信長天魔王 9章と10章

 

信長天魔王 上巻

 

竹王丸の那古野城

 七月に入って、信秀は馬廻りの弥太郎と宗兵衛を従えて那古野城を訪れた。
「頼まう、織田弾正忠信秀じゃ。左馬助さまのすけ殿のお招きにあって参上いたした」
 すぐに門が開いて、
「お待ちしておりました。どうぞ中へお入りくだされ」
 一行は建物の構えなどを眺めながら奥に進むと、もうひとつの門が開け放たれていて中から竹王丸が出てきたのである。蹴鞠会の頃から成長して目元のすっきりした好男子になりそうである。その後には見覚えのある傅役の老家臣と護衛の侍が従っている。
「弾正忠殿、待ちかねましたぞ」
「左馬助殿、お出迎え、恐縮でございます」
「竹王丸で構いませぬ。左馬助という名はあまり好みでないのです」
 信秀と従者は微笑、というより苦笑した。竹王丸には初めての来訪者に対しての警戒心が全く感じられないのだ。
 塀の内側は大きな曲輪だったが、さらに奥にも曲輪がふたつほど連なっている。
「竹王丸殿、この城は広うございますなあ」
 信秀が声をかけると竹王丸は微笑んだ。
「広いだけが取柄でございますれば、隣の曲輪に行くにも疲れます」
 古渡城は南北は一町弱、東西は一町半弱であったが、那古野城は南北はおよそ四町、東西はおよそ五町とふたまわりもみまわりも大きい。信秀一行は大きさに圧倒されそうだった。
 竹王丸が説いて教えてくれる。
「この曲輪は二の丸ですが、皆は柳の丸と呼んでおります」
「では隣が本丸ですな」
「そうでございます」
「奥にももうひとつ曲輪があるようですな」
「小さい西の丸と小さい御深井丸とふたつありまする。弾正忠殿にあらせられては、本日、こちらの柳の丸にお泊り頂きます」
 さすがに本丸には通されないようだった。

 竹王丸は柳の丸の書院に信秀を案内した。手前の廊下に裃を着けた家人二人がかしこまっていた。
「この者たちが弾正忠殿をおもてなしいたします。三郎兵衛と角之介にございます」
 二人はそれぞれ名乗って平伏し顔を上げた。
「何か入り用のものや、ご用がありましたら気安うお使いくださいませ」

   ○

 歓迎の宴となったが、当主の竹王丸がまだ元服前ということもあり、信秀は念のため尋ねた。
「竹王丸殿は御酒ごしゆはいかれるかのう?」
「時々、試してはおりますが、あまり好みではありません。爺や周りの者たちはそのうち慣れて強くなると申しておりますが、真でしょうか?」
 信秀は笑った。
「真でございますとも。それがしも竹王丸殿の歳頃にはさほど強くありませんでしたが、歳を取るに従い強うなります」
「それを聞いて安堵いたしました。
 弾正忠殿から見て今までで一番強い酒豪は誰になりますか?」
 竹王丸の質問に信秀ばかりか、離れた席の弥太郎と宗兵衛までが笑った。
「それはもう、なんといっても先年の蹴鞠会に来られたお公家の山科言継公で間違いありませぬ」
 竹王丸はびっくりして口を開いた。
「蹴鞠を教えて頂いた山科殿が? 武家の豪傑どもより酒豪なのですか?」
「ええ、何しろひと晩に三升、四升飲むというのですからのう。こういう飲ん兵衛を昔からうわばみと申します。ご存知ですかな?」
「うわばみ? 狐や猿などもひと飲みで腹に収めるという大蛇でございますね?」
「その通りで」
 竹王丸は大喜びである。
「うまい名付けをしたものです、感心いたしました」
「おかげでわしらの接待役は樽で何十も酒を注文しておりましたぞ」
「それは迷惑なうわばみでございますな。泊めるのは気が進みませぬ」
 竹王丸の言葉に信秀一行も傅役の家臣も大笑いした。

 信秀と竹王丸は一応の乾杯をしたが、竹王丸は「もう結構でございます」と云って盃の三分の一も飲めなかった。
「さてお開きになったら、連歌をやりますか」
 信秀が誘うと、竹王丸は眉をしかめて云った。
「今日は頭の内が千切れそうに痛いので、まともに歌など付けられませぬ。どうぞ明日にしてくだされ」
「ははは、これは飲ませすぎましたな。ご容赦くだされ。歌は明日の楽しみに取っておきましょうぞ」
 すこぶる上機嫌な信秀であった。

   ○

 翌日、竹王丸は昼前に信秀の部屋を訪れた。
「弾正忠殿、おはようございます、ようお休みになれましたか?」
「竹王丸殿、昨日は行き届いた楽しい宴をありがとうございましたな、さすがは今川那古野と感服いたしましたぞ」
「こちらこそ、弾正忠殿には面白き話を聞かせて頂きありがとうございました」
「酒も過ぎますと翌日にも残って身体や頭が怠いものでございます。ここはそれがしが竹王丸殿に茶を点てて進ぜましょう」
 竹王丸の目が輝いた。
「おお、弾正忠殿は茶の湯もなされますか?」
「まあ、さらと習うただけゆえ、あまり上手くないやもしれませんがの」
「遠慮のう馳走になりまする」

 道具は今川那古野が書院に揃えてあったのを使う。
 信秀は俄か仕込みであったが、その点前に心を投じた。
 釜で湯を沸かす、なつめより抹茶を茶杓で茶碗に分ける、柄杓で茶碗に湯を注ぐ、茶筅で茶碗の抹茶を泡立てて湯と茶粉を溶け合わす、茶碗を客人に渡す。
 形にこだわっただけで要は煎茶を沸かして飲むのと同じではないかと以前は信秀も思うていた。
 だが茶湯道には世の肝があるのだ。これは外からちらと見ただけでは気が付かぬものであった。信秀自身がそれまで侮って見過ごしていた世の肝が、付け焼刃の習い事でも師匠のそれを見て、習ってみて、己一人で点ててみて、それまでの日々で見過ごしていた世の肝が茶湯道に息づいておるのを垣間見るのであった。
 その世の肝とは言の葉で表わすのは難しいが、一連の無言の所作の中で無言の大いなる世の肝を観ずることがあり、ひとは自然と心に呟くのだ。
 奥が深い。
 もしかしたら己はこの客人を斬ることになるやもしれぬ。それでも心を込めて信秀は茶を献じた。
「結構なお点前でございました」
 そう述べた竹王丸の唇には抹茶が少し付いていた。

   ○

 那古野城に逗留する間、信秀は体調がすぐれぬと偽って清州城には一日おきに昼だけ顔を出した。すると大和守はまた謀反かと恐れたようで藤左衛門の手勢を清州城に入れたので、信秀は馬廻りたちと苦笑した。

 結局、信秀は竹王丸に言われた十日を、連歌、蹴鞠、茶湯とたっぷり数奇尽くしで楽しみ親交を深めた。

 八月からも月に五日ほどを那古野城に逗留して数奇尽くしで楽しむのが恒例となって信秀と竹王丸の交流は続いたのであった。

   ○

 天文六年三月
 いつものように信秀は那古野城に竹王丸を訪ねて逗留した。
 接待役の三郎兵衛と角之介とも仲が良くなって心地よく滞在することが出来る。
「三郎兵衛殿、角之介殿」
「はっ、なんでございましょう?」
「これを見てくだされ」
 信秀は二人に刀のつばを見せた。それは鍔の狭いところに緻密な彫刻が施されて見事な出来だった。
「ほおー、これは洒落た鍔でございますなあ」
「こちらは蜻蛉の図、こちらは月の図でございますな」
「そなたたちには毎月、世話になってるゆえ何か贈らねばと思っていたのじゃ。だが刀では高価ゆえ上役に勘ぐられよう。しかし鍔ならば多少凝ったものでも、竹王丸殿もご家老衆も咎めだてはすまいて。お好きな方を収められよ」
「よろしいのでござるか?」
「遠慮されるな。いつも無理を聞いてもらっておるささやかな礼じゃ」
「ありがとうございまする、では遠慮のう」
 三郎兵衛と角之介は鍔を受け取って一層尽くしてくれた。

 翌日、信秀の元に木箱を抱えた下人が訪れたが、三郎兵衛と角之介は丁重に案内した。
 だが一刻もしないうちに釘を打つ音が響いて三郎兵衛と角之介は書院に駆けつけた。
 見れば山水画の掛け軸が取り外されて、そこに窓が開いているではないか。
 いかに客人といえども勝手に大工を入れ建物を改めてよい筈がない。
「弾正忠殿、これは何事でございますか?」
 二人は抗議のつもりがつい丁寧な口調になる。
「これは書院の客人がための窓が足らぬと気付いての。どうじゃ?
 柳もよう見える。これでこそ柳の丸ではないか」
「し、しかし……」
 二人は自分達では敵わぬと見て、本丸の竹王丸と傅役に報告に走った。

 話を聞いた竹王丸は信秀が何をしてくれたのかと初めから楽しみにして書院に駆けつけた。
「弾正忠殿、何の窓を造られましたのか?」
「おお、これは竹王丸殿。この窓は柳を眺め、あるいは風を入れるための数奇窓でございますぞ。この方が山水画よりずっと風流を感じられるであろうて」
「なるほど。さすがは弾正忠殿。数奇窓でございましたか」
「いかにも。気に入っていただけたかの?」
「はい」
 そこへようやく傅役の家老が息を切らして駆けつけたが、もはや当主が認めてしまったのだから文句を云う事も出来ない。
 信秀は得意顔で説いて明かす。
「雨や景色に飽いた時には窓を閉めていただいて、また掛け軸を掛け直せば掛け軸も楽しめますゆえ、客人も飽きないわけでございます」
「これはよい工作をしていただいた。ありがとうございまする」
 三郎兵衛と角之介も相槌を打つ始末である。
 竹王丸は礼を云って引き上げたが、もちろん信秀としては本丸の様子を伺うために窓を開けたのであった。

   ○

 その日は夕方になると、竹王丸がやって来て書院の窓から夕空を眺めて、連歌の付け合いを楽しんだ。
「弾正忠殿、数奇窓のおかげで句付けが弾んで、二つ目の百韻もなりました」
「ことの他、捗りましたな、目出度い限りじゃ」
「流してしまった扇箱の分も取り戻して本当にようございました」
「いや目出度い」
 信秀は扇を広げた……。
 と、見えたその時、突然に床に崩れて唸り出した。
「うう、苦しい」
 弥太郎が「これはいかん」と云うのと、竹王丸が「弾正忠殿、いかがされたのじゃ?」と叫ぶのが一緒であった。
「いつものお薬を」
 弥太郎が云うと宗兵衛が急いで懐から丸薬を取り出して信秀の口をこじ開けて押し込み弥太郎の差し出す竹筒から水を吸うと口移しで信秀の口に流し込んだ。
「弾正忠殿、大丈夫でござるか?」
 竹王丸が問いかけてもただ「ううー、苦しい」を繰り返している。
 そこで弥太郎が竹王丸に明かした。
「主には心の臓に持病がございまして、薬師には次に倒れた時は命が危ないと云われておりました」
 そう聞いた竹王丸は信秀の手を握って命令するように、
「弾正忠殿、気をしかと持て、死んではならん」
 弥太郎が竹王丸に念を押した。
「竹王丸殿、このまま万が一の事が出来いたしましても、主と竹王丸殿のお仲に免じて是非にしばらく他家に御内密にお願いいたします。
 宗兵衛、そなたは城に走り殿が御危篤と伝えよ」
 宗兵衛は「はっ」という言葉を残し、走り去った。
 信秀は苦しそうな息の下から言う。
「竹王、丸殿、今での、厚誼、感謝、たす。家臣、遺言、したい、で、集める、お許し、を」
 竹王丸は涙を流しながら頷いた。
「わかり申した、家臣を入れること許しまする」
 そして接待役を振り向いて、
「三郎兵衛、門番に弾正忠家の者を通すように伝えに行け。角之介は本丸の爺に弾正忠殿、俄かに御危篤と伝えよ」

   ○

 信秀危篤の報を受けて、血縁縁者と弾正忠家の重役家臣が十人、二十人と那古野城の柳の丸に詰めかけた。
 信秀は「うう、うう」とただ苦しそうに息をする中、家老林佐渡守秀貞の問いかけにも答えられない。その様子に泣き出す者まで現れる。
 さらに亥の刻、那古野城の南、市場の辺りで火事が発生した。
 那古野城本丸では見張りの報告に、重臣が様子を確かめていると、折からの南風に火は勢いを増し始めるようであった。まさかここまで火事が広がるとも思えないが、風に乗った火の粉が届くことがないとも言えない。
 重臣たちは協議したうえで、竹王丸に報告した。
「念のため、皆を起こして、堀の水を汲んで城にかけて火の粉に備えます」
 竹王丸は頷いた。
「よし、頼むぞ。絶対に火の粉を落とさせるな」
「ははっ」

 那古野城は皆が寝巻のまま総出で人の列をなして、堀から汲んだ水桶を、並んだ者から者へと手渡しして館の屋根に運び上げてはかけるという作業を繰り返した。
 しかし火の勢いは次第に城に近付いて、すぐ南に見える天王社と若宮八幡社が火に包まれた。
「あー、天王社が燃え出したぞ」
 寝巻姿の足軽大将や弓大将、槍大将、侍大将が口々に怒鳴る。
「皆の者、気合を入れて素早く水桶を回せ」
「空桶も素早く堀に返せ」
 
 その時、柳の丸では門番どもが既に城内に入った弾正忠家の侍に斬られていた。侍大将飯尾近江守定宗、足軽大将赤川三郎右衛門景弘が率いる甲冑姿の千六百名がどっと雪崩込んだ。
 大将達が怒鳴り続けて南の火事にすっかり気を取られていた寝巻姿の侍達は、武装した弾正忠家の侍に気付かぬ者もいるほどで瞬く間に斬り倒されていった。手に持っているのは武器ではなく桶なのだから反撃のしようもない。

「殿、柳の丸は我らの手に落ちましたぞ」
 弥太郎が云うと今まで唸っていた信秀はけろりとして立ち上がった。
「皆の者、見舞いの段、忝いかたじけないのう。那古野城が手に入ると聞いて本復したようじゃ」
「け、仮病でございましたのか」
 信秀に騙されたと知った一同だが怒ろうにも怒れない。なにしろ今いる城がいとも簡単に手に入る間際なのだ。
「今一度、伝えよ。竹王丸は生け捕れよ。決して傷付けるな。生害もさせるな」

 本丸でも南風に乗って届く火の粉と水桶を回すことに気を取られていた侍達は、武装した弾正忠家の侍の敵ではなく、瞬く間に斬り従えられた。
 本丸の侍女たちの部屋に潜んでいた竹王丸は捕えられて、縄で胸と後ろ手を縛られたところで、信秀がやって来た。
「弾正忠殿?」
 竹王丸は信秀の元気な姿に驚いた。そして眉を歪める。
「仮病であったのか、卑怯者」
「竹王丸殿、それがし、竹王丸殿にいろんなことを教えて参りました。今日のこれは兵法の伝授でございます。相手を喜ばせ油断させて事を起こしますと、相手は普段ならば決して踏まない後手を踏んでしまいまする。さすれば味方の損失を最小限に押さえて相手を倒すことが出来まする」
 信秀は脇差を抜いた。
 竹王丸の目に恐怖が浮かぶ。
「弾正忠殿はわしを斬るのか? いやじゃ、まだ死にとうない」
「それがしは竹王丸殿とは今も親しいつもりですぞ。しかし織田と今川は仲良くはなれぬで、織田領国の真ん中にかように立派な城を建てられては困ります」
 信秀は脇差で竹王丸の縄を切った。
「竹王丸殿、それがしの兵法は温いゆえ、ここを真似をしてはいけませんぞ。
 女どもに京辺りに所縁ゆかりの者あらば、そちらを頼ればよろしいでしょう」
「逃がしてくれるのだな」
 竹王丸は頷いた信秀を見詰めると去って行った。

 

 

 

吉法師急逝

 

 天文五年五月
 吉法師はまもなく数え三歳になろうとしていたが、癇の強さが相も変わらずで乳離れは出来ていなかった。
 平手政秀の家臣達はこの二年間毎日、家臣や社家とその親戚をまわり、どこかで赤子が生まれたと聞けば、その母を訪ねて一時いつときでもよいゆえ吉法師殿の乳母をしてくれと頼み込むという務めを献身的に続けて来ている。
 そうやって乳母を引き受けてくれた母は、あらかじめ、赤子に噛み癖があるので心構えをしてくれということと、どうしても耐えられない時は乳を絞った上で辞めてよいし、それでも多少の給金はあるということを教えられた上で、御嫡男吉法師を抱いて乳を与えて来たのだ。しかしながらこうして雇われた乳母は長く続いた者でも十日を越えた者は殆どおらず、多くは三日から五日の間、早いと一日で辞めてゆくのであった。

 戌の刻
 津島社家の親戚であるとめは吉法師の乳母になって三日目に入っていた。
 最初から痛くてもうやめようと初日に思ったが、少しは給金を稼ぎたい気持ちもあって耐えたのだ。
 とめは吉法師に乳をやりながら小指を赤子の歯に添えて噛み込んだら入れて止めようと構えていたが、噛まれた瞬間のあの鋭い痛みは防ぎようがない。
 それでもとめには工夫する頭の働きがあった。まず痛みに耐えて少し乳を飲まれてから吉法師が眠そうになった頃を見計らって咥えるものを乳首から小指にすり替えるのだ。そうすると吉法師は小指を咥えたまますやすやと眠ってくれるのだ。もちろん吉法師が泣き始めたら乳首を差し出して耐えるしかないのだが。
 これなら長い間をやり過ごせる。よし、給金で着物を二、三枚買ってへそくりもしよまいか。ほんにうちのひとときたらそういう気の利いた買い物なんぞせすかよ。己で買うには十日は勤めるしかないでや。
 とめはそう決心した。
「おとめさん、具合はどうですか?」
 侍女が訊いて来た。乳やりの部屋には乳母の他に一人は侍女が詰めているのだ。
「大丈夫です」
襁褓むつきはまだよさそうですか?」
「ああ、そっちもまだ大丈夫です」
「よかった」
 そう言って侍女はあくびをした。侍女は乳こそ与えないが汚れた襁褓を新しい襁褓と取り替えて洗ったり、乳母に食事を出したりの仕事があり、朝に働き出して交替できるのは翌朝なのだ。ふと振り向くと侍女が吉法師に合わせたかのように居眠りしていて、とめが笑うなんてこともある。

 とめはうっかり寝てしまっていた。
 突然に吉法師が大声で泣き出した。
 振り返ると侍女はいない。
「よしよし、若様、今あげますからね」
 とめは覚悟して吉法師の口に乳首を与えた。
 すると機嫌が悪かったのか吉法師は乳首を咥えたまま歯ぎしりするように左右に動かし、とめの乳首が切れた。
 あまりの痛さにとめの頭に怒りが沸騰した。
 赤子の口に指を突っ込み、乳首を離させると、赤子の肩を持ち上げてそのまま思い切り振り下ろしていた。
 ドンっ
 とめは床に転がる赤子を見たが、どうしたらよいかわからず放心したまま動けなくなった。
 その時、板戸が開いて、侍女が食事を乗せた盆を持って入って来た。
「おとめさん、食事にし……」
 侍女は乳母の手前に吉法師が転がっているのを見た。
「な、何をされました?」
 侍女は盆を放り出して吉法師に駆け寄った。そして急いで口の前に手を当てて息を確かめた、そしてかつて張り上げたことのない大きな声で叫んだ、
「たれかある! 鹿乃野さまーっ」
 運よく平手長政が近くの間で仮眠しててすぐに駆けつけた、
「いかがした?」
 侍女は泣いたまま声も出せない、その手に抱かれた吉法師を見て、長政はすぐさま父政秀の執務の間に駆け出した、

 政秀は駆けつけて来るなり、ちらと放心してる乳母を見、吉法師を抱いて一瞬、励ますように大声を出した。
「お、これはまだ息があるぞ、医師の元に運べば助かろう。五郎右衛門、馬を用意いたせ」
「はっ」
 もう一度侍女に「助かるゆえ、もう泣くな」と言い残して立ち上がった。

 中門まで来ると準備を終えた長政が駆けて来た。
 口取りの下人が馬を引いて待っている。
 政秀は吉法師を着物の懐にしまうように抱いた。
「五郎右衛門、吉法師殿が落ちぬよう紐でわしの襟に襷をかけろ」
「しかし、父上、吉法師殿はもはや……、」
 長政は云いかけて政秀の睨む目に口を止めた。
「その先は口が裂けても誰にも云うまい。よいか、吉法師殿はまだ息があるゆえわしが医師に見せるのだ。おそらく助かるであろう」
「あっ、あの、はい」
「侍女にもそう云って聞かせ、信じ込ませるのだ。そして鹿乃野を起こして言い含めたら、鹿乃野からあの乳母に『幸い息があったので医師に見せるから安堵してよい』と言い聞かせるのだ。乳母がおかしな事をいたさぬように鹿乃野に見張らせよ。明日朝には給金を一日余分に払うて辞めてもらうがよい」
「はっ」
 長政は政秀に襷をかけてやり「出来ました」と告げた。
「五郎右衛門、吉法師殿のお帰りを待っておれ」
 政秀はそう言い残して馬に鞭をくれた。口取りの下人が後を追った。

 那古野城へ向かう道は十三夜の月明かりが照らしていた。手綱を身体に覚えた勘に任せ、政秀の頭の中では考えが堂々巡りしている。
 五郎右衛門達や乳母達が懸命に生かした吉法師殿をここで死なす訳にはゆかぬ。
 そしてあのご神託。何があろうと粗末にすなとあった。だからこそ何かが起きた今こそ、粗末にしてはならぬのだ。
 どうすると問われたら、拙者には身代りを立て新たな吉法師殿を嫡男として奉じ続けるということしか思いつかない。それ以外に粗末にしない道があろうか?
 ここは殿に吉法師殿の身代りを具申するしかない。
 家臣たちや乳母達が懸命に繋いだ吉法師殿のお命を終わらす訳にはゆかぬのだ。

   ○

 信秀は那古野城の御殿で宿老林佐渡守秀貞と酒を飲みながら談笑していた。
「あのようなことはもう二度とせぬと誓うてくだされ。本当に殿が亡くなられてしまうのかと、後はどうまとめたらよいのか、拙者の方が眩暈して倒れそうでしたぞ」
「はははっ、わしは薄目の下からお主の引き攣った顔を見て吹き出すのを堪えるのが何よりも難儀であったわい」
 そこへ突然、襖が開いて、平手政秀が音もなく踏み入った。
 赤ら顔の信秀は政秀を向いて、
「こんな刻限にいかがした? どうした、その襷は?」
「殿、お人払いを」
「小姓ども、下がってよい」
 小姓が外に出ると、政秀はさらに、
「僭越ながら佐渡守さまにもお下がりを」
 政秀の言葉に信秀は、はてと首を捻った。
「佐渡守は政秀より唯一格上じゃ。聞かれてまずい話はなかろうて」
「さようですか、ならばお話いたします」

 政秀が信秀の前に胡坐をかいて座ると襟の合わせから赤子の頭が見えた。
「待て、中務卿、その懐の赤子はいかがしたのじゃ」
「申し訳ありませぬ。吉法師殿は今しがた黄泉に旅立たれてございます」
「なんだと?」
 政秀は襷を外して血の気を失くした吉法師の遺体を信秀の前に寝かせた。
 信秀は変わり果てた吉法師の手を取り、涙を止められなくなった。政秀も佐渡守も嗚咽した。
「何が起きた? 病か?」
「駆けつけると侍女が泣いて吉法師殿を抱いており、乳母は放心しておりました」
「もしや、乳母が乳首を噛まれた腹いせに吉法師の首を締めたというのか?」
「いえ、首に締め跡はありませぬ、締めれば途中で乳母ならこれはいかぬと気付くもの。おそらくは乳を噛まれた痛さに咄嗟に投げつけてしもうたと思われまする」
 政秀の冷静な筋読みは間違いないと思われた。

「ふうむ、吉法師は三歳目前にて散る命運じゃったか。止むを得んな」
 信秀が呟くと林佐渡守も「真に残念にございます」と受けた。
 そこへ政秀がひと声高く、
「お待ちください。殿はあのご神託をお忘れですか?
 赤子は天魔王を呼ぶ子なり、
 遠くに置いて養うべし。
 何があろうと粗末にすな。
 やがてお家を天下一になす天魔王ぞ。
 そう聞いたからこそ、あえて遠ざけて懸命にお育てして来ましたものを、簡単にあきらめては、何があろうと粗末にすな、というご神託に背いておりませぬか?」
 政秀は主すら睨むようであった。
「うむ、しかしどうすれば粗末にせずに済むのじゃ?」
「ここは吉法師殿が御嫡男という決め事を守り通すことです」
「どうやってじゃ? もはや目の前の吉法師は身罷っておるのじゃぞ」
 政秀はぐっと息を呑んで告げた。
「……身代りを立てるのです」
 場がしんと静まり返った……。

 その静けさを嫌うように佐渡守が云った。
「あいや、そのような話は聞いた例がない。今は戦国の世なれば大将に影武者を立てる兵法は実際にもあろう。しかし、既に死んだ御嫡男に身代りなど、それで何がどうなるというのじゃ。身代りの赤子がゆくゆくは吉法師殿以上の働きをすると云うのか。そのようなこと、絵空事でござる」
 佐渡守の言葉が終わるとまた場が静まり返った……。

 やがて信秀がゆっくりと口を開いた。
「ご神託にあった『赤子は天魔王を呼ぶ子なり』とは、吉法師が頓死いたすを見通して身代りに天魔王を呼ぶということかもしれんの?」
 佐渡守は強く拒もうと意見した。
「いや、殿、それはさすがに無理がありまする。血の繋がらぬ者を御嫡男に据える、しかも天魔王を身代りになどということはご先祖様もお許しになりますまいて」
 そこで政秀がさらりと云う。
「殿の云われる通りかもしれませぬ。
 以前申し上げたようにこの天魔王は第六天魔王のことかと思いまする。
 魔といってもそれは仏教から見た時に魔と呼ばれるだけで、実際は天照大神が仏教に近付かぬと誓約するのと引き換えに、子孫を王にしてもらい、また逆らう輩を罰してもらう契約をする偉大な王が天魔王でございます。
 幸い津島も熱田も天照系の祭神ではありません。ご神託が正しければ、津島牛頭天王社内か熱田社内にある神宮寺に養われている孤児にきっと齢の合う方がおるに違いありません」
「そうじゃな、津島や熱田の神のお傍におる童なら身代りにふさわしい」
 信秀はそう言って立ち上がると、まだ何か言いたげな佐渡守に言いつけた。
「佐渡守、その方、今から菩提寺に赴き、この亡骸は今宵、城の門前に置かれてあったが、あるいは貴種の疑いがこれあり。特別にひとつ墓を立て丁重に弔うようにいたせと頼んで参れ」
「はっ、身代りをお立てになるのですな。かしこまって候」
 佐渡守は変わり身早く、吉法師の遺骸を押し戴いた。
「わしは今より政秀と津島、熱田の神宮寺に身代りになる童を調べに参る。
 佐渡守、今、三人で知りし事は全て口外無用ぞ」
「ははっ」

   ○

 那古野城本丸の中門に向かいながら信秀は政秀に囁いた。
「あのご神託からすると、身代りが天魔王ということかや?」
「ご神託が正しければ、そうなりまする」
「だが、その子でよいのだろうかの?」
「ご神託のままを信じてみるしかありませぬ」
「そうじゃな」
「殿、本来なら既に切腹してお詫び申し上げるところでございますが、その子が迎えられ育つまではご猶予を頂きとうございます」
「中務卿、そちに手落ちはない。それにの、仮にその身代りが見つからぬでも、次の子の傅役も要るでな」
「はっ、殿、もしや?」
「土田御前がまた身ごもったでの」
 信秀の微笑に政秀は頷いた。
「それはおめでとうございまする。まさに禍福は糾える縄の如しでございますな」

 二騎は月の照らす夜道を津島牛頭天王社へ駆け抜けた。
 本朝に仏教が伝来して普及すると、既にあった神道とのすり合わせが神仏習合という形で行われた。いわゆる八幡大菩薩の誕生であり、それは武家が台頭する時代になっても、神社の境内に神宮寺として寺を建てるという形で進んだのである。

「頼まう」
 境内の一角にある神宮寺本堂の木戸を叩くと人の起きる気配があった。
 出て来たのは小坊主と見え、こちらの顔に気付くと「お待ちください」と云って奥に引っ込んだ。
 入れ替わりに住職が現れた。
「やや、こんな夜分に殿のお成りとは?」
「すまんのう住職殿。ちと悪酔いしての、茶でも一杯貰えるかの」
「はあ、では中へどうぞ」

 本堂に入ると、脇の小部屋に明かりを燈し、住職と信秀、政秀は向かい合った。
「殿は確かに酒臭うございますな、だいぶんに呑まれましたか?」
「いや、面目ないわ。あの那古野城を手に入れていささか天狗になって飲みすぎたかもしれんのう」
 そこへ若い坊主が茶を乗せた盆を運んできて配った。

 三人は揃って茶を飲んだ。
「さて殿、今日はまたいかなるご用件じゃろう?」
「こんな夜分に訪ねたは他でもない、住職に内密な相談があったのじゃ」
 住職は警戒したようだったが……。
「実はの、こちらに三歳ほどの男の孤児があったら我が養子に頂きたいのじゃ」
 そう聞くとさすがに住職は驚いた。
「孤児を殿の養子にされると?」
「うむ。急で済まぬが是非に聞き届けてほしいのじゃが、どうであろう?」
 住職は頷いた。
「かような夜分に殿が直々におはして、孤児を養子にと望まれるには相応の仔細がおありじゃろう。是非、それをお聞かせくだされ」
 住職の真剣な問いに信秀はぽつと答えた。
「実はの、今夜、我が子吉法師が身罷ったのじゃ」
 住職の目が白どり、口があわわと開いた。
「そ、それは一大事じゃ」
 そこで政秀が床に手を付いて、
「勝幡城にて異変が出来し、吉法師殿は身罷られました。これは全て拙者の落ち度であり、すぐにも腹切ってお詫びすべきところなれど、先に津島の社殿で巫女舞のご神託ありますれば、思い留まったのでございます。
 ご神託では『何があろうと粗末にすな』とあり、何があろうとは、たとえ夭逝せりといえども、とも取れまする。
 されば、粗末にすなとは、御嫡男吉法師殿という決め事を身代りを立てても守り通すことかもしれぬと考えました。
 そこで殿にその旨を申し上げ、もしこちらに同じ年頃の孤児があれば神の導きであろうから養子にしようと御決心なされ、お願いに参上した次第にございます」
 住職は大きく頷いた。
 さらに信秀が言い添えた。
「ご住職殿。今、中務卿が説明した次第であるから、養子といっても表に出せぬ養子じゃ。孤児を貰い受けた後は一切、他言を禁じ、またたとえ親が改心して貰い受けに現れたとしても秘密を守り決して教えぬことまでご承知いただかねばならぬ。
 酷な話ゆえ、住職殿がそこまではさすがに受け入れかねると申さば、それも御神意と受け入れ、わしはいさぎよくあきらめるつもりじゃ」
 住職はもう一度頷いた。
「理由、もろもろの委細承りました。当寺には十数人の子を養っておるが、半分ほどは親が手習いさせようと預けたもので孤児は六人になります。三歳といえば丁度一人孤児がおりました」
「おお、ではご住職、よろしいか?」
「ご覧になってお決めなさるがよい」

 住職は奥の部屋の前で声をかけた。
「おるいさん、これ、おるいさんや」
「はい、和尚様、何か?」
 戸を開けて二十半ばの女が顔を覗かせた。

間照丸まてるまるは寝ておるか?」
「はい、間照丸はぐっすりと寝てます」
「それをこちらの部屋に運んでくれるかな?」
「はい、ただいま」

 おるいはくすんだ衣に包んだ赤子を住職の前に静かに置いて、信秀や政秀をなるべく見ないようにしてすぐ去った。
「あの女は乳母かや?」
 住職は苦笑した。
「いやいや、乳母というわけではない。亭主が赤子の泣き声がうるさいと暴力を振るうので、夜だけ赤子を連れて逃げてきておるのじゃ」
 そこで政秀が尋ねた。
「まてる丸にはどのような字をあてますか?」
「間に照ると書きますのじゃ。見つかった時、本堂の軒に置かれて丁度、松の枝の影であったのに顔だけ照らされてござったので、そう名付けたのじゃ」
「縁起が良いの。それに、まてるはわしらを待っておったとも聞こえる」
「きっとそうでございます。ご神託に呼ばれるのを待てる子です」
「目は一重だの、鼻筋の通ったよい顔をしとるぞ」
「御意」
 住職が尋ねた。
「どうされますかの?」
「ご住職殿、ではこの子を養子に貰いたい」
「わかり申した。連れてらっしゃい」
「間照丸、今日からそなたは吉法師と改名したぞ」
「ご住職殿、お代はいくら収めましょうか?」
「人攫いじゃあるまいし、お代などいらんわい」
 住職が怒ると政秀が謝った。
「失礼つかまつった」
「こっそり喜捨をされる分には助かるがの、ははは」
 怒ったかと思うとすぐ笑う住職であった。

   ○

 とめが起きると、そこは乳やりの間ではなく古参の侍女鹿乃野の部屋であった。
「あっ、あの、吾は大変なことを」
「ええ、聞きましたよ。うっかり若殿を床に落とされたとか。でもすぐ駆けつけた男が抱き上げて息があるからと医師の元に連れて、無事にお帰りになりました」
 暗く沈んでいたとめの顔が朝日を受けた朝顔のように明るんだ。
「そうでしたか、ああ、よかった。吾はてっきり……その、大変なことをしてしまったと勘違いしておりました」
 鹿乃野は微笑んだ。
「ただ若殿を落とす粗相があっては乳母を続けていただくわけには参りません」
「それはそうでございますね」
 そこで鹿乃野は銭を入れた布袋を差し出した。
「これは今までの給金です。今日の分は内緒で足しておきましたからね」
「あ、これはやさしうしていただき感謝申し上げます」
「こちらこそ痛い思いをさせてしまい、お疲れ様でしたな、お帰りはこちらへ」
 鹿乃野は先に立って、とめを連れて歩き出した。
 乳やりの間はしまっていたが、中からは吉法師の元気な泣き声が聞こえていた。

 かくして吉法師の急逝はなかったことになった。

 


公開章はこの10章 吉法師急逝 までです。

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