古渡城はいつ出来た?

 

信長紹介3

時系列でみると、天文1年、信秀は上司の大和守に叛旗をあげますが和議に持ち込み、
関係修復の意味もあって、天文2年(1533年)、蹴鞠の宗家飛鳥井雅剛と公家の山科言継を呼んで蹴鞠会、連歌会を勝幡城と清州城で催します。

ここで出会ったのが今川那古野城の12歳の若君竹王丸。

竹王丸は信秀と打ち解け、連歌をやりとりする仲に(ひと昔、いや、なな昔前の交換日記みたいな)
そこで信秀が今川那古野城を落としてやる意欲満々で築いたのが古渡城。
ここから5年も交換日記する気はさすがにないでしょう。
当然、那古野城攻めに兵を派遣する目的ですから天文3年以降数年で建てた筈。
ちょうど竹王丸が元服して自分の意見を通せる頃が狙い。

那古野神社が那古野城攻略で焼失するのが天文元年とされてるけど、五年等の記載ミスじゃないのかな。再建が天文八年じゃ空きすぎ感強すぎ。

一部に那古野城を乗っ取ってから古渡城を築いた説がありますが、なぜこんな吹けば飛ぶような小城を建てるかがイミフ。強力に吉法師との別居を推し進めるためでしょうが、そんなん那古野城二の丸、三の丸に入れればいいじゃないかと思いますよね。強力な謎です。

あえて言うなら方位にこだわっての方違えなのか。