クモの糸

クモの糸


 

 亜太郎は銭湯の番台のような席に向かって正座させられていた。両脇から亜太郎の腕をきつく掴んでいるのは大きな赤い顔に赤い胸、赤い腕の鬼だ。
 番台の後ろには美しい山と花畑をのどかな村の景色が広がっている。
「ここは一体どこです?」
 亜太郎が訊くと赤鬼はジロリと睨んできた。
「閻魔庁に決まってるだろ」

 見ると番台の席に突然、三国志にありそうな冠と衣をつけたブルドッグに似た顔の男が現れ、鬼どもは「閻魔大王様、ご機嫌麗しう」と頭を下げた。
 亜太郎が驚いているうちに、閻魔大王が亜太郎の名前を読み上げた。
「その方、本屋で雑誌を立ち読みするうちに『水戸黄門うふっ入浴シーンだけ8時間』という付録DVDを万引きしたであろう、よってプール送り。以上」
「じょ、冗談じゃない、そんなつまらないDVDじゃ見る気もおきませんよ」
 声を張り上げて抗議したが、廷吏の赤鬼どもの腕力にはかなわない。
「さ、黙ってこっちに来い」
 亜太郎は赤鬼どもに腕を引っ張られてプールサイドに連れてこられた。

 広いプールの赤い水の中にはすでに受刑者がざっと数百人必死で浮いている。
「いいか、死にたくなければひたすら体力の続く限り泳いで浮いていろ」
 赤鬼はそう言うと、鬼の定番の持ち物である金棒で亜太郎を赤い水を湛えたプールに突き落とした。
 鼻をつく匂いと口に紛れ込んだ味は鉄さびた濃いもので、プールを満たしているのが水ではなく血であることを教えていた。
「やだあ、キャー」
 亜太郎のすぐ後ろで女の悲鳴が響き、水しぶき、いや血しぶきが上がった。
「助けてーッ、私、泳げないの」
 亜太郎に続いて突き落とされたのはリクルートスーツの女性で彼女はバタバタと犬掻きをした。だがプールの中でもがいている数百人の受刑者の誰一人、それを笑っている余裕などない。
「がんばれ、上着は脱いだ方が動きが軽いぞ」
 亜太郎は自分のスーツも脱ぎながら、そう声をかけることしかできない。
 水深、いや血深はどれほどかわからないが亜太郎の足が届かない深さはある。プールサイドには金棒を持った怖ろしい形相の赤鬼どもがずらりと立っている。

「ありがと、少し楽になった」
 就活の女の子は少し落ち着いたようだ。
「僕は亜太郎、君は?」
「アサミ」
「よろしく」
「こちらこそ。プールサイドに上がって休めないですかね?」
「だめだと思うよ、ここは休める雰囲気ないもの」
「ですよね」
 アサミは鬼どもの怖ろしい顔を眺めて頷いた。おそらく勝手にプールサイドに上がろうとすればあの金棒で突き落とされるのに違いなかった。

 このプールに突き落とされる間際、鬼は死にたくなかったらひたすら体力の続く限り泳いで浮いていろ、と命令した。
 しかし、体力が途切れたらどうなるんだ?
 亜太郎がふと疑問を思い浮かべたが、その答えはまもなく目のあたりにできた。
 亜太郎の五メートルほど前で弱々しく立ち泳ぎしていた一見ムキムキマッチョの青年が急に沈み込んだ。
 次の瞬間、マッチョは慌てて口から浮いて喉に流れ込んだ赤い血をいったんは噴水のように吐いた。だが、すぐに「あ、足が」と弱々しく叫んでまた沈んでいった。
 足が攣ったのかもしれないが、亜太郎は自分が浮いてるのが精一杯で何もできない。

 するとプールサイドで監視していた赤鬼どもが手を叩いて喜んだ。
「おお、溺れた、溺れた」
「浮いてみせろ」
「浮け、浮いてこいよ」
 しばらく赤鬼どもは金棒を突き鳴らし口々に騒いで待っていたが、マッチョが浮いてくる気配はない。

 どうにも浮いて来ないとみると中の一人の赤鬼が「チッ、仕方ねえな」と呟いてザブーンとプールに飛び込んだ。
 そしてマッチョが沈んだあたりで、深く潜行した。
 まもなく水面ならぬ血面にザバアと血しぶきの噴水があがった。
 肩まで浮いた赤鬼はマッチョの首を大きな手につかんで、ひょいとプールサイドに投げ上げた。
 そこで今度は赤十字のゼッケンをつけた、しかし形相は怖ろしい青鬼が顔を近付け唇をすぼめて突き出し、マッチョの青く生気の失せた唇をブチュリと吸った。
「キャーッ」
 アサミは自分の近未来を想像し重ね合わせたのだろう、大きな悲鳴を上げた。
 青鬼はズズーッとマッチョの口を吸ったかと思うと、横を向いてマッチョの飲み込んでた水、いや血をブブブーッと吐き出した。
 そして青鬼は50センチはありそうな青い舌をマッチョの口の中に再び入れた。
 するとどうだ。
 蒼ざめていたマッチョの顔に次第に赤味が戻り始めた。
 さらに青鬼は一升瓶から液体を口に含むとマッチョに口移しで飲ませた。
「ううーーん」
 マッチョは頭を振って生き返った。
「どうだ、体力が蘇っただろう」
 青鬼に訊かれて、マッチョは頷くしかなかった。
「は、はい、おかげさまで」
「うむ、戻ってよし」
 青鬼にドンと突き飛ばされたマッチョは再び血のプールに落とされて、虚しくもがき、再び立ち泳ぎを始めた。
 
「これじゃあ地獄だ」
 そう呟いた亜太郎だが、納得出来ない気持ちもある。そもそもが入浴のDVD万引きという冤罪だ。地獄送りにしては冤罪もミミッチイではないか。
 そもそも地獄とは人々を恐怖で宗教に勧誘するためのアイテムにしかすぎない。それは実在せず、ローカルな集合意識が生み出す幻想の筈だ。
「陰謀論上等、反ワクですが何か?」を座右の銘とする亜太郎はこの幻想を打ち破ることを考え始めた。

 アサミは意外と粘っている。女性は体脂肪の点では男性より優位だから、案外体力消耗の少なそうな犬掻きとの組み合わせは有効なのかもしれない。
 とはいえ、この血のプールにいる者は、いずれ皆、体力が尽きて溺れ死ぬ。そして溺れ死んだところを、鬼どもに引き上げられ蘇生されて、また突き落とされる。その責め苦を延々とリピートし続けるのみなのだ。 

 だが、絶対、打ち破る方法はあるような気がする。
 そうだ、つい立ち泳ぎをしていたが一番体力を温存出来るのは仰向けだった。
 亜太郎は仰向けになって背中で少し手でかくようにしながら、岩のドームになっているプールの天井を仰ぎ見た。

 なんとか脱出する方法はないのか?
 亜太郎は立ち泳ぎしながら、岩のドームになっているプールの天井を仰ぎ見た。
 岩のドームの中央には幅十メートルぐらいだろうか、ぽっかりと穴が開いていて更に上層階があるようだ。
 その時、キラッとなにやら光るものが目についた。
 なんだ?
 その光はツーと伸びるように次第にこちらに近づいてくる。
「あ、あれはもしかして」
 蜘蛛の糸かもしれない。そうだ、昔、教科書で読んだ蜘蛛の糸だ。うまく切り抜ければこれで助かるかもしれないぞ。
 亜太郎はさりげなく周囲を見回して、蜘蛛の糸の真下へとそっと移動した。
 幸い、皆は沈まないようにするのに必死で、今のところ蜘蛛の糸に気づいているのは亜太郎だけのようだ。
 蜘蛛の糸はぐんぐんと亜太郎の肩まで伸びて止まった。
 急がないとな。
 亜太郎は心に呟いてその末端を掴むと全身の力を込めてよじ登った。

 赤鬼どもは蜘蛛の糸をよじ登り始めた亜太郎に目ざとく気づいたようだ。
「おっ、始まったぞ」
「見ものだ、見ものだ」
「それ、皆、飛びつけ、掴まれ」
 鬼どもは邪魔はせずに手を叩いて見守る。
 たぶん皆が飛びついて、糸がぷつんと切れるのを楽しみにしてるのだろう。
 そうはいくか。

 亜太郎は1メートルほどよじ登ったところで蜘蛛の糸を左手で掴むと、右手を下に伸ばしてこちらは糸の末端を掴もうとした。
 するといつの間にか近づいて来たアサミが手を伸ばしてくる。
「私も、私も連れてって」
 アサミは蜘蛛の糸の末端を掴もうとするが、亜太郎はアサミの手を叩いた。
「ひどーいッ」
 アサミは叫ぶが、亜太郎は言ってやる。
「蜘蛛の糸の耐久性を考えてみろよ。というか皆に群がらせて糸を切らせるのがこの地獄の仕掛けなんだ。だから糸は何度でも降りてくる。君は近くの皆を群がらないように説得して冷静に次の糸を待てばいいんだ、そうすれば一人ずつ助かる。それを今証明して見せるよ」
 亜太郎は糸の末端を引き上げ自分の肩にまきつけた。これでもう糸は誰にも掴めないだろう。
 アサミは悔しそうな顔はしたが、亜太郎の言い分も理解したように見える。
「分かったわ、そうしてみる」
 すると今度はさっきの蘇生で体力の蘇ったマッチョがジャンプして亜太郎の足にしがみついてきた。
「離せよ、冷静になれ、説明はそのアサミに聞け」
 亜太郎は急いでベルトを外すと、ずり落ちるズボンごとマッチョを落とした。

 ワイシャツにパンツという格好の亜太郎はどんどん蜘蛛の糸をよじ登って、ついにドーム中央の穴から上層階に辿り着いた。
「芥川さん、ありがとう。あの話のおかげでいち早く糸に気付けたよ」
 そう呟くと亜太郎は血の池に向かって手をメガホンのようにして捕らわれている仲間の皆に叫んだ。
「いいかー、糸はまた君達の上に必ず降りて来る。
 なぜならそこで君達を我先にと駆り立てて糸を奪い合わせて君達を失望させるという定番の仕掛けなんだ。そして君達は絶望を繰り返し、鬼達は君達の悲嘆を食べているんだ。
 糸はこの劇場に必要な仕掛けなんだ。だから必ずまた降りて来る。
 そうなんだ、ここは単なる劇場で、君達の弱い心と鬼達の君達の苦しみを喰いたいという意識が創り上げてる仮想世界なんだ! 地獄なんて実在しない!」

 
「一人ずつよじ登ればちゃんと脱出できることは俺が今証明した通りだ。今度、糸が降りて来たら、糸に一番近い人だけがそれを掴むんだ。そして一人だけなら簡単にここまでよじ登れるんだ。実際の世界なら僕にこんな細い糸でよじ登るだけの腕力はない筈だが、登れたというのもこれが仮想の仕掛けである証拠だ! 大勢が掴んで切れてしまう事と引き換えに、一人なら体力がなくてもよじ登れるというのがこの地獄のバランス設定なんだよ。
 だから先を争ってはいけないし、その必要はない。誰かの上に糸が降りて来たらその人が開放される番だと認めてその人の喜びを自分のことのように喜び、他の皆は譲ることに徹するんだ。
 そう、縄文の頃に僕達が当たり前に持っていた思いやりの気持ちを取り戻すこと! それだけでこの地獄は確実に終わりに出来るんだ! ガンバレ!」
「分かった」「やってみる」「ありがとう」
 血の池から沢山の声が返って来た。
 亜太郎が立ち上がるとその周りには沢山の人々がいて、拍手して褒め称えてくれた。亜太郎は頭を掻いて照れた。

    ◇

 亜太郎が頭を掻いてると声がした。
「亜太郎さん、起きていいですよ」
 目を開くと看護師の笑顔があった。それはアサミに似ていた。がネームプレートにはありふれた田中という苗字しかない。
「アサミさん?」
「やだあ、私の名前、同僚が呼ぶのを聞いて覚えたんですね」
「えーと、ここ、病院ですか?」
「亜太郎さんは誰かに突き落とされたんですよ、だけど搬送された時に意識がなくて、覚えてますか?」
 そうだ、俺は闇側の工作員に「くたばれ陰謀論者!」と言われて突き落とされたのだった。しかし落ちる途中で(あんまりだ)と思いながら意識をなくしたのだ。
「私はどこに突き落とされてましたか?」
「やだあ、覚えてないんですか。肥溜めです」
「肥溜め? えーっ、肥溜め? 血の池よりひどいじゃないですか!」
 看護婦はなぜか嬉しそうに言った。
「うちに搬送されてそれは大変だったんですよ、すごい汚かったからまず体を外でホースで水をかけて洗い、服も下着も臭くてたまんなかったからハサミで切り脱がせて捨てて、それからERに入れたんです。全身アルコール消毒しましたけど、それでも心配だからと、先生が全てのワクチンを打ちました」
「全てのワクチン? そんな人道に反すること、僕は断固拒否してきたのに」
「やだあ、亜太郎さん、反ワクだったんですか。えらいですね。
 大きい声じゃ言えないけどうちの病院、私達も先生も誰も打ってませんよ」
 亜太郎は頭の中が真っ白になるのを覚えながら抗議した。
「じゃあなぜ僕に打ったんですか」
「さあ、保健所かどこかから強い要望があったみたいです」
「ああ?なんて事だ」
 亜太郎はいつの間にか本当の地獄に落とされた事を知った。
 地獄はあの世にはないのだが、この世にあるのだ。     了