改訂版ドルフィン・ジャンプの17 奇襲

改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です

ドルフィン表紙


 

  17 奇襲

 ルークは地下室から洞窟に降りる階段に腰掛け、マックスがカノン、理沙と遊び泳いでいる様子をぼんやりと眺めていた。

 アランからは告発ビデオがアップ出来たと連絡があったようだ。今や一大政治勢力といえるネットユーザーが大騒ぎするだろう。もちろんマスコミも黙っていない筈だ。そうなれば巨悪組織ATOも手出しができず、安全な生活に戻れるに違いない。
 ルークにとって今一番気にかかっているのは理沙のことだ。イルカショーで一目惚れした理沙がよりによって憎むべき日本人だったのは確かにショックだった。もちろんそんな差別意識に正当性がないのはカノンでさえわかることだ。あの戦争で仮に日本の方が物資が豊かで合衆国が敗れた場合を想像したら全く逆の事が起こり得るのだから。
 クルーザーで殺されかけた時にルークは理沙を守ることにひとかけらの躊躇もなかった。今、ルークは自分の差別意識を心から恥じて理沙に謝罪し、自分の大切な恋人になってほしいと告白しようと考えている。それでずっと謝罪と告白のタイミングを求めて理沙の背中を眺めているのだ。

 その時、カノンの声が「もういつでもできるんだよ」と言った。
 ルークはまるで自分の思考への答えを与えられたように感じてびっくりした。
 視線を向けると、カノンが水面に向かって何度か頷き、それに応えてマックスが立ち泳ぎしながら鳴いてみせた。
 きっと今の偶然は神からの答えだ。ルークは今こそ理沙に謝ろうと決心した。
 ルークは理沙の横顔を眺めて自分の表情がニヤけてしまいそうなのを感じた。
 理沙がカノンに「ちょっと上に行ってくるね」と言ってこちらに歩き出した。
 ルークは横を通り過ぎる理沙に「どうかした?」と聞いたが、理沙は無言で会釈して研究室への扉を開けて消えた。
 この機会に謝ろうと決めたルークは理沙の後を追いかけた。

 理沙は一階に上がり、広い庭に出て小走りに進んで行く。
 ルークは走って理沙に追いつき肩を叩いた。
 だが、振り向いた理沙は頬に涙が流れていた。
 ルークは驚いて聞く。
「リサ、どうした?」
「なんでもない」
「そう。ならちょっと話を聞いてくれよ」
 ルークが言うと理沙は涙を拭いながら頷いた。
 潮風は南の空気を運んで心地よい感じだ。
「僕は祖父の最期のことで日本人を憎んでた。でもあれは戦争だ。日本人が悪いんじゃなくて戦争がいけないんだ。なのに僕は日本人を差別して、リサのことまで憎もうとしてきた。ごめんよ、リサを傷つけたことを許してほしい」
 ルークは理沙の手を取って見詰めた。
「そもそもリサを憎むなんてそんなの無理に決まってる。だって俺はひと目でリサに惚れてしまってたんだ」
「ルーク……」
「僕とリサはすごいピンチを生き延びただろ。きっと僕たちは仲良くなって素晴らしいカップルになれるよ」
「そうだね。私もルークのことちょっといいなと思ってた」
 理沙はルークを見詰めて言った。
「ほんとに?」
「ええ。ちょっと喧嘩はあったけど、船で私とカノンちゃんのためにルークが拳銃に立ち向かった時、ルークの愛を感じたし、優しくて勇敢なルークがもし死んだら自分の心も死ぬんじゃないかとほんとに怖かった」
 理沙はその時のことを思い出してか涙を湛えた瞳で彼を凝視めた。
「ありがとう。僕はこれからもリサをずっと守ってあげたい。いや、まわりくどい言い方はよそう。僕はリサにすべての愛を捧げるから付き合ってほしい」
「……」
 理沙は黙っていたが頬を赤らめた。
「日本ではこういう時は返事しないのかな?」
「まさか。私もルークと付き合いたい。ただ……」
「ただ何? よかったら僕を信頼して話してほしいな」
「ありがとう。だけど私の話を聞いたら私を嫌いになっちゃうよ、それでもいいの?」
「大丈夫だよ、僕の辞書からリサを嫌うという単語はなくなった」
 理沙はフッと微笑んだ。
「あのね、真剣な話なの」
「うん、真剣に聞くよ」
 ルークは頷いて、理沙の話を待った。

「私の父親は家庭内暴力を振るっていたの。殆ど母親がターゲットでね、いつも顔や体に新しい痣を作ってた。私は父親が怖くて父親が帰りそうな時刻には押入れという日本のクローゼットね、そこにずっと隠れて過ごした。
 母親は基本的に私には優しいんだけど、たまに私に八つ当たりすることがあって、そうすると子供としては父親も怖い母親も怖いになっちゃうわけ。
 そんな生活してたら普通の生活感覚なんて育たないでしょ。
 小学校に上がっても私は他人が自分に暴力を振るうんじゃないかと常にびくびくして同級生が話しかけてきても私は怖くて声を出せなくなった。
 先生に質問される時は義務と思うから答えるけど同級生には何も言えない。最初は人見知りと許してくれてた同級生も、こいつは不気味とか言い始めて苛めが始まったの」
 理沙は辛いその頃を思い出したのだろう涙を浮かべた。
「リサ」
 ルークは理沙の肩を抱き寄せた。
「こうして私は皆から苛められる子になったの。
 初めて靴を隠された時はショックだった。日本では登校すると校内用の運動靴に履き替えるんだけど、靴箱を開けても私の靴がないの。最初は誰か間違えたのかと思ったけど、男の子たちが私の困った顔を嬉しそうに見ていてわかったの。苛めだってね。
 それから教科書を隠されたり、私が通ると『臭い、臭い』と言われたり『黴菌が伝染るから来るな』と言われたり、給食の時は基本的に先生もいるんだけど、たまに先生が途中でいなくなることがあって、すると私のトレイにゴキブリの死骸を乗せられたりした」
「そんなこと許せないよ」
「でも私はそういう被害を親にも先生にも訴えられなかった」
「どうしてだい? 訴えるべきだよ」
「普通の人にはわかりにくいと思うけど、毎日毎日、苛め続けられてる子はね、抵抗とか告発する気力なんかもなくなってしまうの。
 小学校を卒業するぐらいで母親は父親と別れたんだけど、中学校二年の時に再婚して引っ越したのよ。二番目の父親は暴力的なひとじゃなかったから、その点はよかったけど私に対する態度はいつも無理してて演技が見え見えだった。
 学校も変わったから苛めがなくなるかと少し期待してたけど、苛めっ子たちはまるで猟犬が獲物を見つけるみたいに私が苛められっ子だとすぐ見破ってしまった。
 小学校約五年間と中学校一年間の苛められ生活が新しい中学校でも再開したの。
 靴隠しが始まり、食事に虫を入れられ、ミルクに雑巾の絞り汁を入れられた。三、四人がかりで私の口にネズミの死骸を無理やり入れられネズミの尻尾が私の歯でちぎれた」
「ああ、リサ。もう終わったことだよ」
 ルークは理沙の頭を抱きしめた。リサは話をやめなかった。
「そして、私は図書館で聖書を読み出した。
 聖書のおかげで私は不幸が自分のものだけではないのだと知ったし、祈りの言葉を覚えて毎日それを実践してみた。そうやって私はすでに最悪の時期は過ぎたと考え始めたけれどそうではなかった。
 普通の人は学校というのは友達とスポーツや音楽を楽しんで成長するところでしょ。でも私の場合は最悪な事態を更新して精神が底なし沼に沈んでゆくところだった。
 卒業式の前日、体育館の用具室で私はレイプされたの。そいつは『卒業したらお前を苛められないと思うと寂しいよ』と笑いながら私を犯したの」
 理沙は目を伏せて声を上げて泣き出した。
「リサ、もう全て過ぎ去ったんだ。卑劣な奴がどんなことをしても君の美しい魂まで汚すことなんか決してできない。リサは少しも汚れてない、細胞も三ヶ月で生まれ変わってる」
 ルークは理沙の頭をしばらく抱きしめた。そして理沙の顎をそっと上げて、指で理沙の目から溢れるものを拭った。
「リサ、君の悲しみの全てをわかるのは難しいかもしれない。けれど今の僕は胸に刃物を突き立てられ心臓をぐるぐるえぐられた気分だよ。自分が愛するひとがそこまでひどい仕打ちにあっていたなんて。その時の僕が遠く離れた所にいて、君の苦しみに気づけず、君を守ってあげられなかったことが悔しくて悔しくてたまらない」
 指先から伝わったようにルークの目からも涙が溢れて彼は声を抑えてしゃくり上げた。理沙はルークに正直な愛情を感じて安堵と喜びに浸った。
 理沙は呼吸を整えて再び話を続けた。
「ありがとう、ルーク。たぶん普通なら話さない事だけど、私は自分が苛められてきた全てを愛する人には知っておいてほしかったの。思い切って話してよかった。
 それから高校に進んだんだけど、私は結局数日通っただけで不登校になり自宅に引きこもったの。それである時、テレビ番組で私みたいに心を病んだ少年がハワイの施設でイルカと触れ合って元気を取り戻す様子が紹介されて、私はその施設でイルカたちと触れ合って心から理解し合えるようになりたいって決意したの。
 二番目の父は私をハワイの高校に留学させる形でドルフィンケアクラスにも参加させてくれた。おかげで私は人生をようやくスタートできたような気がした。そのことで私は義理の父にすごく感謝してる」
「うん、それで君はイルカのトレーナーになったんだね?」
「そう。最初はケアクラスの予備スタッフに入れてもらい、レストランで働いていた。ところがそのレストランの同僚が私をレイプしようとして、私は西海岸に逃げてきてイルカのトレーナーになったわけ。
 でも今の私はなぜか昔みたいにイルカたちと心を通わせられなくなっている。
 私が笛で指示する立ち泳ぎしながら鳴くという難しい芸を、カノンちゃんは語りかけるだけでマックスにさせてしまったの。それで私は自分の領分を侵略されたように感じてショックで逃げ出してきたところなのよ。
 軽蔑していいわ。私はマックスをカノンちゃんに取られて本気で泣いてしまう、情けない大人よ。愛される資格なんかないかもしれない」
 ルークは「そんなことない」と言って涙の勢いが止まった理沙の手を握った。
 
「リサはひどい苛めに遭っても負けたりせず今日までちゃんと生きてきた。それは君みたいな体験をしたひとにとって大変なエネルギーと気力が要ったんじゃないかな。
 リサはきっと君自身が思ってるよりずっと強い女性なんだよ。
 僕はそんなリサを心から尊敬し、僕の全てを捧げて守ってあげたい。
 僕は君が許してくれるならリサをいつまでも愛したい。
 君が許してくれるならリサを僕の生きる理由に、誇りにしたい。 
 この気持ちに嘘はないよ」
 理沙は感激でルークの言葉を受け止めた。
「だけど僕の話を聞いたらリサの方が僕を嫌ってしまうんじゃないかと怖いんだ」
 さっき理沙が言ったのと同じ事をルークが言い返してきた。理沙は瞳を大きく開いて首を少し横に傾けた。
「どういうこと?」
「僕の告白はリサに負けないぐらいシリアスかもしれない」 
 ルークは目線を斜め上に振ってから話し出した。

「僕は幸い苛めには遭わずにこのロサンゼルスで中学、高校、大学と進むことができた。太平洋の反対側で苦しんでたリサには申し訳ないけど普通にサーフィンしたりフットボールしたり、ガールフレンドとデートして楽しんだ。
 大学では皆いろんな探求をするだろ。幸福とか、生きがいとか、人種差別とか、哲学についてとかいろいろ。ああ、リサ、僕はうっかりしてたんだ。そんな探求と一緒に並べて馬鹿みたいなノリで覚醒について探求した」
 理沙は覚醒の意味がわからなくて首を少し揺らした。
「十九歳の秋、大学のカリブなんとかいうクラブが借りてる館で、夜にみんなでマリファナを吸ったんだ。いや、みんなって言い方は卑怯だな。僕はマリファナを吸ったんだ。タバコよりは中毒性は低いから大丈夫とか言って友達も騒いでた。
 だけど僕はバッドトリップだった。
 世界がぐにゃぐにゃして鉛色の波に少しずつ溶かされている気分だった。人を信じられなくなって、隣にいる奴等が僕を殺そうとしてるんじゃないかと思った。
 現実が既にニセモノのような感じ、映画マトリックスの世界みたいなニセモノ感覚がリアルに感じられた。僕は脳が浜辺の砂のように崩れて流れてしまうんじゃないかと本気で心配して、必死で母や父や姉の顔を笑顔を思い描いて、大丈夫だと言い聞かせて、イエスを思い浮かべて救ってくださいと祈った。しかし脳が崩れる不安はずっと続いて、たぶん五時間ぐらい僕はイエスや母や父に、守ってくださいと必死で祈り続けた。
 いつの間にか眠ったみたいで、気がついたらもう翌日の午前十時頃だった。
 幻覚や不快な妄想は収まっていて僕はバックパックを担いで館を出たんだ。部屋の中にはまだ床にごろごろ寝ている人間が何人かいたけどおかしな点はなかった。というか気づかなかったんだ。
 ところがその夜のニュースで館で殺人事件が起きてたことを知った。
 僕が館を出る時、寝てると思ってた人物が銃で撃たれて死んでたんだ」
 ルークは財布の中から数枚の写真を取り出した。両親と姉夫婦の写真の間から新聞の切り抜き記事を引っ張り出す。大学生、館で銃殺されるとタイトルがあり、少し小さくロウワード・フィッチャーと名前が出ている。
「その夜は友達やガールフレンドと電話で物騒な話だよなんて話してた。ところが僕は翌日、バックパックの中に教科書を入れようとして青ざめた。中に拳銃が入っていたんだ。僕には犯罪行為をした記憶は全くない。銃声も聞いていない。しかし拳銃が僕の荷物の中にあった。ネットで種類を調べると銃が犯行に使われたものと同じ三十八口径のリボルバーだった。僕にはそんな銃を手に入れた覚えはないけれど、事件が起きて銃が僕の荷物に入ってた以上、言い逃れるのはすごく難しいことに思える。僕はバッドトリップしている最中にその人を撃ち殺したのかもしれないんだ。もう最悪だよ」
 ルークは頭を揺らして項垂れた。
「待って、拳銃を警察に調べてもらったら犯人の指紋が出るんじゃないの?」
 理沙が聞くとルークは顔を左右に振った。
「一番に疑われるのは僕なんだ。そんな証拠品を警察に届けられる筈がないだろ」
「じゃあ拳銃はどうしたの?」
「僕の大学のちょっと離れたところに沼があって、ビニール袋に入れてそこに捨てた。バックパックも硝煙反応が怖いから奥の川に捨てた。とにかく僕は人殺しかもしれない」
 今度は理沙がルークの顔を撫でてやった。
「大丈夫よ。ルークが人殺しなんかする筈がない。ルークは正義のひとよ」
「そんなの気休めにならないよ。僕はバッドトリップで誰かに殺されるんじゃないかという妄想に捉われていた。フィッチャーは僕の様子を心配して声をかけてくれたのかもしれない。しかし、僕は脅迫されたように感じて銃で彼を撃ったのかも」
「もし拳銃を打ったら音で他の人がすぐ気付くわ」
「いや、みんなラリッてたんだ、風船が割れたぐらいにしか聞こえないよ」
「撃った記憶があるの?」
「いや記憶なんかない」
「拳銃にも覚えがないのね?」
「もちろんだよ」
「最近、沼に行った?」
「夏に行ったら沼の場所に大きな施設が建ってて沼はなくなってた」
 そう言ったルークはそれ以上この話題を続けるのに耐えられなくなって親に叱られた子供のように涙を流した。
「ルーク、貴方は誰も殺してないわ。私にはわかる。拳銃は真犯人があなたのバックパックの中に捨てたのよ、それだけ」
 理沙はルークの肩を揺さぶった。
「ルークは私とカノンちゃんのために命を投げ出して救ってくれたじゃない。神様だってちゃんと見てたんだから。いい? 貴方はもしかしたら殺してるかもなんて心配はしないでいい。近いうちテレパシーが目覚めて犯人がわかるかもしれない」
「だから僕はテレパシーが怖いんだよ。犯人かもしれないという僕の考えが皆にばれて、その考えを持っているのが僕だけだとしたら、僕の殺人がいよいよ確かになる」
「怖くない。貴方は誰も殺してなんかいない、絶対に。何度でも言うわ。貴方は誰も殺してなんかいない。絶対よ。私はルークを愛してる」
 理沙はルークの涙を拭って、間近で二人は凝視め合った。
 互いの頬に再び涙が溢れて、揃って鼻水までもが垂れた。
 二人は唇を近づけて接吻した。互いに顔の角度を変えながら舌を深く絡ませた。さらに何度も角度を変えては舌を絡めて、やがて二人は口を離した。
「私たちのファーストキスは忘れられない味ね」
 理沙が言うとルークも答えた。
「うん、涙と鼻水たっぷりの味だな」
 二人は凝視め合って笑い合った。

  ◇
 
 ルークは何事もなかった顔をして理沙と一緒に地下の洞窟に戻った。
「カノン、元気そうだな」
「お兄さん、どうしたの急に変な挨拶? ははあ、今までのことを謝ってリサにキスしたのか。よかったじゃない、仲直りできて」
 言いあてられてルークはしどろもどろで言い返す。
「あ、あのな、勝手に俺の心を読むな。と、待てよ。その前にカノンは人の心も読めるようになったのか?」
「読もうとしなくても、全身で雄叫びを上げてるんだもん。リサお姉さんを追いかけてって口笛吹きそうな顔で帰って来たのを見れば、テレパシーなんか使わなくても、お兄さんの単純な心は読めるわよ」
「ひどいなあ」
 ルークは理沙と顔を見合わせて苦笑いした。
「でも人間相手のテレパシーもだんだん使い方がわかってきたよ。人の心はね、その人だけの周波数みたいなのがあるの。だからその人のイメージに集中する。すると、その人の現在の心の可能性がいくつか読めてくるの。周波数の小数点をさらに細かくするとその人が今、何に意識を向けているのか絞り込まれてゆく。この時に自分から言葉を想像しちゃだめみたい。だって人の意識は無意識に感触とか匂いとか見えるもの聞こえるものにくるくる移るでしょ。あくまでその人が何を意識してるかを感じるの。するとその人の立ってる場にいるように意識を感じ取れる。そんな感じかな」
「すごいな。もうマイスターだな」
 ルークが感心するとカノンは微笑んで、それから理沙に向いた。
「それでリサお姉さん、私のこと気にしないでね。私はマックスを独占しようなんて気持ちは全然ないもの。それはリサお姉さんもわかってると思うんだけど」
「ええ、ありがとう、カノンちゃん」
「とにかく私はお兄さんとリサお姉さんのこと、応援するから頑張ってよ」
「それはそれは、お姫様、ありがとう」
 ルークは騎士がするように肘を突き出してお辞儀して見せた。

 その時、マックスが水面から顔を出して「ギギギッ」と短く連発する声を上げた。その音だけで何か悪い響きに聞こえる。

「どうした?」
 ルークが振り向くと理沙が答えた。
「マックスは警戒の声を出してる」
 カノンが叫んだ。
「博士の心の叫びが聞こえる。ヘリコプターが庭の真上で止まった。奴らだ!」
 カノンの顔がみるみる青ざめた。
「黒い奴がヘリコプターからロープで降りてくるぞ。
 ベス、逃げろ、捕まえに来たんだ」
「大変!」
「抵抗しなければ命は助けてやるって言われ、銃には敵わないと博士が思ってる」
 上でガラスの割れる音が響く。
「助けに行かなきゃ」
 ルークが走ろうとする腕をカノンが掴んだ。
「ダメ。もうハルバート博士は捕まった」
 理沙が言った。
「ルーク、私たちは奴らに見つからないように逃げるべきよ」
「しかし、俺は博士を助けなきゃ」
 ルークにカノンが忠告する。
「ルークは不死身のスパイじゃないんだよ」
 理沙も言う。
「今、全員が捕まったら誰も助ける人がいなくなるのよ」
 それはその通りだ。慌ただしい靴音が響いてドアが乱暴に開けられる音が続く。
「くそ、どうしてここがわかったんだ。せっかくアランが告発したのに」
 ルークはぼやきながら嫌な予感に捉われた。まさかアランの告発が失敗してここがばれたとか。しかし考えている暇もなく靴音が地下に向かう階段を降りて来る。
「皆、もう海しか逃げ道はない、急いで」
 覚悟を決めてルーク、カノン、理沙は海水に入った。
「マックスが隠れるところに案内するって」
 ルークはカノンと理沙に囁いた。
「カノン、リサ、行くよ」
 ルークはカノンを抱きかかえて理沙とマックスの背びれにつかまった。
 その時、防水扉のレバーがまわり、黒い目出し帽に黒い制服を着たATOの特殊部隊の隊員が二人、防水扉から現れた。

 一瞬早くルークたちは水の中に完全に身を沈めていた。
 二人は洞窟の中にくまなく小型の自動小銃をぐるりと向ける。
「クリアー」
「よし、他を探す」
 二人は建物の中に引き返して行った。

  ◇

 マックスに引っ張られたルーク、カノン、理沙は海を岸沿いに北上した。
 70メートルほど進むと、カノンが言った。
「マックスがちょっと潜るって、二十数える間、潜るけど、すぐに浮かんで呼吸できるからついてきてって」
「よおし、カノンと理沙はマックスの背びれにつかまって。ワンツースリーで大きく息を吸うんだ。いくよ、ワン、ツー、スリー」
 ルーク、カノン、理沙が水に頭を入れると、マックスは二人の息継ぎを考えてくれたのか、すごい勢いで二人を海岸線の下に開いた洞窟に引き込んだ。
 ルークはマックスの後ろを必死になって追いかけた。

 まもなくマックスについて浮き上がるとそこは、天井の小さな隙間から光がこぼれる洞窟だった。
 ここならまず見つからないだろう。
 水上に出ている洞窟の皿状の棚にカノンを押し上げルークと理沙も水から上がった。
「カノン、大丈夫か?」
「ありがとう、マックスとリサとお兄さんが一緒だから私は大丈夫だよ」
「カノン、エリザベスはどうなったかわかる?」
「……残念だけど、エリザベスも博士と捕まって今ヘリコプターの中。今、博士が奴らにどこに連れて行くつもりだと聞いたけど、うるさいと怒鳴られたところ」
「なんてことだ」
「仕方ないよ」
「知恵を絞ってみんなで博士とエリザベスを助けよう」
 ルークが言うと理沙とカノンも頷いた。
「ええ、そうしましょう」
「奴らはもう去ったかな?」
「うん、エリザベスはヘリコプターから豆粒みたいになった別荘の屋根を見てる」
「よし、この洞窟から地上に出れないかな」
 ルークは洞窟の奥にほのかに明るい箇所をみつけた。
 そこは岩の裂け目があるらしい。
 小岩をどかしてみると地上の光が大きく入ってくる。
「よし、ここから地上に出れる。別荘はもう怖くて住めないな。別荘から必要なものや大事なものがあれば持ち出してどこか安全なところに移動しよう」
「うん。マックス、安全かどうかわかるまで隠れていてね」
 マックスにそう告げ、三人は地上に這い出た。

  ◇
 
「よし、ちょっと中に入ってみよう」 
 博士の別荘はサッシが壊され、部屋の中はひっくり返されていた。
「カノンとリサはまず濡れた服を着替えなよ」
「うん、お兄さんの着替えも探しとく」
 ルークは地下の研究室に降りて真っ先に金網で囲われたデスクの引き出しを改めた。そしてカノンと理沙に聞こえるよう大声で言った。
「電子チップは持って行かれたよ、せっかくの物的証拠だったのに。パソコンは本体ごと持ち去られたようだ」
「ルーク、エリザベスのスマホが無事だわ。警察を呼ぼうか?」
 理沙が上の階から呼びかけると、ルークが返した。
「僕が電話する。テレビ局にも電話して取材させよう。ただ、奴らが戻ってくるかもしれないから、警察に説明したら急いで別の場所に移動した方がよさそうだ」
「移動すると言っても、どこに行けば安全かな?」
「そうだな、今すぐチョウ医師に病院に泊めてもらうようにリサから頼んでくれないか。あそこならカノンのお母さんにも言い訳がたつし」
「そうね、わかった。チョウ医師に電話して頼んでみるわ」
「その後、リサは持って行く物をそろえて脱出する準備をしてくれ。カノンはリサを手伝いながら近づく人を見つけたらその考えを見張ってくれるかい」
「わかった」「うん、まかせて」

 ルークは警察に博士とエリザベスが誘拐されたことを電話すると、続いてテレビ各局の報道に電話を入れた。
『……ですから、脳に埋め込む電子チップのせいで謎の組織に誘拐されたんです』
『なるほど、で、ヘリコプターの写真は撮影しましたか?』
『いいえ、相手は銃で武装していたんですよ。逃げるのが精一杯でした』
『じゃ、その組織の連中の姿などは撮影しましたか?』
『いいえ、言ったでしょ、逃げるのが精一杯ですよ』
『ということはだ、あなたの主張を裏付ける映像は何もないわけですね。もしかしたらその博士と奥さんがラスベガスやディズニーランドへ行った可能性もあるわけでしょ』
『ふ、ふざけないで下さいよ。僕は現実に脳にその電子チップを埋め込まれていたのを、手術で取り出してもらったんですよ』
『取材するかどうかは警察の情報を待って決めますので、よろしく』
 ルークは、勢いよく切られた音にムッとして、ひとつ深呼吸をしてから次のテレビ局を呼び出した。
『SCテレビでございます』
『報道をお願いします』
『報道センターへお繋ぎします。どうぞ』
『もしもし、SCテレビ報道センターです』
『実は誘拐事件が起きたので、報道してほしいと思いまして』
『誘拐ですか? 身代金の要求とかはありましたか?』
『いや身代金目的じゃないんだ。誘拐されたのは動物言語学のハルバート博士です。意識を統御するチップを入手したために陰謀を企ててる巨悪組織に誘拐されたんです』
『ふーん意識のチップね。じゃズバリ聞きますよ、そちらイタズラ電話ですか?』
『ったく、もう、真剣な真実です。先ほど、警察を呼びました。モントレーのハルバート研究所と電話帳に出てますから、取材に来て下さい。詳しいことを説明しますから』
『モントレーのハルバート研究所ですね、情報提供ありがとうございました』
 相手はそう言って電話を切ってしまった。

 ルークがテレビ局への電話をあきらめた頃にパトカーが一台到着した。モントレー郡の保安官のようだ。サングラスをかけちょび髭の保安官が一人ガムを噛みながら近づいてくる。その後ろから制服を着たヒスパニア系の女性の助手が警戒した目つきで腰の拳銃のホルスターを押さえながらついてくる。
 ルークは玄関に出て迎えた。
「通報したルーク・フリードマンです。ここの住人の博士夫妻が誘拐されたんです」
「あんたは博士とどういう関係?」
「博士とクルーザーで知り合って、ここで過ごしてたんです」
「誘拐犯は見たのかね?」
「ええ、僕は地下室の洞窟のところで特殊部隊みたいな男が来て、いったん海に潜って隠れて、戻ったら博士夫妻の姿がなかった」
「特殊部隊を見たのか?」
「いえ、はっきりではないですが、声と重い足音がしたので逃げたんです」
 保安官は腰のベルトに両手をかけた姿勢で助手を振り向いて笑った。助手もようやくホルスターから手を外し警戒を解いた笑みを浮かべた。
「本当ですよ。リビングのサッシだって割られている」
「失礼。見てみよう」
 ルークは保安官と助手をリビングに通した。
 そこには理沙とカノンが心配そうに立っていた。
 助手は理沙とカノンに名前を聞いて書き取った。
 保安官は割れたサッシの硝子の破片を手に持って戻した。
「どうやって割れたと思う?」
「特殊部隊が外からマシンガンで割ったのかも」
 ルークが言うと保安官は首を横に振った。
「いや、それはないな。見てみろ。硝子は外に向かって割れて飛んでるんだ。それにもし室内でマシンガンをぶっ放したら火薬の匂いがまだ残ってる筈だ」
 保安官の言葉に助手が感心したようにメモを取る。
「そのうち夫妻のどちらかから電話があるだろう。様子を見てくれ」
 保安官と助手は踵を返して出口に向かったので、ルークが慌てて言った。
「ちょっと待てよ。博士夫妻は誘拐されたんだぞ。FBIを呼ぶべきだ」
「現場を見た俺が判断する」
 そこでルークはカノンに腕を引っ張られて顔を低くし、彼女の囁きを聞いた。
「この副保安官は最初から事件じゃないと指示されて来たの。理由は過去に喧嘩騒ぎでパトカーが出動しているから」
 ルークは頷いて、もう一度保安官に頼んだ。
「お願いだ。FBIを呼んでくれ」
 すると保安官は首を横に振って説明した。 
「記録によると、この夫婦は過去にも三度大喧嘩で硝子を割って通報されてる。誘拐と決め付けるのは早すぎる。血痕も特殊部隊とやらの銃弾も見当たらないしな」
 あの仲の良いハルバート夫妻が喧嘩で通報されるなんて考えられることではなかった。おそらく誘拐を事件にしないため巨悪組織ATOはのニセの情報をでっち上げて警察のデータベースを書き換えているということだ。もはや他の公の治安機関もあてにできないと考えなければいけないのかもしれない。
 立ち去る保安官と助手の後ろ姿を見送りながらルークは拳を握り締めた。

  ◇

 ティックタックと響くのは柱時計の振り子の音のようだ。
 ハルバート博士はハッと目覚めたが、ガーゼか何かが瞼を覆っていて視界は灰白色、横たわった体もしびれている感じで起き上がれなかった。  
 ドアが開いて誰かが部屋に入ってきた。
「おや、手術はもう終わったのか?」 
 するとハルバート博士のすぐ近くから男の声が答えた。  
「これはカークス統括官。手術はまだです」
「こいつの正体は?」
「動物言語学者です、バックグラウンドはないようです」
「ニュータントなのか?」
「いや、こいつのテレパシー領域は完全に眠ってます。
 ドクターは本部から電話があって、まもなく帰ると思います」
「そうか」
「一緒に捕まえた、後ろのベッドの女は可能性があります」
「可能性?」
「テレパシーに目覚めめる可能性、ニュータント候補です」
「そいつは貴重だ、ニュータントは先週の推測で30万人に一人弱の確率だ」
 そこへドアの開く音がして、白衣の男が入ってきた。
「やあ、カークス」
「こんちは、ドクター。ニュータント候補が見つかったそうですな」
「うん、ラッキーだ。問題は少し年齢がいってるから覚醒に手間どりそうなことだが、ニュータント候補なら利用範囲は広いからな」
「私はとりあえず抑制と真逆の意識覚醒チップの実験に利用したいと本部に要望しよう。で、こっちの男の始末は本部で決定済みか?」
「意識統御チップDDM1を埋めるのは決定だが、その後、元の家に帰して泳がすか、このままモルモットにするか、上層部の会議待ちだ」
 ハルバート博士は声のやりとりを聞きながら震え出していた。
 海上でルークたちを救い上げた当初は彼らの話はSF映画のようだったが、こうして自分が誘拐され、拘束され、いよいよ巨悪組織ATOの陰謀が自分を呑み込もうとしている衝撃はハルバート博士の神経をひきつらせ、全身が鳥肌に震えた。
 ハルバート博士は麻酔でもつれる舌で叫んだ。
「お前らは何者なんだ?」
「あ、意識が戻ってしまったな」
「やあ、お目覚めはどうだい?」
「こんな卑劣な事をして、ただでは済まないぞ」
「ただで済むさ、我々は国家を支配するトゥルーオーダーの側だ」
「どうして私の研究所がわかったんだ?」
「アランとかいうオタクが、ネットにビデオ画像をアップしようとしたところをうちのコールドウォール網が捕らえたんだ。君たちの悪企みは未然に防いだよ」
「どっちが悪企みだ、アランをどうした?」
「彼は今はわがプロジェクトの可愛いモルモットとして第二の人生を歩き出してる」
「そんなこと許さんぞ」
「ベッドにくくりつけられているセンセイに何ができる? それよりこちらからセンセイに聞きたいのは、あの意識統御チップDDM1の存在をどうやって嗅ぎつけたのかという点だ」
 ハルバート博士は何があってもカノンの存在だけは秘密にしたいと考えながら、強い口調で言い放った。
「そんなのは単純な話だ。私はイルカ、鯨の研究家だ。標識を付けようとしたイルカに、偶然、傷を見つけて埋め込まれているチップを発見したんだ」
 カークスは博士の目を覆っていたガーゼを取り、瞼を思い切り開いて見つめた。
「まあ、絶対にない話ではないな」
「後はアランが中身を解析して、ビデオファイルを見つけた。たった今も君たちの仲間が良心の呵責に耐えられず、君らの組織を裏切ろうとしているんじゃないのかな? 君も一人になった時はそのことをよく考えるんだろう。
 それでいいんだ。ちょっと勇気と良心を出せばいい。私も喜んで君が組織から足を洗うのに協力するよ」
 カークスは噴き出した。
「ハハッ、自分の立場をわきまえるんだな」
「百歩譲って私はどうなってもいい。その代わりエリザベスを解放してくれないか」
「エリザベス?」
「たぶん、そっちのニュータント候補のことだ」
「ああ、彼女はあんたよりずっと価値があるんだ。これからは我々にたくさん協力してもらうことになるだろう」
「お願いだ、彼女は開放してやってくれ」
「しつこいぞ」
 カークスは突然、ハルバート博士の口にガーゼを詰めた。
 ドクターが頷いて助手に言った。
「麻酔を深めた方がいいな。そこのコックをひねってくれ、それでいい」
 金属の音とモーターの唸りが響き、カークスがハルバート博士の耳元にささやいた。
「デイドリームプロジェクトにようこそ。さあ、白昼夢でつまらない現実を塗りつぶすんだよ」
 頭の奥に冷たいものが溢れ、意識が彼方に遠のいてゆく。

つづく