信長天魔王 3章と4章
土田の姫
享禄二年
信定と信秀、それに宗兵衛という馬廻りを従え三騎が土田の城に向かっていた。正確を期せば三騎の口取りの下人たちも後を追っているが大きく遅れている。
二年前の大永七年にも一度訪れようとしたのだが、その朝に信定の正室いぬゐの方の病が急に重くなり、六月にとうとう帰らぬ人となってしまった。それだけに今回は思いの重なった土田行きなのである。
土田家は美濃領内にありながら弾正忠家にも通じているのだが、こちらの知らぬうちに方針が変わっている場合もなしとは言えぬかもしれぬ。そこで居残りの弥太郎には万が一、今日中に戻らぬ場合は凶事出来として馬を飛ばして勝幡城の平手政秀に急を告げ、信秀の弟信康を大将として救援を送るように心構えさせておいた。もちろん万、万が一の心構えのつもりであるから道中は誰もそんなことはおくびにも出さない。
低い山の合間を縫うような道を一行はのんびりと進んでゆく。
「おう、この馬頭観音を過ぐればもう大手口の筈」
信定が言うと信秀が頷いた。
「なるほど、山の裾を壁に使った堅固な城と見ました」
信定が先頭で「あれに跳ね橋がある、川は左の先で木曽川に会うところじゃが、わしらは背の方へ」と言いながら右後ろに回ると門があった。
信定はどんどんと扉を叩いた。
「これは先年身罷ったいぬゐの方が夫織田弾正忠信定じゃ。舅殿に挨拶に参ったと伝えよ」
ひとしきりあって門は開いた。
「どうぞ奥にお渡りください」
平服の侍に案内されて、一行三名は傾斜を登り館をいくつか過ぎて一番奥の館に入った。
広間に通されるとまもなく髷に白髪の混じった当主の土田秀定が息子の土田秀久を伴って現れた。
「よう参られた、弾正忠殿」
「いぬゐの方を救ってやれなんだこと申し訳のう思うております」
「なんの、こちらこそ娘の葬儀に行けず申し訳なかった。そこもとゆえ娘も安心してあの世に旅立てたであろろうよ」
「これなるは倅の信秀にございます。家督は既にこれに譲っております」
信定が紹介すると、信秀は床に手をついて口上した。
「お初にお目にかかります。織田弾正忠三郎信秀にございます」
「噂には聞いておりましたぞ」
「倅はいぬゐのために昨年、清州に含笑寺を建てております。どうぞ近くを通りましたらお寄りください」
「ガンショウジとはいかなる字を書くのでござろう?」
秀定が問うと信秀が懐を探りながら答えた。
「含むという漢字に笑うという漢字でガンショウと読みまする。戒名が含笑院殿茂嶽涼茂大禅定尼でございまする。こちらに記して参りました」
信秀が半紙を開いて手渡すと秀定は涙ぐんだ。
「ああ、なんという良い戒名じゃ。そこらの戒名は聞いても一向に生きておられた時の様子を思い出したことがないが、この含笑は、のう、秀久、娘の笑顔が蘇るようじゃわい。童の頃からいつも笑っておって、こちらの気分まで明るう照らしてくれたわ」
秀定はしばし感傷に浸っていたが、慌てて声を改めた。
「いや失礼つかまつった。して、三郎殿は城を建てたとの噂を聞きましたぞ」
「倅は津島湊の近くに勝幡城を建てて入っております。手前はこちらの土田からすぐの木ノ下城に移ったのですが、こちらに伺おうという朝からいぬゐが臥せってしまい挨拶が出来ぬままになってしまいました」
「そうであったか。それにしても弾正忠殿はすぐ隣の城で、家督を継がれた三郎殿が勝幡城と。いや織田弾正忠家は益々、ご隆盛とお見受けいたす。おめでとうございます」
秀定が言うと息子の秀久は顔色を伺って「おめでとうごさいます」と揃えた。どうやら信定ほどの歳に見える秀久はいまだ白髪の秀定の言いなりのようだ。
信秀は相手の顔を見やりながらどう話を運ぼうかと考えた。
秀定は客に茶を配った侍女に「酒じゃ」と言いつけた。
「津島湊と言われると清州よりずいと西になりますかな?」
「さよう西南になります」
「ここから行くとなると遠いですな」
「たしかに。さすれば、ここで良き絆をきちんと留めておきたいと思い立ち、まかりこした次第ですのじゃ」
「うむ、我らはいかにしたら弾正忠家に喜んでいただけますかのう」
「それについて、ひとつ舅殿に願いがありますのじゃ」
信定が言うと秀定は唇を軽く噛んだ。
「願いでござるか。ここは山がちで実入りのよい土地ではござらぬ。あまりたいした祝いは差し上げられぬと思いますがのう」
「そのようなことはございませんぞ。拙者がいぬゐというまたとない嫁をいただきましたことをお忘れでござろうか?」
「ああ、それはもう、いぬゐは我が宝でござった」
「御明察の通り、今回は倅に土田のお宝をまたひとついただけないかと思うとります」
信秀がそう頼むとすぐに良い返事が返るかと思いきや、秀定は腕組みをして考え込むようだった。
「舅殿、何か問題がございますかの?」
信定の継いだ声にも秀定はうーんと唸って言葉が出ない。
酒は運ばれて来たが誰も手をつけられない。
そこで信秀が思い切って口を開いて、
「それがし、残念ながら主筋の織田大和守の娘を断り切れず正室に迎えてしまいましたが、その正室に常に父の下っ端と見下されて心が休まりません。やはり亡き母上のように心根の良い土田の姫を室に迎えとうございます。何卒、御顔合わせ願いまする」
と、平伏までしたのであった。これには秀定の子息秀久も驚いて、
「あ、いや、三郎殿、お手をお上げくだされ」
秀定も続けて、
「お手、お頭をお上げくだされ。倅秀久に丁度年頃の娘がおりますれば、弾正忠家に差し上げたい気持ちはあるのです。ありはするのですが……」
すると、信秀と信定の声が重なった。
「と申されますと?」
ここで秀定は詳しく語り出した。
「実は弾正忠殿にいぬゐを輿入れした折りよりも、美濃の締め付けがきつうなりましてな、はっきり申すとわしも明智の殿から娘を押し付けられて土地を安堵された過去がござるから、三郎殿の胸の裡もようわかる。
しかしながらわしの先祖山内は代々近江守を名乗って来たが、わしの代に近江からこの地に移り住み、何もなきところから汗と工夫で切り開いた土地でござる。言いなりになるつもりはないのですがな。しかし、昨今、明智家が倅に娘や若は差し出せとうるさく言うて来ますのじゃ。ここで倅の娘を弾正忠家に輿入れと知られては逆臣呼ばわりされるやもしれず。そこが悩みどころなのじゃ」
そう言われては頷くしかない。
「なるほど。事の次第、ようく承知いたしました」
「それともうひとつ、陪臣に小嶋信房という者がおりましてな。いわばこの土地の二番手ですが、こちらにも明智家がしつこく言うて来ておるようで。明智との絆が濃くなりすぎては、例えば例えばですぞ。わしらが昔の如く尾張の陣に参陣したら、主だった者が欠けた土田城を小嶋が手引きして明智に乗っ取られる心配すらありまする」
「ふうむ。それも困ったことですな」
一同は腕組みして、いよいようんうんと唸って時を漕いでいたが、そこで突然、信定が明るく言い放った。
「さあてと。舅殿、せっかくですから酒を頂いて、続きは明日といたしませぬか。ひと晩、寝ながら考えれば良き思案も出ようというもの」
「うん、そうじゃな。言われるようにいたそう」
一同は盃を酌み交わし始めた。
「婿殿、悩みすぎて、弾正忠家が城を構えたというめでたきことを忘れるところじゃった。まだどうなるかはわからんが、三郎殿、我が孫娘の顔でも見ておかれるかの?」
信秀は慌てて勢い込んで言った。
「是非に拝見しとうございます」
「もちろん見たとて本人が嫌だと申せば、その時はあきらめるが男ぞ」
「もちろん承知でございまする」
秀定は手を叩いて「誰か、おてふ(ちよう)をここに連れて参れ」と呼ばわった。
なかなか娘が出て来ないと気が急いたのはおそらく信秀ばかりで、他は酒を飲みながらの雑談にしばし耽っていた。
やがて、するすると戸が開いて、「お爺様、お呼びでございますか」と涼やかな声。
現れたのは丸い顔に形の良いしっとりと輝く唇の美女である。黒髪は左右の耳から垂らして、牡丹の花をあしらった鮮やかな打ち掛けに流れて、まさに牡丹に蝶が留まってるよう。
「おてふ、隣に来い。お前とにらめっこしたいご仁がおるのだ」
「何のお戯れです、おからかいになって」
てふは伏し目がちにすっすっと着物の裾から足捌きを見せて父の隣に座るまでは澄ました顔をしていた。が、座って顔を上げて期せずして信秀の熱い視線と鉢合わせするとみるみる頬を染めていった。
「この方は尾張津島に城を持つ織田三郎殿じゃ。母上は昨年亡くなったがお前の叔母のいぬゐ様じゃぞ。土田には嫁を探しに参られたのじゃ。ほら、挨拶いたせ」
しかし、てふは照れてしまい下を向いたまま黙り込んでいる。
信秀も顔は同じく染めていたが、こちらは臆せずに言った。
「てふ殿、わしはてふ殿に一目で惚れました。願わくばわが嫁になってくだされ」
そこで秀定がてふに言って聞かせた。
「この殿に添う前にいささか問題がある。ひとつはお前がこの殿を好くかどうか。ふたつには明智の殿が尾張に輿入れしたと知るとお怒りになろう。どうじゃ?」
「ひとつ目は、その……よいと思います」
信秀はおおと小さく呟いた。
「が、ふたつめはわらわにはどうにもできぬことにございます」
「うむ、良い返事じゃった。気を揉ませるが本決まりになるかはまだわからぬ。もし流れても誰も恨むでないぞ」
「はい」
「よし、とりあえず今日はさがってよい」
そこで、てふはしっかり顔を上げて信秀を見詰め目に焼き付けて会釈した。
「ご無礼いたしまする」
てふが立ち去ると、ようやく信定が声を出した。
「気立てのよさそうな麗しい姫で倅にはもったいないようじゃった」
「なんの、三郎殿に本人も惚れたようじゃから問題はひとつ減りましたな」
秀定が笑うと皆が頷いた。
信定は思い付きを口にする。
「舅殿、思案してみましたが明日はその小嶋信房殿もこの場にお呼びいただきとうございます。それで皆で腹を割って話し合えばきっと良き策が浮かぶものと思いまする」
「うむ、弾正忠殿がそう言われるならば呼んでおこう」
秀定が明日の次第を承知して、信定一行は帰路についた。
来た道を三騎でゆっくり帰る道すがら信秀が聞く。
「父上がああ言われたは、既に良き策を思いつかれたのですな?」
「まあな。お古でもわしも大将をやってたからのう、少しは知恵の絞り方も知っておるのだわ」
「是非、お聞かせください」
「いやいや、忍びはどこにおるやもしれぬものだ。また策はかような道端でうかつに話すべきものではないぞ」
「はっ、それもそうでございますね」
ゆっくりと日の沈む頃に城の門の内に入ると、青い顔をしてたらしい弥太郎が大きな溜め息を吐くのが聞こえてきて三人は笑い合った。
○
翌日。一度通った道は足が速くなるのは騎乗にても同じこと。信秀は昨日、館に戻った後も父の策を聞かずにおいた。どうせ聞いたところで助太刀できるものでもなさそうであるし、当座で土田の者たちと共に驚こうと決めたのだ。今日は弥太郎を従者にしてやり、信定、信秀と馬を進めてあっさりと土田の城に着いた。
さてと広間に入ると、秀定、秀久の次に齢四十前後と思える男が拳を床についていた。
「舅殿、昨日はご無礼仕り失礼しました」
「弾正忠殿、重ねての来訪、手間を取らせましたな。これに控えしが昨日、話した小嶋信房にござる」
「弾正忠の大殿、若殿、お初にお目にかかります。小嶋信房にございます」
小嶋信房がさらに深く礼をすると信定が明るい声で言った。
「信定じゃ、隣が倅の信秀、以後よろしうお見知りおきくだされ。どうぞゆるりとされよ」
「ははっ」
「わしはな、実は嫁御のいぬゐ様をこちらの秀定殿からもろうた者よ」
「は、此度はご愁傷様でございました」
「ご丁寧に痛み入る。さて信房殿も、秀定殿が六甲征伐に尾張勢として参陣もされたことご存知であろう?」
「はっ、父に聞いております」
「わしも元服前の洟垂れ小僧であったが、その頃より土田と尾張の仲は始まっておったのじゃ。
この度、土田を訪れたは、他でもない、この倅が母のように気立ての良い土田の娘を是非にと言うてな。はははっ、主筋から迎えた正室が気が重うて休まらんという、倅のわがままから出た話なのじゃ、笑ってくだされ」
「なるほど、そのように土田のおなごを褒めて慕って頂けるは土田で子を育てる者として嬉しきことにございます」
そこで秀定が言った。
「そう請われたが、おいそれと輿入れ出来ぬ訳が、ほれ、あの明智の殿じゃ。何かにつけ明智の殿はおてふがどのようなおなごかとしつこく聞いてきて困っておる。またお主の娘も言い寄られたであろう?」
「はい、最初の頃は断っておりましたが、近年は釣り合いの良いところで明智の家臣の息子と縁組いたしました。このことは殿にはお知らせした通りで」
「うむ。聞いておる。だがわしの孫娘が尾張に輿入れしたらば、明智の殿はことによっては逆心ありと言い出しかねん」
「確かにそれは案じられますな」
信房の言質を得て、秀定は信定を振り向いた。
「かような次第なのじゃ、婿殿。何か良い知恵は浮かびましたかな?」
娘の気持ちも知った秀定は額に眉を寄せて信定の言葉を待った。
信定は息を吸って切り出した。
「舅殿、ひとつ手間を入れますとこれは案外と穏便に片付くやもしれませんぞ」
「おお、お聞かせくだされ」
秀定は膝を乗り出した。
「まず、おてふ様をこっそりと小嶋信房殿の養子にするのです。そして信房殿はそれを時をおいて我が弾正忠家に輿入れさせるのです。さて、これを明智殿から見れば城主の娘の尾張輿入れとは違い、小さな輿入れだろうと目くじらも立てますまい」
秀定と信秀は、
「あっ」
と、声を上げた。
「いずれおてふ様が城にいないと知った頃には後の祭りというわけじゃで。
これを滞りなくするには信房殿にも素軽い準備が必要となるゆえ、弾正忠家から輿入れ結納として金千貫を収めまする」
今度は小嶋信房が「あっ」と声を上げた。
「もちろん土田殿にも真の結納として金二千貫を収めまする」
今度は秀定が目を見開いて唸った。
そして心の中で、結納金が転がり込めば信房もいよいよ土田家と弾正忠家に忠義立てしよう、まさに一挙両得の策と褒めちぎった。
「流石は婿殿、それならば輿入れは恙なく出来よう。何よりおてふが喜ぶわ」
「舅殿に褒めて頂いて嬉しうございます。養子輿入れの時期については一年かそこらはお待ちいただきとうございます」
信定はそう言って、信房に向き直った。
「さて信房殿、おてふ様の養子輿入れはご承知いただけましたかの?」
「はっ、もちろん、光栄にございます」
「だがわしは信房殿とのこと今回の婚礼だけで仕舞いにしたくない。出来ればいざと言う時に合力してほしいのじゃ、いかがかな?」
信定に既に恩義を感じ始めた信房は頷いた。
「わが主と同じでここから駆けつけるためすぐ参上とはいかぬとは思いますが、拙者も弾正忠家にお味方つかまつります」
「それを聞いて安堵いたした。既にわしから津島の社家に娘を嫁がせた輿入れが先般あったのだが、こちらは文書の上のみでよいから信房殿の養子にして出したことにしてくれるかの。そうなれば結納は倍の二千貫といたそう」
信房の目が点になった。
「あの、さらに結納金を戴けるので?」
「合力せよだけでは準備が整わぬであろうて」
「ありがたき幸せ」
聞いていて信秀は父の策の細かさに唸った。
秀定に二千貫、信房に千貫と言われた時に、小嶋信房は心の中で所詮俺は半分かとすねたかもしれぬのだ。だが最初から信房にも二千貫では、今度は土田秀定が陪臣も同額かとすねたかもしれないし、信房から合力の約束はなかった。あとから合力分で一千貫増しとして信房に約束さることで、秀定にも納得せたのだ。
そしてこの合わせて四千貫は自分への破格の祝儀なのだと信秀は察した。
嫡男と側室と
享禄二年
昨年の秋より信秀の正室である大和守の娘の腹が膨らんで、おめでたとなり夫婦生活が遠のいていた。それまでも信秀は半ば義理通いであったのが、気分がすぐれぬゆえとあちらから遠慮するようになってくれたのだから、これは側室の話を切り出す絶好の機会といえよう。
信秀は時期到来とばかり側室の話をしてみた。
「室殿、わしは側室を持とうと思うが、これはどこの大名もしておること。謂わば決まり事と思いなして我慢してくれよ」
告げられた正室の顔は化粧した白塗りが急に地割れを起こして抜いた筈の眉が浮き出したかと思うほど皺を打った。
「あれ、忘れては困りますぞ。殿の御嫡男はすでに正室のわらわの腹におるのでございますぞ。このような大事な時にまず殿がなさるべきは、側室を迎えるのではなく、この子が無事に生まれ、育つための諸々を整えることではありませぬか?」
「諸々とはなんじゃ?」
信秀が聞くと正室は言い返す。
「諸々とは諸々に決まっております」
「それはなんじゃと聞いておるのだわ」
正室は苛立つ。
「ええい、呑み込みの悪い殿じゃ。御嫡男がお稽古なさる木馬を備えるとか、御嫡男の鎧を用意するとか、御嫡男が読み書きする文机を備えるとか」
信秀は眩暈しそうな心地にぎっと目をつぶり、(まだ早すぎようぞ)という言葉を呑み込んだ。しばらく側室の話は避けねばなるまい。
信秀は溜め息を音を立てぬように静かに漏らした。
こうして信秀は一人寝しながら、土田のてふ姫の黒い瞳と赤い唇をただ思い出すのみであった。
時が経てばいやでも腹の赤子は産まれてくる。
さすれば対面せねばならぬのは道理である。
長く続いた梅雨の終わりに、とうとうその時が来た。
廊下を行くと次第に赤子の泣き声が大きくなってきた。
「殿、ご覧くだされ、元気な御嫡男にござりますぞ」
正室の勝ち誇った言葉に信秀は溜め息を押し殺して言葉を返す。
「うむ、でかしたの」
「ほれ、ご覧なされ、そなたの父上でございまするぞ」
正室が両手で包むように抱えている赤子を信秀は見やった。
するとどういうことであろうか。
見るまでは憎らしい正室の子だと思い気が重かったが、やはり見ると自分の子という気持ちがたちまち沸いてきて、憎い正室のという気持ちを押しのけるのだ。
実際に皺しわの顔の中に黒く光るつぶらな眼を見たり、かはづの手の如く小さな手がこちらの指を必死に掴んで来るに至って、信秀は限りなく愛しいやつよと胸が熱くなるのであった。
そして初めの心積もりにはなかった「強く生きるのじゃぞ。お主は我が嫡男ぞ」と声をかけてしまっている。信秀はそんな自分を笑って許したのであった。
「よし、名を決めたぞ、名了丸、やがて誰にもこの子の名がはっきりわかるという意味じゃ」
「殿、ありがとうございまする。良き名じゃ、名了丸、良かったのう」
名了丸はすやすやと眠り出した。
○
享禄三年
三月の上旬、信秀は大和守達勝の急な呼び出しを受けて清州城に急いだ。
本丸館の御殿へと進むと既に清州三奉行の二人、因幡守と藤左衛門が来ていて小声で談合していた。
「遅うなりまして申し訳ござりません」
「これは弾正忠殿、御子も生まれたゆえ殿もお見逃しくださるやもしれんのう」
藤左衛門が皮肉混じりに言った。
「この火急の評定お召しはいかなるお題目かご存知か?」
信秀が黙る代わりに聞くと藤左衛門はとぼけた。
「はて、とんと見当も付きませぬな」
嘘を申すな。今わの際までこそこそ話しておったはその題目についての兵の準備らしき事であろう。信秀は喉まで上がった言葉を呑み込んだ。
小姓が声を張り上げた。
「武衛様、御成り」
信秀ら三奉行は平伏した。
斯波義統が入室し一段高い間に入り厚い畳の敷物に座る。その後に従うように大和守達勝も入って横に座った。義統を武衛様と呼ぶのはそれが斯波家の正式な官職左兵衛督を唐流にした呼び名であるからだ。義統は信秀より二歳下だが、今は何の力もなく、慇懃に従って見せてる大和守達勝の操り人形であった。
「皆の者、大儀である」
義統の聞きなれたせりふに、信秀ら三奉行は「ははっ」と応えた。信秀が聞いた義統のせりふは他に「よきにはからへ」「頼むぞ」の合わせて三語ぐらいしかない。
次の言葉は義統ではなく大和守達勝が述べる。
「皆の者、喜ばしいことに相成った。この五月に将軍足利義晴公より武衛様に天覧の武者揃えを行うように命が下った」
ははあ、そう出たか。各地の話を仕入れていた信秀は、これは細川や三好らの擁立した堺公方足利義維に対抗するため、足利義晴が各地の大名に支持を求めた事に応じたものであろうと見抜いた。達勝の言う天覧は本当にそうか怪しいものだ。
大和守達勝の言葉に藤左衛門が間髪入れずに追従を言う。
「おお、それは武家の栄誉にございますな。武衛様、おめでとうございまする」
しかし「うむ」と答えた義統の目は虚ろだ。その訳はすぐ知れる。
「但し、尾張を狙う濃三江の出方は予断を許さぬゆえ、武衛様にあってはこのままま清州に残り、濃三江の出方を睥睨いただき、京にはわしが名代として上洛する」
信秀は内心でなんともまあ残酷ななさり方よと義統に同情する。義統の父の義建は叛旗を翻した大和守の父達定を自刃させた。その達定の子の大和守達勝が義統を傀儡にして弄ぶのだから意地の悪さも頷ける。しかしこの仕返しは全く武士としての矜恃に欠けているのではないか。
信秀が正室を好きになれぬのはこの父達勝の欠点にも因果があるのだった。
「その方らもこれより伝えし兵数を揃えておくように。まず因幡守、徒歩二百、弓二百、槍二百、合わせて六百」
「ははっ、かしこまって候」
「藤左衛門、徒歩二百、弓二百、槍三百、合わせて七百」
「はっ、かしこまって候」
「弾正忠、徒歩二百、弓四百、槍百、合わせて七百」
「はっ、かしこまって候」
答えながらも信秀はおかしな兵数よと感じた。道中で何か達勝の気に入らぬ事があり挟み撃ちにされたら接近戦に弱い弓勢が四百も占める信秀隊が不利だ。まさかとは思うが、信秀は父信定から受け継いだ心構え万が一に備えよが胸によぎった。
「以上である。わしは全て三百ずつ連れて参るゆえ総勢二千九百となる。都にて見苦しきことが無きよう鎧、武具を整えておくようにいたせよ。それから京まで片道四日かかろう、十日分の兵糧を備えておくように。よいな?」
信秀は訊き返した。
「大和守殿、これは各隊で兵糧の荷駄隊を連れて行けということでございますか?」
「呑み込みの悪いやつじゃな。備えろと申したではないか」
「はっ、わかりまして候」
答えながら信秀は正室の口癖と同じだと苦笑した。兵糧は戦では総大将が全員の分を用意するものだ。弾正忠家は金銭に余裕があるからよいが、他の因幡守、藤左衛門守には予想外の負担だろう。そう思って横顔を見やるとやはり二人は浮かぬ顔色だった。
○
行きはまだよかった。道中、兵どもは京見物が出来ると期待して足も軽かったのだ。 ところがいざ京に入ってみると、応仁の大乱以来、巻き込まれた数多の戦のために町は無残に荒れ果ている。形を留めている家は一割もなく廃屋の方が多いのだ。しかし、その廃屋で襤褸をまとって動いている人が見える。
開いている店も少しはあるが、いざという時にすぐ店じまいして逃げるためか屋台並みの品揃えしかない。
「おいおい、これでは尾張の方がましだがや」
「ありゃあ屋根も潰れて、幽霊妖怪の類でも住んでそうな屋敷だの」
「なんだこりゃ、道端に行き倒れが腐っておる、とんでもない臭いじゃ」
とうとう鼻をつまんで行軍する始末である。
大きな門の跡を過ぎたと思ううちに内裏に入ったらしかったが、内裏の中でさえ塀が崩れて立派な建物など見当たらないのだ。
信秀は頭の天辺から、骨の髄、心の臓まで激しく揺さぶられて声も出なかった。
これではいかん。民から天子様まで安堵して家族を大事に助け合うて暮らしてゆけるような世の中でなければならぬ。一刻も早く戦の世を終わらせて、民が栄えるようにしなくては国が滅んでしまうわ。
だが、果たして戦の世を終わらせる事をやってのける者がいるものかどうか。いやいや、それではいかん。いなければ己がなればよいのだ。俺の代で出来なければ子の代で、それで出来なければ孫の代……。いやいや、そう悠長にやってられん。
燃えるような決意をした信秀であった。
軍勢は広場で閲兵を受けたが、やはりそれは後奈良天皇ではなく、将軍足利義晴とその近臣達であった。義晴は大和守達勝に訓示を垂れて、大刀を授けたようだが、信秀の心は急いていた。
早く勝幡城に帰り軍を増やし鍛えて尾張を統一し、続いて近隣を征服して後顧の憂いを断って上洛し、都を救い国を救わなければならない。そうだ、てふ殿も早く側室に入れ武将を増やさねばならぬ。もはや大和守や正室などに構ってる暇はないぞ。
「よし」
信秀は人目も憚らず叫んでいた。
○
享禄四年
三月、土田秀久の娘おてふは養親となった小嶋信房に付き添われて信秀の勝幡城に輿入れした。
嫉妬が強そうな正室となるべく鉢合わせしないように考え隣の棟をあらかじめ改築し部屋を造っておいてある。しかし、さすがに婚礼の宴の賑やかさに蓋は出来ぬので、正室には伊勢参りにでも行って来いと言い渡したのだった。それは伺いではなく、命令であった。その時の信秀には以前の恐妻家の色は微塵もなかった。正室としても嫡男は無事に育っているし、側室は大名にとって常識であるのでそれ以上抵抗はしなかった。
ただそれだけでは角が立とうから、信秀は使う輿は皇族が使うような贅沢な輿の旅に仕立ててやり、お付きの侍女たちもろとも大喜びで出かけて行った。
裃を着けた小嶋信房は、隣に控えた美しい花嫁をちらりと見遣った。
「弾正忠殿、もはや正直に口上してよいかの? 格式ばったお仕着せを着て自分の娘でもない麗しきおてふ様を我が娘などと偽るのはむさい武士には辛うござる」
信定は笑った。
「ああ、構わぬとも」
「では。此度は土田秀久殿の姫おてふ様を弾正忠家に送り届ける大役を仰せ付かり真に光栄でありました。どうぞ行く末長くお家が栄えますように」
信定が礼を言う。
「この度はおてふ様にお輿入れ頂き真にありがたく存知候。また小嶋殿には養親の役目をしていただいた上に、今後のお味方まで約定いただきありがたく存知候。これより土田、小嶋、織田、揃って末広がりに栄えたいと願いまする」
そこで脇から声がかかった。挙式を執り行う熱田神宮大宮司季光である。
「ついでに熱田社、津島社の氏子たちも末広がりに加えてもろうてもいいかのう?」
「これは失敬つかまつった。むろんのこと、熱田社、津島社の氏子衆とも共に末広がりに栄えたいと願いまする」
どっと笑いが起きて一座が和んだ。
三々九度の盃が始まると、神妙な顔の信秀とおてふが盃に口をつけた。
津島社家の白髪の名代が『高砂や』を唄い始める。
高砂や この浦 舟に帆を上げて
月もろ共に出汐の
波の淡路の島影や
遠く鳴尾の沖こえて
はや住の江につきにけり
はや住の江につきにけり
ようやく信秀はおてふに語りかけた。
「てふ様、よう来てくれた。親と早う別れて小嶋殿の家に留め置かれて済まなかったな、さぞ寂しかったであろうて」
「三郎殿の元に来れますのに寂しいことなどひと時もありませんでした。日に日に嬉しうて胸が焦げるようでした」
「嬉しいことを言うてくれる。さすが土田の姫じゃ。わしも恋しかったぞ」
信秀がこっそりと下で手を出して新妻のたおやかな指を掴んでしばし、という時に妻の指は何かに驚いて引っ込んだ。
見れば目の前に叔母が銚子を持って座っている。
「三郎殿、かくも美しき嫁御を貰いなさるとは、これで織田弾正忠家も万々歳にございますなあ。きっとよい跡継ぎが生まれましょう」
「これは、叔母殿、少しはお控えくだされ。今日の我らは御所雛のように澄ましてる役でござれば、気楽に話しかけないで頂きたい」
その言葉よりおてふの嬉しさが先を越してゆく。
「まあ、叔母様でしたか、お初にお目にかかります、てふでございます」
「こちらこそ、きくでございます。以後末永うお付き合いのほどをお願いいたします」
叔母がおてふに酌をする。
「この叔母は祝いの席になると何人前も飲み食いなさるのじゃ」
「もしや神さまが遣わすお使いかもしれませんな。幸せな印ですわなも」
「ふふ、そういう優しき言葉がすぐ出るのが土田の姫の良きところじゃで、わしも幸せ者じゃ」
「あれ、さっそくおのろけを御馳走頂きましてありがとうございます」
叔母は信秀にも酌をする。
「姉上も、早う跡継ぎをお産みくだされよ」
「これは藪蛇じゃった、退散、退散」
叔母は恥ずかしそうに去った。
つづく
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