ホタル

ホタル

 

  1

 達也は夏期講習をさぼって部屋でゲームをしていた。
「あー、暑っ」
 コントローラーを放り出した卓也は、キッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。
 口からひと筋の麦茶が溢れてシャツを濡らすのも心地よい。
 その時、キッチンに入ってきた母に見つかって勢いが止まった。
 達也は頭の中で素早く想定問答を始める。
(あら、夏期講習はどうしたの?)
(今日は休みっ)
(そう。がんばってよ、もう少し偏差値上げないとね)
(るせーよ)

 冷蔵庫に麦茶のポットを返して、達也が心の準備をして振り向くと、母の口からは想定外の言葉が飛び出した。
「そろそろおじいちゃんの家に行ったらどうなの?」
「えっ?」
「毎年、あんた、夏は行くじゃない。おじいちゃんも待ってるわ」
「今年は受験だろ」
 いやはや、自分、何を言ってんだか。
「おじいちゃんはあんたが来るの、楽しみに待ってるんだからね」
「まあ、スケジュール調整してみる」
 もちろん、スケジュールなんてだいそれたものがあるはずない。

 確かに、もっと小さい頃は田舎のじいちゃんの家で夏休みを過ごす日々は、楽しい冒険に満ちていた。だが、この歳になると、何も遊ぶところのない田舎に帰るのは面倒臭いだけになって忘れていたのだ。

 部屋に戻った達也はしばらくゲームを続けていたが、ふと本棚に顔を向け、並ぶプラモデルに挟まれて、中に砂時計が入っている虫かごに目を止めた。
 それはじいちゃんが板と竹ひごを組み合わせて作ってくれたものだ。
 じいちゃんが作ってくれる様子をすぐそばで見つめながら、達也は感激していたことを思い出す。
 それは店でいい加減に吊るされている塩化ビニール製の虫かごとは全く違っていた。

 2

 窓からは暗くなった田んぼを吹きわたった草の匂いのする風が入って来る。

「偉いねえ、達也は好き嫌いがないねえ」
 ばあちゃんが嬉しそうにそう言って晩ごはんの後片付けを始める。
 小学生の達也は一人で田舎のじいちゃんの家に泊まりに来ているのだ。
 じいちゃんが自分の膝をポンと叩いた。
「達也、さあ、虫取りに行くぞ」
 誘われた達也は、母がいつも言う「暗くなったら外に出てはだめよ」という台詞を思い出して口にしてみる。
「もう暗いよ」
 達也はじいちゃの目が輝いたように感じた。
「なあに、場所はわかってる。目をつぶっても行けるぞ」
 いや、輝いていたのはたぶん自分の目の方で、思わず声がうわずって、
「ホント?」
 捕虫網と虫かごを持って外へ飛び出した。

 夏の闇の中は、少し冷えて落ち着いた草いきれの匂いが鼻に忍び込み、ふっと顔を上げると、天の川が空に大きな帯を描いている。
 田んぼの上を時折、ゆらと渡る小さな灯りはホタルだ。
 じいちゃんは達也の足の先を照らしながらずんずん歩いてゆく。

 坂道をしばらく歩いて、草が生える脇道に折れると、大きな木が何本か並んでいる。
「これだ、達也、このクヌギを電灯で照らしてみ」
 達也がじいちゃんから受け取った電灯を、木の幹に向けてみた。
 すると、そこには角のついたカブト虫が貼り付いていた。
 よく見ると樹皮の裂けたところから流れる汁を吸っているのだ。
 達也は大きな声だとカブト虫が逃げるかと思わず小声になって、
「なんでこんな時間にいるの?」
 そう聞いたが、じいちゃんは大きい声のまま、
「なんでじゃろのう、晩ごはんだろうかの」
 しかし、じいちゃんの声など気にせずカブト虫は夢中で汁を吸っている。
「達也、もっと上にもおるぞ」
 さらに電灯をずらすとクワガタもいた。さらに探すと角のないカブト虫も何匹かいる。
「すげー、いっぱいいるよ」
 達也が驚きの声を上げると、闇の向こうでじいちゃんが笑うのがわかった。
「よかったのう、達也」
 達也はカブト虫やクワガタをつかまえては、虫かごに迎え入れた。

 じいちゃんの朝は早い。
 5時頃には起きて田んぼに出かけるが、達也は物音にうっすら目を開いてじいちゃんの後ろ姿を見て、すぐにまた眠りに落ちてしまう。
 
 ばあちゃんに起こされて、朝食の卓に着くと、そこには田んぼの水を見終えて、朝食に使う野菜を取り終えたじいちゃんがいる。
「達也、今日は昼から川に行くぞ」
「うん」

 じいちゃんの言う「川」は三十分近く歩いたところにある。
 実際はもっと早くに川岸に出るのだが川底が浅くて、泳ぐ深さのある部分までは距離があるということだ。
 そこには見知らぬ地元の小学生たちが水遊びしている。
 じいちゃんに挨拶しないところから、じいちゃんも知らない子供なのだろう。
「達也、着いたぞ」
「うん」
 じいちゃんはランニングシャツと作業ズボンを素早く脱ぐと、大きな岩の上に畳んで、ふんどし姿になって達也を見守った。
 上半身は日焼けして赤銅色で、ふんどしが風にそよぐ。
 達也はじいちゃんのふんどし姿を見てるだけで恥ずかしいと思いながら、自分は半ズボンを脱いで、下に穿いてきた水着になる。

「よおし、水練開始!」
 じいちゃんが号令をかけて、達也が川面に飛び込む。それを追ってじいちゃんも飛び込む。
 じいちゃんは昔、海軍で軍艦に乗ってたから泳ぎは得意だ。
 達也が足をつけるところにすぐ移動して立つと、立ち泳ぎしながら、じいちゃんがハッパをかける。
「どうした、海だったら足はつかんぞ」
「うん」
「うんじゃない、はい、だ」
「はい!」
「よし、向こう岸まで行って戻って来い」
「はい!」
 距離にしたらニ十メートルぐらいだ。学校のプールではニ十五メートル往復をなんとか泳げたのだから簡単そうだが、川では水の勢いに流されるし、息継ぎの時、水が口に入り込んできたりするから実際は片道ニ十五メートル以上に感じる。
 達也は水を蹴ってかいて、クロールで向こう岸に到達した。向こう岸は絶壁で、岩に手で触れて、すぐさま体を翻して、引き返す。
 次第に腕が疲れて、息継ぎが短くなり、十分な息を吸えなくなってきた。
 へばりそうだが、今、足は底につかないところだ。
 がんばらなきゃ。
 達也が懸命に水をかくと、すぐ後ろでじいちゃんの声がした。
「達也、がんばれ、もう少し、もう少し」
 その声の嬉しいこと。
 すぐそばにじいちゃんがいる安心感。
 達也はもう一度気力をふりしぼって、水をかいて、元の岸辺に戻った。
 じいちゃんに手助けされずに、泳ぎきったことで達也は満面の笑みを浮かべた。
「えらいぞ、達也、ようやったな」
 じいちゃんも嬉しそうに笑った。

 3

 川から上がった達也はじいちゃんと並んで岩の上に腰掛けた。

「じいちゃん、また雪風の話を聞かせて」
 雪風というのは太平洋戦争でじいちゃんが乗っていた軍艦だ。
 じいちゃんは目を細めて喋り出した。
「雪風は、駆逐艦だから全長108メーター、2000トンちょいと戦艦より小柄だが、幸運の塊のような艦じゃった。
 最初は昭和16年末フィリピンのレガスピー。続いてニューギニア、ミッドウェー、ソロモン、ガダルカナル、マリアナ、レイテ、戦艦大和と沖縄特攻「菊水一号作戦」まで参戦して、そのたびに無事で帰って来た。
 これがどんなに奇跡的なことか、戦争を知らないもんにはわかるまい。
 帝国海軍の特型・甲型駆逐艦は80隻もあった。
 が、次々と敵に撃沈され、終戦まで無事に浮いて走っていたのはわが雪風だけじゃった。
 鬼畜米英すら奇跡の軍艦として、わが雪風を褒めたんじゃぞ」
 じいちゃんは誇らしげに達也を見つめ、達也は去年も聞いた話にうなづいた。
「うん、すごいね」
「前に寺内艦長の話はしたかな?」
 達也は頷いたがすぐ「もう一度聞きたい」と頼んだ。
「よおし」
 達也がわくわくしながら微笑むと話が始まった。
「うむ、歴代の艦長の中でも寺内艦長というのが、そりゃあ豪傑じゃったのう。
 口髭を生やしていたが梯子を上がるのがやっとという巨漢だった」
「キョカンて?」
「太ってたんじゃ。
 だから梯子を昇るのがやっと。
 その寺内艦長の、着任の訓示」
「チャクニン?」
「うん、初めて雪風に来た時の訓示、挨拶が変わっていた。
『この艦は絶対に沈まぬ。なぜなら、わしが艦長をしとるからじゃ。別に不思議はあんめえ』と、きた。
 みんなえらい自信にびっくりしたわ。
 それがまた寺内艦長は言葉だけの大風呂敷ではないんじゃなあ。
 艦長や参謀や偉い人間は、艦橋という高いところにいるんじゃが、敵からしたら狙いどころでもある。
 戦闘が始まると敵艦の砲撃はもちろん、通りすがりの戦闘機も土産のように艦橋に機関銃を撃ち込んでくる。
 しかし寺内艦長は一段高い椅子に上がり、一番敵に狙われやすい艦橋の天蓋の上に頭を突き出して、戦況を監視するんじゃ。
 部下たちが危険だからやめて下さいと言っても寺内艦長は「わしには当たらん」と言って聞かない。
 そして敵機が爆弾を投下するや三角定規で角度を測り、ちょうど足元に立たせた航海長の右肩、左肩を蹴って操舵の指示を出すんじゃ。それで爆弾をよけたというのだから豪胆そのものじゃ。
 乗組員みんなの士気がさらに上がったのは言うまでもない」
「すごいひとだねえ」
 達也は敵の弾を怖れもせず、船を操った艦長に純粋に感動した。
「そのうえ、寺内艦長は艦橋の上に頭を出したまま煙草まで吸う余裕があった。砲術長が振り返ると煤で真っ黒い顔の艦長がにっと白い歯を見せて笑ったそうだ。あんなすごい艦長はちょっといないぞ」
 達也は勘違いして聞き返した。
「煙草で顔が黒くなるの?」
「ははは、それはな艦が煙突から吐き出す煙が風向きで顔に当たって黒くなるんじゃ」
「そうか、そうだよね」 

 そこで達也は質問を投げかけた。
「おじいちゃんは何の係?」
「駆逐艦はな敵の潜水艦や航空機、敵の駆逐艦を見つけて、艦隊の主力を守るのが本来の仕事じゃ。
 大きな船を動かすにはたくさんの人が仕事を分担しないといけない。
 エンジンを動かす機関、舵を取る操舵、コースを決める航海、そしてたくさんの甲板員、見張り、通信などがみんなちゃんと動かないといけない。
 さらに軍艦なのだから、敵を見つける索敵、大砲、機関銃を撃つ砲術、魚雷、爆雷を撃つ水雷術、敵の攻撃をよける回避などの技術が揃わないと、戦場から生きて帰るのは難しいんじゃ」
「そうか、何人が雪風に乗ってたの?」
「二百人ちょっとかな。だが日本に帰る時は何百人も増えてたこともあった」
「どうして増えるの?」

 達也の質問にじいちゃんは寂しそうに目をつぶった。
「船が沈没してしまった仲間を引き上げて乗せたり、負けそうで引き上げる陸上部隊を乗せたからじゃ」
「それで、おじいちゃんは大砲の係?」
「いや、わしはこれだ」
 じいちゃんは膝の上で水平にした手首を小さく上下に振った。
 達也はわからないままに、印象を口に出してみる。
「ヨーヨー?」
 じいちゃんは「あははは」と噴き出した。
「達也、これはなモールス信号を打つ時の手だよ」
「へえー、モールス信号?」
「うん、モールス信号はアメリカ人のモールスが発明した電波で話をする方法だ。
 昔は今の電話みたいに声でやりとりできなかったし、声が送れるようになってからも、はっきり聞き取れないことがよくあった。だからモールス信号は貴重だった。
 トンという短い信号と、ツーという長い信号を組み合わせて、アイウエオと数字とローマ字を表すんじゃ。
 達也、手を出してごらん」
 頷いて達也が手を出すと、その手をじいちゃんの指先が叩いた。
「タは、ツー・トン
 ツは、トン・ツー・ツー・トン
 ヤは、トン・ツー・ツー」
「ふうん、でも似てて、覚えられないね」
「簡単な覚え方があるんじゃ、音が短いか長いかだけ注意して聞いてごん。
 タだったら『タール』 ター、ル、つまり。ツー・トン
 ツだったら『都合どうか』 都、合、どう、か、つまり、トン・ツー・ツー・トン
 ヤは『野球場』 野、球、場、つまり、トン・ツー・ツー」
「へえー、面白いね」
「面白いか」
 達也はそれから毎日じいちゃんをつかまえては海軍式モールス信号記憶法を教えてもらったり、川に行ったり、虫を取ったりの夏休みを過ごした。

 4

 晩ご飯を終えると、またじいちゃんが誘った。
「今日も虫取りに行くか?」
 達也は首を横に振って虫かごを持って来た。虫を取るのはいいが、農協直営スーパーで買った虫かごは、すぐにカブト虫やクワガタでいっぱいになってしまい、大きいのや元気のいいのを残して入れ替えている状態なのだ。それに少し飽きてきた。

 それを見てじいちゃんが卓を拳骨の中指で叩き出すので、達也は耳を澄ます。
 ツー、ツー・ツー・トン・ツー・トン、トン・ツー・トン・トン、ツー・ツー・ツー・ツー
「ムシカコ」 
 達也が言うと、じいちゃんが「よし」と言って続ける。

 トン・ツー・ツー・トン、トン・トン・トン・ツー、ツー・トン・ツー・ツー・トン
「ツクル。
 虫かご作るんだね?」

 じいちゃんは嬉しそうに立ち上がった。
「達也は、すっかりモールス信号を覚えたのう。
 じゃあ虫かごの材料を探してこよう」
 じいちゃんと達也はいったん家の外に出た。そして、家のそばに直角に並ぶ所、昔、馬小屋だったという、窓にガラスもない納屋に入った。
 すると、闇の中にホタルが光りながらふわあと飛んでいた。
「わあっ」
 ホタルは田んぼの上にいくつも飛んでいるので達也も特に珍しく思わなくなっていたが、納屋の闇で見るとホタルが案内してくれているような気がした。
 じいちゃんがホタルのいる方に懐中電灯を向けると、そこに虫かごの材料になりそうな板や竹ひごがあった。
 材料を選ぶと、じいちゃんと達也は家に戻り、虫かご作りにとりかかった。

 新聞を読む時の眼鏡をかけたじいちゃんは、まず糸鋸で底板と天板を同じサイズに切り出し、さらに扉にする部分の短い角棒を切り出す。
 次に金属の定規をあてて天板、底板に竹ひごの柱が並ぶ位置を十字でマークしてゆく。
 そして十字に錐を突き立てて穴を開けてゆくが、突き抜ける寸前で止める。
 切り揃えた竹ひごの先端に木工用接着剤を塗り、底板の穴にはめてゆくと竹ひごの柱が次々と並び立った。
 それをひっくり返して今度は天板にはめこむと、パルテノン神殿の木製のミニチュアのような虫かごの形が現れて、達也はその整然とした美しさにうっとりする。
 最後に、扉の部分をはめこんで虫かごは完成した。

 すると、じいちゃんが卓を拳で叩いてモールス信号を打った。
 ツー・トン・ツー、ツー・ツー・ツー、ツー、ツー・ツー・トン・ツー・トン、トン・ツー・トン・トン、ツー・ツー・ツー・ツー。
「ワレ、ムシカコ」
 トン・ツー・トン・トン、トン・ツー・トン・ツー・トン、トン・ツー・ツー・ツー・トン、トン・ツー、ツー・ツー・ツー・トン・ツー。
「カンセイス」
 やったね、おじいちゃん
 達也も卓を拳で打って、モールス信号を送った。
「オジイチャン、スゴイ」

 夏休みが終わりに近づくと、父と母が車で迎えに来た。達也は既製品の虫かごと、じいちゃん製の虫かごを持って田舎を後にした。

 5

 高3の夏休みは、結局、じいちゃんの田舎にはお盆の2日に家族で帰っただけで、すぐ元通りのだらだら生活で過ぎていた。

 その夜、コンビニからの帰り、達也はなにげなく橋から小さな川を見下ろした。
 その橋の幅は4メートルほどなのだが、石垣の底を流れる川は両側をコンクリートで固められて実質の川幅は1メートルにも満たない。
 暗い闇の中、細い川の流れに沿って、すうっとぼんやりした光が移動してゆく。
 達也はハッとして目を見開いた。
 ホタルだ。
 達也は川岸のコンクリートに降りようと決め、欄干をまたいで石垣の上に立つ。
 高さは2メートル程度しかない、途中の出っ張った大きめの石に足をかけて、飛び降り、ホタルを追いかける。
 ホタルの方は、まさか自分をつかまえようとする者がいるなんて、誰にも教わってないから、のんびりふわふわと七十センチほどの高さを飛んでいる。
 達也はほのかに点滅する光に追いつくと、両手で覆うようにしてホタルを捕まえた。
 しっかり空間をこさえた両手のひらの内部を隙間からそっと覗くと、ホタルは相変わらず光を放っていた。
 達也はしばらくコンクリートを歩いて、石垣の中に階段を見つけて道に上がった。
 
 マンションに入る時は、運良く隣の部屋のおじさんが帰ってきたので会釈して、手のホタルかごを保持したまま中に入れた。
 あとはドアを足でノックして、母に入れてもらった。
「一体、どうしたの?」
 パックをして間抜けなマスクレスラーみたいな母が聞くと、達也は少し自慢げに答える。
「ホタルをつかまえたから手が使えないの」
「ホタル?珍しいわね、こんな都会にもいるんだ」
「いいから、グッピーを飼う時に使っていた水槽を出してくんない」
「どこだっけ?」
「バルコニーの大きいケースの中、そうだ、そこに、網戸の修理した時の網の残りがあったでしょ、そいつも」
「はいはい」
 
 水槽に網のふたをして、湿らしたレタスを入れてホタルの部屋は完成した。
 ネットで調べたら、笹の葉がよかったのだが急には手に入らない。
 リビングの明かりを消すと、空の水槽の中でレタスにとまったホタルが息をするように光をまたたいていた。
「きれいだね。母さんたちは、昔、歌ったよ。
 ほ~、ほ~、ホタル来いって」
「知らないよ」
「こっちの水は甘いぞとか、言ってね」
「あ、ネットで調べたら、甘い水でなくていいって」
「あら、そーなの、ロマンがないわね」

 そこへ父が帰ってきた。
「ただいま」
 声をかけた父は入ってくるなり、真っ暗なリビングにびっくりする。
「どしたんだ?」
「見て、ホタルよ、達也がそこの川で捕まえてきたの」
「へえ、東京の住宅地にもいるんだな、田舎を思い出すよ」
 父もソフアに座ってホタルの灯りを眺めた

 父にもひとしきりホタルを見せると、「もういいでしょ」と断って、達也は水槽を自分の部屋に運んだ。
 それでも味のある水分の方がいいかと思い、すいかをひとかけら搾った汁をレタスに垂らしてみたが、ホタルは気付かないようだった。
 それから達也はパソコンに向かい、お気に入りに入れてる大学案内のページを開いた。
 ここじゃ両親は反対することはわかっていた。
 両親が自分に望んでいるのは、ごくありふれた経済学部あたりに進み、ありふれた会社員になることなのだ。
 本当は、達也の夢は外洋航路の船乗りになりたかったのだ。
 それは、じいちゃんの話してくれた雪風の寺内艦長の影響があったかもしれない。もちろん今は戦争など当面考えなくてよいし、青い海原を自在に駆ける船を想像すると爽快な気分になるのだ。
 そしていつか船長になれたら、挨拶で言うのだ。
「どんな嵐でもこの船は絶対に沈まない。なぜなら俺が船長だからだ」
 そこまで想像すると、達也は自分の想像に照れてしまう。
 本当は中学を卒業した後に商船高等専門学校に進みたかった。
 ただ、その時、普通の高校の範囲で選択肢を示す両親と教師に逆らうほどの強い意志はなかった。
 しかし、高校に通い出しても、船乗りの夢は次第に強くなる一方だった。
 達也は溜め息を吐いて海洋大学のページを閉じると、再び、水槽のホタルに向かった。

 ホタルは相変わらず点滅していた。

 達也は眺めながらホタルが点滅する仕組みを思い出していた。
 えーと、ルシフェリンという物質が、ルシフェラーゼという酵素の力で化学反応を起こすこ時に発光するんだっけ。
 そして、ふっと気がついた。

 待てよ、このホタルの点滅、まるでモールス信号みたいだぞ。

 読み取り始めた達也は驚いた。
 その点滅は、ツー・トン、トン・ツー・ツー・トン、トン・ツー・ツー。
 つまり、じいちゃんの海軍式記憶法でいうと、タール、都合どうか、野球場、という信号を送っているのだ。

 つまり、ホタルは「タ、ツ、ヤ」と送信して来てるのだ。

 タ、ツ、ヤ。

 タ、ツ、ヤ。

 タ、ツ、ヤ。

 と繰り返しているのだ。
 達也は夏だと言うのに背筋に寒気を感じた。
 そんなことがありえるだろうか?
 自然の生物の放つ点滅が偶然、自分の名前のモールス信号になっているなんて。
 しかも、一回きりでなく、何度も何度も繰り返すなんてことが。

 そう思って見ていると、今度はホタルのモールス信号は別の言葉になった。

 ツー・ツー・ツー・トン・ツー、ツー・トン・ツー・トン・トン、トン・ツー・トン
「ス、キ、ナ」

 トン・トン・ツー・トン・ツー、トン・トン・ツー・トン、トン・ツー・ツー・ツー
「ミ、チ、ヲ」

 トン・ツー、ツー・トン・ツー・ツー
「イ、ケ」

 いよいよ背筋がぞくぞくした。
 思わず喉の奥から驚きが吐き出されて、それは耳に「じいちゃん」と響いた。

「じいちゃんだろ?」
 達也はホタルに聞き返したが、返事の点滅はなく、スキナミチヲイケを繰り返すだけだ。
 しかし、達也はじいちゃんがホタルの光の点滅でモールス信号を送ってくれているのだと確信した。
 進路を迷っている自分に『好きな道を行け』と応援してくれているのだ。
 そうとしか考えられない。
「ありがとう、じいちゃん」
 達也は声に出して礼を言った。
「最近昔みたいに泊まりに行かなくてごめん。
 俺、早速、明日、会いに行くから」
 するとホタルはまた、タ、ツ、ヤ、と繰り返し出した。
 不意に涙が、なぜかとめどなく溢れてきた。

 そこで涙を指で拭いて呼吸が落ち着くと、突然、背後のドアが乱暴に開けられた。
「達也」
 父の声に振り向くと、父は焦点の覚束ない目をして言った。
「急いで支度しろ、じいちゃんが倒れて意識不明の危篤だ、すぐ出かけるぞ」
「……わかった」
 達也の声は、驚くほど冷静に響いた。
 そういうことだったのか。
 達也は妙に納得して、水槽の網のふたを取り、窓からホタルを放した。
 ホタルは点滅を繰り返して、都会の街へふわりと飛んで、やがて見えなくなった。

 田舎の救急病院に向かう高速道路。
 達也には自分を応援してくれるホタルの灯りの点滅が見えていた。   
 達也はおもむろに口を開いた、父母に自分の進路について打ち明けるために。  了