな」
「あ、流れ星」
カノンが指差す先に流れ星が強い光を引いた。
「マックスがこれからもずっと無事でありますように」
カノンが小さな声で祈ったが、ルークは冷静な口調で言った。
「でも、流れ星にしてはゆっくりだし、光が弱くならないね。まだ日が落ちて間もないから、人工衛星が反射してるのかもしれないよ」
すると、カノンが急に大発見したように声を上げた。
「リサお姉さんさ、この船に乗る時にマックスが飛行機が嫌いで隠れるみたいだって話をしたよね」
「ええ、したけど」
「もしかして、マックスは発信機か何かをつけられて人工衛星から監視されていて、それで逃げてるのかもしれないよ」
ルークが懐疑的に言う。
「人工衛星でイルカを監視だって? あり得ないな。一頭のイルカを追跡するのにそんなの大掛かりすぎる」
「でも、そう考えるとマックスの動きは説明つくわね」
理沙がそう言った途端、カノンが理沙の手首を掴み口の前で小さく指を立てて囁く。
「お姉ちゃん、黙って。ルーク、振り向かないで。声を出さないで聞いて。
右手にいる男が今、私たちを殺そうと決心した」
ルークと理沙は同時に「ホントに?」と囁き返した。
「うん、とにかく逃げましょ。あの男、今、何か雑誌で包むようにしてるけど、隠している拳銃を取り出して撃つつもりよ」
ルークはカノンの真剣な目を確かめて囁いた。
「念のためラウンジに行こう。そこからまた隙を見て移動する」
理沙とカノンは頷いた。
ルークは「もう中に入ろう」とわざと声を上げて、振り向きざまに男を見た。
男は30歳前後ぐらいで中背、クルーカットの髪、夜なのにブラウンのサングラスをしており、腹の前で不自然に雑誌を二つ折りにして持っている。
カノンの話は本当かもしれない。
三人はラウンジに入った。
ルークは向かいのドアのガラスにルークたちにやや遅れて男がラウンジに入って来るのを見た。
ルークは階段から降りてきたサービスクルーを呼び止める。
「あ、君」
日焼けして精悍な雰囲気のクルーの男は白い歯を見せて聞く。
「なんでしょうか?」
ルークは声を低くして言う。
「僕らの後ろにいる雑誌持った男に拳銃を向けられたんだ。警備の人間をまわして対処してくれる」
「そう言われましても、どなたもいませんが?」
振り向いてみると、あの男の姿は消えていた。
サービスクルーは「気をつけるよう連絡致します」と言い残して、何事もなかったかのように立ち去った。
ルークは「どこに行った?」と聞くが、カノンも理沙も首を横に振る。
「カノンちゃん、場所はわかんないの?」
「私のテレパシーはそんな自由には使えないの、ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ」
ルークは頷いて周囲に視線を配りながら言った。
「状況を整理しよう。たぶん、あいつは初めから僕らを監視していたんだ。その理由は、おそらく、カノンの言った推理が本当だったからだ」
「カノンの推理って?」
理沙が聞くと、カノンが答える。
「お兄さんが研究所で捕まって、記憶を塗り変えられたんじゃないかって」
「そうなの?」
「その可能性が高まった。あいつらは僕がなぜDDP研究所を調べているのか理由を探るために何らかの方法で記憶を操作して僕を泳がせたんだ。素人の身元を洗うために使われるスパイ諜報戦ではよくある作戦だよ。
そしてガンマイクか何かで離れた僕らの話を盗聴して僕らがマックスの心配をしていて、衛星で監視してるかもという推理を聞いて、これは自分たちにとって邪魔な存在だと判断した。そう考えると僕らを殺そうと決めた理由が納得いく」
「お兄さん、マックスを助け出してくれるよね」
「もちろん。但し、その前に自分たち自身をこの危機から助け出さないといけないみたいだけどな」
不意に、後ろの右側甲板の方で歓声が上がった。
水中から花火が打ち上げられたようで上空で赤、緑、青、黄の光の花びらが咲いた。花びらの光のしずくはゆっくりと滝のように落下する。
「この騒音は拳銃のカモフラージュにされる。用心して反対の甲板に出よう」
ルークの言葉に、三人は素早く逆の左側の甲板に出た。
「あっ、さっきと別の男だけど、すごい殺意で後ろの甲板から歩いて来る」
「じゃ、前だ。急いで」
ルークはカノンと理沙をかばうようにして、前の甲板に向かった。
甲板を進むうち、ルークは急に足が重くなった。動悸が激しくなり脂汗が滲むのがわかった。理由はわからない。しかしルークは気分が絶望的に落ち込むのをひしひしと感じた。それは不自然すぎる落ち込み方で、強いて言えば薬物吸引によるバッドトリップのような感情の激変だった。
「だめだ、もう逃げても無駄だ。俺たちはここで殺される運命なんだ」
「どうしたの? 逃げなきゃ」
理沙がルークの腕を掴んで引っ張った。
しかし、ルークの意識は溶けた鉛の海に沈んでゆくようで、絶望に包まれている。今にも銃弾が自分を撃ち抜き、自分が血を吐く、そんな予感でいっぱいだ。
「だめだ。もう手を上げて、あの男におとなしく殺されよう」
「何、言ってるの」「ルーク!」
理沙とカノンは怒鳴ってルークの腕を引っ張った。
「殺された方が楽だよ」
Slap!
理沙がルークの頬をきつくぶった。
「しっかりして!」
背後に黒い影が小さな靴音を響かせて近づいてくる。
甲板はドアのない壁で行き止まりになっていた。
サングラスの男の手に消音器をつけた拳銃のシルエットが見てとれた。
男が声をかけてくる。
「おとなしく言うことを聞けば、命だけは助けてやる」
ルークは絶望に任せて両手を上げていた。
カノンが「嘘よ、狙いを絶対外さない距離で殺すつもり」と囁く。
ルークは絶望の中で、男に向かってタックルして、せめて女の子二人を助けようと覚悟を決めた。
「二人とも、合図したら、すぐ海に飛び込め」
ルークは顔を男に向けたまま、二人に囁いた。
男は銃身を向けながら、8メートル、7メートルと近づいてくる。
自分は助からなくても理沙とカノンを助けたかった。もう一度、理沙とカノンの顔をよく見ておきたかったが、振り返る余裕はない。
あと6メートル、はっきりとは見えないが男の唇に三角の髭があるのがわかる。
ルークの頭は絶望でいっぱいだったが、武者奮いが起きて、悪寒と熱の両方が混じり合ったものが体内を駆け巡っている。
男がさらに二歩近づいた。これで男は絶対銃撃を外さないだろう。
「飛び込め!」
そう叫んで、ルークが無謀なダッシュをした。
瞬く間、ルークの中でリサへの本心が迸った。愛してる。それは熱い稲妻のようにルークの胸を暖めた。リサが無事なら俺は無駄死にじゃない。
落下するカノンと理沙の叫びが届く。
ルークはさらに一歩踏み出す。
拳銃が暗がりで閃光を放った。
が、銃弾はルークの腕をかすめただけだ。
ルークがダッシュした瞬間、船体自体に大きく激しい揺れが起こり男はよろめいて狙いを外したのだ。ルークは理沙とカノンの後を追いかけて海に飛び込んだ。
海水が小さなしぶきをあげると同時にルークの全身に衝撃が走った。
◇
「ルーク、ルーク」
ルークはカノンと理沙に揺り起こされて体が濡れている感触と共に意識を回復した。
「痛ったっ」
ルークがしたたかに打った腰を手でさすると理沙の心配そうな声が響いた。
「よかった、気が付いた。ルーク、大丈夫?」
どうやら海中ではない。確かに海に飛び込んだのに、もう陸に引き上げられたのか? いや、少し地面が揺れ動いている。ルークは動転した頭で、今、何の上にいるのか考えてみた。感触はのっぺりしているが地面の手応えでも金属の硬さでもない。
「……なんだ、これって?」
ルークが膝の下を指さして言うと理沙は頷いた。
「ええ。船から落ちた場合は下が海の時と、鯨の背中の時と二通りあるみたい」
目が闇に慣れると、ルークたちが乗っかっているのは4メートルほどの楕円形の黒い島だとわかる。
目を凝らして周囲を見渡すと周囲にもそんな黒い島が四つも五つも点々と浮かんでいる。鯨の群れの中にいるのだ。空気は鯨の吐き出す息のためか生臭い。
「そうか。奴が拳銃を撃った瞬間、同時に鯨がぶつかり船が揺れて助かったんだな」
「そうみたい。ただそれだけじゃなくてルークが落ちてすぐ鯨が潮を吹いてくれたの。それで私たちは霧に包まれてあの男に見つからずに助かったの」
「それはついてたな」
「あの、ありがとう。ルークは私たちを助けるため拳銃の前に身を投げ出してくれた」
理沙はじっとルークを凝視め、ルークも理沙に言い返そうとしてたが、カノンが興奮した様子で割り込んできた。
「私たち、めちゃめちゃラッキーかも」
「そうだな。ところでクルーザーは?」
「もうずっと先に行っちゃったわ。声をかけたかったけど、そうするとあの男にも気づかれそうで怖くて。ごめんなさい」
理沙の答えにルークは頷いた。
「それは正しい判断だよ。救助された後にあの男に撃ち殺されたら意味がない。
それより、カノンのテレパシー能力って本物なんだな。やつは本当に俺を殺そうとして拳銃を撃って来た」
ルークが自分の心を見透かされないか警戒する口調で言うとカノンは得意になった。
「えへん、役に立ったでしょ、みんな無事でよかった」
「そうね、よかったわ」
「さて、問題はどうやって陸に帰るかってことだ」
ルークはスマホを取り出してみたが落ちた時に水に浸かったらしく起動しない。理沙も「私のスマホも濡れて動かないの」と告げた。
ルークは視線をめぐらせて最も近い陸地の明かりを探した。振り返ると右手の方角に明かりがある。だが、どう少なめに見ても10キロはありそうだ。
「カノンちゃんはイルカと心が通じるなら、鯨にこのまま岸まで送ってくれるよう頼んでみてよ」
ルークが頼むとカノンは困った声をあげた。
「えー、私、鯨に話が通じるかどうか。はっきり言うと自信ないよ」
「イルカも鯨も海の哺乳類だから親戚みたいなものだよ。きっと通じるって」
「私のテレパシーは受信したことあるけど、送信はしたことないもの。送信の仕方も全然わかんないし、たとえ送信できても鯨が私の希望を叶えてくれるかは自信ないよ」
「それはわかってるけど何もしないでいても陸地は近くならない。泳げるかい?」
ルークが尋ねるとカノンは首を左右に振った。
「じゃあ、カノン、試してみてよ」
「わかった、鯨さんに頼んでみる」
屈んだ姿勢のカノンは手で鯨の背中を撫でるようにして囁いた。
「鯨さん、私たちを助けて。陸の近くまで運んでほしいの。潜らないでね」
第三者から見たらおかしな光景だろうが、カノンは真剣だし、見守るルークも理沙も祈るような心境だ。
すると突然、カノンが声を上げた。
「あっ、すごい、私、今、鯨さんの声が聞こえた」
「ホントかい?」
「うん、連れて行くよって言ってる」
「助かったわ」
だが、鯨は陸に近づくのではなく、陸地との一定距離を保ったまま北の方向に泳ぎ出したのだ。
「行き先がうまく通じてないみたいだ」
ルークが呟くと、カノンは一生懸命語りかけた。
「鯨さん、ねえ、陸地の方に近づいて。私たちはそっちへ行ってみたいの」
カノンは深呼吸して繰り返す。
「陸地の方に動いてちょうだい。 そっちへ行ってみたいの」
しかし、鯨の進む方向は変わらない。
「鯨は何か言ってるかい?」
「連れて行くを繰り返すだけ」
「そうか、困ったな」
カノンが急に訴えた。
「私、寒いよ」
「さっきの鯨の潮で濡れちゃったから、風が冷たいよね」
カノンは理沙の言葉に頷き、肘をさすりながらぶるぶると震え泣き出した。ルークは慌ててスーツを脱いでカノンに羽織らせる。
「カノンちゃん、僕らは拳銃で殺されるピンチを乗り切ったんだ。大丈夫、きっと家に帰れるよ」
カノンは頷いて泣き声を噛み殺した。
「リサ、カノンちゃんのドレスの下に手を入れてこすって暖めてあげて。僕はカノンちゃんのうなじを暖める」
カノンを温めてやるためルークはカノンの首の後ろから頭の後ろをこすり、理沙はドレスの中をさすった。
「どうだい、首の後ろをこするとちょっと暖かいだろ? 体温調節は小脳の役割だから小脳の傍をこすると暖かくなるんだ。覚えておきな。学校でなくても勉強できたな」
カノンは弱々しく微笑んで頷いた。
「うん、ありがとう」
「大丈夫だから、落ち着いたらまた鯨に呼びかけてみよう」
ルークに促されてカノンはふたたび鯨に囁く。
「カノン、鯨はどこへ行くつもりなんだ?」
「ただ連れてくって言ってるだけでわかんない」
「まずいよ。このままじゃ、どんどん寂しい方へ行ってしまう」
ルークは言いながらやっぱりテレパシーなんていい加減なものだと思った。
カノンは鯨の背中をさすって岸に向かうように繰り返し頼んだ。
「鯨さん、陸に近づいてほしいの」
しかし、鯨はそんな願いを聞き届ける様子はなくただ北へ向かうのだった。
つづく
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