改訂版ドルフィン・ジャンプ7 カノンのお願い
改訂版ドルフィン・ジャンプ全29章 目次です
7 カノンのお願い
その日、ロサンゼルスは穏やかな天気の朝を迎えていた。
いつものように起きたルーク・フリードマンは、しかし、急にいつもと違うことを思い出してベッドの上で左の頬を押さえた。
ふらふらと洗面に立ったルークは鏡を見つめた。ブラウンでウェーブが入った髪の下は、祖母方のアイルランドと祖父方のイタリアの血がうまく溶け合った顔だが、今、一番目立つのは左の頬にくっきりと残る赤い手形の腫れだ。
「なんてこった、強烈に残ってるよ」
ルークは左の頬を押さえてキッチンに入ると、冷蔵庫の製氷器から氷を取り出しタオルに巻いて頬にあてた。
それから牛乳と食べ残しのピザで朝食を済ませ、ソファに横になる。
ルークは昨夜の、正確に言えば七時間前のパトリシアとの決定的な喧嘩を思い出してぶつぶつと文句を言った。
「パティーときたら、俺よりあんなプロデューサー野郎がいいだなんて。俺があいつは慰謝料を払うのが嫌で離婚調停を引き伸ばしてるケチな奴なんだぞって、それにパティーの知らない女とも付き合ってるんだぞと忠告してやったのに。逆切れしやがって、俺と別れるだと?」
ルークはトマトケチャップの大きなチューブを手にすると「大砲をくらえ」と言って淡い水色の壁に投げつけた。それは壁にぶつかり破裂すると、赤いハートを壁に描いた。
ルークは叫んだ。
「なんだ、ケチャップまでからかいやがって!」
それから頬を冷やしつつニュースを何本か聞き流し、ルークはおもむろにスマホに手を伸ばした。
まずは発声練習で「やあ、ナンシー、んんっ、やあ、ナンシー」と繰り返してから、会社に電話を入れる。
『おはようございます、エス・エス・シー・アドバータイズ社でございます』
『おはよう、ケイト。ルークだけど、ナンシーにつないでくれる?』
『あら、ルーク、ちょっと待ってね……はい、どうぞ』
『やあ、ナンシー、今日のスケジュールはどうなってる?』
『今日の最重要! スタータワーホテルの新シリーズCMの件でポールリッジ会長とのランチミーティングよ。今回はライバルたちも私たちを出し抜こうと躍起なんだから。まさか忘れてないでしょうね?』
『この俺が、まさか、ご冗談でしょ? キャンセルでも出てたら困ると思ってさ』
そう言いながら、ルークはまだ腫れが引かない頬をさすった。
『実は今、プレゼンの補足資料を集めてるんだ。
わかるだろ、フットボールゲームで言うとトドメの一撃になりそうなやつ。それを揃えていくから、もうちょっとかかる』
『オーケー、じゃ、相棒のベアリーにも遅刻の言い訳をどうぞ。
……ハーイ、ルーク』
電話口がナンシーから後輩のベアリーのこもった声に替わると、ルークは言う。
『ちょっと資料がな、俺の頬を叩いて痕がまだ消えなくて遅くなる。よろしく頼む』
『はいはい、あのブロンドでボイ~ンな資料にやられたんですね。わかりました』
『お前はいいやつだ、じゃあ後で』
ルークはハァーと溜め息を吐いた。
◇
時刻は十時半になるところ。前方の信号が黄色に変わると、ルークは愛車のシボレー・クルーズのスピードを緩めて停まり、ふと横の旅行代理店のウィンドウに貼ってあるイルカの写真を眺めた。
それはイルカが空に向けてジャンプしているほぼ真っ青なポスターで、上にシーパークと白抜きのロゴが入っている。
「いいなあ、イルカは」
つぶやいて眺めるうち、後ろのドアを誰かがノックした。
ルークが振り返ると、そこには緑のベレー帽、ワンピースにブレザーという制服を着て鞄を持った私立中学生らしい女の子が立っていた。瞳がぱっちりとして可愛らしかったがその顔は血の気が引いた感じで青白い。
ルークは電動ウィンドウを下げて「どうした?」と聞く。
「緊急事態なの、乗せてくれない?」
「緊急事態って?」
「これが救急車でないのはわかるわ、けど私、心臓が……」
少女は辛そうに眉間を歪め左胸の前を押さえた。
「そいつはいけない、早く乗って」
ルークは後ろのドアを開いてやり、少女は倒れるようにシートに横になった。
「で、病院はいきつけある? それともどこか近くのERに行く?」
ルークは自分がヒーローになったように感じながら、自分の車にサイレンと回転灯がついてないのを悔やんだ。
「とりあえず南へまっすぐ」
「オーケー、早く青になれ!」
ルークはホイールスピンさせて、信号が青になるや車をスタートした。
後部座席に横たわる少女は、なぜかのんびりした声で聞いてくる。
「おじさん、さっきさイルカのポスター見てたよね?」
「ああ、あった。けどそんな悠長な話はいいから、脈拍は? 血圧は? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫。おじさん、イルカが羨ましいの?」
少女は透けるような青白い頬につぶらな瞳を見開き、笑みを見せて聞いた。
咄嗟に(たしかにその通りさ)という言葉がルークの脳裏をかすめたが、それどころじゃない。今、自分は瀕死の少女を救うヒーローだ。合衆国でヒーローといえば、911の時の消防士を思い出してもわかるようにそれはまず人を救う人間なのだ。
待てよ、これがニュースになると自分はロスで評判の営業マンになるぞ。
……いかんいかん、自分の成功のために人助けするのでは偽善じゃないか。
ルークは一人で勝手に想像して自分を責めた。
「それより、病院だ」
ルークは前を向いたまま言うが、少女が聞いてくる。
「おじさん、痛いの?」
少女の言葉にルークは聞き返した。
「痛いのは君だろ?」
「おじさん、ほっぺが赤く腫れて凄く痛そうだよ」
少女がルークの頬を指差すので、ルークは慌てて言い訳を考える。
「こ、これはだな」
「隠さなくてもいいよ、誰が見ても手の形だし」
ルークは、パティーに振られたことまでばれた気がして思わず声を上げた。
「違うって、その、ほら、昨日、夜の博物館特別招待企画で、暗闇で熊の剥製が手を広げてたのに気付かないでぶつかっただけだ。
それより君の病状は?」
少女はニッと歯を見せた。
「もう治まったみたい。ありがとう、おじさん」
「治まったって。つまり、まさか仮病かよ?」
ルークはムッとして車を脇に寄せて停めた。
「俺はね、忙しいんだ、ガキんちょの仮病に付き合ってる暇はないの」
後ろのドアを開けてやる。
「さ、降りて」
「こんなところで降ろされたって困るよ」
そう言われると見渡しても道路だけで店も家もバス停もない。
「ま、それはそうだな」
ルークは仕方なくドアを閉めた。
「ありがとう、ごめんなさい。
私ね、今日、学校さぼるんだ」
少女は天真爛漫に言ってのけ、ルークは慌てて叱った。
「こら、いけないぞ。まじめなコが学校をさぼっちゃ」
「どうしていけないの?」
「それは、子供のうちは学校行って勉強するのが義務なんだよ」
「ギムって?」
少女はがっかりしたようにため息を吐いた。
「義務ってわからないかな」
「おじさん、そんなカタブツみたいなこと言ってると、うわべだけ繕って中身はエゴイストの悪い人になっちゃうんじゃない」
朝の十時から中学生に説教されるなんて想像もしてみなかった事態に苦笑しながらも、ルークは負けじと言い返した。
「じゃあ、学校さぼって何したいんだい?」
「大人は学校、学校って言うけど、学校だけが勉強じゃないでしょ」
「そりゃあ、まあそうだけど」
「だから、私は今日はおじさんとさっきのポスターのイルカショーに行くって決めた」
少女はそう言ってルークの肩をさすった。
「いいでしょう、これからおじさんにシーパークに連れてってもらってイルカショーを見て、学校で出来ない勉強するの。ねっ、決ーめた」
「おいおい、勝手なこと言うなよ。それにもっと初対面の相手は警戒しないとだめだ。俺が人攫いのスパイだったらどうするんだよ?」
「おじさんはいいひとだよ。朝からイルカショーのポスターにボーと見とれてる、とてもいいひと。
但し、仕事はできないし出世コースとは無関係で昨日彼女に振られたってところ」
ルークは中学生に指摘され仕事へ行くモティベーションが急速に下がるのを感じた。
「ったく、やなこと言うガキだね。こう見えても俺は秘密情報部のスパイだぞ」
「ウソだね、本当のスパイが自分はスパイだって言うわけないもん」
「ったく、可愛くないな。こう見えても、007、ミッションインポシブル、トゥエンティフォー、エイリアス、ジェイソン・ボーンは全部演技できるくらい見てるんだぞ。それに学生時代は格闘技同好会で空手二級だ。素直じゃないガキんちょは嫌いだよ」
ルークが振り返ると少女は後部の窓に頭を近づけて手を振っている。
「何してんだ?」
「白バイのおまわりさんが誘拐されたかもしれない女の子を見つけたみたい」
バックミラーを見るとハイウェイパトロールの白バイがスピードを落としている。
「ふざけるなよ」
「イルカショーに連れてってくれないならおまわりさんに誘拐されたって言うから」
「誘拐なんかしてない、俺の方がお前の仮病に騙された被害者だぞ」
少女は人差し指に顎を乗せて呟いた。
「おまわりさんが私の言い分とおじさんの言い分のどっちを信じるかしら」
白バイ警官は無線でひとこと連絡して、白バイを降りて近づいて来る。
ルークはやましいところはないが、どう説明しようかと焦った。
警官がさりげなく拳銃のホルダーのカバーを外すのが目に入る。
ルークは思わず唾を飲み込んだ。
「どうしました? 故障?」
ルークは頬の手形を手で隠して言う。
「いや、ただこの子とドライブの途中、地図を確かめようと止まったところ」
そこで少女がここぞと言う。
「これからシーパークに行ってイルカショーを見るの、ね、おじさん」
そう振られてルークは仕方なく同意して作り笑いを見せた。
「そうなんだよ、イルカショーに行くんだ」
「前から約束してたの」
少女の屈託ない声に警官は安堵したようだ。
「そう、この人はお嬢ちゃんの何になるのかな?」
「親戚のおじさん、私は姪よ」
警官は微笑んで大きく頷いた。
「そう、じゃ気をつけて、楽しいイルカショーを」
警官は無線で連絡すると白バイにまたがり、走り去った。
少女はホッとしたルークにたたみかける。
「おじさん、今おまわりさんに言ったことまさか嘘じゃないよね?」
「仕方なくお前に合わせただけだ」
「おじさん、神様が見てたのに嘘つくの?」
「嘘じゃない、大人には方便てのがあるの」
「ポスターに見とれてたくせにまさかイルカショーが嫌いなわけ? それって人間じゃないって言うのと、ほぼ一緒だよ」
「そういう問題じゃないの」
「お願い、私はあそこのイルカに会わなきゃならないの」
「どうして?」
「それは、まあ、つまり女の秘密」
ルークは噴き出しそうなのをこらえた。
「おじさんもその顔じゃ仕事にならないよ、会社、さぼってしまおうよ」
「仕事できるって」
「地下鉄の線路のお掃除なら暗いからできるけど、まさか、えーと、何、広告会社エス・エス・シー・アドバータイズ社の営業チーフさんが、そんな、昨日振られました丸出しのおかしな顔で出てきたら」
「こら、ひとのカバンを勝手に開くな」
ルークが言うのに、少女は名刺を戻してスケジュール表を勝手に開く。
「なになに、今日の予定はスタータワーホテルのポールリッジ会長とランチか。私が会長さんなら、おじさんの顔を指差して15分は笑い続けるね」
「……」
ルークは言葉を返せなかった。一度、交渉で中断が入り雑談してた時、孫から送られたつまらない動画を見て会長はそのまま五、六分笑いが止まらずルークが驚いた事があった。交渉ではやり手なのだが、爆笑に入る許容ラインが低いようなのだ。
ルークは思わず頬を押さえた。
「そいでもって契約はしないな。もしかしたら笑いすぎた会長さんの盲腸の古い傷口が開いて、損害賠償を請求されるかもよ。そしたら大変だよ。
今日だけは仕事しない方がおじさんと会社のためだよ」
「不吉なこと言うなよ」
「ねえ、イルカショーに連れてってよ。お願いしますう、連れてってえ」
ルークは少女に腕を掴まれながら、イルカショーを思い浮かべた。
たしかに中学生に昨夜の出来事を言い当てられるような顔で、あの会長相手に営業の仕事をするのは難しいかもしれない。企画書の方は何度も作り直して完璧にできてるからナンシーとベアリー二人に任せてもうまくいくという自信はある。
パトリシアに降られた翌日にイルカショーで気分転換するってのも、神が与えた休息かもしれないな。
ルークはふうと息を吐いて頷いた。
「わかった、わかった。連れてゆくから、もう手を放せって」
「おじさん、ありがとう、私はカノン・ウィルソン」
「カノンて大砲のカノン?」
ルークは、朝、大砲を喰らえと壁に投げつけたケチャップが描いたハートをちらっと思い出して聞き返した。
「バッカじゃない? パッヘルベルのカノンから、ママがつけてくれたの」
「そうか。私はイーサン、現在使ってるカバーの名はルーク・フリードマンだ。
最初に言っておくが、君が足手まといになっても当局は一切助けてやらないからそのつもりで。なおこのテープは三秒後に自動的に消滅する、シュシュシュルー」
カノンは呆れながらルークの差し出した手に握手してやった。
「わかったわ。イーサン、早く行こう」
会社をさぼった男と学校をさぼった少女は一路シーパークに向かった。
つづく
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