早希の本懐 前編
早希の本懐 前編
大学四年の沙希は射撃部仲間の女子3人と電車のボックス席に収まり山梨に向かっていた。
沙希は小学3年生の頃、父と兄と連れられて大きな神社の縁日に行ったことがあった。
そこで兄が射的をやりたいと言い出し挑戦を始めた。その射的は箱に景品の写真が貼ってあり、それを撃てば景品がもらえる仕組みのようだった。兄は5発ぐらい外して、やっと当てて箱が後方にずれて跳び上がって喜んだのだが、射的の爺さんは「倒さなきゃだめだめ」と冷たく言い放って目を合わせなかった。
そこで沙希が「私もやる」と父にねだった。
父は「3発だけだぞ」と許可してくれた。
沙希はウインチェスターを模したおもちゃの銃を手にした瞬間、なぜかきっと当たると直感した。沙希は初めて手にした銃にも拘らず照準を合わせる意味を理解し、人形の写真の箱を倒すために上部を狙って、引き金を絞った。
パン!
見事に箱は倒れて「ううっ!」と射的の爺さんはまるで自分が撃たれたように唸った。
続いてもうひとつ、今度は兄のためにブルドーザーの写真の箱も全く同じ要領で倒してしまった。
すると射的の爺さんは沙希の才能に降参して「おめでとさん、2回連続的中で終了だ」と言って銃を取り上げた。
こうして沙希は射撃の才能に目覚めたのであった。
その後、中学高校でも射撃部で活躍し、今や大学射撃部の部長なのだ。
今回は試合や合宿ではなく、残り少ない大学生活の思い出作りに「ほったらかし温泉」で湯と絶景に癒され、宿で思い切り女子バナをしようという旅行だ。
東京のすぐ隣の県だから特急ではなく普通列車に乗って来たのだが、少し話し込んでいるだけで東京都から山梨県に入っていた。
大月を過ぎて列車が笹子駅に止まると、スイーツなら和洋問わず目がない美瑛が言い出す。
「ねえ、ここの名物は笹団子じゃない?」
全員、そんな話は初耳だ。
「うそっ」
「そうなの?」
聖羅が疑問を沙希に向けた。
「部長、どう思う?」
沙希はそう聞かれて断定する。
「ササとゴしか合ってないじゃない?」
聖羅が頷く。
「だよね、うちら射撃部なんだし三点合わないといけませんよ。お団子屋さんもなさそうだし」
見えるのはポツポツと点在する民家ぐらいである。
次の駅で停車しようという時、特急列車待ち合わせのために16分も停車するとアナウンスがされた。
「えー、だから特急にしようって言ったのに」
亜樹葉が言うと、聖羅がダメ出しをする。
「射撃は忍耐のスポーツです」
笑おうとした沙希はその時、ホームに掲げられたフレーズが目に入った。
亜樹葉が声に出す。
「武田家終えんの郷、だって」
沙希は急に寒気に襲われた。
息を吸っても入って来ない感じがする。
沙希はがくりと頭を下げた。
「ちょっ、沙希、どうしたの!」
仲間の声が響く。
今度は知らない男の声がした。
「沙希、もうよい、もうよいぞ」
そう言われて沙希は安心して目を閉じ床に崩れ落ちた。
◇
いつだっけ?
いや、年月ははっきりしてる。
今は天正二年(1575年)の五月だ。
自分の前に三十ぐらいのちょんまげの男が立って歩いてゆく。
一見、和風レストランの廊下に見えるがそうではない。戦国時代の立派な館だ。
そうだ、自分は誰かと、薄明りの中、手の甲を見て醜く傷跡があるのを確かめると記憶がはっきりした。
そうだ、自分は今は早坂季之助を名乗っているのだった。
そして武田家奥近習の武藤喜兵衛に連れられて武田家の本拠躑躅ヶ崎館を訪れているのだ。
武藤喜兵衛という名は、後世で智謀の武将として有名な真田昌幸が、信玄の命令により武藤家を継いだ時に貰った名である。
自分は胸の底は喜びの予感で満たされる。
とうとう会えるのだ、愛しい御屋形様に……。
自分は凛々しい若武者の青年を思い出す。
この時、武田信玄は一年前の春に病没しており、武田家の棟梁は四郎勝頼となっていた。
喜兵衛は武田四郎勝頼に謁見した。
「喜兵衛、いかがした?」
勝頼は笑みを浮かべて聞いた。信玄存命中に知略迷うたる時は武藤喜兵衛の意見を聞くがよいと申し渡されていたから、勝頼は喜兵衛を信頼していた。
自分は平伏してまだ勝頼様の顔を見ることは出来ないが、その甲高い声が自分の中の芯を痺れさせるようだ。
喜兵衛は後方に控えている武者を振り返り口上する。
「これなる早坂季之助なる者、いささか鉄砲の腕が立ちます。願わくば勝頼様護衛の役に加えていただきたく参上いたしました」
「そうか。早坂季之助とやら、面を上げよ」
季之助は緊張と共に久しぶりに勝頼の凛々しい顔を見て、滲み出る涙をこらえた。
小柄な季之助は灰色の頭巾で忍者のように顔を覆っていたが、目のまわりが火傷で爛れているのが見てとれた。
「うむ、その傷は、いかがした?」
勝頼の問いに季之助はすぐ声が出ず、代わりに喜兵衛が答える。
「先の箕輪攻めの際に受けたもの。その折、炎を吸うてしまい、声も聞き苦しいことをお許しください」
「なんの、名誉の負傷の聞き苦しいことがあろうか。
喜兵衛の推挙とあらば、わしも心強いわ。季之助とやら、せいぜい奉公してくれ」
勝頼の目に優しい光が宿ったのを見て、季之助は喜びに震えながら声を発した。
「もったいなっ、お言葉、いっ、命に賭けて、と、殿をおま……」
季之助の草笛のようなかすれた声が気持ちの高ぶりも加わりさらにもつれると、喜兵衛が助け舟を出した。
「はは、こやつ、無類の感激屋でございまして、前々よりお屋形様の近習になりたがっておりました、必ずや殿をお守りすることと思います」
「うむ、頼んだぞ、季之助」
季之助は「はは」と言って平伏してさがったが、その目から涙がしたたり落ちていた。 それには深い訳があった。
◇
話は一年ほど前にさかのぼる。
信玄は「人は城 人は石垣 人は堀」を標榜し、みずからの本拠である躑躅ヶ崎館を堅固な城には構えなかった。その方針を勝頼も踏襲した。
その館は、敷地内は用途により、いくつかの曲輪(くるわ)に仕切られており、その敷地の一番奥に人質曲輪があった。
文字通り人質のための敷地であり、その館には、忠誠の証として諸将、土豪から差し出された人質達をまとめて住まわせてある。
作手の地に勢力をなした奥平家からも人質四人が従者とともに入っていた。
奥平貞能の側室おふう、二男仙千代、奥平勝次の五男虎之助、奥平久右衛門の娘お早季である。嫁入り前の早季姫は色は淡雪のように白く、腰に届く髪は漆黒の美しさ、瞳はつぶらで大きく、口は小さく、なかなかの美姫である。
早季姫とおふうの方はさまざまなことを語り合い、軟禁生活の寂しさをまぎらわしていた。
「今朝、作手のお城から文が届きましたの」
おふうが言うと、早季姫がうなづく。
「それはようございました、おふう様は心待ちにされてましたものね」
「早季様にも聞かせてあげます。
おふうには息災であるよう聞いて安心いたした。何かと心寂しいこともあろうが、お早季と手を取って耐えてほしい。夏にはそちらに行けるであろうから、おふうも逢うのを楽しみにしておられよ」
「まあまあ、おのろけの文を、ご馳走様です」
早季姫はからかうように述べる。
「まだ、続きがあるのです、よろしいですか、お聞きなさい。
かつて時期早々と断られた勝之進が久右衛門殿へ早季を嫁にとまた申し入れたようだ、久右衛門殿も今度は前向きに考えておるらしい、お早季に申しておくがよい。
ほうら、早季様もそろそろですよ」
今度はおふうがからかうと、早季は急に目に怒りの色を浮かべた。
「嘘です、私は勝之進など、絶対いやだと父上に申し上げてあるのです」
「そう。では早季様はどんな殿御が好きなの?」
「そんなことまだ考えたこともありません……」
「では会ってみたい殿御は誰?」
「若殿の武田勝頼様はどんな方でしょう」
「たぶん蛸のような顔ですよ。
私は信玄様の顔を一度だけ見たことがありますが、恐ろしい大蛸のようでした」
「まあ、大蛸ですか。
では若殿は小蛸なのですね、私は蛸は苦手です」
「早季は蛸が嫌いですか、それでは仕方ありませんね」
おふうはしばらく思案して言った。
「では決めました。
早季様は徳川の狸殿の嫁にやるとしましょう」
おふうが悪戯っぽく言うと、早季は手を振って、
「そ、それだけは堪忍してくださいませ」
十七歳の二人は屈託なく笑い合った。
◇
ある晴れた日の午後、早季姫は人質曲輪の裏庭、味噌曲輪につらなる草むらを歩いていて、びっくりした。
草むらの中に殿方が仰向けに倒れているのだ。
早季姫は急いで駆け寄る。
「どうなさいました?」
おそるおそる声をかけたが、返事がない。
「大丈夫でございますか?」
早季姫は慌てて殿御の肩を揺すって声をかけた。
「大丈夫ですか、どこか苦しいのですか?」
すると殿御は目をこすりながら、
「うるさいな、なんじゃ」
と、体を起こした。
ひとが心配して声をかけたのに「うるさい」とは、とんだ挨拶だ。
早季姫は怒りを込めて、精一杯の小言を返した。
「このようなところで昼寝など、私はてっきり死人かと思い肝を冷やしました」
「うむ、許せ、棟梁など継いだばかりに昼寝する場所までなくしたのじゃ」
「と、棟梁と言われますと、まさか」
早季姫は男の風貌をじっと見つめた。
蛸とは似ても似つかぬ美男子で、目から鼻に抜ける凛々しい武者ぶりは相当の血筋と見えた。
「武田の若殿、御屋形様?」
思わず呟いて早季姫は羞恥に染まって襟を手で重ね押さえて土下座した。
「とんだ御無礼をいたしました」
「かまわん、起きたとたんに叱られ、母に逢うたような心地がしたわ」
そう言って勝頼は笑った。
母湖衣姫は勝頼の幼い頃に亡くなっていたから、勝頼には精悍な表情とは裏腹に母への強い思慕がいつもあったのだ。
もっともそんな心根をうっかり口に出した勝頼は慌てて言った。
「いや、姫はそれよりずっと若く美しいな、気を悪くするな」
「も、もったいないお言葉で」
早季姫は平伏したまま言った。
「姫は、名はなんと言う?」
「奥平久右衛門の娘、早季と申します」
「ほおう、奥平の娘か、もう一度顔を上げて見せてくれ。
さっきは寝ぼけてよう見えなんだわ」
勝頼はそう言って早季姫の右から左から覗き込むが平伏していては顔は見えない。
「御屋形様にお目にかけられるような顔ではありません」
早季姫が言うと、勝頼はなんとしても顔を見てやろうと言いつけた。
「よし、では目覚めに茶を一杯持って来てくれぬか」
そう求められては断るわけにもいかない。
「か、かしこまりました」
早季姫はうつむいたまま急いで人質の館に駆け戻ると、おふうやお付きのものに茶をいれてくれるように頼んだ。
「どうしたのです、そんなに慌てて?」
「味噌曲輪の近くで武田の御屋形様に所望されたのです」
「武田の御屋形様ですって」
部屋中に緊張が走った。
「まずいお茶をいれて、お手討ちにでもされたらかなわないわ」
「そんな、おふう様。
おまき、そなたまで逃げるのですか……」
皆に口々に断られ、仕方なく早季姫は自分でお茶を点てて戻った。
早季姫はうつむいたまま茶碗を運び、勝頼の前に差し出す。
「私が点てましたので、お口に合いますかどうか」
「ほう、姫自ら点てたのか、馳走になる」
勝頼は茶碗をまわすと一気に飲み干した。
「うまい、毒味役抜きの茶は格別じゃ」
そう言われて早季姫はようやく自分のうかつさに気づいて震えた。
こともあろうか、人質の自分が武田の棟梁に毒味抜きで茶を献じたのだ。
早季姫は慌てて勝頼の手から茶碗を取り上げて、真剣な口調で言った。
「大事なことに気がつかず申し訳ございません。
もしもの時は、私ごときではなんの足しにもなりませぬが、御屋形様のお供をいたします」
早季姫は底に残っていた茶の粉を指ですくい口にふくんだ。
それを見て勝頼はハハハっと笑った。
「ふっ、なんとも面白いことをするおなごじゃ」
「何とぞお許しを」
「それに麗しい顔もしっかり見届けさせてもろうたわ」
早季姫の美しい顔立ちと、けなげな心に、勝頼はたちまち惚れてしまった。
その時の勝頼には正室がなかった。
以前、迎えた正室は遠山夫人は信勝を産んでまもなく亡くなっていた。
しかも政略結婚により迎えた織田信長の養女であったので、勝頼の気持ちに淡白なところがあったのだ。
しかし、早季姫は違う。
正真正銘、勝頼自ら気に入った相手なのだ。
これより勝頼は足繁く人質の館に通うようになった。
「早季殿、そなたの茶を飲みたくなった。点ててくれ」
そう言って勝頼が奥平の部屋を訪れると、他の者は気を利かせて外へ出た。
最初は戸惑っていた早季姫だったが、今では勝頼の来訪が嬉しくてたまらない。
「私の茶がよいなどと言う方は若殿様がはじめてです。
おふう様や奥平の皆には一度も誉められたことがございませんのに」
「ふむ、それは、かの者たちが、わしのように早季殿に惚れてないからだろうて」
「あ、それは…」
私の茶がまずいということですねと笑って言い返そうとしたところを、早季姫は勝頼にきつく抱きしめられた。
「御屋形様」
「早季殿、わしは本気でそなたに惚れたのだ。わしの妻になってくれ」
「私は人質の身です」
早季姫は勝頼に唇を奪われた。
「構わぬ、わしの母上も人質に来て、父上に見初められたのだ。
これが武田流らしい。早季殿はわしをどう思う?」
早季姫は顔を真っ赤に染めて答えた。
「私も、私も勝頼様をお慕い申しております」
「よし、では早々に祝言をあげよう。
よいな?」
「はい、嬉しゅうございます」
「早季は美しいのう、わしはもう我慢できぬ」
「あ、それは堪忍」
勝頼は大胆にも早季姫の着物の中に手を入れて、二人は燃える想いを結び合ってしまった。
◇
翌日、勝頼は補佐役である跡部勝資を呼び出した。
「御屋形様、何用にございましょう?」
「いや、たいしたことではない。
奥平が人質に差し出しておる姫に早季という者がある」
「は、それが何か?」
「勝資、鈍いのう、わしが用もなく、わざわざ姫の名など挙げるわけなかろう」
跡部はハッとして問い返した。
「さては、お気に召しましたか?」
「うむ、あれを正室にしたいと思う。
さよう取り計らえ」
跡部は武田の惣領ともあろう者が人質に惚れるとは軽率なことだと思ったが、勝頼自身、信玄が人質湖衣姫に生ませた子であるのだから、それを非難して思い止まらせることはできるはずもない。
しかし、正室というのは難点がある。戦国大名にとって正室は戦略の駒であり、個人の意思よりも家の戦略を優先すべきなのである。
「畏れながら、正室はちと考えものでございますな。
わが武田家は信玄公亡き後、四方から狙われております。正室は今後、有利な同盟関係を結ばんとする時のためにとっておくのが肝要かと考えます。
武田家の惣領として、そこは堪えていただきたく思います」
跡部の言葉は勝頼の想定のうちだった。
「ふむ、やはりそうか。
しかし、側室ならよいだろう?」
跡部は平伏して述べた。
「はは、側室ならばようございます。
まことによき姫を選ばれました。
このところ、奥平には徳川の調略の手が伸びておるとの噂があります。
そこを突いて強引に承知させ、奥平の服従を堅めましょう」
「うむ、それはよい考えじゃな。
なるべく早ういたせ」
武田家は早速、長坂長閑斎を奥平家に使者として送り、早季姫を勝頼の側室に召し上げる旨を伝えた。
しかし、奥平家には、つい先日、徳川家からも、家康の娘の輿入れと領地の拡大を約束する宛行状が届けられていた。
そこで、奥平家では密かに一族の主だった者から意見を集め、武田と徳川を天秤にかけていた。
◇
天正元年(1573年)八月
武田勝頼は、すでに作手城に軍監として派遣していた初鹿野伝右衛門を、城の本丸に移らせ、さらに厳重な監視体制を取った。
その夜、武田の本拠、躑躅ヶ崎館は、雲の切れ目から覗く三日月におぼろげに照らし出されていた。
黒い忍び装束に身を固めた井岡勝之進は八名の手下に囁いた。
「皆の者、これより城内に忍び込む」
奥平家の方針が徳川につくと決まると、勝之進は人質救出のため躑躅ヶ崎館に侵入することを直訴し、一族が作手城を脱出するのと同時に人質を救出するよう命令されたのである。
躑躅ガ崎館は、あえて本格的な築城を施さず、高い城壁の代わりに土を盛った簡単な土塁で囲まれている。
そのため、侵入は容易だった。
早季姫、今、救い出してやるぞ。
勝之進は愛しい姫を思い浮かべ土塁をよじ登った。
その時、早馬が大手門にたどり着き、声を張り上げるのが聞こえた。奥平家の謀反の知らせが届いたのかもしれない。
勝之進は「皆の者、急げ」と囁いた。
深夜の館に慌ただしい足音が行きかい、まもなく跡部勝資が勝頼の寝所に駆け込んだ。
「おやすみのところを失礼つかまつる、御屋形様、一大事にございます」
勝頼は太刀を掴みながら起き上がった。
「入れ!」
険しい顔の跡部勝資が戸を開けて、勝頼のそばに近寄った。
「何事じゃ?」
勝頼には一大事がいかなるものか想像もつきかねた。
「奥平家、謀反にございます」
「な、なんだと、奥平が」
勝頼は目の前が真っ暗になった。
奥平の謀反により、勝頼と早季姫の婚儀は雲散霧消になる。
いや、それどころか勝頼は奥平の人質全員の処刑を命じなければならない。
そもそも謀反に際して処刑するというのが人質を取った目的なのだから、婚約者の早季姫とて例外にはできない。
初めて心の底から愛し契った早季姫を、裸に剥いて磔にし、見物人の興味本位の卑劣な視線に晒すのだ。
そのうえ槍で突いて殺さなければならない。
それは、まさにこの世の地獄だった。
「ま、まことなのか?」
「作手城軍監、初鹿野伝右衛門殿よりの早馬にございます。
奥平は一族揃い作手城を捨てて徳川方に走ったよし」
「なんと……」
「残念でございますが、至急、奥平の人質を牢に入れねばなりません」
跡部の声が非情に響いたが、勝頼は首を振った。
「それは待て」
跡部が声を荒げる。
「御屋形様、お気持ちはお察しいたしますが、早季姫様のことも諦めていただかぬば、家臣に示しがつきませぬぞ」
跡部の言うのは正論であって、選択肢は他にないのだ。
勝頼はうなづくしかなかった。
「うむ、助けよと言うのではないのだ。
せめて今晩は牢に入れず、そのままゆっくり休ませよというのだ。
無論、警護は固くしてだ」
それが武田家の当主としての勝頼が、裏切り者の娘となった早季姫にしてやれることの全てだった。
◇
部屋に忍び込んだ勝之進はわずかな明かりに照らされた愛しい早季姫の寝顔にほっとした。だが見とれている暇はない。
勝之進は早季姫の口を布で押さえながら肩を揺り起こした。
「うッ」
最初、早季姫は暴漢が忍び込み襲って来たのかと思った。
黒装束から目だけがぎらぎらと光っている。
「姫、殿が徳川方に付きましたゆえ、お命を救いに参りました」
「その声は?」
「はい、勝之進が早季姫様を救い出します」
しかし、早季姫は首を横に振る。
「私は勝之進とは参りません」
「ここで駄々をこねている暇はないのです。
もうすぐ武田は姫たちを処刑に来ますぞ」
すでに隣の部屋で、おふうたちがばたばたと出てゆく音がする。
早季姫は勝之進に強引に手をつかまれ、上衣を一枚被されて外へ出た。
前方には同じように、黒装束の忍び二名に手を引かれたおふうと脇差を帯びた仙千代、虎之助の姿がぼんやりと見えた。
「さ、お急ぎくだされ、はぐれてしまう」
そう言って急ごうとした時、前方で
「おのれ、足抜けかあ」と声が上がった。
次の瞬間、太刀と太刀がぶつかり、夜闇に鋼のぶつかると音と火花が散る。
「足抜けだあ」
松明が駆け寄り、警護兵がどんどん集まる。
「いかん、姫、こちらへ」
早季姫の手を引いていた忍び姿の勝之進は逆の方角へ向けて走った。
勝之進に抱きかかえられて、早季姫は雑草の茂った土塁を滑り降りて、四条通りと呼ばれた大通りを避け、野原を進んだ。
東の夜が明るみを帯びて明けはじめた。
黒衣装を脱ぎ捨てた勝之進と手下二名は、町のはずれでぎりぎりまで他の仲間を待っていたのだが、その仲間が来る気配はない。
「やむを得ん。早季姫様、まもなく出立します」
すると、ここへ来て落ち着きを取り戻した早季姫が平然と言い放った。
「わらわはもう逃げませぬ、自害いたします、髪を切って父上に届けてください」
勝之進が驚いて言う。
「何を言うのです、我ら命を捨てて姫を助けに参ったのですぞ、
落ち合う筈のこの場に来ない残りの仲間はおそらく討ち死に、おふう様たちも斬られたか、今日にも処刑されるに相違ない。
ここで早季姫様に自害されては、すべてが無駄になるのですぞ」
「そなたたちの申すは侍の理屈。
私はすでに勝頼様と契ってしまったのです。
かくなる上は自害して勝頼様にお詫びするしかない」
早季姫が言い張るが、勝之進も引き下がらない。
「いいえ、違います。
まだ祝言を上げてないからには早季姫様は奥平家の者です。
お父上は姫をこの勝之進の嫁にするとお決めになったのですぞ」
「勝手すぎます。
私はそなたが大嫌いです」
「それは、あまりな言われようです。
私は早季姫様のためを思い、ここまで来たのですぞ。
早季姫様は父上や奥平の家が姫に与えた恩をお忘れになると言うのですか?」
それを言われると早季姫も口が重たくなる。
「恩は、恩はたしかにあります。
でも、どうして私を人質になされたのです。
私とてずっと奥平のみんなと暮らしていた方がよかった、勝頼様など会わない方がずっと穏やかに暮らせたのに」
早季姫は涙声になった。
◇
そこへ一人の武士の声が割り込んできた。
「立ち聞きさせてもらったぞ、やはり奥平は徳川に寝返ったらしいな」
「貴様、何者」
勝之進と手下二人は抜刀して身構えた。
「武藤喜兵衛」
喜兵衛は名乗ってゆっくりと刀を抜いた。武藤喜兵衛は父真田幸徳譲りの智略で武田家中には広く名を知られていた。
実際、顔を見ればまだ二十代後半の凛々しい若武者である。
「おお、噂はかねがね聞いておる。
会ってしまったが貴殿の運の尽き、その首、井岡勝之進が土産にいただく」
「奥平家家臣、谷嶋五郎兵衛、参る」
喜兵衛に向かって若い一人が抜刀し突き進んだ。
一瞬、喜兵衛は素早く身をひねって相手の太刀筋を見切り、斜めに動きつつ逆袈裟に斬った。
「うぎぁッ」
間断なく次の敵に向かい、上段に振りかぶる。
「奥平家家臣、伊与田利助」
次の手下はそう名乗ると、喜兵衛の太刀を跳ね上げようとした。
が、喜兵衛は素早く切っ先を引いて、隙の出来た胴を抜いた。
喜兵衛は勝之進に構えを向ける。
「うおッ」
あッという間に二人の手下を斬り倒された勝之進は、精一杯の威嚇に金切り声を張り上げて剣を小刻みに震わせた。
「おのれ、おりゃあ」
喜兵衛は小手を狙って来た勝之進の剣先を交わして胴を突きあげる。
それをかわした勝之進が打ち込んでくるのを喜兵衛は太刀の棟でしっかり受け止め、跳ね返すと、片手で相手が引くのを追いながら水平に太刀を振るった。
「う、おのれ」
勝之進は利き腕の傷口を押さえながら素早く逃げ出した。
喜兵衛は深追いせずに、刀の血を拭い、鞘に納めながら言った。
「姫を残して逃げるとはなんとも情けない奴よ」
早季姫はその場に跪くと懐刀を取り出した。
「どうぞ私の最期を勝頼様にお伝えください」
喜兵衛は早季姫の懐刀を取り上げて言う。
「おなごが死に急ぐことはない」
「何をなさいます、そのように言われたとて、今更、契った勝頼様を忘れることなぞできません」
「しかし生き延びられるものを、わざわざ死ぬのも理不尽ではないか」
「いえ、死んでお詫びせねば、勝頼様に申し訳が立ちませぬ」
「やれやれ、呆れるほど一途なことだ。
だが、おまえが死んだとて勝頼様としてもなんの慰みにもならん。
とすれば、それは無駄な死ではないか、どうかな?」
「それは、しかし、それでは私の気持ちが収まりません」
「ここで他の武田家臣に見つかってはわしとて守ってやれぬ。
ここは、農民か、尼にでもなりなされ、真田の里ならいくらでも姫をかくまうところは世話してやれるぞ、どうだ?」
喜兵衛が命を救ってやろうというのを、早季姫はにべもなく断る。
「そのようなことはできません。
私の人生と命は勝頼様に捧げたのです」
早季姫が舌を噛みき切ろうとするのを察し、喜兵衛は早季姫の口に手拭いを噛ませた。
いくら説得しても、首を横に振るばかりの早季姫を前に、喜兵衛は呆れながらも、しばらく考え込み、不意に口を開いた。
「心底、姫が勝頼様を慕うなら、生きて勝頼様にご奉公する策がある。
どうする?」
早季姫は目を輝かせてうなづいた。
喜兵衛は手拭いを外しながら言う。
「しかし、それは死ぬより辛い奉公だぞ」
「どのような奉公ですか?」
「うむ、姫は女を捨て、武者になるのだ。
わしが推挙するから、武者として勝頼様の親衛隊に入り勤めるのだ。
そして決して正体を明かしてはならぬ。
それでもよいか?」
「はい、おそばにお仕えできるだけで幸せです」
「そのために、まず死ぬより辛い思いをせねばならぬぞ。
わしでも尻込みする、辛い苦しみにおなごのお前が耐えられるか?」
喜兵衛は脅すように念を押した。
すると、早季姫は「勝頼様のためなら、辛いことなどありましょうか」と言い放った。
しかし、喜兵衛の策は生半可なものではなかった。
まず絶対に容貌が見破られないように、燃える松明をあてがい早季姫の目のまわりを潰しにかかる。早季姫は木の棒をきつく噛んだまま猿轡をされていたが、あまりの痛みに絶叫した。
爛れた顔に水をかけながら喜兵衛が言う。
「さあ、次はもっと大変だぞ、火の点いた酒をあおって声を潰すのだ」
「はい」
「ただし、火が肺の臓にしかと入ると間違いなく死ぬぞ。
肺の臓の一寸手前で火を吐き出し、喉だけを焼くのだ。
わしもしたことがないゆえ、ここで吐けとも教えられん。
頼りはお前の勘だけだ。
よいな?」
「もはや生命は捨てております。
南無八幡大菩薩、願わくば勝頼様をお守りするために吾を生かした給え」
早季姫は火の点いた酒を飲み込み、絶叫した。
◇
一方、素早く古府中を脱出した勝之進は怒りで血管がはちきれそうだった。
「おのれ、早季め、命賭けで救い出してやったものを。
これでは決死の救出を訴えた俺の立場がまる潰れではないか。
どんな顔で家に戻れと言うのだ。
俺をこけにするにもほどがある。
早季め、もし自害しておらぬならば、おまえを地の果てまでも追いかけて、思い切り辱め、地獄に送ってやるまでだ」
勝之進の早季姫に対する愛は、またたく間に、すっかり憎しみへと変貌していたのだ。
◇
真田の里に入った早季はすでに武者姿で姫の面影は少しもなかった。
頭巾より出てる目の周りは火傷で爛れ、頭巾の下はおそらくもっと醜いであろうと推察された。もちろん長い髪はばっさりと落とし髷を結っている。
そのうえ喉も潰れて、口から出るのは声というより鏑矢がたてる風音のようだ。
また胸には汚れたさらしをきつくまいて乳房の膨らみをつぶしてあったし、素手で樹木を叩き、棒で素手を叩かれ、白魚のような手を醜い豆だらけの拳に変えていた。
もはや、この醜い武者が早季姫と見破る者はいまい。
喜兵衛が言う。
「早季殿、ここで、お前は勝頼様の親衛隊にふさわしい技を身につけねばならない。
といっても、もともと非力のお前がにわかに鍛錬したとて、速さと力が必要な剣は不向きじゃ」
早季は目に不安を露わにして聞く。
「ではどうすればよいのですか?」
喜兵衛がうなづいて言う。
「鉄砲じゃ。あれならば非力なお前でも大男を倒せる。
つまり、勝頼様の役に立つということじゃ」
早季は頭巾の下で笑みをこぼした。
「わかりました。きっと鉄砲の名手になるよう精進いたします」
「うむ。それから名前だが、早季ではまずい。
これからは、そうだな、早季の字を姓と名に入れて早坂季之助と名乗るがよい」
「はい、早坂季之助。
いい名ですね、ありがとうございます」
「うむ、せいぜい励めよ」
喜兵衛が兄の真田昌輝の屋敷を不意に訪れると、兄は驚いた。
「昌幸、いつの間に帰った?」
「兄上にはお変わりなく」
「おお、そこが取り柄じゃ。
しかし、一体、どうしたのじゃ? その者はどこで?」
「他でもありません。
これは顔や腕に傷を受けて外されたのを貰い受けた早坂季之助なる者です。
こやつに鉄砲を仕込んで頂けませぬか」
「なんだ、それだけのためにわざわざ来たのか?」
「はい、この者ならきっと勝頼様をお守りするに違いないと見込みました」
「始めから御屋形様に推挙するつもりか。
昌幸、さては何か企んでおるな?」
「はははっ、何も。
ただ御屋形様をお守りする心意気は、武田家中でもこやつの右に出る者はなかろうと思います。それだけは私が証文を書きます」
「そうか、あいわかった」
真田昌輝は早坂季之助を引き受けた。
◇
そして一年あまり、真田の里で鉄砲を仕込まれた後、勝頼に謁見して、念願叶って親衛隊となったわけである。
その夜遅く、早季は、信玄が開いたという隠し湯に入った。
全裸になるのは危険だから、汚れたさらしを巻き、褌をしたままだったが、それでも早季は愛する勝頼のそばにいられるようになった安堵に包まれていた。
決して名乗ることは許されない。
しかし、早季は勝頼のために生きているというだけで喜びが膨らむのを感じていた。
湯船につかり三日月を見上げているうち、ふと誰かが覗いているような気がして振り向くと岩の向こうに黒い影が動いた。
「誰だ?」
早季の風のような小さな声に、黒い影は問いには答えず、岩場をこちらに向かって近づいて来るようだ。
早季は恐怖を感じて湯船から上がりかけた。
そこへ漢詩を吟ずる新たな声が近づいてきた。
「お、そこにいるのは季之助か、どうだ湯は?」
声の主は喜兵衛だ。早季はほっとして人差し指で黒い影のいたあたりを示した。
「あそこに怪しい人影が」
早季のかすれた声に喜兵衛は振り向いたが、影は見当たらない。
「うん、今は誰もいないようだが」
早季は喜兵衛と離れたくなくて言った。
「喜兵衛殿、背中を流します」
「いや、それはちとまずかろう」
「流させて下さい、今一人で出て行きたくないのです」
「ふむ、そういうことなら甘えるか」
喜兵衛は早季に背中を流してもらい呟いた。
「こうしておると、この世に戦などないような気がしてくるのお」
「はい、戦さえなければ、この世は楽しいでしょう」
「まったくだの。
お主も辛かろう」
「……」
世が世なら、醜い武者の季之助は、きらびやかな装束に身を包み、勝頼の子を抱いて微笑む側室早季姫であったに違いないのだ。
喜兵衛は話を変える。
「ところで、さっきの人影だが心当たりでもあるか?」
「なんとも言えません。
しかし、もしかしたら勝之進ではないかという気がするのです」
「勝之進と言うと、わしが傷を負わせた奥平の者だな?」
「はい。
勝之進は、昔、熱心に言い寄ってきたのですが、とんでもない見下げた男なのです」
季之助は昔語りを始めた。
梅の蕾がほころろびはじめ、作手の里にも春の足音が聞こえてきた。
井岡勝之進は、普請役の上司にあたる奥平久右衛門の家を訪れて、話しこんでいた。
そこへ、突然、若い女の声がした。
「父上、ただ今、帰りました」
「うん、和尚になんぞ言われたか?」
すると、襖が開いて、早季姫が部屋に入ってきて、勝之進に気付いて詫びた。
「すみません、ご来客とは知りませんで」
そういうと早季姫はすぐに襖を閉めて下がった。
勝之進は一目惚れした。
「殿、今の姫はどなたでございます?」
「あれは娘の早季じゃ」
「お美しゅうございますな」
「わしの娘とは思えんか?」
「いえ、そのような」
「かまわん、わしも妻も、猪が蝶を産んだようなものじゃと思っておるに。
ところがこの蝶、もう年頃というのに色気より食い気で困るわ」
そこで勝之進は自分にも勝ち目はあると知り、それから頻繁に久右衛門邸を訪れるようになった。
そしてある晩、父が早季に言った。
「早季、勝之進がな、お前を嫁に欲しいと申してきおった。
勝之進は見処のある男だ、わしは悪くない話だと思うが、どうだ?」
早季姫の方は寝耳に水の話で、返答に困った。
「私は嫁入りなどまだ考えておりません。勝之進様のことも好きとも嫌いとも思っていませんでした。
時をかけて考えさせていただくことはできませんか?」
「こういうことは勢いで決めるものじゃ、まったくおまえは悠長で困る」
時をかけてと言われた勝之進はいよいよ熱心に邸に通うようになり、早季も次第に勝之進の良さを認め始めた。
桜が咲き揃うと、早季は親と連れだって花見に出かけ、勝之進も同席した。
親たちは頃合いを見て早季と勝之進を二人きりにした。
「今日はずいぶん目の保養になりました。美しい桜に、美しい早季殿」
「まあ、お上手なこと」
早季は笑った。
こんなに熱心だし、父母も認めている相手だ。早季の心は傾きかけていた。
「早季殿、だいぶ時をかけて考えていただいたと思うが、そろそろ良い返事をいただけませんか?」
早季は桜の花を見上げて、良い答えを返そうと口を開きかけた。
その時、偶然、一枚の花びらが舞い降りて早季の唇に貼り付いた。
早季は花びらを指に取って眺めた。花びらが早季の答えを塞いだように感じて少し嫌な気分がしたのだ。
と、勝之進の方も「まだですか、ではもう少し待ちましょう」と話を切り上げた。
それから五日ほどして、勝之進の家の下女が早季に会いに来た。
早季は勝之進が恋文でもよこしたのかとときめいたのだが、様子が変だった。
「私が早季ですが、何か」
「姫様にこんなこと申し上げるのは筋違いだとわかっとります。
だども、私の仲間のおきよのことだに。私ら身分が身分だから泣き寝入りするしかないんけど、けんど、あんまりおきよが可哀想だに」
「はあ」
「おきよは勝之進様に口説かれて、いい仲でした」
早季は胸騒ぎを覚えた。
「去年の春からす、それで勝之進様の子を身ごもったんだに。
けんど、勝之進様に、子供はまたいくらでも作れる、来年早々にはおきよの親にも話して祝言を上げるからと言いくるめられて堕ろしただに」
早季はぶるぶると震え出した。
「しかし、年が明けても、勝之進様は何も言ってこないばかりか、何かにつけて、おきよを避けるようにしなさるだに。
いえ、姫様が悪いなんて言うつもりはこれっぽっちもねえですだ。
たんだ、おきよは勝之進様に捨てられたんす」
その気なら武家は側室を何人も持てる時代なのである。にもかかわらず、想いを通じた女に嘘を吐き、腹の子を堕ろさせ、逃げまわる卑怯は許されるものではない。
「その話を聞いて、私の初恋もその桜とともに散ったのです」
早季が話し終えると喜兵衛はうなづいた。
「勝之進とやら、それだけの男だったか」
後編に続く
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