パラレルワールド

白馬

 

  §1

 

 朝の陽がぽかぽかと射し込み、夜中に冷え切っていた室内が快適な温度になった。
 ベッドの中の温度も寒くなく、かつ熱すぎず、絶妙な状態。
 気持ちいい、これなら昼まで寝てられそうだ。

 もちろん、会社がなければだ。
 高野拓哉は、ハッ、として上半身を起こし目覚まし時計を手に取った。
 アラームが鳴り出すが、ボタンを素早く押さえつけた。
 7時40分。

 今日だけ、もうちょっとだけ。
 拓哉はアラームを8時にセットし直して、ふたたび毛布にくるまった。
 幸せな記憶が蘇る。
 そうだ、昨夜は、ついに麻美に旅行の約束を取り付けたのだった。

 高野拓哉と倉沢麻美は同じ会社の販売部と総務部だ。
 総務部の麻美が、会社近くのコンビニで、社内で使うティッシュやゴミ袋などをひとかかえ買っているところに、偶然、出くわしたのが始まりだ。

 拓哉が麻美のしていた社の名札を見つけて声をかけた。
「会社の総務のひとだよね? 持つの手伝うよ」
「あ、すみません。いつもは余裕を見て発注してるんだけど、たまたまこういう日用品がなんだか急に減ってしまって」
 そうして微笑んだ麻美に拓哉は一目惚れした。

 一緒に歩きながら麻美はさりげなく拓哉に尋ねる。
「高野さんの、趣味って何?」
「趣味すか、うーん、これ言うと、暗いって言われて印象よくないんすよね」
「そんなふうに言うと余計気になる」
「絶滅危惧趣味と友人にからかわれてるんだけど」
 麻美は笑顔で言った。
「自分が好きならいいじゃないですか、何ですか?」
「実は、俺、絵が好きなんすよ。あ、描く方じゃなくて見る方ですけど」
 拓哉が言うと、麻美は声を上げた。
「えー、絵を」
 拓哉が笑って返す。
「あ、今の、もしかしてシャレ?」
「シャレじゃなくて、だって私も絵が好きなの!」
「うそぉっ?
 じゃあ二人とも絶滅危惧趣味だあ」
「そうね」
 そう笑い合って二人は一気に親密になった。

 以来、付き合いは半年ほどになる。
 デートは大体、近場のいろんな美術館がスタート地点で、食事や買い物はおまけという感じ。
 キスは重ねて最近では絵より互いが好きなのがはっきりしてきたが、裸のままで確かめ合ったことはまだなかった。

 そこで昨夜、拓哉は思い切って旅行に誘った。
 本当は直接会って誘いたかったが、スマホにした。会って誘うとこっちも緊張しそうだし、それ以上に電話の方が麻美も答えやすいかという考えもあったからだ。
 
(もしもし、拓哉です)
(こんばんは、どうかしたの?)
 そう切り返されて、一瞬答えに詰まってオウム返し。

(どうかしたって?)
(ついさっきメールしたばかりなのに何か特別な用ができたのかなって)

(あ、そうなんだ。
 今度の土曜日、また美術館どうかなって)
(もちろんオーケー! 予定空けて待ってました。なんて美術館?)

(東山魁夷だよ。場所はさ、信州長野なんだけど、土曜の午後行って、日曜の午後帰るってのはどう?)

 ちょっと沈黙。

 拓哉の頭の中で、(近くにきれいなペンションがあるらしいんだよ)という台詞と、(なんなら日帰りにしようか)という台詞がぶつかって、そのせいか心臓が高鳴った。

(ど、どうかな?)
(わかった)

 そう返事されて、反射的に確かめようとオウム返し。
(わかったって?)
(お願いします)

 その返事に、拓哉は胸を熱くして答える。

(うん、前日に画伯がスケッチした湖を訪れて、泊まりは美術館の手前にきれいなペンションがあるらしいんだ)
 携帯電話を切った後、拓哉は何をどう喋ったか覚えてなかった。
 ただ手元のメモには、出発の時間と場所、そして湖の絵と朝日の絵が鉛筆で何重にも描かれていて、拓哉は自分で苦笑したのだった。

  §2

「いっけねえ!」
 拓哉は跳ね起きた。
 目覚まし時計を振り返ると、時刻は既に9時40分。
 どうやら8時のアラームで起きられなかったか、鳴る前に無意識に止めてしまった可能性もある。
「やっちまったあ」

 まだ意識が朦朧としている。
 急いで背広を着て、ドアから飛び出した時、いつもと違う何かが視界の隅に入ったのだが、そんなことにかまってる暇はない。
 拓哉は走って駅に駆け込み、電車に飛び乗った。
「早くしろ」
 思わず叫んでしまい恥ずかしくなったが、他の乗客は聞かぬふりをしてくれた。
 まずいぞ。
 今日は会議が9時半からだったのに、しかも俺が資料を揃えて説明する予定だったのに、課長かんかんだろうな。
 始末書じゃ済まないかも。
 拓哉は見えないバーベルでも担いでるかのように気が重かった。

 電車から飛び降り、駅から飛び出し、会社に駆け込む。もう10時半過ぎだ。
 エントランスホールに入った拓哉はエレベーターの上行きのボタンを押す。
 しかし、ボタンは点灯せずドアが開かない。
 最近、エレベーターの故障がニュースになるくらいだ、きっと故障なのだろう。
「なんだよ」
 次の瞬間、エレベーターはドアを開けることなく上階に迎えに行ってしまう。
「なめてんのかよ」
 ひとり呟いて、それにしてもついていないな、と拓哉は思った。

 そこへ、顔の見覚えのある支店の営業マンが来て、ボタンを押すとすんなり上行きのボタンが点灯した。
「あの、今朝の販売会議、どうなったか知ってますか?」
 拓哉は恥を覚悟で聞いてみたが、営業マンは一瞥しただけでドアに向き直った。
 シカトかよ、やっぱりやばそうだ。
 エレベーターが降りてきて、ドアが開き、取引先の客が降りると、拓哉はシカトしたままの営業マンと共に乗り込んだ。
 
 結局、営業マンとはひとことも話をせずに、エレベーターから降りた拓哉は自分のオフィスに入った。
「すみません、おそくなりました」
 声をかけて入ってゆくと、オフィスはまったく反応がなかった。

 誰も自分を振り向かない。
 拓哉はいよいよ低姿勢で課長のデスクへ歩いてゆく。
 その途中、誰もが拓哉と視線を合わすのを避けているように感じる。
 ようやく課長のデスクの前にたどり着き、
「すみません、課長、おそくなりました」
 そう言ってみたが、課長は黙って書類に目を通している。

 針のむしろってやつだ。

 確かに自分の落ち度であり、弁解のしようもない。
 すると課長は拓哉が昨日書いた書類に目を落とし、
「高野君、てっきり遅刻かと思ってたのに事故だなんて。そこそこ仕事はできたのになあ」
 そう言うと、ハアーッと大きな溜め息を吐いた、まるで拓哉を追い払うかのようではないか。
「あ、あの、そ」
 拓哉は言い訳を言いかけたが、課長の重苦しい雰囲気に耐えかねて、自分の席に戻って叱られるのを待つことにした。

 しかし、デスクに来ると、どういうわけか机の上の書類ボックスや私物の文具もすでに片付けられてさっぱりとなくなっている。
「普通、一回の遅刻で、ここまでする?」
 自分はわざと周囲に聞こえるように言って見回した。
 しかし、みんな自分の仕事から顔も上げない。
「そりゃ僕が悪いよ、会議をつぶしたんだから。だけど、取り引き先に迷惑かけたわけでも、会社の金を使い込んだわけでもないよ。
 いきなり、ここまでするかよ?」

 拓哉がさらに見回すと、給湯室から先輩の北岡小枝子が花瓶を持って歩いてきた。
 白いユリと白いトルコキキョウの地味な花だ。
 どうするのかと眺めていると、そのまま拓哉のデスクに置いた。
「あ、あの北岡先輩、なんですか?」
 拓哉が当然、投げかけた疑問に、北岡は答えず、黙って花に向かって合掌したのである。

「やだ、その花、辛くなっちゃう」と隣の席の会田優実。
「もう来れないだろうけどせめて命だけでも取り留めてほしいでしょ」
「それはそうだけど。そうだ、昨日、欲しがってたチョコ、高野君にあげる」
 会田はそう言ったのにもかかわらず、すぐそばの拓哉に渡すのではなく、チョコを花の脇に置く。
 いや、供えるという雰囲気。
 これってもしかしてお葬式というイジメだと拓哉は合点して思い切り大きな声で、

「ふざけるのもいい加減にしろよな」
 怒鳴ってやった。
 
 ところが、普通ならそうなる筈の、大声にびくつくという反応が誰にも現れない。
 仲の良かった飯島直樹までが近寄ってくる。
「皆、ちょっと気が早いんじゃないのか? 危篤といっても意識不明の重体であって、まだ死ぬと決まったわけじゃないんだぜ。
 でも出社出来る可能性はあまりなさそうだから、俺もやつが満点取って得意になってた順天堂DSのソフトあげよう」
 陰謀論脳判定ソフトを供えて手を合わせる。

「おい、お前までかよ」
 拓哉は飯島の肩を掴みかけつつ言ったが、飯島は聞こえないように振り向いてその瞬間、拓哉の手は飯島の胸を向こう側にすり抜けたのだ。

「エーッ」
 拓哉は声を上げたが、飯島の表情は何も感じていない。
 拓哉の存在自体を感じないようなのだ。
 そして、拓哉が椅子を持って引こうとしても動かない。
 引き出しの取っ手に手をかけても動かない。
 思い切って手を突き出すと、拓哉の手は引き出しの中に音もなく食い込んだ。
 そんなバカな。
 自分に反論しようと、背広を掴むと自分では掴めるしベルトも掴める。さらに拓哉はスマホを取り出して見た。それは本物のようだが、時計に切り替えると秒針が進んでいない。電車で取り出した時は自分がそうだと思った時刻が表示されてたのか。
 拓哉はゾッとして声を上げた。
「これじゃあ俺はただの影、まるで幽霊だ!」

 拓哉はその場に尻餅をついた。
 アドレナリンが一気に噴き出す。
「うそ、うそだー!
 これって、夢だろ?
 ほら、こうやってつねれば、」
 拓哉は自分の頬をつねってみた。
「全然感じない! えーと、つ、つまり、だから夢なんだ!
 しかし、まわりが現実的すぎる」

 拓哉の動揺をよそに、飯島が言う。
「こんなことになって、やつの彼女も可哀相だよな」
 北岡が続ける。
「ああ、総務の倉沢さんね、真っ青になって赤十字病院に行ったって」
 拓哉は悪寒に襲われた。
「そんな!」

 飯島が言う。
「まさか隣のガス爆発に巻き込まれるとは思わないもんな」
 拓哉は蒼白になった。
「8時頃っていうから、朝食でもとってたのかね」
 拓哉はきっと夢なんだと言い聞かせながら、自分に反応しない妙にリアルな同僚に首を振って病院へ行こうと駆け出した。

 
 §3

 拓哉は三鷹で電車を降りて赤十字病院に向かった。駅の改札ではものすごいスピードで駆けて来た学生に体を通り抜けられてますます気が滅入ったが、なんとか現実の世界に戻る方法を探さなければと思い直した。
 赤十字病院に辿り着いた拓哉はER救命救急室に向かった。まだ俺の肉体が生きているならばきっとそこにいるだろう。
 ERの閉ざされたドアの手前にはソファがあってそこに会社の制服を着た倉沢麻美が手を組んで俯いていた。手はあまりにきつく組まれていたため殆ど血の気が失せて青白くなっていた。
「麻美さん、驚かないで、僕だよ」
 拓哉が呼びかけても麻美は顔を上げなかった。そしてその俯いた顔は何か囁きながら小刻みに震えている。
(神様、どうか拓哉さんを助けて下さい、お願いします。神様、どうか拓哉さんを助けて下さい、お願いします。神様、どうか拓哉さんを助けて下さい、お願いします)
「麻美さん、ありがとう。でも僕はここにいるんだ」
 しかし麻美は目蓋をきつく閉じて祈り続けている。
 拓哉のことを切実に愛してくれていることが分かり嬉しかったが、今の自分に麻美が気付かないというのが辛すぎる。
 拓哉は麻美の前に立ちつくすしかなかった。

 やがてERの自動ドアが開いて、汗で髪と胸がぐしょ濡れの医師が出て来た。
「高野拓哉さんのご家族の方ですか?」
「いえ、家族は秋田なのでまだ着いてなくて私は、その……婚約者です」
 麻美はそう宣言した。きっと彼女と言って軽く扱われては困ると感じて偽ったのだろう。拓哉は感激で胸が熱くなった。
「そうですか。彼の処置はとりあえず終わりました。しかし意識は戻ってない状態で、全身の4割が重度の火傷で、まだ予断は許さない危篤状態といえます」
 麻美は目から涙をこぼしながら聞いた。
「助けてください!」
「もちろんそう努力します。ただ、火傷で皮膚が剥がれた部分が沢山あります。皮膚がないと感染しやすくなるのでこの後はICUではなく無菌室にしばらく入ります。当然ですが面会も出来ません。その後、皮膚を移植する手術が何度も必要になるでしょう。彼にとって長い闘いになりますよ」
「そうですか……わかりました。どうか助けてください」
 麻美は深々とお辞儀した。

 拓哉はじっとしていられず閉まった自動ドアに向かっ歩き出して、そのままドアを突き破った。といってもドアは壊れることもなくそのままで、拓哉はERの中に突き進んだ。
 手術台で意識を失った男、つまり自分は助手たちの手で生体包帯やさらに普通の包帯でぐるぐる巻きにされて、まるでエジプトのミイラそっくりになっていった。

 拓哉がどうせ気付かれないと開き直ってミイラみたいな自分に近寄った。
「これが俺か、意識もないのか?」
 そう一人で呟くと、思いがけないことが起こった。
 ミイラの目が開いて拓哉を見返して来たのだ。
(意識はあるけど、痛いから失神モードにして消してるんだよ)
「えっ、話せるのか? 今、口は開いてなかったぞ」
(お前には口は開かなくても通じるようだ、どうやらお前は俺なんだな?)
「この状況、俺が二人っておかしくないか?」
(それはお互い様だ、聞かれても分からない)
「それはそうだな。俺は寝坊して事故には遭わずに出社した筈なんだが、同僚は皆、事故で君、というか俺が重体だって知ってて俺の声は誰にも聞こえず、俺の体は物を突き抜けてしまい実体が希薄なんだ」
(体にはこうして俺が入ってるんだから、お前は幽霊といえるんじゃないのか?)
「やっぱりそうなるのか? 俺が天国に行ったらお前はどうなる?」
(そんな知らないよ)
「だがお前は生きなきゃいけない。このERの前には麻美さんが駆けつけて来てくれて必死に祈ってくれてるぞ。しかもだ、医師に対して彼女は自分は婚約者だと宣言したんだぞ」
(麻美さんが! ああ、俺には麻美さんがいる! 俺は生きなきゃな)
「ああ、あんないいコが祈ってくれてるんだ、お前は幸せ者だぞ」
 そこで突然看護師が声をかけて来た。
「高野さん、ベッドを移りますよ、聞こえますか? ベッドを移って無菌室に行きますよお」
 ミイラの自分は(はい)と返事したが、看護師には聞こえないらしい。
「意識はずっとないままね、目もずっと閉じてるし」
 拓哉は驚いた。拓哉にミイラの目が開いてるのが見えるのも看護師には見えないらしい。
「一、二の、三」
 看護師たちの合図でミイラの拓哉は車輪付きのベッドに乗せられ、ERの部屋を出て行こうとする。
「俺、がんばれよ。俺の方もなんとかうまく行くように考えてみるから」
(ああ、ありがとう。俺もお前の幸運を祈ってるぞ)
 拓哉はこうして重体の自分を見送った。

 
 §4

 拓哉は駅に戻る道をふらふらと歩きながら考えた。
 ミイラの俺にああは言ったもののあてがある訳でもなかった。
 この現実は何かの悪夢だ、こんな現実があるわけない。しかし、今、ERの手術室で見たのはガス爆発で瀕死の重体になった自分だった。
 自分はここにいるのだが、現実としては瀕死の重体の俺の方が濃い存在で同僚や麻美までがそっちの重体の俺だけを認識してるのだ。
 でも俺にも意識ははっきりとある。
 拓哉は自分の胸に触ってみた。頬をつねっても感じなかったのが、なぜか心臓の鼓動は感じることができた。
 ほら、心臓だって動いているし、手はすり通ってしまうが、しかし、生きてるぞ。
「俺は生きてるんだー」
 拓哉は叫んだが、通りをゆく誰も振り返らない。
 
 しかし、この俺とミイラの俺とどっちが本当の俺なんだろう。なんとなくどちらかの事実に一方が吸い込まれるような気がする。
 そして、吸い込まれるのは、たぶんこっちの俺だ。
 たしか「ゴースト」てヒット映画があったな。殺された男が霊媒師の助けで犯人を暴くストーリーだ。
 霊媒師は日本だと陰陽師になるのだろうか。現代に陰陽師がいるのかわからないが、しかし、陰陽師なんて役に立たなさそうだ。結局、俺が幽霊だと決め付けられるだけじゃないか。あの映画でも結局、男は死を受け入れるのだ。

 俺の場合は幽霊と微妙に違う気がする。仮に助けてくれる霊能者に巡り会えたとしてこの事態をどう説明したらよいのだろうか。
 
 そう考えて歩いていると、横から声がかかった。
「そこのお兄さん、死相カ、テテるあるね」
 
 振り向くと、雑居ビルの入り口に机を出し、易の小さな行燈を置いて、黄土色のチャイナ服を着た中年の占い師が座っている。
 占い師は片手を上げて、手招きした。
 今日、初めて人に認められた。
「僕が見えるんですね?」
 拓哉は嬉しくなって駆け寄った。
「朝から誰もこの僕のことを認めてくれないんです。
 そして病院にはガス爆発で瀕死の重体の僕がいて、たった今会って来たんです。
 これって一体、どういうことですか?」
 拓哉が聞くと、占い師は丸い目で見つめた。
「その前に、何よりタイシなことわかるか?」
「なんです?」
「アンタ、今、私にお金、払えない。私、教える。それ丸損ね」
「ああ、そういうこと」
 拓哉はいきなり失望した。拓哉の存在が透き通るように、拓哉の身につけているお金を出しても彼には届かないのだろう。
 しかし、占い師は続ける。
「まあ、困ったひと救うのか、私のしょうぱいね。つけにしといてあける。
 払えるようになたら、アンタ、私のところに来て、お金払う、いいね?」
「あ、ありがとう。で、いくら?」
「アンタのソウタン、これとても難問ね。たから、高いあるよ。
 そうね、三ヒャク万て、とうか?」
「ぼったくりだよ」
「ポッタクリ、ちかう、ちかう。
 三ヒャク万、たった車一タイのお値タンね、これであなた、元の世界にモトれるかもしれない。タタみたいな値タンね」
「俺の貯金ぶっとんで、ちょっと借金しなきゃならないぐらいだよ」
 そうは言ったものの拓哉がこの世界で頼れるのは、このインチキ臭い占い師だけなのだ。
「でも仕方ない。いいよ、それで教えて」
「契約成立あるね」
 占い師は嬉しそうに拓哉と握手した。驚くことにそれはすり抜けないでしっかりと指で相手の手を掴むことが出来た。
「嬉しいよ、今日、初めて自分の手がすり抜けない当たり前が起きた」
 占い師はニヤリと笑った。

「さて何か起きてるか教えるあるね」
「はい、俺の身に起きてる事は一体どういうことなんでしょうか? 死んでるにしては心臓の鼓動を感じるんです」
 占い師は大きく頷いた。
「そうとも、今のアンタは死んてないあるね。しかし、アンタか死んてる世界もある。これ、宇宙の真理ね」
 拓哉は嫌な予感がし出した。そんな詭弁のような話でお茶を濁されてはこまるのだ。今の自分は誰からも存在を認めてもらえない生命続行の危機なのだ。
「そんな詭弁が眞理なんてあり得ませんよ」
 占い師は指で拓哉を指して言う。
「チュンスイな科カクの話ね。アンタ、今いる世界は、パラレルワール卜、多シケン宇宙のひとつあるね。
 これは作りパナシちかう、高等プツリの話あるね。
 アンタ、タシケン宇宙わかるか?」
「ああ、そのタシケン宇宙てのは多次元宇宙の事ですね、物理の話はおぼろげです、なんせ文系経済学部出ですから」
「地球の科カクはレぺル低いあるね、なんても固い四角の積み木でカンカえるね。シツサイの宇宙は波の周波数てテキてるね。
 アンタのチプンの周波数はトコて決めてるか?」
「ああ、たぶん脳、いや心臓かな?」
 占い師は大きく頭を左右に振って「パカあるね」と言い自分の頭を指差した。
「アンタの周波数はアンタの意識か決めてるあるよ。アンタの意識の持ち方でアンタは1ピョウカンに何万回もチプンを創ってるある」
 拓哉は閃いた。
「ははあ、じゃあ俺が望めば元のパラレルワールドに戻れるっていう事ですね」
 占い師は、また大きく頭を左右に振った。
「普通のニンケンは習慣的に過去に行った反応をチトウ的に繰り返すね、これ、左脳意識のチトウ反応ある。たから意識を変えるのはカンタンてはないある」
 拓哉は唸った。
「ううーん、でも新しい気持ちで前と同じように仕事して恋をして生きる事を望めばその自分を創れるって事になるんじゃないですか?」
「意識というのはチプンひとりのものチカう。他の意識とタカイに共振したり、共鳴したりする。カッコウで波の重ね合わせを習ったろう。ある時はパイになり、ある時は打ち消し合ってセロになる。
周りのモノか皆、アンタか死ンタと思ってると、アンタぴとりのオレは生きてるという意識は打ち消されてしまうある」
「それじゃあダメじゃないですか」
「しかし、周りのモノもアンタのチ故を受け入れていないそういうパラレルワール卜もペツに確かにあるね。そこてはショクハの仲間も普通にアンタと会話してるし、恋ピトともテートしてるあるね」
 拓哉は力を込めて言った。
「そ、そのパラレルワールドを希望します」
「それにモトる方法をこれから教えてゆくある、しかしたいプ忍耐のチカラいるあるよ」

 

 §5

 病院の拓哉は本人の生きようという意志か、麻美の助けたいという祈りか、あるいはその両方のおかげで危機を乗り切った。
 もちろん医師が予測したように火傷で真皮を失った皮膚に新たな皮膚の移植手術を受けなければならなかった。当初は兄の太腿部の皮膚も移植されたがこれは移植置き換え目的ではなくて本人の皮膚が復活するための時間稼ぎ的な覆いだ。人工皮膚も同様で本人の皮膚の再生が必須なのだ。
 倉沢麻美も思い切って自分の背中の皮膚を提供したいと申し出たが、医師は皮膚だけは他人からの移植が成功しない臓器で、例外は一卵性双生児だけ、きちんと再生できるのは本人から移植した皮膚だけなのだと断られた。
 結局、完全に皮膚が火傷部分をきれいに覆うまでには数カ月の月日が必要だった。それも一応覆うという程度で、肘にはピンクの瘢痕拘縮が起きていたし、顎や頬は色が少し違うし痩せてる印象がある。

「拓哉さん、よかったわね。会社に戻って来いって社長さんが言ってくれたのよ」
「うん、麻美さんのおかげだ」
 拓哉はそう答えたものの表情筋が火傷で薄くなってしまったためか表情は以前より硬く見えた。
「腕もいきなり昔と同じには動かせないかもしれないけど、ゆっくりやればいいわ」
「そう……」
 麻美は笑顔を作って促した。
「ほーら、もっと嬉しそうにして。拓哉さんは試練に勝ったのよ。これはすごいカッコいいことなのよ」
「そうだね……けどもしかしたら助からなかった方が麻美はもっといい相手と付き合えてたり……」
 麻美はムッとした。
「コラッ、ここまで回復して何、弱気になってるの。私はあの日、拓哉さんを失ったらどうしようと考えて一睡も出来なかったのよ」
「ごめん」
「そもそも拓哉さんは稀に見る絶滅危惧趣味人なんだから簡単に替わりの男なんかいないんだからね」
「そうだったな」
「そうそう、ずっと延期してた東山魁夷だけど、そろそろ行かないとね」
「あ、いいね」
 ようやく拓哉の顔に喜びの色が指した。

 

 §6

 占い師は手を動かしながら言った。
「宇宙の材料、物質と意識、あるね。これを混ぜて練って、たんこにして、細長く延ぱしてゆき、折ると宇宙、太い二本の麺になるあるね。
 これをさらに延ばして折ると四本の麺、さらに延ばして折ると八本の麺、さらに延ばして折ると十六本の麺。こうやって宇宙増えてく、はい、多次元宇宙てきるね」

 まじか。
 拓哉はめまいに襲われた。三百万で麺の話か。もう返す言葉が見つからない。

「さて、この麺を波動というお湯で茹てるあるね。
 茹てる時、かきまわし方が悪いと麺同士がたまにくっつくあるよ。それを箸で持ちあける。すると一本の麺の表面の粒のいくつか、別な麺の表面にうつったままになる。
 これか今のアンタあるね」
「はあ」
 拓哉は気を取り直して尋ねる。
「それで、どうやったら、僕は、元の麺というか、宇宙に戻れるんですか?」
「心配ないね。
 宇宙の時間、直線ちかう、螺旋あるね。
 じぷんに合った場所行く。
 釣りをするつもりて待つことね。
 何十日も、何百日も、何千日も。
 何年かかろうと元の世界に戻れば前の自分に戻れるから年取る心配ないね。
 じっと心の目開いて待つと、光の束あらわれるね。
 これ、フォトン、意識の束あるね、そこにじぷんの意識投げる。
 周波数共鳴すると、自分の描いた像と光の束、合体するある。
 それ、元の世界への扉、開くあるね。
 そしたら、そこに飛び込む。
 元の麺に戻れるあるよ」
「そう簡単に言われても困りますよ。
 もっと具体的に教えてください。
 まず、じぷんに合った場所ってどこです」
 拓哉は怒りたいのを堪えて頼んだ。 
 占い師はひとしきり竹ひごをさばいて、文鎮を並べて、地図の一点を指し示した。

    ◇

 指示された場所は赤坂外堀通りの日枝神社の丘を望む交差点の角だ。

 拓哉はそこにあぐらをかいて座り込んでいる。
「光の束なんて、いつ現れるんだよ」 
 首相官邸にも近いせいかパトロールの警察官が歩いてくる。
 一瞬、拓哉は不審がられて職務質問されるかなと考えたが、この世界の人間には自分が見えないのをすぐ思い出した。
「山王下交差点、渋滞、異常共になし」
 警察官は拓哉に気付くことなく、無線で連絡を入れて通り過ぎてゆく。

 歩行者も、乗用車も、トラックも、バスも、全て拓哉に気付くことなく、通り過ぎてゆく。誰も自分の存在に気付かないのだ。
 拓哉の胸には苛立ちが高まってゆく。
 こんなことしてて、本当に元の世界に戻れるのか?
 それより、自分は本当はもうただの幽霊になってしまっただけではないのか?
 拓哉は自分の胸に触り、心臓の鼓動を確かめてみる。
 いや、生きてる。
 必ず生きて、元の世界に戻り、麻美に会い抱くんだ。
 拓哉は自分に言い聞かせて光の束が現れるのを待ち続けた。

 空に夕焼けが映えだし、拓哉はうとうととしかけた。
 と、背後から声がかかった。

「とうあるね?
 釣れたかね?」

 振り向くと占い師が立っていた。
「あ、先生」
 なぜか拓哉は占い師を先生と呼んでしまった。
「いいもの持ってきたあるね。
 これて、釣りをすると心か落ち着くあるね」
 そう言って占い師は一本の釣竿を拓哉に渡した。
 それはかなり昔の釣り竿らしく、竹竿に竹細工の輪っかがいくつか付いているが、糸の先についてる釣り針はまっすぐでひっかかりがない。
 これでは本当の釣りには使えないとすぐわかる。
「これをどうするんです?」
「たから、歩トウから車トウに向けて、突きタスと釣りの雰囲気テるあるね」
「だめですよ、警察官が見たら、釣竿だけ浮いてて取られますよ」
「タイチョウプあるね、これもペツのチケンのもの、二千年前の釣さおね。たから見つかる心配ないあるね」
 拓哉はなるほどと思った。
「そんな古い物、どこから?」
 拓哉がそう聞くと、占い師は黙って微笑んだ。
 拓哉はハッとした。
 中国を舞台にした戦国ゲームで軍師太公望のアイテムとしてまっすぐな針の釣竿があったのを思い出したのだ。
「まさか、先生は太公望じゃないでしょうね?」
「それは、とうてもいいこと、私はいろんなチタイを渡り歩くナカしの占い師あるよ。
 アンタ、元の世界に帰るペキね。そのために、私の言ったこと信チルこと、それタケよ」
 拓哉は感動を覚えた。かつての英雄軍師太公望が時代を超越して自分を助けようとしてくれているのだ。
「つまり、先生は太公望なんですね。
 わかりました、言われた通りにやってみます」

 それから来る日も、来る日も、拓哉は山王下交差点に、太公望の釣竿を垂れた。

 この異世界にいて、ただひとつ便利なのは、拓哉は、食事を摂ったり、トイレに行く必要はないということだ。
 ひたすら釣りに集中する。
 次第に、行き交う車が走るというより、とてもゆっくりすべって見えるようになってきた。

 そうしているうちに、拓哉はあの太公望はかつて釣りのふりをして森羅万象の法則を観察していたに違いないということを確信した。
 そうするうちに、占い師なのか、太公望なのかわからないが、背後で誰かが見守ってくれている気配も感じるようになった。
 しかし、振り返ることはしない。
 交差点の景色の中に、それまで見えなかった光の球の跳躍が見えるようになってきたので、それを見落としたくなかったからだ。
 光の球には短い周期、より長い周期、かなり長い周期のみっつの球があり、それぞれが自分の位置に定められた方角に跳躍してゆく。
 
 背後の声が言う。 
(うむ、見えてきたな。地面に大きな縦3横3の9マスのコパンあるとカンカえよ)
 地面に碁盤の目を仮想して眺めるうちに、光の球の跳躍は一定のルールに基づいていることに気付いた。
 あるところではまっすぐ次の目に進み、あるところでは斜めに進み、あるところでは桂馬飛びに進む。
 そのルールは碁盤の目の位置により決まっているのだ。
 背後の声が言う。 
(それが九星の飛泊チャ)
 そうだ、やがて、このみっつの周期がひとつの位置で重なる時が来る。
 その時、光の束が出現するに違いない。
 拓哉は確信した。すると背後の声が教えた。
(その時に慌てぬよう、そこに投けかける、チプンの意識を決めておくかよい)
 拓哉はうなづいた。
「わかりました、先生」

 

 §7

 倉沢麻美は高野拓哉とタクシーに乗っていた。
 長野県立美術館東山魁夷館の絵を見る前にまず、対象となっていた現地のリアルな様子を見てみようと今、東山魁夷が名画《緑響く》をスケッチしたという御射鹿池(みしゃかいけ)に向かっているのだ。
「拓哉さん、どっちを先に見るべきかずっと悩んでたでしょ?」
 麻美が聞いても拓哉の声は曇っている。
「うーん」
 麻美は一瞬、空を噛んで、話の方向を変えてやる。
「御射鹿池は調べて来ましたよ、ここはかつては諏訪大明神が狩りをする神聖な土地で、『御射鹿池』という名前は、諏訪大社上社の御頭祭で神様に捧げる牝鹿を射る神事に由来しているそうよ」
「ふうーん」
 拓哉の気のなさそうな返事を見かねたのか、運転手が声をかけてきた。
「よく調べられましたな。あの辺りは神さんの土地で神野と呼ばれてましてな」

 御射鹿池に着いてしばらく歩くと、東山魁夷の《緑響く》そっくりの景色が見つかった。
「ここだねー、緑響くそっくり!」
 麻美は歓声を上げた。すると拓哉の口角が一瞬上がった。麻美はそれを見つけてホッとしてした。
「今日初めて少し笑顔になったね」
「うん、まあ」
「でもよくこの景色に白馬を入れ込むことを思いついたよね。画家のインスピレーションてものすごいねえ」
「ああ」
「東山魁夷はモーツァルトが好きで、ピアノ協奏曲第23番イ長調第2楽章ていう少しもの悲しい曲があるんだけど、その曲から啓発された面もあるらしいの」

 二人は御射鹿池でしばらく過ごした後、頼んだ訳ではなかったが自主的に停車して待っててくれたさっきのタクシーに乗り込んだ。
「運転手さん、すみません」
 麻美が礼を言うと運転手は笑った。
「なあに、どうせまた呼ばれたら来なきゃならないし、待ってた方がガソリン代が半分で済むからな」
「彼氏も少し顔色がよくなりなさったね」
「ええ、ありがとう」
 
 明日はいよいよ、東山魁夷美術館に臨むことになるが、その手前にあるペンションに到着した。それは小さな湖のほとりにあっておしゃれなログハウス風の建物だ。
 部屋に通された麻美はアニメに出てきそうな赤い木枠の出窓を開いて身を乗り出して空を仰ぎ、湖ののどかな鳥たちに微笑んだ。
「ほら、拓哉さんも覗いてごらんよ」
 麻美が言っても拓哉の返事は「俺はいい」のひと言だ。
 麻美は気を取り直してバスルームの扉を開けた。
 するとお風呂はユニットバスではなくて、ヨーロッパでよくあるバスタブがポツンと床に置かれているタイプだ。
 麻美は歓声を上げた。
「拓哉さん、お風呂を見て」
 拓哉は面倒そうに覗き込んだ。
 麻美は服のままバスタブに入って、手に赤い花びらを乗せていた。
「すごい映画みたいだよ、バラの花びらが用意してあるの」
「なるほど」
 拓哉はひと言投げて顔を引っ込めた。

 今晩の宿泊は麻美にとっても拓哉にとっても記念すべきイベントの筈だ。ところが拓哉の態度がこうもうわの空ではイベントが失敗に終わる気がしてくる。
 拓哉の股間は火傷してない事は確認済みだ。しかしもしかしたら拓哉はあまりセックスの経験がなくて、そのために麻美とのセックスを前にして緊張しているのではないかと麻美は考えついた。
 麻美は多少経験はあるが、たとえ拓哉との最初のセックスがうまくゆかなくても気にならないように思える。というのも、それ以前に絶滅危惧趣味の絵画を共通の趣味としてる点や、感受性のリズムというようなものが他の人よりはるかに合うからだ。

「拓哉さん、私にとって拓哉さんは尊敬する画家さんと一緒だよ」
「うん?」
「だから今晩の愛の創作が途中で終わっても私はがっかりしない。別の日にまた続きを再開して私達の愛の創作を少しずつ完成に近づけるの。だから緊張しないでいいわ。拓哉さんが望むなら私は恥ずかしいポーズも平気だから」
 麻美はキャッという擬音が出そうな勢いで手で頬を押さえて俯き加減に拓哉を盗み見た。
「麻美さん、ありがとう。でも俺は男女のまぐわいにウブでもないし、俺が気にしてるのはそういう事じゃないんだ」
 拓哉はもう一人の自分のことを言いたかったが、それを変な目で誤解されずに伝えるのはなかなか難しそうだった。
「実は病院にいた時から、なんというか自分が見えない籠に閉じ込められているような気がしていたんだ」
 麻美は首を傾げてその言葉を繰り返した。
「見えない籠? それはどういう意味なの?」
 
「今ここにいる俺はそこそこ自由だよ。でも一方で何かに閉じ込められていて開放される時を待っている気持ちも強く感じるんだよ。つまり完全に孤独で誰一人として俺に気付いてくれない世界があって、俺は絶望の中でもがいてるみたいなんだ」
「ええと、自由なのに閉じ込められているの?」
「うん、矛盾してるね。もしかしたら閉じ込められてる自分は別の世界にいるもう一人の自分だと考えたらいいのかもしれない」
「……そういうことね」
 麻美はそう言ったものの心配になってきた。もう一人の自分なんて気にするのは精神的に不健康な徴候に思える。
「だけど別の世界の自分とこっちのあなたはどうやって気持ちを通じているの?」
 すると拓哉は困った顔になった。
「それはうまく説明できないけど、どっちも自分だし」
 麻美は床にある拓哉の影が薄くなってゆくような気がした。麻美は思わず拓哉の手を握った。
「わかった。じゃあこっちの私達が幸せにしてれば、向こうのあなたにも伝わるんじゃないかな。ねえ、そう思うでしょ?」
「うーん、だといいけど。かえってあいつの孤独が深くなるような気もする」
 麻美はこみ上げそうな溜め息をこらえた。

 だが、案じるほどのこともなく、初めての二人の夜はしらけることなくそれなりに盛り上がった。
「麻美さん、可愛かったよ」
「もう呼び捨てにしていいよ」
「うん、麻美は最高に素敵だ。あいつの事を忘れて夢中になってしまったよ」
「拓哉も素敵だった。いちいちあいつの説明はしなくてもいいよ」
「俺ばかり幸せじゃああいつに悪いだろ」
「悪くはないと思うけど……」
「だって同じ自分なんだよ」
「いいってば」
 麻美は顔を寄せてキスをして拓哉を黙らせた。

 開館前から並んで東山魁夷美術館に入った拓哉と麻美は艦内をぐるりと回って落胆した。
 有名な《緑響く》の展示がないのだ。他館に貸し出されてないことは確認して来たのだが、常設展示は東山魁夷の中期のデッサンなどをテーマとしたマニアックすぎるものだったのだ。
 これにはさすがの麻美も受付に抗議した。
「私たちはわざわざ《緑響く》を観るために昨日、御射鹿池にまで足を延ばして現地の風景をしっかり胸に刻んで楽しみにして来たんですよ。どうして貸し出してもないのに、本家の美術館に展示がないんですか?」
「まことに申し訳ございません。当館では東山先生の膨大な作品を寄贈されてまして、それを順番に展示するだけで手一杯でして……」
「こんな態度は安易かもしれませんが、私たちは有名な作品から鑑賞していきたいんです。東山先生の重箱の隅から隅まで知り尽くした専門家になるつもりはないんです」
「はあ、なるほど。しかし公共性の強い当館としましては少数の意見をないがしろにするわけにも……」 
 拓哉は食い下がる麻美の腕を掴んだ。
「ここはあきらめよう。それより東南の方角に行こう」
「そこに何があるの?」
「美術館を探して、口直しだ」
「口直し?変なの」

 東山魁夷美術館を出ると拓哉は打ち明けた。
「あいつが北西の方位を気にしてるんだ」
「東南と真逆じゃないの?」
「うん、あいつは都心にいて北西を見詰めてるから、ここの方角だよ。だからこちらからも近付いてやるんだ」
「全然意味がわかんないよ。結局美術館に行くんでしょ?」
「ああ。あいつだって美術館が好きだからね」

 軽井沢で新幹線を降りて、二人はエリアにある美術館をチェックしだした。
「意外にいっぱいあるんだね」
「そうだな。あいつが行きたがってたのは」
「ニューアートミュージアムはどう?」
「いや、あいつ、というか我々の好みじゃないよ」
「安東美術館は?」
「藤田嗣治の作品が観られるね。いいけど今回は違う気がする」
「じゃあここ、千住博美術館」
「なるほど。あいつは行きたがってたな。ここにしよう」

 二人はタクシーで千住博美術館に到着した。ガラスの曲面で仕切られた中庭があり、周囲を回遊するように作品が並べられている。
 浅間山をモチーフとした作品群があり、滝をモチーフとした作品群があり、一番奥の部屋には巨大スクリーンに定期的に上演される動画があり、いずれもが強い個性をアピールしている。
 動画を観終わった観客たちは殆どがゆっくりと立ち去る。
 麻美が囁いた。
「すごいねえ、滝がさ、時間の正体なの。だから桜になるんだよ」
 日常と違う世界に触れた経験が麻美を静かに興奮させていた。

 動画会場を出たところで拓哉が初めて口を開いた。
「ここだ」
 そこは楕円形に仕切られたDayFallNightFallと名付けられた部屋で向かい合うように大小ふたつの滝のワイドな絵が飾られている。
 照明があたかも太陽の光を演じるように、朝の橙色の光から眩しい昼光色になり夕焼けの橙を経て夜の群青、桎梏へと移ろう。拓哉は小さい絵をしっかりと観ると、次に大きい絵の前を移動しながらしっかりと観た。そして右端に差し掛かった時に囁いた。
「見つけた!」
 すると麻美がさらに小さな声で聞いた。
「何を見つけたの?」
「あいつの視線。こっちを見ているんだ」
 麻美はぽかんと口を開いて大きな絵の右端部分を見詰めた。

 

  §8

 山王下交差点の歩道で九星の飛泊を観察し始めてから、数週間が経ち、一ケ月が経った。ある時は修学旅行のバスが通りを埋め尽くし、ある時は葬儀の送迎バスがなぜか溢れた。そういう傾向は偶然ではなく起こるべくして起きているのだと拓哉は悟った。一年が過ぎていよいよ、その時が近づいて来たような気配がする。

 交差点の中を、好き勝手に跳躍しているみっつの光の球を眺めていると、次にみっつの球の行く先の予測が一点に絞られる。
「来る」
 呟いた次の瞬間、みっつの光の球は重なって、金色の光の束となった。

 拓哉は用意していたイメージを投げかける。
 すると、行き交う車のゆっくりと見える動きの合い間に、東山魁夷の白馬が出現した。
 湖畔の林の中を進むはずの白馬は、すらりと伸びた脚をゆったりと折り曲げ、タクシーやワゴンやスポーツカーの間をすり抜ける。
「ほほう、白馬か」
 背後で声がした。
 光の束の位置はまだ離れている。
「一瞬を逃すな」
 背後の声が言うや、白馬が、光の束に入った。
 すると、交差点の中に、湖畔の木立が出現した。
 白馬はその中をゆっくりと動いている。
 今、飛び込まなければと思ったが、一瞬、脇から大型のトラックが寄ってくるのが視界の隅に入り、拓哉は反射的に躊躇した。
「急げ」
 どっと拓哉の背中を誰かの手が突いた。
 次の瞬間、拓哉は道に飛び出してトラックの運転席をすり抜け、東山魁夷の白馬のイメージの中に飛び込んだ。

 

 §9

 その大きな滝の絵の右端の白い線は馬が下を向いているようなぼんやりとした輪郭が見えている。その中心に二つの星のような光が現れた。下を向いていた鼻は前方に向かい画面から突き出て、白馬の頭になった。
「出て来るぞ」
 拓哉が小声で短く叫んだ。 
 次の瞬間、白馬の大きな体が飛び出して来た。それは天井に届きそうな高さで拓哉は麻美と後ずさりする。麻美は白馬の背中にも拓哉が乗っているのを見た。
「戻って来たな」
 拓哉がそう言って手を差し出すと馬上の拓哉も答えた。
「ああ」
 二人の拓哉が手をがっちりと握りあうや、その手の隙間から強烈な閃光がこぼれて全てを見えなくした。

 麻美はつぶった目を開きながら呼びかけた。
「拓哉さん、どこ?」
「ここにいるよ」
「よかった」
 麻美は警戒しながら薄目を開けた。
 閃光は一瞬で終わり白馬は消えてしまい、二人の拓哉は一人に戻っていた。
「今のは何だったの?」
「うん、簡単に言うと麺と麺が鍋の中でくっついて、それが離れる時に粒が反対側からこっちへ戻って来たんだよ」
 麻美は微笑みかけて急に驚いた顔になる。
「待って、拓哉さん、顔の火傷の痕が消えてる! あなたはあっちの拓哉さんなの?」
「うん、そうかもね」
「じゃあ火傷した拓哉さんはどこへ行ったの?」
「きっとあっちの世界だよ」
「ええ? それって困らないですか?」
「大丈夫だよ。きっとあっちの世界にも君がいて君と仲良く暮らすんだろう。何か問題でもある?」
「まあ、どっちも拓哉さんだし、いいのかな」
「ああ、どっちも絶滅危惧趣味同士のカップルだ」
「そうですね」
「じゃあ東京に帰ろうか」
「ええ、帰りましょ」
 二人は新幹線で東京に帰った。

 拓哉はドキドキしながら自分の部屋に近付いた。階段下に駐輪スペースがあり以前と同じ自転車が並んでいる。2階に上がって進むと、そこは何の異変も見当たらない、ガス爆発など起きてない元の軽量鉄骨アパートのままだ。
 完璧だ、すべてうまくいった。パラレルワールドから元の世界線に戻ったのだ。
 拓哉は拳を突き上げガッツポーズした。
 あの三鷹の占い師に三百万は払わなきゃならないだろうが、元の世界に戻れたのだから満足だ。

 翌日、拓哉が出社すると会社の同僚はガス爆発事故など全く知らない様子で、以前と同じように接してくれる。どうやら事故自体が歴史から消えているのだ。全ては予想通りだ。
 拓哉は普通に仕事を終えて帰宅途中に三鷹駅で降りて占い師を探した。
 すると、占い師はあちらの世界で会った時と同じように雑居ビルの入り口に机を出し、易と書いた小さな行燈を置いて座っていた。

「先生、戻れました」
 拓哉が言うと、占い師はうなづいた。
「はて、トコカの世界て助けたかな?」
「ええ、本当に助かりました。これ、代金の三百万です」
 拓哉がカバンから出した札束を差し出すと、占い師は笑った。
「アンタ、パカ正チキね。それては外国人にタマされるあるよ」
「でも向こうの世界で僕に気付いてくれたのは先生だけだったんです。
 もし先生が気付いてくれなければ、僕は向こうの世界で自分の死を受け入れてた。
 先生は命の恩人なんです」
「あっちの私は助けたかもしれないカ、こっちの私、何もしてないあるよ」
「それじゃあ僕の気がすまないんです。是非、受け取ってください」
 拓哉が札束を押し付けようとすると、占い師はうなづいた。
「まあ、そこまて言うなら、もらうあるよ」
 占い師は札束を布袋にしまい込んんだ。
「ありがとうございました」
「うむ、また困ったら来なさい」

 拓哉が立ち去ろうとした時、麻美の声が横からした。
「拓哉さん、こんなところで何してるんですか?」
「麻美さん! いや、俺はこの先生に助けられたんだよ」
「えっ、拓哉さんも?」
 今度は拓哉が麻美の言葉に驚いた。
「『も』ってことは麻美さんもこの先生に助けられたのかい?」
 すると麻美は頷いて、占い師に向き直った。
「そうなの。あ、先生、あの時はありがとうございました。皆が彼氏は死んだ死んだって言い張って、私はパラレルワールドで孤立してたんです。九星の飛泊を先生に教えていただいて助かりました」
「ほお、サスカはわし、いい事をしたな、チョウテキあるね」
「代金の五十万円です」
 そこで拓哉は割り込んだ。
「横レス失礼、先生、なんで麻美さんは五十万なんですか?」
「私に聞かれても、知るわけないあるね」
 すると麻美が答えた。
「ああ、私、値切ったから。元は百万て言われたの」
「なんで俺は三百万で、麻美さんは百万が五十万に値引きなのか説明してください」
「たから知らんある。元の世界に戻れて喜んテ払ったなら、ソレテいいあるね。金カクはその時のチカあるよ。ノンクレームはチョーシキね」
 占い師はそうとぼけた。実際、さっき拓哉は納得して喜んで払ったのだから反論はおかしいのだ。

「じゃあ先生、受け取って下さい」
 麻美が封筒を渡そうとすると、占い師は手を横に振った。
「ああ、もうこっちの彼から貰ったからキミのはいいよ。好きな服テモ買いなさい」
 麻美は拓哉が恨めしそうにやりとりを眺めているのに気付いて言う。
「受け取ってもらわないと、私と彼との仲が悪くなっちゃいます」
「かまわんよ。そしたら彼はまた私にソウタンに来るあるね」
 拓哉は占い師への精一杯の反抗としてチッと舌を鳴らした。
「麻美さん払わなくていいよ。俺の貯金はゼロになったから、そのお金は次の美術館巡りに使おう」
「ああ、そうね。じゃあ先生、お言葉に甘えて」
 占い師は頷き、拓哉と麻美は手をつないで帰った。

 

 §10

 次の美術館は伊豆の美術館に決まった。
 東京から近いので日帰りでもいいわけだが、拓哉が前日泊まりを提案すると麻美はあっさりと同意してくれた。 これは前回の初体験がうまくいったおかげに違いない。拓哉はミイラの自分に感謝した。お前のおかげで俺と麻美はますます深い仲になれるよ。

 伊豆のホテルの部屋に着いた麻美は真っ先に大きなバッグを開いた。そして中から取り出したのは、絵を描くキャンバスだ。
「はい、これ」
「え、何?」
「やだ、拓哉さん、ずっと前にキャンバスを私に頼んだじゃない」
 拓哉は、麻美が何を言ってるかわからない。
 キャンバスを抱えて、どう答えたものか考えあぐねていると、麻美は窓際に立った。

「ぐずぐすしてると、できなくなっちゃいそうだから思い切って脱ぐね」
 麻美はそう宣言すると、その場で服を脱ぎはじめた。
「あ、あの」
 服を脱ぎ、ブラジャーを取り、肌を露出してゆく麻美を、拓哉は呆然と眺めた。
 麻美はあっという間に全裸になると、そのまま窓を振り向くように横顔を見せて椅子に腰掛けた。
「こんな感じなのかな? よくわからないからポーズを指示してね」
「あ…その、麻美さんがヌードモデルってこと?」
「ここまでさせて、今さら何言ってるの?
 拓哉さんが結婚前のきれいな私のヌードを油絵にして、完成したら結婚しようってプロポーズしてくれたんじゃない」

 油絵を完成させるのが結婚の条件てこと?
 俺は観る派で描く派じゃないんだよ……。

「あ、約束、破っちゃいやよ。私たち、まだセックスしてないんだから、私の裸に指一本でも触ったら婚約破棄で絶交だからね」

 セックスもまだ? 当然、今夜もなし?
 拓哉は眩暈がした。

 きっとこの麻美は、前の世界と違うパラレルワールドの麻美なのだ。すっかり下心満開で来たのに、俺が戻った瞬間にこの違う麻美も同じタイミングで戻って来たに違いない。
 全裸の麻美を見せつけられて、指も触れられないとは。
 これじゃあ、まるで拷問だ。
 だがもう一度、元の世界にジャンプを試みるのは手間が面倒すぎる
 拓哉はすぐにあきらめてキャンバスにへたくそな下書きを始めた。
 
 あれから一年が経って、僕には、宝と呼べる絵がふたつある。
 東山魁夷の白馬のリトグラフと、妻をモデルにした下手なヌード油絵だ。   《了》