怪盗三日月とかぐや姫

2022年3月19日

更新状況 2022年 3月19日 第13章を投稿 最新章リンク ←クリックでGO

※登場人物が実在人物と同名でも内容はフィクションになります 

かぐや表紙

目次
起章 空海参内
第1章 怪盗三日月
第2章 怖れぬ目
第3章 怪盗の恋心
第4章 怪盗の妻問い
第5章 求婚者たち
承章 高雄山寺
第6章 難題
第7章 火鼠の皮衣
第8章 蓬莱の玉の枝
転章 覚空の謎解き
第9章 名案
第10章 月よりの迎え
第11章 新居での生活
第12章 広忠の決心
第13章 新たなる誓い
結章 物語の祖

 

起章 空海参内

 弘仁十一年(820年)十月、高雄山寺にあった空海は嵯峨天皇より急なお召しを受けた。

 空海は若き頃、虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほうを修して常人の十倍百倍の理解力と記憶力を得た上に、奇跡の運命を引き寄せて遣唐使に選ばれ、最晩年を迎えていた密教継承者恵果阿闍梨けいかあじゃりの口伝を受けることが叶った。恵果の方も空海の非凡な資質を見抜くと並みいる弟子を差しおいて留学僧の空海に阿闍梨の地位を継承させ、遺言でその成果を日本に持ち帰ることを許したのだった。
 しかし大同元年(806年)10月に唐から帰国した空海は、20年の留学期間を2年で切り上げたことを訝しむ官僚達によって入京を許されず、大同四年(809年)になってようやく入京を許された。

 いざ朝廷に呼び出されてみれば、知識、法力とも並ぶものなく、そのうえ詩書にも明るく筆も立つため、書を好む嵯峨天皇にたちまち気に入られ重用され、まもなく官寺の別当に任ぜられて頭角を現した。さらに大同五年(810年)薬子の変で騒然となった国情を鎮護国家の祈祷で落ち着かせて嵯峨天皇の信頼を盤石にした。

 以来、帝は大事な仏教修法が必要な時は、まず空海に命じるようになっていた。
 今回はどのような用であろうかと空海は考えながら、唐で口伝された密教の占法で用件を探ったが、鎮護国家の徴も、病気祓伏の徴も出ない。
「このたびは気楽な用じゃ」
 空海は従者に言ってのんびりとした心地で宮中に参内した。

 しかし、紫辰殿に上がった空海は、昼の御座所の前ではなく、奥の御寝所の傍らに通された。
「おお、別当、よく参ったな」
 齢三十を過ぎたばかりの帝は嬉しそうに言い、身を起こすと御簾を巻き上げさせた。賢しそうな目はすっきりとして病の気配は見えないようだ。
 ひとまわり年長の空海は畏って言上する。
「これはこれは。
 予め占を立てた時は病の気配は見えませなんだゆえ、驚きました」
「別当、さすがであるの。
 まわりがうるさいゆえこうして隠れておるが、格別病などではないのだ。
 他でもない、別当もあのかぐや姫のこと、よもや忘れはしまい?」
「はい、天子様によく似たお方に得手でもない恋文の指南を命じられましたゆえ」

 空海が言うと帝は笑みを洩らした。何しろそのために昨年、空海は勅命によって内裏の中務省に居住させられて、嵯峨天皇から迦具夜かぐや姫に送る恋文の指南を命じられ、今日も返事は来ないか今日も来ないかと待ったのであった。
 さすがの空海も色恋沙汰に勅命で付き合わされるのは阿漕あこぎなことだと感じてたが、これも愚かな恋にも清浄なる菩薩の境地を見い出せという理趣経の導きなのであろうと諦観したのだった。

「うむ。どうも、あの姫が月に帰ってしもうて以来、朕は食が細り気味で、何もする気が起きぬでな。
 いかなる縁あってか皇子に生まれつき、今日まで恋の実らぬことなく、産ませた子も手足の指の数より多いこの身だか、かぐや姫のおかげてようやく恋に悲しむことを覚え、美しい面影に涙する毎日なのだ……」
「お察しいたします」
「そこでこう思い立ったのだ、
 かの姫のこと、どうせ忘れようとして忘れられぬことならば、誰ぞにいい加減な噂を広めらられる前に、先手を取って、書き残しておきたいものだとな。
 それも形式張った記録ではなく、いかなる噂にも乗じられる隙のない、美しい話として残したいのだ」
「なるほど」
「姫に心寄せた者も多いが、それらの者だち皆の慰みにもなるような物語を残して、後世まで伝えたい」
「なかなかの思いつきでございます」
「そこで、唐土の高僧すら舌を巻かせたそちの文才を頼みたいと思うがどうだ?」
「手前の拙文でよろしければ」
 空海が承知すると帝は頷いてさらに付け加えた。
「ただし、くれぐれも朕の名は出してくれるな。
 美しい話にうつつの名は興が醒める。既に公の記録からもかぐや姫のことは削らせてある。
 書き手が別当であることも悟られぬようにせよ。
 そうじゃ、女房どもの好く仮名書きにするがよい。
 出来上がったものも、内裏へ奉るには及ばない。
 どこぞ朕の耳の届きそうなところへ流してくれればそれでよいのだ」
「承知いたしました」
 空海は平伏して御寝所から下がった。

 橘の植え込み脇の渡り廊下を歩きなから、空海はさてどのように話を組立てようかと思案した。
 袖の内の数珠をつまぐり半眼にした空海の瞼にあの怪盗の容貌か浮かんだ。
 できることならおぬしの話を取り入れてやりたいが、そうなると読み手や当事者に全てを明かさねは収まりがつかなくなる。
 ここはやはりおぬしの事はおくびにも匂わせず、吐蕃とばんの『斑竹姑娘』や我が国の竹取伝説、天女伝説、富士伝説をからめて夢物語のごとく書くしかあるまいな。
 低く垂れこめる雲を見上げた空海はそう決めながらも、かえって心の内に、あの怪盗とかぐや姫の恋物語を、想像も届かぬ仔細に渡って、ああであったであろうか、こうであったであろうかと様ざまに想い巡らしてゆくのであった。

 

第一章 怪盗三日月

 
 
 大同4年(809年)、唐から帰国した空海が入京を許されずに和泉国に滞在してた頃、大きな屋敷が盗賊団に襲われた事があった。
 何人かが殺され、金品が奪われ、馬が奪われた。その馬の世話係だった上背のある若い馬子が居なくなった。名を広忠といい、力はあるのだが手加減ということが出来ない欠点があった。事件後いつまでも戻らぬため、屋敷では恐ろしくなって逃げたのだろうと考え忘れ去られてしまった。

 それから半年ほどしてから三日月の晩に限って、都に凶悪な怪盗が出没するようになった。何度か犯行が重なってくると人々も気付いて役人が三日月の晩には見回りに出るようになったのだが、これがなかなか捕まらない。

 この怪盗三日月、六尺に届こうかという上背があるうえ、荒くれ男の図太い腕をもへし折る怪力、大きな牛を一撃のもとに殴り倒す拳、馬を追いかければ馬の方が根負けする強靭な脚力をすべて合わせ持つ怪物であった。
 そのうえ、強盗の手口も残忍を極めた。
 堂々と家に乗り込むと、立ち向かう家人の命を蚊のごとくに潰し、腰を抜かした女に酌をさせて、鉄の堅牢な錠前を力任せに抉じ開け、金品を選んで持ち去るのだ。
 家筋などはおよそわからぬが、押し入った時に、誰何されて「ひろただ」と答えたので生き残りから名が伝わった。そして人々は彼を怪盗三日月あるいは三日月広忠と呼んで恐れたのである。
 被害が重なると朝廷も威信にかけて怪盗三日月追捕の命を発し、懸命の市中見回りと近郊捜索を重ねたが、広忠は発見されても嘲笑うように捕り方を振り切り、どうしても補まらなかった。

 そのようなある三日月の晩のこと、
 広忠は、朝廷でも有力派閥に属する右大臣の屋敷に侵入した。
 いや侵入などという、こそこそしたものではない。
 広忠は憶病な貝のごとく閉じらている正門を平手で鼓のごとく叩いた。
 突然響き渡る、聞いたこともない音に門番は驚いた。
「何者じゃ?」
 すると広忠はにやりと笑みを浮かべて、
「三日月追捕の探索である、この門を開けよ」
 と堂々と偽りを叫んだ。

 門番は少しだけ門を開いて聞く。
「怪盗三日月が出たのか?」
「そうとも。今、お主の目にしてる俺が怪盗三日月広忠じゃ」
 目の合った門番に声を上げさせる暇も与えず、広忠は門番の喉をひと突きにすると、悠然と敷地に入った。
 
 広忠は太刀を片手にぶらさげ、堂々と寝殿造りの正殿の内に上がり込んだ。
「お楽しみじゃのう」
 そう声をかけられた、酒を飲んでいた右大臣と客人は、誰だろうかと酔いにかすむ目をしばたたかせた。
 ようやく抜き身の太刀に気がついた時には命運は極まっていた。
 一瞬、ヒェッと声にならぬ声が上がったかと思うと客人の狩衣から血が染み出した。
 客人が前のめりに倒れると同時に、広忠の眼尻に寄った黒光りが右大臣に定まる。

「ひ、怪盗三日月じゃあ、出やれ」
 床を這うように逃げてゆく右大臣の声は情けなくかすれていたが、脇の板戸が開いて三人の武者が飛び出してきた。もちろんまだ武士という職分はないが、権勢を競う貴族は警備の者を雇っていた。 

 しかし、三人の武者を前にしても広忠は血の滴る刀を片手にぶらりと持つだけで構えもしない。
 武者の一人が「ヤー」と叫んで斬りかかる。
 と、広忠の刀がビュンと風切り音を立て、瞬間、かん高い音が響き、鋼がぶつかる火花が光るや、武者の太刀はあさっての方角に吹っ飛ぶ。
 次の瞬間、武者は床に広がり出した血の海に蛸のように手足を広げた。

 広忠が血走った目で睨みつけると、残る二人はほとんど戦意を失っている。
 中でも一人は股間から脹脛にかけて漏らし小便で袴を染めている。
「そ、それ、二人でかかれ」
 右大臣が言うと、もう一人の武者が半ば白棄になって突っかかった。
 しかし、広忠はこれをサッとかわして相手の脇腹を突き返した。
 そして、刃のこぼれてきた己の刀を捨て、武者の無傷の太刀を奪い取る。
 そして振り向くや、逃げ出しにかかっている漏らし武者をダッと追って戸口の手前で斬り殺した。

 またたく間に、用心棒の武者を始末した広忠は右大臣に向き直った。
 右大臣はなぜかまだ酒の瓶子をしっかり手に握ったまま腰を抜かして、顔を真っ青にしている。
 広忠は右大臣の手から酒の瓶子を取り上げると野太い声で命令した。
「やい、主、飯を用意しろ」
「わ、わかった、誰ぞ、飯じや。早う、飯じゃ」
 ちょうど物音に様子を伺いに来た家司は、切追した主の声と姿に出くわし「たっ、ただいま」と叫び、どたどたと走り去った。

 広忠は瓶子にそのまま口をつけ酒を飲み干すと、右大臣に尋ねる。
「姫はあっちか?」
 大臣は恐怖の底から声を奮い立たせて懇願した。
「そればかりは許してくりょ。金は幾らでもやるに」
「ほほお、よい心掛けじゃな」
 広忠は笑った。

「聞いてくれるか?」
 藁にもすがる心地の右大臣が喜びかけた。
 が、広忠はあっさりと大臣の期待を裏切る。
「だが金の前に、姫を抱きたいんじゃ」
 広忠が対屋に渡ろうとするのに大臣はすがりつく。
「のう、姫だけは許してくりょ。
 姫よりよい女をいくらでも世話するに。
 お願いじゃ、姫は東宮と縁談を進めている最中なんじゃ」
 右大臣はどうやら出世の種大事さに必死のようだが、広忠が心変わりする様子はない。
 広忠は斬るのも面倒で「うるさい」と右大臣を渡り廊下から蹴落とした。

 対屋に入ると姫は侍女二人と何やら夢中で喋り合っていてなかなか広忠に気付かなかった。
「女、相手しろ」
 広忠が床に太刀を投げ出して言うと、ようやく三人は踏みつけられた猫のような悲鳴を上げた。
 広忠は耳を裂く声に少しも構わず、一番いい着物を着ていた姫をつかまえるとニ藍ふたあおいうちぎとその下の単と袴を剥ぎ取り、裸にして己の胸に抱きかかえるとそのまま胡坐をかいて座った。
 全裸となった姫はぶるぶると震えながら、やっとの思いで言う。
「い、命ばかりはお助けくだされ」
「ふふ、怖いか? もっと震えろ」
 広忠のあまりの恐ろしさに姫は素直に素直に「はい」と返事した。恐怖から全身に走る震えは命令されずとも止まる気配はない。
「俺が嫌いか?」
 さすがに姫は素直にうなづけず涙目でかぶりを振る。
「わしはおなごは殺しはせぬことにしとる。
 言うてみろ、わしが嫌いだと、命令だ」
 姫は仕方なく気の進まぬまま小さく答える。
「嫌いじゃ」
「鬼のようだろ?」
「鬼のようじゃ」
「わっははは」
 広忠は、己が恐怖の的であるということを確かめると豪快に笑った。
「それでよい、そうこなくてはのう」

 まもなく飯が運び込まれてきた。
 広忠は震えてむせび泣く全裸の姫を膝に乗せて酌をさせると食事にかかった。

 その夜の広忠はいつにも増して大胆だった。しかし、そうまで悠然とされれば、いかに足の遅いお上でも間に合う。
 衛府の中将は今宵こそ威信回復と意気込み、盗賊一人に戦並みの大人数三百人を率いて大臣の屋敷を取り囲んだ。
 食事に満腹した広忠は、姫の震える膝を枕に敷いてのんびり酒を飲んでいた。

 そこへ、突然、四方の戸板が破られ、三十人ほどの武者がなだれ込み、あっという間に姫を引き離して、広忠に縄をかけてぐるぐる巻きにする。
 追捕の宣旨を読み上げる中将を、広忠は片目で一瞥すると鼻から息を抜いた。
「ふん」
「広忠、おぬしの悪運も尽きたな」
 中将は勝ち誇ったが、広忠は眠そうな声で「酒を邪魔されてはの」と呟き、背の後ろで縛られていた手に力を入れると、手首の縄が千切れた。
「まったく気分が悪いわ」
 そう言うと、今度は胸を巻いていた縄を糸のごとく引き千切った。
「お、おのれ」
 武者の一人が振りかかる刀を、広忠は徳利で受けて、その武者の手を逆にねじった。
 さらに、広忠は武者を軽々と人形のように持ち上げたかと思うと中将に投げつけ、中将はその場に倒れ込んだ。
 同じように次々に斬りつけてくる武者も人形のように他の武者に投げつけて、またたくまに部屋中に倒されてた武者とその呻き声で満たされた。

「ふぁあーあ」
 広忠は対屋から悠々と歩み出て大きな欠伸をした。
 庭で待機していた鎧姿の武者達ほ、まるで何事もなかったように現れて胸を掻いている広忠に唖然となった。
 捕り方は息を呑んで、誰も飛びかかれない。
 そこで、広忠は袴の紐を緩めると己れの一物を取り出し、しばらく虫の音と競うように小便の音を立てた。
「おのれ、我等をなめおって」
 一人が叫んで斬りかかった。
 酔いで動きの鈍くなっていた広忠は刀を避けきれず、音もなく右腕に傷口かぱっくり開いた。
 しかし、斬りつけた武者がやったと思えた時は殆どなかった。
 すぐに、広忠の凄まじい睨みに震え上がったのだ。
「小便してる者に斬りつけるとは卑怯だの」
 広忠は袴の紐を結び直すと、次の瞬間、左腕で武士の大刀を奪い、鎧の上から胸と腹をまっぷたつに斬り離した。
 怯える武者どもを睨み渡した広忠は、やにわに猛烈な勢いで走り出した。
 もはや、闘志の萎えかけた武者はあろうことか身を引いて、広忠に道を開けてしまう。
 広忠はあっという間に塀によじ登り、向こう側に飛び降りた。

「何をしてる、追え、追うのだ!」
 ようやくのことで対屋から這い出てきた中将が声を張り上げると、武者たちは我に返ったように、再び広忠を追いかけ出した。
 広忠は着物の袖を裂くと右腕の傷に簡単に巻きつけ、それから、西へひと晩、ひと昼、走りづめ、山を幾つか越えた。

 

第二章 怖れぬ目

 
 
 丹波の山麓集落にある家で、美しい姫が胸騒ぎに目覚めて襟を押さえ体を起こした。

 その家は丹波地方の元郡司が建てた家で、今 はその母系の老夫婦が住まいしていた。
 姫は膝立ちに蔀戸に近寄り、上半分を引き入れて上げる。
 すると、蔀戸の外には竹林が広がり、その上に楕円の月が輝いている。
 姫は巾着袋を開き、揃えた両手程の大きく丸い鏡を取り出した。
 その鏡の微妙な凹面は光を集めるに優れ、紙燭の僅かな光でも大きな篝火の明かりのように眩ゆく反射することができた。
 姫は部屋に差し込む月光を受けて眩しく光る鏡面をそっと眺めた。
 

 その時、戸板を怪力でたわませて家に入り込んだ広忠は、土間で水甕を見つけると傷を負った右手で柄杓を持って、乱れた息を潰すようにごっくごっくと水を飲んだ。
 そして一息つくや広忠は今度は鍋の中を調べた。
 なにしろまる一日何も口に入れていなかったから、腹は敷物の毛皮のごとく潰れている。
 鍋の中に煮物の冷めた残りを見つけた広忠は、鍋に口をつけて頭を反らせ、手で残り物を喉にかき込んだ。
 すっかり平らげて指をしゃぶると、次は鉢の中から妙り豆を見つけて口に詰め込み、詰め込み噛み砕く。
 そうしてるうち、置き方がまずかったらしく、鍋がずり落ち、それが甕に当たりかん高い音が響いた。

 すると、奥の部屋から澄んだ細い声が間いかけてきた。
「父上?母上?」

 広忠は一瞬、腰に差した太刀に手をやり、すぐに戻した。
 広忠のねぐらにしている洞穴はあとひと山だ。ここで騒ぎを起こすと、ねぐらまで探索の手が迫るかもしれない。いくら怪力の広忠でも寝る時は無防備だから、万が一そこに踏み込まれるのは面倒だ。
 広忠はこの女は脅して静かにさせようと決めた。
 姫は眺めていた鏡を床に置いて、白い汗袗かざみの上に、萌黄もえぎあこめを羽織って戸口に歩み寄る。
 広忠は戸口のすぐ外にそっと忍び寄り身構えた。
 姫は土間に降りようと戸を開けた。

 瞬間、待ち構えていた広忠は体当りするように姫を部屋の中に押し戻した。

 部屋の中は月光を反射する鏡のせいで意外に明るい。
 広忠は右手で素早く姫の口を塞ぎつつ、左手で姫の腹を押さえた格好のまま、数瞬、姫と目を合わせた。
 あまりに突然で怯える間がなかったのだろうか、姫は目を凝らして顎の輪郭を髭が縁取るいかつい広忠の顔をじっと見詰めている。
 何か言おうとして広忠に押さえられている唇を動かしてみたが、それも止めた。
 広忠はじっと見返してくる恐怖心のない美しい瞳と、手のひらにある柔らかな唇の感触に、不思議とどぎまぎした。
 そして妙に高揚した気分になり、広忠も手を引いて姫を見詰めた。
 僻村にはおよそ不釣り合いな姫の麗しさに驚いた点もあるかもしれない。
 しかし、それはまことの理由ではない。
 広忠は初めてだったのだ、自分を恐怖以外の目で見つめる女に出会ったのが。
 だから、この女は一体どういうつもりかと姫を見詰めたのだ。
 それは端から見たら、奇妙な光景であったろう。
 真夜中、美しい姫と、腰に刀をぶらさげた凶悪怪盗が見詰め合ったまま、黙り込んでいるのである。

 やがて、広忠は思い出したように「声を立てるな」と囁いて、姫の首をつかみ、刀を抜いてかざした。
 すると姫は小声で言う。
「その刀をおしまいください。
 益荒男ますらお手弱女たおやめに刀を向けたとあってはのちのち笑い草となりましょう。
 決して騒ぎませぬから下げてくださいませ」
 うんと一瞬、姫の言葉に危うく頷きそうになったが、広忠は小娘の口車に乗せられなめられては、と思い直し、姫の口を再び強く塞いだ。
 そうされながらも姫はしっかと広忠を見詰め返してくる。
 やはり恐怖を帯びた目ではないのだ。
 姫の澄んだ目だけで、広忠は胸の奥底をかき回されるように感じ始めていた。

「な、なんだ、その目は……、お、俺が怖くないのか?」
 姫の命を掌中に握っているはずの怪盗が、逆にまるで問い詰められているかのように小声で聞き返した。
「では、怖い方なのですか?」
 姫も囁いて聞くと、広忠も囁いて答える。
「お、おう、ひと目でわかるだろうが」

「申し訳ありません、怖い方は初めてなのです」
 姫がそう謝って、広忠の角張った顎を縁取るぼうぼうの髭や、汗の滲んだ高い鼻を見詰めていると、広忠は切れ長の下の、よく見るとつぶらな瞳を苛立たしそうに動かし小声で叱った。
「人の面をじろじろ見るんじゃねえ」
 姫は、いかつい男が恥ずかしがる風情がおかしくて笑みを洩らしそうになったが、さすがにそれは本気の怒りに遭うと悟り、すぐに噛み潰した。

 広忠は姫をじっと睨んで小さい声で脅す。
「いいか、やがて追っ手が来よう。
 おそらく家の者は叩き起こされ、お前も何かひとつふたつ聞かれるやもしれん。
 しかし俺のことは一言も喋ってはならねえ。
 手振りで示してもいけねえ。
 もしおかしな真似をしたらお前も家族も皆殺しだ」
 声は小さいが、すっかり凶悪な色に染まっている広忠の言葉に、ようやく姫も恐怖をひしひしと感じた。
「断っておくが、俺は追っ手が恐くてこんなことを言うんじゃねえ。
 今日はもういささか人殺しに飽いてしまっての。
 そこで、ここは静かにやりすごそうと決めたんじゃ。
 だが、お前が騒ぐ気を起こすなら、またひと暴れするまでのことだ」
 広忠が脅して睨むと、姫は黙って頷いた。

    ◇

 まもなく広忠の言った通り、たくさんの馬の脚音といななき、そして武具が甲冑にすれる音が響き、家の門が激しく叩かれた。

 広忠は姫を睨んで「よいな」と念を押し、姫のお気に入りの蘇芳すおう帳子かたびらが掛かっている几帳きちょうの陰に隠れて太刀を構えた。

 武者の声が響く。
「ここを開けよ」
 さらに、追捕の中将が自ら大声で怒鳴った。
「お上の命により探索をしておる衛門の中将惟匡である」
「何の御用でございます?」
 離れの小屋から飛び出た下男が戸を開けながら尋ねると、武者の掲げる松明の中から中将が大雑把に説明して聞かせる。
「都を騒がす怪盗三日月がこのあたりに逃げ込んでおるやもしれん、変わりないか?」
「はい、静かにございます」
「うむ、主人に問いたいゆえ案内いたせ」

 下男が家の戸口を叩くと主人が戸口に現れた。
「怪盗の探索をしておる衛門の中将惟匡である」
「これはお役目ご苦労さまにございます」
 追捕の中将は松明に照らされた主人の顔色を仔細に見ながら言う。
「うむ、都を騒がす凶悪怪盗が逃げておるのだ。
 主、何か気のついたことはないか?」
「都の怪盗ですか?
 ここは坂道が多いゆえ都から二日かかりますが」
 主人は不思議そうに言うが、中将が説明して聞かせる。
「並みの足の男ではないのだ。
 馬と駆け比べしても、ばてぬ男なのだ」
「はあ、それはそれは」
「それだけでない。
 とんでもない凶悪な大男でのう、怪力をいいことに、今日だけで十数人もひとを殺めておるのじゃ」
 中将が言うと主人は絶句した。
「……なんとまあ、恐ろしい」
「それらしき姿を見たり、足音を聞いたりせなんだか?」
「いいえ、手前はいっこうに」
「そうか。主の他に家族はいるか?」
「あそこに控えてますのが手前の女房です」
 主人が振り返って言うと、中将は板間に控える女に尋ねる。
「どうだ、お前は怪しい者は見なかったか?」
「いいえ、そのような大男は見かけませんでした」
「家族はこれきりか?」

「あとは奥の部屋に娘が寝てるきりです」
「うむ、姫にも答えてもらおう」
 中将が主人に姫の部屋の戸を開けるように言うと、几帳の陰の広忠は、息を止めて五感と剣先に神経を張りつめた。
「姫よ、起きただろう。
 お役人様の質問に返事を申し上げなさい」
 主人はそう言いながら姫の部屋に近寄り戸を開くと、紙燭の炎の光がこぼれ出て揺れた。

 姫は扇で顔を隠して「はい」と返事した。
 中将が尋ねる。
「夜分、済まぬな、凶悪な怪盗が逃げておるのじゃ。
 怪しい音や姿なぞ見かけなんだか?」
 几帳の陰の広忠は、いつでも飛び出し、斬りつける心構えで、耳をそばだてた。
 すると、姫は落ち着いた声で、
「部屋より一歩も出ませんでしたので、生憎とそれらしき姿も音も」と答えた。
 中将はうなづいて言う。
「くれぐれも気をつけられよ」
 広忠は緊張を解いて太刀を下ろした。

「怪盗が捕らえられるまで外を出歩かない方がよいだろう」
 中将は主にそう言い残して立ち去った。

 それから、几帳の陰の広忠は、追っ手の一行が集落から完全に遠ざかるのを待つことにしたのだが、さすがの広忠も山越えを重ねた疲労には勝てないと見え、やがて眠気の波状攻勢に上体を揺らし始めた。
 次第に揺れは大きくなり、しまいに広忠は上体を板敷きの床に倒して眠り込んでしまったのだった。

    ◇

 広忠が目を開けると既に蔀戸が上げられ外は明るみ始めていた。
「目が覚めましたか」
 女の囁く声に、はっとして上半身を起こした広忠は、すぐ傍らで徴笑んでいる姫を見つけ一瞬、息を呑む。
 姫も顔を隠そうとしてもう遅いと気付き思いとどまった。
 透けるような白い肌と艶々とした大きな瞳の姫は、広忠が今まで目にしたどの姫より美しく輝いていた。

 姫から目をそらした広忠は白分が姫の家に忍び込んだまま寝入ってしまったことに思い至り、己れの体にかけられている良い匂いの表衣を眺めてふうと安堵の溜め息を吐く。
 さらに右腕の傷を縛っていた汚い布が絹に替えられているのにも気付く。

「どうしてだ?」
 広忠が右腕を見たまま呟くように聞くと、姫は小声で、
「何がです?」
 と聞き返した。
「何故、俺を密告しなかった?
 このようにされても気付かぬほど深く寝入ってる時なら、いかに間抜けな追っ手でも俺の寝首を捕らえることができたろうよ」
 姫ほ、ほほっと息を洩らして囁く。
「寝顔が童子のようにろうたげでしたゆえ、そなたが悪人であるのをすっかり忘れていました」
 そう言われた広忠は羞恥で額から首の付け根まで真っ赤になったが、不思議と荒々しく返す言葉は口から出なかった。
「まあ良いわ。俺も男だ、受けた恩は恩とはっきりさせておきたい。
 おんな、何か欲しいものかあれば言ってみろ。
 必ずくれてやろう」

 広忠が聞くと姫は聞き返した。
「必ずですか?」
「必ずじゃ」

 姫は囁いた。
「では悪事をお止めくださいませ」

 広忠はびっくりした。
「悪事は俺の天職じや、やめるわけにはいかねえ。
 そういうことではなく、何か形ある物にしろ」
 すると姫は言い聞かせる。
「生きてるうち悪事ばかり働いていては、死んでから地獄に落ちます。
 そして来世はよくても、蜥蜴、うつぼ、蝙蝠ぐらいにしか生まれないのですよ。
 そなたも人に生まれついた今こそ、良いことを成さねばならないのです」
 姫が真剣に論すと広忠は鼻から息を吹いて笑った。
「俺に説教とはお笑いだ、
 俺がどんな悪事を重ねてきたかたっぷり話してやろうか」
 しかし、広忠がすごんでも姫の態度はびくともしない。

 そればかりか言の葉を継ぐ。
「そなたにだって善いところがある筈です。
 生まれついての悪人などこの世におりませんから」
 姫が自信を込めて断言すると広忠は呆気に取られて口をぽかんと開いた。

 極悪非道とか冷酷無情と言われたことは今まで数限りなくあったが、善いところがあるなどと言われたのは生まれて初めてのことだ。
 そんなところがないことは己れが一番よく知っていたが、この姫に言われてみるとなにやら照れくさく、もしかしたら少しは……などと感じるから不思議なものだ。

「まったく、お前はおかしな女だな。
 まあ、よい。とにかく今度ごの家に通りかかることがあれぱ、お前に土産を持って来てやろう」

  
  

第三章 怪盗の恋心

 

 
 追捕の手を逃れた広忠は、姫の家からひと山越えた渓谷にある、ねぐらに戻った。
 ねぐらは、広忠が材木をかついで運び、大きめの洞窟いっぱいに柱を突き立て、戸板を無理やりはめ込み、力任せに造ったいびつな小屋だった。
 広忠が帰ると、奥にいた女がまるで亭主を迎えるように迎えた。
「広忠様、お帰りなさいまし。
 御苦労さまでございました」

 女は三流とはいえ貴族の家に生まれ、某大納言の屋敷で姫君に仕えていた侍女であった。
 半年前のある夜、その屋敷に広忠が強盗に入ったのだ。広忠に震えながら食事を出したところ「お前は飯が作れるか」と聞かれて「はい」と答えると、広忠が出て行く時に肩に担がれてさらわれ、この渓谷の小屋に連れて来られたのだ。

 最初に広忠に「この家から出てはならぬぞ、このあたりは飢えた熊が多い、肉の柔らかい女が歩くと食われるでな」と脅された。すると侍女は、たとえ広忠が数日留守にしても、自分から険しい渓谷を降りて逃げようとはしなかった。そもそも物心ついてからは自分で地面を歩かない人生なのだから逃げる考えも思い浮かばないのだ。
 さらわれた時、すでに侍女はもはやわが命も長いことあるまいと覚悟した。
 それでも少しでも長く生きる道だと信じて、広忠の怒りを買わぬよう、短気をうっかり刺さぬよう注意を払って、飯を作ったり、洗濯をしたり、時には気紛れな広忠の欲望に喜ぶ素振りを見せたりして、飯盛り侍女として仕えてきたのだ。

 今、帰った広忠を見ると、いつものような戦利品を携えてないばかりか、どうやら腕には布を巻いて傷まで負っている様子。
 さては追っ手に痛い目に遭わされたのかもしれぬ。
 半年の生活で広忠の性格を知りつくした侍女は、これはうかつに何があったのかなどと聞いては、かえって生命取りになりかねないと心得て、目をそらしたまま問いかける。
「手当てをすべき怪我はおありですか?」
 しかし、広忠は何も答えず、見向きもしない。
 怪我は大事ないとすれば後は飯の心配をした方がよかろう。
「広忠様、何か召し上がりますか?」
 やはり広忠は答えない。

 それでも、返事がないからと気を利かさずに料理を出さずにいて殴り飛ばされたことがあったのを思い出す。広忠に言わせると指で小突いただけだが、侍女は部屋の隅から隅まで宙を飛んだのだ。
 あんな恐ろしい思いはごめんだ。
 侍女はさっさとかまどの火をおこし干し肉と有りあわせの野菜で鍋を作り、酒と共に出してやる。

 すると、広忠は黙ったまま全部平らげた。
 全部食べたのだからもう文句はないだろうと侍女は安心した。

「もう少し御酒をいかがです?」
 侍女が言うと、広忠は黙って杯にしてる椀を持ち上げた。

 椀に酒を注いでやって侍女はかまどに立つと自分用に残しておいた飯を口にかき込んだ。
 まもなく広忠の元に戻るとどうしたことだろう。
 広忠は椀を酒を注いだ時の高さに持ったまま、沈んだ目をあらぬ方向に向けたまま黙り込んでいる。

 なんだろう、この悪党の目が死んでるようだわ、不気味だこと。
 侍女の心配をよそに、広忠は酒に口もつけず、さっさと横になり寝てしまった。

    ◇

 翌日から小止みなく細い雨が降り続いた。
 その間も広忠はおかしかった。
 雨の日にはよくある、気紛れに侍女を押し倒すこともせず、強盗にも狩りにも出掛けず、日がな一日、筵に寝そべって雨を眺めているのだ。
 かと思うと、突然に「あーあ」と大きな溜め息を洩らして、侍女を驚かせる。

 これはかつてないことだった。
 侍女にはどうしたらよいか、わかりかねた。

 侍女が食事の準備をしていると広忠は不意に「ろうたげとはどういう意味じゃ」と聞いた。
 ほっとするような言葉だったので侍女は嬉しくなって振り向いて答えた。
「それは例えば幼き子供らの愛らしいさまをでる意味でございましょう」
 だが広忠は顔をそらして答える。
「お前になど聞いておらんわ」
 急に不機嫌になる広忠に侍女は一体何がいけなかったのかと震え上がった。

 それでも飯の膳を出しながら「食い糧が残り少のうなってまいりました」とおそるおそる口に出すと、広忠は頷きもせず飯を平らげた。そして蓑をまとうと死んだような目つきのまま外へ出かけ、夜遅くに米の入った布袋ひとつと猪を一頭担いで帰ってきた。

    ◇

 ようやく雨がやみ、晴れ上がった。
 洞窟小屋の外に出た侍女は眩しい陽光を浴びて鳥たちのさえずりに微笑んだ。
 続いて小屋のすぐ外に置いてある大樽に十分な雨水が溜まっているのを確かめると、侍女は洗濯を思い立ち、右肘を枕に寝ている広忠に言った。
「今日は天気もよいし、その着物を洗濯いたします。
 広忠様、さあ、脱ぎなされ」
 汚れた狩衣を脱がせにかかると、広忠は素直に従って袖を抜かせた。

「その汚れた布も洗いましよう」
 侍女はそう言って広忠の右腕に巻かれた、茶に変色した布を外そうとした。
 すると、広忠は突然、雷の如く、鼓膜が裂けるほどの大声で怒鳴った。

「勝手に触るなっ!」

「お前のような醜女など要らん、
 とっとと失せろー」
 そう言って侍女を軽く突き飛ばした。
 侍女は突かれて骨にひびが入ったかもしれぬ胸を押さえて言い返す。

「ひどいです、そのように突然、失せろと言われても困ります。
 熊が巣をつくる険しい谷をおなごに降りられる筈はない、熊はおなごの柔らかい肉が好物なんじゃと言われたのは広忠様ですよ」
「うるさい、熊に会うたら食われるまででよいではないか」
「そんな言いようはあんまりです。今まで広忠様に尽くしてきましたのに」
 
「ふん、お前などあの姫に比べたらヤモリのような顔だわ」
 そこで侍女は容姿を侮辱されたことより、あの姫という言葉に一気に引きつけられた。
 どうやらこの一人山賊の大男が姫に恋したらしい。なるほど、このところずっと様子がおかしかったわけがわかった。しかし、こんな悪党の山賊の大男が姫に恋するなどこの世でもっとも望み薄の叶わぬ恋ではないか。そう思いついた侍女は今までの腹いせにからかいたくなった。
「まさか、広忠様、どこぞの姫に恋をされましたのか?」
 侍女がさりげなく問うと、広忠はまるで少年のように髭もじゃらの顔を赤らめた。
「ばかを言え」
「ほほっ、そう言いつつ、広忠様のお顔が真っ赤ですよ、恋されたのですね?」
 侍女は、けたけたと笑い出しもう止められなくなった。
 しかし広忠は照れ臭さで反撃も出来ずにいる。
「どこの姫です?」
 聞かれてなぜか広忠は真顔で答える。
「山ひとつ超えたところの姫じゃ。名前はわからん」
「広忠様のように恐ろしい強盗の髭もじゃらの大男に恋されて、嬉しやと身を任せる姫がおいでとお思いですか?」
「うるさい、わかっておる」
「いえいえ、わかっておりませぬ。このところ広忠様が吐き出すあの長い溜め息はいまだ恋に心を奪われておる証」
 そう言われて広忠は真顔で縋るように問うてくる。
「俺はどうすればよい」

 侍女はきっぱりと言ってやる。
「あきらめるしかありませぬ。広忠様は恐ろしき人殺しの悪党です、姫と恋が叶う道理なぞ、どこをどう逆さにしても出てまいりませぬ」
「ひどい言われようではないか」
「実際、貴方様はひどいです。私のお仕えしてた大納言家でも何人も殺めたのですから」
「女は殺してないぞ」
「女を見逃せばよいという道理ではありませぬ」
「いや、あの姫が俺に優しうしてくれたのは気がある証に違いないのだ。
 そうだ、お前、あの姫に送る和歌を作れ。出来るであろう。お前とて姫に仕えていたのだからな」
 侍女は素早く思慮して、仮に自分が作った歌で広忠が失恋したら自分のせいにされてしまうと気付いた。
「そんな恋の歌など作れません。女には女の歌しか出来ないのは当然の道理です」
「小さな違いは気にせず男からの和歌を作ればよいのだ」
「出来ません」

 広忠は急に語気を荒げた。
「お前、俺の命令が聞けぬというのか?」
 侍女は土下座して断る。
「どうぞそればかりはご勘弁ください」
 広忠の目に怒りがこもった。
「そのような役立たずは、この場で始末してやろう」
 広忠が部屋の隅に立てかけてあった太刀に手をかけると、侍女は「ひいーっ」と叫びを上げて、裸足のまま逃げ出した。

 広忠には追いかける気力もない。床に太刀を放り出し大きな溜め息をひとつ吐いた広忠は、右腕の汚れた布を撫でて、それを枕にまた横になった。

    ◇

 広忠は「はああ~」と情けない溜め息を吐いた。
 あの姫はこの国一番の怪力とうそぶいてきた広忠を打ち負かしそうな勢いだ。
 そいつはふとした瞬間に、広忠が喉の奥から溜め息を洩らしたが最後、どこからかするりと心の正面に可憐な水仙の花のように立ち現れて像を結び、柔らかな微笑みを投げかけ広忠の力を全て奪ってしまう。
 広忠は見えない鋼の糸で魂をかんじがらめに絡め取られたようになり、うっとりとそいつに見惚れる。長く黒い髪、白く透ける肌、艶やかな瞳、愛くるしい唇、そして暖かいいたわり。
 いや、そうではない。あの姫には、今まで力づくでものにしてきた女達にはない、広忠を引きつける何かがあるのだ。何より不思議なのは、美しい容貌を細かいところまでくっきりと思い出せるのだが、そういう外見は実はあの女自身からすればたぶんどうでもよい部分なのだ。広忠はそのことを直感した。
 あの姫の実である部分はまったく外見と違う別の何かだということをしきりに感じるのだ。その正体不明のものが強烈に広忠を惹きつけるように思える。

「まったくわからん」
 広忠はあの姫が巻いてくれた絹布を撫でながら何度も溜め息を吐いた。

「まったくわからん」
 思い返してみると、あの家で姫に出食わした時から広忠はおかしかったのだ。
 騒がれなかったからよかったものの、姫を見た瞬間、広忠はすっかり見惚れてしまってしばらく声も出せなかった。
 だが、それはひと目惚れとは全く違っていた。
 広忠はあの時に待っていたのだ、あの姫の目に怖れが浮かび、顔じゅうの肌が強張る瞬間を。だがあの姫は自分に少しも怖れを見せなかった。
 だからあの瞬間から広忠はおかしくなってしまったのだ。
 そのうえ忍び込んだ家で騒ぎそうな女を殴りもせず、手篭めにもせず、果てはその脇で前後不覚に眠り込んでしまうという間抜けたことなど、以前の広忠には全く考えられないことであった。

「まったくわからん」
 広忠は、また姫の面影に向かってふうーと溜め息を洩らした。
 ふとあの姫を手篭めにすることを考えてみた広忠は慌ててその思い付きを払いのけた。
 今の広忠は己れの肉欲を満たすだけでは、この不思議な感情が満ち足りるとは思えなかった。もしそんなことになれば、さすがにあの姫も涙を流して広忠を罵るだろう。
 あの姫の涙、それは今や広忠がこの世でもっとも見たくないものとなっていた。そしてなぜ密告しなかったと問う広忠を「寝顔が童子のようにろうたげでしたゆえ」と答えた時の姫の微笑みこそ、広忠がこの世で一番欲しい宝なのだ。

 広忠は不意に悟った。
 かつては、女どもを怖がらせたり泣かせたりして面白がっていたが、実は広忠の心はそこにあるのではなかったのだ。自分を恐怖の相手ではなく、一人の男として正面から見据えてくれる女を探し求めていたのだ。だが、大きすぎる体といかつい顔がいつもそのかすかな期待を全て打ち砕いてきた。
 だが広忠はあの姫に出会ったのだ……広忠を怖れることを知らぬ姫。
 もしかしたら、あの姫こそが広忠の求めていた女なのかもしれぬ。
 そこで広忠は口に出してみた。

「わしは、あのおなごに惚れた」

 そう言って広忠は、ふふふっと一人で照れた。
 今、広忠の心は、男と女が真に心と心を通い合わせた時だけに掬える胸の奥底にある何かを、あの姫の輝く微笑とともに掴むことを熱烈に求めている。
 凶悪で知られた怪盗広忠も二十路を半ば過ぎて、ようやくまともな恋を知ったのである。

 広忠は、姫に美しい布でも贈って好いたことを告げようかと考え付いたが、姫の答えを考えると、わだわだと胸を震わせた。
 こちらが姫を好くのはよいとしても、あちらの美しい姫が凶悪な怪盗のこちらを好く筈はなかろう。それはさっき追い出した侍女も言ってた通りだ。

 密告こそしなかったが、「悪事をやめろ」と言い出す気の強そうな姫なのである。
 広忠を怖れはしない。だからといってそれは好いてるということではないだろう。
 
 いやしかし、俺の寝顔を「ろうたげ」と言うたな。それは少しは脈があるということではないのか? 脈があるからこそ告げ口せずにいてくれたのではないのか?
 かすかな希望を繋げて自分に都合の良い姫を思い浮かべるが、侍女の声がそれを打ち消す。広忠様は恐ろしき人殺しの悪党です、姫と恋が叶う道理なぞ、どこをどう逆さにしても出てまいりませぬ。
 それがまともな考えというものだ。

 きっと、広忠が口説いたら、その時こそあの姫は自分の嫌う気持ちを、はっきりと正直に言って寄こすに違いない。
 今の広忠には、それが何よりもたまらなく恐ろしいのだ。
 分厚い胸板の毛を掻き毟った広忠は、火にかけていた猪の丸焼きを持ち上げると渓谷の奥深く投げ飛ばした。
「うおおーっ」
 広忠は熊も怯えるような怒鳴り声を上げた。

 こんなわけで広忠は姫に言い寄る勇気はないものの、あの麗しい姿をひと目だけでも見たい気持ちは次第に昂まり、狩りや強盗仕事の合間にちょくちょく出掛けては生け垣越しに姫の部屋を覗いてみた。
 しかしなかなか姫の愛くるしい姿を拝むことはできない。
 姫を見れない代わりに、広忠と同じ目的の男たちが垣に張りついているのに出食わすことはあった。
 しかも、その男どもの数は次第に増えてゆくようなのだ。
 そんな折、広忠はこいつら叩き斬ってやろうかと荒ぶる気持ちを起こすのだが、一方で、いやいや、そんなことをして、もし姫に知れてしまったら、ますます嫌われてしまうぞと気付いて思いとどまり、そっと身を隠すのが常であった。

 

第四章 怪盗の妻問い

 
 
 ある晩の真夜中、寝つけない広忠が山の頂きに出てぼんやり虫の歌を聞いていると東の山並みにようやく月が昇り出た。半月であった。
 溜め息を洩らし、姫のことを想いながら月を眺めていると、昔、笑い飛ばした話にあったように、本当に半月が姫の横顔に見えてきた。
 広忠はむしょうに姫に逢いたくなった。
 己れのような野暮ったい悪人が恋を打ち明けたら気丈な姫は笑うかもしれない。さらにすがりついて口説こうとしたら、お前のような凶悪な化け物など嫌いに決まってますと断られるに違いない。
 その時は、太刀で自分の背を突いて胸を破り、そのまま姫の胸から背まで突き通して、二人串差しにして無理死にしよう。
 そんな凄まじいことも考えながら、広忠は盗み貯めてある美しい布地から五本ほどを背負うと姫の家に急いだ。

 広忠が姫の家の垣に近づくと、まだ帰らぬ男が一人立って生垣を覗いていた。
 広忠が近づいて、でかい手でその男の口を塞いで睨みつけた。
 月明かりの下で突然に髭ぼうぼうの大男に睨みつけられたらたまったものではない。
 広忠がその男の手を口に運んでやると、その男は自分の手で口を押さえたまま、走って逃げ出した。

 生垣から姫の部屋を覗くと、運よく蔀戸しとみどが開け放たれ、姫が空を眺めている。
 その黒髪の細やかな線を束ねて月光を宿す輝き、空を見上げる瞳の潤んだ艶やかさ、頬からうなじへかけた柔肌の仄かな目眩ゆさ……広忠は久しぶりに目にする姫の、追憶を裏切らない美しさに感激した。
 しかし、声をかける決心まではつかぬまま、もう少し近くで姫の姿を見ようと、広忠は音も立てずに生垣を飛び越えた。
 そして庭の植え込みのもとに潜んだ。

 不意に姫は目を閉じ、青竹色のあこめの袖から半分ばかり覗く白魚のような手を揃え合わせて何事か神仏に祈り始めた。
 微笑んでいる顔もよいが、真剣に祈る姿もまた凛々しい美しさがあった。広忠は仏像なんぞじっくり見たこともないが、女菩薩という仏像はきっと姫の祈る姿に似ているのだろうと思った。

 姫は合掌したまま、目を開いて呟く。
「まことに、あの盗賊は今頃どこにおるのでしょう。
 また悪事などはたらいておらねばよいが」
 広忠は姫の言葉に我が耳を疑った。
 このあたりは裕福な家もない山奥だ。そうそう盗賊が稼ぎに来るような土地とは思えない。とすると姫の言う盗賊とはこの広忠のことに違いない。
 ということはだ、姫はこの広忠の身を案じてくれているのだ。
 これは見込みがあるかもしれんぞ。

 込み上げる喜びに広忠は胸を熱くした。
 もちろん身を案じたからといって好いてるという話にはならないのだが、久しぶりに姫に会えただけで舞い上がり、自分を案じているというので、さらに舞い上がった広忠にはそんな理屈はどうでもよくなっていた。
 すぐ大声で返事をしてやろうかとも思ったが、それではきまりが悪いので、広忠は垣の外に一旦そっと跳ね出た。
 そうして、姫が和歌をひとつロずさんだ直後に、わざと大きな音を立てて飛び降りてみせた。

 姫はびっくりして身を引きかけたが、すかさず広忠が小声で言う。
「俺だ、この間の約束通り土産を持って来てやったぞ」
 そう言うと、姫は安堵して徴笑みを浮かべた。その微笑みに広忠は蕩けそうな幸せを感じた。
「ちょうどそなたが悪事をはたらいてないかと案じていたのですよ」
 姫にそう明かされ見詰められた広忠は嬉しさに赤くなりながら縁のすぐ際に近寄って言う。
「そのように案じられては、こっちの仕事にけちが付くじゃねえか」
「まあ、悪事がなんで仕事でしょうか、のちのち罰を受けるのは、よいですか、そなた御自身なのですよ」
 そう言われると広忠はむっとなったが、それは腹に納めて背中の荷物を開いてやる。
「少ないがちょいとした代物を持って来たぞ」
 広忠が布地を出すと、梔子くちなし色、東雲色しののめいろ撫子色なでしこいろ秘色ひそく勿忘草色わすれなぐさいろが川のように広がった。月明かりの下でもその布の色鮮やかなことはひと目でわかる。
 広忠はさぞかし喜ぶだろうと考えながら姫の様子を伺った。

 案の定、姫は「なんと素晴らしい……」と呟いた。
 だが、すぐ次に愛くるしい唇から発せられたのは広忠に対する非難の言葉だ。
「そなたは他人様からこのような高価なものを盗んで平気なのですか?」
 姫に睨まれると、広忠はうかつに地面に跳ね出てしまった鯉のようにあたふたと口を動かした。
「どうなのです?」
 姫に問い詰められた広忠は出任せを言った。
「あ、いや、これは盗んだものではない。そ、そう、都で買うたものじゃ」
「そうですか。
 ならば、絹を買った代金はどこで手に入れました?」
 姫にさらに問われると再び広忠は出任せを言うた。
「そ、それは、蒔絵などを売ってだな、金に換えたのだ」
 姫は頷いて問う。
「では、その蒔絵はどこで手に入れました?」
 広忠は焦りながら答える。
「そ、それはだ、そう、余ってる刀などを売ったのだ」
「では、その刀はいつどこで手に入れました?」
 姫がしつこく問い質すので、広忠は言い逃れをあきらめて開き直っだ。

「もうよい、ああ、たしかにその絹は盗んだものじゃ。
 そんな恐い顔をするな」
 姫は真正面から広忠を睨んでさらに詰問する。
「そなたは物を盗むだけでなく、もっとひどい、口に出すのも憚かられることをなすとか。あの夜、そなたを捕らえに来た役人が父上に申していたそうです」
「それは向かってくる者から身を守るためじや、好きでしておるのではないぞ」
 広忠の答えに姫は嘆く。
「そなたの親がそなたの悪事を知ったらなんと思われることでしょう。
 親の心を考えてみたことはないのですか?」
 その言葉は広忠の顔を斜に構えさせた。
「ふん、親など知ったことか。
 俺はな、生まれて間もなく、その親の手で川に流されたんじゃ。
 それがどういう運のめぐり合わせか川下で橋のたもとにひっかかり、線香臭い糞坊主に拾われて育ったんじゃ」
 広忠が身の上を明かすと姫は「えっ」と言ったきり絶句した。
「だからのう、俺には殺してやりたい親はいても、人並みに慕いたいような温かい親はいねえんだ」
 広忠はそう言って、唾を吐き捨てた。
 姫はあこめの袖を目元に運んだ。
「そなたには、そのような辛い出来事があったのですか」
 姫は広忠の身の上につまされて涙声になっていた。

 しかし、続く姫の言葉は意外なものだった。
「実は、かく申す私も捨て子なのです」
 姫がそう打ち明けると、今度は凶悪怪盗広忠もあっと息を呑んだ。
「ほ、本当かよ?」

「はい、先の都遷りの頃、長岡京の朱雀門すざくもんの脇に置かれていたそうです。
 その頃養父は郡代官をしており御用で、門の新京移築に来てたまたま見つけてくださったのです。
 養父は四十路になりながら、子供に恵まれずにおりましたから、私のことを神よりの授かりものと思いなし、喜んで引き取り育ててくださいました。
 その時、私の傍らには手鏡ひとつと、着物の内には砂金の袋もあったそうです」
 姫が言うと、広忠は愛しい姫の生い立ちにうなづいた。
「それはきっと高貴な奴が、訳ありで捨てたんだな」
「今は、この丹波の山に住んでおりますが、養父の先祖はもともとは讃岐の豪族の出でしたから、その流れの女神様の名を勿体なくも私につけてくださり、母様は私を我が子のように大事に育ててくださいました。
 おかげで、今は立派な殿からもいろいろとお誘いいただくのですが、呑気にかまえるたちの私は、まだどなたもお迎えしていないのです」
 通い婚の時代であるから、姫が家にこもっていても夫がいないとは限らない。今の姫の言葉で、広忠は安堵して喜んだ。
 だが、次に口をついたのはふてくされた言葉だ。
「なるほど、捨て子は捨て子でも、悪がきは悪の道、砂金持参の姫は姫の道、運命は変わらぬもんだな」
 姫は言う。
「親の顔を知らぬ捨て子という点では一緒ではないですか。それがどんなに寂しいことかは私たちにしかわからぬでしょう。その後はお寺で育ったのですか?」
 そう聞かれて広忠は話を継いだ。
「うん、まあな。だが糞坊主はやたらとわしに経文を教えたがるのだが、わしの耳は経文が大嫌いでな。そこで商人の家に奉公に出され馬の世話をしていたんじゃ。
 じゃが、その家に盗賊が入っての、体の大きいのが気に入られてわしは盗賊の仲間にさせられたのだ」
「わかりました。そなたの悪事は盗賊仲間にされて身についたもので、やはり元々は悪人ではないことがはっきりしました」
「それはどうだかわからん。ある時、馬が脚に怪我をしての、しばらく休ませれば治る怪我だったのでわしは親方にそう言うたのだ。するとわしは遠くに使いを頼まれてな。そうして帰ってみると馬の姿がなかった。聞いたら誰も教えてくれん。そこで気の弱そうな奴を問い詰めたら、みんなで食べてしまったと答えたのだ。わしは許せなくなりその一味を親方子分全員を殺して一人盗賊になったのだ」
 広忠が言うと、姫は頭を垂れて「なんということでしょう」と震え出し打ちひしがれた様子だった。

 広忠は姫には受け入れがたい話なのだと悟った。
 もしかしたら馬を殺して食べたあいつらが悪いと納得してくれるかと思っていたが、やはり嫌われたのだろう。
 しかしだからといって無理死にしようなどという気持ちはなぜか起きなかった。

「わしはこれからも悪党のまま悪事を重ねてゆくしかないようだな」
 広忠がそう言うと、姫が顔を上げた。
「そのような言い方はよくありません、
 運命の惨い仕打ちがそなたを悪の道に導いたので、本当のそなたの心根は清いのです。
 たとえ親の顔は知らなくても、そなたも悪事を慎み、ひたすら魂を磨けば必ずや尊い人物になれるのですよ」
 姫は涙声に力を込めて諭した。

 広忠は、さっきは姫が同じような身の上だと言うのを違うと言い切って姫と考えが噛み合わなくなったが、そこをうまく言い変えればよいとようやく頭がまわった。
「尊い人物なんぞなりたくもねえが、親を知らない姫とわしは、ほれ、なんだ、同じ穴の熊かもしれねえな」
「はあ?」
「いや、熊がいやなら同じ穴の狸でも、同じ穴の猫でもいいんだぞ」
「ほほ、面白いたとえですね」
 姫が笑うと、広忠は姫の心をとらえたように錯覚して、ここで一気に口説いててみようと決心した。
「ところで、あのだな」
 言い出して広忠は喉で息がもつれてしまった。
「ひ、姫に、ち、ちょいと尋ねたいことが、あ、あるんだが」

 突然、どもりながら切り出す広忠を、姫は何事かと見詰める。
「どんなことでございますか?」
「わ、わしが、ひ、姫のもとに、か、通うてはいかんか?
 わしが、ひ、姫のお、おっ、夫ではおかしいか?」
 広忠の突然の求婚に、姫は頬を仄かに染めた。
 姫はなにやら考えているのか、言葉を選んでるのかしばらく間が開いた。

 広忠は気が気でなくて「どうじゃ、どうじゃ」と催促する。
 ようやく口を開いた姫は答えるのではなく聞き返した。
「もし、断ったらどうされます?」
「その時はだ……」
 と息を詰めた途端に(その時は姫を道連れに串刺しにして死ぬまでだ)という脅し文句はとうに引っ込んでいて、代わって広忠がしたのはみっともない懇願だ。
「姫の考えが変わるまで通いつめるまでじゃ、
 なあ、俺の願いを聞き届けてくれ。
 そもそも顔を俺に隠さんということは、俺に気を許してるという意味ではないか、
 俺の妻となってくれえ」
 広忠は表情の微妙な変化のひとかけらでも見逃すまいとじいっと姫の顔を凝視めた。

 ふと風が気まぐれにやんで、しばらくの間、虫の声か高鳴るように響いた。

「よいでしょう」
 姫の声がすると、広忠は大きくまばたいて聞き返す。

「い、今、なんと言った?」
「よいと言いました、そなたの妻になりましょう」
 広忠は信じられない心地で聞き返す。
「ほ、ほんとうに?
 いやではないのか?」

「いやと言ってほしいのですか?」
 姫が悪戯に言うと、広忠は慌てた。
「だ、だ、だめじゃ、言い直したらいかん。姫はわしの妻になるのだ」
「ええ」
 姫は領き、「その代わり」と続けた。
「今後は悪いことをしないと約束してください。
 約束できないなら妻にはなれません」
 決然とした姫の言葉だったが、思いがけない奇蹟に広忠は狂喜しそうな勢いだ。
「姫が妻になってくれるなら是非約束したいが、体に染み付いた天職じゃ、なかなかきっぱりとは断ち切九ねえかもしれん。
 だが八百万の神に誓って、いつかはきっぱりと足を洗うから、当面はそれで許してくれねえか?」
 姫は広忠の答えに溜め息を洩らしてから頷いた。
「いつかとは甲斐性のない約束ですね。
 でも、そういう答え方がまた、そなたの正直さの顕われなのかもしれませんね」
 広忠は縁に上がり蔀戸を越えると、姫の袖を捉えて手を探った。
 探し当ててみると姫の細い手はかすかに震えている。
 しかし、次の瞬間、姫は広忠の腕の布に気付いて笑った。
「まあ、その腕の絹が真っ黒ではありませんか。そんなになるまでつけっ放しだったのですね」
「ああ、これか、これは利き腕だから自分ではうまく換えられん。姫にまた換えてもらおうと思ってのう」
「はい、わかりました」
「俺は広忠じゃ。姫の名は?」
 広忠が囁くと、姫は恥じらいながら答える。
「かぐやと申します」
「おう、かぐやか、よい名じゃ、よい名じゃ。
 俺は先日逢うて以来、かぐやの面影が忘れられず胸の焦げる思いだったぞ。
 こんな俺だが、かぐやにだけはやさしい心持ちになれるんじゃ、安心しろ」
 そう言って広忠かぐやの肩を抱き寄せたが、自分の力でかぐやの体がつぶれたり折れたりはせぬかと心配しながら少しずつ力を込めた。
 かぐやは過去に抱いたどんな女よりも柔らかい肌をしていた。最初その温もりは真夏の賀茂川の温さだったが、やがて焚火のように温度を上げて過去に抱いたどんな女よりも熱い肌になった。
 広忠は好き合った同士で肌を合わせるという初めての幸福に酔い痴れた。

 
 

第五章 求婚者たち

 

 かぐやと契る前の広忠は、溜め息とともに喉の奥から洩れ出て来る怪物に押しつぶされそうであった。
 それが、今や、運命の神のお蔭か、はたまた運命の手違いのせいか、かぐやと契るという奇蹟を掴んだ広忠は怪物を追い出した代わりに、新たな病に盗り憑かれていた。
 そいつは広忠が目を斜め上に向けるや、すうっと忍び込む病で、そうなると広忠の目は正面に戻っても眼前の風景ではなく、風景の向こうに透けて見えるかぐやの眩しい微笑みを見詰めたままになるのだ。

 そいつはいつでもところかまわず襲ってくる。
 今も、広忠は油を商う店に強盗に入って主を脅したところだったが、主が床下に隠している壺から銭を取り出す間に、そいつが襲ってきた。
 そうなると不気味な独り言が洩れ出るのである。

「へへへ、かぐや、おまえは可愛いのう」
 広忠は口を指が四本入るぐらいの大きさに開いて、にやけて緩んだ唇の端からは、だらしなくよだれまで垂れ出す始末である。
「ははは、かぐやに、だんな様などと呼ばれるとこそばゆいのう」
 脅された主は、あらぬ方に向いて、にやにやと独り言を洩らす広忠を不気味に思いながらも、しかし、そこは気まぐれに襲われたらひとたまりもない身の上、広忠のごつい手に銭の袋をしっかりと握らせると「どうかこれでお勘弁を」と頼み込むのであった。
 すると、広忠はにやけた顔のまま、おとなしく店から立ち去るのである。
 

 一方、かぐやはどうしているかというと、広忠と契ったといっても老父母に怪盗を夫にしたなどと打ち明けたら、二人の心臓がひっくり返って引き攣って凍ってしまいかねない。
 だから絶対に打ち明けるわけにはいかない道理である。
 秘密である以上、当然ながら姫に求婚する者が減ることはなかった。

 老父母にしてみればとっくに子供をあきらめた身に、突然、神からの授かりもののように拾ったかぐやが可愛くて可愛くてならず、かぐやの煮えきらない態度と相まって、なかなか姫に婿を迎えようとせずに来たのだった。
 しかし、三年ほど前から体が疲れやすく足腰の無理がきかなくなってくると、父母はようやく老い先が長くないと悟り、すると急に『子の次は孫を』の気持ちが勝ってきた。

「なあ、かぐやよ」
「是非に聞いてほしいことがあるのです」
 老父母は夕餉の席で改まって姫に向かった。
「なんですか、父上、母上」
「おまえは、まだ髪をあげたての娘のように若々しく美しいことです」
「我らも若返る思いで嬉しい限りなんじゃ」
 かぐやは黙って袖で顔を隠して羞じらう。

 父親は顔を崩して照れながら切り出した。
「しかし、どうじゃ、かぐやも、そろそろ夫を迎えては?」
 大きな袖のこちらで、かぐやは顔を強張らせた。
 母親も笑顔で父親の後押しをする。
「かぐや、そうなさいな。
 いくらなんでももう結婚なさる年齢ですよ」
「先月は国の司まで訪ねて来たのだから、相手に不足はあるまい。
 どうだ、国の司を婿にしては」
 そう勧められても、かぐやは押し黙った。
「どうしたの、急に勧めたから驚いたのね」
 母は姫の気持ちを慮って聞くが、かぐやは首を振る。
「いや国の司でなければならぬというわけではないのだ、他の者でもよいのだ。姫が一番よいと思う方を早う夫に早く迎えなさい」

「父上、母上のお勧めは大変ありがたく思います。しかしながらかぐやはどなたもお迎えしたくありませぬ」

 かぐやの頑くなな言葉に父母は苦笑する。
「ははっ、またそのように童女の台詞を言う」
 母は笑みを絶やさずに姫に諭す。
「かぐや、よいですか。
 女というのは年頃になれば殿方を恋し、迎えるのが自然なことなのですよ、
 そして恋の行方によって悲しみを知り喜びを知り、玉のような子供を授かり、この世の幸せというものを知るのです。
 それに良い殿方を迎えるのは娘の親孝行ですよ」

 しかしかぐやは伏して言う。
「お許しください、かぐやは婚ぎません」
 親に一瞬も目を合わせず拒絶するかぐやに、母親はどこか異様な気配を感じて聞いた。
「姫は、もしや、親に内緒で誰かと契っているのではないですか?」

 かぐやはびくっとして息を詰め、顔を左右に小さく揺すった。

 そんなかぐやに父母はにこやかに言う。
「もし、そうなら、それはそれでもよいのよ、
 ただ、きちんと私達にその方を紹介なさいな」
「ああ、相手は誰でもよいのじゃ、
 我らは、お前の産んだ可愛い孫を抱かせてもらえれば、それだけでこの上もなく嬉しいのだよ」
「契った人がいるなら正直に仰いな」

 そうは言われても極悪非道の怪盗広忠が相手だと答えたら、仲を裂かれるのは火を見るよりも明らかだ。
 かぐやは背筋を昇る震えを押し止めると、強い口調で言い放った。
「そんな相手はおりませぬっ!
 吾を、親に隠れて男と契るような娘とお思いですか!」
 老父母は、かぐやの怒りに驚いた。
 それまで見たこともない、かぐやの、ぎらりとした瞳の光が、恋しい男を守る女の刃だとは、とんと気付かず、老父母はあらぬ疑いをかけたことを重ねて謝り、縁談の話題を取り下げた。

     ◇

 とはいえ、父母は折りにふれてかぐやに熱心に縁談を勧めるようになった。
 しかし、密かに広忠と契っているかぐやはその都度、にべもなく父母の願いを断る。
 そんなやりとりが幾度か繰り返されるうち、いよいよかぐやの美貌の噂が高まり、色好みの都の殿上人までが次々と求婚に訪れるようになっていた。

 昼下がり、広忠はかぐやの家に向かう途中、道で牛車にすれ違った。
 牛車の中からかぐやに振られた殿上人なのだろう、憤慨の声がする。
「まろが文も受け取らぬとはたいした礼儀よ。
 どれほど美しいかは知らぬが、たかが思い上がった田舎娘ではないか」
 そう言うと、なぜか節をつけて歌い出す。

「くたびれ損とは丹波のかぐやよ」

 殿上人の牛車を尻目に、広忠はかぐやの家のそばにたどり着いた。
 すると広忠は家の垣から数十歩離れた茂みに向かう。
 そして、巨体の広忠でもひと抱えある大きな岩を持ち上げてずらした。
 すると中には竪穴があり、その中に広忠は入ると岩を持ち上げて竪穴に蓋をすると手探りで横に進む隧道に出た。
 姫を案じる老父母や、熱心に垣に貼りついている男達に見つからずに通うため、広忠は怪力にものを言わせ、その岩の下からかぐやの部屋の床下まで地下隧道を掘って、そこからかぐやの部屋に出入りしていたのだ。

 広忠がいつものように床板を上げかぐやの部屋に這い上がると、かぐやは格子も妻戸も固く閉ざした部屋で紙燭の明かりを灯して眩ゆい鏡を眺めて物思いに沈んでいた。
「かぐや、また鏡を見ているのか」
「まあ、広忠様、いつの間に?」
「たった今さ。
 床板を外す音にも気付かねえとは、よっぽど物思いに耽っていたんだな」
 広忠が言うと、かぐやはうなづいた。
「ええ、ちょっと心配事になりそうなのです」
「それにしてもいつ見ても見事な鏡だ、
 紙燭の僅かな光を朝日の如く変えるのだからな。
 ちょいと見せてくれ」

 広忠はかぐやから鏡を借りると己れの髭面を映してみる。
 かぐやの美しさの対極にある、己のいかつい凶悪な顔を眺めていると、今まで何度もかぐやにぶつけてみた疑問をまた持ち出した。

「かぐやよ、どうしてお前は俺のようなひどい悪党に身を許す気になったのだ?」

 広忠がそう問いかけるとかぐやは頬を染め微笑んで答える。
「当の男女に恋の理由などわからぬものです。
 宿縁と言うより他はないでしょう。
 それに広忠様は御自分で思われるよりずっと良い方です、かぐやが言うのですから嘘ではありません」
 そう言われると広忠は決まって嬉しいような、それでいて何か恐いような不思議な気持ちになるのだった。どうしてそのように感じるのかはわからない。
 それ以上問うことも思いつかないから、広忠は鏡をかぐやに返した。
 かぐやは黙って眩しい鏡を巾着袋にしまう、そのいつになく沈んだ様子を見て広忠は尋ねる。

「ほいで、かぐやの心配してるのは、どんなことだ?」
「はい、実は都の貴びとが何人か求婚してきて、父上も母上もたいそう乗り気なのです」
「そういやこの家の前に、牛車が数台止まっていたな」
「ええ、今、その五人の貴びとが揃って向こうで父母と話をしているのです」
 姫が言うと、広忠はどんな奴らか見たくなった。
「ちょっと覗いてよいか?」
「こっそり覗くだけならよいですが、決して飛び出たり、怒ったりしてはなりませんよ。
 もしなさったら、広忠様とのこと考え直しますよ」
「心配するな、こう見えてもわしはかぐやの言いつけは守るでの」
 広忠が戸板を指一本分だけ開くと、老父母の背中と、その向こうにあでやかな着物の貴公子が五人座っているのが見えた。

 広忠はかぐやを振り向き囁く声で言った。
「なんて気味悪い奴らだ。男のくせに、女みたいな鮮やかな色の衣を着てやがる」
「し、静かに、声を立てないで下さい」
 かぐやに注意されて、広忠は黙って話に聞き耳を立てた。

 貴びとは、大伴皇子おおとものみこ葛原皇子かずらわらのみこ、左大臣藤原園人ふじわらそのひと、大納言春日御行かすがのみゆき、中納言菅原麻呂すがわらのまろの五人である。
「のう、ここに集うた我ら五人より高き位の者が訪れることはなかろう」
 一番左に座っている大伴皇子が言うとかぐやの父はかしこまった。
「まったく畏れ多いことでございます」
「ここで我らが争うとまことの戦になってしまうが、それは賢いこととは言えぬでの。
 そこでじゃ、姫に我ら五人から一人を選ばせるがよい。
 姫が誰を選ぼうとも、我らはその一人に姫を譲るのだ」

「ははあ、畏れ多くも賢い約束でございますな」
「皆もそれでよかろう?」
 大伴皇子が横を向いて言うと、葛原皇子がかしこまる。
「まことに大伴皇子様のお考えはご賢明です」
 すると、その隣の左大臣藤原園人がかしこまる。
「まことにお二方の皇子の尊いお考えは争いを避ける手本と心得ました」
 大納言春日御行、中納言菅原麻呂も平伏して同意する。

「では、それぞれ歌をしたため、姫に贈るといたそう」
 大伴皇子が言うと、五人の貴びとは短冊と携帯の墨を取り出し、しばらく考えながら歌をしたため、かぐやの父に差し出した。
「では、姫に見せて参ります」
 かぐやの父が、こちらに歩いてくると、広忠は慌てて几帳(きちょう)の陰に隠れた。
 
    ◇

「姫よ、入ってもよいか?」
「はい」
 かぐやは扇で顔を隠して答えた。
 戸口の向こうではなんとか顔を拝めないかと貴びとが首を伸ばして、かぐやの方を覗いている。
「あちらの偉い方々から歌を賜った。早速返事をしなさい。但し、一人はそなたの夫として迎えるように返事を差し上げなさい」
 するとかぐやは困った顔をする。
「父上、急に言われましても、私のような田舎の娘に、すぐに立派な歌を返すのは無理がございます。ここは三日ほど日にちをいただいてくださいませ」
「しかし、ここまで来ていただいたのに」
「私の一大事です、いずれも立派な方ばかりゆえ、軽はずみにお答えは出しかねます。
 しっかり時間をかけて思案させてくださいませ」
 かぐやは扇で顔を隠したままお辞儀した。

 父は小さく溜め息を吐くと、戸を閉めて、貴びとの前に戻った。
  
    ◇

 「大変、申し訳ありませぬ。
 姫が申すには、いずれも立派な方ばかりなので、軽はずみにお答えは出しかねるゆえ、しっかり考えてみたいとのことで、三日のご猶予を賜りたいと申します。
 都に上がったこともない田舎娘ゆえのわがまま、お聞き届けください」
 
 五人の貴びとは一斉に頷いた。
「それは無理もないことじゃ、皆のもの、よいな」
 大伴皇子が言うと、葛原皇子が「しかるべく」と答えた。
 続いて左大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂がこだまのように答えた。
「然るべく」
「然るべく」
「然るべく」

「では名残り惜しいが今日は帰るといたそう」
 大伴皇子が言うと、葛原皇子が「帰るといたしましょう」と答えた。
 続いて左大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂が答えた。
「帰るといたしましょう」
「帰るといたしましょう」
「帰るといたしましょう」

 大伴皇子が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり下がると、葛原皇子が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり下がった。
 続いて左大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂が左足を立て、右足を立て、くるりとまわり出て行った。
 かぐやの父は平伏したまま見送った。

 広忠はもったいつけて退出してゆく貴びとを戸の隙間から見て呟いた。
「あほくさい奴らだな、まとめて俺が叩き斬ってやろうか」
「なんということを言われますっ」
 かぐやが怒ると広忠は笑った。
「冗談、冗談だ」

「かぐやが困っているのに冗談など言われますか」
 かぐやはそう言って袖を顔に運んで泣くふりをしてみせた。広忠は姫の肩を抱いてあやまる。
「悪かった、かぐや、泣くな」

    ◇

 かぐやは五本の短冊を眺めて溜め息を吐く。
「五人の方、どなたも選ぶわけにはいきません。
 どうやって断ったらよいものか」
「そんなこと、たやすいもんじゃ」
 広忠は任せておけとばかりに己れの胸を叩いた。
「よい思案がありますか?」
「うむ、俺と手合わせして勝てば姫と逢わせるというのはどうだ、真剣が危ないというのであれば木刀で構わないぞ。誰も俺に勝てる筈がないから安心だ」
「広忠様、そんなことをしたら大騒ぎになります」
「駄目か?]
「ええ」
 かぐやはそう言ってから首を傾げた。
「ただ広忠様の思い付きのままではいけませんが、五人の方々に何か無理難題を出すというのはいいかもしれませんね」
「無理難題というと、どういうことじゃ?」
 広忠は、かぐやに聞き返した。

「たとえば優曇華うどんげの花のように、噂には聞いてもこの世にありそうもない物を持って来たら、その方の妻になると言うのです」
 広忠は感心して笑みを浮かべた。
「なるほど、それなら、あの腑抜けどもに姫を取られる心配もないな。
 姫は形がいいだけじゃなく、おつむもよいのお」
「では無理難題を出すとしましょうか」

 かぐやはにっこりと領いて言った。
「さて、そうと決まると広忠様にお願いがあります」
「なんじゃ?」
「高雄山寺に唐土帰りの偉いお坊様がいると聞きます。その唐土はおろか、はるか西にある赤き肌の国の昔話まで通じて知恵は本邦第一だそうです。
 広忠様は、その方のもとへ行って、この世にありそうで絶対ありえない珍品を五つ聞いて来てください。
 その五つの珍品を五人の貴びとに出題することにいたしましょう」
「なるほど、わかった。
 高雄山寺の坊様に聞けばよいのだな」」
「偉い方なのですから間違っても乱暴な真似をしてはなりませんよ」
「わかった、わかった」
 広忠は相槌を打ちながらかぐやを抱き寄せた。
 だが、その坊様を守るため唐土からついてきた妖術使いの僧がいることはまだ知らなかった。

 

承章 高雄山寺

 
 
 
 夜、広忠は京の都の北西、山間を流れる小川の橋を渡った。そこから山側に向かって石段を登り始めると梢に満月に近い月がよぎった。
 石段を登り詰めると広場がありさらに先に横幅のある大きな石段が控えている。この上が高雄山寺である。当初、和気清麻呂が戦勝祈願のために河内に神願寺、山城に高雄山寺を建立したのだが、時代が下って神願寺が失われためなのか高雄山寺は神護寺と名を改められることとなる。

 広忠は石段を登り詰めたところで何か異様な気配を感じた。といっても広忠は格闘を修行した経験があるわけでもない。図体の大きさと腕っぷしで体格の劣る者に勝てて来ただけである。だから気配がどのような意図を発しているのかは全くわからなかった。
 広忠が出来たのはちょっと用心して近付く程度のことだ。
 そこには楼門があって、一階の両脇部分には御存知のように阿吽の口をした金剛力士像が左右に分かれて収まっている筈だが、今は月は出てるとはいえ金剛力士像の顔は暗がりに沈みよく見えない。
 広忠が二対の金剛力士の間に通りかかった時、突然声が響いた。
「こんな夜更けに何者だ?」
 広忠はてっきり金剛力士像に問い質されたのかと思った。
 すると金剛力士像の後ろから坊さんがするりと広忠の前に現れた。着物はだらりとしてるが足の部分はぴったりして股引きになってる。そして腕組みをした肘を前に突き出して威張っているようだ。

「わしは……」
 (怪盗三日月じゃ)と言いたいのを、ぐっと堪えた。堪えられたのは愛しいかぐやが何者かと問われたらこう答えなさいと教えてくれた想定問答があったからだ。
「私は木こりのヒロですだ、お坊さんは?」

覚空かくくうだ。何をしに門内に入ろうとする?」
「はあ、こちらに唐土帰りの偉い坊さんがいるからと言われ、質問をしに参っただ」
「このような夜更けに来てはならん」
「そうは言うても明日も早くに仕事に行かねばならんで、ここはお通しくだされ」
「大師様はもうお休みじゃ、帰れ」

「いや、それでは困る。すぐにも返事をもらわんと」
「明日朝一番で来ればよいだろう」
「そうもいきませんで、是非、今お聞きしたいで」
「お主はうつけか、もう寝たから無駄じゃと申しておる」

 腕組みの坊主がそう言うと、とうとう広忠は舌打ちして切れた。
「チッ、下手に出てりゃ威張りおって、こっちは急ぎだ、ちょっと偉い坊さんを起こしてくれればよかろうが。まだ邪魔するならこっちもお前を痛い目に遭わすしかないな」
 広忠は腰の太刀をサッと抜いた。
 月光に一本青白い線が闇に浮かんだ。
 たいがいの者はここで叶わぬとあきらめて、震えて逃げ出すのだ。

 しかし、腕組みの坊主は全く怖気づく様子がなくいよいよ腰を低く構えた。
「木こりには似合わぬ太刀だな」
「わしは怪我させたくないんじゃ、さっさと逃げるか偉い坊さんを起こしに行け」
 広忠が親切心で言っても動く気配がない。

「どけ、どかぬとカククウとやら、お前が怪我するぞ」
 広忠が剣先を一尺ほど振るとびゅんと風切る音がした。
「今の言葉、そのままお主に返そう」

「素手で刀にかなう筈がない、赤子でもわかるわ」
 広忠はかぐやの(決して暴力を振るってはいけませんよ)という言葉も忘れて思い切り覚空をめがけて刀を振り下ろした。
 だが、覚空は地面に吸い込まれるかのように仰向けに体を折ると、広忠が空振りした太刀を引き戻すのと一緒に地を蹴って高く飛び上がった。
 あっと広忠が声を漏らしたが、覚空は広忠の頭を踏んづけたかと思うと反動を利用して今度は後ろに高くバク転して間合いを広げた。

 広忠は踏んづけられた頭を触ると「おのれー」と血相を変えて叫び、跳びかかるようにして覚空に斬りつける。
 しかし覚空はすっと横にずれて交わした。
 広忠は今度は横に斬り払うが、覚空はぴょんと飛び上がり広忠の刀は覚空の足の下の宙を空振りする。
 広忠は慌てて斜めに斬り上げるが、今度は覚空は地べたにさっと尻餅をついて、広忠の刀は覚空の頭上を払うだけだ。
「もうわかったろう、お主がいかに太刀を振り回しても拙僧にはかすり傷もつけられん」

 そう言いながら覚空は腹の前で両手で空気の球をこねるような仕草を始めた。
 広忠はようやく慎重に攻め懸けようと考えついて、覚空の隙を探した。
 だが、鹿の如くに飛び跳ね、狐の如くに沈み込む覚空の動きに隙を見つけるのは難しい。
 覚空は練り始めた透明の球を胸の高さに持ち上げると、大きく一歩を踏み出して指の返しを効かせて投げ飛ばした。
 もちろん実際の球ではない。透明の空気の球である。
 しかし、それが腹に届いたと思われる時、広忠はまるで八人がかりで突く大鐘の突き棒を受けたかのようにドーンと後ろに弾き飛ばされて、途中で意識が真っ白になってしまい、広忠の大きな体が宙を五間も飛んで地面に着地した。
 
    ◇
 
 襖の向こうから覚空の声が聞こえて空海は瞼を開いた。
「大師様、恐れ入ります。仰せの通り山賊が一匹やって参りました」
「うむ」
「なんせ大男で若い衆五人に引かせてお堂の前に運んで来ました」
「見よう」
 空海は暗がりの中、薄い掛けものを取ると、侍僧が襖を開けて灯明をともした。
 着物を整えて、侍僧に先導させお堂の板戸を開けさせるとなるほど篝火に照らされて大きな山賊風情が気持ちよさそうに寝ている。

 覚空が広忠の頬を両手でつぶすように数回叩いて鋏むと、広忠は何を勘違いしたのか目を閉じたまま「かぐや、吸うてくれるか」と唇を突き出した。
「ええい、寝ぼけずに起きろ。お主の会いたがってた大師様がご覧だぞ」
 広忠はハッとして目を開いて首を紅潮させた。
 広忠を覗き込んでいるのはさっきのやたらすばしこい坊主だ。そして横を見ると温厚そうな丸い頭に睫毛が妙に長い壮年の坊さんが微笑を浮かべている。
 あはは
 広忠は照れ隠しの笑いを返しながら、こいつが唐土から帰ったという坊さんか、もっと歳が上かと思ったぞと考えた。

 広忠はかぐやの言いつけを思い出して素直に上半身を起こした。
「このような夜更けに止めるのも聞かず境内に押し入るとはまるで山賊のようだの」
 空海が恐れず言うと、山賊風情の広忠はかすかに頭を下げた。
「用があれば人の言うことは聞かない性分でな」
 空海は黙って広忠を見つめた。
「そのように見受ける。
 して何用かな?」

 広忠はかぐやの言いつけ通りに頭を下げた。
「この世にありそうで絶対にない珍品を五つばかり教えてほしいのだ」

 すると空海は口の微笑みをいよいよ笑いかけにした。
「見かけによらぬ、おとなしい用だの。
 如何なる仔細があって、そのようなものを知りたがる?」

 空海が尋ねると、広忠は額を太い指でこすりながら理由を説明した。
「俺には、表沙汰にできぬ、それは可愛い妻があるんじゃ。
 その妻がのう、都のアテびとどもに求婚されて弱り果てておる。
 そこで断る口実に難題を出したいと申すのじゃ。
 坊様は唐土にも渡った当代一の知恵者と聞く。
 どうか五つほど珍品を教えてほしい」
 広忠は懐から砂金の入った袋を取り出して空海の足元の床に置いた。

「待っておれ」
 空海は奥の部屋に戻ると墨をすり、紙に五品をすらすらと書きつけた。

 そして広忠に向き直ると紙を差し出して言った。
「ここに五つ、品を書き付けた。
 はるか吐蕃という土地の伝説の中にも、主人公の娘が難題の品を出しておるが、それを真似て書いてみた。特徴も詳しく記しておいたから役に立とう」
「これはありがたい。礼を申し上げます」
 広忠が礼を述べ、置いたままにされてる砂金を再び押し出すが、空海は戻した。
「代金は要らぬ、お前が妻と別れる餞別に取っておけ」
 広忠はカッとなった。
「俺が妻と別れるだと、どうしてじゃ?」
 広忠が聞き返すと、空海は礫のように言葉を投げつけた。
「そういう運命じゃ。お主はその妻と生き別れることになろう」
「な、なんだとお」
 広忠は逆上してさらに声を上げた。
 覚空が素早く空海の前に割って入る。
「なんて出鱈目を言いやがる、承知しねえぞ」
 そして太刀を、鞘から抜いて空海の肩先に突き出そうとする。
 覚空がそれを手のひらでぴったり挟んで、エイと気合を込めると太刀はあさっての方向に飛んでゆき地面に転がった。
 広忠は空海を睨みつける。

 しかし、空海の穏やかな目は広忠の怒気を吸い取るようだった。
「密教の法力で、お主の未来が見通せたのだから本当だ。
 妻の願いは、お主が、悪から清くまっさらに足を洗うことじゃろう、違うか?」
 空海にかぐやのことを鋭く看破され、広忠はうろたえた。
「そ、それがどうした、お、俺が悪から足を洗えないと言うのか?」 
 広忠は目の前の覚空の襟をぐいと掴んで凄んだが、法力の宿った空海の目はひるみもしない。
「すべては宿命ゆえあきらめよ、せいぜい悪事を謹んで淡々と生きよ」
 広忠は、なぜか胸の奥深いところを刺されたように感じ、しばし木彫の像のように動けなかった。
 
 

第六章 難題 

 
 
 
 広忠は走りづめでかぐやのもとへ戻り、空海の書いてくれた紙を見せた。
「どうじゃ、かぐや」
「ええ、さすがは弘法大師空海様、いい知恵を授けていただきました。
 広忠様もご苦労様でしたね」
 かぐやに礼を言われると広忠は唇をゆるめた。
「空海様は、他に何か言われてましたか?」
 すると広忠はあの言葉を思い出して、慌てて首を左右に振る。
「い、いや、なんも言うとらんぞ」
 かぐやは紙に見入って五つの品を誰に出そうかと考えて述べる
「大伴皇子さまには、仏の御石の鉢みいしのはちをお願いしましょう。
 これはお釈迦様が四天王の奉じた鉢を重ねてつくった鉢だそうです。
 葛原皇子さまには、蓬莱ほうらいの玉のをお願いしましょう。
 これは蓬莱山に生える輝く枝で、不死の薬の材料だそうです。
 左大臣藤原園人さまには、火鼠ひねずみ皮衣かわごろもを、お願いしましょう。
 これは唐土の伝説の火鼠からつくった衣です。
 大納言春日御行さまには、龍のくびの玉を、お願いしましょう。
 これは龍の頸の中にあり、口を開くと牙のところへ現れる五色の玉です。
 中納言菅原麻呂さまには、つばくらめの子安貝を、お願いしましょう。
 燕が誰も見ていない時にだけ産むという子安貝です。
 どうです、広忠様?」
 かぐやが微笑むと広忠は大きくうなづいた。
「おお、どうせ、いずれもこの世にないものじゃろう。誰も手に入れることはない。
 かぐやはわしだけの妻じゃ、そうだな?」
「ええ」
「いつまでもわしの妻だな?」
「ええ」
「それを聞いて安心したわ」
 広忠が強く抱きしめたので、かぐやは笑いながら言う。
「そんなに力を入れては息ができませぬ」
「ああ、すまんすまん、お前があまりに可愛いでの」
 広忠は安心して言った。

    ◇

 三日後、歌の返事をもらうため、再び、かぐやの家に五人の貴びとが集まった。
 かぐやは扇で顔を隠したまま、父の隣に座り、二人は深々とお辞儀した。
 広忠はこの前と同じようにかぐやの部屋の戸を少しだけ開けて、その隙間から五人の貴びとの顔を眺めていた。
 ふふふ、お前ら、誰一人として難題を手に入れることはないのじゃ。ははは、愉快、愉快、わしとかぐやの仲は苔の生すまで誰にも邪魔できんのじゃ。
 広忠はこのまま見物してたら愉快すぎてうっかり声を漏らさしそうな気がして手拭いで自分の唇を縛り付けて笑みを浮かべた。

 父が言う。
「わざわざおいでいただいて恐悦至極にございます。
 さて、五人のやんごとない方々に想いのこもった歌をいただいて、娘もたいそう感激しておりましたが、この中から夫一人を選ぶのははなはだ難しいと申します。
 そこで、娘の方から皆様に手に入れていただきたき物を申し上げ、それを手に入れた方を夫としてお迎えしたいなどと、心得違いを申します。
 父の私から見ても生意気この上ない態度で、これはもう私が娘の躾けを誤ったために相違なく、申し開きもございません。
 こんな田舎者の娘の世迷言に気を悪くなさった方がいましたら、どうぞ、すぐにもお帰りいただき、娘のことはお忘れいただいた方がよろしいかと思われます。
 さような方はおられましょうや?」
 かぐやの父の問いかけに、五人はしんと静まり返った。

 大伴皇子が、静寂を破り、ほほっと笑って言う。
「心配めさるな、我ら、おなごに物をねだられるのは馴れておるゆえ、いかなる難題であろうといささかも心苦しうないぞ、のう皆もそうであろう?」
 大伴皇子が横を向いて同意を求めると、四人は同時にうなづいた。
「まったくでございます、心配めさるな」
 それを受けて大伴皇子が言う。
「聞き及んだであろう、苦しうない、姫、手に入れるべき難題を申してみよ」
 するとかぐやは父に目配せして、自ら言う。
「お心遣いありがとうございます。
 それでは私より申し上げます。

 大伴皇子さまには、仏の御石の鉢をお願いいたします。
 これはお釈迦様が四天王の奉じた鉢を重ねてつくった鉢だそうです。

 葛原皇子さまには、蓬莱の玉の枝をお願いいたします。
 これは蓬莱山に生える白金に輝く枝で、不死の薬の材料だそうです。

 左大臣藤原園人さまには、火鼠の皮衣を、お願いいたします。
 これは唐土の伝説の火鼠からつくった衣だそうです。

 大納言春日御行さまには、龍の頸の玉を、お願いいたします。
 これは龍の頸の中にあり、口を開くと牙のところへ現れる五色の玉だそうです。

 中納言菅原麻呂さまには、燕の子安貝を、お願いいたします。
 燕が誰も見ていない時にだけ産むという黄金の子安貝だそうです。

 わがままな願い、叶えていただけたら幸いに思います」
 かぐやは深くお辞儀して、麗しい黒髪をたっぷりと見せた。

 父はかぐやの書いた難題の品の短冊を五人の貴びとに配った。
 五人の貴びとはかぐやの黒髪に嘆息しつつも、思いがけない難題に考え込んだ。どうみても手に入れるのが難しそうな物ばかり、いや、そもそもこの世にあるものかさえ疑わしい物のような気がしてくるのである。
 しばらく沈黙の間が流れた。

 その時、その座に急にドタドタと上がり込んで来た者がいた。
 姿は墨染の衣の僧のようであるが、一体、何用だろうかと誰もが訝った。
 すると僧は言った。
「かぐや様への求婚、私も間に合いましたか?」
 父はびっくりして聞き返す。
「はて、あなた様はどちらの方で」
 すると僧はにっこりと笑った。
「私は高雄山寺の僧覚空と申します。私も歌をしたためて参りましたので、是非かぐや様への求婚に加えてください」

 かぐやの部屋の隙間から覗いている広忠はハッとした。夜目に人の顔を覚えるのが苦手な広忠だったが、自分をこてんぱんに倒しやがったあの身軽な僧だと思い出した。
 あの野郎、ふざけやがって。
 だからといって飛び出すわけにもいかない。難題でかぐやをあきらめさせる場を壊すわけにはいかないのは広忠にもわかっていた。
 広忠は握りしめた拳に爪が食い込み血が出ているのも気付かなかった。

「天地開けて以来、世の恋に身分の上下などありはしません。私のような僧でも麗しいかぐや様に恋をして求婚しても構わない筈」

 そこで進行役の父が話を遮った。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さい。あなたは仏門に入られた方なのに、かぐやを嫁にして、そのあれを、何して子供を作ろうと言われるのはまずいのではないですか」
 だが覚空は堂々と申し開きした。
「世間の方は弘法大師様の持ち帰った学問まで理解が至っていないゆえ、そのようにお考えですが、般若波羅はんにゃはら蜜多理趣経みたりしゅきょうという経典によりますと、そのあれを欲する心も、あれをして悦びに満足するのも尊い清浄なる菩薩の境地であると書かれております。
 つまり、あれは菩薩の境地ですからやましい事は一点もなく、よって私のような求道の僧が求婚してもよい道理なのでございます」

 そこで葛原皇子が口を開いた。
「御坊、それは弘法大師様がそう説いておいでなのですね?」
「はい、もちろんでございます」
 覚空が答えると貴びとたちは一気に覚空の求婚を認めようという空気になった。なにしろ当代の嵯峨天皇によって鎮護国家祈祷などに篤く用いられている弘法大師空海である。弘法大師が認めることを否定すれば、嵯峨天皇に反抗したと噂されかねないからだ。

 葛原皇子が大伴皇子に言った。
「そういうことならば、いささか身分は低いようですが、この僧もかぐや姫への妻問い衆に加えてもよかろうかと思いますが。どうでしょうか?」
 大伴皇子は咳払いをして頷いた。
「そういうことならばまあよかろう。皆の者、どうじゃ?」
すると左大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂も同意する。
「皇子様のお考えに同じ意見にございます」
「皇子様のお考えに同じ意見にございます」
「皇子様のお考えに同じ意見にございます」

 そこで大伴皇子はかぐやの父に言う。
「我らはこの僧を妻問いに加えても構わぬ」
「はは、承ってございます」

 父が平伏すると、大伴皇子は付け加えた。
「ただな、かぐや姫が貧乏臭い坊主はいやだと言うならこの場で省いてもよいぞ。かぐや、いかがじゃ。正直に申してみよ」
 かぐやは扇で顔を隠したままどうしたものかと思案を巡らせた。広忠は覚空について何も話してなかったが、きっとこの僧は難題の五品を弘法大師空海に教えてもらった時、求婚の話を聞き知って急に参加してきたのだろう。だとすれば下手に断っては自棄になって難題の品が全部この世にはないものだと明かしてしまいかねない。

 そこへ覚空が声を上げて念押しする。
「私は弘法大師様の寺で勤めてます。かぐや様もきっと弘法大師様の有り難き教えを知りたいに違いありません。それには私を夫にするのが一番の近道でございましょう」

 父がかぐやに問いかける。
「姫よ、どうされる? お坊様も妻問いに加えるか?」
 するとかぐやはお辞儀して答えた。
「はい、お坊様もお願いします」
 父は「ならばそれでよかろう」と答え、葛原皇子が喜んで口を開いた。
「では御坊にも加わってもらいましょう……と」
 言いかけた途中で葛原皇子は慌てる。
「はて、難題の品はいかがされるおつもりか?」
 するとかぐやが答えた。
「それはすぐ書きつけます」
 かぐやはその場ですぐ墨を磨って短冊に書いて父から僧に手渡した。

「覚空さまは、満ち光の鏡を探し出してお持ちください。
 これは紙燭の明かりを望月の如く目映い光にいたす鏡だそうです」
 それはかぐやの持ち物だ。あのように不思議な鏡は世間にひとつだけだと思われる。かぐやはそう信じて書き付けたのだ。
 ついでに父が覚空のために五人の貴びとの難題の品を説明してやると、彼は嬉しそうに頷いた。
「なるほど。いずれも探し出すのが大変な品物ばかりですね。かぐや様に必ず見つけてやると申された方はありましたか?」
 すると父が答えた。
「皆さま、品物を見て思案されてるところに覚空さまがいらしたのです」
 覚空は微笑んだ。
「では私がきっとこの満ち光の鏡を探し出してかぐや様の夫となりましょう」

 その言葉に左大臣の藤原園人がいきり立って言った。
「わしがきっと火鼠の皮衣を見つけ出して姫の夫となろう」

 すると「いや待て」と声がかかる。
 負けてはならじと大伴皇子、葛原皇子、春日御行、菅原麻呂も同じように繰り返した。
「わしがきっと仏の御石の鉢を見つけ出して姫の夫となろう」
「わしがきっと蓬莱の玉の枝を見つけ出して姫の夫となろう」
「わしがきっと龍の頸の玉を見つけ出して姫の夫となろう」
「わしがきっと燕の子安貝を見つけ出して姫の夫となろう」

「では、姫、一番早くに品物を持って参った者が夫でよいな?」
 大伴皇子が念を押すと、かぐやは頷いて答えた。
「はい、その方を必ず夫にお迎えいたしましょう」
 すると「おお」と貴びとからどよめきのような感嘆が洩れた。

 こうしてかぐやから難題を申し渡された五人の貴びとと高雄山寺の覚空は決意を胸に帰って行った。
 
    ◇
 
 部屋に戻ったかぐやに、広忠が小声で尋ねた。
「どうだ、うまくいったか?」
「はい、六人の方々にそれぞれ難題の品をお願いいたしました。
 後から見えた高雄山寺の覚空という方は広忠様は御存知でしたか?」
「うっ、うむ、まあな。実は最初通せん坊しておったやつだ。少々手こづって押し通ったんだが、まさかこの家にやって来るとは思わなんだ。やつには何を難題にしたんだ?」
「あの鏡です」
「そうか。あの鏡ならこの世にひとつしかないだろうな」
「覚空さんがきっと探し出すと言い切ると、貴びとの皆さまも揃って見つけ出すと意気込んでお帰りになられました。これであきらめてくださるでしょう」
 かぐやが言うと、広忠は「うんうん」と領き、続いて、にやにやして懐に手を入れ探ると櫛を取り出した。
 と、途端にかぐや迦具夜は厳しい目つきになって叱った。
「広忠様、また悪事を働きましたね?」
 かぐやは、広忠が悪事をはたらくと、たいてい鋭い勘で見抜くのであった。
 広忠はいつものように苦しい言い逃れを始める。
「い、いやいや、この櫛はだな、猪を十頭ばかり獲って、売った代金で買うたのじゃ。
 坊様の書いた珍品とはいかぬが、どうだ?
 なかなか不思議な木地の櫛であろう」
 広忠が笑いながら言うと、かぐやは立って厨子から簪(かんざし)を取り出して見せた。
「これはどうです?」
「棒みたいな詰まらぬ簪だな。
 もう少し細工のしようはないのかのう」
 広忠は知ったかぶりにけちをつけた。
「それは先ほどの殿上人の一人がこの前、土産に置いて行ったものですが、同じ材で出来ているでしょう?」
「ああ、そうだな」
「それは象という天竺の大きな動物の牙で作ったもので、銀五貫もするそうです」
「げっ、そんなにするのかよ」
「ですから、その櫛の方は銀十貫以上します。猪など百頭売っても買えませぬ」
 かぐやが断定してみせると、広忠は慌てて姫の手を握りしめて謝った。
「すまん、かぐや、わしが悪かった」
「どうしてそんなに悪事ばかりなさいます」
「ただ、かぐやを喜ぱせたかっただけなんじゃ。
 家司に騒がれたが、かぐやの言葉を思い出し一人も殺めていない。
 どうか今回は許してくれ、のう?」
「情けなや、他人様から盗んだ物など貰って、かぐやが喜ぶとお思いですか?
 そろそろ悪事からきっぱり手を引いてくだされ」

 かぐやが涙を浮かべて頼むのを見ると、広忠は空海の予言を思い出した。
 予言の通り、かぐやに惚れながら生き別れするとしたら、その原因は広忠の悪事の為に違いない。そう思うと広忠は家司を張り倒して物を奪った時の楽しみが急に失せてしまうのを感じた。
 ここはかぐやの言う通り、そろそろ思い切ろうかと考えた。
 そして広忠はかぐやを喜ばせようと言葉を選んで誓った。
「そうだな、俺たちに可愛い赤子が出来たら、それを合図にきっぱりと悪事から足を洗ってみせる、本当だ、八百万の神にかけて誓うぞ」
 広忠は笑みを浮かべてかぐやの顔を見詰めた。
 姫はびっくりして広忠を見つめた。
「かぐや、どうじゃ?」
「は、恥ずかしいこと、けど嬉しゅうございます」
 かぐやは遅ればせに笑みを返した。
「そうか、でも嘘ではない、誓ったぞ」
 広忠はそう言うと、かぐやの唇を吸って、二人はひとしきり睦み合った。
  

 

第七章 火鼠の皮衣

  
 
 蔀戸の庇の先では雨が縁を打つ音がしている。
 母が、ふと縫い物の手を休めて溜め息を吐いた。
 かぐやは傾げた頬から仰ぐようにして、めっきり皺の目立ってきた母の顔を見返す。
「母上、どうなされました?」
「かぐやが貴なる方々に難題を出して、はや半年あまり」
 またお小言の始まりかと、かぐやは覚悟を決める。
「あっはい、そうなりますね」
「貴なる方々も最初は『その品、きっと取って来よう』と意気込んでおられましたが、
あれからさっぱり見えないどころか、噂もありません」
 そこまで言うと、母は急にかぐやにいざり寄った。

「かぐや、そろそろ意地を張るのは止めたらどうです?」
 かぐやは心の中であやまりつつも、きっぱりと言う。
「意地ではありません」
 母は呆れ顔で聞く。
「かぐやが都で、なんと噂されているか知ってますか?」
 かぐやは悪びれずに言う。
「知っています。
 貴びとを困らせて喜んでいる底意地のわるい田舎娘でございましょう、
 誰ぞの文に書いてありました」
「まあ、よくそのようなことを自分の口から。
 とにかく、貴びとたちに謝りの文でも差し上げて御機嫌を繋ぎとめるようになさいましよ」
「……」
 かぐやが黙っていると母は囁いた。
「近頃は持ち込まれる縁談の数もめっきり減ってきて、心配なことです。
 いいですか、母は何も都の貴びとでなくてもよいのです。熱心に通ってくれる丹波の殿の方が安心できます」
「母上、かぐやは殿方を迎えたくはありませぬ」
「またそのような強情張りを。
 親の身にもなってくだされ。
 父上も最近では滅法老け込んできたし、ここらで親を喜ばせてくだされ」

 その時、急に門が叩かれ、外が騒がしくなった。

 まもなく門番が母屋に駆け込んで言う。
「左大臣の藤原園人さまがおいでですだ」
 向こうの部屋の父が大きな声を上げる。
「おお、もしや難題の品を手に入れられたか?」 
「そのようでございますだ」
「至急、お通ししてくれ」
 父は母とかぐやのいる前に来て言う。
「左大臣藤原園人さまが例の品を手に入れたようじゃ、早うお会いする支度をせよ」
 母はもうおろおろとして右に左に歩く。
「まあ、かぐや、どうしましょう。
 私の化粧はどうしましょう、いえ、あなたはご自分の化粧をなさいな、そんな眠そうな顔では失礼ですよ」
「母上、何かの間違いですから、慌てないで結構ですよ」
 かぐやは落ち着き払って普通の鏡で化粧を確かめた。

    ◇

 左大臣藤原園人が座ると、扇で顔を隠したかぐや姫と父母は平伏した。
「姫、父殿、母殿、お待たせ申したな」
 父が平伏したまま言う。
「これはこれは、左大臣様、よくぞお越しくださいました」
「うむ、噂では他の者たちはまだ来られぬようじゃと聞いたが」
「はい、今日こそはありがたい縁を戴いた心地です」
 父の言葉に左大臣はたるんだ顎を撫でた。

 まず左大臣の付き人が山吹色と珊瑚色の見事な珊瑚の置物を差し出した。
「まずは父殿へ、これは南の海の珊瑚じゃ」
「これは結構な物をありがとうございます」

 続いて左大臣のもう一人の付き人が台に載せた銀の簪と櫛を差し出した。
「母殿へは銀のかんざしくしじゃ」
「まあ、私にまでなんと礼を申してよいやら」

 続いて付き人は、蜜柑色、山吹色、浅緑、水色、菫色、白緑、柿色などの反物を八本乗せた台を差し出す。
「さて、姫には衣じゃ」
 かぐやは一応礼を述べた。
「ありがとうございます」
「ふむ、姫ならどんな衣を着ても似合うじゃろうて。
 わしが一番とは嬉しい限りじゃ。
 もっとも他の貴びと四人の困りようは風の便りに入って来ておったが」
「ほお、さようでございますか」
「うむ、大伴皇子殿は、印度というはるか遠い国まで使者を十名も送り、仏の御石の鉢を探しておられるようだ。
 葛原皇子さまは船を二艘出して、自ら乗り込み蓬莱を目指されたようだがの、実際のところは各地の港を訪れて漁師にどう行けばよいと聞いておるようじゃ。
 大納言も同じようなものでな、龍がどこにおるのか調べているが、まだ居所すらわからぬようじゃ。
 中納言は八方にさまざま手を尽くして、黄金の子安貝を産む燕の噂を集めておるようじゃが、まだよい知らせはなさそうだ。
 わしは運がよかったかもしれぬ、ほほほっ」
 左大臣は貴びとしかしない甲高く細い笑いを上げた。
 父が尋ねる。
「もうおひと方、高雄山寺の覚空様はどうされているか御存知ないですか?」
「さてな、弘法大師殿の寺にはそれほど行かぬで聞いておらぬわ」
「そうでしたか。いずれにせよ左大臣様が一番乗りで決まりかと思います」
「ほほほっ、わしは果報者よな」

 かぐやは淡々と尋ねた。
「それでは左大臣はまことに火鼠の皮衣を手に入れたのですか?」
 かぐやが聞くと、左大臣は扇子をヒタと音を立てて閉じた。
「姫、もちろんじゃ。それ、早く持て」

 付き人の手で大きな台が箱ばれてきた。
「それ、とくと見るがよい」
 左大臣が言うと、上にかけられていた白い布がめくり取られ、その下に茶色のみののようなしかし大きさは手のひらほどの布が姿を現した。

「どこで手に入れられたのでしょうか? 仔細をお聞かせください」
 かぐやが問うと、父は鋭くたしなめた。
「これ、姫、失礼じゃぞ」
 それを左大臣は笑って止める。
「よいのじゃ、父殿。
 これは唐土の都にて手をつくして探させたのじゃ。
 大きな声では言えぬが、賄賂を贈り、禁城の倉庫の目録まで調べさせたのじゃ。
 その結果、禁城の倉庫にはなかったが、隋の時代の王宮商人の末裔がどうやら火鼠の皮衣を持っているらしいと探り出したのじゃ。そこで売りしぶる商人から大金をはたいて買い求めたのが、この火鼠の皮衣じゃ。ほほほっ」
 するとかぐやが尋ねた。
「これが、まことの火鼠の皮衣ならば、火をつけてもよいはず。
 確かめてよろしいですか?」
「うむ、試されるがよい」
 左大臣は余裕綽々よゆうしゃくしゃくである。

 かぐやは門番の下男に頼む。
「その火鼠の皮衣を土間に置き、火をつけてみてください」
 下男は言われたように、火鼠の皮衣を土間に置き、細い松明の火を押し付けた。
 すると、どうしたことか、その皮衣はどんなに松明の火を押し付けても、少しも火を寄せ付けない。

 下男はびっくりして言った。
「おお、この衣は燃えませんだ!」
 かぐやの父も感心する。
「ほお、これが火鼠の皮衣か」

「どうじゃ、姫、得心されたであろうて、ほほほっ」
 左大臣は高い声で笑った。

 しかし、それを聞いたかぐやはがっかりした声で返した。
「左大臣さまともあろう方がまがい物を掴まされるとは」

 左大臣の血相が変わった。
「ま、まがい物の筈がなかろう」
「いえ、まがい物に間違いありませぬ。
 私もようやく決心しましたのに、まがい物とは胸潰れる思いでございます」
「な、何を言うか?
 いかなる火も決して寄せ付けぬからこそ火鼠も無事なのじゃ。これぞ火鼠の皮衣に間違いない」

 左大臣がいきりたつと、かぐやが言い放つ。

「はて、もし火が決してつかないならば、誰がその鼠を火鼠などと呼びましょうか?」
 かぐやのもっともな言葉に左大臣は息が止まりそうになった。

「う、うぬ、そう言われると……。
 しかし、これは隋の時代の王宮商人の末裔にとんでもない大金を積んで手に入れたものじゃぞ、偽物の筈がないではないか」
 左大臣が経緯を明かすとかぐやは頷いた。
「やはりそうでしたか、まことに残念ですが、左大臣様が大金を持っていると知り、禁城のあぶれ者が思い切りふっかけて騙したのでしょう」
「まさか、そのような……」
「火鼠とは、常に炎に包まれている鼠にございます。
 何のきっかけで火が点くのかまでは知りませぬが一度火がついたら、いつまでも尽きることなく燃え続けるからこそ火鼠と呼ばれておるのです。
 もう左大臣様の胸に飛び込むつもりでおりましたのに、なんとも残念でなりませぬ。
 どうか一刻も早く、まことの火鼠の皮衣を手に入れてきて私の夫となってくださいまし」
 かぐやはそう言うと、振り向きもせず自分の部屋に歩いてゆく。

「これ、姫、待ちなさい」
 父は呼び止めようとするがよい言葉も思いつかない。
「今少しお相手してお慰めのひとつやふたつも申し上げよ」

 左大臣は大きな溜め息を吐いた。
「よいのじゃ。わしとしたことがうかつであった。他の者には仔細は言うてくれぬなよ。出来れば本物の火鼠の皮衣を手に入れたいものじゃが、はてどうしたものか……」
 左大臣は付き人の肩を借りてよろよろと帰って行った。

 

第八章 蓬莱の玉の枝

 
 

 その夜、かぐやから左大臣の話を聞かされた広忠は声を上げて笑ってしまい、すぐにかぐやにたしなめられた。
「声を下げてくだされ、父上、母上が起きます」
 広忠は小さい声であやまる。
「すまんすまん、しかし、それは見ものだったのう、わしのいる時に来てくれればよいものを」
「ええ、見せとうございました」
 かぐやもにっこりと笑った。
「なあ、かぐやよ、この家を出て俺と二人きりで暮らさないか?」
「急にどうしたと言うのです?」
 かぐやは広忠を見上げた。
 広忠はかぐやの肩を強く抱きしめて続ける。
「こう声をこらえておるのも疲れる、それにかぐやと一時も離れたくないんじゃ、よいだろう?」
 かぐやは顔を嚇らめながら言う。
「お気持ちは嬉しうございます。なれど、かぐやは父上母上を悲しませるわけには参りません。
 娘はいつまでも親の元で暮らすのがこの世の習わし、
 まして血の繋がりもないかぐやを我が子以上に大切に育ててくれた父上母上です。
 裏切ることはできませぬ」
「ふむ、そうか」
 広忠は相槌を打ちながらも、かぐやと二人で暮らす家を探そうと決めた。

 広忠はいまだ強盗から足を洗ってなかった。猪や鹿を売って得る稼ぎなどたかが知れている。ちょっと酒をたらふく飲み、小遣いを手にしようとすれば、強盗の方がはるかに手っ取り早い。確かに空海の予言は気にかかったが、その後何ヶ月すぎてもかぐやとの仲が裂かれる兆しはどこにもない。となると、気が大きくなって昔の悪癖が頭をもたげてきたのだ。そして少しずつ蓄えもできてきたのである。
 するとそんな広忠の心を見透かしたようにかぐやが言う。
「広忠殿、そろそろ悪事はやめておるでしょうね」
「な、なんじゃ、急に」
「まさか、小遣い稼ぎに悪さをしておるのですか?」
 広忠は慌てて心に呟いた。まったくかぐやの勘の鋭いこと、神通力のようだわい。
「いや、もう殆どしてないも一緒じゃ。
 それより、かぐや、赤子はまだできんか?」
 すると、かぐやは寂しそうな顔になり、
「まだでございます。
 こればかりは、私や広忠様の気持ちだけではどうにもなりませぬ」
「まあ、焦らずともよいわ。
 わしは赤子を合図にきっぱり悪事をやめるとの誓い忘れておらぬぞ」
 広忠が言うと、かぐやは頷いた。

    ◇

 それからひと月ほどしたある日、かぐやと広忠の平穏な日々にまたもや暗雲が垂れ込めた。
 牛車三台に従者を十数人引き連れて葛原皇子が、かぐやの家を訪れたのだ。

「父殿、例の品を手に入れたゆえまかりこした」
 皇子が言うと、かぐやの父がかしこまる。
「これはこれは、御足労、恐悦にございます」
「うむ、まずはささやかな貢ぎ物を受け取ってくれ」
 引き出されたのは、黄金の仏像が一体、目にも鮮やかな反物が二十本あまり。砂金が五袋、金銀紅白の糸数十束、酒が三樽、ニ尺もありそうな鯛が一尾、米が五俵、そして見事な焼き物の壷や、向こうの透けて見える不思議な水差しなどがずらりと並べられ、父は貢ぎ物のあまりの多さに目を白黒させた。

 最後に葛原皇子は綾織錦繍あやおりきんしゅうの布を掛けた長櫃ながびつを、父の前に置かせ、紐を解かせた。
 すると中にひと抱えほどの大きさの鉢に、白金に輝く枝が三本差してあった。

 父はその目眩ゆい輝きに感嘆した。
「なんともまあ、この世の物とも思えぬ美しさでございますなあ!」
「これが蓬莱の玉の枝よ」
「噂には皇子様自ら船に乗られて蓬莱を目指されたと聞いておりますが」
「うむ、おかげでずいぷんと難儀な目に遭うたぞ。
 早く手ずから姫に見せてやりたいが」
「はっ、ただ今、呼びます」

 母に従い、そろりそろりと扇で顔を隠したかぐやが入ってくると、葛原皇子は微笑みかけた。
 皇子は鉢をかぐやの前にずらすと目信たっぷりに言う
「姫、御覧なされ、
 これぞ、そなたの言われた蓬莱の玉の枝」
 かぐやは一瞥するなり疑いをかける。
「まことの品と言い切れますか?」
「もろろんのことじゃ」
 皇子は山羊鬚をつまんでうなづいた。
 皇子は左大臣が偽物の火鼠の皮衣を見抜かれたことは既に知っていた。
 しかし、葛原皇子の難題は要は白金の枝である、本当に白金で作れば偽物とされるはずがなかった。もちろん唐土の細工師を捕らえて白状でもさせれば別だが、そのようなことはまず無理だ。
 皇子は自信たっぷりに言う。
「さて、今度は姫が私に約束を果たす番ですぞ」
 かぐやは扇で顔を隠したまま言う。
「まことに、蓬莱の玉の枝をこの目で見て安堵いたしました。
 かくも霊験あらたかな不老不死の薬となるものを私ごときが独り占めいたしては不遜となりましょう。
 この蓬莱の玉の枝は天子様に献上いたすことといたします。
 よろしいですね?」
 そう言われると皇子は急に困りはてた。

 天子、つまり同い年の兄である嵯峨帝に、自分が手に入れた不老不死の薬の材料を献上するということは、嵯峨帝に不死を献上し、自分は永久に帝になるつもりはないと公言したと取られても文句が言えないかもしれぬ。そのようなつもりはないのだから、献上は困る。
 そもそも蓬莱の玉の枝が当代の細工師に作らせたもので不老不死の効能などある筈がないことがいずれ嵯峨帝に知れるだろう。過去に薬子の変で平城太上天皇と争って打ち破ったという気の強い嵯峨帝が、自分にどんな罰を用意しているか想像するだに恐ろしい。
 いかん、嵯峨帝に献上など絶対にいかん。

 皇子は震えた声でかぐやに言う。
「姫よ、何も帝に献上せずともよいではないか」
「なぜ、そのように言われますか?」
「……そ、それはのう……」
「献上できぬ訳は、この蓬莱の玉の枝が本物ではないゆえ。これはどこぞの細工師に作らせた偽物ということでよろしいですね」
「ううむ……」
 葛原皇子はかぐやの機転の前に、すっかり言葉を失った。

 しかし、そこへ思いがけない助け船が現れた。
 父が強い調子でかぐやを叱りつけたのである。

「姫。いい加減になされ。
 そのように尊い方をやりこめて、貴方には畏まるという心がないのか?」
 畏まるわけにゆかないかぐやは反論する。
「しかし、約束は約束でごさいます。今、葛原皇子様の偽物を許してしまえば他の殿方に対して申し訳が立ちません」
「約束は約束と言われるが、最初から無理な難題を押しつけているではないか。
 尊い方々の心を弄ぶようなことをして恥ずかしくないのか?」

 思いがけない事の成り行きに、かぐやは蒼ざめてしまう。
「しかし、まことでないものをまことと偽る方に嫁ぐなど……」
「姫はもう婿を迎えるべきお年なのですよ。
 たとえ偽物だとわかっていても、相手が自分のためになされた苦労の並み並みならぬことを思い知れば、次第に惹かれる気持ちの起きてくるのが人の心というものです。
 それを、いつまでも聞き分けのない童女のごとき有り様では、父も胸つぶれる心地がいたしますぞ。いい加減になされよ」
「そ、それは……しかし」
 かぐやがなんとか言い訳を始めようとする。

 と、父は床を平手で鋭く叩き、かぐやは雷に遭ったように息を詰めた。
「姫も今は聞き分けのないことは控えて、皇子様との結婚を承知しなければなりません」
 かぐやは必死に断る方策を思案したが名案は見当らない。
 葛原皇子は余裕の笑みを取り戻して言う。
「父上、そのように責められては姫が可哀想ですぞ。
 姫とて、あまたの男から婿一人を選ぶに困りはてた末に、かくなる難題を出されたのですから、姫の心根が悪いのではありますまい。
 強いて言えば姫が美しすぎることが罪なのですから、きついことを言われるな。
 私は、姫に納得いただけるまで、時間をかけて説得しましょう」
 父は「それには及びませぬ」と平伏する。

 そして上げた顔をかぐやに向けると言い放った。
「姫よ、もうお断りはできませんぞ。
 身分も志もこれほど立派な皇子様を夫にお迎えできるとは、おめでたいかぎりです。
 今宵こそ、そなたは皇子様と結ばれるのです」
 かぐやは、もはや皇子を断れない成り行きに追い詰められてしまった。

 皇子が父や母と夕餉を共にして、すっかけ打ち解けた様子で談笑する隣で、かぐやは震えていた。広忠だけにと誓った身をまもなく皇子に任せなければならないのかと考えると気が気ではなかったのだ。
 やがて母が勧める。
「おふたりはそろそろ寝所に入られたらどうです」
 広忠が来るのはもっと遅い時刻だ。できればそれまで引き伸ばしたい。
 かぐやはなんとか抵抗を試みる。
「まだ早うございます」
 かぐやが言うと、母が言い返す。
「もう、よい頃ですよ。
 姫は男女の道はよく知らぬのですから、優しい皇子さまによく教えてもらいなさいませ」
 かぐやはさらに抵抗を試みる。
「皇子さまは一度ご自分のお屋敷に戻られてから来るべきです。それが本朝のしきたりというものではございませんか」
 本来なら、皇子はいったん帰って、かぐやの部屋に三日間、通うのが普通の手順なのだ。
 そして、父母は三日間、それに気付かないふりをした後で所顕しところあらわしの宴会を催すのが結婚式にあたる。
「しきたりは守っていただきとうございます」

「かぐや、めでたいことなのだから、そのように形に捉われなくてもよいではないか」
 ほろ酔い加減のかぐやの父が言うと、葛原皇子も「では、父殿のお言葉に甘えるとしましょうか」とご機嫌である。
「さ、かぐや姫」
 皇子に明かした名を呼ばれ、かぐやは涙を流しながら手を引かれて寝所に入った。

「かぐや姫、そなたは、ほんに麗しいのう」
 そう誉めて皇子が抱き寄せようとする腕を、かぐやはするりとかいくぐって几帳の陰にまわる。
「そのように恥ずかしがらずともよい。
 さあ、おとなしく側においでなさい」
 皇子が捕まえにかかると、かぐやはさらに逃げた。
 しばらく几帳や燈台のまわりでのんびりした追いかけっこが繰り広げられた後、ようやく皇子はかぐやの袖を握って捕まえた。
「はは、妻が夫の気持ちから逃げてはいけませぬぞ」
 そこで皇子がやさしく肩を胞き寄せる。

 すると、かぐやはそれを力を込めて突き放した。
 そうなると、さすがの皇子も真っ赤になってかぐやを叱りつける。
「そなたは余を侮辱するつもりか?」
 それから皇子は気を取り直して、ひとしきりかぐやに男女の仲を諭して聞かせた。

「何も恐がらずともよいのじゃ、余が優しう手ほどきするゆえの」 
 皇子は笑みを浮かべながら、今度は逃げられないよう力を込めて強引にかぐやにのしかかってきた。
 表衣を剥がされあこめを剥がされ、汗袗かざみ一枚となったかぐやは覚悟の涙をこぼした。
 そして、みっつ瞬きするほどの間があって、急にのしかかっているはずの皇子の重さがなくなった。

 かぐやが不思議に思って目を開いて見た。

 そこには、いつの間にか広忠が皇子の背に乗り組み敷いて姫に徴笑みを送っている。
「だ、誰じゃ、放せ」
 皇子は足をばたつかせて喚いた。
 かぐやは嬉しさを満面に広げると、素早く頭を働かせて、広忠に黙っているよう口を指で押さえて目くばせした。

 そしてさりげなく皇子に聞く。
「皇子さま、どうされました?」
「誰かが余の体を締めつけておるのじゃ」
「私には見えませんが、もしや、何かまた出ましたかっ……」
 かぐやが怯えたふりをして言うと、皇子は聞き返す。
「出たとは、なんじゃ?」
「はい、実を言いますと、私は、三年ほど昔、殿方を迎えようとしたことがあったのですが、その時、鬼が出たそうで。
 いえ、私の目には何も見えなかったのですが。
 ちょうど今、皇子さまと同じことを今は亡き殿方が申してたのでございます」
 皇子は目玉が白塗りの顔から外れそうなほど驚いた。
「なんじゃと!」
「はい、殿方は鬼に体を締め付けられて慌てて帰られてしまいそれきりなのです。
 のちに人づてに聞いた話ではすぐれた大徳の調伏を受けたが効果なく、半月後、殿方はとうとう取り殺されてしまったという噂で、そうまったくの噂話です」
 かぐやが打ち明けると、皇子は恐怖に声を引き攣らせて言った。
「ひ、卑怯ぞ、なぜそれを先に言わんのじゃ。
 そんな怖ろしい話を隠して余を迎えるとは卑怯ぞ」
「しかし、噂ですし、私には一向に心当りはなかったものですから」
「心当りもなく鬼が出るものか、」
 広忠はここぞとばかり皇子を締めあげた。
「あ、痛っ、鬼よ、許せ。
 どうか、命ばかりは助けてたもれ」
 皇子が懇願すると、広忠は、ことさら低い声を作って皇子を脅かした。
「よおし、二度と姫に近づくんじゃねえぞ、
 その時は手足をもいで、胴を鍋で煮て食ってやるからな」
 広忠に背中を蹴飛ばされた皇子はかぐやを振り返る余裕もなく、這う這うの体で部屋から逃げ出した。

「広忠様の乱暴も役に立つことがあるのですね」
 かぐやはそう言って広忠に笑いかけた。
 すぐに父が驚いた声で部屋の外から聞く。
「かぐや、皇子さまが『出たのじゃ』と申されて慌てて帰られたぞ、何があった?」
 かぐやはおっとりと答える。
「はい、なんでも鬼が出たとか申されて急に這い出してゆかれましたな」
「何っ、鬼が出たのか?」
「さあ、わかりませんでしたな。私には何も見えずじまいでしたゆえ」
「そうか……それでは仕方もないのう……」

 かぐやと広忠は口を押さえて笑い合った。

 
 

転章 覚空の謎解き

  

 まだ天空に星が残る頃、覚空はかぐやの家を見通せる木に登り、太い枝が分かれたところに腰かけて様子を見張り始めた。
 夜が明けてまもなく庭から離れた茂みから弓矢を持った広忠が姿を現して、大きなあくびをして去って行った。庭の中を通る姿は見えなかったからおそらくは地面の下に抜け道を掘ったのだろう。
 それからしばらくして今度は家の主人、かぐやの父が鎌を入れた籠を持って出てゆく。
 これで家には門番の下男しか覚空に抵抗出来る者はいなくなったわけだが、もちろん覚空は暴力に任せて何かしようというつもりはない。
 かぐやが自室の戸を開け放ち広間に出て来て母と何やら語り合っている。十二単衣ではなく普通の着物だ。そして袖にたすきをかけて床を雑巾がけし始める。ずっと澄ましてるだけの姫かもしれぬと心配もあったが、普通の良いおなごではないか。
 覚空の中でかぐやの評価が高まった。

 下男が水を汲んで来ると母が洗濯を始める。かぐやは掃除が終わると自室に戻り戸を閉じた。下男は庭に出て薪割りを始めた。
 洗濯物を干した母は下男が火を点けた竈に粥の鍋を置いて焚き始める。

 こうして午前が半ば過ぎた頃、籠に椎茸を入れた父が帰って来た。
 かぐやも十二単衣に着替えて戸を開け閉めて自室から出てきた。門番の下男も床に上がる。一家揃っての朝食が始まるのだ。この時代の一般的な朝食時刻である。あとは夕方、日没前に夕食を食べる一日二食が平安の暮らしであった。

「よし」
 覚空は呟いて素早くかぐやの自室の裏手にまわり草鞋を脱いで、蔀の開いた上半分から忍び込んだ。
 中に入ると行李こうりが四つほど積まれており、それに収まりきれない品物が床に直接並べられている。それらは求婚者から貰った品々だ。隅には反物や着物を入れた大きな籠も重ねられてる。
「困ったな、荷物が多くて探す手間がかかりそうだ」
 覚空は呟いて行李を開けて中身を改めてゆく。鼈甲の櫛、象牙の簪、翡翠の耳飾り、翡翠の勾玉、象牙の腕輪、滅多にはお目にかかれないお宝ばかりだ。
 鏡を収めた独特の形の箱を見つけた覚空の顔色が変わった。その箱をそっと開けると鏡が出てきた。覚空はごくりと唾を飲み込んだ。
 そして鏡を持ち上げ蔀からの光にかざしてみる。しかしかざしても、蔀に近付いてみても特に鏡の明るさに変化はない。
「これは普通の鏡だな」

 覚空は別な行李をふたつ開けて見るが特別な鏡は見当たらない。参ったな、外したかもしれぬ、私の推理も十割十分十毛とまで自惚れているわけではないから仕方ないが。
 覚空は敗戦処理のつもりで行李の隣の丸い大籠に入っているかぐやの衣を一枚ずつめくっていった。
 すると黒い布袋に包まれた円形のものが見つかった。

 やったぞ、これかもしれん!

 覚空が喜び勇んで両手を伸ばそうとした。
 と、その時、覚空の首が後ろから太い腕に巻き付かれた。息が苦しい。
 その毛むくじゃらの太い腕には見覚えがあった。
 これは広忠だ。
「おのれ、かぐやの部屋に忍び込むとはいい度胸だな」
 そうすごむ広忠の声は向こうに聞こえるのを憚りひそひそ声である。

 だが前回、覚空は広忠を倒しているから負けた気はしない。
 覚空は首を絞められながらも、胸の前に出した両手を見えない球をまんべんなく撫でるように動かした。透明の球に気が充填されてゆくと覚空の指はビリビリと痛んだ。なにしろ透明の球の内部では稲光があらゆる方向に走り始めているからだ。
 広忠の体格を考えるともう少し気を貯めたいところだったが、粘りすぎると覚空の方が先に広忠の締め付けに失神してしまいそうだ。やむを得ん。
 覚空は両手をそのまま自分の頭の後ろに撥ね上げた。

 見えない球は広忠の顔面にぴたりと当たった。
「ゥグッ」
 声にならぬ息を吸って広忠はまた鐘の突き棒のような力をくらって後ろに吹っ飛んだ。
 そのためドンッと大きな音がしてしまった。

「なんだ? かぐやの部屋で音がしたぞ」
 父の声にかぐやは嫌な予感がしつつも立ち上がった。
「たぶん几帳が風で倒れたのでしょう、すぐ直して参ります」
 
     ◇
 
 かぐやが部屋に入ると大きな図体の広忠がみっともなくのびている。
 そしてその後ろに覚空が罰が悪そうに正座していた。
「やっぱり几帳が倒れておりました」
 かぐやは広間に聞こえるように声を上げて、広忠に駆け寄り瞼をそっと開けてみる。
 黒目はちゃんとあるがかぐやに気が付かないようだ。
 その様子を見て覚空が囁いた。
「大丈夫です、気を失っているだけで、頑丈そうな体ゆえ夕方前には目覚めましょう」
「覚空様でしたね、貴方は何をしに来たのです?」
 かぐやが囁くと、覚空も囁き声で答えた。
「何をと聞かれると答えにくいのですが、私はあれからかぐや様が難題を出された時の奇妙な点をずっと考えていたのです。
 私は後から飛び入りで求婚の集いに加わりました。
 であるのに、かぐや様は慌てることなく難題の品をその場で書きしたためましたね。
 弘法大師空海様に五つの難題の品を尋ねに広忠殿を遣わしたかぐや様が、どうして私への難題満ち光の鏡をすらすらと書けたのでしょう?
 もし最初から満ち光の鏡を知っていたならば大師様に聞くのは四つの品だけで済んだのに、何故五つの品を尋ねたのだろう?
 これが奇妙な謎です。
 もちろんその直前に他所に聞いていた難題の品の答えが届いたという事も絶対になしとも言えずですが、それは望み薄に思えます。
 とするならばかぐや様は以前から満ち光の鏡を知っていたと考える方が素直です。
 もしかすると満ち光の鏡は本来は難題にしたくないものだった。しかし私が飛び入りしたので仕方なく難題に入れたという考えが成り立つやもしれませぬ。
 ここでさらなる謎が生まれました。かぐや様はどうして最初は光の鏡を難題にしたくないと思ったのか?」

 かぐやは覚空の考えの切り口の鋭さに密かにおののいた。
 覚空はかぐやの恐れた経緯を語り出した。
「そこで私は考えました。
 かぐや様が大師様に尋ねたのはこの世にありそうで絶対にない宝です。
 では満ち光の鏡はどうなのでしょう?
 察するに、その答えはこうではありませんか?
 それは確かに不思議な鏡ではあるけど自分が既にひとつ持っているから、もしかしたらこの世にもうひとつぐらいあるのかもしれないと心配だったのではないですか。
 だが、私の飛び入りでどうしてももうひとつ難題が必要になった。
 もちろんまた大師様にお伺いを立てるという手はあります。しかし、難問を出すために貴びとを既に待たせた後の集いでしたから、さらにまた日を改めてと言い出すのは気が引けたのでしょう。
 そこで仕方なくかぐや様は御自分の持つ秘宝満ち光の鏡を思い切って書いたのです。
 この考えが正しければその宝はこの部屋にある。そう考えて私はこの部屋に来たのです。そして見つけたのがこの袋です。
 かぐや様、私の謎解きはいかがですか?」
「……」
 かぐやは俯いてしまい言葉を返せなかった。
 覚空は満ち光の鏡の入った黒い布袋を手に取り、袋口を開き始めた。

 かぐやはその気配に顔を上げるとハッとなって制した。
「それは出さない方がよいですよ」
 かぐやが言うと覚空は笑った。
「そんな脅しは聞きませんよ」
 かぐやは言い放つ。
「私が卑怯に鏡を手に入れた覚空様を夫にすると思いますか?」
 覚空はかぐやを相手にせずに言った。
「あの集いの肝は貴びとたちとの約束という点です。私は貴びととかぐや様の答えを聞く場を設けます。そこでこの鏡を差し出した私を夫にすると答えて下さい」
「そのようなこと……」
「もしそうして頂けないのであれば、五つの難題はそもそもこの世に絶対ないものを教えてくれと、かぐや様が大師様に尋ねたものだと貴びとに明かします。
 そうなれば万事にのほほんとされてる貴びとの皆様といえど、その場にひっくり返り、人の恋心を弄ぶかぐや様をこの世で最も許されざる悪女とお怒りになるでしょう」
「……」
 かぐやは負けを認めるように唇を噛んだ。

 覚空は勝ち誇って鏡を取り出そうとする。
「だめですっ」
 かぐやが止めようとしたが、間に合わなかった。

 反射的にかぐやは袖の下に顔を埋めた。
 覚空の手で取り出された鏡は昼の光を受けてまるで太陽を部屋の中に引き入れたかのように眩しく輝き放った。
 そのようなことになればどうなるか、誰でも想像できるだろう。
 あまりに光が強力なため全ての物の色は真っ白一色にさらに黄金一色になった。
 そして目を開けていた覚空の目は一瞬に湯気を立て焼け始める。
 覚空は急いで目を押さえたが窪みの奥で目玉の滓が溶け縮むだけだった。
 だが常人には耐えられない修行を積んだ覚空だけあって、目を焼かれる激痛にもひとつも叫び声を上げなかったのはさすがである。

 覚空は手探りで鏡を布袋に戻して溜め息を吐くと囁き声でかぐやに言った。
「かぐや様、鏡は収めましたからもう大丈夫です。
 私としたことがうかつでした。紙燭の明かりを望月に変えるのですから、昼の光は太陽に変えてしまうのですね。ついつい調子に乗ってしまいました。
 かぐや様、目の最後に貴方の美しいお顔をゆっくりと見られたのは果報でしたよ。
 私はお暇します、おそらく大師様から厳しいお沙汰を受けるでしょう。
 かぐや様、ごきげんよう」
 覚空はそう言うと手探りで蔀を乗り越えて去って行った。
 
     ◇
 
 いつもより少しばかり遅れて嵯峨天皇が御座所に入ろうとした時、朝議の参列者たちの中で笑いが起こり、また慰める声がしていた。

 座に着いた嵯峨帝は気になって問いかける。
「今しがた、何を笑っておったのじゃ?」
 左大臣が畏まって答えた。
「帝の御出座が遅れてるのをよいことに皆で私語をいたしておりました。どうぞお忘れ願います」
 嵯峨帝は許さない。
「そうはいかぬ。忘れろと言われてはますます気になって仕方がないではないか。
 何を話していたか詳らかに申せ。朕の命である」

 左大臣は平伏して答えた。
「恐れ入りましてございます。では申し上げます。
 帝におかれてましては巷のかぐや姫の噂は御存知かと思います」
「うむ。たしか薬部司と造酒司の何某が歌を送って揃って振られたと聞いたな」
「その姫でございます。これがなかなか良い返事をせぬので次々と男たちが歌を送っては振られておりまして。それではと我ら殿上の間の者からも恋の好き者が三名、皇子様からも二名が揃ってかぐや姫の家を訪れて歌を送ったのでございます」

 嵯峨帝はにやにやと笑った。
「おお、それは興味深いな。その者たちの名を明かせ」
「いやはや、そればかりはお許しくださいますように」
「そうはゆかぬぞ。申せ」
 嵯峨帝に二度言われるとあっさり答える決まりでもあるように左大臣は答える。
「皇子様は大伴皇子おおとものみこ様、葛原皇子かずらわらのみこ様、殿上人はまろ藤原園人ふじわらそのひとが筆頭にて、大納言春日御行かすがのみゆき、中納言菅原麻呂すがわらのまろにございます。
 あと飛び入りで弘法大師空海様の寺の覚空なる僧も参加いたしました」
 
 嵯峨帝は声を上げて笑った。
「ははは、左大臣も、大納言も、中納言もか。これは面白そうだ。
 して首尾はいかがなったのか?」
「それが、その勝ち気な姫は我らにひとつずつ難題を持ち掛けて参りまして……」
「ほおー、難題とは考えたな。園人公はいかな難題じゃ?」
「まろは火鼠の皮衣という伝説の衣を持って参れと」
「いよいよ面白い、朕もその場に居合わせたかったものよ。
 それでいかがした?」
「そこでまろは唐に人を遣わして、隋の時代の王宮商人の末裔がどうやら火鼠の皮衣を持っていると聞いて高い金を払ってそれを手に入れたのです。
 するとかぐや姫は皮衣に火を点けようとしましたが火が点きません。まろは鼠が焼け死んでは困るから当然火は点かないのだというふうに答えました。
 ところがかぐや姫はそれでは火鼠と呼ばれる筈がない、ずっと燃え続けてこそ火鼠じゃとまろを言い負かしたのでございます」
 嵯峨帝は手を打って笑った。
「はははっ、これは愉快愉快」
 すると一座も笑い出したが左大臣に無礼のないよう声を抑えた忍び笑いを発した。

「他の者は難題の品を届けたのか?」
「まだ見つけられぬ者もいますが、葛原皇子様は蓬莱の玉の枝を届けたという噂でございます」
「ほお、ではその姫の夫になったのだな?」
「いいえ、葛原皇子様もどうやら姫にやりこめられたらしく屋敷に帰ると優れた大徳を招いて無事を祈祷させて引きこもられておるそうにございます」
「そうであったか。では見舞いしてやらねばならぬの。
 他の者はいかがした、大納言御行公」

 大納言は平伏して言上した。
「はっ、まろも探しておりますが、あいにくとまだ手がかりもなく」
「そうか。中納言菅原麻呂公はいかがじゃ」

 嵯峨帝に問われて菅原麻呂は答えた。
「はっ、お答え申し上げます。まろも左大臣様のように唐土に人を遣わして燕の子安貝を探しておったところ、先日、ついにそれを採ることの出来る仙人を知っているという商人を見つけまして、大金をはたいて手に入れたのでございます」
「おう、それはでかしたな。して姫はなんとした」
「はあ、それが……『燕のように空にあるものの子安貝です、飛ぶまでは出来ずとも水には浮く筈でございます』と言われまして、鉢に水を張って浮かべたところ、残念ながら沈んでしまい『中納言様も左大臣様と同じく唐土の商人に騙されたようでございます。どうぞ次回は真の燕の子安貝をお持ちください』と帰されました。
 しかしながらもはや唐土に人を遣わす費えがございませぬ」
「うむ、残念なことじゃ」
 嵯峨帝はひとしきり頷くと「なかなか難儀なものよな」と締めて考え込み、一座は沈黙に支配された。

 そして再び口を開くと嵯峨帝は宣言した。
「よかろう。ここは朕がそちたちの仇かたきを討ってやろう」
「仇とはいかなることで?」
 左大臣が問い返すと嵯峨帝は宣言した。
「朕がかぐやに歌を送って朕が夫人に加えてやろうというのだ」
 一同はびっくりした。律令制定後、帝には公的な妃である皇后、妃、夫人ぶにんひんが置かれ、さらに後宮の日常の世話係として各地から美貌の姫が送り込まれていた。時にはその世話係が帝の目に留まり昇格することがある。だからわざわざ帝が田舎の姫に求愛の歌を送るという事態が起こらなくなっていたのだ。
 帝のお召しとなればいかに貴びとを手玉に取ってきたかぐや姫とて、もはや畏まって従うしかないと一同の見立ては一致した。
「それはそれは、御上に歌を送られ召されてはかぐや姫も従うしかありませんな」

 
    ◇
 

 翌くる文月七日のことであった。
 昼すぎ、かぐやの家の門が叩かれたかと思うと、まもなく、門番の下男が「ヒー」と声にならない声を上げて走る音がした。
 下男の「大変ですだ」という声が響いた。
 それからややあって父と母が慌てふためいてかぐやの部屋に駆け込んで来た。
「かぐや、た、大変な、ことにっ、なったよ」
「どうしたんですか、お二人ともそんなに慌てて」
 かぐやは父母の目があまりに大きく見開いているのでおかしくて笑った。
「慌てるも何もなっ、いよ」
 父が言いかけて喉が枯れると間を与えず、母がものすごい早口でまくしたてた。
「いいかい、よくお聞き、今、天子様のお使いが来られて、天子様がかぐやに会いたいと仰せなんだよ、
 どういう意味かわかるだろう?」
「えっ」
 かぐやには、それがどういう意味か飲み込めなかった。
「会いたいのがどういう意味かとは、なぞなぞですか?」
 かぐやが聞くと、今度は父が早口で言う。
「天子様が会いたいというのは、畏れ多くも、この国第一の大王がかぐやを妻として御召しになりたいということだ」
「なんとも、ありがだいことですよ」
 かぐやは不満を露わにした。
「私の気持ちも聞かずいきなり帝の妃になれと言うのですか?」
「そうだよ、こんなにおめでたいことはないよ」
「今、この部屋に勅使を呼ぶから『謹んでお受けいたます』とお答えするんだ、よいな?」
 父母はすっかり恐縮して受諾しようと考えている。
 この前の葛原皇子には蓬莱の玉の枝を天子様に献上しようと言ってやりこめたが、その天子様の方が自分を召し出すというのだから、これはもしかしたら天から罰が巡ってきたのかもしれない。
 しかし、広忠の妻であるかぐやからすれば、内裏の囲われ妃になるなど、何にもまして避けたい事だ。
「お断り申しあげます」
 かぐやが言い放つと、父母は目玉を落としそうな勢いで驚いた。
「な、な、何を言われる?」
「天下第一の帝の妃を断るなど考えられないことだ」
「どうしてそのように聞き分けがないのです?」
「勅使を断ったら、父や母は大王に背いているとして捕らえられるかもしれないよ」
 父母は口々にかぐやを説得しようとするが、かぐやは泣き声になって言う。

「大王に背こうとて、かぐやは内裏には参りません」
「どうしてなのだ、訳をちゃんと言ってごらん」

 さらに尋ねられたかぐやは大きな声を上げて泣ぎ崩れてしまった。さすがに姫に大声で泣かれれば父母がどう取り繕おうとも、勅使も事情を掴めた。
 結局、返事を得られないまま勅使は引き返して行った。
 
    ◇
 
 その晩、かぐやから帝の求婚について知らされた広忠は即座に言った。
「そうなると、ここから出て俺と駆け落ちするか」
 かぐやは俯いて言う。
「それはできれば避けたいことです」
「しかし、このままでは、いずれ無理矢理にでも内裏に違れてゆかれてしまうぞ」
「そんなひどいこと、かぐやは広忠様の妻ですよ」
「であれば、俺と駆け落ちするしかあるまい」
「それでも、かぐやは恩厚い父上母上の家を出るのは避けたいのです」
「他に方策はないだろう。
 帝の妃になっても家は出て父母と別れねばならないのだ、それならば俺と駆け落ちする方がよいではないか」
「……そうではありますが。
 突然、かぐやが姿を消せば、父上母上は裏切られたと感じておおいに悲しみます。
 せめて同じう悲しませるにしても、父上母上がこれならば仕方ないと、かぐやをあきらめてくれるような手立てはないものでしょうか」
 かぐやは悩みに沈み込んだ。
「やれやれ、難しい問題だの」
 広忠も考え込み頭を掻いた。
 
    ◇
 
 高雄山寺の空海の寝所に広忠がやって来た。今回は覚空の邪魔がないからすんなりと入って来られたたのだ。
「坊様よ、起きてくれ」
 広忠の声に、空海はすぐに思い出した。
「おお、いつぞやの山賊じゃな」

 空海は身を起こし、灯明をともした。
「していかがした?」
「この前の難題はうまくいったぞ、礼を言ってやる」
 空海は口の聞き方を知らぬ広忠に笑みを見せた。

「まだ、別れてなかったか?」
 広忠はじっと睨みつけた。
「俺はな、貴様の思うとおりにはならん。
 ところで覚空とかいう奴はどうした? 破門か?」
「破門ではない。あれは行いがよろしくなかったゆえ、わしの故郷の四国に修行に出してやったわ」
「ふん、そうなのか」

「さて、こたびの用はなんじゃ?」
 空海が尋ねると、広忠は理由を聞かせる。
「俺の妻にの、帝が勅使とやらを寄こしたのだ。妻にしたいということらしい。
 しかし、かぐやは俺の妻じゃ。渡すわけにはいかん。
 断る口実を教えてくれ」
 空海は、嵯峨帝は賢いが女好きの度がすぎるのが玉に傷だなと心の中で思った。
 皇后、妃、夫人、嬪があまたさぶらう中、さらに侍女にも手をつけてゆかれる。

 そして、此度はどこかから噂を聞きつけ、かぐやとやらも召し出そうということらしい。
 空海は広忠に問いかける。
「どのような妻なのだ?」
「どのようか、ううむ、この世のものとも思えぬほど暖かく柔らかい女じゃ、口を吸うととろけそうじゃ。そして俺のようないかつい者に優しう世話を焼いてくれてな」 
「そして、悪党のお前を夫に迎えた。かなり変わっておるの」
 広忠はむっとなって睨んだ。
「なんじゃ、その言い方は」
「まあ、まことだからよいではないか。
 うむ、ではな、こう答えたらどうじゃ」

 空海が切り出すと、今度は広忠は思わず正座になりかしこまって耳を傾けた。
「よいか、姫は阿弥陀如来の化身だと答えるのじゃ。
 それゆえ、時が満ちれば、あちらの世界に帰らねばならぬ。
 その時が満ちたゆえ、おいとまするという話にしてはいかがじゃ」
「おう、それはよい話を授かった」
 広忠は喜んで帰ろうとして歩き出し、ふと、また空海に向き直った。
「待てよ。
 都の者どもときたら、中身のない仏像ですらありがたがるのだぞ。
 俺はガキの頃、寺にいたからよう知ってる。
 そんな奴らに『かぐやは阿弥陀如来の化身なり』と言ってみよ。それこそありがたがって、逃げられぬようにお堂に閉じ込められて拝まれたりするに違いない。
 とんでもないではないか。それでは困る。もっと他の策はないのか?」
 広忠がせがむと、空海は叱った。
「こら、他人に一から十まで頼るものではないわ。
 そうでなくても、坊主には毒の、のろけ話を聞かされて迷惑したわ。
 後は自分で考えよ」
 空海は明かりを吹き消すと、とっと寝床に入ってしまった。
 広忠は小さく息を吐くと空海の寝所から引き上げた。
 
 

第九章 名案

 
 
 
 広忠が床板を下から外して部屋に戻るとかぐやは小声で聞いた。
「空海様の答えはいかがでしたか? 素晴らしい案が聞けましたか?」
 広忠の答えは溜め息混じりだ。
「ああ、それがな、あの坊様が言うには『かぐやに阿弥陀如来の化身のふりをしてはどうか』ということだった」
 その言葉を聞いてかぐやも溜め息を吐いた。
「それではかえって、拝みに来る者が出て来ましょう」
「俺もそこには気付いた。何しろ育てられた寺で、仏像をありがたがる奴らをたくさん見てきたからの」
「ああ、そうでしたか」
「そこで、あの坊様に、もっとよい策はないかと尋ねたのだが、あのけちな坊様は、一から十まで他人に頼らず、自分で考えろと言って、叱られてしもうた」
「それは確かにそうです。ここは私たちで考えてみるより他にないですね」
 かぐやはそう言って考え込んだ。

 しばらくして広忠が言った。
「こういうのはどうじゃ?」
「どのようなものですか?」
 かぐやが目を輝かせると広忠は話した。
機織はたおりの道具をな、この部屋に入れてだ、かぐやは父母に『実は私は鶴です』と打ち明けて泣き崩れるのじゃ。
 そして部屋にさがっている時に外で鶴の声がしたら床板からわしがかぐやを連れてここから逃げるのだ。
 かぐやの父母は空っぽになった部屋を見てやっぱり鶴だったのだなと納得するだろう」
「広忠さま、どこかで聞いたお話ですが、鶴が都合よく近くに来て鳴いてくれないと事が始まりませんよ」
「ああ、やはりそこだな。難しいのう」
「それにその場合は機織りの道具は要らないかもしれませんね。機で羽を織り込むのは私には出来ませんから」
「なるほどな、むつかしいのう。かぐやは何か思いつかないか?」
「申し訳ありません、出来た思案にあれこれ言ったり膨らませるのは好きなのですが、思案だけ先に出してみろと言われるのは苦手なのです」

 しばらくするとまた広忠が切り出した。
「では、こういうのはどうじゃ?」
「はい、承りましょう」
 かぐやが身を乗り出した。
「あのな、かぐやは父母に『実は私は竜宮の乙姫で、もう時が満ちたので竜宮城に帰らなければならないのです』と告白するのだ。そしてその晩、ここに玉手箱を置いて、わしとこっそり駆け落ちするんだ。
 翌朝、玉手箱を見た父母はびっくりして、かぐやは本当に乙姫で、竜宮城に帰ってしまったのかとあきらめるだろう。
 どうじゃ、かぐや」
 乗り出していたかぐやの姿勢が後ろに引いた。
「はあ、そうですねえ」
「なんじゃ、気乗りしない声だの」
「貴びとに難題を出した私ですが、自分が乙姫と言い張る場合、どうやって本物の玉手箱を手に入れるかが大変だと思います。玉手箱は一気によわいが老けるものであると正体がわかってますからね。
 玉手箱を残して去ったら、父上は私の手掛かりを得るためなら老けて死んでも構わぬと箱を開けてみるかもしれません。それなのに少しも老けないなら、これは偽の玉手箱だと判じて、私たちの逃げた先はどこかと追いかけるでしょう」
「そうか、だめか」
「せっかくお考えいただいたのに話の腰を折ってばかりですみません」
「なに、また考えるうちに良い思案に当たろう」
 広忠は知恵を絞り出そうとするが、これといった名案もないまま時が過ぎた。
 
    ◇
 
 後に三筆と呼ばれた嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢おうようじゅんの筆が好みでよく写していた。本日の手本は欧陽の九成宮きゅうせいきゅう醴泉銘れいせんのめいという碑文だ。唐の皇帝太宗が避暑のために九成宮で過ごしていたところ、片隅から甘酒のような味がする水が湧き出た。これは吉兆に違いないと76歳の欧陽詢に碑文を書かせたのである。
 
欧陽詢
 
 欧陽の筆はきっちりとした端正な姿でありながら力強さも感じさせるところに嵯峨天皇は共鳴を覚えている。欧陽の書体は楷書体、教科書体として現代にも息づいている。

 嵯峨天皇が写筆の出来上がりに目を細めていたところへ侍従が小声で告げた。
「恐れながら申し上げます、丹波へ遣わした勅使が帰りました」
「ふむ、昼御座ひのおましに待らせよ」

 白い御引直衣おひきのうしを着た嵯峨天皇が奥の御帳台みちょうだいの垂れ布をなびかせて昼御座の繧繝縁うんげんべりの厚畳座に現れると勅使の小野岑盛おのみねもりは平伏した。岑盛は征夷副将軍小野永見の息子であるが漢詩にも優れて文武両道の男である。嵯峨天皇の即位と共に異例の抜擢により殿上人に叙爵され、今年、治部大輔じぶたいふという要職に任じられている。

「御上にはご機嫌麗しく…」
「して、治部、今日はいかなる首尾じゃ?」
「はっ、かぐや姫には初めのうちははるばるまかり越したまろをねぎらう様子もあったのでございますが、それも一時にて……。恐れ多い御上のお召しだと申すと過日の如く急に泣き出す風情にて『不調法な田舎娘にて何卒ご堪忍くださいまし』と言い切り、後は答えを申しませぬ」
「ふむ、岑盛は今まで何回、使いをいたした?」
「はい、三日おきにかぐやの家を訪れてますから、かれこれ十五回近くなりましょう」
「ではもう望月でなければならぬぞ」
「はっ、まことに申し訳ございません」
「姫の泣いておるは真か?」
「はっ、まろには真に見えましたが」
 岑盛の返事を捨て置くと嵯峨天皇は思い出したように述べた。
「ふむ、三日後、朕は須磨に塩焼きを見に参る、岑盛も必ずついて参れ」
「三日後はかぐや姫のところに勅使いたす日かと思いますが……」
此度こたびはそれはよい。岑盛も須磨じゃ」
「ははっ、かしこまってございまする」
「下がってよい」
 
    ◇ 
 
 三日後、嵯峨天皇は駕輿がよに乗って須磨へ向かった。駕輿というのは天皇と皇后、斎王が用いる駕籠で、さらに即位の儀式の際には屋根に鳳凰像のついた鳳輦ほうれんと呼ばれる駕籠が用いられる。駕籠は駕輿丁かよちょうと呼ばれる衛府の職員が担ぎ、また綱を引いて移動した。綱を引いたのは威光を示し警備をするためであったと思われる。後に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したものの足利尊氏に敗れて都落ちする際に衛府の駕輿丁に代わり御輿を担ぐようになったのが八瀬童子である。

 一行は須磨の塩焼きを見に行くつもりでいたのだが、嵯峨天皇は長岡京跡に差し掛かると行列を止めさせた。そして小野岑盛を呼び寄せて言う。
「何やら淀川を伝って海の風が吹いて来るせいか喉が塩辛くなった。
 山側の道を使って向かうといたそう」
 海にはまだかなり距離があり少しも塩辛いと感じないので岑盛はおかしなことを言われると思ったが、帝の命令が優先する。
「はっ、然るべく」

 駕輿が動き始めてしばらくすると再び嵯峨天皇は岑盛に尋ねる。
「治部、そういえばこの道を山に向かって進むと丹波ではないか?」
「はい、そうなります」
「丹波であればかぐや姫の家に近いな。
 ふむ、よし、今日は須磨を取りやめて丹波に向かうといたそう」
「あっ、はい、では丹波のかぐや姫の家に向かいまする」
 岑盛はここに至りようやく嵯峨天皇が最初からその心算で、皇后、側室に悟られぬよう須磨行きの駕輿を仕立てさせてたのだなと悟った。
 駕輿はどんどん丹波の山の中に進み、とうとうかぐやの家に留まった。
 
    ◇ 
 
「ヒォヒァー」
 門番の下男が泡を食って言葉にならないかすれた叫びを上げて母屋に飛び込んで来たが、かぐやの父母は落ち着いていた。
「おい、落ち着け、そんなに慌てるな、今日、勅使がいらっしゃるのはあらかじめわかっていたことではないか」
 既にこぎれいな水干姿になってた父はいつもの勅使に挨拶しようと家の前に出て驚いた。そこには初めて見る大きな駕輿が止まっており、山の道全体を衛府の正装をし刀を腰に差した百人余りの駕輿丁が埋め尽くしていた。
 駕輿の脇から治部大輔小野岑盛が降りて来て笑った。
「父上殿、今日は帝が自らお越しになりましたので、ご案内をお願いいたします」
「ひっ!み、帝がっ、ここに」
 
 すぐに駕輿から黄色い御引直衣の裾を従者に持たせて嵯峨天皇が降りて来ると父は腰が抜けそうになった。
 嵯峨天皇は微笑みを浮かべて近づいて来て声をかけた。
「その方は昔県主であったそうじゃな、世話になるぞ」
 そう声をかけられても父は「ははあ」としか返事が出ない。まさか、かように辺鄙な土地を、天子様が突然に訪れるとは夢にも思わなかったのだ。
 父は、恐縮のあまり雲を踏む心地で帝を家の中に通した。
 
 侍従が板敷の床に持ち込んだ厚畳を敷くと嵯峨天皇は胡坐を組み、従者に大きな扇をあおがせて言う。
「先日、朕が使いに姫から返事もさせず空しく帰したこと、非礼なふるまいであろう」
 帝に咎められた父は床に鼻を押し付けてあやまった。
「は、非礼の段は、幾重にもお詫び甲し上げます。
 なにぶん山奥育ちの頑なな娘でして、この老いぼれ以外には男の姿を見たこともあまりなく、男を鬼か何かのごとく避けておるのでございます」
「ふむ。今日は会えるのだろうな?」
 帝は笑みを浮かべて催促した。
「天子様のお望みとあらば、会うことは会わせましょうが……。
 まこと頑なな娘につき、はたして畏れ多い無礼をはたらかぬかと心配でございます」
「かまわぬ、案内せよ」
 帝が命ずると母がかぐやの部屋案内した。

「かぐや、天子様がじきじきにおいで下さったのだよ」
 母が戸を開けるとかぐやは几帳の陰に隠れた。
「かぐや、無礼のないようになさいよ」
 嵯峨天皇はまわりこんでかぐやを覗き込もうとするが、かぐやは慌てて扇で顔を覆う。
「姫、その扇、取って、顔を見せよ」
「かぐや、父母のためだと思ってどうか無礼をはたらかないでおくれ」
 母にそう言われると、かぐやはやむなく扇を下げた。

 すると嵯峨天皇は息を呑んだ。
 噂に勝る、かぐやの美貌を目にして、嵯峨天皇はたちまち激しい恋心を覚えた。
「これは、そちは朕のどの妃よりも美しい」
 嵯峨天皇はそう言ってかぐやをつかまえようと近寄ってくる。
「お寄りにならないでください」
「駄々を言うでないよ」
「私には鬼がついております」
「ふむ、朕には高雄山寺の空海がついておる。
 そちの美しさを手にするためなら鬼も恐くはないわ」
 嵯峨天皇はかぐやに微笑みかけて近づく。
「お許しください」
「逆らうでないよ」

 嵯峨天皇の手が肩に触れようとすると、かぐやはこういう時に備えていた匕首あいくちを取り出して白分の胸に向けた。
「それ以上近づかれたら死にます」

 これほどまでの凄まじい拒絶に会うとは誰も考えつかないだろう。さすがの嵯峨天皇もそれ以上近づこうとはせずに父母の元に戻った。
 岑盛がすぐ駆け寄って来た。刀の束に手をかけているのは命令あらば姫を斬ろうという準備である。
「御傍についていず申し訳ありませぬ。御上、お怪我は?」
「大丈夫じゃ、別に朕に刃物を向けたわけではない」
 父母は顔を強張らせて床に額を貼り付けて震えている。
「申し訳ございません。とんでもないご無礼を働きまして」
 嵯峨天皇は父母に微笑んで見せた。
「姫の無礼は気にするな。またまかるとしよう」
 言い残して嵯峨天皇は満たされない思いのまま内裏へ帰った。

 その後も再三に渡り求婚の勅使が遣わされ、かぐやと両親の相反する悩みは深まるばかりだった。
 
    ◇
 
 十日過ぎた夜、広忠は嬉しそうな顔をしてやって来ていつものように小声で言った。
「かぐや、良い案が浮かんだぞ」
 かぐやも微笑んで聞く。
「どのような案でございますか?」

 広忠は顔を近づけて囁いた。
「かぐやは月に帰ると嘘をつけ」

 広忠の突拍子もない思いつきにかぐやは口を開いてびっくりした。
「月に帰る……そのようなお伽噺は聞いたこともありません。どうしてそのような突飛なことを思いつかれました?」

「うむ、いつものように猪を待ちながら、ふと脇の大木にある巣を眺めていたんじゃ。
 すると一匹、また一匹と蜂が巣に帰るのが見える。
 そうして巣を見るうちに、急にその巣が月の形に見えての、これだと閃いたんじゃ」
 かぐやは口を開いたままうなづいた。
「わしもそうだが、かぐやの養い親はかぐやの実の親が誰なのか知らない、そうだな?」
「……ええ」
 かぐやは相槌を打つと寂しそうに俯いた。
「そこでひと芝居打つのだ。
 かぐやは実は月の人間で、次の満月には月から迎えが来てどうしても帰らねばならないと告白する。
 だから、たとえ天子様の求婚でも受けられないのだと断れ」

 かぐやは疑わしそうに問いかける。
「そのような嘘であきらめてくれましょうか?」
「いや、すぐにはあきらめないだろう。
 きっと天子様は、次の満月に軍勢にものを言わせて、かぐやを月からの迎えに渡すまいとするはずじゃ」
「しかし、そもそもが嘘なのですから月からの迎えなど来ないでしょう?
 嘘がばれてしまうではないですか?」
「うむ、そこで俺が月の迎えを作って空に飛ばすのじゃ。
 軍勢がニセの月の迎えに見とれている間に、俺がこの床下から、かぐやを攫ってしまうのだ。
 されば父母も、帝も、かぐやは月に帰ってしまったと信じて、あきらめてくれるぞ。
 どうだ、うまい計略だろうが」

 かぐやは不安そうに言う。
「うまくゆけば良い案ですが、うまくゆくか……」
 すると、広忠は自信たっぷりに胸を叩いた。
「きっと俺がうまくゆかせてみせるぞ」

 

 

第十章 月よりの迎え

 
 
 数日後、丹波の里の空に半月が昇る頃、かぐやは頭を垂れて、両手を揃えて床につき、養父母に切り出した。
「父上、母上に申し上げたいことがあります」
 母や父は不思議に思い問いかける。
「なんだい、かぐや?」
「あらたまって、どうしたんじゃ?」
 すると、かぐやは急に涙を床にこぼした。涙はひとつこぼれると、後からふたつみつと続いてかぐやの声はかすれて出そうにも出ない。
「こりゃまたどうしたんじゃ?」
「泣くようなことがあったんだね」
 しゃくり上げそうな息をやっとのことで整えてかぐやは告白した。

「長い間、まことの娘より大事に育てていただき感謝の言葉も言い足りません。
 時が満ちる今となっては全てを包み隠さず申し上げなくてはなりませぬ。
 実は、かぐやはこの地の者ではなく、もともと月の都にいた者なのです」

 父母は胸を突かれたように驚いた。
「何を言い出すのだ!」
「嘘でしょう?」

 かぐやは黙ったまま首を横に振った。
 父は言って聞かせる。
「たしかに初めは朱雀門の下に捨てられてあったが、我と女房して大事に世話し、育ってゆかれし様子は、まっこと普通のおなごでしたぞ。
 いや、子のない我らが言うだけなら間違いもあろうが、乳を分けてくれた村の者も手伝いに来てくれた者たちも、よいお子じゃ、初めてにしては育て方を心得てなさると、口々に褒めてくだされたからには間違いはありませんぞ」
「いいえ、かぐやは月のお上より、この世にて為すべきことを申しつかり、その為すべきことをずっと覚えたまま、赤子の体に戻されて、この地に遣わされたのでございます。
 為すべき事も成った今は、来たる満月の晩に月よりの迎えが参ります。
 その迎えに導かれ、私は月に帰ります。
 ここまで育てていただいた父上母上にも、残念ながらお暇を申し上げねばなりませぬ」
 かぐやは頭を垂れてあやまった。

「そのような悲しい事を言わないでおくれ」
「天子様の求婚がいやでそのような嘘を言われるのだな?
 畏れ多いことだがかぐやがそれほどまでにいやと申すのならば、私が勅使に『わしの考えが変わった。娘は絶対にやれん』と言い張ってもよいよ。それでかぐやの心が助かるのならばわしはお上に捕まって罪人にされてもよい」
 父の真の愛情のこもった言葉にかぐやはいよいよ感激して涙を流す。
「父上はそのようなことをお考えならないで下さい。
 父上をそのような目に逢わすぐらいなら帝の元へ参る方が楽です」
 かぐやが言うと、父はその言葉尻にしがみつく。
「おお、では帝の妃になってもよいのだな?」
「いいえ、それは出来ません。私はまことに月の者なのでございます。
 帝の妃になったところで月よりの迎えが来れば月に帰らねばならぬのです。
 いずれにせよ月に帰らねばならぬのですから、その時までずっと帝よりも大事な父上母上のお傍にいたいのが私の気持ちなのです」

「いやじゃ、お前と離れたくない。この婆に嘘じゃというてくれ」
「母上、残念でありますが真のことなのです。
 嘘でない証拠に来る満月の晩には、きっと月よりの迎えが参ります。
 どうぞ、信じてください」

「そのように言われても、俄かに信じられようか」
 父は納得いかない様子だが、母は感じるところがあったらしく、
「思い返せばあまりに強情に殿方を拒みなさるから、何か言えぬ理由があるのではと思ってはおりましたが、なるほど、そのような訳があれば、殿方を迎えることができなかったのですねえ」
 そう言うとその場に、よよと泣き崩れた。
 そこで紙燭が尽きて部屋の明かりが月のみとなると、さっきは罪人にされてもと啖呵を切った父が弱気になってまた未練を言い出す。

「育てられた恩を忘れて、我等を見捨てると言われるのか?」
 父の言葉にかぐやも床に打ち伏して声を上げる。
「そのように言われては、かぐやはいっそここで死んでしまいとうございます。
 本当に大事にしていただき、月の親よりもありがたく恩い寄す父上母上です。
 どうして恩を感じないことがありましょうか」

 かぐやはさめざめと泣いて、後はもう声にもならない。
 父ももう泣くしかない。

「ここまで育ててきて、そろそろ孫の顔を見れると思ったが、そのような夢にも思わぬ成り行きで娘と別れるとはなんとも辛すぎる。月よりの使者を断ってはもらえぬか?」
「どうか、この婆を哀れと思うなら月には帰らぬと言ってくだされ」
 父母は涙声に入れ替わりに懇願するけれど、かぐやの泣き声は打ち寄せる波の音のように高まったり小さくなったりしながらも決して、その首を縦に振ることはなかった。
 
    ◇
 
 翌日の昼下がり、内裏に戻った勅使の小野岑盛は急いで帝の昼御座に入ると平伏した。
「おお、治部、帰ったか、姫の機嫌はいかがじゃった?」
 のんびりとした嵯峨天皇の口調に岑盛は緊張して返事する。
「畏れながら、一大事と覚えまする」
「一大事とな?」
「はっ、此度はかぐや姫はまろと対面いたさず、父が申しますには、かの姫はまことは月の姫なりと」
 帝は驚いて、腰を浮かせた。

「な、なんと、かの姫は月の姫と申しておるのか?」
「仰せのごとく。
 月の姫なれば、次の満月には月に帰ると申して泣き明かしておるそうです」

 帝は扇をピシャと音を立てて閉じた。
「面妖な、それはまことか?」
「お疑いなさろうとも、まことに月よりの迎えが来れば明らかとなろうと、かぐや姫は申しておるようでございます」

「ふむ、あいわかった。
 それで、朕がじきじきに召しても断ったのだ、謎が解けたわ」
 そう言うと、帝は自ら昼御座の畳から駆け降りて御簾をめくり上げてまだ明るい空を睨みつけた。
「衛府の中将をただちに召し出せ。わが軍勢を姫の館に差し向け、月よりの迎えを追い返すのじゃ」
 薬子の変での兄帝との戦においても、そのように取り乱して御簾を跳ね上げた様を見たことがなかった小野岑盛はびっくりして、返事が遅れた。
「か、かしこまってございます」
「そう、さらに急ぎ都中、いや畿内中の大工を召し出せ」
「はっ、仰せのごとく」

 衛府の中将藤原桜麿が参内するや、帝は来たる満月の夜には内裏の衛士の三分の一をかぐやの家に差し向けることを命じた。
 同時に近隣の諸国に力自慢の者や武術の達人を臨時に招集する宣旨を下す。
 都、畿内の大エも召し出され、来たる満月までに、姫の屋敷のまわりに巡らされている生垣を、内裏より高くて堅固な土塀に築き変えるように命じた。
 こうして万全の準備が進められた。
 
    ◇
 
 集められた大工たちによって早速かぐやの家の生垣を土塀にする造成工事が始められた。
 突貫工事のために夜間もかがり火が絶え間なく灯されて、左官たちの息の合った声が響き渡る。本来は乾燥のための日数が必要なのだが半月から満月までの一週間で完成させるために芯として生け垣や立ち木をそのまま生かしてそれを型枠で覆って土、石灰、フノリ、菜種油、藁を混ぜ合わせたものを盛り込み、突き固めるのだ。
 左官たちの仕事が乾燥待ちになっても、右官である木工大工たちは屋根の上に武者の足場をめぐらす工事にかかりきりだ。
 かぐやの父母たちは夜も賑やかな気配に熟睡出来ない日々が続いたが、かぐやを月の使者から守るためなのだから文句が言える筈もない。

 一方、広忠は留守がちになったが、満月の三日前にはかぐやの部屋を訪れた。
「かぐや、元気でいたか?」
「ええ。ただ工事が賑やかなので夜も昼のように騒がしくて、父母はかなり困っておるようです」
「かぐやと静かに過ごしたかろうが気の毒じゃの」
「はい。広忠様は月よりの迎えの仕掛けは準備出来たのですか?」
「うん、まあ完成したようなもんじゃ。それよりかぐやと暮らす新居も出来たぞ」
「まあ、それはご苦労様でした、もちろん悪さはしてないでしょうね?」
 かぐやは少し首を傾げて広忠を見た。
「もちろんじゃ。うまい具合に貴びとに打ち捨てられた家があったから金もかけずに出来たのだ、何も心配いらんぞ」
 広忠の自信あふれる態度にかぐやは安心した。
「それは好都合でしたね。広忠様が昔住んでたという洞穴に住むことも覚悟しておりましたが、実のところ洞穴は少し嫌だったのです」
「かぐやでも嫌なものがあるのだな。今回の住まいは貴びとが世捨てびとにならんと山の中腹に建て始めたところだから床はここより上等だ」

 そこは半年も前からかぐやと住む新居が必要と考えていた広忠が、時々猪や鹿などを買ってくれてる顔見知りの行商人から聞き出した耳寄りな話だった。その家は大工があらかた完成させたという頃に貴びとが急に心変わりし投げ出してしまい、大工も怒って捨て置かれているというのだ。
 場所はかぐやの家より都に近いらしく、広忠何日もかけて探し出してみるとその作りかけの家は西の斜面にあって道から目立たない格好の隠れ家になっている。

「ただ屋根と床はちゃんとあるのだが壁がまだ足りないままだった。そこで囲炉裏の間の横に連なるふた部屋のうちひと部屋を部材取りにつぶして壁を完成させたんじゃ。だから少しここより狭くはなる。すまんの」
「いいえ、広忠様と暮らせるなら充分です」
「そうか。かぐやはよい妻じゃなあ」
 広忠はかぐやを抱き寄せた。
 
    ◇
 
 当日になると朝のうちから、兵士たちがかぐやの家に続々と集結した。
 騎馬に乗ってやって来た藤原桜麿の衛府の中将という役職は令外の官、つまり兼職であり、本職は小野岑盛と同じ参議という職分である。衛府の中将は馬から降りると真っ先にかぐやの父に挨拶する。
「帝より姫の警護に千人の兵を賜りました」
「まことに畏れ多いことです」
「いかなる大軍が迎えに来ようとも、姫の部屋には近づけませんゆえ、安心召されい」
「はい、ありがたいことです」
 父はひしめく兵たちを見て安堵した。

 昼になると、ある兵たちは屋根より高い足場に昇り、ある兵たちは改築された土塀に上がり、ある兵たちは庭に並び、残りの兵は土塀を囲むように並び、屋敷はすっかり守り固められた。

 夕方には勅使の小野岑盛が到着した。
 勅使小野岑盛が懐から大きな紙を取り出して見せると、衛府の中将以下が畏まって膝まづいた。
「姫君を守り通した暁には、もれなく恩賞を遣わす」
 宣旨が読み上げられると、衛府の中将が答礼する。
「ありがたき仰せ、確かに承りました」
 衛府の中将は立ち上がると、振り向いて部下たちに言う。
「皆の者、姫を守りとおさば、主上より恩賞を頂けるそうじゃ。
 心してあたれ、決してぬかるな」
 すると「おお」と、どよめきのような歓声が上がった。
 兵士たちの士気はいやがうえにも高まったのである。

 さらにかぐやには嵯峨天皇から女官が二人送られて部屋に閉じこもることとなった。
 父母はこれならかぐやを攫われることはあるまいと安心し、母はかぐやの部屋に入り、父は部屋の外の縁側に座ることとした。
 
    ◇
 
 やがて宵闇が垂れ込めて東の空に月が昇った。
 野分が近づいているのか生温かい風が吹いて普段より雲の流れが速いようだ。
 塀の内外、そして家の建物の周りには煌々と篝火が焚かれて、ニ千のいかつい眼が、欠けるところのない美しい満月を睨みつけた。

「見逃すな。
 空をよぎるものはたとえ蚊一匹といえども矢を射かけるのじゃ。
 決して屋敷に近づけるな」
 衛府の中将が怒鳴ると、兵士達は矢を弦にかけ、大刀を抜き、空を見張った。

 父は蔀戸を堅くおろしたかぐやの部屋の外縁に腰をおろし、使い方も知らない刀を腰に差していた。
 そして、時々、室内に詰めている朝廷から差し向けられた女官や、妻、かぐや本人に向かい「大丈夫か、安心せよ」と声をかけていた。
 すると姿は見えなくとも中から妻が「かぐやの手は私が握って放しませんから安心してください」と返事が返る。

 やがて夜も更けたこくであった。
 交替のため屋根に昇ってきた兵士が叫んだ。

「なんだ、あの光は!」
 兵士たちはずっと南天にある満月ばかりを睨んでいたのだが、叫び声に北の空を振り返ってあっと驚いた。
 そこには、満月とは、別の小さな菱形の光るものがいつの間にか浮かんでいたのだ。
 それは大きさこそ満月にははるかに及ばぬものの、明るさは見劣らない。
 しかも、なにやら菱形の上部の左右に、銀色の目がきらりきらりと光ってまるで魔物のようである。
「あれが月よりの迎えに相違ない」
 兵士たちは今しがたまで瞼を重くしていた眠気を一気に払った。
 その迎えはゆっくりと近づいてくるようだ。
「それっ、射落とせー!」
 号令一下、夥しい数の矢がヒュンヒュンと音を立てて放たれるが、菱形の光る魔物には一本も届かないようだ。
 しかし、菱形の光る魔物の方もそれ以上屋敷に近づいて矢に当たるのが恐いらしく、近づくのを止めて宙空に留まっている。
 それから延々と兵士と菱形の光との睨み合いが続いた。

 やがてこくを過ぎた頃だろうが、忽然と菱形の光る魔物は消えてしまった。

「やったぞ、怪しの光る魔物は恐れをなして逃げ去ったぞ」
 兵士達は恩賞が近づいたと大歓声を上げる。
「これこれ、皆の者、引き続き気を緩めるでないぞ。まだ月は空にあるではないか」
 衛府の中将は兵士たちの油断を引き締める。

 それから中将はかぐやの部屋の縁側に陣取る父に怪しの月が消えたことを告げに近寄った。 夜風に白い髪をなでられ、うつらうつらしてる父の肩を中将が揺り起こそうとした。
 まさにその時、かぐやの部屋の中から「あれー」と女官の悲鳴が上がった。
「何事ぞ?」
 中将は蔀戸の外から怒鳴る。
「姫様が、姫様が消えました!」
「ほんの僅か、目を離した隙に消えてしまわれた!」
「黒い鬼のような影が見えました!」
 女官達の叫び声に、中将は無礼を承知で室内に踏み込んだ。

 女官の右往左往する閨にかぐやの姿はなく、傍らにいた母は姫の表衣を掴んだまま失神している。
「姫君が攫われた、屋敷の内外を急いで探せ」
 中将は大声で外に叱咤した。
 兵士たちは一斉に動き出す。
 兵士は、かぐやの部屋の床下にも這い入り調べたが、そこにはとても人力では動かせない大きく平たい石があるのみだ。

 かぐやの父は床にぐったりと倒れている妻を揺さぶる。
「どうした、お前がついていながら、かぐやを攫われてしもうたか?」
 母はかぐやの姿がないのに気付くとばたばたと這いまわった。
「かぐやは、かぐやはいずこ?」
 父は肩を落として答えた。
「どうやら月の迎えに攫われたようじゃ……」
「ああ、ずっとかぐやの手を握っていたのに、急に目を塞がれ腹を突かれてしもうて」
 母はそう言うとかぐやの表衣に顔を埋めて号泣した。
 
    ◇
 
 その頃、広忠は林の中に降ろした大凧を拾い上げた。それは二枚の菱形の大凧がニ尺ほどの骨組みを挟んで向き合う形で、広忠は大凧から三枚の手鏡を外すと、大凧をぱらぱらに壊して土に埋めた。
「まこと、かぐやの鏡はよき鏡よの、
 おかげで、裏の凧に仕掛けしたかぐやの鏡が照り返す月の光で、表の凧は月に負けぬほど輝き、表の凧の脇につけた小さな鏡はくるくるまわって、まるで、闇にふたつの目がある光る魔物が浮かぶようだったぞ」
 広忠が鏡を返しながら嬉しそうに言ったが、父母と別れた辛さに包まれたかぐやは黙って頷くのが精いっぱいだ。 
「さあ、かぐや、急ごう」
 広忠はかぐやの手を引くが、かぐやは涙で濡らした頬を、篝火に浮き上がる家に向けて動かない。
「かぐや、こんなところでのんびりしてると探索の追っ手が来るぞ」
 広忠が急かすと、かぐやは頬の涙を拭って頷きぽつりと眩いた。
「いずれは別れるのが、この世の定めですものね」
「ああ。さあ俺の背に乗れ、行くぞ」
 広忠はかぐやを軽々と背負うと、都に近い山麓にある新しい住まいに向けて獣道を駆け出した。
 

 

第11章 新居での生活

 

「さあ、かぐや、着いたぞ」
 広忠がそう言って、かぐやを家の前で背中からおろした。
 都からは遠いが、かといって道が細く消えそうなほどの山奥でもない。里を少し入った西向きの斜面の出っ張った大岩の根元に建つその家は、出っ張った大岩のおかげで下の道からは見通せないため隠れ家になりそうだ。
 
 世捨てびとが住もうと思い付きで建てたといってもその造りは貴びとの発想だけあってかぐやの育った家よりも大きくてまだ新しい。
「まあ、なんと立派な……」
 かぐやは思わず声を上げた。

 それを見て広忠も得意満面となった。
「わしらの家じゃ。普通なら寝殿造りに使う麩焼きだか屁焼きだかいう木材だからしっかりしておる」
「立派すぎます。本当に勝手に住んで大丈夫なのですか?」
 かぐやが少しきつい目で問い質すと、広忠は慌てた。
「わしが勝手に決めたのではないぞ。
 猪を買ってくれる行商人が『あんなところにわざわざ住む暇人はおりませんよ。大工から聞いた話では壁もまだ出来てないと言います。それに竹を山の反対からぐるりとまわして水を渡す工事もまだ手つかずなので水汲みが大変すぎて誰も住まないぞと申しておりました』とのことでな。
 そこで『わしが自分で水汲みして住んでもええかの?』と聞いたら、
 行商人は『建てた貴びとは今では途中まで建てたことさえ忘れておるでしょうし、大工がこんなところに誰も住まんと言うてましたからな、広忠殿が住んだところでどこからも文句は出ますまい』と請け合ってくれたのだ」

 かぐやは小首を傾げた。
「それは、広忠殿の猪が目当てで広忠様が喜ぶように申したのではありませぬか?」
 かぐやに問われると、広忠はうろたえて言う。
「そ、そうか。ではどうする?
 昔住んでた山の洞窟をなんとかまた住めるように直してみても構わんぞ。
 ただあそこはな、寝ている間に膝にじっとりと冷たい感じがして、続いて腹を冷たい舌で舐められた気がして目を開くと胸まで蛇が這い上がっていたり、鼻に蜘蛛が入り込みくすぐったさにくしゃみをして起きると口の中でムカデが千切れて半身だけで動いてたりといろいろ驚かされるが、かぐやはその程度の事ならば我慢してくれるか?」

「……」
 かぐやは想像するだけで鳥肌が立った。

「かぐや、我慢してくれるか?」
 再度問われてかぐやは仕方なく答えた。
「で、では、こういたしましょう。しばらくここに住みますが、誰かに文句を言われたらすぐに明け渡せるように荷造りの仕度もしておくのです」
 かぐやがそう言うと、広忠は喜んだ。
「そうか、わしもこっちの方がよいと思う。
 水はわしが毎日汲んでくるが、大きい甕を置いておけば雨水も使えるから不便はない筈じゃ。
 そうそう、名前はよう知らんのだがな、庭にかぐやの好きそうな花の木がいろいろあるんじゃ」
 広忠は広忠なりに、かぐやのことを気遣ってくれているのだ。そう思うとかぐやは微笑んだ。
 そこで広忠がかぐやに注文を出した。
「それから飯の時刻だが、前の家ではお日様がだいぶ上がってから飯を食ってたが、あれだと飯の前に腹が減ってしもうて力が出ない。朝早うに飯を作ってもらいそれを食べてから狩りに出たいんじゃが……」
 もちろん前の家ではかぐやが釜から別の椀によそってこっそり部屋の広忠に運んだのだが、その時刻では遅いというのだ。
「わかりました。広忠様のために早起きして朝にご飯を作りましょう。
 それで私も考えていたことがあります。前の家では日が暮れた頃に紙燭を灯して夕飯を食べていましたが、紙燭は高いですから、普通の家のように日の暮れる前に食べるようにしたいと思います。広忠様も必ず日が暮れる前にお帰りください、よろしいですか?」
「ああ、いいとも」

 こうして二人の生活が始まった。
 かぐやは包丁さばきはそれほど得意ではなかった。正倉院に実物が残されているが、平安時代の包丁は細い刀のような形で、今のような形になるのは江戸時代に入ってからのことである。
 かぐやも小さい頃は料理する養母にくっついて時々触ったりしていたのだが、次第と次々と殿方から歌や文を貰うようになり着物も重ねて着るようになると養母もあなたは包丁仕事はよいからと近づけなくなってしまったのだ。かぐやほどのとび抜けた器量があれば財力もある良い婿を迎えるだろうし料理人ぐらい雇えるようになるに違いないと思うのは無理からぬことかもしれない。
 しかし広忠と二人で暮らすようになった今、猪などの解体は広忠に任せるとしても、普段の食事はかぐやが料理するしかない。
 
最古の包丁
 
 そこでかぐやが釜の蓋をひっくり返したまな板の上で、牛蒡や葱、里芋、蓮根などをごりごりと鋸で引くようにしていると、広忠が心配して様子を見に来るのだ。
「かぐや、危なっかしいのう、わしが切ってやろうか?」
「いっ、いえ、これはおなごの仕事です、広忠様はあっちで待っていてくだされ」
「そうは言うが、その調子では牛蒡がふたつになるのに夜中までかかりそうじゃ」
「よいのです、話しかけないでくだされ、気が散ります」
「そうか、くれぐれも指を切るなよ」

 そこまで言われるとかぐやも憤慨して言い返す。
「いくら私でも牛蒡と自分の指の区別はつきますよ」

 言われた広忠はこれはまずいことを言うてしもうたわいと「おお、すまんかった」と引き下がるのだ。
 そうして出来た味噌汁や鍋ものは妙に具が大きく、そのため中まで火が通ってないことが多い。
「いかがです、広忠様」
「お、おう。そうよな、なかなかうまいぞ」
 広忠の作り笑顔を見てかぐやはほっとして頷いた。
「ようございました」
「うん。わしはよいのだが具はもう少し小さく切らぬと、かぐやの小さな口にあわんだろう。次からはそのように心得たらどうじゃ」
 そう言ってやるとかぐやは噛み切れぬ牛蒡を椀に戻して笑う。
「たしかに。私の口には大きすぎますね」

 こんな調子で当初は失敗続きだった炊事だが、ふた月もせぬうちに飯炊きも包丁使いも上達し、鮮やかな衵の上に襷をかけた奇妙な姿もさまになってきた。

 広忠の方は猪を追ったり、雉子を射落としたり、川魚を獲ったり、畑を耕したりして、二人が食べてゆくのに充分な食糧は楽々と得ることが出来た。
 獲物が余れば都と行き来する馴染みになった行商人に売り、物々交換するだけではなくかぐやに教えられて少し銭に替えて貯えることも覚えた。
「これが貯まればかぐやの絹の衣を買えるな」
 広忠が言うとかぐやはかぶりを振る。
「私の衣などもうよいのです。それより広忠様の狩りや畑の道具を買いましょう」
 それがかぐやの望みだと言うのであった。
 
    ◇
 
 その日、お日様が高さを極めて下がり出すと広忠の腹がグウと鳴った。
 昼まででは腹がもたないからとせっかくかぐやに朝早くに飯の時刻を移してもらったのに、今度は夕飯までの間が開きすぎて飯なしでは持ちそうもない。
 困ったことじゃ。わしの大きな体では一日三度も飯を食わねば足りんようじゃ。
 とは言っても家に帰って飯を作れではかぐやが大変になる。ここはちょいと旅人を脅して金を巻き上げて飯屋に入ろう。それぐらいなら悪事にも入らんだろう。ただ絶対かぐやにばれんようにするしかないな。
 広忠は山を越えて大きな街道に入った。ここならば仮に追捕の命令が発せられても衛府の追っ手には家の場所はわかるまい。
 街道が少し曲がりくねって見通せないところでさっき仕留めた猪を脇に置くと、広忠は通りかかった旅人に狙いを定めた。
 武器は要らない。旅人の襟元を掴んで脅すだけだ。
「おい、お前、ちょっと金を置いてゆけ」
 巨体の広忠が凄めば旅人はなんとか解放されたいとあっさりと財布を差し出すのだ。
 こんなに簡単だと広忠にも悪事を働いた気もしないほどだ。
 だが、かぐやはとんでもない悪事と言うに違いない。広忠は街道の飯屋で飯にありつくと悪事を悟られるような土産物は買わずに、何げない顔を作って帰って来た。

「広忠様。お帰りなさい。
 今日は行商の方が前に頼んでおいたお酒を届けてくれましたよ」
 そう言って笑顔で出迎えたかぐやを見た広忠は、ロを開いてびっくりした。
 姫はいつもの艶やかな絹の衣ではなく、庶民の着る鼠色の小袖の帷子かたびらを着ているのだ。
「かぐや、その汚い衣はどうした?」
 広忠が聞くとかぐやは袖を手挟んで腕を開いて見せる。
「広忠様のおさがりを手直ししたのです。
 なかなか動きやすいですよ」
「なぜ綺麗な装束を脱いだんだ?」
「わたしたちはもう世間並みの夫婦なのですからね、つましく暮らさねばならないのですよ」
 広忠は納得ゆかない。
「しかし、ない物ならともかく。似合っているものをわざわざ脱ぐこともあるまい」
「いいえ、絹などすぐに傷んで惨めになるだけです。
 だいたい裾を引きずる衣では一歩も外へ出られません。
 これからはかぐやも少しは畑仕事も覚えて広忠様のお役に立ちたいのです」
 広忠は頭を横に振った。かぐやがどんな道理を立てようとも、ずっと絹装束を着ていてほしかった。
「いいや、かぐやが畑仕事なんぞすることはない。
 かぐやには麗しい絹が似合うんだ。
 新しい衣ぐらいはなんとかするから、行く末など心配せずに絹を着ろ」
 広忠が苛立って命令すると、かぐやば鋭い調子で釘を刺した。
「世間並みの実入りでどうして絹が着られます?
 広忠様はまさか盗みで行く末を賄うおつもりなのではないでしょうね?」
「そ、そういう訳ではないが」
 かぐやは広忠が猪を一頭ぶらさげただけなのを見て言う。
「今日は獲物が少ないですね、広忠様ともあろう方が一日じゅう歩いてこれだけという筈がありません。
 どこで何をなさってたのです?」
「うん、ほ、ほれ、干し肉がだいぶあったろ、だから今日はのんびり昼寝をしたんだよ」
 かぐやは動揺した広忠に近寄り、懐に手を差し入れようとする。
 広忠は素早くその手を払ったが、その拍子に背負っていた矢立てから矢がぱらぱらとこぼれ落ち、その矢を拾おうとかかんだ。すると今度は旅人から巻き上げた財布が懐から、こぼれ落ちてしまった。

 かぐやは、広忠のものではない、その財布を素早く拾い上げ鼻先に突きつける。
「これはなんです?」

「あっ、そ、それはのう」
 かぐやはつぶてのような勢いで言葉をぶつけた。
「なんと情けないこと、
 かぐやがこんな格好になってるのは広忠様に悪事をやめてほしい一心なのですよ。
 それがわかっていただけませぬか?」
「つい、出来心でな、すまんかった」
 広忠は照れ隠しに頭を掻いて謝った。
「いつになったら悪さが治まるのです?」
 なおもかぐやが厳しく迫ると、広忠は姫を抱き寄せて無理やりに唇を吸った。
 姫は広忠の体を力の限り押し返して怒る。
「いつもそうして話をうやむやにされる。
 どうして改心してくださらぬのです?」
 目尻を弛ませて聞いていた広忠は答える。
「そのうち改心するさ」
 そして、広忠は今度はかぐやの懐に手を滑り込ませようとした。
「やめてくだされ」
 かぐやは広忠の手をピシャリと叩いた。
 広忠はムッとして言い返す。
「お前は俺の妻じゃ、文句を言うな」
「かぐやはきちんと話をしてほしいのです」
「俺はかぐやにちゃんと約束してるぞ。
 とっとと赤子を産んでみせろ。
 されば俺も誓い通り、きっぱり足を洗ってやるわ」
 広忠が怒鳴りつけると、かぐやは空を食むように口を動かし、どっと涙を溢れさせると、身を翻して、逃げるようにして奥の部屋に駆け込んだ。
 広忠は瞬時に後悔した。
 かぐやとて心から子供を欲しているに違いないのだ。それが果たせないのは少しもかぐやの罪ではない。広忠は言い過ぎを悟って大きな足音を立てて姫の後を追いかけた。
「かぐや」
 呼びかけると、かぐやは妻戸の向こうで鴫咽を上げたままで答えない。
「おい、かぐや」
 再び呼んだが、かぐやは答える気配がない。
 言い過ぎを詫びる気でいた広忠だったが、二度三度とかぐやの返事がないと生来の短気から腹が立ってきた。
 結局、やさしい言葉の代わりに、
「勝手に泣いてろ」と言い捨てて囲炉裏の横で寝転んだ。

 そしてふて寝を決め込んだ広忠だったが、愛しいかぐやと喧嘩してみると、おもむろに空海のあの予言が思い返されて来る。
『お主はその妻と生き別れることになろう』
 その言葉はずっと昔に一度聞いたきりなのに、なぜか今になってはっきりと広忠の耳に響いて来るのだ。
 そうなると空海の言葉が次々と蘇って来て、もう寝つけなかった。
『お主はその妻と生き別れることになろう』
『そういう運命じゃ』
 広忠が「そんなことはない」と言っても記憶にある空海の言葉は繰り返すだけだ。
『妻の願いは、お主が、悪から清くまっさらに足を洗うことじゃろう、違うか?』
『すべては宿命ゆえあきらめよ』
『せいぜい悪事を謹んで淡々と生きよ』
「そんなことはない」

 ようやく眠りにつけたと思ったら今度は明け方になって実に嫌な夢を見てしまった。

──追い剥ぎをはたらき予想以上の大金を手に入れて、ほくほくして家に帰ると、かぐやが艶やかな絹を着て微笑んでいる。
 広忠も笑みを浮かべて「今日はたんまり儲けたぞ」と言うと、姫は徴笑んだまましなやかに床に両手をついて
「ようございましたな、かぐやもこれでようやく広忠様にお暇を申し上げる決心がつきました」と広忠に別れを告げるのだ。
 広忠はびっくりして「行くな、行かないでくれ」と懇願して追うが、姫は笑いながら闇に消え入ってしまう。
 広忠は手を伸ばそうとするが、見ると両腕がなくなっており、空しく絶叫する。
 どっと汗をかいて広忠は目を覚ました。

 慌てて上半身を起こして台所を見やると、かぐやはいつものように朝飯の支度をしており、広忠は、ほっと息を吐いた。但し着ている着物は鼠色の小袖の帷子だ。
 そうして広忠が膳につくと、もはやかぐやの様子は昨日とは違っていた。
「もうひとつ」
 広忠が椀を差し出すと、かぐやは無言で受け取りお代わりをよそって、無言で返す。
 今まで無言などということは一度もなかった。
 やはり、昨日のことを怒っておるんじゃな。広忠はそう感じて、思い切って照れる台詞を吐いてみる。
「うまいのう、かぐやのこさえた飯を食える俺は幸せもんじゃ」
 しかし、かぐやは自分の飯を黙々と食べるだけで、広忠の言葉に答えない。
「かぐや、行ってくる」
 そう言って広忠が腰を上げても振り向きもしない。
「行ってくるぞ」
 もう一度言ってみたが返事はなかった。
 もう何を言っても答えてくれぬのか。
 広忠は溜め息を吐いて、ひっそりと支度を整えると狩りに出かけた。

 
 

第12章 広忠の決心

 
 

 その朝、もはや寝床となった囲炉裏の脇で広忠は大あくびをして体を起こした。
 すると横の土間にはすでに鼠色の小袖を着たかぐやの姿があって飯を炊いたり、味噌汁の支度をしていた。トントントンと小気味良い音を立てて野菜を刻む音はかぐやの包丁さばきの上達を雄弁に物語る。
 その音を聞くうちに広忠は嬉しくなる。

 かぐやは今日もわしのために、わしより早起きして飯を作ってくれとるぞ。この分ならわしとかぐやは元のように仲良くなれるに違いない。
 ここで仲直りしようと言うてみるか。
 広忠はそう考えてどう話を切り出したらよいものかと心の中で想像してみる。
(おい、かぐや、いつまでわしに向かって黙り込んでるんだ。いい加減にして口を開け)
 ……これでは少しいかんな。まるで怒っておるようではないか。
 もう少し違う言い方がよいな。
 広忠は言い方を変えて想像する。
(かぐや、お前がそろそろ仲直りしたいと言うのならば許してやるぞ)
 ……こう言えばかぐやは(そう思ってたのです)などと言い出すだろう。
 うん、よし言うてみよう。

 広忠は囲炉裏端にあぐらをかいてかぐやを待った。
 かぐやが飯と味噌汁と漬物を乗せたお膳を広忠の前に置いた。
 そこで広忠は言った。
「あのな、かぐや、お前がそろそろ仲直りしたいと言うのならば許してやるぞ」
 かぐやはぽかんとした目で広忠を見た。
「こう見えてもわしは心が広いのじゃ。わしを育てた坊主はそう願って広忠と名付けたらしいぞ」
 かぐやは広忠から目をそらして言い放った。
「誰が悪いのかよく思い出してくだされ。悪いことをした者がまずあやまるのです。
 広忠様が改心してあやまるというなら、私が広忠様の弔いをなす時には閻魔様への詫び状を代筆してお持たせいたします」

 広忠はあっと空気を呑み込むと、怒りが噴き上げた。
「なんじゃとなんでわしが死ぬのじゃ?
 かぐやはわしに死んでほしいのか?」

「見損なわないでくだされ。そんなことなら最初から広忠様を夫に選んだりしません。私は広忠様に死んでほしいなどと露ほども思ったことはありませぬ」
 かぐやは射抜くような目で広忠を見た。
「ただ、今のように悪いことをしていては、いつかは怪我をするか、歳とって体が動かぬようになった時には、お上に捕らえられて打ち首になるかもしれません。
 その時に私に出来るのは広忠様に閻魔様への詫び状を持たせて差し上げることしかないのですよ。だから改心してくだされと申し上げてるのです」
「……うっ、ううぬ」
 広忠は荒い息を空回りさせた。腹が立ち癪に触ったが、かぐやは広忠を嫌って言うておるのではない、正に良き妻として夫の行く末を案じてくれているのだ。
 かぐやのありがたい真心がわかったので広忠は何も言い返せなくなった。

「さ、早う召し上がりなされ。私は庭の花の世話もあり忙しいのです」
 広忠は悔しさを噛み潰し飯を掻き込んだ。
 だがかぐやは広忠の食事が済むのを待たずに庭に出てしまう。
 広忠は弓矢を担いで庭のかぐやに言う。
「かぐや、行ってくるぞ」
「……」
 しかしかぐやはまた無言の行者に戻ってしまったようで何も返さない。
 広忠は溜め息を吐いて猟に出掛けた。
 
    ◇
 
 その日は獲物の足跡を見つけて待ち受けていても頭の中はかぐやへかける言葉を考えてしまい、獲物を逃がすことが重なった。

 ……こうなったら下手に出てお伺いを立てるのがよいかもしれんな。

(かぐや、お願いだ、仲直りして、おれと前のように話してくれ)

 ……お願いはおかしいな、わしの方が強くてかぐやを守ってるのだぞ?

 ……うん、その通りだな。

 ……いや、待てよ、今気付いたが、わしはあの坊主の言葉が不気味でたまらん。

 ……あれを封じたいならば恥を忍んで下手に出るのもやむを得んか。

 ……うん、坊主の言う運命を封じるためなら恥に耐えてもよいな。

 広忠はそう心を決めた。
 そうしてかぐやに発する言葉を口の中で唱えてみる。
(かぐや、俺が悪かった、仲直りして前のように俺と話してくれ)
 これでよい。夕飯の時に今度こそかぐやにあやまって仲直りするぞ。

 広忠はそう決めると日が暮れるだいぶ前に家まで帰り着き、空の甕を持って裏の湧き水の所にゆき、満ちた甕の代わりに空の甕を置いて、満ちた甕を持ち帰る。その水を少し使い足を洗い、甕は土間にすでにある甕に並べて置く。
 夕飯の支度をしていたかぐやは広忠をちらりと見ると声をかけずに包丁仕事に移った。

 かぐやは串刺しにしたしめ鯖を囲炉裏に立てた。古くから丹後の若狭湾で獲れた鯖は塩で〆て行商人が徒歩で丸一日かけて京の都まで運んだのだ。塩で〆るおかげで腐るのを防ぎ都ではちょうどよい味になる。かぐやの家では猪や雉を扱う行商人が鯖街道の行商人と交換した鯖が手に入るのだ。
 まもなく鯖の焼ける良い匂いが漂うと、広忠の腹がグウと鳴った。
 かぐやも顔をほころばせたが、慌てて手で押さえて笑い声は漏らさない。

 構わんぞ、ここは笑ってかまわんのに……。
 広忠はかぐやの頑なな態度が気に障った。
 ええい、そうあろうと、飯になったらわしはかぐやにあやまってやるぞ。
 広忠の決心は変わりなかった。

 お膳を据えて夕飯が始まった。
 だがいざとなると広忠はなかなか言い出せない。
「やはり丹後の鯖はうまいのう」
 どうでもいい話は軽々と出て来るのだが、(かぐや、俺が悪かった)のひとことはなかなか喉から出て来ないのだ。
「かぐや、お代わり」
 椀を出してかぐやから椀が返る時に、よしと思ったが言葉は出なかった。
 広忠はなぜか急いで飯を掻き込み、夕飯は終わってしまった。
 
 広忠はかぐやが魚をうまそうに食べる様子をじいぃっと見詰めた。
 するとかぐやは食べるのをやめて椀を重ね出す。
「あ、あのな……」
 ようやく出た広忠の言葉は体に似合わず小さくて椀の当たる音に掻き消えてしまった。 かぐやは広忠から視線をそむけ食器を持って土間に降りてしまう。
 今日は逃してしまったな。
 広忠はあっさりとあきらめてそこで横になりかぐやの様子を眺める。
 かぐやも後片付けを済ませるとすぐ隣の部屋にこもってしまった。
 その夜、広忠は明日こそ必ずやかぐやにあやまって仲直りするぞとおのれに言い聞かせて眠りに就いた。
 
   ◇
 
 翌朝は戸の開く音で広忠は目を覚ました。そして細く開いた目で鼠色の小袖を着たかぐやが土間に降りてゆく姿を眺めた。いつものように飯を炊いて味噌汁を作り始めるかぐやに、今日こそあやまって仲直りするのだと広忠は自分に言い聞かせた。
 そろそろ朝飯が出来上がる頃合いを見て、広忠はあくびをして上半身を起こした。

 ところがいざお膳が前に来ると広忠はなかなかあやまる言葉を言い出せない。
 しかもいざ食べ始めると広忠の神経は食べることだけでいっぱいになってしまう。
 あっという間に飯を掻き込み、味噌汁を流し込むように飲み、気付くともう椀は空っぽになってしまっている。
 いかん、あやまるのをすっかり忘れてしもうた。
 かぐやも広忠がじぃっと見つめ始めるとさっさとお膳を片付けて土間に降りてしまう。

 その時、胸の内で誰かの小さな声がした。
 ……ここは今すぐあやまれ。
 広忠はとにかく声をかけようと思った。
「あ、あのな……」
 広忠の声にかぐやは振り向いて頷き洗濯した手拭いをわらじの上に置いて立ち去る。

(いやそうではないのだ)
 ……言葉が出ぬなら今すぐ土下座しろ。

(いや土下座まではいらんだろう)
 ……今すぐ土下座しろ、坊様の言いなりになりたいのか。

 広忠は胸の内に言い返した。
(そのように急に言われても心の準備が出来ておらん、今夜か明日に改めよう)
 広忠は心の声に従わず弓矢を担いで猟に出掛けた。
 
    ◇
 
 空は青、雲は白にくっきりと晴れ渡っていたが、広忠は暗欝たる黒雲を背負った気分で山に分け入り獣道を歩いた。
 この日の広忠は麓で鹿が角を鳴らす音にも、枝を渡る猿に驚いた雉子が立てるけたたましい羽音にも見向きもしなかった。いつもなら二十間先の茂みの奥に猪が潜んでいても野生の勘で見抜ける広忠だが、今日は五間先を鹿が横切っても目に入らないのだ。

 胸の内から(かぐやに土下座しろ)という何やらありがたい導きの声が聞こえたのに、恥ずかしさのためと勇気が出せないために出来なかったのだ。そして自分が体が大きく少し力があるだけの弱い男だと思い知らされたのだ。
 そして広忠はかぐやのことを思った。
 かぐやの明るい微笑み、かぐやの澄んだ声、かぐやの柔らかな体がなけれぱ、己れの膂力によりこの世の富を全て手にしたとしても、広忠は生きた心地がしないのだ。
 広忠を受け入れてくれるかぐやが傍らにいてくれるからこそ、盗みがばれて叱られることさえちょっとした愉しみだった。
 しかし、あの追い剥ぎがばれてからというもの、かぐやは笑みも見せず口すら聞いてくれず、広忠の分厚い胸の内はずっと凍える思いだった。

 なんとかしてかぐやとの仲を元に戻したいものだと考え考え歩くうち、広忠は昼を過ぎる頃には山をふたつ越えて街道に突き当たった。

 湧き水の溢れる道端の流れから水を汲んで飲むと、大きな杉の根の上に腰をおろすとしばらくぼーとしておった。すると都の方角から馬に乗ったいい身なりの男が下男に手綱を引かせてやって来るのが見えた。

 反射的に広忠はその気を起こした。
 少しばかり面白いことを働くか。もちろん、大金を捲き上げて高価な絹を買ったところでかぐやが喜ぱないのははっきりしている。広忠もそこまで愚かではない。
 しかし、猪数頭の値段ほどで手に入る庶民向けの小袖と菓子でも土産にして謝ったならば、かぐやも受け取って仲直りしてくれるのではないか。
 それくらいの土産ならこの三日の稼ぎを貯めたと言って信じてくれるに違いない。
「そうしよう、俺もすっかり酒にごぶさたしてるしな」
 広忠はすっかりよからぬ考えに染まりながら待った。

 山鳩の絶え間ない鳴き声に、郭公が合いの手を挟む中、次第に獲物達が近づいてくる。
 広忠は獲物に己れの鋭い眼を見せぬよう反対の方角に顔を向けて待った。
 さっきまで自分の不甲斐なさとかぐやへの想いのため衰えていた五感は、今や研ぎ澄まされている。
 俺が迫ると下男は刀を抜くかもしれないが、その時は石で刃を折ってやろう。
 次に馬の主人を引きずり降ろし、馬は腹を叩いて逃がしてしまおう。
 主人は追い剥ぎと知ると真っ青になって命請いするだろうが、俺が小袖一枚を買う僅かばかりの金で許してくれたら狐にばかされたような顔をするに違いない。
 はっははっ、愉快だ。

 笑みを噛み殺すと、獲物達は間近に迫っている。
 広忠は足元の石をそっと掴むと、気合いを入れて立ち上がろうとした。
 その時、
 三十間先の高い杉の木の脇を何か小さなものが落ちるのが、広忠の目に捉えられた。
 なんだろう。

 次の瞬間、(それでよいのか)と声がして、額を一滴の汗がたらりと流れた。

 すると広忠は、はっと悪夢を思い出した。
 瞼の奥で、かぐやが両手をつき「これでお暇いたします」と宣言する、あの悪夢だ。
 広忠は慌てて首を振った。
 そうだ、もしこの悪事がばれたら、かぐやは呆れ返って俺と別れる気を起こすやもしれない。いや、きっとすぐに別れると言い出すに違いない。
 それはまずい、どうしてもまずい。
 確かにちょいと他人を殴りつけて金品をせしめるほど面白い仕事はないが、今の俺にはどんな悪事の楽しみよりもかぐやの笑顔の方が大事なのだ。

「糞坊主め、お前の予言通りには運ばせんぞ」
 広忠はそう叫ぶと、木の脇を落ちたものを確かめようと立ち上がった。
 そしていい身なりの男一行の先を横切る形で、脇の林に入り何かが落ちたあたりをゆっくりと探した。
 小さい何かは意外にもあっさりと見つかった。

 なぜなら、それはぴいぴいと必死に親を呼んでいたからだ。
 広忠は近くの杉を見上げ、十間ほどの高さの枝に巣を見つけた。
 これが堅い地面ならひとたまりもなかったところだったが、いくつかの草や羊歯が葉を重ね合わせ、落ちてきたヒヨドリの赤子を柔らかく手渡ししたから無事だったのだ。

「よかったのう。お前、まだ目も開いておらぬのか」
 広忠の手のひらにすくわれたヒヨドリの赤子は広忠を親と思ったか、黒い口ばしを開いてますますぴいぴいと声を上げる。広忠は赤子の愛らしさに微笑んだ。
 そしてよじ登る間に邪魔にならぬようヒヨドリの赤子を手拭いにそっと包み、首のうしろにくくりつけ、広忠は木を登った。
 そしてヒヨドリの巣に赤子をそっと戻すとまた微笑んだ。
「お前もわしやかぐやのように親とはぐれるところだったのだぞ。
 これからは気をつけよ」
 赤子は返事をするかのようにぴぃぴぃと鳴いた。
 広忠は生まれて初めて味わう爽快な喜びにひたった。赤子を助けるとはかくも気持ちがよいものなのだ。

 そして広忠はいつからか自分を支配してきた悪の心を、すっかり捨て去る決心をした。
 広忠は大声で叫んだ。
「よし、かぐや、決めたぞ。
 今こそ誓うぞ。
 この広忠、生涯二度と悪事は働かん」
 ヒヨドリの赤子は何事かと驚いて黙り込んだ。
 広忠が振り返って見遣ると、いい身なりの男一行は道の遥か先にあり、馬上の影は広忠のこだまを追って杉の梢を振り返ったようだっだ。
 
 

第13章 新たなる誓い

 
 
 夕暮れの橙色の空気が山々を呑み込もうとしていた。

 広忠は猪を二頭肩にかけ雉子を三羽背負い身も浮き上がる心地で家路を急いだ。
 今日はヒヨドリの赤子を救い、さらに悪事をやめることを誓った。
 思い返せば、他の生き物を救い他人のために己れを抑えたのは生まれて初めてだ。
 それがこのように清々しい気持ちになれるとは考えもしなかった。
 かぐやの喜ぶ姿を思い描きながら、どうして俺は今までこの簡単なことに気がつかなかったのだろうと広忠は不思議に思った。
 かぐやは最初に何が欲しいと尋ねられた時から、広忠に悪事を止めることを願っていたではないか。だというのに広忠はかぐやの願いを後回しにしてしまい、長い月日を重ねないと成し遂げられなかったのは、いつも悪の出来心に負けてきたからだ。
「弱いのう」
 広忠は己れが膂力はあっても、実は心の弱い男だということをようやく認めると、苦笑いを満面に押し広げてどっと大笑いした。

 駆け込むように家に入った広忠が今日の獲物を土間に音を立てておろすと、かぐやは戸を開けて微笑んで出て来た。
「お帰りなさい、今日は真面目に働きなされましたね」
「かぐや、口を聞いてくれるのか?」
 広忠は嬉しそうに声を上げるとかぐやも頷いた。
「はい、私とて黙ってるのは辛うございます。
 広忠様が真面目に働いてくだされば黙っておられましょうか」
 広忠も頷いて言葉を継いだ。
「実は今日は良いことをしたのじゃ」
 広忠は足を洗うのも忘れ、板の間に上がってかぐやの手を両手で包んだ。
「はい」
「街道のあたりで、間抜けな面の金持ちが馬に乗ってやってきたのだ。
 俺は、つい、ちょいとこづかい稼ぎをしようと思いたった」
「まあ、それのどこが良いことなのです?」
 かぐやが怖い顔になったので広忠は急いで続ける。
「いや、そうではないのだ、続きを聞いてくれ。
 ふと、向かいの林で何か小さなものが落ちるのが目に入った。
 それから、ここで悪事をしては、かぐやに捨てられると思った。
 そこで俺は、追い剥ぎはやめて、向かいの林で落ちた小さいものを探しに行って、そいつを見つけたのじゃ。
 なんだと思う?」
「林の中ですか。であれば松ぼっくりでしょうか?」
 かぐやの答えに広忠は首を横に振る。
「ふふ、違うな。思いつかんか?」
「さあ、なんでしょう?」
 広忠は間をためて答える。
「それはな……ヒヨドリの赤子じゃ、俺の親指ほどの赤子がぴいぴい鳴いておった。
 俺は近くの杉に巣を見つけて、よじ登ってヒヨドリの赤子を返してやったのだ」
 かぐやの目が大きく見開いた。
「それは、それは、良いことをなさいましたなあ」
 かぐやは目に涙を浮かべて、手の甲で拭う。
「おう、俺も気持ちがよかった。
 俺が助けてやらねば親にはぐれたまま腹を空かせて死んでただろうよ。それを俺が助けてやったのだ。
 それから俺はもうひとつ良いことをしたのだ。
 今までしようという気持ちはあっても出来心に負けてかなわなかったことじゃ。
 かぐやなら、それが何かわかるだろう?」
 広忠が聞くと、かぐやは察しがついたとみえ、いよいよ涙を溢れさせて声も出せずにうなづいた。
「かぐやにずっと頼まれていたことじゃ。
 俺は、二度と悪事を働かんと誓ったのじゃ」

「おおおぉぉ」
 かぐやは声にならない声を上げて、そのまま広忠の胸に顔を埋めた。

 広忠は、今までは、胸のうちにかぐやと不釣合いだというわだかまりがあった。しかし、今、そのわだかまりがかぐやの涙ですっかり溶けてゆくような気がした。
「かぐや」
 広忠もかぐやの背中をやさしくさすって言う。
「ははは、そんなに泣かなくてもよいではないか。
 さては、かぐや、よほど俺が悪さから足を洗えぬと思っておったな」
「ち、違います、嬉しうて、嬉しうて」
 かぐやの嗚咽はしばらくやまなかった。
 
    ◇
 
 それから、広忠とかぐやの生活は前にもまして喜びに溢れていた。
 冬を越して春の足音が聞こえてくると広忠はかぐやと屋敷の庭に畑を作り始めた。
 力仕事なら広忠にはたやすいことだ。
 ふもとの竹林から太めの竹を何本も切り出して、それを割ると節を抜いて上に運び上げる。そして裏の湧き水から半割りの竹を繋いでゆき、庭に水撒き用の小さな水路を通した。

 そして広忠が畑の畝を作ると、かぐやが種を蒔いてゆく。
「よい畑ができたの」
「ええ、手前が大根。岩場に近いあたりが茄子、家の近くは芋がなりましょう。
 食べきれない分は行商の方にお願いして売れば、お金になりますよ」
「そうか。かぐやはおつむがええのう」
「広忠様、ほんに悪事をやめてくださり、ありがとうございました」
「うん、悪さなどなさずとも、このように楽しく暮らせるのじゃなあ。
 わしももう悪さする考えもおきんようだぞ、ははは」
 広忠がそう言って笑い出す様子をかぐやは嬉しそうに見つめた。
「かぐや、急かす気はないがそろそろ赤子が欲しいのう」
 かぐやは恥じらいつつ言う。
「こればかりは神様のお手配任せですから、私たちが欲しいと思ってもすぐ出来るものではありませぬ」
「うん、そうだな、俺もそれはわかっておる」
 広忠の答えを聞いてかぐやも安堵した。

 ところが不意にかぐやは涙を溢れさせる。
「どうした、かぐや?」
「いえ、ちょっと父上、母上のことを思い出してしまったのです。今頃、どうされているでしょう」
「ああ、かぐやが月に行ったと信じて毎日、思い出語りしておるだろうな。
 だがな、帝に目をつけられては、こうするしかなかったんじゃ」
 広忠はかぐやの肩を抱き寄せた。
 
    ◇
 
 ひと月ほど経った頃、広忠が狩を終えると夕焼けが闇に飲まれ満月が輝いていた。
「今日は知らぬうちに遠い山まで入り込んでしまったわい。これでは夕飯の時に『紙燭がもったいないのでもっと早くお帰りを』しかぐやに叱られてしまうな」
 広忠は家が近づいてくると今宵の睦み事を考えた。
 最近は、広忠が仕向けると、かぐやも求めるように力を入れてくる、それが愛しくてたまらないのだ。
 広忠はつい鼻の下を伸ばしながら、家の門をくぐり、土間に獲物を投げ出してかぐやを呼んだ。
「かぐや、遅うなって心配かけたの、今、帰ったぞ」

 しかし、返事はない。
 広忠はおかしいと思いながら、適当に足を拭いて、奥の部屋の戸を開けた。
 かぐやは蔀戸を跳ね上げて差し込む月光を眺めていた。

「かぐや、そこにいたか、遅うなって心配かけたの」
 かぐやは振り向いて微笑んだ。
「お帰りなさいませ、広忠様」
「ん、その格好は、どうしたんじゃ?」

 今宵のかぐやは汚い小袖の帷子ではなく、衵を鮮やかに重ねた上に蘇芳すおうの表衣を付け、さらに裳までつけた盛装である。
「ははあ、俺の好みの衣装をしてくれたか?」
 しかし心舞い上がる広忠は、微笑むかぐやの目に真っ赤に泣きはらした跡があることに気付かなかった。
「そうであればよいですが。
 今日はかぐやにとって最も辛く悲しい日でもございます」
 広忠は訳がわからず首を傾しげた。
「何を言っておるんじゃ? わしはこのようにぴんぴんしておるし、かぐやも病には燃えないではないか。別れる理由がない」
 広忠がそう言い切るとかぐやは顔を揺れるススキのように左右に振った。

 続いてかぐやは膝の前に静かに両手をつき揃えて言った。
「今宵限り、かぐやは広忠様にお暇申し上げなければなりませぬ」
 その光景はずっと前の悪夢にそっくりであった。

 広忠は声を上げた。
「ば、馬鹿なことを言うな。俺はかぐやの願い通り、悪事をすっかり止めたんじゃぞ。
 ははあ、わしが悪さをしたと勘違いしたのか?
 誓って言うがわしはもう二度と悪させんし、その自信もある」
 そう言って広忠は笑い顔を作ろうとしながら、かぐやの堅く思いつめた表情に、内心の動揺を大きくしていく。
「仰せの通りです。
 広忠様の誓い、かぐやも間違いなきこと確かめ、何よりも嬉しく思いました。
 だからこそ、かぐやはお別れせねばなりません」

 かぐやが繰り返すと広忠は大声で怒鳴った。
「何を言ってるんじゃ、
 悪事を止めたというのに、かぐやに逃げられては道理が逆だ」

 広忠の苛立ちに静かに頷いたかぐやは、
「本当のことを申し上げます」と告白を始めた。
 
    ◇
 
「実は、かぐやはまことに月の都に住む者なのです」

 かぐやの唐突な告白に広忠は一瞬、呆気に取られて時を失う。が、慌てて正気を取り戻して怒る。
「ば、馬鹿な、それは俺の吹き込んだ猿芝居ぞ」
 かぐやは静かに続ける。
「芝居ではありませぬ。
 かぐやは、まことに月の者なのです」
 広忠を見詰めるかぐやの瞳は今にもこぼれそうな涙をようやくこらえている。

「御存知ないかと思いますが、月の都というのは、こちらの地上にて一千万歳の前世を生まれ変わり、数えきれない徳を積んだ果てにようやく入れる極楽世界なのです。
 こちらの方は極楽を憧れますが、実際は信じられぬほど厳しいところなのです。
 いかに厳しいか申しますと、たとえば親が自分の子を他人の子よりも大事に扱うだけで大罪なのです。
 そこは神の律令の支配する、ひとかけらの私心も赦されない世界なのです」
 両手をついて打ち明けるかぐやの頬から、もはや抑え切れない光のしずくが、きらり、またきらりと床にごぼれ落ちた。
 広忠は腕力のありったけを使ってもかぐやの告白をやめさせようと手を伸ばそうとする。しかし、かぐやは、高貴な輝きに包まれていて、別世界の見えない力が広忠の手を押し戻して触れさせないのだった。

 かぐやは言葉を続けた。
「かぐやはその月の都で、数十万歳前の前世の自分の親に偶然に巡り合い、愛しく思いなし、他の方に配るよう割り当てられていた音楽を奏でる石をつい差し上げたのです。
 その前世の親は、これは他人に配るものではないのか、と尋ねてくれたのに、私は違いますと嘘まで申しました。
 そのため私は月の大神の司直に捕らわれたのです」
「たった、それだけのことでか?」
「はい。月の律法は厳しいのです。
 そして、私は罰として、こちらの地でもっとも寂しい夫婦を慰め、もっとも凶悪な悪人を改心させるように言いつかって、赤子の姿に戻され、なすべき務めは、しかと覚えたまま、この地に降ろされたのです」
「な、なんだとお」
 叫んだ口を開いたまま天空の月を一瞥すると、広忠は胸の縮みゆく思いで虫の音のように呟いた。
「俺の妻になったのは、そのためだったか?」
 かぐやは懸命に首を左右に振った。
「いいえ、そのためだけではありません。
 正直に申しますと、確かに最初は広忠様のことを恐ろしいとも思いました。
 なれど、この地に体を持ち生きるということは、様々の愚かな、しかしそれ故に強く激しい情を持つということなのです。
 それは律法ばかり気にする月の民がとっくに忘れておる心なのです。
 かぐやが広忠様のためにひたむきになれたのは、まっことに広忠様のくださる情を嬉しく思い、心底お幕い申した恋の力のおかげです。
 それだけは決して疑ってくださいますな」
 かぐやが答えると、広忠はその言葉尻を掴んだ。
「そうであるなら俺の元に留まってくれ。
 俺はかぐやなしには、もはや生きた心地せん。
 お願いじゃ、行かないでくれ」
「そう言われると、もう胸裂ける心地がいたします。
 広忠様が改心された時に、私が激しく泣いたのは嬉しいからではございません、別れる時がいよいよ近づくのが辛すぎて泣いたのです。
 しかし広忠様が見事に改心なされたことが確かめられたからには、かぐやは月の都に帰らねばならないのです。勝手に地上に留まることはなりません」

 かぐやはそう言うと袖に顔を埋めて号泣した。

「いやじゃ、かぐやは渡さん、絶対、月になど帰さんぞ」
 広忠は姫を強く抱き寄せようとしたが、かぐやははっと空を振り向いた。
「広忠様、かぐやはそろそろ月の司直に引き戻されるようです」

 広忠はかぐやを押さえようと思ったが、不思議な力が働いて、指一本動かすことができない。
「いかん、かぐや。
 俺の傍にいてくれ、なあ、思い留まれ」
 童子のようにねだる広忠に、かぐやが月を指差す。
「もう留まれません、あれが迎えです」

 見ると、月に純白の光の塊が生まれ、こちらに向けて一筋の光を伸ばしている。

 広忠はかぐやを失う恐怖に身の毛をよだてて身震いした。
「来るなあ、かぐやは渡さんぞ」
 広忠は一筋の光を眈みつけ大声で叫んだ。
 その光は滑るように降りて、空に残る少ない雲を突き抜けて、地上へ地上へと向かって眩しさを増してくる。
 すると風もないのに庭の木の葉は渦を巻いて舞い上がりだす。

 広忠は一筋の光の眩しさに目を細めつつかぐやに懇願した。
「かぐや、行くな、
 俺はまだまだ悪党だ。明日にも悪さをするかもしれんぞ。
 お願いだ、この世に留まってくれ」
「広忠様こそ、多くの徳を積まれて、早う月の都においでください。
 そこでお逢いしたあかつきは、辛い物語も楽しい思い出も心ゆくまで言いかわしましょうぞ」
 かぐやが言う間にも一筋の光はどんどん近づいて釆る。

「この世の数え方では遠い先かもしれませぬが、またお逢いできる時は必ずまいります」
「必ずか?」

 吹き上げる強風の中で、広忠が涙を流しつつ聞ぎ返すと、かぐやは屋根の上まで迫っている一筋の光を袖で遮り、強い調子で頷いた。
「はい、きっと月で一緒になりましょう。
 今度は私が広忠様に約束いたします」

 広忠はかぐやを見つめたが、すぐに首を横に振った。

「……いいや、そんなのは当てのないのと同じだ。
 俺はずっとかぐやを離したくないんじゃあ」
 叫びながら広忠はありったけの力を奮って、かぐやの手を掴んだかと思えた。
 
    ◇
 
 しかし、次の瞬間、眩しい光がかぐやの頭上に降りた。
 そしてかぐやのまわりに緑に輝く五尺ほどのひと形の光が降り立った。
「さあ、参ろうぞ」
 緑に輝く者の声が響いた。

「かぐや、行っては駄目じゃ。俺はかぐやなしには生きてゆけん」
 広忠のみっともない言葉に、かぐやが緑に輝く者に問いかける。
「司直さま、私がこの地に留まることはなりませぬか?」

 かぐやが尋ねると、緑の光に黄色い光が混ざった。
「何を愚かなことを言う。
 このような野蛮な地に留まってなんとする」
「私はこの方に添い遂げたいのでございます」
「これは、この地でも最も恐ろしい人間、最も卑しき人間じゃぞ」
「それが見事に改心なされたのです。この方がこれから歩む行方を間違わぬよう、一緒について差し上げたいのでございます」
 かぐやが言うと、緑の光に赤い光が混ざった。
「よいか。そなたが月に帰れる機会はこの夜限り。
 これを逃せば、あとはこの地の卑しき者どもと同じように、一千万歳生まれ変わり、一から功徳を積まねばならぬのだぞ。
 すでに十分に積まれた功徳を無にするなど月の大神が許すと思うか。
 それ以上、逆らうと言うなら、月にて新たな裁きを致すしかないぞ。
 月の大神の命に従うのだ!」
 そう言われるとかぐやはうつむいて覚悟を決めるようだった。
 しかし、広忠が叫んだ。
「どうしてもかぐやを連れてゆくならば」
 広忠が太刀を抜くと、かぐやは大声で制した。
「広忠様、おやめくだされ、月の大神様ご直参の司直様です、畏れ多いこと」
 広忠は咄嗟に考えて、太刀の刃を自分の胸に向けた。
「かぐやを連れてゆくならば、俺は生きていても意味もない。
 もともとかぐやが認めてくれなければ、まともな心もない、人の形をしたただの獣じゃ。
 ここで俺とかぐやと、二人突き通して果てて見せるわ」
 
 司直は吐き捨てる。
「け、汚らわしい、吐く言葉の全てが忌まわしいわ、さ、姫、参るぞ」
 司直がそのように言い放つと、かぐやは首を傾げた。

「お待ち下さい」
「なんじゃ?」
「私は月に帰るより、この男の刃にて共に死ぬることを選びます」
 緑の光が紫に点滅した。
「ゆ、許さんぞ、今放たれたその忌まわしき言葉、月に帰りても大神様も決してお許しにならんぞ。
 そのような言い様、心の芯まで汚れて腐り果てたために違いない」
 しかし、かぐやは司直から広忠に向き直る。
「広忠様、どうぞ、私の覚悟はなりましたぞ」
「おお、かぐや、よいのだな?」
 広忠がそっと太刀を自分の胸に突き立てようとし、切っ先から血がわずかばかりぴゅっと噴き出し、緑の光の方へ飛んだ。

「グゥゲッ」
 月の司直は吐き出すような声を上げ、かぐやは急いで広忠の手がそれ以上進まぬよう止めた。

 緑の光はかぐやの頭上の光に吸い込まれると、大きな白い光は逃げるように空を昇り、天に引き返した。 
「かぐや?」
 広忠は予想外のなりゆきに目をまばたいた。
「ようございました。司直様には広忠様の血の汚れがよほど恐ろしかったのです」
「では、かぐやはずっと俺の傍にいてくれるのか?」
「はい、約束いたします。
 広忠様、私が添い遂げますゆえ、これからはいかなる悪さも許しませぬぞ」
 かぐやが笑みを浮かべ見つめると、広忠はにやにやとして頭を掻いた。

 仰ぎ見れば満月、実に静かな夜空である。

 

 結 物語のおや

 その日、嵯峨天皇は、高雄山寺の空海を参内させると、先の疫病の広がりを密教の修法により収めた功績を称えて褒美を授けた。

 引き統いて帝は清涼殿に渡り、詩吟の宴の席に空海を加えた。
 漢詩の朗唄がひと区切りつくと、帝は列座する臣下たちに何か面白いことはないかと問うた。
「畏れながら」
 参議小野岑盛が一拝して発言を乞うた。
「もはや御前に持ち出す話ではないやもしれませぬが、先に正史よりお削りあそばした、月に帰られたかぐや姫について話がありますが」
 嵯峨天皇は杓で膝を打って「うむ、構わぬ」と発言を許した。
「先日、いずこより屋敷の女房に、竹取物語と題する仮名書きの綴じ本が届けられまして、これが本朝の様々な伝説を巧みに取り入れた物語の中に、かの姫のはかなくも麗しい様子が見事に記されており、感心いたしました」
「ほおー」
「それは趣き深いことよ」
 嵯峨天皇をはじめ、難題に敗れた大伴皇子、葛原皇子、左大臣藤原園人、大納言春日御行、中納言菅原麻呂なども並ぶ一座は相槌を打って興味を示す。
「ここにその本をお持ちしました」
 小野岑盛は蔵人を通じて嵯峨天皇に本を献じた。
 嵯峨天皇は本にしばらく目を通すと言う。
「まるほど、養父を竹取翁に見立てておるようだな。
 筆も文才もなかなか見事な様子、書いたのは一体。誰じゃ?」
 聞かれた小野岑盛は慌てて平伏した。
「申し訳ございません。
 使いの者が約束の品と言えばわかると申したため深く問い質さず、どこの誰ともわかりません」
「誰ぞ、書き手を知る者はないか?」
 嵯峨天皇に聞かれた一堂は、互いに顔を見合わせると静まり返った。
 嵯峨天皇は微笑んで、わざと空海の木像然としている顔に向かう。
「別当、そちなら森羅万象悉くについて知っておるだろう?」
 空海は上体を前に倒してしらばくれる。
「畏れながら、山に棲む坊主は麗しい姫の話など噂すら聞いたことがございません」
「ふふ、そうか、別当でも知らぬのか」
 嵯峨天皇は満足そうに頷くと声を高めて呟いた。
「されば、月の者が我らを慰めるためによこしたものかもしれぬの」
「なるほど」
「まことにそうかもしれませんな」
 臣下達は嵯峨天皇の着想を楽しんで頷いた。
「よし、皆揃って『竹取物語』の写本を作り、かの姫を偲ぽうではないか」
「御名案にございます」
「では、早速に写本の順番を決めましょう」
 参議小野岑盛が抜け目なく言うと一座は順番を決めるくじつくりに浮かれた。

 空海はあの悪党広忠のことを思い返していた。
 実は広忠はあれから、もう一度、空海の寝所を訪れ、様々なことを語った。
 月の都はこの世を一千万歳生まれ変わって、徳を積んで入れる極楽であることと、かぐやがまことに月の都の者であったこと、そしてかぐやがこの世に遣わされた理由が、この世で一番凶悪な自分を改心させるためであったこと。
 広忠が悪から足を洗うと改心したことで、かぐやは月に帰りかけたが、司直と言い合ううちに、月に帰るより自分を選んでくれたこと。
 最後に、広忠は「坊主、礼を言うぞ。この通りじゃ」と言うと、空海の足元に殊勝に頭をすりつけてから、帰ったのだった。それは空海からしても密教の占術が断じた運命を山賊と姫が変えることに成功した興味深い特例となった。
 竹取物語もなったし、それはそれでよかろうて。
 空海は浮かれる一座を眺めてつぶやいた。
 かくして『竹取物語』は世に流布した。

 しかし、かぐや姫がこの世に降ろされた理由や、怪盗広忠との恋の顛末、そしてその後も続いた平穏な生活は、決して世間に漏れ出ることはなかったのである。     完