コンタクト

コンタクト

 このお伽噺はあなたのタイムラインの実話かもしれない

 

 

       1

 

 深夜。チャイムを使わず、ドアが三回ノックされました。
 もしかしてトシかもしれない。私は読みかけのファッション雑誌を裏返しに置き、鏡を覗いて髪を手ぐしで整え、玄関に行きました。ドアのピンホールから覗くとトシらしい俯いた頭が見えました。
「誰?」
「あ、俺、北村だよ、終電に乗り遅れちゃってさ、歩いてきた。泊めてもらえると助かるんだけど。いい男が来てたら遠慮しとくよ」
 私は嬉しさを隠せないまま言い返します。
「幸か不幸か、いい男は不在ですよ」
 ドアを開けると赤い顔をした北村俊也がアルコールの匂いと共に「恩にきるよ」と言いながら入ってきました。
「どうして終電に乗り遅れるまで、飲んでるのよ。明日も仕事あるんでしょ」
「うん、なぜか十二時近くになると時計が急に速く進むからさ、おかしいんだよ」
「そんな、おかしなこと絶対ありません」

 トシはあぶなっかしい足どりでソフアまでゆくと、ドンと腰をおろしました。
 トシはネクタイを取りながら、
「久美、水くれる?」
 私は水をくんだコップを渡しながら、つい所帯じみた発言。
「あんまり飲みすぎると体に毒よ」
「うん、そんな風に言ってくれるのは久美だけだよ」
 トシがボーとしつつも私を見る視線に私はどぎまぎ。
「こ、こんな深夜に突然来られると、私も迷惑だから言ってるの」
「うん、感謝してますって」
 水を一気に飲み干したトシは、スーツの内ポケットから小さなプラスチックの円筒形のケースを取り出しました。
 そして、左の指で自分の瞼を開きながら、眠そうな声で、過去にも何度か聞かされた話をします。
「このレンズを外すのを忘れるとね、瞼とレンズと目ん玉が接着剤つけたみたいにくっついてさ激痛なんだぜ。大騒ぎして救急車を呼んだことがあったんだぜ。恥ずかしかったなあ、あの時は」
 トシは慣れた手つきで、右の指で目の表面をつまみコンタクトレンズを外すと、円筒形のケースに収めます。トシはそんなにひどい近眼ではなかったけど、乱視が混ざっているのと、眼鏡だと疲れるという理由で、コンタクトにしてたのです。
「これで安心して眠れるよ」
 私が毛布を一枚渡してあげると、トシはそれを抱くように胸にかけ、「おやすみ」と言ってソフアに横倒しになると、すぐに寝息を立てた。
 私はトシの寝顔を眺めながら、聞こえないようなうんと小さな声で「トシ、好きよ」と囁きました。

 

      2

 

 トシとは大学のアーチェリー部で一緒になってから、たまに食事したり、映画を観たり、ドライブに出かけたりしましたが、それは二人きりよりグループの時が多くて、つまりは絶対に二人きりでなければという異性としての意識は希薄だったのです。
 そのことはお互いに明言しあって、「いい恋人、見つけなよ」と言い合ってる友人の仲だったのです。
 だから、たまたま二人きりで湖畔にドライブしても、トシは私より車の調整に忙しく、私は私で湖畔でボーっとして白樺の林から白馬に乗った王子様が現れないかと想像していたぐらいで、トシと見つめあいキスをするという風には進みませんでした。

 大学を卒業すると、私は外資系の会社、彼は小型家電メーカーに就職しましたが、時々、終電を逃すと、トシのアパートは乗り継いだ先のかなり郊外にあったので、都心から近い私の部屋を訪ねてくるようになったのです。
 私としては、トシの便利なホテル?になるつもりはなかったのですが、女って不思議なもので、男の寝顔を見ながら世話をしてると、なんだかこの男は私が世話してやらなきゃならない、私の男だ、みたいな気がしてくるんですよね。
 そしてぼーとした寝顔と、朝、凛々しいワイシャツの後ろ姿のギャップを見せつけられると、この男もなかなかカッコイイじゃないとドキドキして、初めてトシに恋心を感じた自分に気付いてしまったのです。
 しかし、友達関係が長かった男女は身近にいるがゆえに恋に発展するのは非常に難しいというのは、大学時代に言われていたのでした。
 あれは、大学2年頃、サークルの皆で喫茶店に寄った時、トシが聞いたのです。
「男女の友情て絶対恋に発展しないって聞いたことあるひと?」
「う~ん、詳しくは知らないけどどっかで聞いたよ」
 私がそう言うと、エミが説明してくれました。
「職場や学校、サークルなどで、身近にいながら一年間何も色めいた事も、ときめいた事もなく、それでいて親しく日常を共にする男女は、憎んでいる男女より恋に落ちる可能性が低いんだって」
「えーっ、ホントに?」
「世界一縁の遠い相手になってしまうんだって。そして2年、3年と年数がたてば、二人の恋の種は永久凍土のように凍り付いてしまい決して芽を出さないって」
 そこで、トシがうなづいてクイズを出しました。
「これは相対性理論の科学者が作った問題なんだけど、もし無限に見通しがきく望遠鏡があって、それで宇宙の果てを覗くと何が見えると思う?」
 しばし、一同考え込むと、ユキちゃんが沈黙を破って、
「あ、わかった、行き止まりの標識!」
 どっと笑い声がおき、トシも笑いつつ「真面目な問題だよ」
「えー、わかんないよ」
 みんなが降参すると、トシが答えを明かしました。
「それはね、望遠鏡を覗いている自分の後ろ頭なんだってさ。つまり、一番遠いのが自分なんだから、そばにいる友達は二番目に遠いってことなんだよ」
「へえー」「ふうーん」
 みんな、わかったようなわからないような感心の仕方でした。

 あれから5年たった今、まさに私とトシの関係は一番近いのに、恋には一番遠い関係て本当かもしれないと思えてしまうのでした。

 

      3

 

 翌朝、トシは二日酔いの頭を叩いて「ゆうべの俺、酔っ払った勢いで久美のことを襲ったりしなかった?」なんて聞くんです。
 はっきりした意識と後で責任取ってくれるなら、そういう既成事実があってもいいかななんて考えながら、私が「大丈夫、いいコしてねんねしてたわ」って言うと、トシは安心したようでした。
「少ないけどホテル代に受け取ってくれよ」
 トシが紙幣を差し出すと、私は笑って押し返します。
「いいわよ。男を泊めてお金を貰ったなんて、実家に知れたら、私、カンドウされちゃうわよ」
「だって迷惑かけて、朝食まで作ってもらって……」
 トシの目線がテーブルのトースト、ベーコンエッグ、サラダの間を泳ぐと、私はちょっと得意です。
「困った時はお互いさまよ」
「サンキュ、じゃあ、今度、お返しに夕食をおごるよ」
 私は思わず微笑みます。
「そうね、それぐらいはお返してもらってもいいかな」
「いつなら空いてる?」
 介抱した翌朝は、こんな感じでトシにデートの約束をとりつけるのが、実は私のささやかな幸福になっていました。
「来週なら水曜が空いてるけど」と言うと、トシは「オーケー」とうなづいてスマホのリストにメモします。
「いけね、今日は会議の準備があるから早く行かなきゃならないんだった!」
 トシはスマホから顔を上げると慌ててトマトジュースを飲み干しました。
「久美のおかげで助かったよ。じゃあ来週水曜な」
 そう言い残すと、トシは急いで玄関から出てゆきました。
 私はテラスに出て、トシがネクタイを肩の上までなびかせて走ってゆく後ろ姿を眺めました。
「ああ、トシの心の中をすっかり覗けたらな」
 自然と大きな溜め息が洩れました。

 

     4

 

 その日は、例の介抱のお返しで、トシにレストランで食事をおごってもらいました。
 それからバーでカクテルをご馳走になり、ほろ酔い加減で外に出ました。
 トシを意識していなかった学生時代は少しもそんな気持ちにならなかったけど、その晩の私はみずから罠に飛び込むウサギのように彼の腕にしがみつきました。
「ねえ、トシ、どっか行こう」
 トシは笑って言います。
「あれ、久美、酒に弱くなったんじゃない?」
「そんなことないわ」
「前はこれぐらいでびくともしなかったじゃない」
「まあ、ひとをコンクリートの塊みたいに、失礼ね」
「時間も遅いし、そろそろ帰ろう」
 トシがそう言うと、私はキリッと睨みます。
「だめ、まだあ、これから遊ぶの!」
「まだって言ってもお互い明日も仕事あんだぞ、ちゃんと歩けよ」
「構わないから、おんぶしてどっか連れてって」
「ほんとに酒癖悪くなったな」
 トシはしぶしぶ私をおんぶして歩き出しました。
 私はそうやって甘えながら、トシの背中に触れている胸で何かがあふれてじんじんと傷むのを感じました。そこに知らない間に出来たちっちゃな傷がある予感がして。
 私は明るい口調を装って尋ねます。
「ねえ、トシ君さあ、ずっと前に、もしいい相手がいなかったら、私のことをお嫁さんに貰ってくれるって言ったことあったでしょ、覚えてる?」
 トシの答えはそっけなかったです。
「うーん、言ったかもしれないね」
 私は、かもじゃないだろうと思いながら、冷静かつ恥ずかしさをこらえながら聞きます。
「あれって、今でも有効なの?」
「急にどうしたん?」
 私は(おいおい、聞き返さないで質問に答えろよ)とイラつきながら、ぶりっ子ボイスで言います。
「ちょっと思い出したの。で、今も有効?」
「あれはさ、お互いが適齢期を寂しく終わった場合の仮定の話だろ?
 もしかして、お前、ついにいい男でも出来たのか?」
 私はその言葉にトシが焦ってるのではと、ひと筋の希望の光を見出して、聞き返します。
「ううん、私のこと、心配してくれてるの?」
 ああ、なのにがっかりさせる冷たい答え。
「いや、心配なんかしてないさ。俺もいい女見つけるから、久美も早くいい男を見つけて片付けよ。どっちが早いか、競争だ」
 そう言われた私は、目の前で、鉄の扉をドスンと閉じられた気分になって、息が詰まりました。
「もう降ろしてよ」
 突然、気まぐれに叫んでやると、トシは「ああ、疲れた、疲れた」と言って私を背中から降ろしました。
 その言い方も私の気に障りました。
「この先に変わったおでんの屋台があるんだ、行ってみよう。時々、映画俳優も来るみたいだよ」
 トシが誘いましたが、私は断ります。
「もういい、私、帰る」
 私が反対の方角に歩き出すと、トシはびっくりして追いかけてきて言いました。
「久美が帰りたくないって言い出したんじゃないか? 屋台がいやなら、クラブでも行ってみるか?」
「もういいの、帰るから」
「何を怒ってるんだよ、自分から言い出しといて。まったくコロコロ変わるから女ってのは嫌いだよ」
 私の胸に突き刺さる『嫌い』の文字。
「仕方ないな、じゃあ一緒に帰るよ」
「いいの、一人で帰る」
 私が言うと、トシは不機嫌そうに「勝手にしろ」と言い捨てて、私たちはそこから、ばらばらに帰ることになりました。

 胸の中で悔しさと怒りが空回りしたままで夜の駅前通りをずんずん歩いて行くと、旅行会社のビルの前に易者が小さなテーブルを出して座っているのが見えました。見た目は鼻筋の通った日本人の中年男性でしたが、薄茶色のチャイナ服を着ています。テーブルの上には『易』と書かれた四角い小行燈があり内側で炎が揺らいでいました。
 いったん通り過ぎて、私はひきつけられるように『易』の字を振り返りました。
 するとその瞬間、その占い師は「アンタ、聞きたいことあるね、パチリ当ててあけるよ」とわざとらしい濁点をつけない喋り方で私を呼び止めました。深夜番組で変なものを売ってる芸人みたいな呼び込みでしたが、足が疲れてた私は吸い込まれるように椅子に腰を下ろしました。

 

     5

 

「片思いのひとがいてその人との恋の行方を占ってほしいんです」
 そう告げると私の名前と生年月日を聞いて、短い白黒の文鎮みたいなのを並べました。
そして竹棒の束をぐるりとまわしてシャッフルして、つまんで数えます。
 占い師はおもむろに言いました。
「そうね、その相手は、みちかな人あるね。長いこと親しくしてた、たから友たちみたいなって、恋のきかけ、見るからないあるね?」
「ええー、どうしてわかるの?」
 私はトシのことを見事に言い当てられびっくりしてしまいました。
 有名人なら事前にリサーチしておけるけど、通りすがりの私のリサーチなんて無理だから、この占い師は本物かもしれません。
「そうなんです、彼は私を異性として見る感覚が鈍ってしまってると思うんです。
 でも彼も心の中では私のこと意識してるような気もするんですよ。将来、この恋が叶う可能性はありますか?」
 占い師は真剣な表情で竹棒を波立てるようにもんでは、文鎮みたいなものを数本裏返すと、やがてじっと目をつぶって言いました。
「そうねー、フカノーではないが、むつかしいあるね。アンタが下手に出て、彼にすかっても、相手はいやかるね、相手ひくあるね。ても、さりけなく、アンタのせつない恋心を伝えることてきたら、相手の心もうこくね」
「どうすれば、さりげなく私の恋心を伝えられるんでしょうか?」
「それはアンタか、ちぷんて、かんかえることね」
「そうですか……」
「ま、カノーかもしれないから、かんぱってね」

 相談は終わってしまい、お金を払った私はいったん席を立とうとして、思い出したように椅子に座りなおしました。
「あの、彼の気持ちを確かめる方法はありませんか?」
 すると占い師は一瞬びっくりしたようでしたが、顔を近づけて囁きました。
「内緒ね。他人にいわない約束するなら、魔法の薬あるよ」
 予期せぬ答えに私は思わず声を上げました。
「本当ですか?」
 占い師はさらに小さな声で言います。
「うん、金龍眼ね。相手の持ち物ひとつ身につけて、金龍眼飲む。すると相手の心の願望、手に取るように見えてくるね」
「それ欲しい! いくらするんです?」
「ちと高いあるよ。ひとツプ、七万円あるね」
 私の心の中で多くの声が騒ぎ出しました。絶対インチキだよ、間違いない。そんなのが本当ならすごい有名になってるでしょうが。嘘だよ、ニセ物だから内緒にしろって言うんだよ、絶対詐欺だよ、と非難する声が一斉に上がります。
 でももし本当にトシの心が見通せるなら、私は十万円でも惜しくない気がしました。
 仮にニセ物でもいい、それで自分がトシの心を知るために努力する一歩になれば、金額はともかく前進と言えるのかもしれない。
 アルコールとトシの冷たい言葉で心がぐらぐらに揺れていたせいもあり、私は占い師に宣言しました。
「すぐ買いますからちょっと待っててください」
 そばのコンビニでお金をおろして来ると占い師は旅行会社の隣のシャッターを開けました。そこは輸入雑貨と漢方薬の販売店だったのです。
「アンタ、見かけより勇気あるね。チプンだったらいきなり七万円出さないある」
「私は信じたんだからそんなこと言わないでください」
「ああ、コメン、コメン。じゃあこれが金龍眼あるよ」
 そう言って占い師は見た目は正露丸のように真ん丸の金龍眼を一粒スプーンで掬い上げると、マッチ箱よりひとまわり大きく内側に絹の布が敷かれた桐の小箱に入れて私に手渡しました。

 

     6

 

 それから十日間ほど、トシはたまの挨拶メールの他は、用のない間違い電話を一度かけてきただけ、会うことはありませんでした。

 その間、毎晩、私は桐の小箱を開いて正露丸によく似ている金龍丸を眺めては、トシのことを思って、声を聞きたい気持ちが抑えられなくなると、電話をかけてしまいました。
 できればトシを誘いたかったのですが、結局、(特に用はないんだけど)と切り出して、今日の出来事をとりとめなく報告しただけで終わってしまいました。
 
 さらに二日後の午前0時すぎでした。
 ドアが三回ノックされました。
 私は駆け足になりそうなのを押さえて、玄関に行きました。
「トシ?」
「ああ、毎度申し訳ない、今晩、泊めてくれないか?」
「しょうのないひとね」
 精一杯迷惑そうに言いましたが、心は嬉しくてスキップしたいぐらいでした。
 赤らんでいるに違いない顔に気付かれないか心配しながら、ドアを開けると、トシは私にぺこんと頭を下げると、ソフアに直行し、いつものように水を1杯ねだります。
「ありがとう」
 トシはそう言うと、さっさとソフアに横になってしまいました。
 私はトシのスーツをハンガーにかけて、眠りに落ちてゆく、彼の顔を眺めました。
 そしてハッと思い出しました。
「トシ、コンタクト、コンタクト!
 外さないと貼りついて大変なんでしょ!」
 私が激しく揺さぶると、トシは「ああ」と言って上半身を起こします。
 私がスーツの内ポケットからコンタクトのケースを出して渡し、トシは慣れた手つきでコンタクトレンズを外し、小さな円筒形のケースに収めました。
「ほいじゃ、おやすみ」
 トシが再びソフアに伸びて眠ると、私は毛布をかけてあげて「これでいいわ」とつぷやきました。

 トシの持ち物の中から、どれかを身に着けて、あの金龍丸を飲めば、私はトシの心の中をすっかり見通せるかもしれないのです。
 ハンカチ、腕時計、手帳など、いろいろ手にとってみましたが、あまりピンと来ませんでした。結局、よく考えて私はトシ持ち物からコンタクトレンズを選びました。
 なにしろコンタクトは他のどんな物よりも、トシに密着しているし、それを身に着けている時間も他のものには比べ物にならないほど長いのですから、一番ハッキリとトシの心が見通せるに違いないと考えたのです。
 私はトシの心の真ん中に自分の姿があったら、どんなに嬉しいだろうと思うだけで、心臓がドキドキと高鳴るのを感じました。

 私はテーブルのトシの向かいに座り、彼がつける時の様子を真似て、左手で瞼を開き、右の人差し指に乗せたコンタクトレンズを目に近づけます。
 しかし、コンタクトが目に近づくと、目に固いものが入る怖さのせいで反射的に瞼が閉じようとして、コンタクトが収まる大きさで瞼を開けていられません。
 こんなことであきらめないわ、絶対コンタクトを入れてみせる。
 私は自分に言い聞かせて、自分の瞼と格闘を繰り返すうちに、ついにコンタクトレンズは私の瞳に納まってくれました。
 しかし、視力のいいのだけが昔から自慢だった私にとって、トシの目にあわせたコンタクトを通してみる世界は、プールの底みたいにぼんやりと歪んでいました。
 私は手探りに近い状態で金龍丸の薬包みを手にとり、コップに水を満たして、目をつぶって金龍丸を飲み込みました。
 苦味と甘味と酸味が舌に広がり、熱をもった金龍丸の塊が喉から胃に降りてゆくのがわかりました。

 

     7

 

 まだ目はつぶったままでしたが小一時間経ったように思えた頃、つぶった目の闇の中にどこかの部屋の光景が見えてきました。

 それは私の1DKのマンションとは違う、広いリビングで、シンプルだけどどっしりした北欧調のテーブルとソフアがあり、壁のキャビネットにはヨットの模型が乗っています。
 やったあ、金龍丸は本物だったんだ。
 これはトシの心の中の夢に違いないわ。
 私は歓喜しながら、目をつぶったままで映像を見つめました。 
 視界はリビングから、キッチンへと移動してゆきます。
 ここが私の料理する場所かあ。
 広いテーブルに、圧力鍋、ハンドミキサー、ミンチマシンが並んでいます。
 私はもう少しゆっくり見たかったのですが、視界は廊下に出て、寝室に入りました。
 ダブルベッドがあり、脇の扉を開けると、ワイシャツの棚が並び、直角に向くと、大きな姿見があり、鏡に少し歳をとったトシの裸の上半身が映っていました。
 一瞬、慌てて隠れようとしましたが、いやいや、これは夢の映像なんだから、トシは見ている私には気付かないのだと思い直して、トシに見とれました。
 トシはTシャツを着ると鍵を持って、玄関から出ました。
 エレベーターで地下の駐車場に降りると、銀色のスポーツカーに乗り込み、街へくり出しました。
 やがてスポーツカーはファミリーレストランの駐車場に入り、トシは店の中に入ってどんどん歩いてゆき、ボックス席の前で止まります。
「やあ、待った?」
 トシが声をかけると、そこで幼児をあやしていた主婦が顔を上げました。
 私でした!
 トシはなんだかんだ言っても、やっぱり私のこと真面目に考えて結婚してくれてたんだ、やったあ!
 眺めている私は嬉しさのあまり舞い上がりそうでした。
「ううん、全然」
 しかし、そこでトシの妻であるはずの私はトシにおかしな挨拶をしました。
「ずいぶん久しぶりね」
「ああ、唯美ちゃんも大きくなったねえ」
「ほら、唯美、おじさんにご挨拶は?」
 主婦の私がせかすと、ふわふわの髪をした幼女が言います。
「こんちわ」
「ちゃんと挨拶できるんだ。偉いね」
「もう、朝から晩までうるさいぐらいよ。
 トシはまだ結婚しないの?」
「いや、もういいんだ。
 最近は結婚しない方が楽に思えてね。いい部屋に住んで、スポーツカー乗り回すなんて、結婚して子供できたら無理だろう」

 眺めていた私は映像に向かって心の中で叫びました。
 冗談でしょう!トシは私を結婚相手として意識してきた筈なんだから、私と一緒にならないなんておかしいわ!そんなの納得できないよ!
 主婦の私は、こっちの気も知らずに、のんびりと言います。
「昔さあ、私がお嫁に行けなかったら、貰ってくれるって約束したの、覚えてる?」
「え、俺が? 久美に? まさかそんな約束してないだろう」
 何言ってるの!そんな約束、しないだって!
 私はめまいで気が遠くなりそうでした。
「やーね。物忘れ激しいんだから。トシも考え方、すっかり変わっちゃったねえ。
 昔は和服が似合って料理がうまい嫁さんほしいとか言ってたじゃない」
「そうだったかもな。
 でも料理は惣菜買えば済むし、女はほどほどの遊びにとどめた方が楽だって気づいて、今は独身主義だからな。とにかく家庭の幸福部門は久美に任せたよ」
「まあ、皮肉たっぷりね。
 うちだって細かいこと言い出したらいろいろ大変なことばかりなのよ。でもダンナもダンナなりに大変みたいだしさ。でも、私もこの子がいるから頑張っていけるの。
 子供ってね、自分が産む前は面倒だなって正直思ってたけど、こうして産まれてきてくれると、もう無条件で愛しくて。自分の生命の分身がこの世にあるって、最高の幸せだよ。
 トシもさ、家庭の幸せに背を向けないで、思い切って結婚してみなよ」
 主婦の私は熱く語りましたが、眺めている私はただただ呆然としていました。
「そう簡単に言うなよ。第一、相手が必要だろ」
「相手なんて、どこの誰だっていいのよ。
 子供が出来たら、トシの世界観がすっかり変わるよ、絶対に」
「なんだか、説教のために呼び出されたみたいだなあ」
 トシは笑って、運ばれてきたアイスコーヒーを飲みました。

 私は、もうこれ以上、トシの心の映像を見たくありませんでした。

 結婚できなかったら貰ってやると約束してくれたから、私は無意識のうちに、トシも心の中では私を結婚相手として意識してるに違いないと思い込んでいたのです。
 しかし、トシは私のことをまったく異性として意識していなかったようだし、結婚のケの字も考えたことなどなかったのでした。
 エミが言ったように、身近に親しくしながら、数年、何もなくすぎた男女が恋に落ちる可能性は永久凍土に閉ざされているのでしょう。
 気がつくと、トシの心の映像は終わっていて、私はテーブルに顔を伏せて、声を殺して泣きました。

 

      8

 

 私はカーテンにしらじらと射す明かりに目を覚ましました。
 テーブルに顔を伏せたままの格好で、いつの間にか眠ってしまったようでした。
(いけない! コンタクトが目に貼り付いたかも)
 私は慌ててコンタクトレンズを外しにかかりました。
 しかし、それはあっという間に外れました。
(そうか)
 コンタクトが目に貼りつく心配はその時の私には無用でした。なぜなら私は寝ながらもずっと泣き続けていたらしく、レンズが貼り付くひまがなかったのでした。

 昨夜、私が彼の心の中を見通した事を何も知らないトシは、いつものように起きて、私の用意した朝食をおいしそうに食べました。
「助かったよ。いただきます」
 トシはいつものように形として宿泊代を差し出します。
 私はせいいっぱい微笑みを作って、押し返して言います。
「今日はいらないけど、この次からはきちんとルームチャージと朝食代取るからね」
 トシは突然の私の提案に驚いたようでした。
「あ、う、うん。わかった。じゃお礼の食事会はいつにしようか?」
「それももういい。これからはお礼の食事会はなしにしよう」
 私は目が覚めたときから、これからはトシとどんどん距離をおいていくことに決めていたのです。
「どうしたんだ?
 あ、とうとう、いい男が出来たんだ?」
 トシが勝手な想像をすると、私は笑い飛ばしました。
「ううん、出来たら、トシにすぐ紹介するって」
「なんか、今日の久美、よそよそしいぜ」
 不思議がるトシに、私はズバリと。
「そうじゃなくて、今までが馴れなれしすぎたのよ。私たち、男と女なんだから、あまり仲良くすると、変に誤解されちゃうわ。それは私も迷惑だし」
 トシはびっくりしてうなづきました。
「うん……そうかもしれない。わかったよ。けど、急にそんなことを言い出したのは、何か特別な理由があんのかい?」
 私の答えは大きく首を左右に。
「理由なんてないわよ。ただ、私もそろそろ適齢期だし、結婚したいからね」
 私はトシの独身主義に最大限の反発を込めて、もう一度「結婚したいからね」と繰り返しました。すると、胸の奥で涙が溢れるのを感じました。
 トシは「ああ」とぼんやりうなづきました。

 私は玄関で、出かけるトシに事務的な口調で念を押します。
「今度から泊まりたいときは部屋に来る前に電話で予約の確認をしてね」
「うん、わかった」
 迷惑だとまで言ったのですから、おそらく、もう二度とトシが泊まりに来ることはないでしょう。
 今、この瞬間、トシと私の距離がどんどん開いているんだと感じて、私はもう少しで泣きそうでしたが、なんとか涙はこらえて、乾いた笑みをこさえました。
「じゃあ、行ってきます」
 トシは玄関から出ると颯爽と歩き去りました。

 

     9

 

 その日の夜、トシからメールが入りました。

《どうしても今晩会いたいんだ、時間作って出てきてくれないかな?》

 でも私は辛くなるのでもうトシには会いたくありません。

《メールに用件を書いてくれれば済むでしょ》

《メールじゃ駄目なんだ。直接会って話したい》

《ごめんね。今日はなんか体調がよくなくて会社休んじゃったの》

《そう。じゃあ外はよそう。久美の部屋に泊めてくれる?》

 私はちょっとムッとしました。迷惑だと言ったのに、今日また泊めろとは図々しいにもほどがあります。

《ごめん。そういうのもう迷惑なの》

《俺のことが嫌いってわけじゃないよな?》

 私はドキッとして、何も返せなくなりました。
 好きでなくなろうとしているけど、嫌いと言い切るにはまだ気持ちが整理出来ていないから。

 なんとか返事を考えようとしていると、いきなり玄関のドアが三回ノックされました。
 どうやら家の前からメールしてたようです。
 私は仕方なくドアのそばに立ちました。
 するとトシの声が言いました。
「押しかけて悪い。でも、俺、久美に直接会ってあやまりたいんだ」
「何をあやまるのよ?」
「久美の気持ちをきちんと確かめなかったことだよ。
 俺、そうかなって感じたことはあったけど、確かめなかった」
「何言ってんだか、わけわかんないわよ」
「だから、それを説明するから、ちょっと入れてくれよ」

 私はムッとした顔で目を合わせないようにして、トシを中に入れてやりました。
 するとトシはいきなり私の手を自分の両手で包んで言いました。
「俺は久美が好きだ。
 今まで久美の気持ちに気付かなかったり、答えなかったりしてきたけど、今は確かに言える。
 久美が好きだ」
 息が止まりそうでした。
「……嘘、何、急に。酔っ払ってるんでしょ」
「酔ってなんかいない。本当に久美が好きなんだ」
 トシは熱にうかれたように言いましたが、私はトシの手をふりほどいて、驚くほど冷たく突き放しました。
「おかしいわ。今まで六年間、そんな気配もなかったのに急に好きになるなんて考えられない」
「真剣だよ」
「嘘よ。私は昨夜、あなたの心の中を確かめたのよ」
 私はトシの嘘の決定的な理由を言ってやったつもりでしたが、彼も言い返しました。
「俺も今日昼休みにうとうとしてる時に、久美の心の中をはっきり確かめたんだよ」
「えっ?」
 私はトシが何を言い出すのか、言葉を待ちました。
「そもそも朝、俺を玄関で見送る時、久美はぼろぼろ涙を流していたじゃないか」
 あの時は泣きそうだったけど、なんとかこらえて一滴もトシの前では涙は流さなかったのでした。
「嘘、泣いてないわよ」
「うん、ぼろぼろ泣いてるのに喋る声は普通だからおかしいなと思ったんだ。
 そしてお昼休みにうとうとしてたら、久美の映像が見えたんだ。
 例によって泊まりに来てソフアで眠り込んだ俺にお前が(トシ、好きよ)って言ってる映像がくっきりと見えたんだ」
「ま、まさか、それってまるで……」
 私はハッと思い当たりました。
 もしかしたらトシのコンタクトをしたまま、私がぼろぼろ泣いてしまったせいで、そのコンタクトをつけたトシは、私の涙と、涙にしみだした金龍丸の成分を取り入れてしまったのかもしれない。それでトシは私の心の中の映像を見ることができたのではないでしょうか。
「久美は就職した頃から俺のこと、好きになってくれてたんだな。
 花火を見に行った時、ラブレター書いてくれてて、バッグの中にあるのに結局渡せなくて、部屋に帰ってから泣いてる久美の映像もはっきり見えた。
 プラネタリウムに行った時、お前がキスされたいなと思ってるのに俺は星座盤ばかり見ていたし、海に行った時、お前はちょっとダイエット成功して俺にほめられたくてうきうきしてたのに、俺はよく見もしないで「また太った?」なんて適当に言ってしまったし……。
 俺は久美の気持ちを全然知らないでいた」
 私は恥ずかしさと怒りで真っ赤になってしまいました。
「今日になって久美にそんなに慕われていたってわかったら、俺ものすごく感激しちゃったんだ。そして俺のことをこんなに好きになってくれるのはきっと世界で久美だけだって思えた。
 そしたら、自分の無意識に前からあった久美への好きな気持ちが急に膨らんできてさ、実はさ、俺も学生の時、久美にちょっと理想のタイプを聞いたことあったじゃん、そん時の久美の答えがさ、マンガだか、アイドルだかのなんたらこんたらでさ、これじゃあ俺は絶対無理なんだなとあきらめたんだよ。だけど今、俺は久美のこと……、」
 今、目の前のトシは、大きく手振りをしながら、自分がいかに私を好きなのかを、一生懸命に、熱っぽく語っています。
 でも夢見心地の私の胸には恋の報われた喜びが、鼓動より速く強く駆け巡って、トシの声が聞き取れないほどでした。

「……だから、俺とつきあってほしいんだ。久美の気持ちはどう?」
 トシが私に返事を求めると、私はうなづきました。
「もちろんいいわ。お願いします。コンクリートみたいに勘の鈍いトシだったけど、ようやく宇宙の果てまで見える望遠鏡を手に入れたようね」
 そう言うと、トシは頭をかいてうなづいて私を抱き寄せました。   了