改訂版ドルフィン・ジャンプ 3 検査ラボ

改訂版ドルフィン・ジャンプ目次 全29章です

ドルフィン表紙


  3 検査ラボ

 四日後、理沙は花のプリント柄のクリーム色のワンピースを着て、FBIに協力するためにロサンゼルスの中心街にある検査ラボを訪れた。
 セント・ジョセフ記念病院の先のブロックを歩くと突きあたりのビルにスタイン研究所というネームプレートを見つけ、理沙はドアをノックした。
「どうぞ入って」
 理沙が入ると白衣の女性職員がデスクから腰を上げた。年齢は理沙より五つぐらい上でインド風の容貌だが肌の褐色は薄い。目は理沙と同じ茶色だが切れ長で睫毛も長く鼻も高く美しい。髪は黒くてウェーブがかかってる。胸の名札にキャロル・ナヤールとある。
「はじめましてキャロル。私は理沙。FBIから協力するように言われて来たの」
 理沙がFBIから届いた通知書を見せると、キャロルは微笑んだ。
「よろしく、リサね。予定の八分も前よ、ありがたいわ。たまに遅刻してくるひとがいて困るの。リサ、こちらへどうぞ」
 理沙はデスクでパソコンに向かってる男性職員をちらりと眺めた。理沙が会ったFBIのエージェントは二人とも紺のジャケットにチノパンツだったが、ここの職員は白衣の下にワイシャツという服装だった。
「とっても素敵なワンピースね」
「スカートはあまり着ないんだけど今日は引っ越してきて冒険したの」
「大丈夫、すごく似合ってるわ」

 淡い竹色に塗られた部屋に入るとキャロルは言った。
「こっちのリクライニングチェアにかけて。楽にしていいわ」
 理沙は「どうも」と言って既に十度ほど後ろに倒されているチェアにもたれた。
「今すぐドクターが来るわ」
 リクライニングチェアの脇に小さなテーブルがあって小熊と猫のぬいぐるみが置いてある。きっと小さい子供が来た場合に落ち着かせるための道具なのだろう。壁際に両袖デスクがあり、その背後にクリーム色の遮光カーテンが閉じられていて窓の外はもちろん窓枠も見えない。

 背後から靴の響きが近づいて来たかと思うと、白髪で鷲鼻の五十男が理沙の前に現れた。白髪の男は理沙に目を合わせて頷いた。
「リサ・ヤマモト。わざわざ来てもらってありがとう。私はこの地区の担当のケルヴィンだ」
「よろしくドクター・ケルヴィン」
 ケルヴィンは両肘付き椅子を引っ張ってきて理沙と向き合った。
「最初に誤解しないように言っておこう。私は貴方の優れた能力が一般に応用できればと研究している。しかし、検査されるひとの中にはFBIに協力するんだからと、まるで自分が犯人を捜さなきゃならないと頑張り出すひとがいるんだ、フフフ」
 ケルヴィンは悪戯っぽく笑った。
「あげくの果てに些細な声に今話題の重大犯罪のヒントが聞こえたんじゃないかと心配になったり、逆に凶悪犯が自分の能力に怯えて殺しに来るんじゃないかと余計な心配をして強迫神経症になる人までいるんだ。
 私たちは貴方に捜査に参加することはひとつも求めてない。今まで通りで結構。むしろ鈍感になるぐらいでいいからね。考えすぎると却って頭痛を起こしたりするんだ。今まで通りいざという時に自分を守れればいいと楽に構えてくれ。貴方には何の義務もない。それを一般に応用できるようにするのは君ではなく私たちの仕事だ。わかったかな?」
 理沙は微笑と共にまだ残ってた緊張感を手放した。
「ええ、そう言ってもらうと気が楽になりました」
「毎回のセッションは聞き取りと脳波検査のふたつに分かれてる。まず最近の出来事などを自由に話してもらう。今回は最初なのでもう少し時間がかかるかもしれない。もちろん秘密は完全に守られるから安心してほしい。聞き取りが終わると測定器のついたヘッドギアをつけて二十五分ほど脳波を測定する。前後の準備を含めて四十五分ほどのセッションになる。
 協力費として一回につき800ドルが振り込まれるので後で受付のところで銀行口座番号を記入しておくように」
「それは助かります。いいアルバイトだわ」
「協力してもらうんだから当然だよ。ではそろそろ聞き取りに入ろうか」

 理沙はハワイでFBIのクレイグに話したことを繰り返して聞かせた。子供の時から苛めに遭ったこと。その後、苛めっ子の声を三度聞いてそれが聞いた通りに実現したこと。そしてホノルルでまた声を聞き、同僚ニックがレイプしに来たこと。
 頷いて聞いていたケルヴィンが質問する。
「君は合衆国内に知人はいるのかね?」
「ハワイにはドルフィンケアクラスで知り合った友人が二人いますが、こちらにはいません」
「日本に帰ろうとは思わないのかい?」
「気が進まないんです。日本だとどうしても苛めの加害者のことを考えてしまう。それも子供の時は殆ど想像できなかった復讐という点まで考えてしまうんです。すると私は自己嫌悪せずにいられなくなります」
「君が悪いんじゃないよ」
「復讐を考えるのは同じ立場に立つのと一緒です。でもイエス様は隣人愛を説いて、自分を裏切った弟子や、自分を知らないと逃げた弟子たちの赦しを祈って苦痛とともに死を受け入れましたよね。どうしたらそんな美しい心になれるんでしょう?」
 理沙に問われたケルヴィンは頬をほのかに紅潮させて苦笑を浮かべた。
「私は宗教的な質問には答えられないな。申し訳ないね」
「いいんです」
「さてと、じゃあ脳波検査に移るとしようか」
 ケルヴィンが立ち上がってデスクパソコンを操作し、キャロルがヘッドギアを取り出した。それは目を覆う形に前が垂れている。そしてキャロルはヘッドギアから出ている辮髪みたいに束ねたコードをリクライニングチェアの側面に差し込んだ。
「装着するとき金属端子が少しチクッとするけど血も出ないので心配しないでね」
 キャロルが「じゃあいくわよ」と言って理沙の頭にヘッドギアを被せると少しだけチクリとした。ケルヴィンが注意を述べた。
「途中、目を覆うカバーの中で光が激しく点滅するけど残像は残らないので気にしないで。眠くなったら寝てもいい。時間がきたら起こすから。万が一気分が悪い時は声を出して呼んでくれ。僕らは隣の部屋で見守ってる。じゃあ音楽が流れたら始めよう」

 足元の方角のスピーカーからチェロの曲が流れてきた。エルガーのチェロ協奏曲だ。理沙はクラシック音楽にさほど興味があるわけではなかったが、その曲だけはなぜか好きで覚えていたのだ。
 目を覆われた理沙は寒空の下、草原がたなびくイメージを持った。冷たい空気が渦巻いて草原を渡るのだが、草原にはところどころ白いあるいは淡いピンクの花が咲いていて風に耐えている。不意に古い木製の自転車に乗った少年が現れて、天から降りているカーテンの裾を引っ張ってゆく。すると空を覆っていた灰色の雲に大きくて鮮やかな七色の虹が伸びてゆくのだ。
 そんなイメージを楽しんでいると、強烈なフラッシュが瞬いて耳がキーンと鳴った。
 フラッシュがもたらした残像なのだろう、格子がいくつも重なったイメージが目に焼きついている。
 フラッシュは少し間をあけて繰り返され、そのたびに耳がキーンとした。
 何度かフラッシュが繰り返されて、やがて理沙は眠たくなってうとうとした。

「リサ、起きて。もう終わりよ」
 理沙は脳波検査を受けていたことを思い出した。キャロルが理沙の目から覆いを取り、ヘッドギアをゆっくりと外した。
「エルガーのチェロ協奏曲も終わってるのね」
「ええ。音楽の選曲は私に任されてるの。ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏よ」 
「ごめん、私は演奏家には詳しくなくてその人を知らない」
「ジャクリーヌ・デュ・プレは十六歳で天才チェリスト少女として世界に認められた。だけど十年後に指先の感覚の異常に気づき、その二年後多発性硬化症が判明したの。結局、四十二歳の若さで天に召された」
 理沙は思いがけない演奏家の悲運に息を呑んだ。
「こんな素敵な曲を弾く天才音楽家がそんな過酷な運命に遭うなんて」
 キャロルはうんうんと頷いてから言った。
「悲劇よね。でもこの演奏は二十歳の時のものでそんな悲劇の予感は微塵もない、のびのびとして時に繊細で一転して大胆で、豊かな大地の命そのものを感じさせてくれると思わない?」
「そうそう、私もそんな風に感じてたの」
「ええ、彼女の演奏はひとを豊かな幸せな気分にしてくれる」
 キャロルはボタンを押してリクライニングチェアを起こし理沙の手を握った。
「次の演奏をまた来月に一緒に聴こうね」
 理沙は微笑んだ。
「待ち遠しいわ」
 
  ◇
 
 セッションを終えた理沙は帰宅するためバスでロングビーチに向かった。
 だが、バスが走り出して三分もしないうちに理沙は大きな建物の前に看板があるのを見つけてすぐに降りた。
 看板にはこう書いてあった。

 今こそ神があなたに答える!

 理沙はバスを飛び降りて『使徒の福音教会』とプレートのある体育館のような建物の中に入った。 
 すると長テーブルがあり、やや太めの三人のご婦人がおしゃべりしながら椅子に腰掛けて封筒にレターを入れる作業をしていた。
「あのー、聞いてもいい?」
 理沙が声をかけるとご婦人たちは一斉に見詰めてきた。
「いらっしゃい」と黒人のご婦人。
「どんな御用かしら?」と白人のご婦人。
「なんでも聞いてちょうだい」とメキシコ系のご婦人。
 理沙は笑みを浮かべて聞いた。
「神様が答えてくださるのはいつなんです?」
 ご婦人たちは顔を見合わせてすぐ理沙に振り向いた。
「牧師様が日曜日に答えてくれるわ」
 黒人のご婦人が言うと、白人のご婦人が頷いた。
「あさって、バーナー・ジェームズ様がね」
「完璧な神の声を伝えるわ。あなたは奇蹟に出会えるかもしれない、いえきっと出会えるわ」
 メキシコ系のご婦人の言葉に理沙はさらに聞いた。
「それで私の質問にも答えてくれますか?」
 婦人たちは顔を見合わせ頷いて、黒人のご婦人が理沙に言った。
「そう、あらかじめ質問を書いて出しておけば答えてくださるわ。前にそうやって質問に答えてくださったことがあったからね」
「日曜日に早めにいらっしゃい」
 白人のご婦人に言われて理沙は困ってしまった。
「私はイルカのトレーナーの仕事をしていて日曜日は忙しくて来れないんです」
「まあ、あのシーワールドのトレーナーさん?」とメキシコ系のご婦人。
「あそこのシャチのショーは素敵だった」と白人のご婦人。
「白熊も楽しかったわ」と黒人のご婦人。
 理沙は勝手に盛り上がってしまいそうなご婦人たちに打ち明けた。
「いえ、私が勤めてるのはロングビーチのシーパークです」
「シーパーク? 聞いたことないわね」
 黒人のご婦人が残念そうに言った。
「小さな水族館で、休みは平日です。それでも質問できますか?」
 白人のご婦人が頷いて裏返したパンフレットとボールペンを差し出した。
「手紙を書きなさい。牧師様に渡してあげるわ」
「ありがとう」
「で、何を質問したいわけ?」
 メキシコ系のご婦人に聞かれて理沙は言った。
「聖書を読んでいてわからないことです。例えばイエス様が驢馬に乗ってエルサレムに入る時、民衆に熱狂的に迎えられますよね」
「そうよ」と白人のご婦人。
「当然だわ」とメキシコ系のご婦人。
「ああ、イエス様」と黒人のご婦人は胸の前で十字を切って手を組んだ。
「だけど裁判で死刑とされて、恩赦をイエスに与えるかバラバに与えるかと民衆に問いかけると彼らはバラバを選んでしまう。ついこの前エルサレムに入る時には民衆は熱狂的にイエスを迎ええたのに、裁判の後、イエスへの恩赦を支持する者は殆どいない。おかしいと思いませんか?」
 理沙の問いかけにご婦人たちは言葉を失った。
「民衆はイエス様がユダヤの王であり、救世主である証しを立てることを期待してたのに、それをなさらなかったのは何故なのかという質問です」
 そして白人のご婦人がようやく呟いた。
「そんなこと考えてもみなかったわ」
「あなたはどこの教会に通ってるの?」
 黒人のご婦人が尋ねると理沙は答えた。
「私は日本で生まれたので教会に親しむ機会がなかったんです。でも聖書を自分の救いにして子供の時から何度も読んできたんです。それで何度も読むと質問したいことがいろいろ出てきて」
 すると白人のご婦人が言った。
「私だって聖書は子供の頃から何度も読んできたけど、疑問なんて持たなかったわ」
「当然のことだもの」とメキシコ系、黒人のご婦人。
 理沙は頷いた。
「そうですね。皆さんは物心がつく前からイエス様の話を聞いているから疑わないのは当然かもしれません。私は物心ついた後だったから」
「そうなんだね」
「それと、イエス様はいよいよ命が失われそうになり『主よ、主よ、なんぞ我を見棄てたまうや』と述べられ、神の助けがないことを絶望されてるように聞こえますが、これはどう受け取ればいいのでしょうか?」
 理沙が言うと黒人のご婦人が首をひねった。
「あなた、本当にキリストを信仰してるの?」
「もちろんです。教会の洗礼は受けてないけど、聖書を、イエス様の言葉と復活を信じているんだから信仰者の資格十分ですよね?」
「牧師様に聞けば洗礼を受けなさいと言われると思うわ」
「ええ、日本では近くに教会がなかったし、私が聖書に縋ったのも学校で苛められてからなんです。当時は苛められることに慣れて希望なんて何もなかった。
 ただ大人になった今、苛めの加害者たちを思い出すと同時に復讐の気持ちが起きてくるんです。そんな自分を恥じています」
「まあまあ」とご婦人たちは憐れむ目で見た。
「イエス様は広い心での隣人愛を説いて、自分を裏切った弟子や自分を知らないと逃げた弟子たちの赦しを祈って苦痛とともに死を受け入れました。そこに私は一番感心するんです。どうしたらそんな勇気に満ちた美しい心になれるんでしょう?」
 ご婦人たちが揃って涙ぐんで頷いた。
「あなたも辛い思いをしたのね。イエス様がきっとあなたにも救いを与えてくださるわ」
 白人のご婦人が言った。
「そう。あなたもこの伝道場で天国に向かって歩き出してたんだから安心していいのよ」
 メキシコ系のご婦人が言うと黒人のご婦人も言った。
「きっと牧師様があなたの疑問を溶かし導いてくださるわ。この紙に質問を書きなさいな」
 理沙はパンフレットの裏面に質問を書き連ねた。すると白人のご婦人が封筒をくれる。理沙は宛名にバーナー・ジェームズ様と書いて黒人のご婦人に手渡した。
 メキシコ系のご婦人が「きっといいお返事がいただけるわ」と微笑んだ。
 すると黒人のご婦人が手と足でリズムを取り始めた。すぐに三人は揃ってハレルヤと謡い出した。あまりにハーモニーが揃っていたので、理沙はこの人たちは映画に出演してた役者さん達なのかと思いながら笑みを浮かべた。
「ありがとう。神のご加護を」
 理沙は礼を言ってその伝道場を出た。

 つづく