オオカミ女

オオカミ女

 

 ある晩、車で帰宅途中、僕が小さな川にかかる【もどり橋】にさしかかった時のことだ。
 欄干によじ登る女性の影が月光に浮かんだ。

 身っ、身投げだっ!

 僕は急ブレーキをかけ車から飛び出た。

「だめだ」
 欄干に駆け寄った僕は昔、何かの映画で観たように、その彼女の頬をひとつぴしゃりと打って、彼女の肩を引き寄せて助手席に押し込んだ。
 僕は映画のタイトルを思い出そうと考えながら車を再び走らせた。
 彼女は頬を押さえて泣くばかりだ。

 映画のタイトルを思い出すのをあきらめて僕は言った。
「あそこはいつもは水深が10センチぐらいしかないんだ。
 あそこに飛び込んだら、溺れる前におでこが割れて死んでしまうよ。
 それでもよかったのかい?」
 僕は笑いをこさえながら言ったが、残念ながら彼女は笑ってくれなかった。
 どうしてだ。直接的に相手を非難せずにやんわりと焦点を置き換え、とりあえずコミュニケーションとろうという、この高等話術が通用しないとは。僕はこれが暗澹たる思いってやつかなと考えてみた。

 その代わりに彼女は呟いた。
「もっと深い川に連れていってください」
 彼女が言うと、僕はすぐに返した。
「えっ、深川鍋を食べたいの?」
「あの、ダシャレ系は苦しいので許してください」
「うん」
 僕は頷いてストレートに訊いた。
「じゃあ、身投げなんて非日常的な冒険を試みたのはどんな理由で?」
 そう聞きはしたものの、すぐ答えが返るとは予想してなかった。
 が、彼女は俯いたままあっさりと告白した。

「私、オオカミ女なんです」

 僕は息を呑んだ。
 しかし彼女は僕の非日常的という言葉にきちんと沿った返答をくれたのだ。コミュニケーションは成立したようだが、今度はこちらの返答が神級に難しい。

 突然、相手にオオカミ女だと告白された場合の返答例を気づかれないようエア検索。
 ……だめだ、自分のデータベースにそんな例は見当たらない。
 助手席でうなだれている彼女はとてもオオカミ女には見えない、のだが。

 あっ、そういや今日か明日が、満月じゃないのか。

 まさかそんな可能性は数マイクロパーセントだと思うが、仮にそれが真実の場合、今、彼女はこの俺を獲物として考えているのだろうか?
 待てよ、そもそも欄干に上がっていたのは自殺だと助けに来た男を餌食にするための捕食活動ではないのか?

 そう考え至ると寒イボと鳥肌が一気に胸から背中に広がり寒気がする。
 ヤバイ、映画で最初に殺られるリアル役になったかもしれないぞ。

 今すぐ、車を捨てて逃げようか?
 だが彼女が本当にオオカミ女だというのは数マイクロパーセント、この車のローンは終わって乗るだけお得な気分更新中を天秤にかけたらどうなのだ。
 乗り捨ては却下だ。

 だとしたら彼女が現在時点で必死に抑えている本能をなんとか溶かし消して、人間の倫理を保ち続けるよう説得する手だな。
 君も本当はオオカミ女をやめて人間に戻りたいんだろうと問いかけてみるか?
 ……て、数マイクロパーセントとはいえ、そんな説得がオオカミ女に対して通じるのか?
 ゾンビに語り掛けて生き残った奴がいるか、そんなのまず無理だ。
 
 残る路線はひとつしか思い浮かばない。
 ここはこちらの恐怖心を隠して、ひたすらお笑いに持ってゆこう。
 
 僕は咳払いをエアーで済ませて言い放った。
「わかったよ。コンビニでシェーバーと脱毛クリームを買ってホテルに篭ろう。君にオオカミの毛が生えてきたら僕が片っ端から剃ってあげるよ、僕が全力で君をオオカミにさせないと約束する」
 僕はヒーローのように力強く言ったが、彼女は想定通り笑わず、弱々しく頭を横に振った。
「そんなのいいです。やっぱり、私のウチに連れてって下さい。それからひと晩だけそばについていて下さい。図々しくてごめんなさい」
 僕はどう答えていいかわからず黙り込んで運転を続けた。

   ◇

 彼女の部屋は20分ほど走ったところのマンションの最上階だった。
 彼女は鍵を開けると、歩きながら上着を廊下に脱ぎ捨て、ブラウスを脱ぎ捨て、スカートを脱ぎ捨て、パンストを脱ぎ捨てて、バスルームに入った。
 僕は奥の部屋に入った。ダブルベッドをよっつぐらい置けそうな広さのワンルームで、僕の部屋よりずっと家賃は高そうだ。
 僕は緑のソフアに座って借りてきたライオンのように小さく吼えてみた。

 しばらくすると彼女はバスルームのドアをちょっと開けて言った。
「すみません、バスタオルを取ってもらえますか。あとバスローブも。窓の反対、一番隅のドアを開けるとありますから」
 
 バスタオルをターバンのように巻いてバスローブをまとった彼女は焼きうどんを作ってくれた。
 彼女は化粧を落としたのにも拘らず、車で俯いていた時より少し綺麗に見えた。
 二人でソフアに並んで黙って食べた焼きうどんは塩分が濃すぎた。
 でも僕は文句も冗談も言わずに、彼女の涙の味のような焼きうどんを食べた。

 それから僕はビールを、彼女は白ワインを飲んだ。
 その間、僕は心の中で何度もセリフのリハーサルをしていた。
 (もしかして失恋したの?)
 しかし、それを言い出すことは何かに止められたかのように出来なかった。

 そして彼女が僕に言った。
「変なことしたいなら12時までに終わらせてください」
 そして彼女はソフアにもたれて眠ったように見えた。

 しかし、変なことなんて言われたら変なことはしづらいという事を僕は初めて知った。
 そういうつもりなら彼女はこう言うべきだった。
 自殺未遂記念に欲望のお祭りをしましょ。但し12時までね。
 
 彼女の寝顔を見ながら僕の胸の中で悪魔Dと天使Aが口論した。

D 12時と区切るのは、やはりその時刻からオオカミに変身するに違いない。そしたら俺は食べられてしまうかも。だとしたら思い残すことがないよう、今のうちにこの世最後のスケベなことをしとくべきじゃないか。

A 何を下劣なことを考えてるんだ。この女性は身投げするほど苦しんでたんだぞ。今もその苦悩は終わってないんだよ。女性の感情の起伏に付け込んでスケベなことをするなんて漢として最低だよ。

D いやいや濃厚なスケベが女の心を癒すこともあるんだよ。

A アホこけ、そんな癒しなんか要らんわい。

D しかし俺の観たエロビデオは必ずスケベするぞ。

A お前のエロビデオのせいで真面目な男まで獣扱いされるんじゃい。

 結局、悪魔と天使の議論が延々と続くまま、時刻が12時5分前になったので、僕は彼女をお姫様抱っこして運びベッドに寝かせた。

 そして「もうオオカミになってもいいよ」と囁いた。

 窓からは満月の光が差し込んで彼女の頬を照らした。
 頬にひと筋の涙が流れ光った。
 どうやら、彼女はずっと寝たふりをしていたのだろう。
 
 僕はベッドに腰かけて、じっと彼女がオオカミ女に変身する瞬間を待ち受けた。
 本当にオオカミになってもかまわない、食べられても仕方ない。そんな気さえしてきた。

 しかし、なかなか彼女の頬には毛が生えてこなかった。
 満月の前を時々雲がよぎるので、彼女の頬は暗くなったり、明るくなったりした。
 僕はそれを長いことただ眺めていた。

   ◇
 
 どれぐらいたったろう。
 気がつくと僕はベッドに腰かけたまま、うずくまり眠り込んでしまったようで毛布をかけられていた。
 まだ外は夜が明ける直前ぐらいの紺色の空だ。
 だが彼女の姿がない。

 まさか。

 僕はいやな予感がして急いで部屋の窓を開けて下を見た。
 どうやら彼女は落ちてなかった。ついでに箒も掃除機も落ちてなかった。

 僕はほっと溜め息を吐くと冷蔵庫を開けて、野菜&果物ジュースを飲んだ。
 テーブルには彼女の書き置きがあった。

「あなたのおかげでおでこが割れずに済みました。ありがとうございます」

 僕は照れながら、しかし平静を装ってソファーに腰をかけた。

 それからふだんは見る筈もない早朝のテレビをつけた。
 男の司会者は「ここでニュースを伝えてもらいます」と言い「報道フロアの嶋野さん」と呼びかけた。
 女性アナウンサーが映ると僕は息が詰まった。

 それは彼女だった。

「はい、政府は人事の難航していた行政監督会議の議長に嬉々打参議議員、嬉々打参議院議員を内定した模様です。
 赤ちゃん用品大手ベビー本舗と葬儀業大手のラストセレモニーが合併を発表しました。これにより文字通り揺りかごめから墓、揺りかごから墓場までの総合企業になるものと思われます。
 新宿区西新宿の路上で元プロレスラー繁た茂竹、繁竹茂太さんが殺されていた事件で、警視庁捜査一課の第二強行犯捜査二課、強行犯捜査二係は女子プロレスラーメガトンヒップこと深実沢滋江を殺人容疑で逮捕しました。
 今入っているニュースは以上です」

 男の司会者は笑顔で言う。
「昨日は三日連続で5回噛んで橋Pにオオカミ女に認定されて取り乱してたのに、今朝はいつものように噛んでも、さばさばしてますねえ、嶋野さん」
「オオカミになってもいいと言われて気が楽になりました」
「ほお、そんなこと言ったのは誰です?」
「知らないひとです。けどたぶんいいひとです。きっと、とても」
 そう言って嶋野香穂は微笑んだ。
 昨夜から僕の見た中で一番のいい顔だった。
 僕は大きなあくびをすると、もうひと眠りしてから仕事に向かった。

 途中、もどり橋を見ると欄干は陽光を受けて輝いていた。      了

短編小説

Posted by honya3ginga