早季の本懐 後編

姫武者

早季の本懐 後編

 

 天正三年(1575年)五月、高天神城を攻略して勢いに乗った武田軍は、長篠城を攻め落とすべく、医王寺に本陣を構えた。その数一万五千。
 長篠城を守備するのは早季の一族奥平貞昌を城将とするわずか五百の兵で、総力を挙げて力攻めをすれば簡単に落とせることはわかっていた。しかし、勝頼は家康と信長をおびき出すためにわざとゆっくり攻め立てる。

「本陣はつまらぬのう、先鋒に立って敵を討ち取る方がずっと面白い」
 早季の隣にいた数人の馬廻り衆が小声で言うと、勝頼が聞きつけて「その者」と怒鳴った。
 当の馬廻り衆がおどおどしながら勝頼の前に跪くと、勝頼は笑って、
「総大将ともなると爺様たちがうるさくて本音も言えん、わしの言いたいことをよう言うてくれた、礼を言うぞ」
「は、もったいなきお言葉」
 なりゆきに息を呑んでいた一座はどっと笑った。

 そこへ『大』の旗印を背負った伝令が駆け込んで来る。
「申し上げます、吉田城の家康に動きがあります」
「おお、近う」
 勝頼は色めき立って声を上げ、伝令は勝頼の手前四間ほどに近寄って懐から書状を出そうとする。
 と、突然、耳を殴りつけるような銃声が響く。
 次の瞬間、伝令はつんのめって倒れた。

 煙を立てる鉄砲をおろした早季は訴えるように勝頼を見つめた。

 しかし、側にいた馬廻り衆は早季が乱心したのかと疑い、早季に飛びかかった。
「待て待て、季之助の言い分を聞け」
 勝頼が言うか言わぬうちに、絶命した伝令の体を起こした喜兵衛が叫んだ。
「こやつ、書状の下に吹き矢を隠しておる」
 ただの吹き矢なら命を脅かすのは難しいだろう。だとすれば単なる吹き矢ではなく、毒を塗った吹き矢に違いない。

「徳川の刺客か、季之助、よう撃ち殺してくれた。
 おぬしが鉄砲でしとめねば、わしの方が命を落とすところであったぞ」
 勝頼が紅潮した面もちで礼を述べると、まわりの者も口々に早季を称えた。
「季之助殿、どうして見抜けたのだ?」
 尋ねられた早季は返答を探しながら言う。
「足取りが怪しく思えたゆえ」
「ほう、足取りだけでよくわかったのう?」
「それに、ほれ、旗印の『大』の字もなにやら形がいびつだ」
 風のような声で言うと、なんとか周りは納得してくれたようだ。
「それにしてもお手柄じゃ」
「まったくじゃ」
 しかし、早季が刺客を見抜けた本当の理由は、伝令の顔が奥平家家臣の吹き矢の名手鈴森依蔵だと思い出したからだ。

   ◇

 
 五月十八日、信長、家康の連合軍は長篠城の西一里ほどの設楽原のあちらこちらに土を盛った小さな砦を作り、その前に柵をまわして布陣した。その数、三万八千。武田軍を大きく上回る大軍である。

 これを受けて勝頼は主だった武将を集めて軍議を開いた。
 勝頼はまず山県昌景に問いかけた。
「山県、家康と信長が我らに討ち取られるがため首を並べたわ、どう攻める?」
 攻撃を前提にした下問に山県昌景は一瞬息を呑んだ。

「たしかに首は並びましたが、我らの兵力は明らかに劣勢。
 しかも長篠城を包囲した味方の陣形を崩さねばならず、見通しの利かぬ地形を見ましても、無理攻めはお味方の損が多うござろう。
 ここはいったん古府中まで引かれるのが上策と存じます」

 勝頼はムッとして唇を噛んだ。
 武田家臣の中でも勇猛と名高い山県昌景が撤退を主張するとは思ってもなかったのだ。

「では、馬場はどうじゃ?
 お主の手綱捌きなら瞬く間に敵の柵を倒して、家康と信長の首を狙えようが?」

 すると、馬場信春は頭を下げてから言う。
「畏れながら、確かに我が騎馬隊どもは誇れるものなれど、こたびは簡単には参らぬと思いまする。
 それというのも、徳川織田勢の用意せし鉄砲の数でございます。
 おそらくニ千丁を越す鉄砲が相手になりましょう、さすればこちらの槍、刀が届く前に何発も弾を受ける公算があります。
 ここはしかるべく城によって敵を少しずつ削いでゆかれるが上策と思いまする」

「なんと弱気な、よいか、家康と信長が首を城の外に並べることなど、滅多に望めぬのだぞ。こちらから尾張まで攻め入れば、兵糧しかり、軍略しかり、ここよりも数段難儀いたすは必定ぞ。
 敵は広く布陣し小さき砦を頼りにしたが、戦に際して動きの鈍い陣立て。これなら数の不利は十分補えるはずじゃ。
 あやつらを倒すにはこの機会に賭けるしかない。
 内藤、そうであろう?」

 勝頼の意見は戦略的には間違っていない。勝つ可能性もあるのだ。
 それを認めて内藤昌豊はうなづいた。

「確かに御屋形様のお説はもっともでございます」
 しかし、内藤も不安を口にする。
「しかしながら既に我が兵どもは疲れておりまする。それに比して織田の軍は着陣したばかり。いっそ早くに長篠城を落としておけば士気も高いまま戦に臨めたと思いまするが、このたびはいささか機を捉え損ねたかと思いまする」

 信玄股肱の四天王たる老将たちは揃って慎重策を進言したわけである。

 勝頼はしばし瞑目して、口を開くと一気に言った。
「そちたちの意見はわかった。
 しかし、我らは父信玄公に瀬田の橋に御旗を立てると誓ったではないか。
 この絶好の機に、みすみす古府中に引くわけにはゆかぬ。
 ここは総攻撃して、家康と信長の首を取るのだ。
 よいな!」
 勝頼は一座を見回して、一度だけ聞いた。
「意見を違える者はおるか?」

 御旗の誓いを持ち出されてしまっては、家臣はもはや誰も反論しようとはしなかった。

   ◇

 早季が喜兵衛の後ろ姿をつかまえて言う。
「喜兵衛殿、総攻撃と決まったそうですな?」 
 振り向いた喜兵衛は「うむ」と沈んだ声だった。
「うかぬ顔ですな?」
 早季が尋ねると喜兵衛は囁くように言う。
「どうやら、これで武田の命運も極まった」
「まるでもう負けると決まってるようではないですか」
「季之助、戦に勝つには天の利、地の利、人の利が必要なのだ。
 ここでじっと構えておれば、そのみっつの利が生かせ、敵の兵が少し多かろうと、勝機をつかめる。
 しかし、この陣地から撃って出ればみっつの利をすべて失うであろう。
 特に人の利は今すでに崩れかけておる」
「そんな」
「山県昌景殿の顔を見ただろう、いつになく静かなお顔であった。あれは死を覚悟した者が見せる穏やかな顔だ」
 早季が言う。
「ならば私が勝頼様に直訴します。
 このうえは我が身分も明かして、出撃をやめていただきます」
「やめとけ、やめとけ、嫌われるだけだ。
 名だたる戦上手の武将、四天王が口を揃えて意見するのを御屋形様は蹴ったのだぞ。
 今更、御屋形様の幻の許婚がひょっこり名乗り出て、命を捨てて直訴したとて止められるものか」

   ◇

 早季はいよいよ心配になり、帳の外へ出て雲の間に現れた月を眺めた。
 月は戦など知らぬかのように静かだ。
 不意に隣で声がした。
「梅雨が明けてしまうと厄介だな」
 いつの間にか横に立っている勝頼に、早季は慌てて周囲を見回し警戒した。
「危のうございます、どうか中へ」
「晴れると敵の鉄砲隊が厄介だ。
 武田にも季之助ほどの鉄砲の撃ち手が五百もおればよいが、そうもいかん。
 あとは馬の勢いで補うしかないな」
 早季は思い切って聞いてみる。
「陣中になお慎重論を申す者もいるようですが」
「うむ、あれらの言い分もわからんではないが、ようやく信長が出て来て、家康と首を並べておるのだぞ、この好機を見逃せようか?
 尾張にまで遠征して信長を討つはいろいろ民に難儀をかける。
 それよりは、国に近いここで討つのが最良なのだ」
 勝頼の力強い言葉に早季は黙ってうなづくしかなかった。
 夜の闇で愛しい勝頼様と二人きり、手を伸ばせば、あの熱い胸に届くのだ。
 そう思うと早季は自分の正体を告白したい女の衝動にかられた。しかし、それを告白すれば、自分は処刑され、勝頼を守り通すという誓いは果たせなくなる。
 早季はそっと唇を噛み締めた。

   ◇

 五月二十一日卯の刻、武田軍は織田徳川の柵に向かって突撃を開始した。
 左翼から山県昌景隊、右翼から馬場信春隊が攻め寄せる。
 しかし柵の百間手前で、敵の鉄砲が一斉に火を噴き、瞬く間に二割ほどが倒れた。
「うぬ」
 戦況を眺めていた勝頼は思わず唸った。
 山県隊は、味方の屍を乗り越えて、柵の切れ目で敵徳川と激突する。
 だが、そこまでたどり着く兵数が不利な上に手負いの山県隊は、敵を押し込むまでには至らない。
 後続隊も突撃するが、次から次へと鉄砲の威力の前に倒れてゆき、設楽原に武田軍の屍が落ち葉のように散り積もってゆくばかりだ。

 早季はいつでも射撃に移れるように立て膝に鉄砲を立てかけた姿勢で戦況を眺めていたが、悔しさに唇を噛んで勝頼を振り返った。
 勝頼の顔は、最初は大勝負への興奮で血気がみなぎっていた。
 だが、山県隊が思うように戦果をあげられないとわかると怒りのため紅潮した。
 そしてむしろ敵に料理されるのみとわかりいまや青ざめ始めた。

 山県隊が柵を越えた地点で敵に囲まれてしまった。
 攻撃に反対した山県昌景が微塵の迷いもなく勇猛に戦っているのは、勝頼にとって心強かったが、しかし、その山県昌景が危ないのだ。
 勝頼は「馬引け、加勢に行く」と叫び立ち上がった。

 早季にも勝頼の気持ちが痛いほどわかった。しかし、総大将が最前線に加勢するなどというのはどの軍にあっても一番やってはいけない禁じ手だ。ただ危険に首を晒すだけでしかない。
「殿、危のうございます」
 早季が勝頼に飛びついて倒すのと、銃声が鳴り響くのとが同時だった。
「敵の鉄砲は狙いは正確ではありませんが、二百間先からでも撃ってきます。
 ここで万が一、殿が敵の鉄砲にやられては、私が、いえ、お家が困ります」
 勝頼はうなずくと床几に腰を落とした。

 戦況は好転せず、『大』の旗印をつけた伝令が武将の討ち死にを報告する。
「山県三郎兵衛殿、御最期にございます」
「なんと」
 勝頼は手にした軍配を落としそうになった。
 早季はやるせない気持ちに包まれた。

 間をおかず、次の伝令が報告する。
「内藤修理殿、見事に討ち死になされました」
「なんということじゃ」
 勝頼はあおざめた顔で唇を震わせた。

 また新たな伝令が飛び込んでくる。
「真田信綱、昌輝殿、揃って御最期の由」
 喜兵衛は兄の真田信綱、昌輝が揃って討ち死にと聞くと、思わず「ばかな」と声を上げ、悔しさに肩を震わせた。

 信長が何よりも恐れをなし、三方が原の戦いでは家康本陣に襲いかかり、家康の肝を縮み上がらせて失禁までさせた武田の精鋭軍団が、今は無惨にも敗北の坂を転げ落ちているのだ。
 早季もここまで一方的な戦になるとは考えもしなかった。

 跡部勝資が勝頼の前に平伏して言う。
「御屋形様、無念ですが、もはや勝機を失しました。
 ここは、古府中に戻り再起を図りましょう」
「ならぬ、旗本だけでも斬り込んで、家康と信長の首級をあげるのだ」
「お気持ちごもっともなれど堪えてくだされ」
 勝資が涙を流すと、さらに喜兵衛も加わる。
「後日、きっと喜兵衛が信長、家康の首級をご覧に入れますゆえ、ここはお引き下され」と訴えた。
 織田、徳川の軍勢の先端はすでに勝頼本陣に近づいて来る。

 もはや猶予はなかった。
 帷幕の陰で馬に乗った勝頼は悔し涙を流しながら織田、信長に背中を見せた。
 早季は本陣の足軽衆と共に勝頼を早足に駆けて追いかけた。

 何町か行くと、後ろから怒鳴り声が響く。
「あけい、道をあけい」
 見ると、槍を持った騎馬が猛然と駆けて来る。
 兜や鎧からは馬廻り衆でないことは確かだが、敵か味方かもわからない。ただ味方に突いて来ないからには味方なのだろうと、皆が道を開けた。
 しかし、早季は鉄砲に素早く火縄を付けると、道の正面に立って構える。

 馬上の武者の目がカッと見開き、槍を肩の上に構えた。
 それを見届けた早季は片目で睨みつける。
 瞬間、銃声が響き渡り、武者は馬から落ちた。
 そばにいた足軽が駆け寄り、声を上げる。
「おお、この腰に畳んだ母衣は織田方だ」
「眉間を撃ち抜かれとる、見事じゃ」
「騎馬の前に立ちはだかるとはたいした肝っ玉じゃ」
 みんなが褒めそやす中、早季は黙々と鉄砲の銃身を掃除し、弾を込めると風の声で言った。
「さあ、御屋形様に追いつこう」
「季之助、そこそこの武将のようだぞ、首級を持ってゆかぬのか?」
「わしの役目は御屋形様をお守りすること、首を取ることではない」
 早季は駆け足で走り出し躑躅ヶ崎館に帰った。

   ◇

 長篠の敗戦を境に武田は衰退の道を歩み始めた。
 天正五年、長篠の敗戦からの立て直しのため、長年の宿敵の上杉謙信と同盟を結ぶと、さらに北条からも氏康の娘を勝頼の正室に迎える。

 ところが翌天正六年に上杉謙信が病死、越後に御館の乱が勃発。
 当初、勝頼は北条の推す上杉景虎を支持したが、無理な要求を出され、景勝の支持にまわり、北条との関係は冷えこんだ。

 天正九年になると徳川家康が高天神城を奪還。

 天正十年には木曽義昌が謀反を起こし、勝頼は武田信豊を征伐に向かわせたが、敗退。 それに続いて飯田、大島、伊那の各城が雪崩のように敵方に落ちた。

 兄の死を受けて武藤家から真田家に戻り家督を継ぐことになった武藤喜兵衛こと真田昌幸は築城中の新府城で早季を呼び止めた。
「季之助、御屋形様に、危ういことがあれば、吾妻城においでくださいと、お前からも強く申し上げてくれ。
 真田には御屋形様を迎えて二年の籠城を持ちこたえる準備ができておる」
「時が来れば申し上げますが、それはまだ先でしょう」
「ならばよいが。とにかく、機を見て申し上げてくれ」
「わかりました」

 喜兵衛と別れた早季は、町の中を抜けて人のまばらな道に入った。さらに進んだところで、不意に肩をつかまれ、小屋の物陰に引き込まれた。
 早季は風の声で言う。
「なにやつ?」
 早季は武者のなりはしていても力は非力だ。人足姿の男にたやすく押し倒された。
「ふふ、俺の顔、よもや忘れてはおるまい」
 馬乗りになっている人足姿の男の顔は泥でくすんでいたが、勝之進の声に間違いなかった。
「知らぬ」
「ふん、男のなりをしてるのは知っているぞ。早季姫」
「勝之進は恥を知らないのですか」
「なんの話だ」
「奉公人のおきよを孕ませ、祝言を上げると偽り、子供を堕ろさせたこと、私は聞いて知っています」
「ケッ、それもそなたひとりを幸せにするために、わしが他のおなごを思い切った優しさではないか。姫は愚か者よ」
「赤子とおきよを捨ててよくもそのような非道いこと。
 勝之進と添いたいと思うおなごなどこの世におりません」
「俺の方こそ、おまえにさんざん恥をかかされ、もはや家にも戻れんのだ。
 今の俺の悲願はな、おまえをたっぷりと辱め、殺すことだ」
「だ、誰か」
「そんな風のような声では誰にも届くまい。
 今や武田は風前のともし火、そして奥平は徳川の元で朝日の勢い。あの時、俺に従い妻になっていれば、俺とお前、安楽に暮らせたものを。
 姫はまこと愚か者よ」
「このようなことをして何が面白いのです」
「ああ、面白いぞ」
 勝之進は下劣に笑い、早季の袴を脱がしにかかった。
「はは、ここは娘のままじゃないか」
「誰か、助けてえ」
「ここは、どうして焼き潰さなんだ。
 好き者め、やはり使いたかったのであろう」
 勝之進は劣情のたぎるまま、早季を犯そうと腰を合わせた。
 が、次の瞬間、
「ギェーッ」と勝之進は悲鳴を上げた。
 そして血のしたたる股間を押さえて、みっともなく地面をのたうちまわった。
 早季は体の奥に鋲のようなものを仕込んでいたのだ。
「いつぞやの隠し湯以来、お前が狙っているのではと備えていたのです」
「ヒィーッ、卑怯」
 勝之進はなんとかせねばと考えるが急所の痛みは男には耐えようがなく、ひいひいと唸ることしか出来ない。
「勝之進、覚悟。
 おきよと赤子の無念を思い知るがよい」
 早季は懐刀を取り出すと勝之進の胸を刺した。

   ◇

 天正十年三月、武田の最前線である高遠城は、勝頼の弟である仁科盛信が籠城して果敢な戦いを見せたものの落城した。

 それに続いてこともあろうか、親類衆筆頭の穴山信君まで徳川に寝返り、真田昌幸の危惧はいよいよ本当になってきた。

 早季は勝頼に畏れながらと口上する。
「御屋形様、当代きっての智将真田昌幸殿が守る吾妻岩櫃城に参ること、是非、お考え下さい。
 真田の城では籠城の備えも万全に御屋形様をお待ちしていると聞きます」 
「うむ、真田なら心強いと、わしも考えておったところじゃ」
「そうなさいませ、きっと真田昌幸殿は御屋形様をお守りいたします」
 勝頼の心がすでに真田に決まっていると知って早季は深く安堵した。

 

 しかし、すぐ譜代武将の小山田信茂からも勝頼一行を岩殿城に招く旨が伝えられる。
 すると、周囲の者どもは、真田よりもずっと古くから仕えてきた小山田を頼もしく思い、そちらに移りたいと言う声が増え出した。
 勝頼は周囲に問うた上で小山田信茂の岩殿城に移ると決めた。

 早季は慌てて勝頼に訴える。
「御屋形様、朝は真田昌幸殿の吾妻城がよいと仰せでしたが」
「うむ、真田もいいが、小山田の岩殿城もなかなかの堅城だ。
 それにここより近いゆえ、女子の多いここはひとまず岩殿に入る」
「しかし……」
 早季は言いかけて言葉を飲み込んだ。
 嫌な予感がするのだ。
 各地の国人は雪崩のように寝返っている。小山田様とて安心ならない。
 しかし、根拠もなく小山田が信用できないなどと意見することは身分の低い早季には到底できないことだ。
 勝頼は笑って言った。
「季之助、心配するな」
 
 かくして、勝頼は小山田信茂の岩殿城に向かうことにした。
 勝頼に従う者およそ三百。しかしそのうち百人近くを人質と女が占めていたので、実際に戦える者は二百名ほどの心細さである。
 この兵力ではまともに戦うことはできない。
 なんとしても早く味方と合流して、しっかりした城に入らなければ、滅亡するしかないのだ。

 一行は笹子峠の麓に着くと、山賊が待ち構えているとの報を受け、小山田信茂の迎えの軍を待った。
 そして陽が暮れかけた時である。
 突然、茂みの中から数十の人影が現れ、小山田が人質に差し出した母など数名をさらって逃げにかかった。
「足抜けだ、小山田だ」
 気付いたものが叫ぶと、旗本たちが追いかけて取り戻そうとしたが、道の先には既に援護の兵が配置されていて、鉄砲を撃ちかけてくる。
「おのれ、信茂まで、逆心いたせしか」
 勝頼が怒鳴る横から、勝頼を見限った者が数十名逃げ出すありさま、武田の命運は完全に尽きていた。
 ただ早季はこの逆境にあっても冷静さを失わず、目の前の敵を確実に倒して勝頼を守った。それだけが勝頼に対する早季の愛の証なのだ。

 ただひとつ、早季にも耐えられないことがあった。
 それは夜のことだ。
 以前は秘め事は館の奥で交わされていたからはっきり聞こえることはなかったが、今は行きずりで借りた民家から、あからさまに洩れてくるのだ。
 闇の向こうで勝頼の正室、北条氏康の娘が涙ながらに訴える。
「北条が私達を見殺しにするとは非道でございます」
「家を責めるでないぞ、我らとて北条が味方する上杉景虎を見限ったのだ。
 北条には北条の保身がある。それが乱世のならいだ」
「殿、申し訳ございません」
 妻の啜り泣く声に、勝頼が囁く。
「もうよい、泣くな」
 やがて啜り泣きに、時折、甘い溜め息が混じり、やがてそれは激しい交わりの声に変わる。
「ああ、あ、殿」
「う、うむ」
「あれ、ひっ」
「よい、よいぞ、おお」
 勝頼と妻が残り少ない生命をむさぼり合う、激しい交わりの声に早季は耳を覆った。
 本来なら自分も勝頼に抱かれていたかもしれぬというのに、今の自分は醜く顔を潰して男のふりをし、警護の任務に邁進するしかない。
 早季は声を殺して泣いた。

   ◇

 小山田信茂に裏切られた勝頼は、もはや生きる場所ではなく、死に場所として天目山を目指すことにした。
 そう知って、従う兵も夜陰に乗じて消えてゆく。
 この頃になると、山賊や忍者くずれも恩賞目当てに勝頼の首を狙っていた。
 道は日川という小さな川に沿う、馬一頭通るといっぱいの狭いもので、大軍が動くには無理がある。しかし、狙撃にはもってこいである。
 一行が移動している時、行く手の樹木の梢で影が動いた。早季がめざとく影に向けて鉄砲を撃ち込むと、ぎゃっと悲鳴が上がった。
 次の瞬間、報復のように、矢が早季の左肩を射抜いた。
 旗本頭が「敵の物見かもしれんが油断するな」と叫ぶ。
 常に監視されていることが明らかになり、緊張は更に高まった。

 その夜、勝頼と正室北条氏、息子信勝は小さな社を宿にした。
 勝頼は最後まで従ってくれた旗本たちに声をかけてまわり、早季を見舞った。
「季之助、傷はどうだ?」
 久しぶりに声をかけられて、早季は風の声で嬉しそうに答えた。
「御屋形様、大丈夫です」
「うむ、季之助には命を救われたからな、この度はわしが手当てしてやろう」
「もったいない」
「膿止めの薬を飲ませてやるゆえ、頬当てを取れ」
 早季は慌てた。
「いえ、拙者の醜い顔、お見せできませぬ」
「わしがかまわんと言うのじゃ」
「なりませぬ」
 早季が鋭く言って頭を引くのを、勝頼はさっとつかまえて早季の頭巾を外した。すると頬の下に広がる爛れの下の唇は美しくこぶりで、どう見ても女の唇だった。
「なんと」
 勝頼が驚くと、早季は観念して風の声で言う。
「お、お人払いを」
 勝頼は近くの者どもに「他言無用じゃ」と言い、早季に向き直る。
「おまえは何者じゃ?」
「勝頼様に恩あるおなごにございます。真田昌幸様の計らいでこのような形でご奉公して参りました」
 しかし、唇と風のような声だけでは勝頼の記憶を覚ますには無理がある。
「おなごの顔を潰し、喉を潰してまでわしに恩を返すと申すのか。
 名はなんと申す?」
「それは堪忍してくださいまし」
 早季は答えをはぐらかしたが、勝頼は察した。
「そのようにしてまで、わしに尽くそうなどという健気なおなごはそうそうおらん。
 わかったぞ、お前は早季姫であろう」
 嬉しさに胸が震えた。
「……御屋形様」
 泣き始めた早季を勝頼はきつく抱きしめた。
「早季、よう生きていてくれた、嬉しいぞ」
「私は謀反人の娘、どうぞ御成敗なさいませ」
「なんの、今さら」
「しかし、それでは示しが……」
「明日にも滅びる武田に示しなどあろうか、早季」
 勝頼ははばかることなく愛しい早季姫を激しく抱いた。
 口を吸われ、乳を吸われ、懐かしい吐息が早季の柔らかな体を這い、勝頼の熱い火照りが早季の熱い火照りを貫き、互いの体を溶かすようだ。
「早季、早季、もう離さんぞ」
「殿、嬉しうございます。もはや思い残すことはありませぬ」
 いよいよ明日は死ぬ定めの二人の交わりはひとしきり続いた。

   ◇

 朝霧とともに、川上からは五百人近い人数が、川下からは信長の先鋒部隊である滝川一益率いる二千人が勝頼一行を目指して迫ってきた。
 勝頼の五十名に満たない軍勢が半日ともたないことは明らかだ。
 早季は川下から来る敵を次々と八十名も倒して怖気づかせたが、それとて数の上で圧倒的な敵には焼け石に水だ。
 土屋昌恒は道が崖に呑まれそうなところに、片手で蔓につかまり身を隠し、川上から来る敵を片手だけで次々と斬り倒した。
 早季も懸命に戦ったがやがて鉄砲の弾が尽きてしまった。
 敵も鉄砲の弾が尽きたと知ると今度は勢いに乗って突撃して来る。

 白兵戦が苦手な早季はせめて最期は鉄砲で殴りかかろうと覚悟を決めた。
「おりゃあ」
 声を上げて大男がふりかざした刀を早季は鉄砲の銃身で受け止めて返そうとする。
 しかし、上背がある大男はびくともしない。
 男は銃身越しに切っ先を伸ばして早季の首をえぐりにかかる。
「ううッ」
 早季が力負けし、肩から血が流れた時、脇からすっと勝頼が飛び込んで来た。
「我こそ、武田四郎勝頼じゃ」
「おう、大将とあらば、三国一の…」
 大男がむだ口をたたく間に、勝頼はたちまち大男の胴体を斬り裂いた。
 そこへ五人ほどの新たな敵が殺到したが、道が狭いために結局一人一人しか戦えない。 勝頼は五人をたちまちに斬り倒した。

「早季」
 勝頼は胸から出血している早季を抱いて、姫の衣装櫃や武者の具足櫃を積み上げた陰に入った。
 そこは、すでに勝頼の正室と息子の信勝が自刃して血の匂いに満ちている。
「早季」
「勝頼、様」
「早季、お前のことがずっと心残りだったが、こうして心から好いたお前と最期を一緒に過ごせて、わしは戦国一の果報者じゃ」
 勝頼が笑ってみせると、早季も笑みを返した。
「お傍にお仕え……、本当に幸せ……、私は」
 勝頼が「うむ、なんだ」と尋ねたが、早季はがっくりと力をなくした。
「もうよい、もうよいぞ」
 勝頼は泣きながら早季の上に美しい着物を被せた。
「早季、案ずるな、わしもすぐ行く、待っておれ」

 そこへ怒鳴り声と共に新たな敵がなだれ込んで来た。
 槍が一本、また一本と突き出される。
 勝頼は最初の二本の槍は切り落としたが、一本を足に受けた。

 脇差しを投げつけて槍の使い手を刺し殺したが、新たな槍が次々と押し寄せる。

「名を名乗れ、無礼者…」
 勝頼の言葉が終わらぬうちに、新たな槍が勝頼の胸を突き刺し勝頼はその場に倒れた。

 かくして戦国最強と怖れられた武田家は消滅した。
 最期の殉死者名の列に早崎季之助の名も早希姫の名もない。

   ◇

 沙希が目を開けるとそこは旅館の十畳ほどの布団の上だ。
 夢にしてはなんともリアルな夢だった。つまり前世ということなのかもしれない。

 なるほどそれで射撃の才能が備わっていたのだ。
 偉かったな、前世の自分を褒めてやりたい。
 だが、それだけのような気もする。
 それでこの後はどうすればよいのですか?
 そう聞いたところで答えが降って来るとも思えない。

 人は時には前世を知りたがるが、このように偶然わかったとして、それをどうしたらよいかという新たな謎が生まれるという仕掛けで、結局、謎は途切れることはないという仕掛けなのかもしれない。

「ねえ、誰かいる?」
 窓際のソファーに向かって仰向けのまま問いかけたが、返事はない。
「……薄情ねえ、私、倒れたんでしょ」
 沙希が上半身を起こすとそこには補水のジュースと菓子の皿があり、メモがあった。

【覚えてないかもしれませんが、救急で二時間も点滴を受けて先生がもう大丈夫だろうというので、こちらに運んできました。特に異常はないそうです。
 私たちは温泉に行って来ます! お大事に!】

 沙希は「ん、もう」と言って完全に起き上がった。
「それじゃあ本当に、ほったらかし温泉じゃないの」
 そう言ってひとり笑い出した沙希だった。     了
 

 

中編小説

Posted by honya3ginga