女優

2023年11月30日

オードリー

 

 あれは高度経済成長が始まった頃の昭和。僕は赤坂のとあるホテルのボーイだった。
 そこへ有名な外国女優がお忍びで来たことがあった。運良く私が担当になった。

 ◇

 その女優は首が少し高く、その上とても小顔で美の終着点みたいな容貌だった。僕の身長は174センチだが、女優はヒールで僕とほぼ同じ背に見えた。
 マネージャーの男性がチェックインの手続きをする間に女優はサングラスを少し下にずらして素の目でロビーを見渡していた。何かの映画でも女優はそういう風にして本来の色の世界を確かめていたことを思い出した。

 日本でも大人気の女優の予約が入った時から幹部スタッフが最上のもてなしを計画してた。部屋は当然のように世界のVIPにあてがわれるホテル自慢のスイートルームだ。サービスはどんな客でも同一にすべきなのはわかっているが、世界的な女優の宿泊はホテルのグレードに貢献するのだからより真剣にならざるを得ない。
 一般のフロアーよりメンテナンスが大変な最上級の明るい赤色を使った絨毯を歩いて
僕はスイートルームに女優を案内し、英語で言った。
「こちらのお部屋は特別なお客様だけをお泊めする当ホテル最上級のスイートルームになります」
 このホテルでは当時から接客スタッフは英会話を叩き込まれていた。もしここで客に過去にどんな人が泊まったかを聞かれたら、外国王室の王や女王、主要国の大統領の名前を挙げるようにも教えられていた。
 僕もそのスイートルームはまだ数回しか案内したことがなくて、ささやかな興奮と共にボストンバッグを持って部屋の鍵を開けた。
 狭いながらホールがあって応接ソファーが置かれたリビングがあり、クローク付きの寝室に続いている。反対側には鍵付きのドアがありお付き用の部屋に通じている。

「ありがとう、素敵な部屋ね」
 女優はそう告げて「本当にチップはいいの?」と僕に聞いた。
「ええ、ジャパニーズスタイルです」
 マネージャーも「フロントがそう言うんだから必要ない」と釘を刺す。
 ボストンバッグを所定の位置に置くと、僕は「ごゆっくりおくつろぎ下さい」と述べて下がろうとする。
 そこで女優は大きな瞳で僕を見てゆっくりとした英語で聞いた。
「あなたは何時に仕事が終わるの?」
 僕が戸惑って彼女のマネージャーを見るとマネージャーは壊れた扇風機みたいに頭を水平スイングした。
「すみません、答えられません」と僕は英語で答えた。
 女優はちらっとマネージャーを睨んで言った。
「いいの、私が聞いてるんだから」
 マネージャーは手を叩くようにして直前ですれ違わせていじけて壁にもたれかかった。どうにでもしろと読めた。
「あなたは何時に仕事が終わるの?」
「今晩の9時ですけど」
「いいわ、明日の5時に迎えに来てちょうだい。行ってみたいところがあるの」
「あ、僕の仕事はボーイです。運転手ではないのです」
「ええ、仕事は明日一日休みを取ればいいでしょ。できなきゃ、そこのスコットがあなたを一日貸切りにするから大丈夫だわ」
 北欧の霧で青みがかったような神秘を感じさせるブラウンの瞳で彼女に見詰められたら、どんな男だって「逆らう」という言葉を急いで辞書から破り捨てる筈だ。それに彼女を乗せて運転できるなんて光栄を逃す男もいる筈がない。付け加えておくとこの時点で女優は既婚だ。もちろん旅行先のボーイ相手に浮気する筈もない。単純な好奇心で観光にぶらりと出かけたいだけなのだろう。

「わかりました、明日の5時ですね。車はご希望がありますか?」
 僕は彼女の希望する車をどうやって調達したらいいか心配しながら言った。
「いいえ、あなたの小さな車でいいわ、持っていればね」
「わかりました。車はスバルの360です。たぶんフォルクスワーゲンのビートルをリスペクトして作られたよく似たデザインの車です」
 おそらくリムジンに乗りなれてる筈の女優は猫のように小さく舌を出して微笑んだ。
「ビートルは知ってるわ。日本のカブトムシ、素敵ね」
「では、明日夕方の5時に迎えに来ます」
 僕が確認すると、女優は驚いて言った。
「まさか、5時は朝に決まってるでしょ」
「オーマイガッ、リーリィ?」
 僕は思い切り叫んだ。早朝は全く苦手なのだ。
 
 女優から運転手になるよう頼まれたことを伝えると上司はあっさりと承知した。
「わかった、明日は公休扱いにする。くれぐれもオードリーを事故に遭わせたり、おもてなしに不都合がないように全力で勤めるように」
「はい、でもそう言われると責任が重くて今から気疲れしそうです」
「やり遂げれば君の宝になるだろ」
「宝ですかね? たしかにすごい美人でオーラも違うんですけど」
「もし困った事が起きたらすぐにホテルに電話するように」
 上司は支配人に報告するためにさっさと出て行った。
 バックオフィスでフロントの宿直係に事情を話したら、快くモーニングコールを引き受けてくれた。もちろん、事情がなかったらガスボンベで殴られてたと思う。
 コンシェルジュは「出来れば一緒に付いて行ってやりたいところだな。でもまあ自力でがんばれよ」と役に立たないフレーズで応援してくれた。
 それから僕はタクシーの配車係から広げた週刊誌より大きい道路マップを借りて都内の道路を見ながら工事の状況などを確認した。
 仕事を上がると僕は近くの寮に帰って、英語の単語帳を持って1時間半も入浴してしまった。
 ともかくも僕は朝の4時半に着信音がひとつ鳴るやすぐ受話器を持ち上げて、興奮して全然眠れないんだと打ち明けた。宿直は頑張れよと応援してくれた。

 ◇

 5時きっかりにドアをノックすると、毛皮のコートを着て、首に巻いたスカーフに半分顔を埋めた女優が現れた。マネージャーの姿はなかった。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
 そう聞かれて、僕は答えた。
「ええ、陸に上げられて一晩経ったマグロみたいによく寝ました」
 女優は大きな目をさらに大きく開いてびっくりして言った。
「そう、私が行きたかったのはそこよ。あなたはとっても勘がいいわ」
 女優は微笑みながらサングラスをかけ、フランスパンを抱え持って僕の小さな車に乗り込んだ。天井にフランスパンが届きそうだった。
「窮屈そうですみません」
 僕が謝ると女優は唇をノンノンと言いたげに動かした。
「カブトムシの中は狭いに決まってるわ」

 はたして魚市場に外国からの観光客が入れるものか心配だったが、僕はスバル360に女優を乗せて築地市場に着いた。
 毛皮のコートを着てサングラスをかけフランスパンを抱えた女優は、まるで昔から築地の関係者だったみたいにずんずんと中に歩み入って僕を振り返った。
「すごいわ、あんなに大きなマグロがたくさん寝てる。まるで昨夜のあなたみたいにね」
 僕は嘘をついた罪悪感を感じながらも状況悪化の兆しに急いで彼女のそばに立った。

 そこにいた強面の男が手を振りながら近寄ってきたのだ。
「だめだ、だめだ、見せ物じゃねえんだよ」
 僕は弁明する。
「申し訳ありません。でも彼女ははるばる外国から来たので少しだけ見せて下さい」
「だめだめ、例外はねえんだよ」
「そこをなんとかお願いします。彼女に良い印象を持ってもらえば、日本にとってもよいことです」
「だめだっつうの」
 次第にゴムの長いエプロンをした男たちや、ひさしのついた帽子を被った男たちが集まり、僕は人数で圧倒されそうだ。もっとも女優はそんな男たちの不機嫌な顔ひとつひとつの表情が興味深いらしく一歩も動かず眺めている。
「とっとと帰れよ」
 一人の男が女優の肩を押そうと手を伸ばしかけた。
 僕は慌ててその手を払い落とし思わず大声で叫んだ。
「無礼者、このひとはアン王女だぞ」
 その一言で男たちが一瞬で固まった。

 もちろんそれは「ローマの休日」の役名だけれど、その方がわかりやすい筈だった。
 僕が「それを取ってお顔を見せて下さい」と頼むと、女優はサングラスを外して美しい瞳でにこやかに微笑んだ。まるで映画の記者会見シーンを観てるようだった。

 するとずらりと並んだ男たちの口が死んだ魚みたいにぽかんと開いた。そして追いかけて思い出したように言葉がぽんぽん出て来る。
「あれだ、ほら」
「ああ、俺、観たぞ、あれな」
「なんて映画だっけ?」
「ローマの休日だろ」
「それだ、ローマの休日だあ」
「すげえよ、アン王女様が築地に来たのか」
「するってえと今日は、東京の休日かい」
 それまでの険悪な雰囲気が一変した。当時は映画の黄金時代だ。普段は日活アクションやヤクザ映画に通いつめ映画館から帰る時には肩で風を切って歩くいかつい男たちも、世界的な人気女優が出演した大ヒット作「ローマの休日」は常識のように全員が観ていたのだ。

「私、マグロのサンドイッチが食べたいわ」
 女優はそう言って猫のように微笑んだ。
「マグロを少し試食できますか」
 僕が通訳すると、男たちはいっせいに動き出した。あっという間に大きなまな板が準備されて、無駄に多くの男が同時に手を出してマグロの解体が始まり、とても食べきれない量のマグロの刺身が盛られていた。
「このフランスパンのサンドイッチにしてもらえますか」
 僕が頼むとフランスパンは柳葉包丁で薄くカットされて、それにトロを乗せて醤油をたらしその上にまた薄切りパンを乗せて女優に渡した。
 女優は両手で持ってパクつくと、咀嚼してる間中うなづいた。
 そして食べ終えると両手を花のように開き言った。
「トレビャン」
 女優が微笑みに、いかつい男たちから一斉に拍手が起きた。
 拍手の中で「そら見ろ」と誰かが自慢を込めて叫んだ。

 ◇
 
 トロのサンドイッチを食べ終えた女優と僕はゆったりと市場の中を歩いた。
 途中、あんこうがあったので、僕は調子に乗って女優に説明した。
「日本ではこれが真実の口と呼ばれています。偽りの心がある者は手が抜けなくなります。もちろん僕は正直者だから問題ないですが」
 そして僕はあんこうの口を開けて手を入れて、手が抜けなくなりオーオゥッチと痛がるふりをした。
 女優は手を叩いてキュッキュッキュッと笑って喜んだ。
 続いて女優は自分でもあんこうの口に手を入れた。そして声を上げてグレゴリー・ペックのように痛がる演技をしてから手を抜くと、毛皮のコートの袖中に手を隠して僕に見せた。
 その時の悪戯っぽい目がとっても可愛らしくて危うく僕は失神しそうだった。
 仕事そっちのけで彼女のギャラリーとなって取り巻く男達からも大拍手が湧いた。

 ◇

 僕らは雷門、浅草寺とめぐった。
 土産物屋で女優が目敏く見つけたのが扇子だ。
「私はこれを見た事があるわ。日本の紹介をする短編映画で和服を着た年配の男性が使ってたの。私も欲しくなったわ」
「それはいいニュースです、あなたのような人気女優が日本の扇子を持っていたら僕たち日本人にとって誇りになります」
 女優は扇子を開いて派手な絵柄に驚いたようだった。
「私の見た扇子は絵柄はなかったわ。これは観光客向けなの?」
 僕が女性の店員さんに確かめると彼女は頷いた。
「そうですね、富士山とか芸者とかは日本人向けの絵柄に描かないので、観光客向けです」
 僕が通訳すると女優は聞き返した。
「私みたいな女性がこれを実用に使っても大丈夫かしら?」
 僕は店員さんから(実用性は全く問題ないです。絵柄と関係ないです)と聞いて伝えた。
 女優は桜の図柄ひとつと富士山図柄のみっつの扇子を購入した。

 それから女優の希望で老舗らしい蕎麦屋に入った。
 今ならカップヌードルによって日本の麺が世界的に知られているが、この当時は日本の蕎麦を食べる外国人はかなり限られていた筈だ。
「何がおススメかしら?」
 女優に聞かれて僕は天ぷらがついてた方がよいと考えた。
「そうですね、蕎麦だけだと単調だから、外国の方には天ぷら蕎麦がよいと思います」
「じゃあそれね」

 蕎麦を待つ間に女優は僕にさっき買った富士山の図柄の扇子をプレゼントしてくれた。
「どうぞ、日本の江戸っ子さん」
「ありがとう。あなたに貰えるなんて嬉しいです」
 僕は女優と扇子を開いて見せあった。
 やがて女優と僕に天ぷら蕎麦が運ばれて来た。
 女優がサングラスを取ってテーブルに置くと僕が七味唐辛子を見せた。
「これはジャバニーズペッパーです。多いと辛くなるので少しだけかけるとよいです」
 僕は女優が少しだけ七味をかけるのを見守り、それを受け取ると自分は辛い方が好きなので多めに七味をふりかけた。そして七味をテーブルに置いてふと女優を見ると、彼女はなんと扇子を丼に入れて蕎麦を乗せて口に運んでいた。
 僕は慌てて言った。
「オー、ノー。扇子は使わないで!」
「どうして? 私の見た短編映画では年配の男性が扇子で蕎麦を食べていたわ。正確には食べるふりだけど」
 僕の頭にその光景が閃いた。落語だ。落語家は扇子を箸代わりにして蕎麦を旨そうに食べるふりをする。だから女優は実際に食べる際にも扇子を使うと思ったのだ。
「ノー、扇子は風を仰ぐ目的だけで使って下さい」
 だが女優はまた扇子で蕎麦を器用に絡めて口に運ぶ。
「そうかしら。年配の男性はふりでもとても美味しそうだったし、実際にやってみて美味しいもの。あなたも試してみて」
 女優がそう言うので僕も付き合いで扇子で蕎麦を持ち上げて食べてみたが難しいだけで味がよくなる筈もない。
「やはり蕎麦を食べるときは箸の方がよいです。扇子は水に弱いからふり以外では食べ物に使わないのです。箸を使ってください」
 僕がそう言うとようやく女優は扇子を使うのを止めた。
「そうなのね。わかったわ、江戸っ子の意見に従う」
 僕はほっとして一句を得た。
 受けてみせ、使ってみせ、食べてみせねば、女優は動かぬ。

 その後、女優と銀座、皇居を歩き、カブトムシに乗ってホテルに戻った。翌日、女優はチェックアウトして日本から旅立った。
 
 そんなわけで僕には蕎麦のつゆに浸かった扇子という宝ものがある。 了

 

 
 1961年、映画「ティファニーで朝食を」が公開されたが、残念ながらその後も「築地市場で朝食を」という映画は制作されなかった。  

ローマの休日 '真実の口’のシーンの時、グレゴリー・ペックが手が挟まったふりをすると知らされずにオードリーは撮影に臨み、この後は彼女のアドリブだそうです、すごい自然ですね