鏡台の恋人
§1
柴崎祐美は天野酉彦教授の部屋の少し開いているドアをノックした。
数回ノックしても返事がないので、祐美はドアをそっと開けて中を覗いた。
「あのう、誰もいませんか?」
すると教授の少し間延びした声が返った。
「いますよ」
「入ってよろしいですか?」
「どうぞ」
中に入ってみると、天野教授が一人、隅にあるリクライニングチェアの上で組んだ手を伸ばして首を回している。
「今、起きますから」
口髭をたくわえた天野教授はゆっくりと上半身を起こしジャケットを着るとチェアから降り立った。
「で、どういうご用件ですか?」
天野教授は祐美にソフアを奨めて、自分はコーヒーメーカーに歩み寄った。
「はい、私、3回生の柴崎祐美と言いますが、ちょっと困ったことが起きて、あまりにおかしなことなので、誰に相談したらいいかもわからなくて」
堰を切ったように話し始めた祐美に、天野教授はコーヒーを注いでカップを差し出した。
「まあ、落ち着いて、粗茶ですよ」
「ありがとうございます。いただきます」
祐美がコーヒーに口をつけると、天野教授はつぶやいた。
「意識はあまねく宿る」
「あ、はい」
祐美は、天野教授が心理学の講義の折に、意識はあらゆるところに在るという仮説を紹介していたのを思い出した。
「で相談内容はどういうことです?」
「はい、私の姉なんですが、おかしいんです」
「柴崎……?」
「柴崎智美です、翻訳サービスの会社に勤めてましたが今は無職です」
「それで、相談事のはじまりはいつです?」
「はい。そもそものはじまりは、もしかしたら姉が鏡台を買ったことから始まった気がしてます」
「鏡台ですか、古風な言い方ですね、現代語ならドレッサーだ」
「はい。古い日本式のもので、梅雨の水曜日の昼下がり、私が休講で早く帰ると家にその鏡台が配達されてきたんです」
「あなたの家は一戸建て? それとも集合住宅?」
「多摩の方の小さい一戸建てです」
祐美は視線を斜め上に向け目を細めて喋り出した。
「その鏡台は、小さな引き出しの上に、縦長のすらりとした鏡が立っているようで、その上から割れぬよう梱包されていました。注文票のサインで姉の注文とわかりました。
姉は帰宅するやいなや、鏡台を見つけると嬉しそうに撫でてました。
『こんな古風な鏡台どうしたの?』
『先月、駅前の道具屋さんで見つけてね、会社の帰りにいつも見ていたんだ。それで昨日思い切って買っちゃったの』
『ふうん』
私に続いて、母親も不思議がりました。
『智美にしちゃ、ずいぶんとしおらしい買い物ねえ』
なにせ、日頃、日本はもっと国際化しなきゃと力説して、おへそにまでピアスをしてた姉が、その日本の古い鏡台などに興味を持つとは想像できなかったのです。
鏡台の梱包を解くと、それは竹久夢二の絵にでも出てきそうな可愛らしい鏡台でした。
鏡の表面を覆う布は、飴色の下半分に紅葉を散らした模様でしたが、それをめくると、裏地はいやらしいような、しつこい朱色でした。
私が鏡の表裏を拭いてると、引き出しを拭いていた姉が「あっ」と声を上げました。
姉が外した引き出しの奥からまっぷたつに破られたハガキが出てきたのです。
そのハガキ、今日、こっそり持ってきたんです」
祐美はそう言って、セロハンテープで一枚につなぎ合わした古いハガキをバッグから出して、天野教授に手渡した。
ハガキの表には『配達困難に付き差戻し』とスタンプがあり、あて先は横須賀郵便局気付イ一三謄三〇二七部隊大原隊 椿木慶四郎様となっている。
消印は19年で、月がかすれて見えず、日は17日。
差出人は東京府目黒町の椿木みつ。
おそらくは昭和19年に部隊にいた家族に宛てたものなのだろう。
天野教授は裏返して文面を見た。
拝啓 お元気のことと思ひます。
貴方のお手製の栞、早速、使わせてもらひました。
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こちらも晴れ空ばかりが続き、■■■■■■■■■■
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■■、貴方の方が■■■で大変な御苦労をされてゐるの
だと思ふと汗も引ッ込み、銃後の守りを固める気持ちも
引き締まります。
貴方の御子も私のお腹ですくすくと育っております。
まるで■■■■選手のやうにお腹を蹴りますから、男の
子にちがいありませぬ。
早く写真をお送りしたいですが、お待ち下さい。
最後にご武運をお祈り申し上げます。かしこ。
何ヶ所か黒く塗りつぶされているのが、いかにも戦時中という雰囲気だ。
天野教授は祐美に尋ねる。
「それでこのハガキを見て、どうなりました?」
「はい、私は、まるっきり別世界のことのようで『ふうん』と呟いただけでしたが、姉の方はハガキを読むと、ぽろぽろと涙を流したんです。
そりゃあメロドラマでちょっと涙ぐむことはありましたが、姉は基本的に陽気で、プロレスの試合で血を流しながら戦っていてもキャッキャと笑いながら観ていられる、太い神経のひとなんです。
そんな姉が泣き出すような内容とも思えませんでした。
『どうしたのよ?』
私がそう聞くと、姉はうつむいたまま、
『だって、この赤ちゃん、流産だったのよ』
と、答えたんです。
『どうして?そんなこと書いてないでしょ?』
私が聞き返すと、姉はムキになって、
『ハガキの破り方を見ればわかるじゃない。
赤ちゃんを流産した後にハガキが差し戻され、自分の書いた文面の皮肉さに思わず破ったのよ。でも捨てることはできずに引き出しの奥にしまったんだわ。可哀相に……』
言われるとそんな気もしてきますが、姉の私を睨むような視線に、なんか違和感を覚えたんです。でも、その時は、後から姉の身にあんな奇妙な出来事が起きるとは、まったく想像できなかったんです。
§2
変化は徐々に現れました。
姉はしょっちゅう鏡台に向かうようになりました。
勤め先が10時出社というせいもあり、それまでは朝、私が呼びにゆくと、ベッドの中で生返事してた姉だったんですが、鏡台を買った直後から、朝、私が覗くとすでに着替えて鏡台に向いてブラッシングしているんです。
『あら、祐美、おはようございます』
姉は言葉遣いも改まり、ブラッシングする手も妙にのんびりしていました。
『どういう風の吹きまわしなの』
『どうって、髪を櫛けずるのは女の身だしなみの基本よ』
『やあね、台風なんか呼び寄せないでよ』
私がけなすと、姉は思いがけないことを口にしました。
『ああ、早く髪を伸ばしたいわ』
そう言ったんです」
天野教授はメモに書き込みながら言った。
「その言葉がどうして思いがけないんです?」
「はい、姉は中学生の時に一度だけロングにしかけたことがあったんですが、数ヶ月で『やっぱりショートの方がいいわ』と言ってすぐ切ったんです。
つまり物心ついてから殆どショートオンリーだったんです。
その姉が髪を伸ばしたいと言い出したのは、進学や就職に迫るぐらいの人生一大転換イベントなんですよ。
そこで私と母は、姉の様子が変わったのは、姉は恋をしたせいに違いないと話し合ってました。
そこで私は母と姉と三人で夕食している時に尋ねました。
『お姉ちゃん、恋してるでしょ』
今までなら『子供が何言ってんのよ』と反撃されておしまいなのに、この時の姉は慌てて箸を落としました。
『やだ、祐美、困らせないで』
この答えに母も私も呆気に取られました。
『へえー、初めての公式発言ね。お相手は誰なの?』
すると姉は『えー、やだあ、いじわるう』などと女子中学生みたいにしどろもどろになり、最後に『祐美も知ってるひとよ』とだけ明かしてくれました。
そこで私はかつて姉が話題に上げた男のひとの名前を、片っ端から言ってみたり、姉のアルバムを引っ張り出して、ひとりひとり指差して、問いただしましたが、姉は頬を染めて首を横に振るばかりでした。
まもなく姉は、家にいる時はいつも、祖母の残してくれた着物を着るようになりました。
さらに部屋の中も、ベッドを運び出して、フローリングの上に小さな畳を敷き並べて和室に変えてしまったんです。
母から(智美が恋をしているみたいよ)と聞かされた父は、
『智美も最近めっきり女らしくなったなあ』
なんて笑顔で冷やかしてみます。すると姉は
『お父さんのいじわる』
と嬉しそうに言い残し、二階の自分の部屋へ駆け上がります。
父はテレビのリモコンを意味なく何度もひっくり返した後、大きな溜め息です。
『いよいよ、本物らしいね』
それからまもなくして、姉はそれまで情熱を捧げていた翻訳の仕事をあっさりとやめてしまいました。
かくなるうえは、今日こそ、相手の男性を連れて来るのでは、と母と私はわくわくしながら、父はひやひやしながら、毎日を過ごしていましたが、姉が相手の男性を連れてくる気配は一向になく、それどころか、自分の部屋に閉じこもりがちになりました。
しまいには、一階に降りてこなくなり、食事に呼んでも、
『悪いけど、二階に運んでちょうだい』と、言うありさまです。
『お姉ちゃん、夕ご飯持ってきたわ』
私が部屋のドアを開けると、鏡台に向かってた姉は肩だけ振り向いて、
『ありがとう』
『お姉ちゃん、どうしたの?
全然、下に降りて来ないから、お母さんもお父さんも心配してるよ』
『心配しないでって言っといて。
私はね、今、とても幸福なの、世界一幸福なのよ』
姉は赤らんだ頬は、その言葉通り、私の知る限りの姉の歴史の中でもっとも美しい輝きをたたえていました。
でも、私は何か違うものを感じていました。例えばよく見るとパーツの輪郭の溝があるジグソーパズルの絵を見ているような。
『そんなに閉じこもってばかりで恋人に会わないと、浮気されちゃうんじゃない?』
私が意地悪く言っても、姉はいよいよ頬を染めました。
『うふふ、私と彼は大丈夫なの』
微笑んで、そう言うんです。
私は何かおかしいことが起きていると直感しました。
階下に降りた私は、父と母に、姉を思い切って、精神科か心療内科に診せた方がいいのではないかと提案してみました。
しかし、父も母もそこまで深刻には考えてくれません。
『それは祐美の思い込みよ。智美の顔色は私も毎日見てるけどそんな悪くないし、会話だってきちんとできているし、おかしいわけではないわ』
『そうだよ、畳の目を一日中数えたり、急に笑い出したり、石に話しかけていたりすれば別だが、そうでなければ軽はずみな判断をしちゃいけないよ』
『智美がちょっと変なのは恋なのよ。恋をするとね、彼以外に会いたくなかったり、食事も喉を通らなかったり、いつもと違う感じになるのよ。祐美だって恋をしたらわかるわ』
『でも、お姉ちゃんは……』
そう言いかけたものの、私には父母を説得するだけの証拠はなかったんです。
§3
しかし、それから数週間したある晩のこと、私はついに姉の秘密を知ったんです。
夜中の十一時頃、私はキッチンでマグカップに牛乳を注いで、自分の部屋に戻る途中、姉の部屋の扉にそっと耳をつけてみたんです。
一瞬だけ、声がしました。
私はドアのノブに手をかけて、姉に(何の用なの?)と聞かれた時の答えを(お姉ちゃん、牛乳かなんか飲む?)に決めました。
思い切り開けようと思ったのに、手が震えて私はそっとドアを開けました。
丸い蛍光灯の内側の豆電球だけの明かりでしたが、室内は見通せました。
たちまち、私の背骨は氷柱になったようでした。
仄かに暗い部屋の底に、姉が寝ている布団があり、そのすぐ脇に、黒い庇の制帽を眼深に被り、くすんだ黄土色の軍服を着た男が正座していたのです。
ボタンがかすかに黄金に輝いて縦に並ぶのに、十字を切るように太いベルトをしていました。腰に刀の柄が見えて、膝の上に握った手を置いてました。
その手は眩しいような白い手袋をはめていました。
私は喉がからまわりしているみたいで声が出せませんでした。
軍服の男は、闇の底で目を閉じている姉の穏やかな顔を見下ろしていました。
突然、白い手が闇を泳ぎました。
その白い手は姉の布団をそっとはぐと、姉の襟合わせに伸びて、すうと滑ったかと思うと姉の胸がはだけました。
露わになった姉の乳房を白い手がそっとつかみました。
眩しいほど白い手でした。
姉の顔に悦びの表情が浮かびました。
私はやっとのことで、そっとドアを閉じて、吐くことを忘れていた息を継いで、抜き足差し足、階段を降りました。
数瞬、目撃したことを父母にしらせるべきか迷いましたが、あの軍服はどう見ても異常です。
私は父母の寝室をノックしました。
『お姉ちゃんのところ、男のひとが来てるの』
私がやっとのことで言うと、母はうなづき、父は顔をしかめました。
『やっぱりこっそり逢ってたのね』
『だが俺から挨拶にゆくのもおかしいだろ』
困り果てる父に、震える私は時々カミながら大事な点を言いました。
『それが普通じゃないんらってば、その男のひとは昔の軍服を着てるの、ほら戦争映画で見るカーキ色? あれを着て、白い手袋して、お姉ちゃんをその、あの、とにかく、とっても怖くて、幽霊かもしれない』
『まさか』と父母は声を揃えて私を疑いました。
私はいやがる母を二階に引っ張って、姉の部屋のドアをそっと開けました。
薄闇に軍服の男がまだいました。
母は自分の口を手で押さえて声を殺しました。
姉の着物はすっかりはだけて、軍服の男は姉の顔を覗き込むようにして、同時に白い手袋が姉のお腹のあたりをさすっていました。
やさしい感じでしたが、見ている私は息が詰まりました。
だって、姉のお腹は乳房に並ぶ高さに盛り上がっていたのです。
妊娠!?
私は衝撃を受けましたが、すぐにそれを上回る衝撃が響きました。
『みつ』
軍服の男が姉をそう呼んだのです、そして姉が答えます、
『慶四郎さま』
私はゾクゾクと鳥肌が立ちました。
そうです、あのハガキの夫婦の名前です。
私は鳥肌がいよいよ全身に広がるのを感じました。
そこで母が反射的に『智美』と叫んで、室内に駆け込み、蛍光灯を点けました。
すると不思議なことに、蛍光灯がまたたいて明るくなるのに合わせて、軍服の男は姉のお腹を撫でる姿勢のまま、すうっと透き通って見えなくなったのです。
後には、鏡台に着物をはだけた姉の姿が映っているだけでした。
ここで、全てが消えてしまえば問題はまだたいしたことなかったのです。
しかし、軍服の男が消えても、姉のお腹は膨らんだままでした。
翌日、母と私が姉を引っ張って、医者に診せたところ、既に七ヶ月目に入っていると言われたのでした。
相手を問い詰めても、姉は嬉しそうに
『椿木慶四郎さまです』
と繰り返すのみなのです。
中絶の出来ない時期に入りながら、相手が鏡台の引き出しのハガキの人物では話の進めようもありません。
産科医にも精神科医にも相談しても、解決の糸口すら見えないのです。
天野教授、お願いです、私の姉を助けていただきたいんです。
教授は心理学の教授で畑違いなのはわかってますけど、私には先生しか頼るあてがないんです」
柴崎祐美は深々と頭を下げた。
§4
「ふうーむ、困りましたね。霊能者に相談したりは?」
「はい、近くの霊能者に頼んで本当の相手を探し出そうとしたんですが駄目でした」
祐美がそう言うと
「えっ」
天野教授はびっくりして言った。
「本当の相手が現実にいると思ってるんですか?」
すると、祐美は少しムキになって、
「あの、姉は本当に妊娠してるんです、エコーの影を私も確認しました」
「お姉さんはずっとひきこもっていて、外と接触はなかった。そして、そのお姉さんが相手は椿木慶四郎だと言うなら、それがある意味で正解だ」
「それじゃあ困るんです、姉は妊娠してるんですから」
祐美の真剣な様子に天野教授は苦笑した。
「どう話せばいいのかな。
これから私が話すことは、あくまでも私の仮説に基づく説明になる。私に解決ができるとしたら、その仮説に基づく解決しかない」
「はい」
「私が超常現象にも取り組んでいるのは知ってるかな?」
「はい、教授はユングのそういう話されるからちょっと有名です」
「私は超常現象、霊的現象が起きるための基礎原理の仮説を立てている」
小首をかしげる祐美にかまわず天野教授は話を進める。
「その第一原理は『あらゆる物は、そこに起きた出来事を記憶できる』ということだ」
「物が記憶できるんですか?」
「そうだよ、厳密に言うと、物ではなくて、物に重なっている意識の素粒子が記憶意識として記録するんだ」
「なんか難しいです」
「いや、中身の理解は今はいいよ。そういう仮定に基づいた時、どんな効果や実用性があるかが重要なんだ」
「じゃあそういうことで」
「そして、第二原理『感受性の強い人間は、物の記憶を引き出して見ることができる』ということだ」
「ふたつ、まとめるとどういうことかな?」
天野教授に言われて、祐美は考えながら言った。
「えーと、簡単に言うと、物は記憶し、敏感なひとはその記憶を引き出せる?」
「その通り、私は、このふたつの原理から、幽霊がつくられると思うんだよ」
「あ、じゃあ、私が見た軍服の幽霊も」
「そう、そういうしかけだ。
ここに鏡台がひとつある。
鏡台には、出征する軍人と妻の、短いがゆえに濃厚な幸福と愛欲をむさぼる姿が記憶されて、さらに戦地の夫とお腹の子供を気遣う妻の激しい情念が刻み込まれている。
現実の二人がどうなったかはあまり問題ではない。
鏡台に強烈な記憶が宿ったこと、それが重要なんだ。
やがて時が過ぎて、お姉さんが鏡台を手に入れる。
ここでハガキの手がかりも得て、お姉さんは鏡台の記憶を次々と引き出してゆく。
そして、鏡台の記憶にある情念があまりに激しいため、自分の気持ちとの区別がつかなくなり、お姉さんの意識と鏡台の記憶は相互に強めあう関係になる。
お姉さんの意識と鏡台の記憶は、椿木慶四郎の姿をはっきりと映し出し始める。
そうすると、君やお母さんまでが、お姉さんと鏡台の投影した椿木慶四郎の姿を垣間見ることができたんだ」
「そんなことがあるんですか」
祐美は一時、納得したようだったが、すぐに言い返す。
「でも、お腹の赤ちゃんはどうなるんです?
エコー検査ではっきり赤ちゃんの影が映っているのを私も見ました。本当に妊娠しちゃってるんですよ」
天野教授は頷いた。
「君は想像妊娠ということを知ってる?」
「ええ、妊娠したと思い込んで、実際につわりもくるっていう……、でも姉の場合は想像じゃないんです、実際にエコーが」
すると、天野教授は自分のコーヒーカップを指の爪で弾いて音を立てた。
「殆どのひとが誤解してる事実がある。
それはこのカップのような固体はとても硬くて、しっかりしてるという錯覚なんだ。映画の『マトリックス』は知ってるかね?」
「ええ、一応」
「あの映画では現実すべてが作りものだったが、あそこまでは疑わしいね。
しかし知覚については、実際に、作りものとまではいかないが、過剰な演出と呼べるものがあるのだよ。このカップが硬いというのは神経の知覚を脳がおおげさに演出しているんだ。物質を形どる原子の実質である核や電子は非常に小さく、原子の殆どはスカスカの空間なんだ。しかし、我々はスカスカとは認識しない」
「触感はしっかりとした手ごたえを返してきて、言葉は悪いが、私たちは演出された知覚に洗脳されてるんだ。
さて、私たちの考え、思念の実体は、私の第一原理でいう記憶意識であり、物理的には電磁波としてあらわれる。物質の原子の実体はごく小さいので電磁波で揺り動かすことができる。電子レンジや脳診断でよく使うMRIの原理だね。
私の仮説でゆくと、今、お姉さんの思念と鏡台の記憶が互いに強め合って、お姉さんの
お腹に赤ちゃんがいるのだと思い込んでいる。
すると、その強烈な思念に沿ってお腹の細胞の原子が揺り動かされ、胎児の形に細胞を並び替えてしまうんだ。
当然エコーに影は出るよ。もし、内視鏡でも入れて確認したら、そこそこ胎児の形になってるかもしれない。しかし、正常な妊娠の赤ちゃんじゃない」
祐美は天野教授を見つめた。
「姉のために私はどうしたらいいんですか?」
「鏡台の記憶がお姉さんの意識を歪めてしまっているんだから、鏡台を処分すればいいと思うよ。
ただ。それは私の仮説に基づいた方法だから、他の方法を納得ゆくまで試してからでも遅くはないがね」
「そうですか」
「ただ、処分といっても粗大ゴミを捨てるのとは訳が違うんだから、それなりの手続き、儀式をして、お姉さんに何が起きていたのかわからせ納得してもらう必要があるな。
その時は私も立ち合ってあげよう」
「はい、お願いします」
祐美は初めて笑顔になった。
§5
数日後、多摩のとある寺院の本堂に、柴崎祐美とその父母、そして姉智美の姿があった。
そして問題の鏡台も運送業者の手でこっそりと庭に運び込まれていた。
天野教授は柴崎家族を後ろから見守っている。
安産祈願と聞かされていた姉は読経に手を合わせていたが、柚子色の法衣をまとった僧正はひと区切りつくと振り向いて、宣言する。
「さて、柴崎智美、汝に鏡台に宿る霊が憑いておること、わかるな?」
姉は騙されたと気付いて怒りの表情を浮かべる。
「卑怯よ、みんな、私を騙してたのね」
祐美は父と両脇から姉の腕をかかえて動けないようにする。
「そうじゃないの、昔のお姉ちゃんに戻ってほしいだけなの」
「私は絶対産む、椿木慶四郎さまの子供、絶対産むからね」
姉が言い張ると、母が諭す。
「それは無理なの、智美、目を覚まして、お願い」
僧正が言う。
「さあ、庭をご覧、お主についておった鏡台の霊を一緒に成仏させてあげよう」
庭に置かれた鏡台に、若い坊主が三人、ひしゃくで油をかける。
「ああ、私の大事な鏡台、何をするの!」
僧正は再び読経を始める。
若い坊主の二人もその場で読経を始め、一人が箸箱のようなものから火を投じた。
鏡台はあっという間に火に包まれる。
「きゃー、やめてー、やめてー、助けてー」
姉の絶叫が響き渡る。
燃え上がる鏡台から立ちのぼる黒煙がどんどん大きくなってゆく。
「お姉ちゃん、もう少しの辛抱だから」
「智美、がんばれ、元に戻るんだぞ」
「やめてー、やめてー」
祐美と父が懸命に押さえていたが、その時、錯乱状態の姉はとんでもない力で祐美と父の手を振り払い、駆け出す。
廊下に飛び出るところを天野教授が捕まえ抱きかかえた。
「離して、離して、私の鏡台よ」
鏡台はさらに燃え上がり、炎の熱に耐え切れなくなった鏡面のガラスがパンと音を立てて割れ、地面に落ちてさらに砕けた。
「いやー、やめて」
天野教授は姉の肩をしっかり抱いて言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫だよ、誰も傷つかないんだ。
椿木慶四郎さんも椿木みつさんもあちらの世界に戻って幸せになるんだ」
「いやあああ」
姉は嗚咽をあげるとその場にぐったりと座り込んだ。
本堂の奥にある十畳ほどの部屋で柴崎の家族と天野教授はひと休みしていた。
もっとも姉の智美はよほど疲れたのだろう、仰向けになって薄い毛布をかけられ眠っている。
祐美は眠っている姉から顔を戻して教授に言う。
「天野教授、なんてお礼を言っていいか」
「いや、私は何もしてませんよ」
そう言う教授に父が深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました。おかげで娘が救われました」
「不思議ですね、あんなに大きかったお腹が今はぺしゃんこなんですから」
母が姉のへこんだお腹を見て言うと、教授は笑った。
「私も安心しましたよ。祐美さんには『そうなる筈だ』と偉そうなことを言ってましたが、ただの仮説ですからね、内心ひやひやしてましたよ」
その言葉に皆が笑い出す。
祐美がふと尋ねる。
「でも、教授の仮説だと、幽霊はいないってことでしょ。それって、霊魂は存在しないってことですか?」
すると教授は「まさか」と声を上げた。
「霊魂はもっと次元の高い存在なんだよ。
だから、死ぬと、あっという間に、高い次元に移動してこの世に残らない。
残るのは記憶意識だけなんだ。
それをたまたま読み取ったひとはそこに霊がいると騒いでしまうんだ。
ま、これもまだ仮説にすぎないがね」
教授がそう言うと、皆はまた笑った。
姉は穏やかな表情のまま、まだ眠っている。 《了》
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